地上130メートル――黒曜石の女たち
9
その夜。琴音は一人、39階の静寂の中にいた。夫は商社マンの役職を盾に、今日も町田の愛人のもとへ。
インターホンが鳴り、画面に映ったエリカの姿を見た瞬間、琴音は崩れ落ちた。
「……どうして。どうしてここに」
「お久しぶり。あなたの身体が、私を呼んでいたからよ。琴音、安全圏での暮らしはどう?息が詰まって死にそうなんじゃない?」
琴音は何も答えなかった。けれど、扉を閉めることもしなかった。
「帰って」
声は震えていた。
「本当に帰ってほしい?」
エリカが1歩近づく。琴音は後ずさりしながらも、視線を逸らさなかった。
長い沈黙のあと、琴音の手が、ためらうようにエリカの袖へ触れた。
その小さな動きを合図に、2人の間に残されていた年月が一気に崩れ落ちた。エリカが琴音を抱き寄せると、琴音は一瞬だけ身体をこわばらせた。だがやがて、堪えていた息を吐き出すように、その胸へ顔を埋めた。
エリカは1分1秒さえ惜しいかのように、琴音の感じやすい所に唇と舌を這わせてくる。琴音は身もだえしながら、思わず乳首が硬く尖ってくるのを感じて、自分も知らないうちにエリカの胸元へ手を伸ばしていた。
服を脱がせると、そこにはかつて愛した、柔らかな膨らみがあった。エリカは、知り尽くしていたはずの琴音の身体を、初めて見るかのように見つめた。変わったところも、変わらないところも、すべて確かめたかった。自分のいなかった時間が、その身体へどれほど深く刻まれているのかを。
まるで母親を求める幼い子どものように、エリカは懐かしい乳房へ顔を寄せ、包み込むように両手を添えて、その重みを確かめた。
エリカ自身もまた、女性とは久しく体を重ねていなかった。「愛欲に溺れてはいけない」と自分自身に言い聞かせ、必死に冷静さを装う。しかし、琴音の柔らかな指先が肌をかすめるたび、抵抗できずにため息とも歓喜ともつかない声が漏れてしまうのを止められなかった。
琴音の口からは、時折戸惑いとためらいの言葉が漏れたが、身体はエリカの指先をそして唇を何ひとつ忘れていなかった。
エリカは琴音を、みなとみらいを一望するバスルームへと連れて行く。そこには、このタワーマンションの象徴でもある、2メートル四方の巨大なJAXSON、コンヴィヴィオが、無機質な白い光を湛えて待ち構えていた。
エリカがスイッチに触れた瞬間、バスタブの底から鮮烈な赤い光が湧き上がった。情熱的な色に染まったお湯が、剥き出しになった2人の肌を、まるで共犯者のように焼き付けていく。
エリカは儀式のように琴音の残りの下着をすべて脱がせ、その柔らかな肢体をあらわにした。そして琴音の手を取り、巨大な浴槽の縁へ座らせた。
「赤ちゃんには母乳で?」
以前よりも重みを増した乳房。腹部に残る淡い妊娠線。それは、エリカの知らない時間を琴音が生きてきた証拠だった。
エリカは、母親の身体へと変化した豊かな肢体を、しばらく黙って見つめていた。バスタブから立ち上る緑色の光が、琴音の濁りのない肌の白さを、非現実的なまでに際立たせている。
「いやあ、くすぐったい……」
浴槽の縁に腰を下ろした琴音の前に膝をつき、エリカは腹部の妊娠線を舌先で慈しむようになぞった。琴音の湿った声が響くと同時に、浴槽の光は冷徹な青へと変化した。
「エリカ、夫は不倫しているの。私との夜なんて、もう何年もないわ。エリカ、私、もう……」
エリカは立ち上がり、琴音の頬へ触れた。琴音が目を閉じる。二人の唇が重なった。
それは再会の喜びというより、長い時間をかけて封じ込めてきた過去が、堰を切ってあふれ出す瞬間だった。
琴音の告白に呼応するように、浴槽の湯は凍てつくような蒼へ染まった。
やがてエリカは琴音の手を取り、二人でゆっくりと光の海へ身を沈めた。蒼い水面は、二人が互いの身体を引き寄せた瞬間、妖艶な紫へと溶けていった。
高貴で、どこか不吉なその色は、二人が踏み入れた禁断の領域そのものだった。
ついに琴音の安全圏は音を立てて崩壊した。ジャグジーのスイッチが入ると、無数の気泡が紫の光を乱反射させ、バスタブ内を真っ白な泡の宇宙に変えた。水中から突き上げる無数の脈動の中で、エリカは琴音の身体が最も激しく反応する場所を、執拗に探り当てていった。
琴音はエリカの肩に指を立て、自分を裏切る身体が奏でる絶頂の喘ぎを漏らした。
だがエリカは、先ほどロンドン土産だと言って琴音に渡したリスのマスコットに、鏡越しに一瞬だけ、艶やかで、しかし勝ち誇ったような眼差しを向けた。
「英国で流行している、最先端のスマート・トイよ。実は……あなたの夫にも、仕事関係の知人を介して同じシリーズを薦めておいたの。彼、こうした目新しいガジェットには目がないでしょう?」
ピアノの上に置かれたリスは冷たい瞳を見開き、まるで手術台を見下ろす外科医のような冷徹さで、2人を観察していた。
琴音だけが快楽の淵へと突き落とされ、辛うじてバスタブの縁につかまっていた。まるで、溺れる寸前の人のように……。
しかし、エリカの心は、もう一滴も濡れていなかった。
絶頂の余韻の中で、光は透き通った水色へと行き着いた。さっきまでの狂おしい色が嘘のように、清らかなアクアブルーが、2人の濡れた身体を優しく包み込んだ。
「いいのよ、琴音。もっと深く堕ちて。あなたが選んだこの生活が、どれほど空っぽだったか、私が全部暴いてあげるから」
彼女たちは、かつてのように互いの身体を丁寧に洗い合った。
足の指から頭のてっぺんまで。
ジャグジーの余韻の中で、琴音は2人が再び深い愛の中にいるのだと、そう信じて疑わなかった。しかし、琴音が過去へ戻っていくほど、エリカの中では計画が完成に近づいていった。そしてエリカの指先は、すでに次なる処刑のステップへと、冷ややかに切り替わっていた。
だが、琴音は知る由もない。リビングのピアノの上に置かれた、あのオフホワイト・グレーのリス。その無機質な瞳の奥に仕込まれた「耳」が、今このバスルームで琴音が漏らした「夫への罵り」と「エリカへの渇望」を、すべて鮮明に記録していることを。
10
翌朝。横浜北仲のアビス・ウォーターフロント・タワー39階は、皮肉なほど透き通った青空に包まれていた。
琴音は、シルクのシーツの中で目を覚ました。隣には、すでにエリカの姿はなかった。身体のあちこちに残る微かな痺れ。浴槽の縁を強くつかんでいたせいか、両腕も重くてだるい。数年ぶりに女として隅々まで満たされた多幸感が、甘い疲労となって全身を包んでいる。
あれほど激しく求め合ったのは、いつ以来だろう。JAXSONのバスタブで、エリカにすべてを委ねたあの瞬間、琴音は、自分が母親でも商社マンの妻でもなく、ただひとりの熱い血の通う生き物であることを思い出した。
「……夢じゃなかったのね、エリカ……」
重い身体を引きずるようにして、リビングへ向かった。窓の外のみなとみらいは、昨日と変わらず輝いている。
しかし次の瞬間、琴音の背筋に氷のような冷気が走った。
ピアノの上に置かれたリスの瞳と目が合った。黒いビーズの瞳が、昨夜のすべてを見ていたかのように、不気味に光っている。
その時、サイドテーブルのスマートフォンが、無機質な振動音を立てた。夫からのメールだった。
件名:リスのプレゼントについて
「町田から、今戻る途中だ。昨日、スマートホームのカメラで、リビングのピアノの上に新しい飾りが増えているのを見たよ。センスのいいリスだね……。そういえば、昨日会ったロンドンの銀行関係者が言っていた。そのメーカーの製品には、面白い機能がついているんだって? 音声を認識して、『家族の隠し事』まで記録するとか。
帰ったら、昨夜の記録を2人で一緒に聴きながら朝食にしよう。君が、あれほど激しく誰かを求める声を、僕は今まで聞いたことがなかったよ……。
それとも、僕の知らない誰かの名前を呼んでいたのかな?」
琴音はスマートフォンを凝視したまま、一瞬、呼吸の仕方を忘れた。指先が激しく震え、端末が床へ滑り落ちた。
エリカ……。
あのリスは、再会の祝いなどではなかった。
エリカがロンドンで身につけたのは、銀行員としての冷静さだけではなかった。かつてあれほど愛した女を、その女が築いた安全圏の内側から破壊するための、冷徹な技術だった。
「Secrets kill……」
エリカが囁いた、あの「秘密は人を殺す」という言葉が、呪文のように琴音の脳内で繰り返された。
夫は間もなく帰ってくる。この最新鋭の要塞のようなマンションの扉が開いた瞬間、琴音が守り続けてきた世界は、彼女自身の声によって粉々に砕け散る。
リビングの静寂の中で、昨夜の自分の声が幻聴のように蘇った。夫への罵り。エリカの名前。快楽の中で漏らした、もう取り戻せない言葉。
琴音は窓の外の青空を見上げた。
高さ130メートル。逃げ場のない、真っ白な処刑台。
そこへ、エリカの3倍返しの呪いが、ゆっくりと、しかし確実に足音を立てて近づいていた。
そしてエリカの透明な刃は、すでに次の標的へ向けられていた。
11
リビングには、昨夜の琴音の声が流れていた。琴音は床に膝をつき、耳を塞いだ。高橋はソファに深く腰を下ろし、冷たい笑みを浮かべている。
「沙耶香には、僕から知らせておく。君がどういう母親だったか、この録音を添えてね」
彼は1枚の小切手をテーブルへ置いた。
「エリカさん、見事だった。彼女が自分から本性をさらけ出すよう、よく仕向けてくれた」
エリカは小切手を受け取り、金額を確認すると、無表情のままバッグへ収めた。琴音は最後の希望にすがるように、彼女を見た。
「エリカ……」
だが、エリカの顔には、昨夜の熱はもうなかった。
「琴音。あなたは私を捨てて、安全な場所へ逃げたのよ。だから私は、その安全が偽物だったと教えに来たの」
すべてが終わったと思ったのか、高橋は満足そうに立ち上がった。エリカはゆっくりと彼を振り返った。
「でも、あなたも同じよ」
「何だって?」
「妻を罠にかけ、愛人との生活を守るために、私を利用したのでしょう。あなたが私に渡した指示も、報酬の話も、すべてこの中に残っているわ」
エリカは、ピアノの上のリスを指さした。高橋の顔から笑みが消えた。
「何を言っているんだ。君は正気か?」
「このリスは、琴音の声だけを録音するためのものではないの。あなたと私が交わした会話も、報酬の約束も、町田の女性について話した声も、すべて記録してあるから」
エリカがスマートフォンを操作すると、次の瞬間、リスの内部から高橋自身の声が流れた。
「妻が自分から不貞を認める形にしてくれ。そうすれば、離婚も財産分与も、こちらが有利になる。ああ、不貞のほうはエリカさん、あなたにお任せするよ。大丈夫だよね。報酬は250万円でどうだろう」
高橋の顔が青ざめた。
「止めろ」
「もう遅いわ。データは複製して、別の場所にも保存してあるから」
その時、玄関のベルが鳴った。
扉の向こうに立っていたのは、モニカと弁護士だった。弁護士は高橋へ名刺を差し出すと、録音データを保全するよう、静かに告げた。
モニカは部屋へ入ると、琴音ではなく、エリカを見た。
「これで、あなたの復讐は終わったの?」
エリカはしばらく黙っていた。やがて、黒曜石のような瞳から、1筋の涙が落ちた。
「ええ。今、終わらせるところよ」
リカはリスをモニカへ差し出した。
「これを、あなたに預けるわ。私が2度と、誰かを壊すために使わないように。そして私たちが、もう誰にも壊されないために」
モニカは黙ってリスを受け取った。
琴音は床に座り込んだまま、初めて、自分を取り囲んでいたものの正体を見た。
夫の地位。
娘の家庭。
39階からの眺望。
完璧に整えられた家具。
自分を守ってくれるはずだったものは、すべて彼女を閉じ込める壁にすぎなかった。
モニカは琴音の前で立ち止まった。
「あなたが私を愛せなかったことは、もう責めない。でも、私の心を踏みにじったことは忘れないわ」
そして、エリカの隣に立った。モニカはエリカの腕を取り、2人は並んで玄関へ向かった。
背後で、高橋の怒鳴り声と、弁護士の制止する声が響いた。
しかしエリカもモニカも、もう振り返らなかった。
12
ザルツブルクの朝は、いつもの教会の鐘が、古い街の屋根を渡ってくる音から始まった。遠くにはホーエンザルツブルク城が、朝の光をまとって悠然と浮かび上がっている。幾世紀もの時間を越えて街を見守ってきたその姿は、力強さの中に不思議なやさしさをたたえ、今日も2人を励ますように、静かにこちらを見据えていた。
窓のすぐ外では、木々の葉が朝の風に揺れ、その隙間からこぼれる光が、室内の床へやわらかな模様を落としていた。
鳥の声が近くで重なり、どこかの家からは、オーボエの練習する音が聞こえてくる。ここでは自然も人の暮らしも、手を伸ばせば届きそうなほど近かった。
横浜の39階では、空も海も遠く、美しく整えられた景色はガラスの向こうに閉じ込められていた。だがここには、低い屋根の連なりと、木々の気配と、人が生きている音があった。
背後では、エリカが小さなキッチンでコーヒーを淹れている。
東京にいた頃、寂しさを抱えた2人の心は、驚くほど早く近づいていった。だが、その歩みは同時に用心深かった。モニカは男性から受けた傷を、エリカは2度の失恋を、まだ身体の奥に残していた。2人とも、もう2度と、愛によって自分を失いたくなかった。
だからこそ、急激に惹かれ合いながらも、相手の沈黙を急かさず、触れる前には必ず目を見て、少しずつ互いの安心を確かめていった。そうして始まった2人の恋は、ザルツブルクでの生活の中で、熱を失うことなく、静かで確かなものへと育っていった。
窓辺には、あのオフホワイト・グレーのリスが置かれていた。役目を終えた録音装置は、すでに取り外されている。ただのぬいぐるみに戻ったリスは、朝の光の中で、どこか穏やかに見えた。
その頃、横浜北仲の39階では、高橋が起こした離婚訴訟をきっかけに、妻を陥れるための録音計画とエリカとの共謀、町田の愛人への資金移動、そして250万円の報酬をめぐる問題が、次々と明るみに出ていた。
琴音もまた、あの部屋を去った。娘にすべてを打ち明け、いつか許される日が来るまで待つことを選んだ。
誰も無傷ではなかった。
だが、誰も命を落とさなかった。
そして、地上130メートルに築かれた安全圏は、完全に崩れ落ちた。その瓦礫の向こうで、モニカとエリカは初めて、自分たちの足で大地に立っていた。
教会の鐘が、もう1度、遠くで鳴った。
モニカはエリカの手を握った。エリカが振り返ると、その瞳には、過去を焼き尽くしていた黒い炎はもうなかった。
「エリカ」
「何?」
「私と結婚してくれる?」
エリカはすぐには答えず、しばらくモニカを見つめた。
やがて、その顔に泣きそうな微笑みが浮かんだ。
「ええ。モニカ!今度は逃げない。あなたと一緒に生きていくわ」
モニカはエリカをそっと抱き寄せた。2人の唇が重なった時、開け放した窓から朝の風が入り、白いカーテンを静かに膨らませた。
それは、逃げるための旅の終わりではなかった。
共に生きる人生の始まりだった。
【完】