SNSでのコミュニケーション―意味論から空間論(配置・距離・接続性)へ
本記事では、「先行ブロックが正当かどうか」ではなく、「先行ブロックという行為は本当に非接触なのか」という点を論じる。ここで扱うのは、ブロックにより「何も言われていないのに、なぜか何かを言われた感じがする」という現象である。
無言のクリックのはずなのに、そこには確かな声の気配が残る。
一例として、昨夜私は、あるアカウントにブロックされていることに気づいた。私はこのアカウントと直接のやりとりをしたことはない。
このアカウントのプロフィールには、「不快でしたらブロックしてください。自分と似た考えの方だと判断できない場合はフォローを避けています」と書かれている。
居心地のいい空間を維持したい
価値観の近い人とのみつながりたい
境界を引きたい
興味深いのは、価値観の異なる相手との接触を避けたいという姿勢が明示されている一方で、その手段としてブロックという操作を行い、一方向的に相手と「接触」している点である。
「この人の投稿を見たくない」と言いながら確かに見ている。そして、「あなたを見ました、あなたを判断しました、あなたを排除します」というメッセージを伝えに行っている。
視線を外したつもりで、なお視線の痕跡は残っている。
例えば、フォローしない、ミュートする、投稿を見ないといった選択は、主体の内部で静的に完結するため、「沈黙的な非接触」として理解できる。しかしブロックは異なる。排除のジェスチャーを用いて、動的に関係の遮断を明示してくる。その意味では、「発話的な接触」と理解できる。
私は、突如現れた扉の前で、音の意味を探す。
そこでは、「拒否した」「拒否された」という関係性が発生する。
ブロックをする側は、この三段階の宣告――見た、判断した、排除した――を発している。受け取る側に、「評価された感じ」「選別された感じ」をそっと残していっている。
何も起きていないようで、何かが切り替わる。
気配だけが、こちら側に届いてくる。
場合によっては、受け取る側に、身体感覚や感情反応を起こす構造が含まれている。つまり、ブロックは「自分側の環境設定」のみではなく、「相手側の行動・情動空間にも影響を与える設定」になっている。
ドキッ、とする。
皮膚が感じる――誰かが、私に触れて持ち上げ、遠くへ置き直したことを。
仮にタイムライン管理だけが目的であれば、ミュートや、フォローしない、リストの使用でも用は足りるだろう。それでもブロックが選ばれるとき、そこには、「あなたを見た上で判断した」という痕跡が残される。
ブロックにはもちろん、他にも様々な理由があるだろう。自分を見られたくない、関わられたくない、返信されたくない、そうした理由も理解できる。 ただ興味深いのは、ブロックという行為が完全な非接触ではないことだ。ブロックは非接触ではなく、関係の断絶を一方向的に伝えに行く機能を持ったコミュニケーションの一形態である。
距離を取ったはずなのに、あちら側からこちら側へと細い糸が張られる。
糸は振動し、耳元の紙コップを冷たいクリック音で震わせる。
オープンなコミュニケーションにおいては、「発話」に対して「意味」を返す。相手の存在と発話を認知し、また自分の存在と発話も明らかにする。結果、存在と発話の相互認知がある。一方、今回のケースでは、私の「発話」に対し、相手の「意味」は返されることなく(私とこのアカウントの間に直接的なやりとりはない)、代わりに、「選別」「拒否」「排除」が返されている。この非対称な応答形態を、どのように記述できるのだろうか。
このとき応答は、対話ではなく配置として現れる。相手の発話に意味を返すのではなく、相手の存在を「評価」し、「相手をどの位置に置くか決定」する。ここで重要なのは、ブロックは、「発話への応答」ではなく、「存在への応答」として機能している点である。この点で、ブロックという操作は一気に重みを持つ。
発した言葉に返ってきているのではない。
存在そのものの位置がずらされる。
端的に言えば、ブロックにおいて返されているのは、相手の発話への評価ではなく、存在への評価と、それに伴う関係の空間そのものの縮減である。
したがってこの現象は、「応答の不在」ではなく「応答形式の変質」として記述されるべきである。応答は消えてはいない。ただしそれは意味の交換ではなく、相手の存在を関係の空間のどの位置に配置するかという空間設計として行われている。
何も返ってきていないようで、すべてが変わっている。
声はなく、配置だけが動く音がする。
この視点を更に拡張すると、「コミュニケーション=空間の編成」という見取り図が見えてくる。 フォローは距離を縮め、ミュートは視界を外し、ブロックは接続可能性そのものを切断する。これらはすべて、誰がどこに配置されるかを変えている。SNS上の関係は、実生活と違い、発話の内容によって構成されるのではなく、相互の配置によって構成される空間である。
言葉ではなく、距離が語っている。
関係の座標軸だけが、ひっそりと書き換えられていく。
このときコミュニケーションは、意味の交換ではなく、関係の空間を編成する操作として現れる。ブロックは、空間上の相手の位置を動かす力として働く。
同じ空間にいながら、ある存在だけが持ち上げられ、遠くへ置き直される。 ブロックとは、相手の発話への意味の応答ではなく、相手の「位置」を関係空間から切り離し、再配置不可能な形にする操作である。 ここで重要なのは、「評価」「排除」「選別」といった意味はすべて、この空間操作の副産物になるという点である。つまり、意味が先行するのではなく、「空間の編成」が先行し、意味はその後から発生する。発話に対して意味ある応答はされていないのに、関係空間は変化している。そしてその変化が意味を発生させる。
発話に対し何かが言われたから距離が生まれるのではない。
距離が先に作られ、その距離が何かを語り始める。
この枠組みに立つと、ブロックされた側に残る「評価された感じ」「選別された感じ」は、位置の再配置に付随する意味の発生として説明できる。ブロックされた側に何も起きていないのに、何かが起きたように感じるのは、実際に再配置による変化が生じているからである。関係空間の中で、ある位置——アクセス不可能な位置——へと一方的に再配置されたことを、肌で知覚したからである。
それは、発話の交換ではなく、関係空間の再編成としてのコミュニケーションである。
そこには、物言わぬ配置だけが残り、意味が残響する。
Photo by Rick Rothenberg on Unsplash
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