
【短編小説】イレギュラーしか起こらない世界で、私は生き残れるのか
朝、目が覚めると、小学生になっていた。
鏡を見たら、知らない子供の顔があった。誰かに見られたら、この顔でちゃんと見えているのだろうか、と思った。でも記憶は私のままだった。高校の時間割も、昨日の電車の路線図も、全部覚えている。ただ身体が、どうしようもなく8歳くらいだった。特に驚かなかった。もうそういうことには慣れた。
高校の制服は当然入らなかったので、タンスの中にあった見覚えのない黄色いTシャツを着た。鞄も小さくなっていた。中身はちゃんと教科書だった。高校の教科書が、小さな手に余るサイズで収まっていた。
カーテンを開けると、太陽が西から昇っていた。道路は昨夜から30センチほど左にずれていて、通学路のコンビニが消えて古本屋になっていた。扉の前に猫がいて、その猫は私の顔を見るなり、流暢な標準語で「おはようございます」と言った。昨日も言っていた。猫だけが変わらない。
私は「おはよう」と返し、小さな鞄を持って外に出た。玄関に靴があった。小さくて、つま先のあたりが白く剥げていた。足を入れると少しきつかった。廊下を歩くとき、足音を立てないようにしている。それは今日に限ったことじゃない。リビングへの扉が、昨日より少し遠い気がした。背が縮んだせいか、世界が伸びたせいか、どちらでもいいことだけど。
今日も学校がある。たぶん。どっちの学校かはわからないけれど。
朝はキッチンには入らないようにしている。今日も、リビングから重たい何かが床を引きずるような音がしていたから。 お弁当と、私の分の朝ご飯は、昨日の夜のうちに作っておいた。リビングの気配が消えた隙に、火を使う音を立てないよう息を潜めて。それを持って、私は家を出た。
「普通」とはなんだったのか、もう誰も覚えていない。そもそも「普通」が存在したことを証明できる人間が、この世界に残っているかどうかが怪しい。
学校に向かう電車は、今日は空中を走っていた。線路が昨晩のうちに地面から剥がれ、大気中に浮かんだらしい。隣のクラスの男子が窓に顔を押し付けて「うわ、雲近い」と言っていた。私はイヤホンをつけた。音楽は流れなかったが、無音が心地よかった。
同じ部活の友達が、お弁当箱を開けると中から折り紙の鶴が7羽飛び出した、と昨日LINEで送ってきた。「また鶴だった。ご飯食べられなかった」 私は「それはつらい」とスタンプを返した。本当につらいと思う。お腹が空いたまま授業を受けるのは、普通の世界でも、イレギュラーだらけの世界でも、同じくらいつらい。——それは、よく知っている。
「生き残る」ということを、私はたまに考える。でも最近、考えるたびに「生き残る」の輪郭がぼやけていく気がする。テストで高得点を取ることが「生存」なのか。友達グループの中で浮かないことが「生存」なのか。この世界では、賢くいることが必ずしも正しい結果につながらない。空気を読んでも、読んだ空気ごとずれていく。
学校に着くと、担任の先生の席に先生がいなかった。代わりに、先生にそっくりな形をした影が椅子に座っていた。影は普通にホームルームを進めるし、普通に出席を取る。クラスメートは誰も気にしていない。私も気にしないことにした。どうせ数学は数学だ。
昼休みに屋上へ行くと、空に大きな文字が浮かんでいた。「あなたは今日死にません」。誰かへの通知なのか、全員への通知なのかわからなかった。隣で友達が、「ま!私たちの青春は死んじゃってるけどね!」と言って笑った。私も笑った。笑えた。それが今日、一番ちゃんとした感情だった。
お弁当を食べた。ちゃんとご飯だった。昨夜、リビングの主が寝静まるのを待って作った卵焼き。タッパーに取り分けてから、残りを自分の箱に詰めたものだ。
甘い味の卵焼きだった。
卵焼きは懐かしい味がすると言う人がいる。でも、懐かしい味とはなんだろう。
わからないけれど、それがちゃんと『卵焼きの味』をしていることを、今日の私は少しだけ奇跡だと思った。
イレギュラーが連続すると、やがてそれが新しい「レギュラー」になる。そうなったとき、私たちは何を基準に生きればいいのだろう。
——答えは出ない。だから今日も黄ばんだTシャツを着て、学校へ行く。
夜、家に帰ると、自分の部屋の壁が1枚増えていた。8畳だった部屋が2畳になっていた。狭くなったけど、なんとなく落ち着いた。積み重なった本と布団がある。大事なものはある。
もう一枚の壁の向こう、増えた部屋から、かすかに音がした。ドアを開けると、男の子がいた。小学校低学年くらいで、鮮やかな青いTシャツを着て、床に座って絵を描いていた。枕元に、新しそうなぬいぐるみが並んでいた。
男の子は私を見上げて、「おかえり」と言った。
私は「ただいま」と言って、散らかったクレヨンを端に寄せた。夕飯の前に片付けなきゃ、と思った。この子は私の弟なのかもしれない。この世界では、そういうことの説明を求めるのは野暮だ。この子のことを考えるとき、私はいつも次にすることを考えている。それ以外の考え方を、たぶん知らない。
男の子はすぐに絵に目を戻した。「お腹すいた」と言った。私は「わかった」と言った。この家で私に何かを言ってくれるのは、この子だけかもしれない。それが要求であっても、悪くないと思った。少しだけ。
私は静かにドアを閉めた。
シャワーを浴びると、お湯が出た。これは珍しかった。思わず、しばらくその温度を手のひらで受け止めた。右手の包帯を外すと、お湯がしみた。少しひりついたけど、気にしないことにした。湯気が白く立って、鏡を曇らせた。鏡に映った自分の顔が、ぼやけてよく見えなかった。でも輪郭はあった。私はいる。
私は生き残れているのだろうか、と布団に入りながら考えた。先生が「将来」がどうとか「立派な大人に」とか、そういう難しい話をするとき、私はいつもお腹のあたりがむず痒くなる。未来なんて、明日の朝に道が消えていないか確認するまでわからないのに。 でも今夜、私は布団の中にいる。呼吸している。隣の部屋で、弟が寝返りを打つ音がした。あの子はちゃんと眠れているだろうか、と思った。お腹が冷えていないかな、とか。思ってから、自分のことを後回しにしたことに気づいた。気づいただけで、特に何もしなかった。 本当は、私も誰かに布団を掛けなおしてほしいのかもしれない。そんなことを一瞬だけ考えて、すぐに消した。
たぶん、それが答えなのだ。生き残ることとは、正解を出すことではなく、今日という一日を持ち越すことなのかもしれない。完璧でなくていい。説明できなくていい。この世界では、誰も説明できないのだから。
目を閉じると、暗闇の中でかすかに音がした。廊下の、足音。一瞬だけ身体が固まった。でも通り過ぎた。私は息を吐いた。
明日の太陽が東から昇る音か、西から昇る音か。それとも全く違う方角から、誰も想定しなかった朝が来るのか。
わからない。でも、目を閉じながらも私は少しだけ待っていた。
その「わからない」を、ただの「わからない」として置いておける夜は、私はたぶん生き残っている。
——これは、壊れた世界に馴染んでいく、小学生の女の子の記録。