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ろろろのめ第43回 現代の「エディントン」を生き抜くための、淡々とした生活というレジスタンス

    現代の「エディントン」を生き抜くための、淡々とした生活というレジスタンス

    ​映画『エディントンへようこそ』とアリ・アスター氏の言葉を軸に、現代の狂騒から距離を置き、「生活」を守り抜くための生存戦略を以下にまとめてみる。


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    2025年12月12日に日本公開された『エディントンへようこそ』



    渡辺 人生は歩きスマホ。
    「井の中の蛙大海を知らず」といいますが、
    井の中ですら広いのに、大海など知ってどうする!?
    小橋 もう聞いちゃダメです
    渡辺 溺れるにきまってる!
    小橋 この人説得力だけがあるんですよ
    渡辺 いいですか皆さん、現実よりインターネットを見ましょう。
    科学者よりインフルエンサーを信じましょう。
    ご存じかな?自民党はありません!

    M-1グランプリ2025でのドンデコルテの漫才より




    1. 現代の「銃」としてのスマートフォン

    ​アリ・アスター氏はインタビューにおいて、現代社会におけるスマートフォンの存在をかつての西部劇における「銃」になぞらえ、次のように語っている。

    ​「私はあの装置が私たちの生活とどれほど深く結びついているかを強調したかったんです」

    「現在の多くの映画作家が、かつてのように自分たちが生きているこの社会を強く反映させた映画を作ることを避けているのは、端的に、それが不快だからだと思います」

    ​SNS上で飛び交う引用RTやリプライでの「正論」は、対話ではなく集団リンチの合図であり、スマホを向ける行為は銃の引き金を引くことと相似形を成している。140字の断片的な言葉は、見知らぬ他者が自身の「正義」や「ナラティブ(物語)」を補強するための弾丸として利用され、一日のうちに情勢が正反対に塗り替えられる。この加速しすぎた「不快なリアリティ」こそが、現代の地獄の本質である。

    https://press.moviewalker.jp/news/article/1313378/


    ​2. 凶器化する「共感」と「連帯」への警戒

    ​かつては美徳とされたシンパシー(共鳴)やエンパシー(共感)さえも、SNSという増幅器を通せば、キャンセルカルチャーや集団リンチの燃料に変質する。特定の主張に過剰に同化し、誰かと安易に連帯することは、時に対立陣営へ銃口を向ける大義名分を与えてしまう。感情を揺さぶられ、特定の物語に自分を預けた瞬間、個としての自律は失われ、システムの歯車に組み込まれることになる。

    ​3. 「冷笑」ではなく「傾聴」という距離感

    ​SNSで飛び交う無数の断定や罵詈雑言に対し、取るべき態度は「参戦」でも「冷笑」でもなく、ただの「傾聴」である。

    相手を論破しようとせず、かといって単に無視するのでもなく、「今、この世界ではこのような音が鳴っている」と、現象をそのまま観察対象として聴き届けることが肝要である。特定の陣営に属さず、物事を俯瞰で見つめ、安易な結論を出さずに宙吊りの状態を維持する。この冷徹なまでの距離感こそが、情報の銃弾をすり抜けるための防壁となる。

    ​4. 究極の自衛としての「淡々とした生活」

    ​アリ・アスター氏は、多くの映画作家が不快な現実から目を背けてノスタルジア(懐古主義)に逃げていると指摘するが、現代において真に守るべき聖域は、過去ではなく「今ここにある生活」である。

    ​生活の独立性:

    スマホの画面内でどれほど人格が否定されようと、目の前の食事の味、部屋の温度、明日の仕事といった「生身の生活」のリアリティは1ミリも揺らがない。

    ​静かな抵抗:

    誰の物語にも乗らず、誰とも連帯せず、ただ淡々と日々のルーチンを全うすること。ネット上の虚像に自身のリソースを1秒も渡さないこと。

    ​5. 「生活」と「表現」の相克、そして選択

    ​一方で、何かを成し遂げようとする意志の先には、別の苛烈な現実が横たわっている。2025年12月14日、15日に放送された「情熱大陸」にてミュージシャンのVaundy氏が、曲作りにおいて「まず最初に捨てるものは生活」と述べ、世に出ている表現者を「全員、屍」と形容したように、突出した成果を求める道は、自らの「生活者としての平穏」を差し出すことを意味する。

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    これは誰かに強制されるものではなく、本人が自らの欲望としてそれを欲し、「働いて働いて働いてまいります」と自らを追い込んでいく欲望の肯定である。何かをやり遂げるために「屍」になることを選ぶか、あるいは生活者として物事を傾聴し、正気のまま淡々と生き続けるか。現代という時代は、常にこの二つの極端な在り方の間での選択を突きつけている。

    ​結論として、現代の「エディントン」を生き抜く術は、スマホという銃を置き、生活という地面に足をつけ続けることに集約される。画面を消した後に残る静寂と、自身の呼吸。たとえ「屍」となる道を選ばずとも、情報の濁流に飲み込まれず、ただ淡々と日々を過ごすことは、それ自体が狂乱した時代に対する最もタフで誠実な回答となるのである。


     
     
    音楽、映画、株、経済、社会などを中心とした情報の交差点的雑多noteです。よろしくです。フジロック、サマソニ、edc、RSR、アラバキ、CDJに参加経験あり。ジャンル関係なく年代関係なく聞く音楽Bitch。よりChaosに。基本は海外の音楽と映画中心。オルタナティブキュレーター。

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