『銀河鉄道の夜』で死に損ない『伝道の書』と出会い、僕は生きようと思った。
生きる理由
「死のうと思った。」
これは太宰治のデビュー作『晩年』の有名な一文だ。
これは、
「お兄さんから着物をもらった。夏物だった。だから夏まで生きようと思った。」と続く。
そんな簡単な理由で生きることができるのかと思った。
自殺するには絶望や借金や、これ以上生きることはできないという、大きな理由がいる。そして決意も居る。
でも、生きるには、夏服一着もらうだけでその服を着る季節まで生きることができる。もっと簡単に言えば、帰りにコンビニに寄って美味しいスイーツを買って帰ろう。と思うだけで今日一日生きることができる。
死ぬ理由は大げさなのに、生きる理由は驚くほど小さい。
みんな明日の予定や、読みかけの本や、誰かとの約束のような、小さな理由で生き延びている。
晩年を始めた読んだとき、確か二十歳くらいだっと思う。その年齢ではわからなかったけど、人は案外、大きな希望では生きていないということが、年を重ねわかるようになってから、太宰の文章の凄さがより分かるようになった。
人は生きたくて生きているのではないし、生きる意味があって生きているのでもない。何か使命があって生きているわけでもない。生きる意義をわかって生きているわけでもない。
みんななんとなく生きている。
死ななくてはいけないほどの理由がないから生きている。
僕も太宰と同じで死にたかった。
今年の正月休み、僕は死のうと思っていた。
50代になり子育てが終わったとき、
「もういいだろう」
どこからか声が聞こえたような気がした。
人として産まれてきて、種の保存という負うべき役割を果たしたのだ。
命あるもの、最大の使命は種の保存だ。
それは人間も他の生命も変わらない。虫も魚も人間も同じだ。
役目を果たした。もう十分だ。
そこから、3年生きた。
いよいよ生きる気力が尽きた。
生きていてもやることがないのだ。
夢も希望もない。
なにかしたいこともない。
行きたい場所もない。
会いたい人もいない。
食べたいものもない。
やり残したこともない。
生きてきて、成し遂げたことはなにもないけれど、
日々淡々とやるべきことをこなしてきただけだけど、
でも、誰かに迷惑をかけた人生でもない。
十分な人生だと思う。
死んだら残された人たちに迷惑をかけるじゃないか。
それは確かにそうだろう。
でも、後30年生きたら、子供たちに介護で迷惑をかけるかもしれない。
それを思うと死は早い方が良くないか。
それでも、怒る人もいるだろう。
でも、もう、無理なんだ。
やることもなく生きる。
空虚。むなしい。暇。退屈。
疲れた。
もう生きられない。
銀河鉄道の夜
今年の正月休み。
死に場所を見つけておき、器具なども用意した。
遺書などは何も用意しなかった。
書く気力もなかった。
死に場所に向かった。
冬、寒さの中、時間を過ごした。
あっと言う間に時間が過ぎた。
明るかった景色もすっかり暗くなっていた。
そろそろ、行こうか。
最後に一本タバコを吸おう。
カバンからタバコと缶コーヒー出した。
最後の一本、最後の一缶。
一番好きなもの、タバコと缶コーヒー。
一番好きな時間、缶コーヒーを飲みながら煙草を吸う時間。
最後はこれと決めていた時間。
缶コーヒーはすっかり冷めていたけれど、それでも缶コーヒーを一口飲み、タバコを一服する。
この時間は最高だ。
これ以上の幸せはない。
思い残すことは何もない。
さてと、お尻を上げた。
視界に電車が走るのが見えた。
この場所は高台にある。電車はその視線の先にあった。
その電車は空中を走っていた。
少し驚いたが、なんのことはない。
モノレールだ。
モノレールは地上ではなく、空中に線路を敷きその上を電車が走る。
暗闇から眺めると車体の光のみが見え、空中を走っているようで幻想的だ。
美しい。
カムパネルラとジョバンニが真の幸いを求めて旅をした銀河鉄道の夜を思い出した。
僕も乗ってみたい。
うっとりとした気持ちになる。
真の幸せってなんだだろう。
カムパネルラは旅を続けてわかったのだろうか。
家族と過ごした時間や必死に働いた時間を思い出した。
どれも、真の幸いとは違うように思う。
50年ほど生きてきたが、時間が過ぎただけで何もわからなかった。
僕は愚かなのだろう。
そんなことを思っていると、またモノレールが視界の中を走っていった。
カムパネルラとジョバンニに会えるかもしれない。
「僕も、真の幸いとは何かを知りたいのです。50年生きてきたけど、生きる意味も産まれてきたわけも何も分かりませんでした。僕も一緒に旅してはいけませんか」と、二人に話しかけたかった。
寒さで意識が混濁していたのだろうか。
僕の足はモノレールの走る線路へと向かった。
生きたいわけではないけれど、体が自然にモノレールの方に向かい歩き出していた。
窓から地上の景色を見ると銀河鉄道に乗っているようだ。
モノレールの車内はひっそりとしていて、乗客の皆はうつむき目を瞑っているか、スマホを眺めるかしていた。
でも、カムパネルラもジョバンニもいない。
意識が現実に戻ってきた。
数駅乗り、適当な駅で降りた。
駅の自販機で温かい缶コーヒーを買った。
喫煙所を探し、缶コーヒーを一口飲んだ、冷えた体に缶コーヒーのぬくもりが沁みた。僕の身体は冷え切っていた。
タバコに火を点けた。煙が肺に入る。うまい。
あぁ、生きているんだな。
そのまま家に帰った。
日常に戻った。
正月の休暇が終わり、仕事に戻った。
生きようと思ったわけではない。
でも、死のうとも思わない。
ただ生きている。
幸せではないが不幸でもない。
日々、時間が刻まれる。
その上を僕は淡々と乗っかかっているだけだ。
日々やるべきことを処理していく。
生きるとはそれだけのことなんだろう。
一切は過ぎていく。
真の幸せってなんだろう。
そんなものあるのだろうか。
生きる意味ってなんだろう。
そんなものあるのだろうか。
今も何もわからない。
今もたまに夜のモノレールが走っているのを眺める。
あの時を思い出す。
モノレールの中の雰囲気は現実のものとは思えない。
死と現実との狭間だったのだろうか。
降りなければ僕はあのまま死後の世界に行けたのだろうか。
そんなことを思ったりする。
死に損なった僕の延命理由
僕は死ななかった。
生き残った。
いや、死に損なっただけなのだろう。
そして今、僕は一つのことを行っている。
聖書の『伝道の書』を読み解くことだ。
この書は、聖書の中でも特に難解な書物として知られている。
冒頭にはこうある。
「空の空。すべては空である。」
太宰治の晩年に出会ったときと同じ気持ちだ。
素晴らしい。
伝道の書には、
何をしても空しい。
知恵を増せば悲しみも増える。
人は死に、時代は過ぎていく。
驚くほど救いのない言葉が並ぶ。
それなのに、僕はこの書物に惹かれている。
それは、この書は人生を簡単に肯定していない。
生きることを簡単に肯定しないない。
無理に希望を語らない。
それでも最後まで考えることをやめない。
だからこそ、信頼できる。
もしかすると僕は、生きる意味を探しているのではないのかもしれない。
ただ、人類が何千年も考え続けてきた問いに触れたいだけなのかもしれない。
太宰は夏物の着物をもらい、「夏まで生きよう」と書いた。
僕は「伝道の書を読み解けるまで」生きてみようと思う。
いや、違う。
正解などないのがわかっているのだから、ただ死ぬ理由を先延ばしにしているだけなのだろう。
何千年も読み継がれてきたものに、答えがあるはずもない。
それでも、自分なりに納得できるところまでは考えてみたい。
そして、もし何かを掴めたなら、案外人生は意味のあるものなのかもしれない。
そんな理由で、僕は生きている。
しかし、本当の目的は、伝道の書そのものではない。
その先にある問いだ。
人間とは何か。
なぜ人は生きるのか。
そして、AIが人間を超える時代に、その問いはどう変わるのか。
答えはまだ分からない。
だから、もう少し生きてみようと思う。
私はキリスト教徒ではない。
だから、正直に言えば、聖書に出てくる「神」をまだ理解できていない。
けれど、「神」という言葉がまったく分からないわけでもない。
近所の神社のお稲荷様なら分かる。
子どもの頃から見てきて、手を合わせてきた。
だから僕にとって神とは「そこにあるもの」だ。
伝道の書の最後には、こう書かれている。
「神を恐れよ」
恐れる神の意味を理解できない。
ただ、人生の空しさを語り続けた著者が、最後にこの言葉を残した理由は知りたいと思う。
考えることを諦めたのだろうか?
それとももっと、深く、根源的なものがあるのだろうか?
それを知るために、僕は読み続けている。
答えを得たわけではない。
むしろ問いは増えた。
だから、もう少し生きてみようと思う。
伝道の書の最後の一行を、本当に理解できると思える日が来るまで。
これが死に損なった僕の延命理由だ。
以上。
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