
岩波文庫・アラン『幸福論』(61)ー死者たちの祭儀・Le culte des mortsー
死者のための祭儀のことが書かれてある。
日本のお盆やお彼岸のようなものかもしれない。書かれたのは11月8日、年末の儀式のようである。 太陽が我々を見捨てていることがはっきりわかる時期に死者の祭儀は置かれている、と書いてある。冬至の近くなのだろうか。
枯れた花、赤や黄色の枯葉、長い夜、黄昏のような物憂い日々、 そういったものについて書かれてある。
フランスは北の方にあるかもしれないから、ちょっとすると冬の期間、日の照る時間も短いのかもしれない。
年の暮れのことである。
一日の終わりのようであり、一生の終わりのようでもある。未来が示すのは夜と眠りだけ。 そして、そのような季節には、死者の霊を呼び出し、語りかける人が少なくない、そう書いてある。
死者をどうやって呼び出すのか。ユリシーズは食べ物を供えた。花や花輪で飾られた墓、それらは過去の人のイマージュを思い起こさせる。
死者たちは死んではいない、死者たちは生きている。 死者たちが死んではいない、 そのことは確実なことである。
なぜ?
私たちが生きているということで、死者たちはまだ考え、語り、また行動している。私たちとつながって、死者たちは生きているのだ。
死者たちは助言し、欲し、承認し、私たちを非難することができる。それらに私たちは耳を傾けなければならないのだ。
私たちの中に死者はまだいる。私たちの中で確かに生きているのだ。
自分たちの中に死者が生きているということは、死者たちが自分たちの中に存在しているということである。
ならば、自分の中にいる死者のことを墓に行って考えるのは意味のない、無駄なことなのだろうか。
日常生活で自分自身のことを真剣に考えることはほぼない、とアランは言っている。
ささやかなことについて考える、敬虔な気持ちになる、死者を真実の姿でとらえる、そういうことは普段はしにくいことだ。
だから死者の祭儀には、価値がある。
死者の助言についても出てきている。
死者たちの助言の力は偉大な人間的な事実である。死者たちはもう存在していない。だけど私たちは周囲の世界とぶつかり合って、それと対話し、応答することで、死者と会話することがある。自分で誓ったことを、何回も死者たちと会話する。死者たちの過去の姿と、死者たちの望むことを考え起こし、考え直すことは価値のあることである。
死者たちはなお生きようとしている、あなたの中で。あなたの生を通して死者たちは生きている。
こうして死者の祭儀のために墓地を訪れることで、死者たちが冬を飛び越えて春へと至る道を開いてくれるのである。一陽来復という言葉があるが、めぐりゆく季節と循環のことをここでは書いてあるのかもしれない。
リラの幹のことが書いてある。葉っぱの落ちかけたリラの木の幹に、リラのつぼみが既に宿っている。 若葉の季節にまで至る、その芽吹きが既に宿っているのだ。
死者のことを、自分のことを、脈々とつながる時間の流れのことを考えることで、死者を思い越し、自分の人生を豊かにすることができる。 死者と自分との対話で人生をより良いものにしていく。
ここでは、過去を振り返り、死者と交流するとともに、内省し、自省することが書いてあるのではないだろうか。