
短編小説 ぬかるみ
コツコツという音で目が覚めた。
車の薄い天板を雨が打ち付けていた。まだ周りは暗い。スマホを見ると6時43分を示していた。
もう少し寝ようとも思ったが、Kmart*で買った9ドルのシングルサイズのエアマットレスは狭く、動くたびに身体のあちこちが車内に置いてあるさまざまな荷物や壁に当たる。
自分では寝ることにこだわりがない方だと自覚していたが、蓋を開けてみれば全然眠れないことが分かった。
事実、昨夜は3回も目が覚めた。23時、1時、3時。2時間おきという規則性の要因は、時折吹く強い風の音、打ちつける雨、それから寝袋特有の暑さによるものだった。
二度寝するほど眠くもないし、思い直して起きることにした。尿意も感じていたからだ。
キャンプサイトでの車中泊での生活は、もうすぐで2ヶ月が経とうとしている。
季節は冬を本格的に迎えたものの、日中は2桁台まで気温が上がり、朝晩の冷え込みは想定していたよりもずっと穏やかだった。
夏に旅していた時は、サンドフライ*に大変苦戦を強いられたが、今最も大変なのはフロントガラスの結露による曇りだ。
しかし、思えば結露に悩まされる程度ならまだ平和だったのだ。目下の問題は更に大きく深刻なものだ。
*:オーストラリア・NZで一般的なディスカウントストア
*:体長約1.5〜4mmの非常に小さな吸血昆虫。コバエの1種。刺されると蚊の数倍痒い。
…………。
NZ北島の国立公園にある某フリーキャンプサイトに着いたのは昨日の16時を過ぎた頃だった。
キャンプサイトは地方のちょっとした公園の芝生エリアほどの広さで、大体10台ほどの車が駐車できるくらいの規模感だった。
連日雨が続いたようで、辺りは無数の水溜まり、というよりもはや小さな湖ができており、なお降り続く雨はそれを更に確固たるものにしていた。
周りにはただ1台の車があるのみだった。
車内に人の気配はなく、大方ハンターが山に入っていったのだろう。
近くには雨水を貯めるための貯水タンクが併設された建物があり、それは紛れもなくトイレだった。古くも新しくもなく、扉には石が置かれ開放されたままだった。
スマホの通知がしばらく前から鳴らないことから、電波は通っていないようだった。
「フリー(キャンプ)サイトでこれなら十分だ。」
そう思った。少なくとも何の不満もない。
そして、比較的穏やかそうに見えた芝生に(水溜まり(湖)ではないところを狙って)車を駐車した。
直後、車が動かなくなった。
何かに当たっている訳でも、エンジントラブルでもない。
そして、前輪が空転していることが分かった。泥を跳ね上げ、車体の左右のボディをまだらな茶色模様に塗り潰していた。
ハンドルを大きく切るのも虚しく、2ヶ月前に替えたばかりの新品タイヤの溝に泥と草が埋まるばかりだった。
つまり、スタック*していた。それもかなり。
「さて、困った。」
空に舞う何羽かの鳥たちは西の方角へ飛んでゆく。降り続く雨は止む気配はなく、日が暮れるまで既に1時間を切っていた。
旅の疲れのせいか、空腹からか、あるいはその両方によってスタックという事の大きさをイマイチ掴めないでいた。
とにかく直ぐに何か食べられるものを口にすることの方が優先事項だった。
*:ぬかるみにはまり動けなくなること。
………。
話は戻り、現在の時刻は7時を少し過ぎた頃。朝日の気配を遠くに感じる。
息を吐くと白い煙があがる。これは狼煙だ。ぬかるみからの脱出、希望の狼煙。と、この時はまだ希望を持っていた。
昨晩、脳内で何度もスタックから抜け出すシミュレーションをした。後ろに積んであるジャッキで左右片方ずつのタイヤを持ち上げ、車内にある幾つかの要らない服や布をその下に差し込む。すると、タイヤは布の上を走り抜けられるはず、という手筈だ。
「こんな問題は、所詮問題にすらならない些細なことだ。」そう自分に言い聞かせる。
未だかつて経験がない故に生まれる不安と焦燥。一方で悩んでも仕方ないという開き直り。昨夜は少しの葛藤を経てから眠りについた。それはまるで受験を終えて、結果を待つまでの期間のように重苦しく長いあの夜を思い出した。
7時20分に作業を開始した。
予定通りジャッキを取り出して、左側面のボディ下に入れ込み、少しずつ車を持ち上げる。
そして、直後に気づく。下の地面がぬかるんでおり、一向にタイヤが持ち上がらない。むしろ、積極的に地面を押し下げていた。
幸先が悪い。何もかも想定通りにいくほど現実は甘くない。それを痛いほどに実感する。
ジャッキの下に台座として使用できるように、車重に耐えられる程の強度、それでいて平たいモノを探す。車内には必要最低限の荷物しか積んでいない。当然そんな都合の良いものなど存在しない、はずだった。
ふと閃く。鍋蓋である。
エアマットレスと同様にKmartで購入したアルミ製のクッカーセットには、チープなつくりながらも台座として使用するには十分な強度と大きさの平らな鍋蓋が付属していた。
すぐに試してみると、今回はイメージの通り上手くいった。僅かに雨の勢いが弱まったような気がした。
………。
何とか左右のタイヤを持ち上げ、その下に布を敷くことができた頃には、既に作業を開始してから1時間以上が経過していた。辺りはヘッドライトが必要ないほどにすっかり明るくなっていた。
手も靴も泥だらけだが、これで抜け出せると安堵した。結露して曇ったフロントガラスもこの瞬間だけは愛おしく思えた。
キーを回し、エンジンを始動する。3週間前にオイルとフィルターを交換したばかりで調子がいい。約1年間の旅を共に過ごし、間もなくその終わりを迎えようとしている。その最期をぬかるみ如きに邪魔される訳にはいかない。
ローギアにシフトチェンジし、ブレーキを踏みながらアクセルを少し吹かす。回転数を上げてから、ブレーキを離す。抜け出すには強いトルクが必要だからだ。
車が微かに上下に揺れる。
直後、左前方から白い煙と共に焦げた匂いがした。
抜け出せていない。それが分かった。
エンジンを切り、左前方に回る。タイヤの下に敷いた布がボロボロに擦り切れて、泥にまみれていた。
雨がまた勢いを強め、少し暖かくなったエンジンをすぐに冷やした。
9時を目前にしていた。1日はまだ始まったばかり。落胆することには慣れているし、諦めるには余りにも早過ぎる。
先ほどと同じことをやっても、同じ結果になることは明白だった。今度は布を折り畳んで厚みを持たせて、タイヤの下に敷いた。ぬかるみと傾斜が少しついているように思ったからだ。
ジャッキの下に敷いた鍋蓋をみると、ジャッキの底の角をなぞるように四隅に穴が開いて、そしてへの字に変形していた。あまり長くは持ちそうにない。
ジャッキアップする。そして、折り畳んだ布を差し込む。服の袖に泥がつく。少し前に買ったお気に入りのレインジャケットが汚れていくさまは、手が汚れることよりもよっぽどメンタルにくる。
時折吹く風が雨に濡れた服を通り、身体を更に冷やす。鳥たちは風邪など引かないのだろうか、とふと思った。
………。
再度エンジンをかけたのは10時頃だった。先ほどと同様の流れで発進を試みる。期待は十分だった。
しかし、十分な期待は泥が跳ねる独特の匂いと共に確かな失望を連れてきた。
僅かに前進したように見える車体は、更に茶色のまだら模様を増やし、水滴を滴らせていた。
キャンプサイト前の道を通る車に声をかけることにした。交通量は決して多くないが、全くのゼロというわけでもない。
英語が上手く伝わるかが少し気掛かりだったため、後回しにしていた。しかし、背に腹は代えられない緊急を要する状況だ。
そして、キャンプサイト前の道に立った。10分が過ぎたが、誰も通る気配はない。スマホの充電は67%を示している。相変わらず電波は届かない。
20分ほどすると、道の向こう側から大型のディーゼル車が砂利道を走る音が聞こえた。安堵の気持ちと警戒する気持ちが入り交ざり、少し鼓動が早くなる。
大きく手を振り、車を呼び止める。ビビッドな赤色をした四輪駆動車で後ろにボートを牽引したkiwi*マダムが運転していた。
「助けが要るんです。実はすぐそこのキャンプサイトでスタックしてしまいました。あなたの車で引っ張ってくれませんか?」
そんなことを話した気がする。あるいはもっと不格好な英語だったかもしれない。すると、
「後ろにボートを牽引しているのが見えるでしょ?だから助けることは出来ないよ。ここの道はたくさん車が通るから、他の車に当たってみなさい。」
正確な文章は憶えていないが、少なくともこのようなニュアンスだったように思う。
マダムは先を急いでいるようで、いささか不機嫌そうに見えた。こんなことはしょっちゅうあることなのだろうか。
言いたいことは幾つかあったがぐっと堪え、礼を言って見送った。
背の高い木々から幾つかの雫がレインジャケットの頭に落ちてくる。拳を強く握る。心の中で6秒を数えることで、湧き上がった黒くて深い怒りを鎮める。
なんでこんなことになってしまったのだろう、と思う。
あるアーティストの曲中のフレーズが頭をよぎる。「本当に泣きたい時に限って、誰も気付いてくれない。」しかし、泣いたところで事態は変わらない。
冷静になることが必要だった。
そして、悟る。
マダムが与えてくれたのは、この試練は自分の力だけで乗り越えなくてはいけないという訓示とそれに必要な闘争心だったのかもしれない。
*:ニュージーランド人の愛称。
………。
ぬかるみにハマった相棒は、遠目からみると少し間の抜けた面をしているように見えた。
再度作業に戻る前に、辺りに使えそうなものがないかを見て回った。すると、幾つかの収穫があった。大きく比較的平らな石2つ(内1つはトイレの扉を開けておくのに置いてあった石だ)と太い木の枝が2本。
鍋蓋を台座として使用しているとはいえ、その下のぬかるんだ地面は車重を一手に受けて大きく陥没していた。だから、そこに平らな石を置き、その上にジャッキを設置した。
タイヤ下の地面も同様に、元々あった地面の高さから比べると10センチほどえぐられており、もはや折り畳んだ布だけではその傾斜をカバーすることは難しかった。そこで、タイヤの下には木の枝を敷くことにした。
ジャッキを車体下部に差し込むためにしゃがむ。タイヤを持ち上げるためにジャッキのネジを時計回りに回す。既に、この作業を幾度してきたか分からない。脚が痺れて、立ち上がる度に目眩がする。
何とか作業を終え手を洗うと、運転席に乗り込む。エンジンをかける前に10年以上前に亡くなった祖母に祈る。
祖母はいつだって自分の背後にいて見守ってくれているような気がするのだ。そして、身に危険が迫ったときには背中を押して護ってくれる。そうとしか思えない場面がこれまで何回かあった。
時刻は11時を過ぎていた。作業開始から4時間が経過しようとしていた。
エンジンをかけ、アクセルを踏み、ブレーキを離す。微かに前進した。そして、またスタックした。
ふと上を見上げる。そこには僅かな晴れ間があった。薄い雲の向こう側から太陽がこちらを照らしていた。
希望はある。そう思った瞬間に途端に力が抜けた。思えば朝から何も口にしていなかった。
………。
簡単な食事をつくり、食べ終わる頃には13時を回っていた。あと4時間もすればまた暗くなるという事実は焦りを生むには十分だった。
これまでの5時間で得たのは、幾つかの工夫とその改良、割に合わない疲労と微かな前進である。
重要なのはたとえ僅かでも前進しているという事実なのだと、自分に言い聞かせる。
雨は降ったり止んだりしていた。北島の他の国立公園を訪れてもこんな天気だったことを思い出す。
もっともNZという国全体をみても天候は安定しないようだ。天気予報があまり当てにならない、変わりやすい空模様であることは11ヶ月以上の滞在を経て分かっていた。ましてや、今は山の中にいるのだから仕方がない。
ぬかるみの脱出まであと30センチほど。足のサイズよりも少しだけ大きいその数字は、とても無機質で途方もないものに感じた。
タイヤの近くにミミズが出てきていた。懸命に生きる存在がここにもいた。やるしかない。再度決意を固める。
14時半前。これで最後のジャッキアップだと思った。手を見ると、あちこちに擦り傷や引っ掻き傷があった。首や背中、腰、脚。全てが悲鳴をあげていた。
今日だけで一体何Lのガソリンを排気ガスに変えたのだろうとぼんやり考えながら、エンジンをかける。
僅かに前進し、スタックする。
ことわざ通りにいけば3度目で通用するはずが、これまでの数え切れないほどの挑戦はことごとく水泡に帰していた。
あと10センチほどにも見える脱出までの道のりは、いつか来たる(であろう)終わりの見通しを立てるには難しいものだった。
………。
15時になった。長かったこれまでの作業がようやく報われる瞬間が訪れようとしていた。
1回前に前進した際に、左の前輪がぬかるみを抜け出したのだ。残すは右の前輪だけだと思うと、急にどっと疲れた。
それはまるで、重い荷物を背負って急勾配を登り切り、ようやく頂上で荷を下ろした瞬間に、自分の体の本当の重さを思い知らされるようだった。
とはいえ、まだ抜け出したわけではない。
慎重に、淡々と作業を続けた。
15時8分。
アクセルを踏み込むと、これまでとは明らかに違う手応えがハンドルに伝わった。タイヤが泥を噛み、地面を蹴り、車体が前方へと力強く押し出される。ぬかるみが放していた、まるで見えない鎖が千切れたかのような解放感。
最後の抵抗を見せる泥の粘着を振り払い、車体はふわりと浮き上がるようにして安定した地に着地した。
数メートル進み、ブレーキを踏む。エンジンを止めると、そこには耳が痛くなるほどの静寂が広がっていた。
8時間に及ぶ作業の末にぬかるみから脱した。跡には、かつて布だった残骸と、使い古したジャッキ、そして四隅に穴が開き、潰れた空き缶のようになったアルミの鍋蓋が、泥にまみれて転がっていた。
静かな雨音だけが響く車内で、私は泥に汚れた自分の手を見つめる。それは、不可能だと思えた壁を乗り越えた確かな証だった。
気持ちのよい風が吹いた。これまでの負の感情や様々な思考、苦労、迷い、痛み、そして疲れを和らげるような湿気を含んだ風だった。
………。
あと2時間でまた夜がやってくる。それはノンパワーでのキャンプライフにおいては1日の終わりを意味する。
雨は未だぱらぱらと降り続けている。西に沈んでいく太陽を背にすると、南東の空には虹が見えた。額縁に切り取られた一幅の絵画のように美しかった。
明日はここから5時間ほどの距離にあるキャンプサイトを予約している。だから、私は進まなくてはいけない。
次の目的地に。
あるいは、次のぬかるみに。
(ノンフィクション。)