
愛という名の罠 あとがき「五十六日間のあとに残ったもの」
「愛という名の罠」──五十六日間、私は未来を信じていた──
もし美波が本当に存在していたなら。
このあとがきは、きっと書かれていなかった。
五十六日間、毎日のように鳴っていたLINEは、ある日を境に止まった。
何度画面を見ても、返事はなかった。
そこに残ったのは、最後に送った私の言葉だけだった。
その後に残ったのは、現実だった。
毎月の返済。
生活の立て直し。
そして、560万円という被害額。
数字だけを見れば、これは金銭被害の記録なのだと思う。
けれど、私の中では、それだけではなかった。
失ったのは、誰かと一緒に生きられるかもしれないという、未来そのものだった。
美波と出会った五十六日間、私は確かに恋をしていた。
朝の「おはよう」が嬉しかった。
夜の「おやすみ」に安心していた。
誕生日の午前零時に届いた歌を、何度も聞き返した。
南葛町で会う約束を信じていた。
四月から一緒に暮らす未来を、本気で想像していた。
だから、あの五十六日間を、ただの嘘だったとは簡単に言えない。
相手が嘘をついていたとしても。
画面の向こうにいた人間が、私の想像していた美波ではなかったとしても。
私がその時に感じた喜びや、ときめきや、希望まで、なかったことにはできない。
私は、あの時間の中で本気で誰かを愛し、未来を信じていた。
だからこそ、痛かった。
被害に気づいたあと、私は何度も自分を責めた。
なぜ気づけなかったのか。
なぜ止まれなかったのか。
なぜ、会ったこともない相手を信じたのか。
でも、今は少しだけ違う。
私は、ただお金を増やしたかったわけではなかった。
楽をして儲けたかっただけでもなかった。
誰かに必要とされたかった。
誰かを大切にしたかった。
誰かと一緒に、もう一度人生を作り直せるかもしれないと思いたかった。
五十一歳を前にして、もう遅いと思っていたものが、美波の言葉で少しずつ戻ってきた。
結婚。
家庭。
子ども。
旅行。
誕生日。
手料理。
お揃いのダウンジャケット。
その一つ一つが、私の中で失われていた未来に見えた。
だから、失った時の痛みは、お金だけでは済まなかった。
ロマンス詐欺は、お金だけを奪う犯罪ではない。
判断力を奪う。
人を信じる力を奪う。
未来への希望を奪う。
そして何より、自分自身を責めさせる。
「自分が悪かった」
「自分が馬鹿だった」
「こんな年齢で恋なんかしたからだ」
そう思わせる。
けれど、そうではない。
悪いのは、信じた人間ではない。
人の孤独や優しさや、未来を願う気持ちを利用した側だ。
被害から、まだ半年余りしか経っていない。
借金は残っている。
返済も続いている。
それでも今は、被害直後の自分より、少しだけ前を向いている。
フィットネスジムにも、また通い始めた。
婚活も、また始めた。
最初は怖かった。
また誰かを信じていいのか分からなかった。
画面の向こうの言葉を、以前のようにそのまま信じることは、もうできない。
お金の話が出れば、立ち止まる。
甘すぎる言葉にも、距離を置く。
でも、だからといって、誰かを信じることそのものを諦めたくはなかった。
一人の相手に騙されたからといって、この先出会うすべての人を疑って生きる人生にはしたくなかった。
信じることと、疑わないことは違う。
優しさを受け取ることと、自分を明け渡すことも違う。
私は、その違いを痛みの中で学んでいる途中なのだと思う。
今でも、ときどき考えることがある。
もし南葛町で会えていたら。
もし誕生日の夜、隣に彼女がいてくれたら。
もしあの五十六日間が、すべて本物だったなら。
美波が本当に存在していたのか。
あの声の主は誰だったのか。
答えは、もう分からない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
あの五十六日間、私は本気で誰かを愛し、もう一度人生が変わると信じていた。
その事実だけは、誰にも奪えない。
これは、560万円を失った記録である。
けれど、それだけではない。
誰かを信じ、未来を見て、そして失った人間が、もう一度立ち上がろうとする記録でもある。
──五十六日間、私は確かに美しい未来を信じていた。
その未来は、訪れなかった。
それでも今は、もう一度だけ未来を信じて生きてみようと思う。
『愛という名の罠──五十六日間、私は未来を信じていた──』を最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
全話収録:愛という名の罠