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グランドジェネレーション

    あらすじ

    日本中で若者を中心に、原因不明の急性呼吸不全が発生。重症例では肺の線維化が進行し、多くが短期間に死亡する。政府は対策を確立するが、すでに若年人口は壊滅的に失われていた。これは若者を失った国家の記録である。

    第一話 変革

    「続いては、気象情報です。本日は、中国大陸からの黄砂の影響でーー」

    毎年のことだが、今日は黄砂が特に多いらしい。
    花粉に黄砂。この季節は本当にウンザリする。

    コーヒーを一口飲み、スマホを開く。
    いつものソシャゲにログインして、フレンドに
    “いいね“を送る。
    これが毎朝の日課だった。

    窓の外が、少しだけ色を失って見えた。
    今日もまた、長い一日が始まる。
    外に出れば、
    この空気を吸いながら歩かなければならない。
    そう思うだけで、体が少しだけ重くなった。

    ミミ
    昼休み、食堂のテレビでニュースが流れていた。

    「福岡県F市で、原因不明の急性症状により搬送が相次いでいますーー」

    混乱しているはずの現場が、テレビ越しには騒然として見える。

    「おいおい、またウイルスか?勘弁してくれよ」
    誰かが笑いながら言う。

    別のグループではスマホを見ながら、
    「新しくできたこのお店、結構美味しかったよ」

    テレビの中では、リポーターの背後で救急車の
    赤い光が規則正しく点滅している。

    うどんは生温く、出汁も薄い。
    啜るのにいつもよりも、疲れる気がする。
    それでも空腹だけが、静かに埋まっていく。

    ミミ
    午後になってから、体調がすぐれない。

    頭がぼんやりと重く、息が浅い。
    上司に断りを入れ、早めに帰宅する。

    外に出ると、空気が重かった。
    吸い込むたびに、少しだけ遅れる感じがする。

    桜はすでに散り始めていた。
    歩道に張りついた花びらを、誰も気にしていない。
    今年も花見に行かなかった。
    そんなことを、どこか他人事のように思う。

    空が濁って見えた。
    黄砂のせいだと、頭のどこかで処理をする。
    マスクをしている人もいれば、していない人もいる。
    その違いに意味はないように見えた。

    学校帰りの若者グループとすれ違う。
    そのうちの一人が、口をパクパクと開閉させていた。
    池の鯉のように、音のない動きだけが大きい。
    声は聞こえない。
    ただ、動きだけが妙に強調されて見える。

    「変な奴だな」 

    ポケットの中で、スマホが震えた。
    次の瞬間、街が鳴った。
    あちこちで同じ通知音が重なり合う。
    金属を叩くような、短く鋭いアラート。

    周囲が一気にざわめく。
    誰もが同時にスマホを取り出す。
    動きが妙に揃っている。

    画面を見ようとした瞬間、指に力が入らない。
    スマホが手から滑り落ちた。
    アスファルトに落ちる、乾いた軽い音。
    その音だけが、やけに遅れて耳に届いた。

    呼吸をしても、満たされない。
    どれだけ吸い込んでも、腹だけが膨らみ、
    肺は動かなかった。
    視界が揺れ、足元の感覚が遅れてくる。
    体の軸がずれ、顔に冷たさと痛みが走る。
    胸を叩くが、力が入らない。

    視界が途切れ、音だけが遠ざかる。

    「外には出ないでください。原因不明の症状が確認されています。直ちに屋内に入ってください。」
    短い指示が、間を置かずに繰り返されている。

    タクシーの運転手が窓を閉める。
    落ち着かない様子で、何度も辺りを見回している。

    「番組の途中ですが、緊急速報をお伝えします」
    画面下に赤い帯が走る。

    大相撲中継は途中で切り替わっていた。
    ついさっきまで館内に響いていた歓声は消え、
    代わりにスタジオの喧騒が流れ込んでくる。
    画面には、以前よりだいぶ頭が寂しくなった
    アナウンサーが映し出されていた。

    「あー、本日午後六時三十四分、政府対策本部は、50歳以下の、外出禁止、を発令しました」

    画面右上には、【五十歳以下 外出禁止】の文字。

    「えー、この後、政府対策本部の会見を、生中継で、お伝えします」

    スタジオの怒声は収まらない。
    画面の裏側では誰かが叫び、別の誰かが聞き返している。マイクには拾ってはいけない音ばかりが流れ込んでくる。
    意に介さず原稿をめくる動作が、少し遅い。

    「あー、現在、若年層に、確認されている、急性呼吸不全症状については——」
    『あっ……』という声が流れ込んできたと同時に
    スタジオの怒声が悲鳴に変わる。

    アナウンサーがゆっくり立ち上がり、
    何かを見るように前のめりになったまま、
    固まっていた。

    ーーチャンネルを変える。
    すでに政府対策本部の会見が始まっていた。

    眼鏡をかけた初老の男が、国旗前に登壇していた。

    「現在、原因不明の急性症状が全国各地で報告されています。特に若年層において、顕著な症状が確認されています。
    命に関わる危険性がありますので、対象年齢の方は決して外出をしないでください。

    食料につきましては、政府オンライン申請を行っていただければ、翌日中に配送いたします。
    なお、配送遅延が発生する可能性があります。
    あらかじめご了承ください。

    すでに症状が確認されている方につきましては、24時間対応の専用ダイヤルを開設しております。
    なお、回線の混雑が続いています。
    時間をおいてお掛け直しください。

    現在確認されている主な症状は、呼吸困難、意識障害、運動機能低下です。なお、症状進行には個人差があり、詳細については現在確認を進めています。

    重症例では、急速な肺機能低下、および肺組織の異常な線維化が確認されています。
    一方で、高齢者においては比較的軽症例が多く報告されています。

    繰り返しになりますが、
    命に関わる危険性がありますので、50歳以下の方は決して外出をしないでください。」

    どこか頼りなさそうな男だった。

    「それでは何かご質問がございましたら、お願いしまぁす」

    各報道機関が一斉に挙手をする。

    「日帝新聞の猿崎です。
    今回の件についてですが、国外勢力による攻撃の可能性はあるのでしょうか」

    「現時点で、そのような事実は確認されておりませんが、追って調査中です」

    「それでは現段階では特に分からないというのが政府の見解ですか」

    「関係機関と連携しながら調査を進めております」

    別の記者が被せるように声を上げる。

    「東凸新聞の曽根上です。
    外出禁止制限が五十歳以下ということですが、その根拠についてお聞かせください。」

    「現時点では、五十歳以下の方において、特に重症化傾向が顕著に確認されております。

    ただし、五十歳以上の方においても重症化リスクは確認されております」

    記者席がざわつく。

    「えーですから、五十歳以下の外出禁止規制をしておりますが、対象年齢以外の方につきましても、外出を控えていただきますよう、お願い申し上げます」

    男が咳払いをする。

    「阪西の上林ですが、
    外出禁止ということは、毒ガスや生物兵器もしくは新型のウイルスの可能性は」

    「現時点では、特定の原因について断定できる状況にはございません。
    屋内より屋外での発症例が多く報告されていますので、今回の措置となっていますことをご理解いただければと思います」

    「結局、何も分かってないじゃないか!」

    どこかから怒声が飛ぶ。

    「政府の対応が遅すぎるんじゃないのか!」

    壇上の男は少し口を開けたまま、どことも言えない場所を見つめていた。

    「人権はどうなってるんだ!」

    男はカッと目を見開く。

    そのまま何も答えず、書類をまとめ、一礼をしてゆっくりと去っていった。

    会見現場の怒声とフラッシュは止まらない。

    会見後、ふいに外が気になった。
    玄関を開けて周囲を見渡す。
    静寂が辺りを包み込む中、煙草に火を着けた瞬間、
    視界が白く弾けた。
    後頭部の痛みだけが鮮明に残っていた。


    第二話 異変

    就職氷河期世代として、長く苦渋を飲まされ続けてきた。とにかく金が必要だった。
    危険な仕事ではあったが、物流業界に飛び込んだ。配給の仕事は高待遇で、まさに渡りに船だった。

    男の名前は、野口英夫。
    歴史上の有名人と同姓同名である。

    外出禁止措置が発令されてから八日が経過していた。

    道路を走っているのは、物流トラックと自衛隊車両ばかりだった。
    信号だけは、以前と変わらず律儀に赤と青を繰り返している。

    野口は今日も、防護服にガスマスク姿で配給ルートを走っていた。
    配給ルートはA地区担当だったが、急遽B地区も任されることになった。

    B地区の担当者が三日前から音沙汰がない。

    報告欄には「調整中」。調整されないまま、配給ルートと報酬だけが増えていく。

    野口は、それを断らなかった。

    ラジオからは、十六歳未満の患者に限定した病床使用率が、全国平均で三〇〇%を超えたと繰り返し報じている。

    配給先では、インターホンを鳴らしても応答のない部屋が少しずつ増えている。

    特に、築年数の古い団地は顕著だった。

    郵便受けには配給票が溢れ、換気口にはガムテープで塞いだ跡が残っている。 どの部屋も、息を潜めているように静かだった。

    B地区のとあるアパートに到着する。
    インターホンを押すより先に、

    「ご苦労さん」

    老人は野口の防護服を見上げ、小さく笑った。

    「君はあれやな。これから宇宙に飛び出すみたいな格好しとるな」

    野口は無言のまま荷物を下ろす。

    「知っとるか? 宇宙の主成分は“未知のもの”なんや」

    「……」

    「観測できとる宇宙はたった4%や。残り九十六%は、正体不明なんやで」

    老人はそこで一度言葉を切り、まっすぐこちらを見てくる。

    「ようは、何も分からん、分かっとらんっちゅうことやな」

    野口は黙ったまま荷物を床へ置く。

    「でもな、それがどういうことか分かるか?」

    老人はゆっくりとした動きで、顎に手を当てる。

    「"分からん"っちゅうことはな、可能性があるっちゅうことやな」

    老人は嬉しそうに笑う。

    「分からんから怖い、で終わる奴が多すぎるんや」

    「大切なことはな、何にも疑問を持たん状態をやめることや。探究心を忘れたらあかんよ」

    荷物を置いた、手が止まる。

    「わしな、宇宙人はおると思っとるねん」

    「グレイとか、レプティリアンとか知っとる?」

    「……」

    伝票へ目を落とした。

    ——渡部かなえ……。

    記憶が巡る。

    夕暮れの教室。

    「宇宙人はおる」と、本気で語っていた声。

    目の前の老人はあの時よりもひと回りもふた周りも小さくなっていたが、面影は残っていた。

    当時は、くだらない話だと思いながらも、その話に夢中になっていた。

    「現実見ろ」

    「ちゃんとしろ」

    「将来考えろ」

    とは決して言わなかった。

    あの頃は、まだ何にでもなれる気がしていた。

    「先生、俺です。野口、野口英夫です」

    「ん、あぁ、……知らん」

    ——あかん、話にならん。

    「次は五日後の、いつもの時間にまた来ます」
    野口はそれだけ告げると、部屋を後にした。

    ホワイトキャット運輸の営業所に戻り業務用タブレットを操作し、今日の業務報告をしていると、事業所長が孫の手で背中を掻きながら話しかけてくる。

    「お疲れさん。入ったばかりで、二つの地区の担当すまんな」

    ーー本当にそう思っているのか

    「今や日本の未来を預かる、尊厳ある仕事や。頑張らなあかんな。」

    ーーあんたは、そこに座っとるだけやろ

    タブレットに目をやると、業務報告の転送が完了していた。

    「今から除染入るんでーー」

    「おお、お疲れさん。明日も頼むで」

    業務用タブレットを充電器に挿し、野口は除染室の前に立つ。横には除染記録表と、色褪せた標語が貼られていた。

    ——ルール守って 安全輸送

    ——除染の基本は 足元から

    野口は日付、時間、名前を記入し、除染室へ入る。

    扉はロックされスチームが吹き出す。

    赤から青ランプに切り替わり、ロックが解除されたことを確認し部屋を後にする。

    防護服を脱ぎダストボックスへ落とす。
    マスクだけはまだ外せない。

    営業所備え付けの寮に戻る。
    部屋の中で、ようやくマスクを外す。
    顔には、くっきりと跡が残っていた。

    スマホを取り出し、電話をかける。

    「あ、もしもし…俺やけど。今終わったわ。ああ。心配せんでも大丈夫や。ユキはどうや?そうか。そっちも気ぃ付けや。ああ。じゃあ」

    通話を切る。“通話時間 00:49”

    待受には綺麗に着飾った女性と、制服姿の女の子が笑顔で並んで写っている。

    あの頃に戻れる気がしていた。
    そう思いながら、心地よい疲れの中、眠りについた。

    まだ慣れたとは言えないまま、数日が過ぎていた。

    事業所では数人の同僚と紙コップを片手に持った所長が、事業所のテレビの前に集まっていた。

    医療の優先措置が十三歳以下へ引き下げられることが報じられていた。

    「まぁ、しゃあないな」
    所長は言い、紙コップを口に運んだ。

    野口の視界には"施行日"という文字だけが引っかかっていた。
    喉の奥が一度だけ動く

    いや、まさか……
    金さえあれば、どうにかなるはずだ。

    気づけばトラックに荷物を積んでいた。

    午前の配送が終わり、コンビニのトイレを借りる。
    自動ドアのチャイム音が鳴る。

    店内に人の気配はなかった。

    それでも冷蔵庫のコンプレッサー音だけは、いつも通り続いている。

    食料品の棚はほとんど空だった。

    もっとも、配給制になった今となっては、食べ物に困ることはない。

    野口は煙草を棚からひとつ手に取る。

    突然呼び出し音が鳴り、身体が反応する。
    胸ポケットで鳴っていることに気づき、スマホを取り出した。

    画面には、
    【外出禁止対象年齢 六十歳以下に変更】

    とだけ表示されている。
    野口はしばらく、その文字を見つめていた。

    年齢が、一段階こちらへ近づいた気がした。

    店の外では、老人が何事もないように横断歩道を渡っている。

    信号は赤だった。

    野口は手に持っていた煙草を握り潰し、そのまま地面へ叩きつけた。

    ——自分は、どっち側なんだ。

    マスクを外せないこちら側か。

    それとも。あちら側なのか。

    その夜も電話をかけた。

    「あ、もしもし…俺やけど。今終わったわ。ああ。うん。ユキは?そうか…できるだけ急ぐわ。ああ。じゃあ」

    通話を切る。“通話時間 00:51”
    身体は疲れているはずなのに、眠れなかった。

    その日は朝から雨が振っていた。

    酸素残量は、3/5を示している。

    残りの配送業務にも問題ないことを確認し、シートベルトを締めアクセルを踏み込んだ。

    しばらく進むと、集合団地の近くを通る。

    ほんの少し前まで、この公園では子供たちが元気に遊んでいたはずだった。

    ——ガコンッ。

    足元から、鈍い衝撃が伝わる。

    速度はそのまま、音量を上げた。

    ラジオでは、自律呼吸のできない若年層への肺移植優先制度について議論が続いている。
    「今の医療現場の逼迫状況を打開するには、根底から見直すべきで——」

    予定していた配送先も、残すところあと一件。

    野口は車を停める。
    運転席から降り、右回りで荷台へ向かった。

    助手席側には目を向けない。

    荷物を抱え、玄関の前に立った。

    インターホンの横には、「セールスお断り」と書かれた札が掛かっていた。

    ピンコーン——

    呼び鈴を押す。返事はない。

    野口は玄関へ手をかける。

    ——鍵が、開いていた。

    玄関の扉を開けた瞬間、音楽が流れ込んできた。
    ひと昔前、電撃的に引退したアイドルの曲だった。

    野口は視線を落とす。

    床に、紙が一枚だけ置かれていた。

    配達員さん
    お疲れ様です。
    明日からの配達は、もういりません。

    野口はそれを確認し配送トラックへ戻った。
    タブレットを操作し、配給先一覧に小さくバツをつける。

    スマホの振動に気付くと、着信が溜まっていた。

    「あ、もしもし、どうした………………すまん」

    電話の向こうからは声にならない音が流れてくる。

    震える指先で、通話を切る。

    スマホの画面には、“通話時間 00:43”と表示されている。

    下唇を噛んでしばらく固まっていた。
    窓を全開にし、ゆっくりとマスクを外した。

    止めていた息を恐る恐る吸い込む。

    冷たい空気が肺へ流れ込んだ瞬間に、理解してしまった。

    ーー結局、俺のでもあかんのか……。

    ふた息目を吸うより先に、反射的にマスクへ手が伸びる。

    ——その手が止まった。

    老人たちは、何事もないように外を歩いている。

    赤信号を渡り、公園で笑い、以前と変わらない生活
    を送っていた。

    煙草を一本取り出し、火を着ける。
    紫煙を吐き出しながら、空を見上げた。

    気づけば、涙が溢れていた。


    第三話 解析

    ■国家運用記録

    国会議員:三十一名
    専門家:九名
    事務方:十四名(再雇用)
    統括:伊藤宏文

    招集可能な国会議員は三十一名に再定義された。
    欠員補充は現在、停止されている。
    会議体は臨時的に維持されているが、立法機能は縮退している。

    専門家群九名が招集された。 
    役割は情報補助および技術評価に限定される。
    発言はすべて記録されるが、意思決定権は付与されていない。

    定年退職者である元事務方は、伊藤宏文の判断により再び呼び戻され、事実上の臨時行政要員として会議に復帰していた。

    今回の騒動により「新型インフルエンザ等対策特別措置法」に基づき、内閣に「新型インフルエンザ等対策本部」が設置された。
    また、科学的な判断を仰ぐために、専門家で構成される「基本的対処方針分科会」が招集されている。

    会場では、資料のめくられる音だけが続いていた。誰も口を開かない。

    やがて司会役の事務方が、静かにマイクを入れる。

    「定刻になりましたので本件について、症状および対象の定義を、医療・公衆衛生の観点から感染症専門医よりご説明願います」

    乾いた咳払いで議場の沈黙を破ると、手元の資料へ視線を落とすために眼鏡の位置を正した。 

    「城南大学大学院医学研究科教授、北里柴三郎です。」

    一同の視線が北里に集まる。

    「まず、症状がどのように進行していくのか。その発症メカニズムについてご説明いたします」
    「本症例では、ウイルスは主に呼吸器系から侵入します」

    北里は資料を一枚めくる。

    「感染初期の段階では、一般的なインフルエンザと大きな差異は確認されていません。しかし肺組織へ到達した後、増殖速度が急激に上昇します」

    会議室には、紙をめくる音だけが響いていた。

    「これにより肺胞が広範囲に損傷し、患者は急速に呼吸機能を失います」

    北里は視線を落としたまま続ける。

    「最終的には肺の線維化が進行し、正常な呼吸機能の回復は極めて困難となります」

    北里はリモコンを操作した。

    会議室正面のモニターに、二枚の肺画像が並ぶ。

    左側には正常肺。

    黒く抜けた空洞が網のように広がり、呼吸可能領域が維持されている。

    対して右側は、患者の肺だった。

    白い。

    本来、空気が満ちているはずの領域が、不規則な白濁で埋め尽くされている。

    「こちらが発症から二時間経過後の症例です」

    北里の声だけが静かに響いた。

    「線維化が急速に進行しています。肺組織は正常な弾性を失い、硬化状態へ移行しています」

    誰も口を開かない。

    モニターに映る肺は、もはや呼吸器というより、別の臓器のように見えた。

    「この段階に至った患者は、自力呼吸が可能であっても十分な酸素交換を行えません」

    北里は次の画像へ切り替える。

    そこには摘出後の肺標本が映されていた。

    「正常肺との比較です」

    赤黒く柔らかな正常組織の隣で、変色した肺は縮み、乾いた繊維の塊のように硬化している。

    「現場の医師からは、“肺が石のようだ”という報告も確認されています」

    会議室には空調音だけが残った。

    「若年層から現役世代では肺機能そのものが活発であるため、ウイルスの増殖速度も比例して上昇する傾向が見られます」

    淡々とした声で続けた。

    「結果として、二十代から五十代の患者では急速な肺障害が発生しやすく、重症化までの時間が極端に短縮されています」

    「現時点において、有効な根治療法は確立されていません」

    ため息がどことなく漏れる。

    「症状の進行に対しては酸素投与、および人工呼吸管理による延命措置が中心となります」

    会議室の空調音だけが残った。

    「しかし、線維化が一定以上進行した症例では、肺機能の回復は極めて困難です」

    一瞬だけ視線を上げる。

    「現実的には、肺移植以外に救命手段は存在しません」

    「一部では『適応者』の存在を示唆する意見も確認されていますが、現時点でそのような事実は確認されていません」

    北里は目の前のコップを手に取り、喉を潤した。

    「発症年齢に差が見られるのは、加齢による肺機能および代謝活動の低下が主な要因と考えられます」

    会議室の誰も口を開かない。

    「高年齢層ではウイルスの増殖速度が比較的緩慢であるため、症状進行まで時間差が発生しているに過ぎません」

    「つまり、進行速度が異なるだけであり、本質的な差は存在しません」

    一拍置く。

    「現在国内で実施されている酸素療法、人工呼吸管理、移植対応はいずれも対症療法の域を出ておらず、根本的な解決には至っていません」

    感情のない声で付け加える。

    「現時点において、日本国内の医療は、延命以上の意味を持っていません」

    「最後に今回のウイルスは現時点で、ヒトからヒトへの感染を示す明確な証拠は確認されていません」

    会議室の空気がわずかに揺れる。

    「家族間、医療従事者間を含めた濃厚接触事例においても、感染経路との整合性が確認できない症例が多数発生しています」

    「……では、何を媒介としているのですか」

    誰かが小さく漏らした。

    事務方が静かに口を開く。

    「その件については、国立気象環境研究所より説明をお願いします」

    会議室の視線が一斉に移る。

    「ただいまご紹介に預かりました、国立気象環境研究所の荒井郁之助でございます」

    深く一礼すると、手元の資料へ目を落とした。

    「発症地域と大気観測データとの間には、一定の相関性が確認されています」

    モニターに日本列島の気流図が表示された。

    黄砂分布予測図。

    偏西風の流線。

    そして赤く塗られた発症地域。

    「現在、発症地域と黄砂飛来時期との一致率について、解析を進めています」

    誰も口を開かない。

    「深海底には、熱水を噴出する煙突状構造物――いわゆる“チムニー”が存在します」

    モニターが切り替わる。

    暗い海底。

    黒煙のように熱水を噴き出す巨大構造物。

    「その周辺では、高温・高圧環境へ適応した古細菌、および未知微生物群の生息が確認されています」

    荒井は資料を一枚めくった。

    「今回観測されている粒子構造は、既知の地上微生物群との一致率が極めて低い」

    静かな声だった。

    「現時点では、海洋深部由来である可能性が示唆されています」

    会議室の誰かが小さく息を呑む。

    「深海底由来の粒子が、何らかの形で上昇気流へ取り込まれ、黄砂粒子へ吸着した可能性があります」

    モニターには東アジアの気流図が映し出されていた。

    「粒子は偏西風および季節風に乗って拡散し、日本列島全域へ到達しているものと推定されます」

    淡々とした説明だった。

    「なお、当該粒子は紫外線照射下において活性低下を示しています」

    モニターに実験映像が映る。

    紫外線照射後、崩壊していく粒子構造。

    「太陽光暴露環境では粒子活性の低下傾向が確認されています」

    荒井は続けた。

    「一方で、黄砂滞留環境、および日照量低下条件下では、長時間の浮遊が確認されています」

    重苦しい沈黙が会議室を覆う。

    「ですから、現時点では屋内退避が最も有効と判断されています」

    一拍置く。

    「ただし、完全な遮断効果は確認されておりません」

    誰かが乾いた喉を鳴らした。

    「場所が特定できれば解決するのかね」

    老議員の声だった。

    荒井は数秒沈黙した。

    「海流遮断、海域封鎖、大気観測網による拡散予測など、複数の対応策を検討しております」

    感情のない声で続ける。

    「しかしながら、現在の人的資源および運用可能資材を踏まえた場合、実行は極めて困難です」

    静寂。

    「理論上は可能です」

    荒井はモニターを見つめたまま言った。

    「ただし、現在の日本に、それを実施する能力は残されていません」

    「続いて、経済活動維持および物資供給網確保に関する現状報告をお願いします。代表として、井上勝様」

    「……物流統制委員会の井上です。まあ、元は運送屋ですがね」

    井上は小さく頭を掻いた。

    「現状は……悲惨の一言ですわ」
    乾いた笑いが漏れる。

    「配給制度そのものに、大きな混乱はありません」

    一拍置く。

    「ただねぇ……昨日配送した思うとった家が、次行った時にはもうこれですわ」

    井上は胸の前で静かに手を合わせた。

    会議室の誰も口を開かなかった。

    「まず、人手が足りません」

    井上は資料も見ずに言った。

    「若いドライバーから順に消えました。長距離便は特に壊滅的ですわ」

    モニターに物流網の図が表示される。
    日本列島の各地で、輸送ラインが赤く途切れていた。 

    「現在は高齢ドライバーを中心に、最低限の配給輸送だけ維持しています」

    井上は苦く笑う。

    「平均年齢、六十八です」

    誰も笑わない。

    「冷蔵輸送も限界です。燃料、人員、整備士、全部足りん」

    井上は指を折るように続けた。

    「高速道路は一部封鎖。港湾機能も縮小。荷物が届く地域と届かん地域が、もう出始めとる」

    会議室の空気が重く沈む。

    「せやけど止める訳にもいかんのです」

    井上はあえて力強く言う。

    「物流止まった瞬間、人は飢えますから」

    「今はまだ、無理やり回しとります」

    井上は掠れた声で続ける。

    「せやけど、人も燃料も車両も限界ですわ」

    モニターの輸送網を見つめたまま、小さく息を吐く。

    「全国維持なんて、もう無理ですわ」
    「一局集中でもせんと、いずれ破綻します」

    井上は勢いよく椅子に腰掛けた。

    「あのう、井上さん。一局集中すれば物流問題が解決することは可能だとお考えですか」

    井上はしばらく黙ったまま、モニターの物流網を見つめていた。

    「……解決やありません」

    掠れた声だった。

    「延命ですわ」

    会議室の空調音だけが残る。

    「地方を維持したまま全国へ運ぶ余力は、もう残っとりません」

    井上は指先で日本列島の図をなぞる。

    「とにかく人ですわ。人員の確保や」

    赤く途切れた輸送ラインを指でなぞる。

    「荷物はあっても、運ぶ人間がおらん。整備士も、倉庫員も、港の人間もです」

    誰も口を開かない。

    「せやから、人も物も一箇所に集めるしかない」

    一拍置く。

    「生き残らせる地域を決めるっちゅうことです」

    「そのことについては後ほど検討します」

    事務方は感情を挟まず、次の資料をめくった。

    重苦しい沈黙が会議室を覆う。

    誰も視線を上げない。

    その時だった。

    「……以上のことを踏まえて、法務大臣」

    低い声が静寂を裂いた。

    「法改正案の立案をよろしく頼むよ」

    この会議が始まって以来、初めて伊藤宏文が口を開いた。


    第四話 変貌 

    新しく就任した伊藤宏文内閣総理大臣が、総理官邸から新法案設立に関する記者会見を開こうとしていた。

    無数のフラッシュが、白く会場を照らす。

    かつてなら喧騒に包まれていたはずの記者席は、今は空席が目立っていた。

    「政府は本日、新たな行政維持法案を閣議決定しました」

    無数のフラッシュが断続的に光る。

    「人口減少、および人的資源の著しい喪失を踏まえ、一部地域における行政機能の縮小を段階的に実施します」

    会場がざわめく。

    伊藤宏文は表情を変えない。

    「対象地域については、医療維持率、物流維持率、人口密度を基準として選定を行いましたので、ご報告いたします」

    フラッシュが止まり、総理官邸が静寂に包まれる。

    「対象地域は、岡山県岡山市、栃木県宇都宮市、富山県富山市、福岡県北九州市、宮城県仙台市の五都市とします」

    誰も口を開かない。

    「なお、政府機能は栃木県宇都宮市へ段階的に移転します」

    「詳細につきましては、この後、内閣官房長官より説明いたします」

    伊藤宏文は一礼すると、記者からの質問を受け付ける間もなく、そのまま壇上を後にした。

    静まり返っていた記者席に、遅れて喧騒が戻る。

    官房長官が総理に代わって壇上へ立つ。

    かつて、全国への外出禁止措置を宣言した、どこか頼りない男だった。

    記者席から矢継ぎ早に質問が飛び交う中、内閣官房長官は微動だにしない。

    「お静かにお願いします。只今より、内閣官房長官より説明がございます。お静かにお願いします」

    司会進行役の事務方が制止に入る。

    しばらくざわめきは続いたが、やがて諦めたように収束していく。

    官房長官は手元の資料へ視線を落とした。
    「それでは説明いたします」

    「国家維持機能縮小法案に基づき、以下五都市を行政維持指定区域として設定します」

    第一都市 岡山県岡山市
    第二都市 栃木県宇都宮市
    第三都市 富山県富山市
    第四都市 福岡県北九州市
    第五都市 宮城県仙台市

    「また、以下の措置を段階的に実施します」

    「一、政治機能を第二都市、栃木県宇都宮市へ移転」

    「二、当該指定区域外における治安維持、およびインフラ維持活動を順次終了」

    「なぜ東京ではないのですか」

    記者席から声が飛ぶ。

    官房長官は表情を変えない。

    「現在、日本国内における推定生存人口は、総人口比四十一・九%です」

    会場が静まり返る。

    「なお、現役世代および若年層の生存率は十一%まで低下しています」

    誰かが息を呑んだ。

    「首都圏を含む大都市圏では、既に遺体回収およびインフラ維持が限界へ達しています」

    淡々と続ける。

    「特に東京都市圏では、高密度人口地域における死亡集中により、行政機能の正常維持は不可能と判断しました」

    「現在、一部区域では遺体整理すら完了しておりません」

    記者席が静まり返る。

    「そのため、人口密度、物流導線、維持効率を考慮し、地方中核都市への機能分散を決定しました」

    軽く咳払いをすると、官房長官は記者からの質問を打ち切った。

    「続いて、移住措置について説明します」

    会場が再び静まり返る。

    「維持不能区域からの段階的移住を実施します。対象者につきましては、後日、ハガキまたは行政オンラインを通じて通知を行います」

    「なお、移住の拒否は可能です」

    官房長官は淡々と続ける。

    「本措置に法的強制力はありません」

    記者席がざわつく。

    「ただし、維持不能区域に残留される場合につきましては、治安、医療、インフラ等の行政サービス提供対象外となります」

    一拍置く。

    「あくまでも、自己責任となります」

    「なお、現在、外出禁止措置が継続中であることから、移住対象区域、および各都市ごとの移動開始予定日につきましては、本日中に政府ホームページへ掲載予定です」

    空席が目立っていたはずの記者席から、怒号に近い声が一斉に噴き上がった。

    無数の手が執念深く突き上げられ、空間を裂くように前方へ伸ばされる。

    数少ない記者たちの顔は一様に紅潮し、誰もが正気を失ったような目で官房長官を睨みつけていた。

    彼らの放つ熱気と殺気が、壇上まで波のように押し寄せる。

    直後、全てを呑み込むように、無数のフラッシュが白く炸裂した。

    嵐の会見から数日後、十三歳以下の少年少女の移送が始まる。

    第二都市 栃木県宇都宮市市役所
    「補佐、今お時間大丈夫ですか。明日受け入れ予定の名簿ですが一部修正がありましたので、確認してもらえますか」

    書類に目を通すと個人番号、氏名、年齢の欄に取り消し線が引かれている。

    「…そうか、わかった」

    移送に間に合わなかったか、それとも途中で記録が途切れたのか。
    移送の現場指揮を任されて以来、慣れるという感覚だけは、いまだに訪れなかった。

    どちらにしても、それを確認する手段はもう残っていない。

    「補佐、茨城方面からの移送、ただいま到着したようです。十七名、問題なく受け入れを完了したと、創生会宇都宮病院より連絡がありました」

    報告は事務的に読み上げられた。

    宇都宮市で受け入れ可能な人数など、せいぜい一万人程度だ。では、その枠に入れなかった人間は、どうなるのか。
    どれほどの選別が行われているのか、考えないようにしていた。

    午前に予定されていた移送は程なく完了した。

    小さく息を吐く。

    「佐野くん。この後、一緒に昼飯でもどうだい」

    課長の谷繁が、書類を脇に抱えたまま声をかけてきた。

    「後藤くんもどう?奢るよ」

    といっても、どうせ社員食堂だろう。このご時世、まともに営業している店など、もうほとんど残っていない。

    「ごちそうになります。おい、後藤、行くぞ」

    二人きりになる気まずさもあり、佐野は半ば強引に後藤を道連れにした。

    「今日ので何人目だったっけ」

    味噌汁をすすりながら、谷繁がぼそりと呟いた。

    「……宇都宮受け入れだけなら、もう六千は超えてます」

    「六千か」

    谷繁は、カレーは飲み物と言わんばかりの勢いでスプーンを動かす。

    「佐野くんはどう思う」

    佐野は生温いうどんをすすりながら、わざと惚けた顔をした。

    「この先、どうなるんですかね」

    谷繁のスプーンが止まる。

    「佐野くぅん。わかってるくせに」

    「政府は選別してるでしょうね」

    佐野は生温いうどんをすすりながら言った。

    「現在の生存者は、およそ五千万。それを五都市へ割り振ると言っても限界があります。普通に考えればわかります」

    谷繁は黙ったままカレーを口へ運ぶ。

    「だから移住は、“自由意思を尊重”なんですよ」

    「これから移住を希望しているにも関わらず、受け入れを断られる可能性も、頭の片隅には置いておかなきゃならんだろうな」

    谷繁は、皿に残った最後の米粒を丁寧にさらえながら言った。

    佐野は、何も答えることができなかった。

    ワイドショーでは、“第五都市移住計画”の文字だけが淡々と流れていた。

    「課長、抗線維化薬ですか」

    「そう。生きてくためにはね。まあ……副作用はキツいけど」

    谷繁は苦笑混じりに錠剤を水で流し込む。

    「これ飲むと下痢がキツいっすよね」

    「おい後藤、まだ食事中だぞ」

    うどんを口へ運びながら、佐野が一喝する。

    「いや佐野補佐、ほんと洒落にならんのですよ。谷繁課長もそうでしょ」

    「だから食事中だと言っとるだろ」

    小さな笑いが漏れる。

    その笑い声を、佐野はどこか久しぶりに感じていた。

    そんな穏やかな昼食のあと、最初の問題が発生した。

    「本日十四時到着予定の群馬方面からの移送ですが……」

    若い職員が言葉を詰まらせる。

    「移送人数六名に対して、実際には八名が到着しています」

    思わず息が止まる。

    「……名簿は」

    「確認しました。二名については、移送リストに記
    載がありません」

    沈黙が落ちた。

    それは“誰なのか”ではなく、“どう処理するのか”
    を考える沈黙だった。

    我が子を助けたい一心で、移送業者に金を握らせ、移送枠へねじ込んでくる。

    そんなことは、最初から誰もが想像していた。

    だが、いざ現実に起きると、どう対処すべきなのか分からなかった。

    その日の夕方、副市長名義で緊急招集がかかった。

    対象は、防災安全課、市民課、それぞれの部長、課長、課長補佐。

    議題は明記されていない。

    だが、誰もが“あの二人”の件だと理解していた。

    防災安全課部長の山之内が、開口一番切り出した。

    「本日、皆さんもご存知の通り、群馬 方面より移送された名簿未登録者二名について、対応を協議したいと思います」

    短い沈黙が落ちる。

    すると、防災安全課課長補佐の山岸が口を開いた。

    「ルールに則って、送り返したらええと思います」

    市民課の谷繁課長が、椅子にもたれたまま口を開く。

    「それって、人道的にどうなの」

    会議室の空気がわずかに揺れる。

    「僕はね、こういう状況、いつか起こると思ってたのよ」

    とっさに市民課部長の石塚が制止に入る。

    「そんなことしたら、どうなるかわかっとるのかね」

    谷繁は小さく息を吐いた。

    「わかってないわけないでしょ」

    会議室の視線が集まる。

    「でもですよ、自分に関係ないから、そういう判断になるんですよ」

    谷繁は机の上の資料へ視線を落としたまま続ける。

    「もしこの二人が、自分の知ってる子だったら。……例えば、自分の子供だったら、どうです?」

    石塚が、苛立った様子で答える。

    「それを考え出したら、我々の仕事は成り立たんよ」

    谷繁は黙ったまま視線を落とす。

    「もうな、綺麗事だけでやっていける状況ではないんだよ」

    谷繁はなおも食い下がる。

    「しかしですよ。ここまで来るにも、命懸けで移送されてきてるんですよ」

    会議室の空気が重く沈む。

    「それを送り返すとなると、移送用の延命装置は片道分しかない。……それ、見殺しにするのと同じですよ」

    「総合病院での受け入れは、確かに難しいでしょう」

    沈黙の中、市民課課長補佐の佐野が静かに口を開く。

    「ですが、個人病院で設備の整っているところはありませんか」

    会議室の視線が一斉に集まる。

    「代替的な受け入れ措置としてなら、対応できる可能性はあるかもしれません」

    「しかし佐野、それをやってしもうたら、もう後には引き返せんぞ」

    山下が、詰め寄ってくる。

    会議室の空気が張り詰める。

    谷繁は誰にも見えないよう、机の下でそっと親指を立てていた。

    副市長が静かに口を開く。

    「……佐々木課長はどう思いますか」

    防災安全課課長の佐々木は、しばらく黙ったまま資料に目を落としていた。

    「私は、山下さんの意見に賛成です」

    副市長は、小さく息を吐いた。

    どこか吹っ切れたような表情だった。

    「残業を強いる形になって申し訳ありませんが、今から個人病院の受け入れ先をあたってもらえますか」

    会議室がざわつく。

    「副市長、本気ですか」

    山下が思わず聞き返す。

    「はい。本気です」

    副市長は迷いなく答えた。

    「知識なき行動が危険なのは理解しています。しかし、行動なき知識は無益です」

    静まり返った会議室に、その声だけが響く。

    「何より、未来ある若者を放棄することなど、私にはできません」

    副市長は全員を見渡した。

    「責任は、私が取ります」

    この会議に参加していた全員が、同じ気持ちだったことは言うまでもない。

    それからの対応は迅速だった。

    宇都宮市内にある個人病院は約三百。そのうち、二十床以上を備えた病院は三十か所。

    防災安全課と市民課が手分けして連絡を取り、受け入れ先の確保に動いた。

    幸い、設備条件を満たした病院がすぐに見つかり、緊急受け入れ先からの移送も滞りなく完了した。

    ひとまずは、事なきを得た。

    その日の帰りだった。

    後藤が、市役所から数百メートル離れた路地裏で襲われたのは。

    奪われたのは財布でも携帯でもない。

    支給された抗線維化薬だけだった。

    行政職員にのみ支給されていることは、本来機密事項のはずだった。

    どこから情報が漏れたのか。

    後藤は、目元に青痣を作り、口の端を切ったまま椅子へ腰掛けていた。

    「まあ、奴らも必死なんでしょ。気持ちは分かりますよ」

    後藤は腫れた口元を気にするように指で触れた。

    「だからって、いきなり襲わなくてもいいのになあ」

    乾いた笑いが漏れる。

    「今ごろ副作用でピーピーになってればいいんですよ」

    そう言って笑っていた後藤の姿を佐野が見るのは、それが最後となった。

    食堂で生温いうどんをすすっていると、背後から話し声が聞こえてきた。

    「市民課の後藤、自作自演なんじゃねぇの」

    「ありえる。抗線維化薬なんて、今いくら出しても欲しいやついるだろ」

    「金なんて、もう何の役にも立たないのにな」

    乾いた笑い声が混じる。

    「そんなはずがあるわけないだろ」

    その言葉は、うどんと一緒に喉の奥へ流し込まれていった。

    昼間の噂話が、頭から離れなかった。 
    ふと、後藤のことを考える。

    ──あいつ、結婚してたよな。

    長い付き合いなのに、嫁さんのことも、子供のことも、何ひとつ知らない。

    ふと顔を上げると、後藤がいつも座っていた席が目に入った。

    今、警察はこんなことで動いてはくれない。

    生きているのか、それとも──。

    綺麗に片付けられた机だけが、そこに残っていた。

    「佐野くん、ちょっとこっちに来てもらえるか」

    課長の谷繁に呼ばれ、小会議室へ向かう。

    扉が閉まると、谷繁は資料を机に置いた。

    「後藤くんの件なんだけどね。DX推進課から少し気になる報告があってね」

    一拍置いて、続ける。

    「彼のパソコンだけど、大量のファイルが削除されているらしい」

    佐野の指先がわずかに止まる。

    「今、共有サーバー側でバックアップを取っているところなんだけど……」

    谷繁は視線を上げた。

    「この件について、佐野くん。何か知ってる?」

    「自分は、何も……」

    佐野が言いかけると、谷繁は軽く手を振った。

    「まあ、そうだよね」

    小さくため息をつく。

    「部下の問題行動はね、我々上に立つ者の管理監督責任が問われる可能性があるから」

    資料を閉じながら続ける。

    「少なくとも、訓告くらいは覚悟しておいてね」

    後藤は、何のファイルを消したのか。
    なぜ襲われた直後に姿を消したのか。

    それを解明する手立ては、我々には持ち合わせていなかった。

    「DX推進課か……」

    佐野は、思い当たる顔を頭の中に浮かべていた。

    佐野の仕事は、移送者の受け入れだけではない。

    維持不能区域の視察も行わなくてはならない。

    まだ全てのインフラが止まったわけではないため、今日は群馬県高崎市まで足を伸ばしていた。

    高速道路に車はほとんど走っていない。
    対向車とすれ違うことも稀だった。
    かつてサービスエリアだった建物は閉鎖され、駐車場には雑草が広がり始めている。

    高崎市役所に着くと、会議室へ案内された。

    廊下を歩きながら、佐野は違和感を覚える。

    静かすぎる。

    かつてなら来庁者や職員が行き交い、電話の音が絶えなかったはずだ。

    だが今は違う。

    市民課の窓口は半分以上が閉鎖され、番号札の発券機には「受付休止」の紙が貼られている。

    税務課、福祉課、子育て支援課。

    扉は開いているが、人影はまばらだった。

    「高崎市役所、市民課課長の小野寺です」

    こんな時代になっても名刺交換はするのだと、少し滑稽に思いながらも名刺を差し出す。

    「栃木県宇都宮市役所、市民課課長補佐の佐野と申します。本日はよろしくお願いします」

    形式的な挨拶を終えると、小野寺は苦笑した。

    「いやぁ、こんなご時世になっても名刺だけは無くならないですね」

    「本当ですね」

    会議は和やかな雰囲気で始まった。

    「K地区の件ですよね。しかし、またどうして?」

    小野寺は笑顔を浮かべながら尋ねた。

    「私、移送対象者の受け入れ管理を担当しているんですが、K地区の方々だけ移送を拒否されていまして。もちろん任意ですので問題はないのですが、どうしても気になりまして」

    「なるほど」小野寺は頷く。

    だが、その表情はどこか腑に落ちていないように見えた。

    「それだけの理由で、わざわざ宇都宮からですか」

    「ええ。今後の参考にもなりますので」

    我ながら苦しい言い訳だと思った。

    小野寺と彼の部下である若林、そして私の三人でK地区へ向かうことになった。
    市役所の公用車に乗り込み、高崎市街を抜けていく。
    運転席には若林、助手席に小野寺。私は後部座席に座っていた。

    二人は地域の人口推移や道路状況について話していたが、内容はほとんど頭に入ってこない。

    後藤のことを考えていた。

    襲撃された件も、削除されたデータも、復元されたファイルも、どれ一つとして憶測を超えることができなかった。

    結局のところ、何一つ確証が持てない。

    ただそれを確かめるためだけに、ここまで来ている。

    窓の外へ視線を向ける。市街地を離れるにつれ、車窓に映る家々の間隔は少しずつ広がっていった。

    形式だけの訪問は、今回の目的となる一件を残すのみとなった。

    住宅地から少し離れた場所に建つ平屋の前で足を止める。

    玄関の前に立ち、インターホンを押す指がわずかに揺れた。

    ここに来れば何か分かるかもしれない。

    そんな期待だけで、この家の前に立っていた。
    ビーという呼び出し音が鳴る。

    しばらくして玄関が開いた。

    一人の老女が姿を現す。

    「こちら、後藤静香さんのお宅でお間違いないでしょうか」

    「はい」

    「私、宇都宮市役所市民課の佐野元晴と申します。今回の五都市移住計画について確認したいことがあり、ご訪問させていただきました」

    名乗りながら改めて老女の顔を見る。

    後藤。

    そう思った途端、目元や口元に見覚えのある面影が浮かび上がった。

    「あらあら、息子がいつもお世話になっています」

    老女はほっとしたように頬を緩めた。

    「さ、どうぞ。あんまり綺麗じゃないんだけど」

    そう言って玄関の戸を大きく開ける。

    私は思わず言葉に詰まった。

    「何か息子がご迷惑でも?」

    「いえ、そういう話ではありません」

    「立ち話もなんですから、どうぞ」

    家に上がり、居間へ案内された。

    壁や棚には家族写真がいくつも飾られている。

    その中の一枚に後藤の姿を見つけた。

    職場で見るより幾分若い顔で笑っている。

    「こんなご時世だからねえ。お茶もろくなものじゃないけど」

    「お気遣いなく」

    静香さんは向かいに腰を下ろした。

    「それで、移住の件でしたっけ?」

    「実は移住の件以外にもお聞きしたいことがありまして」

    「後藤舞衣さんというのは、後藤明正くんの……」

    「はい、私の孫です。舞衣ちゃん、大変みたいやねぇ」

    その後は形式的な確認を終え、後藤家を後にした。

    小野寺に夕食へ誘われたが、仕事が立て込んでいることもあり、丁重に断った。

    そのまま宇都宮へ向かう。

    帰りの車の中で、自然と今までのことを整理していた。

    二人の子供が名簿外で移送されてきた時の名簿には、後藤舞衣の名前があった。削除された創生会宇都宮病院の移送名簿には、その名前がない。

    復元されたファイルには、抗線維化薬の申請記録と、その改変履歴。

    そして、姿を消した後藤。

    状況は一つの道筋を示している。

    だが、それが真実かどうかは分からない。

    これ以上の余計な詮索は無用だと切り捨てた。

    窓の外へ視線を向ける。

    夕日に照らされた高速道路が、どこまでも続いていた。

    流れていく景色を眺めながら、私は後藤のことを頭の隅へ追いやった。

    車は宇都宮へ向かって走り続ける。


    第五話 グランドジェネレーション


    病室の窓から見える青葉は、風に揺れていた。

    人工肺から解放され、自分の足で立っている。

    病棟の廊下では、車椅子に乗った老人たちが静かに通り過ぎていく。

    私たちは、あの人たちに生かされた。

    胸の傷がチクリと痛む。

    「後藤舞衣さん、検査の時間ですよ」

    ある出来事がこの胸のキズのきっかけになっていることを、私は知る由もなかったーー

    その日のことは、私の叔母から聞いた。

    生き残った医師だけで構成された臨時のオンライン会議が開催されていた。

    参加者は全国の呼吸器内科医、呼吸器外科医、移植外科医。

    オンライン上には各地の病院名が並び、多くの医師が開会を待っていた。

    モニターが切り替わる。

    分割された画面には、それぞれ一人ずつ医師の姿が映し出されていた。

    「それでは始めましょう」

    議長を務める男が口を開く。

    「参加者の確認は省略します」

    「また、本会議は記録されます。本会議で得られた結論は、今後の治療方針に反映される予定です」

    「現在の人工肺管理患者は、一都市あたり十六万人にのぼります」

    「病床使用率は百三十パーセントを超えています」

    「このまま推移した場合、三か月以内に人工肺管理体制は維持不能となります」

    「以上のことを踏まえ、本日の議題に入ります」

    議長は一度資料へ目を落とした。

    「若年患者に対する肺葉移植の実現可能性について」

    「城南大学大学院医学研究科元教授、北里柴三郎先生よりご説明をお願いします」

    モニターが北里だけを映し出す。

    「ご紹介に預かりました北里です」

    「まず結論から申し上げます」

    「現在の治療方針では、若年患者を救うことはできません」

    「現在の治療法に携わる先生方のご尽力には敬意を表します」

    「しかし、現実として患者数は増加を続けています」

    「抗線維化薬、人工肺管理、そのいずれも患者の命を繋ぐことはできても、根本的な解決には至っていません」

    「率直に申し上げます」

    「現在の治療は延命です」

    「この状況を打開するには、肺移植、もしくは肺葉移植以外に選択肢はありません」

    「移植には三つの問題があります」

    「一つ目はドナーです」

    モニターに年齢別生存率のグラフが映し出される。

    「ご存知の通り、若年層の多くは既に肺の線維化が進行しています」

    「そのためドナー候補は、比較的進行の遅い六十歳以上が中心となります」

    「結果として、若年患者へ高齢者の肺葉を移植することになります」

    「これは既存の移植医療において、ほとんど前例のない施術です」

    「二つ目は肺機能です」

    「今回想定しているドナーは六十歳以上の高齢者です」

    「当然ながら、加齢による肺機能の低下が考えられます」

    「移植が成功したとしても、レシピエントが発症前と同等の運動能力を取り戻すことは難しいでしょう」

    モニターに肺機能予測値が表示される。

    「あくまで救命を目的とした移植です」

    「完全な機能回復を保証するものではありません」

    「三つ目は適合です」

    「他人間移植は現実的ではありません。血縁者を前提とした制度設計が必要となります」

    「従来基準では適合率は一%程度に留まり、制度として成立しません。」

    「しかし、本疾患患者では移植後の拒絶反応率低下が確認されています。」

    「そのためHLA適合基準の見直しが可能と判断しました」

    「試算では適合率は約二十五%まで上昇します」

    北里は一度言葉を切った。

    「そして、本提案は机上の空論ではありません」

    モニターに新たな資料が表示される。

    「ラットによる実証は確認済みです」

    「倫理委員会承認前のため臨床試験は未実施ですが、適合症例の選定は完了しています」

    分割された画面の向こうで何人かの医師が顔を上げた。

    「レシピエントは十三歳女性」

    「ドナーは二名」

    「私、北里柴三郎、七十二歳」

    「そして患者の父方祖母、後藤静香、六十九歳」

    「血液型、HLA型、胸腔容積」

    「全て適合条件を満たしています」

    「私は、自分が長生きしたいために研究を続けてきたわけではありません」

    北里は静かに画面を見据える。

    「次の世代へ命を繋ぐために、この人生を捧げてきました」

    一拍置く。

    「本提案には倫理的な問題があります」

    「高齢者の身体に負担を強いることも事実です」

    「しかし、若年世代なくして社会は成り立ちません」

    「医療も、物流も、行政も、いずれ維持できなくなるでしょう」

    「我々は患者を救う職業です」

    「だからこそ、私は若年患者に対する高齢者ドナー肺葉移植制度の導入を提言します」

    チャット欄は賛否に分かれていた。

    北里は一瞥しただけで退席ボタンを押す。

    「相変わらず無茶ばかりね、兄さん」

    白衣姿の女性が呆れたように首を振る。

    「当たり前だろ」

    北里は椅子の背にもたれた。

    「孫のためなら命も賭けるさ」

    創生会宇都宮病院呼吸器外科部長の早坂恵が深いため息をつく。

    「……やるしかないわね」

    会議から数日後。

    創生会宇都宮病院には全国各地から医師が集結していた。

    制度の成否を見届けるために訪れた者。
    実際に移植チームへ加わる者。

    日本初となる高齢者ドナー肺葉移植に、病院全体が異様な緊張感に包まれていた。

    「ドナーからの肺葉結合完了。血流を再開します」

    クランプが外される。

    暗く沈んでいた肺葉に血液が流れ込み、みるみるうちに桜色へと変わっていく。

    「血管吻合部からの漏血なし」

    「肺の色、良好」

    「換気も問題ありません」

    モニターを見つめていた医師たちの表情がわずかに緩む。

    「ECMO流量を下げます」

    手術室に再び緊張が走った。

    移植された肺葉がゆっくりと膨らみ、そして縮む。

    「酸素飽和度、維持」

    「血圧安定」

    慎重にECMOが停止される。

    誰も口を開かない。

    数秒にも満たない時間が、永遠のように感じられた。

    「……自発呼吸を確認」

    麻酔科医がモニターから目を離さず告げる。

    「ECMO離脱成功です」

    張り詰めていた空気が一気に解けた。

    手術室のあちこちから安堵の息が漏れる。

    「呼吸状態良好」

    「酸素化も問題ありません」

    早坂は肺の状態を最後に確認すると、小さく息を吐いた。

    「胸部縫合、お願いします」

    重たい瞼をゆっくりと開く。

    白い天井がぼやけて見えた。

    規則的な電子音。

    鼻を刺す消毒液の匂い。

    「……兄さん」

    聞き慣れた声がする。

    視線を向けると、恵がベッドの横に立っていた。

    「無事終わったわよ」

    北里は小さく頷いた。

    それだけ確認すると、再び目を閉じる。

    口元はわずかに緩んでいた。

    「後藤舞衣さん、検査の時間ですよ」

    診察室では、担当医がモニターに映し出された画像を見ながら頷いた。

    「昨日まであった白いモヤもだいぶ落ち着いてきてるね」

    「タクロリムスのトラフ値は十二をキープ。よし、拒絶反応は抑え込めている」

    採血結果の用紙をカルテに挟み込む。

    「退院までは後少し採血が続くけど、一緒に頑張っていこうね」 

    その言葉は、ただの診察の一場面として記録された。

    だがこの症例は、後に医療の在り方そのものを変えることになる。

    高齢者ドナーによる肺葉移植は制度化され、国は静かに舵を切った。

    高齢者により、若者たちに一時の希望がもたらされ、半年が経過しようとしていた。

    「老人の肺細胞の寿命(テロメア)と、若者の暴走する代謝スピードを計算した結果だ。予測される機能維持期間は……約三百六十五日」

    モニターに映し出された数式を前に、医師は淡々と続けた。

    「どれほど強力な免疫抑制剤を用いても、その限界は変わらない。およそ一年後、この肺は静かに沈黙する」

    窓の外では、白い光が街を覆っていた。

    雪とも雨ともつかない粒が、静かに地面へ落ちていく。

    ただ、音もなく世界だけがゆっくりと冷えていくようだった。

     
     
    短編小説を書いています。 日常の中の変なことを書くことが好きです。 感想いただけると嬉しいです。

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