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エメラルドアイランド 

    #創作大賞2026 #お仕事小説部門

    あらすじ
     海来は、バルセロナで観光振興の仕事をしていたが、新型コロナの流行で帰国する。沖縄で観光振興をすることになり、職場で美羽に出会う。美羽と共に、琉球王朝時代からの独特な伝統・文化が残る地域を巡る旅が始まる。
    美羽は、祖父母、父、恋人を不慮の出来事で失っていた。美羽と海来は互いに惹かれていく。海来に予期せぬ災難が降りかかるが、不思議なことが起こり難を逃れる。
     バルセロナ、沖縄、トルコ、仕事に導かれる海来の人生。美羽の家族の悲しい出来事、悲しみを乗り越えて力強く生きる家族、海来と美羽の恋。琉球王朝からの特異な歴史を辿る島、地域に備わる固有の資質、海来たちが、時代を経て受け継がれる地域の特殊性に関わり、沖縄の未来が形成される。

    本文

    1章 伊江島 2120年ユリの季節
     
     老婆の瞼に留まっているものが、瞬きと同時に頬をつたい、落ちた雫が赤土に染みた。どこか女性の子宮のようにも思え、亀の甲羅の形をした屋根が乗っかったコンクリート製の建造物は墓だ。墓は、なぜか暖かく老婆を迎えているかのようだ。しゃがんだ老婆の背中は、丸みをおびてはいるが、昨年卒寿を迎えたようには見えず、むしろ矍鑠としている。老婆は大きく深呼吸し微笑んだ。老婆の笑みにはどこか清々しさが窺える。老婆の背後には、辺り一帯にユリが咲き乱れている。老婆が見下ろす白いユリ一面の丘は、なだらかに下り、青い海に繋がっている。白と青は、白いパレットに水を含んだ群青色の絵具が敷かれているかのようだ。2120年4月伊江島リリーフィールド公園のユリが青い海を背景に満開を迎えていた。今年も公園にはゆり目当ての観光客が溢れている。開園以来100年をゆうに超える年月が過ぎていた。沖縄の海岸沿いには、テッポウユリが自生しているところがあるが、ここの100万本のユリたちは、人口的に植えられ、住民によって愛情を注がれ、保護されてきた。そしてユリたちは、徐々に本来備わる自生力を発揮し、増え続け、かつての公園の範囲を飛び出し、自分たちの領域を拡張していた。リリーフィールド公園は、ユリの咲く丘として、世界中の観光客から愛される場所になっていた。
     伊江島は沖縄本部半島の北西約9キロに位置し、周囲22キロメートルの小さな島である。この島で太平洋戦争末期に六日戦争という激戦があった。ユリたちは、悲惨な戦争があったこの島をそっと癒し、二度とその様な過去を繰り返さないように、世界中から観光客を集め続けることで、平和を訴えているようにも、自衛しているようにも見えた。伊江島には4つの滑走路があった。米軍基地内に2つの滑走路があり、100年前は時折オスプレイが飛来した。その2つの滑走路は使われなくなっていた。3つ目が伊江島空港の滑走路。4つ目は太平洋戦争当時、実戦で一度も使われなかった当時アジアで一番長かった滑走路で、100後の今は伊江島空港の第二滑走路として整備され運用されていた。駐機場に止まった飛行機にタラップが横づけされ、次々に観光客が下りてくる。今では旅客機が離発着する沖縄北部の空の玄関に様変わりしていた。乗客の多くは羽田や関西国際空港から沖縄北部観光にやってくる外国人観光客だった。
     紗耶香は、お墓に手を合わせ、何かぶつぶつと独り言を言っていた。墓は一面に咲き乱れたユリを見下ろす所にあった。ユリは海に向かってなだらかな丘を覆い、その先は海に繋がっている。紗耶香は、墓前でおとぅとおかぁに何か新しいニュースでも報告していたのか、それとも旅客機の騒音やオーバーツーリズムによる環境への悪影響について文句をいっていたのか。独り言を言うのは、新垣家の女たちに共通で、紗耶香にもちゃんと受け継がれていた。彼女たちに言わせれば、先祖や物や自然と対話しているという。  
    紗耶香は、報告を終えて満足したのか、合掌していた手を解き、顔を上げ、膝に手を当ててゆっくりと立ち上がった。ゴーという爆音が聞こえてきた。旅客機が離陸していく音だ。紗耶香は踵を返し、遠くに海を見ながら、杖を突き一歩一歩そろそろと歩きだした。気持ちのいい海風が紗耶香の白髪を靡かせた。海とユリの香を吸い取るように深く息を吸った。ユリとその向こうに広がる海の両方を視界に入れながら、暫くリリーフィールド公園へ続く緩い坂道を下った。足取りはゆっくりだが、一歩一歩は地面を踏みしめながら着実に海の方へ進んだ。坂道を下っていく途中に、何度も見知らぬ外国人観光客に会釈し挨拶をする。すると彼らは、にこにこと微笑み返しを老婆に送る。紗耶香が坂を下り切って、立ち止まった直ぐ先は、海へ落ちる断崖に繋がっている。手前に柵があり、危険注意を喚起している。藍染を思わせる濃紺の海が、紗耶香の視界に広がっている。紗耶香は、太陽光が反射する凪いだ海を静かに見渡していた。紗耶香の周りにいる観光客が、自撮り棒を片手に、思い思いにアングルを変えて写真を撮っている。様々な言語が飛び交い、何を言っているのか分からないが、楽しそうなのは分かった。ひと際大きな歓声が起こった。観光客は一斉にシャッターを切りだした。遠くにイルカの群れが見えた。紗耶香は、ユリを背景に海来(父)と美羽(母)が映っている写真を思いだしていた。紗耶香が立っている場所は、若き日の海来と美羽が、写真を撮ったその場所だった。暫く海をじっと見ていた紗耶香が振り返ると、写真のように満開の白ユリが一斉に風に揺れた。



    2章 バルセロナ 2019年から2020年
     
     ごみ回収車が巨大なパレットを持ち上げて、空中で上下を逆さまに回転させ、ガラガラという音をたて、パレットの中のゴミを回収していく。水を噴射し路面を濡らし、左右に付いた丸い大ブラシを回転させて大通りの路面を掃除していく路面清掃車の音がする。バルに飲料やパンを配達する納品業者が荷下ろししている。竜崎海来(りゅうざきみくる)にとっては、最初はどれも安眠を妨害する耳障りな音だったが、この街の夜明け前の音として、今では生活の日常音として溶け込み、気にならなくなっていた。
     夜明けが遅くなっていくこの時期、起きるのは夜明け前で、朝のルーティーンを始める。まず目を覚ますのに熱いシャワーを浴び、いつものように朝食を作る。朝食を作っている間に辺りが白々し、光の波が満ちてくる。夜が明ける頃には出勤する車で交通量が増し、街がざわざわ喧噪に包まれる。
     田舎風山パンを木製のまな板に載せ、パンナイフで厚さ1センチほどにスライスし、トースターに入れる。パンに軽く焦げ目をつけ、半分に切ったニンニクでパンの表面を撫でてニンニクの香を付ける。真っ赤に熟しきったトマトを二つに切り、半分のトマトをスクイーズしながら、パンに擦り付け、十分にトマトの果汁と果肉をパンの上に塗り付ける。その上にアルベキーナ種のエキストラ・バージンのオリーブオイルを垂らし、マジョルカ産の塩を振りかける。いつもの手順でパン・コン・トマテをつくる。でき上がったパン・コン・トマテにとびっきり上質な生ハムをトッピングする。熟成牛を思わせる濃いワインレッド色のハムは霜降りである。生ハムはイベリコ豚のベジョータしか買わない。イベリコ豚のベジョータは、養豚の一定期間に野原で放牧され、どんぐりを食べて育った豚である。海来の料理は彼自身の拘りがある。カタルーニャ地方のソールフードであるパン・コン・トマテにイベリコ豚の生ハムをのせたオープンサンドイッチだ。海来のお気に入りの朝食で、10年間、毎朝食べているが飽きない。パンの種類だけは時々変えるが、基本はいつも同じである。海来にとっては、典型的な昭和おやじの白米と味噌汁のようなものである。
     エスプレッソ専用のケトルを火にかけ、キッチンの窓から建設中のサグラダファミリアを眺めながら、エスプレッソ・コーヒーができるのを待つ。サグラダファミリアに太陽の光が差し始める。まるでエネルギーを注入するかのごとく、光を浴びたサグラダファミリアに生命が息吹く。シュワシュワとお湯が挽いた豆を通る音が聞こえ、コーヒーの香ばしい香りがキッチンに漂う。コーヒー豆は苦みと酸味のバランスが良く、重厚な風味のコロンビア産。良く焙煎したものだ。朝日を浴びるサグラダファミリアは輝いて、生命の漲る力さえ感じる。トウモロコシのような形の塔の天辺付近に嵌め込まれている装飾モザイクタイルに陽光が反射し、きらきらと光り、気まぐれな光線が窓から差し込む。海来はサクラダファミリアから、今日も何か合図を受け取る。海来にとっては、活動開始の合図なのかもしれない。海来は10年間、建設中のサグラダファミリアが少しずつでき上っていくのをキッチンの窓から定点観測している。サグラダファミリアに異常が無いかを確認し、テレビでニュースを聞きながら、お気に入りの朝食を食べて出勤する。毎日同じようなニュースなので、音声は聞いているが、テレビの画面は見ていない。今日も海来の平凡な日常が始まろうとしていた。

     海来は、スペインのカタルーニャ州の観光局に勤めている。海来の仕事は観光促進である。カタルーニャに世界中から観光客を呼び寄せ、観光を通して地域の経済成長を促すことが目的である。カタルーニャを訪れる世界中の人に、カタルーニャの歴史・伝統・文化を知ってもらい、カタルーニャという地域にシンパシーを感じてもらうことが、彼の所属している部署のミッションである。つまり世界中にカタルーニャのファンを作り、徐々にサポーターを増やし、世代を超え、カタルーニャと世界とのネットワークを草の根で構築する。100年後のカタルーニャの未来を見据えた取り組みが始まっていた。100年後には人々は今とは比較にならないぐらい自由に住む場所を選択するようになる。国境を越えて、平和で住みやすい場所を選び、そこで仕事し、生活をする。AI技術の進歩により言葉の障壁は存在しなくなり、その土地の伝統、文化、環境や食が気に入った場所や国を選び移住するようになる。人々が移住したい場所が発展し、人々が住みたくない国は衰退する。彼らの政策は、このようなシンプルな世界になるという考えに基づいていた。彼の部署には世界40カ国から観光促進のエキスパートが集まり、各国市場の担当者が、観光促進業務に従事している。海来は日本市場担当として10年前から働いている。

     「ブエノス ディアス(おはようございます)2019年10月31日朝8時のニュースです。日本から悲しいニュースです」海来は咄嗟にテレビの画面に視線を向けた。いかにもスペイン的な彫の深い、濃い顔の40歳前後の女性アナウンサーが喋りだす。日本時間31日未明に、世界遺産の沖縄の首里城で火災が起きました。スペインではサマータイムが終わり、日本との時差は8時間ある。テレビのモニターにビデオ録画映像が映しだされた。現在、消防による懸命な消火活動が行われていますが、炎は一向に弱まっていません。数時間前のビデオ映像だった。首里城の火災が映された画面からアナウンサーに映像が切り替わった。出火原因等は分かっていません。早く鎮火することを心から願っています。当番組では、引き続き続報を伝えていきます。では次のニュースです。中国ではインフルエンザの流行が始まっています。毎年冬に向かう中、インフルエンザの流行が始まりますが、今年は例年よりも早く流行しそうです。現地からの映像です。クリニックの中継映像に変わり、患者が治療を受けている映像が映し出された。毎年この時期恒例の冬に向かう典型的なニュースであると海来は思った。
     海来は首里城の火災のニュースに釘付けになった。ニュース映像を見ている間、生ハムのパン・コン・トマテを口へ運べず、それを持つ手が震えていた。映像に映し出された炎上する首里城を茫然と見ていた。なんとも言い難い悲しみがじわじわと押し寄せ、涙腺を刺激し始めていた。鼻の奥にツンとしたものを感じ、涙が出てきそうで、胸になにか酸っぱいものが沸き上がってきた。心臓がきゅっと縮むような感じがして、胸が苦しい。じわじわと湧き出してくる涙をなんとか押しとどめて、パン・コン・トマテを口に押し込み、仕事への志気を自分自身で高めた。いつも美味しいパン・コン・トマテは、今朝は味気なかった。今まで首里城の事を気に留めたことが無かった。海来は沖縄出身者でもなければ、沖縄が特別好きだったわけではなかった。
    沖縄には一度小学生1年生の時に両親に連れて来てもらった。父親が母の慰労もかねて正月休みに暖かい沖縄で過ごそうということで3泊した。滞在中、一度も晴れることが無く、曇った空に小雨が時折混じりで、風が強い日が続いた。海来には、唯一、美ら海水族館が記憶に残った旅行だった。
     観光促進を生業としている海来にとって、世界遺産である首里城の火災映像は、自分の大切なものが燃えていくかのごとく感じた。赤々と燃える首里城の骨組の映像が残像として残った。興味のない中国の流行性感冒のニュースの途中でテレビのスイッチを切って家を出た。

     海来の職場は、ディアゴナル通り沿いにあり、自宅から赤い市バスで20分ほどの所にある。碁盤の目状に都市計画されたバルセロナの新市街を斜めに横切るディアゴナル通りには、遊歩道のスペースが広く取られていて、人に配慮された市街地が設計されている。遊歩道に植えられたプラタナスの葉がカサカサと風に揺れている。朝日の中を南国の緑色の鳥たちがキーキーと甲高い声をあげ飛びまわっている。以前は居なかった鳥が、我が物顔で昔から自分たちの居場所であることを主張しているかのようだ。鳥たちのように、人間も住みよい場所に国境を越えて住むような時代がくる。鳥たちは人間に未来を予言しているかのようだ。
     職場へ着くや否や、フランス人のジェロームが、神妙な顔つきで近寄ってきて、海来の肩に手をおき近距離で話しかけてきた。
    「ミクル、今朝のニュースは見たよ。首里城は残念だ。落ち込むのは分かる。でも、元気をだせ。首里城は必ず復活するよ」ジェロームのスペイン語は、フランス語なまりでスペイン語がお洒落に聞こえる。海来は直ぐにピンときた。ジェロームは6か月前のノートルダム寺院の火災の時に、自分が感じた悲しみを、同じく海来が感じているのではないかと思い駆け寄ってきたのだ。実際ジェロームはノートルダム寺院の火災後、1週間は落ち込んでいた。海来はジェロームの心使いに感謝した。
     「ジェローム 気を遣ってくれてありがとう」
     その後も同僚が入れ替わり立ち代わり海来のところにやってきては、火災で失った首里城は残念であることを伝え、首里城の火災に関して、幾つも質問をした。質問の多くは出火原因と首里城の再建についてだったので、分からないとしか答えるすべがなかった。観光促進をするプロたちにとって、世界遺産に関わるニュースは重大ニュースで、皆が気遣いを見せた。それはあたかも海来の家族が亡くなったかのような雰囲気さえ醸し出した。
     その日の海来は憂鬱な気分で、集中力を欠き、パソコンのバックスペースキーを何度も叩いた。いつもより長く感じた業務時間が終わった。同僚のアリが一杯引っ掛けていかないかと誘ってきた。アリはトルコ人で海来と気が合った。アリは海来の気を紛らわせるつもりで声をかけた。
     「やぁ 海来、調子はどう? 首里城の事は残念だ。もし良ければバルで美味しいものでも食べながら少し話さないか?」 
     「ありがとう、アリ、また今度」
    いつもならアフターファイブにバルに酒を飲みに行くところ、その日は酒を飲む気分になれず、アリの誘いを断り、家に帰った。というより首里城の事が気になって早く家に帰りたかった。
     海来は帰宅すると、テレビをつけニュース番組にチャンネルを合わし、同時にパソコンを開き、インターネットで首里城火災のニュースを片端からアクセスした。鎮火後の首里城は無残な姿になっていた。相変わらず出火原因は調査中との情報ばかりだった。夕食は昨日の残りのコシード・マドリレーニョを温めなおして食べた。ひよこ豆とチョリーソ、数種類の野菜を煮込んだ具沢山スープである。食べ終わる頃、午後9時のテレビニュースが始まった。鎮火後の首里城が映し出されていた。正殿から出火して、北殿、南殿などに延焼し、首里城の大部分が、無残に灰と化していた。出火原因として漏電の可能性を最新の情報として伝えていたが、出火原因の確定には至らず、ネットニュースと同じく調査中と伝えていた。火事を目撃した住民へのインタビューや、祈り続ける老婆の姿を映し出していた。
     
     海来は、翌年の2020年の日本市場向け予算申請のため、カタルーニャ観光のプロモーション行事日程の提出が数日後に迫っていた。2020年は6月に東京、名古屋、大阪、福岡で、カタルーニャ観光フェアを開催する企画書を纏めていた。テーマは『もう一つのカタルーニャ』である。
    今まで散々、ガウディの建築物、カテドラス(大聖堂)を含む旧市街、ピカソ、ダリ美術館、美味しい地中海料理などを中心にアピールし続けてきた。観光資源に恵まれたカタルーニャは、日本を含め世界中で、既に十分その認知度は上がっていた。そこで2020年からは、今まで紹介できていなかったカタルーニャの魅力を中心に、より具体的に紹介する企画だった。季節ごとに、その季節にしかできないご当地体験ツアーを沢山盛った。カタルーニャに対するヘビーなファンをつくるためのプログラムの提案だった。
     2020年度の日本向け観光促進の予算案もほぼ決まり年度末を迎えていた。海来は、毎年暮れと正月はバルセロナで過ごした。スペインでは1月1日は祝日だが、2日が仕事始めであるため、日本で正月をゆっくりと過ごすことができないため、海来は、年末年始は日本には帰らなかった。その代わり海来は、イースターに帰国していた。スペインではイースターをセマナ・サンタ(聖週間)と言い、有給をくっつけて纏まった休日にして、帰郷したり、旅行する慣習がある。
     2月になって中国の武漢から始まった流行性感冒はインフルエンザではなく、新型コロナウイルスであることが分かり、感染は日に日に勢いを増していた。ヨーロッパでは中国からの観光客の渡航を禁止する国が出始めた。既に世界中で得体のしれない新型コロナウイルスによるパンデミックが始まりかけていた。
     カタルーニャ観光局の2020年の全ての観光促進行事が棚上げされた。3月になりスペイン政府は警戒事態を宣言し、封鎖措置を発令、外出制限措置に繋がった。新型コロナウイルスはパンデミックを引き起こし、世界を一瞬にして変えていった。
     テレビの映像は過激なまで、映画のバイオハザード的な様相を呈していた。白い防護服に身を纏った人たちが映し出される。連日、感染者数と死亡者数が発表された。世界各国の感染状況や防疫対策が報道された。外出制限措置下、連日悲しいニュースばかりが続く中、自宅テラスで楽器の演奏会を催すミュージシャン、テラス越しに隣人と談笑する人たち、マンションの屋上越しにテニスをする若者などの映像が心を和ませた。
     欧米各国で感染者数が増え続ける中、日本や韓国では比較的感染者数は抑えられていた。欧米では人と人の距離が近く、飛沫が飛び易い言語の特徴があり、スキンシップが濃厚である。日本では通常のインフルエンザの流行時や花粉症対策としてマスクを着ける習慣がある。韓国の防疫対策が功を奏しているなど、様々な理由が論じられたが、どれも科学的な論拠が示されていなかった。
     海来も自宅からリモートワークを強いられ、ウエッブ会議を毎日行うようになっていた。インフルエンザは冬季に流行し、気温が上昇する春には収束する。海来は、新型コロナウイルスの流行は夏頃には収束すると期待していた。海来は、日本で行うカタルーニャ観光フェスを当初予定した6月から10月に日程変更を行い、関係各所との調整を始めていた。新型コロナは、そんな楽観的な期待を木端微塵に打ち砕いた。
     例年であれば観光客で溢れかえる夏のバルセロナ市内には観光客はいない。外出制限の期間中、市内は人影もない。サグラダファミリアの建築工事も止まったままだ。時折救急車のサイレンが異様に響く。病院では、医師と看護師の新型コロナウイルスとの死闘が連日続いていた。海来は、日本で10月に開催するカタルーニャ観光フェアーの中止を余儀なくされた。
     一つの感染流行の波が落ち着き、沈静化したかと思えば、次の流行の波が発生した。変異したウイルスが次から次に現れた。状況は一向に改善の兆しを見せない中、2020年12月半ば、海来は、仕事を辞めて日本に帰国することを決断した。カタルーニャでの観光促進の仕事が、いつの間にかコロナ禍における、ある意味、仕事のための仕事的な事務作業に変わっていた。新型コロナは長期化するという意見を唱える疫病の専門家が多くいた。新型コロナの収束に先が見通せなくなっていた。カタルーニャでの経験を活かし、日本の観光振興に貢献したい気持ちも芽生えていた。先が見えない状況で、海来は藤沢市鵠沼海岸にいる両親の事が心配だった。両親への憂慮が彼の帰国を後押しした。海来と親交が深いトルコ人のアリやフランス人のジェロームは海来と同じく12月中に帰国した。年が明けると、他の同僚たちも次々に帰国していった。帰国していった同僚の多くは、自宅からリモートワークを続けながら、コロナの収束を待ち、仕事に復帰する道を選んだものが多かった。アリはトルコ政府観光局の役人でカタルーニャに派遣されていて、年度末で任期が切れるタイミングだった。
     海来は、10年住んだバルセロナから引き上げるとなると、コロナ禍でもあり、引越しの手続きが大変だった。持物の多くを持って帰らないことにした。幸い実家には自分の部屋があり、生活するに困らない家具が揃っていた。今使っている家具や家電はリサイクル業者に引き取ってもらった。食器類や要らないものは処分した。愛車だったSUVを売却した。日本に持って帰るものは、10年前にバルセロナに来た時と同じスーツケース1個に収まった。愛用していたオルベア製のロードバイクはアリに譲った。
     
     帰国した海来は、空港でPCR検査を受けた。結果は陰性だったが、新型コロナ感染症に対する水際対策により、14日間の隔離を余儀なくされた。羽田空港近くのビジネスホテルに小型の送迎バスで向かった。厳重に運転席は防疫されていて、まるで自分が新型コロナの感染者であるかのようだった。仮にマスクが手錠に変われば、護送されている囚人だなと思った。だとすれば今向かっている所は刑務所だ。完全隔離の個室が与えられる刑務所。ただ刑務所とのちがいは、テレビと電話、風呂の使用は自由。刑務所のような時間の規律もない。寝てようが、起きていようが自由だ。海来にとって14日間は不味い食事を除いて、有意義な休息時間になった。友人や知り合いへの帰国の報告などに時間を使った。
     海来は、カタルーニャでの観光促進の仕事をするきっかけを作ってくれた大学時代の恩師、西山先生とインターネットのビデオ会議を使い久しぶりに話した。西山は退官後、スペイン語の参考書を執筆していて、出版社との打ち合わせもあり、相変わらず忙しそうだった。色黒の顔に、鼈甲色の太い淵の眼鏡をかけ、眼鏡の奥に大きな漆黒の目が光っていた。西山は教え子からの人望が厚かった。様々な分野に散らばって活躍している教え子から、幅広い情報や相談を受けていた。海来もその一人だったが、教え子の中では変わり種だった。海来はスペインの事、カタルーニャでの仕事を辞めた事、コロナ禍のスペインの状況、竜崎自身のプライベート、今後の事など一通り話した後、コロナが収束したら会って話をしたいと伝えた。
     西山は、話の最後にさりげなく「竜崎君、スペインから帰ってきたばかりだけど、興味があったら沖縄県で観光促進を担当する臨時職員を募集しているよ」と言い、「今度飲みに行きましょう」と言って通話を切った。沖縄出身の教え子から西山に届いた情報だった。
     海来は西山から沖縄県の観光促進の臨時職員の話を聞いた時に、何か運命的なものを感じた。ちょうど11年前に西山から聞いたカタルーニャ州観光局での職員募集の時と同じだった。
     海来は直ぐに沖縄県観光課へ連絡を入れ、募集している職に応募した結果、バルセロナでの観光促進の経験を買われて採用された。とは言え臨時職員で2021年4月1日から1年の契約で、その後のことは分からなかった。沖縄県はコロナ禍で落ち込んでいる県内経済を回復させるため、観光を中心にコロナ後の事を考えていた。コロナ前の日本はインバウンドの外国人観光客に対する期待が大きく膨らんでいた。



    3章 国頭郡今帰仁村 2021年4月うりずんの季節
     
     新型コロナの第3波が日本中を襲っていた。変異ウイルスにより重症化する患者の割合が多かった。4月になり高齢者から新型コロナワクチンの接種が始まった。沖縄は人口比に対する感染者数は、全国でワーストレベルだった。第2回目の緊急事態宣言が終了した。
     竜崎の沖縄への引越しは簡単だった。1年の臨時職員契約だったので、スーツケース1個で、まるで1週間の旅行感覚だった。バルセロナに引っ越した時もスーツケース1個だったが、その後10年住むことになった。那覇市古波蔵の漫湖公園近くの家具付きアパートを借りた。沖縄では各地を訪問するのに足となる車が不可欠だったので、レンタカーを1年契約で借りた。レンタカー会社の担当者に燃費を考慮しハイブリッド車を勧められたが、バルセロナで乗りなれたSUVのガソリン車にした。
     
     4月に入り竜崎の沖縄での仕事が始まっていた。沖縄で仕事を始めて最初の休日で、朝から近くのスーパーに買い物に出かけた。いつもより惣菜コーナーに人が集まっている。総菜コーナーにオードブルが詰まったパーティ用のセットが売られていた。清明祭特売セットと書かれている。ネットで意味の検索をすると、直ぐに清明祭の説明と動画が出てきた。4月4日、二十四節気の歴の一つで、立春から数えて5番目にあたるシーミーである。中国から伝わった風習で、御清明祭(ウーシーミーサイ)のことである。沖縄では親族一同で先祖のお墓参りに行き、大きなお墓の前で、ご馳走を広げて宴会をしているネット動画が映し出された。見た目はお墓でピクニックをしているようだ。
     翌週、竜崎は早朝北部に向かった。那覇から続く高速を許田で降り、名護方面に向かう。その後トンネル続きの名護東道路を抜ける。名護市の北部に入り、屋我地島を抜ける。時折見える海は、藍染を思わせる深い紺色と透き通ったエメラルドグリーンの2層がくっきりとわかる。よく見るとエメラルドグリーンの部分は徐々に色が濃い色から薄い色に変化している。
     那覇から2時間、古宇利島の標識が見えた。竜崎は運転席の窓を半分開け、温かい風を切りながら、海と海の間を進んでいく。両側に広がっている海をチラリチラリと見ながら古宇利大橋を縦断する。小高い丘に低層のホテルらしい建物や戸建の家が不規則にぽとぽつと建っている。右前方に、円柱形の上部に先の尖がった三角錐の帽子をかぶせたような、竹の子の形をした建物がランドマークになっている。橋を渡り切り、道なりに直進したところにある道の駅で打ち合わせだった。道の駅のパーキングに車を駐車したところで、今帰仁村の観光協会の職員と一緒に同僚の新垣が、竜崎に手を振っていたので、竜崎はここが待ち合わせ場所だと直ぐ分かり安堵した。
     竜崎は、1か月前に那覇に引っ越してきて、2週間前に沖縄県の観光課での仕事を始めたばかりで、沖縄の地理にはまだ慣れていなかった。それに竜崎は相当な方向音痴で、ナビに導かれていても道に迷い、ぐるぐると辺りを周回するのはしょっちゅうだった。
     竜崎は仕事始めの日に、朝礼で自己紹介をした。出身は神奈川県の鵠沼海岸で独身であること。外大出であること。バルセロナで観光促進の仕事を10年間していたこと。沖縄には小学生の時に家族旅行で来たこと。食べることが好きなこと。方向音痴であることなどを話した。
     新垣はそんな竜崎のことをよく理解して、道に迷わない場所を選んで打ち合わせ場所を設定した。竜崎に沖縄を知ってもらう目的で、新垣はできる限り竜崎を那覇県庁舎から連れ出し、地方の観光協会のスタッフとの会議を設定し、打ち合わせ場所として観光協会の事務所ではない場所を選んだ。各市町村に竜崎を連れていくことは、上司の比嘉からの指示でもあった。また、竜崎自身もそれを望んだ。
     「おはようございます。良い天気ですね」と竜崎はチラリと空を見て、直ぐに2人に向き直り挨拶した。雲一つないうりずん晴れである。
     「おはようございます。晴れて良かったです。竜崎さん」と新垣が元気よく返した。
     「道には迷いませんでした?」と新垣が訊いた。
     「ええ、新垣さんのインストラクションのおかげで、問題なく、たどり着けました」
     「古宇利島でも既に海開きされました。竜崎さんに北部の海を見てもらいたくて古宇利島に来てもらいました」
     「沖縄の海は何処も綺麗ですが、北部の海は一段と綺麗ですね。古宇利大橋を渡っている時に両側の海が目に飛び込んできて、海に吸い込まれそうでした。私が今まで見てきた海で一番綺麗な海だと思います。ハワイやプーケット、バリ島の海とは比較にならないぐらい綺麗だし、スペインのイビサ島やイタリアのカプリ島の海よりも綺麗だと思います」と竜崎が沖縄の海の感想を述べた。
     竜崎の話を聴いていた今帰仁村観光協会の與那嶺は、古宇利島の海を褒められて、一瞬にんまりと緩んだ顔つきになったが、直ぐに口許を引き締めた。
     新垣が、ここ古宇利島は恋島といわれていて、今帰仁村に位置していること。沖縄北部の観光のスポットの一つとして人気があることを説明した。
     「ご存知かどうかは知りませんが、以前、航空会社の宣伝で、人気アイドルグループがハートロックでロケをしたそうです。それもあって人気が出たんだと思います」と追加の説明をした。
     「後でハートロックに行ってみましょう」と與那嶺が提案した。
     「はい」竜崎はにこにこして二つ返事で與那嶺に答えた。
     紹介が遅れたと新垣が二人を紹介した。
     「與那嶺さん、こちら竜崎さん」
     「竜崎さん、こちら今帰仁村の観光協会の與那嶺さん」
     「本日は宜しくお願いします。」與那嶺が挨拶した。
     「ええ、こちらこそ宜しくお願いします。與那嶺さん」
     與那嶺は、不惑を迎え、今帰仁村の観光協会の課長に昇進したばかりだった。色黒で丸顔、如何にも実直そうで好感がもてるタイプで、飾りっ気がない。皺くちゃのかりゆしウエアとよれよれの黒のズボンを着ていた。與那嶺は兎と亀の後者のタイプで、地道な努力を怠らず、ゆっくりだが着実に業務を続け実績を上げてきた。
     小さな道の駅の売店の裏手に、オープンスペースで開放的な場所が隣接していた。数店舗の飲食の売店が並んでいる。さすがにコロナ禍の今は、観光客はいなかった。気持ちのいいテラスには、自分たち3人以外、誰もいなかったが、竜崎にはコロナ後の観光客で賑わう情景が容易に想像できた。3人は陸揚げされた小さな漁船が数隻見える席に腰掛け話し始めた。
     「早速ですが、今帰仁村のセールスポイントを教えてもらえますか?」と単刀直入に始めた。
     「はい、わかりました」と顎を締めて、上目遣いに與那嶺が頷き、説明を始めた。今帰仁村の観光のスポットとしては古宇利島、先ほど新垣さんが話したハートロックは既に人気があります。あと世界遺産の今帰仁城跡があります。特に寒緋桜が咲くころの今帰仁城には多くの観光客が訪れますと與那嶺が簡潔に説明した。
     竜崎は、今帰仁城跡に関しては予めインターネットで調べていた。寒緋桜に関しては知らなかったことを與那嶺に伝えた。
     外出先での打ち合わせは、與那嶺との打ち合わせが最初だったので、新垣は竜崎の話を注意深く聞いていた。
    「今帰仁村でご当地の食べ物は、ありますか?」
    與那嶺は、視線を少し上にあげ、遠くを見るかのような状態で考えていた。與那嶺は、竜崎の顔を覗き込み、顎を引いて、上目遣いで、「えーと、今帰仁スイカ。今帰仁スイカは沖縄ではブランドスイカとして売られています」と答えた。
     「へー、私、スイカ大好きです」と竜崎が返した。
     「じゃあ後でスイカ農家にいってみましょうね」と與那嶺が答え、「後は、4年後に大きなテーマパークができる予定です」と與那嶺は続けた。
     「テーマパークに関しては知っていますか」横から新垣は竜崎に尋ねた。
     「ええ、超有名なマーケターが手掛けているプロジェクトですよね。テレビでそのマーケターのインタビューを見たことがあります」と竜崎が答えた。
     「テーマパークは今帰仁村と名護市の両方に跨っていて、北部経済にとっては起爆剤になると期待しています」
     「ご説明ありがとうございました。だいたい今帰仁村のセールスポイントは分かりました」と竜崎が答えた。
     
     新垣美羽(アラガキミウ)は、那覇にある大学卒業後、沖縄県職員として県庁観光課で7年目を迎えていた。新垣は観光振興で沖縄経済の発展をすべく、観光課を希望し、希望通り配属された。新垣は、くりくりとした目で何かを訴えてくるような表情がかわいい沖縄美人である。新垣は子供の頃から運動神経が良く、中学時代はバスケットに明け暮れていた。その健康的な笑顔でどこでも皆から好感された。昨年、新垣を襲った悲しい出来事が、以前のはっちゃけた笑顔から、どこか張りぼてのような、明らかに作り笑顔に変えた。新垣にとって、ここ1年は新型コロナウイルスで政府による緊急事態宣言やGoToトラベルに振り回されていた。
     
     2020年は観光業に頼る沖縄は惨憺たる状況だった。そんな時にコロナ後を見据え、沖縄県が観光産業を一層発展させるために、県の長期的なビジョンを補完するため、外部から人材の採用を1年の契約職員として募った。1年間では腰の据わった観光振興はできないのは承知の上で、今までとはちがう観光振興の視点と手法を取り入れることが目的だった。
    竜崎の観光促進は、独特で、常に長期的な視点に立ち、地域住民と地域産業を巻き込んでいくやり方だった。沖縄にとって竜崎が採用されたのは偶然ではなく、必然であったのかもしれない。
     
     與那嶺が竜崎に担当直入に質問を切り出した。
     「今帰仁村の観光をどのように発展させればいいでしょうか。私たちは何をすべきだと思われますか?」
     與那嶺の姿勢は低姿勢で、常に相手の意見を良く聞き、良いと思ったものは取り入れてきた。
     竜崎には観光促進に関して持論があった。観光促進は、短期と長期で考えるべきであると前置きし喋り出した。短期は直近で1会計年度中に何をするのか。長期には30年後、いや100年後の今帰仁村を見据えて明確なビジョンをもって、地域住民と地域産業を巻き込んで観光を育ていく。
     與那嶺は竜崎の持論に驚きを隠せない表情で再度訊き直した。100年後という突飛なことを言い出したからだ。
    「で、何をすればいいのでしょうか?」
    竜崎は直接質問には答えずに訊き返した。
    「観光協会でやってきた仕事がありますよね。例えばどんなことですか」
    「観光のパンフレットを作ったり、地域の文化・観光のイベントの企画やサポートをしたり、観光客の対応をしたりです」
    「毎日、毎月、毎年、その時々のルーティンの繰り返で、忙しく1年が過ぎていきますよね。毎日の業務報告書に、年間のイベント計画、翌年の予算作成などなど。これらの仕事はやらなければいけません。しかし、それだけでは100年後の今帰仁村がどのようになっているかは、まったく想像がつきませんよね。つまりどこに向かっているのか分かりません」
    「與那嶺さんの説明から今帰仁村には観光地として幾つかの観光スポットがある。古宇利島や今帰仁城跡は人気スポットである。今帰仁スイカのブランドが育っている。数年後には大きなテーマパークもできる。現状、農水畜産業以外に確たる産業がない中、今帰仁村の将来は観光業に大きく依存する。そういうことですよね」と竜崎は今までの会話を整理した。
     観光業はサービス業ですが、幅が広く、周辺産業とも密接に関係しています。観光客が訪れるところには、観光客目当ての宿泊施設や飲食店ができます。不動産業や建設業も観光の恩恵を受けます。つまり観光業の促進は、その他の関係産業を発展させる。しかし観光へ依存度が大きい地域では、観光業が上手くいかなければ、その逆方向の効果も然りであることを竜崎は説明した。
    「仰てることは、何となくわかるようなきがしますが、私には、具体的に何をどうすればよいか想像がつきません」と與那嶺は困惑した顔付きで問いかけた。
    「少し経済の専門的な話になりますが、特殊生産要素という言葉を聞いたことはありますか?」と竜崎が與那嶺に訊いた。
    「え、何ですか」
    「そうですよね、聞いたことないですよね。特殊生産要素です」
    「一体それはなんですか?」
    「観光業に関わらず、産業には特殊生産要素が深く関わっています。特殊生産要素とは、本来地域に備わっているもので、競争力の源泉になるようなものです。私には今帰仁村の特殊生産要素についてはっきりとは言えませんが、今帰仁スイカというブランドスイカを作り上げたり、偶然ですがハートロックという観光スポットを航空会社が自社の広告宣伝に使ったり、大人のテーマパークをカリスママーケターが手掛けていることを考えると、偶然かもしれませんが、今帰仁村にはマーケティングに関係して、地域に備わる特殊な要素が存在しているのかもしれないと思うんです」と竜崎は説明した。
    「つまり観光資源的なものですか。それなら分かりますが。多くの観光客がハートロックや古宇利島のビーチに訪れます」と與那嶺が言ったことに対して、竜崎は「特殊生産要素と観光資源は別物です。資源は放っておくと枯渇したり、劣化したりします。観光資源を作り出す源が特殊生産要素だと考えてください。100年後の今帰仁村はどうなっているでしょか?」と唐突に竜崎は訊いた。
    與那嶺は怪訝そうに眼を細め「100年後のことなど分からないですよ」と答えた。
    「そうですね。100年後の事など誰も分からない。でも100年前からの積み重ねが今で、今から100年間積み重ねたものが、100年後の未来です。100年経つといろいろなものが変わります。家も人が住んで手入れをしていくと、長く住めます。家は年と共に味が出て、愛着も沸きます。町や海も同じです。100年後の今帰仁村の海は今のように綺麗だという保証はどこにもありません。海を愛する住民がいて、海の環境を保護する住民の確たる意識と活動がないと、綺麗な海は続きません。今帰仁スイカだって同じです。今以上に品質を向上させていかないと、他県のスイカに市場を取られてしまいます。スイカを育てる農家の人たちが愛情を込めて作られたスイカは美味しく育つはずです」竜崎は與那嶺の顔をじっと見据えて持論を展開した。
    「バルセロナは毎年5千万人の観光客が訪れます。何故かわかりますか?」竜崎は與那嶺に質問した。
    「それはガウディのサグラダファミリアとかの有名な建築物があるからではないでしょか」と即答した。
    「ええ、サグラダファミリアだけではありません、多くの美術館や博物館があり、美食でも有名です。つまりガウディの建てた建造物であるサグラダファミリアや、モンタネールの建てたカタルーニャ音楽堂などの歴史的建築物が存在し、地中海料理という食文化でも観光客を魅了します。サクラダファミリアは1882年に建築が開始されました。100年以上経った今でもバルセロナ市民の関心の的なんです。しかし200年前にはガウディは生まれてなかった。重要なのは、今どのような観光資源が存在していることではなく、観光資源を創造していける地域になることで、その地域に住む人の関心が如何にあるかなんです」と説明した。
    「様々な建築物や美食は最初からそこに有ったものではなく。それらは、その地域に住んだ人たちが何十年も、何百年もかけて作ってきたものです」と続けて言った。
    「その地域で育った文化や、その土地の伝統や風習、その地域の地理的特性や気候、その地域に暮らす人たちの住民性や資質などが、その地域に備わっている特殊な生産要素なのです」と持論を展開した。
    竜崎は説明を続けた。
    「人は地域を作り上げますが、その逆もしかり。地域が、人を育て、人を引き寄せ、建物を作らせ、物を生み出す。その一つ一つの事象に特殊生産要素が、知らない間に自然と絡んでくる。その地域に住み、そこで生計を立てる人たちの創意工夫や努力が重要なんです」
    竜崎は與那嶺の反応を見ながら喋り続けた。
    「バルセロナでビジネスをする人たちは、ブランディングが上手です。あらゆるものをバルセロナという地域に結び付けているのです。地域ブランドをつくるのは、製品や産品の認知度を上げて販売するために欠かせません。日本ブランドは世界で通用しますし、日本各地の地域ブランドが、その地域で産出される商品に付いています。例えば、お米では新潟県南魚沼産のコシヒカリとか、牛肉と言えば神戸牛とか、さくらんぼと言えば山形産佐藤錦とかです。どれも美味しいですよね。それらのイメージが消費者に刷り込まれます。ブランドは品質への信頼によって作り上げられます。認知度も高めなければなりません。
    昭和の初めまでの新潟米は鳥ですらまたいで通ると言われていました。しかし、いもち病の克服のため交配されコシヒカリが誕生します。課題だった倒伏も、追加施肥の時期などの研究も進み、克服され、日本を代表するおいしい米の品種になりました。
    神戸牛は、100年以上にわたり、血統管理を徹底的に行い、厳しい品質管理を品種改良の進めてきた但馬牛を厳選し、肉質等級などさらに基準を増やし厳格な審査に合格した牛です。
    佐藤錦は、山形県東根市の佐藤栄助氏によって品種改良されました。従来のさくらんぼでは、酸味が強くて日持ちが悪く、出荷の途中に腐ってしまう。たくさんのさくらんぼを食べてもらえるように、なんとか改良しなくてはという強い情熱とたゆまぬ努力によって、改良から11年の歳月をかけて実を結ばせました。
    つまり言いたいことは、地域ブランドを超えて日本を代表するブランドに成長した食材は、品質を向上させる不断の努力と情熱があり、加えて普及にはブランドマーケティングがあるということです」
     竜崎は続けた。
    「今帰仁スイカのブランドをもっと認知させなければなりません。今帰仁スイカの品質規格の厳格化も必要です。つまり、今帰仁スイカを消費者に外れなく美味しく食べてもらうことが、今帰仁スイカの品質に対する信頼を高めます。スイカから派生する商品を作ることも必要です。果物としてのスイカは季節限定です。単にスイカという果物だけで終わらせないということです。例えは今帰仁スイカを使ったスィーツや料理を充実させて、今帰仁村を訪れる観光客に食べていただくというのは如何でしょうか。今帰仁村といえばスイカとスイカスィーツと言った具合です」
     竜崎の説明に対して、今まで食いつきが悪かった與那嶺の目が輝きだし、上半身が竜崎の方へせり出していた。竜崎の言っていることに真剣になってきたことが表情からも伺えた。竜崎は一服し、冷めかけたコーヒーを啜った。もともと竜崎は猫舌で熱いものはある程度冷めないと飲めなかった。冷めてしまったコーヒーも好きではないので、丁度よい熱さで飲む頃合いを見計らっていた。
     與那嶺は、竜崎がコーヒーを二口飲んでテーブルに置くのを見ていた。「スイカのシャーベット、アイスクリーム、スイカのゼリーは既にありますよ。それからスイカのタコライスもあります。それ以外は思いつかないですが」と與那嶺が言った。
     新垣は、竜崎の様子を窺うように、竜崎の方を見つめていた。新垣は竜崎流の観光促進がどのようなものなのかを目の当たりにしていた。竜崎の企画書からは読み取れない観光促進の考え方に目を見張った。
     竜崎は「スイカのアイスクリームやシャーベット、スイカのタコライスを売りにしているお店はありますか?」と與那嶺に訊いた。
    與那嶺は今すぐ思いつかないと答えた。
    「そうでしょうね。すぐ思いつかなくて当然です。そう言ったスイカから派生する商品は、まだ今帰仁村の名物になっていませんからね。どのガイドブックにも載ってなかった」
     竜崎は沖縄の観光雑誌を買い集めて、今日の訪問前に応名物を調べていた。
    「今帰仁村のどこで、何のスイカのスィーツや料理を食べるのが定番とか、というぐらい認知されないと駄目なんです」
    「竜崎さん、スイカでどんなスィーツや食べ物を作れますかね」と與那嶺が安直に訊いた。
     竜崎は視線を與那嶺から外し、コーヒーを啜りながら、思考を巡らした。幾つか思い当たったが、敢えて答えなかった。竜崎の目には力が漲っていた。
    「どうでしょう、今帰仁村でスイカのスイーツとスイカを使った創作料理のコンクールをしてみては」
    「私たちの知らない美味しいスイカの食べ方を知っている人がきっといると思いますよ」
    「それ、いいですね」と新垣がすぐに反応した。
    與那嶺も頷いて賛同を示した。
    「そうそう、ここに来る途中に車エビの看板を見ました」
    「ああ、エビ屋さんね。エビ屋っていう会社が車エビの養殖をしていて、全国配送とレストランを経営しているんです。ただ、エビの養殖をしているのは残念ながら屋我地島で名護市なんです。近いのでこの後ランチに行ってみますか?」
    竜崎はにっこり微笑みと即答した。
    「いいですね」
    竜崎は食べ物には異常ともいえる執着を持っていて、いつも美味しいものを食べたいというのが彼のモットーであった。
    美味しいものを食べたいのは誰もが抱く欲求である。でもいつもとなると実践するのはなかなか難しい。竜崎はできる限り美味しいものを食べることに拘った。
    「竜崎さん、先ほどの特殊・・・何とか」と與那嶺と言ったところで、竜崎が、「ええ、特殊生産要素です」とフォローした。
    「その特殊生産要素ですが、今帰仁村には何かありますかね」と與那嶺が訊いた。
    竜崎には今帰仁村に備わる特殊生産要素に関して考えを巡らせたが、気候と地理以外には直ぐには思いつかなかった。今帰仁村に限らず、沖縄県のトロピカルな気候は沖縄全域の特殊生産要素である。沖縄県北部には海の背後にやんばるの森が繋がる地形があり、特殊生産要素といえる。しかしそれ以外の特殊生産要素に思考を凝らしたが、今帰仁村にだけ存在する特殊生産要素には考えが至らなかった。
    「そうですねー」
    困っている竜崎を見て、新垣が観光スポットとしての今帰仁城跡、とくに寒緋桜の咲く季節に今帰仁城を訪れる観光客は多い旨の與那嶺の説明をリマインドした。
     竜崎は、寒緋桜の咲くころに今帰仁城を訪れる観光客に今帰仁スイカを食べてもらうのはどうかと案をだした。與那嶺の特殊生産要素の質問に対する答えではなかった。新垣に助けられ話題を逸らした。
    「それは難しいです。今帰仁スイカの季節と寒緋桜の季節は違いますから」と與那嶺は残念そうに答えた。
    新垣が、寒緋桜は1月から2月に咲き、今帰仁スイカの季節は2月に始まるのでギリ間に合うかもしれないと割って入った。
    竜崎は冷静に與那嶺の突っ込みに対して難なく回答した。
    「フルーツとしてのスイカでなくても良いんです。むしろその方が良いかもしれません。冷凍スイカを使ったスイーツやスイカから派生する食べ物は、季節を問わず作れますよね。例えば今帰仁スイカは、美味しいスイカを作るために、小さいうちに実を間引いたりしてると思います。農作物ですので市場に出すことのできないスイカも出ると思います。そういったスイカを使った料理とか、スイカの焼き菓子とか」
    今帰仁城や寒緋桜を観に訪れる観光客に対して、提供している食べ物はあるか?と言う竜崎の問いに対して、與那嶺は寒緋桜の季節には屋台が出ていることもあるが、全く今帰仁村には関係の無いものであることを説明した。
    新垣が「もったいないですよね。団体バスで訪れる観光客に今帰仁村に因んだ物を提供できないなんて」と與那嶺と竜崎の顔を見て言った。
    與那嶺はもっともだと思った。
    「そうですね。新垣さんの言う通りだと思います。今帰仁村にとって機会損失に当たりますね。せっかくの機会なので、今帰仁村由来のものを売らないともったいないですよね」
    「少しずつで構いませんので、毎年、毎年、今帰仁村由来のものを増やして、訪れる観光客に食べてもらうのです。そうすることで今帰仁村に来たら、これを食べようっていう関連性ができます。ナポリに行ったらナポリピザを皆食べますよね。広島にいったら牡蠣や牡蠣入りお好み焼きを食べますよね。今帰仁村に来たらスイカなんちゃらを食べると言った具合に」
    「なるほど」與那嶺は頷いたが、「スイカなんちゃら・・・かぁ」それが分かれば苦労しないんだけど、と言わんばかりにぼそっと喋った。
    「青い海、今帰仁城、寒緋桜、今帰仁スイカ以外にありますかね?」
    與那嶺が回答に困っているのを見て、竜崎が「思いつきですが、例えば村営ハート・ロック・カフェとか。そこで今帰仁村由来の料理やスィーツを振る舞うのは如何でしょう」と提案した。
    とっぴな提案だった。與那嶺も新垣も一旦思考が停止したが、直ぐに二人の目が今までより見開いた。
    「このアイディアが面白いと思われたら、直ぐにハート・ロック・カフェの商標を今帰仁村で取れるか調査して下さい。今帰仁村で取れるならすぐにでも商標を抑えてください。そうでないと全く違う方向に動いてしまう可能性があります」
    「どういうことですか?」與那嶺は竜崎の目を凝視した。
    「基本的にカフェやレストランというのは民間が行う事業です。民間企業がハート・ロック・カフェを経営すると、今帰仁村とは全く関係のないものを提供する可能性が高いのです。例えばアメリカンなハンバーガーとフライドポテトとか。おまけに店内にアメリカン・ロックが流れようもんなら、それはハード・ロック・カフェであって、今帰仁村のハート・ロック・カフェではなくなってしまいます」
    「なるほど」と與那嶺は納得した。
    「そこでハート・ロック・カフェの事業内容を行政で予め決めて、事業者を募るのです。そうすることで今帰仁村のブランディングに貢献してもらうのです。事業者を選ぶ際には商標を貸して、ロイヤリティを貰います。その収益を今帰仁村の特殊生産要素の形成のために投資をします。投資は継続していかなければなりません。100年後の今帰仁村のために毎年投資先を選んでね」
    竜崎は続けた。
    「ハート・ロック・カフェはごく一例にしかすぎませんが、色々なアイディアを出し合って、村が一つの地域ブランドとして世界中から観光客を呼び寄せる魅力をつけることが重要だと思います」
    「竜崎さん、なかなか面白い」與那嶺は何度も頷いた。
    新垣は満足そうに微笑んでいた。
    一旦、打ち合わせはここで止めて、食事に行きましょうかと新垣が中断を促した。
    「先ほどえび屋さんに予約をいれておきました」
    「素晴らしい。新垣さん」
    えび屋は、古宇利大橋を渡り、突き当りを本部方面へ数百メートル行ったところにあり、大きな養殖池に隣接していた。駐車場には、『わ』と『れ』のナンバーの車が数台止まっていた。レンタカーのナンバーである。極めて簡素な作りのレストランはほぼ満席に近い状態だった。客のほとんどは観光客で占められていた。立地からして地域住民で一杯になるレストランではないのは明らかだった。竜崎は、このコロナ禍に、観光客で賑わっている状況に驚きを隠せなかった。コロナ禍なのに、いるところにはいるんだと認識を改めた。
    メニューを見るとエビの大きさを選べるシステムになっている。與那嶺と新垣は、エビフライ定食でレギュラーサイズを注文し、竜崎は、エビ御膳でエビの大きさをゴジラにした。
    注文してからサーブされるまで、竜崎はスペインのエビについて知っていることを話しだした。竜崎の食に関するうんちくが始まった。スペインのパラモス産の赤エビをオリーブオイルでシンプルにソテーして食べる。味付けには塩とバジルが振りかけてある。その真っ赤なエビは、実に濃厚な味でエビの味を堪能できる。頭の部分にあるみそを吸うと一層濃厚で一度食べて虜になったことや、ガリシア地方でボイルしただけのエビの美味しさなどを話した。與那嶺も新垣も呆れて聞いていたのか、興味深々で聞いていたのか本意は分かりかねた。
    エビ御膳のトレイが目の前に置かれた。天ぷら、素揚げ、刺身、エビかつなどがそれぞれ盛られたエビづくしである。東京に住んでいると、車エビを使ったランチなどお目にかかれない。さすが養殖場直営のレストランだ。リーズナブルな値段で提供している。上品な味の車エビはどの調理法にもなじんでいた。
    「ところで車エビの養殖は久米島が有名ですが、沖縄本島でもかなりあるんですか?沖縄本島で車エビが養殖されているのはあまり余り知られてないですよね。車エビ料理は今帰仁村を代表する料理になるかもしれませんよ」と竜崎が言った。
    與那嶺は難しい顔で直ぐに否定した。「養殖しているのは一企業だけですし、名護産ですからね」
    「屋我地島が名護市だとは知りませんでした。古宇利島でエビでビジネスが成功しているという実例があります。屋我地島のエビは、今帰仁村産ではないですが、県産ですし、お隣の名護市とのコラボなんかも面白いと思います」と竜崎が2人を見ながらいった。
    新垣が「テーマパークは、名護市と今帰仁村の両方に跨っていますしね。それから寒緋桜がらみですが、本部町に八重岳があって、そこは寒緋桜を見に観光客が訪れるスポットになっています。寒緋桜絡みで本部町とのコラボもありですよね」と会話を続けた。
    「確かに観光客に来てもらうのに、市町村の境界線は関係ないですからね」と與那嶺が言った。
    「えびの話に戻りますが、えびバーガーとか、えびのタコスとか工夫すれば、いろいろやれそうですが」と竜崎が言ったことに対して、與那嶺が「エビ料理コンクールの企画書も提案してみます」と言った。
    新垣が「いいですね」と同調した。
    竜崎はゴジラ車エビの天ぷらを頬張っていた。車エビ料理を食べながら3人の会話は弾んだ。
    これからハートロックを見に行きましょうと新垣がレシートを持って立ち上がった。
    ハートロックがあるティーヌ浜は島の北部に位置していた。駐車場から続く幅1メートル程のコンクリートで舗装された小道を下って行ったところに、白い砂浜のビーチがあり、潮が満ちていて、波打ち際から20メートルほどの海中に堂々とそれは佇んでいた。波に削られながらも最後に残った2つの兄弟岩は、歪ながらハートを主張し続ける強さが伺えた。コバルトブルーの透き通った海にハートロックが2つ、1つではなく2つに意味があると思った。「カップルのハートロックのある島、恋島か。これは絶対売れる。売らないと勿体ないですよ、與那嶺さん」
    竜崎はプレスリーのブルー・ハワイやブルックシールズの青い珊瑚礁を思い浮かべていた。竜崎は昔の映画が好きでよくネット配信で見ていた。
    「何か偶然に伝説になるようなことが起こればいいですね。やらせはだめですが。しかし偶然は往々にして必然になるんで、その時を待ちましょう」と意味不明な発言をした。
    「どういうことですか?」と與那嶺が訊いた。
    「ここが小説とか映画の舞台になるとかです」それをきっかけに大ブレークし、世界中に知れ渡るとかです。
    「うーん」と與那嶺はため息を漏らした。
    「ところで先ほど歩いてきた所に飲食店がありましたね。ハート・ロック・カフェとは名乗ってなかったですね。與那嶺さん一刻も早く商標の件調査お願いしますね」
    「上司に提案してみます」
    竜崎たちは、ハートロックを見学後、再び道の駅に戻ってきた。竜崎は道の駅に併設されている飲食スペースにあるテーブルに腰掛けて、陸揚げされた数隻の船の方を眺めた。
    新垣が「続きをやっちゃいましょう」と言った。
    「與那嶺さん、特殊生産要素と地域ブランディングの話は分かっていただきましたか。地域に根差した商品開発と、ハート・ロック・カフェなどをきっかけに、食品ビジネスに関心のある人を募ることなど理解していただきましたか?」
    「特殊生産要素に関しては、今一つ理解できていませんが、地域ブランドやブランド関連商品の開発は理解しました。実際に今帰仁村としてどこまでやれるか、簡単ではありませんが、できる限りやってみます」と意欲を見せた。
    新垣が、県の観光課としてもできることは支援することを付け加えた。
    竜崎が「與那嶺さん、100年後の今帰仁村をイメージし、ビジョンを作り、毎年、毎年少しずつ、ビジョンに近づくように、業務の一部に落とし込んでいくことが重要なんです。地域住民を巻き込んで、地域の伝統と慣習にしていくことが、地域の特殊生産要素を形成していきます。千里の道も一歩からです。必ず村民を巻き込んで下さいね」
    「もう一つ今帰仁村の観光業の未来にとって重要なファクターとして、クラスターの形成を提案します」
    「テレビのコロナのニュースでクラスターって言ってましたけど、クラスターって、どういう意味ですか?」
    「私の言うクラスターは群れ、集団や仲間、企業連合です。例えばスイカに関連した事業者やビジネスを集積させるのです。今は複数の農家が今帰仁スイカを生産しています。実際に様々な観光関連の活動を行うのは民間企業です。観光業の場合は、工業クラスターとは若干ちがいますが、概念は同じです。ホテル等の宿泊施設、レストラン、カフェ、それから海を使った様々なアウトドアアクティビティーを営む会社などの企業群を形成し、スイカやスイカから派生した商品をバックアップしてもらい、観光業者とスイカから派生する食品業者とスイカ農家を連携させるのです」
    與那嶺は竜崎の意見に頷いた。
    竜崎は切れ目なく話し続けた。
    「ここは都会で住んでいる人たちからすると、まさしくパラダイスです。気候も良いし、青い海を見ているだけで癒される所です。きっと都会で、気持ちの余裕がなく、ビルと車ばかりを見ている人たちにとっては理想郷です。つまり言いたいことは、そういった都会でストレスを抱えて生活している人達にここに来てもらって、少しでも非日常を体験してもらう場所にするのです。例えば今帰仁スイカの農業の新規就労に対する移住支援です。クラスター形成にはかなり年月が掛かりますが、今帰仁村には観光・食品クラスターが形成できると思います。クラスターが形成されると、スイカの需要が増えることを見越して今から少しずつ始めるのです。名護市との協力も欠かせないと思います。テーマパークの開業が4年後に迫っていますよね。それは大きな呼び水になるでしょう。大きな雇用が新たに生まれます。そこで働く人たちが生活できるようなサービスを提供する会社が集まってきます。既に観光クラスター形成は始まっているかもしれません」
    「仰てることは良く分かります。でも具体的に何をどうすれば?」
    「たとえば起業の促進です。企業誘致も一つの方法です。たぶん観光課ではなく別の部署との連携が必要でしょうね。私たちはコロナ禍でリモートワークの可能性を実感しました。リモートワークを行う人たちを誘致している市町村は既に存在しているのはご存知ですよね。えーと四国の何とかっていう村にはIT系の人たちが集まっているのをテレビで見ました。私は何か特徴をつけて集めるのがいいと思います。つまり業界を選ぶ必要性があると思いますが、農業とか食品業とかが良いような気がします。例えば食品業をスタートアップしたい移住者が、今帰仁村に残す有形・無形の物と、今帰仁村が彼らに影響を与える特殊生産要素とがシナジーし化学反応が起きるのです。化学反応をおこしやすい特徴を見極めて募るのです。」と竜崎は続けた。
    「竜崎さん、そんなことが出来るのですか」と與那嶺は眉を眉間に寄せた。
    「できますよ。やれば」と竜崎は頷きながら言った。
    「国と言う単位で考えると戦略産業を育てるのに、その分野に特化した専門家を招聘したり、ビザ取得を優遇したりしますよね。同じです」
    クラスターの話に戻ります。
    「クラスターの形成は幾つかのマイクロ・クラスターを形成して、その集合体をマクロ・クラスターとします。今帰仁村のマクロ・クラスターを観光業クラスターと仮にします。旅館業者、飲食業者、食品加工業者、観光業者、レジャー業者などのマイクロ・クラスター業者を含みます。いずれマイクロ・クラスター業者ごとにリーダーが自然に現れ、フォロアーが続きます。リーダーは時代の要請や流行によって入れ替わります。そうすることでダイナミックな企業間連携を可能にするマクロ・クラスターへ変貌していくのです。これは一世代30年、いやそれ以上の単位で考えることです」
    「仰っていることは、壮大過ぎて、やれるかどうか・・・。」
    「與那嶺さん、遅かれ早かれ沖縄県全体が動き出します。いや沖縄県だけではありません。日本中で地域ごとに動き出します。それぞれの地域の特徴を生かした地域再生は、今に始まったことではありません。成功する地域もあれば、結果が出ない地域もあるでしょう。それはその地域に存在している特殊生産要素によるといえるでしょう。100年後の今帰仁村のために、今の時点で今帰仁村に特殊生産要素がなければ、新たな特殊生産要素の形成を始めるのです」
    「竜崎さん、私たちはそろそろ那覇に帰らないと」新垣が頃合いを見て言った。
    與那嶺は、竜崎の持論を役場の定例会議で説明することを考えていたが、上手く説明できるか不安だった。
    「また相談させてください。スイカ農家への訪問は、また今度ということにしましょう。今日は遠くからありがとうございました」と丁寧にお辞儀をした。
    「いえ、こちらこそ。與那嶺さん、やれますよ、きっと、あなたなら」と言って與那嶺と別れた。
     
     新垣が、竜崎に本部町の備瀬で夕日を見て帰ろうと誘った。本部町まで古宇利島から30分のドライブだった。駐車場から続く石畳の先には海が広がっている。浜辺には既に夕日目当ての人が集まっていた。海は凪いでいた。水平線から10cmほど上に夕日があった。夕日の右側には先が尖がった山がある島があった。
    新垣が「あそこのとんがった三角山のある島は伊江島です。私はあそこで生まれて、育ちました」と言った。
    「へー、そうですか。ご両親は島に?」
    「母と祖母が」
    「島には時々帰るんですか?」
    「年に数回は帰っています。母と祖母に会いに」
    「そうですか。私は実家に帰るのは年に1回かな」
    「ご両親は?」と新垣が訊いた。
    「父も母もピンピンしています。だから私は好き勝手できて、両親には感謝しています」
    「伊江島はどんなところですか?」
    「島の生活はのんびりしていて、時間が止まって感じます」
    「スローライフですね」
    「10代の頃は、島の良い所をよく理解してなくて、島って狭いでしょ。皆が知り合いで、いろんな意味で。時々窮屈に感じたりして、早く島を出たいと思っていました。都会に憧れて東京の大学に行こうかと思った時期もありました。でも私には無理だと分かりました。高校2年の夏に嵐のコンサートを観に、東京に友達と行ったんだけど、人の多さに圧倒されて、地下鉄に乗っているうちに、気分が悪くなっちゃいました。なんか歩いていても、右も左も分からなくて、前から来る人は、私を避けて通り過ぎていって。よく人の波とかって言う表現を使うけど、その通りですね。押し寄せる人の波に怖くて何度も立ち止まりました。そしたら、後ろからも波が来ていて、私を避けて通り過ぎていって。不思議なことに前から来る波と、後ろから来る波は、ぶつからずに私の所で上手く互いに通り過ぎて。やっとたどり着いた嵐のコンサートは楽しかった。でもコンサート会場の人の多さにも圧倒されて。コンサートなのだから人が多くて当たりまえなんですけど・・・。凄く窮屈に感じて、息苦しくて、頭がふらふらしてきて、その時、都会では住めないって分かりました。その経験を境に島が凄く好きになりました。今では島の良さをちゃんと理解しています」
    竜崎は、新垣が話している途中で表情が曇ったことに気づいた。普段の新垣は明るい。だが普段とはちがう、急に顔色が曇り、どんよりと重い悲しげな表情をすることに竜崎は気づいた。新垣と仕事を始めて2週間しか経っていない。しかし竜崎の観察力は鋭かった。新垣の表情が暗くなる時は、いつも決まって過去の話をする時だった。竜崎はそんな新垣の過去が気になった。
    太陽は下に降りるほど色を濃くしていった。夕日は水平線上に浮かんでいた。クリームソーダのアイスクリーム状態だ。黄金色の太陽は、濃いオレンジ色に変わって燃えていた。オレンジ色が海に染み、太陽から自分たちのところに、まるでオレンジ色の桟橋を掛けているかのようで、でもその桟橋は波に揺れて儚さを感じさせた。
    「今度伊江島にも行ってみたいな」と竜崎が夕日を見ながら言った。
    「ええ、今度行く機会があれば」と新垣が返事した。
    海に沈むオレンジはすこしずつ姿を隠していく。周りの観客から自然の劇場に歓声が聞こえてきた。集まった観客は、皆口々に綺麗だと何度も何度も言い合って感動を共有し合っていた。
    最初、竜崎は夕日の雄大さとその美しさに見とれたが、太陽が半分ぐらい沈んだころには、竜崎の視線は、新垣に移っていた。新垣の瞳に移るオレンジが少しずつ消えていくのを見ていた。新垣の瞳が大きい黒になった。
    新垣が竜崎の視線に気づき、気まずそうに、「さぁ、帰りましょう」と言った。
    竜崎は、新垣の瞳に移った太陽に見惚れていた自分に気づき、平衡に何とか保とうと、何か言おうとしたが、言葉が出てこなかった。
     
     
     
    4章 国頭郡本部町 2021年4月 わかなつの季節
     
     初夏が始まっていた。古宇利島に行った翌週、竜崎と新垣は、本部町に視察に来た。新垣たちは、本部町観光協会の辺士名と備瀬ビーチに近いカフェで待ち合わせた。辺士名は新垣が提案した今回の打ち合わせ場所に当初難色を示した。本部町観光協会での打ち合わせに固執したが、最後は新垣の竜崎に本部町の良い所をみてもらいながら話したいとの希望をしぶしぶ受け入れた。
    竜崎が到着した時には、新垣と辺士名が既に到着ていて立ち話をしていた。新垣が何度も頭を下げていたのが見えた。恐らく新垣は、提案した打ち合わせ場所を辺士名に受け入れてもらったことに対するお礼をしていたのだろう。
    新垣は、小走りで近寄ってきた竜崎に辺士名を紹介した。
    「辺士名さん、こちら竜崎さん」
    「竜崎さん、本部町観光協会の辺士名部長」
    「時間を取っていただきありがとうございます。本日はよろしくお願いします」と竜崎が挨拶した。
    「初めまして本部町観光協会の辺士名です。わざわざ那覇からですか」と嫌味混じりに言った。
    「ええ、私はアナログ人間で、実際にお会して話さないと駄目で・・・。どうもビデオ会議っていうのは苦手でして」と竜崎が額の汗をハンカチで拭きながら言った。
    「コロナで何処もかしこもリモートで、ビデオ会議は苦手でしたが慣れました」と辺士名が返した。
    辺士名は本部町生まれ、本部町育ちの生粋の本部人で、本部愛が強い生粋のうちなんちゅー(沖縄の人が沖縄育ちの人を指す言葉)である。白髪の髪が七三に分けられていた。年齢は60をゆうに超えていそうだった。白ベースに茶色のヤシの葉柄のかりゆしシャツが似合っていた。
    カフェに入った3人は観光客の迷惑にならないように、観光客のテーブルから離れた奥の席に座った。3人はコーヒーを注文した。
    辺士名は、コップの水をごくりと飲むと、「始めましょうか」と言い竜崎に視線を送った。
    例によって竜崎は、辺士名に本部町に関して観光名所や物産などの説明を求めた。
    そんなことも知らんのかと言わんばかりに、辺士名の冷ややかな視線が竜崎に刺さった。
    「一応調べてきましたが、本部町のことは辺士名さんの方がよく知っていると思いまして」と丁重に説明を求めた。
    辺士名が、渋々説明を始めた。
    「本部町の観光スポットとしては、美ら海水族館と海洋博公園です。美ら海水族館は、沖縄では首里城と並ぶ観光スポットです。1975年に沖縄国際海洋博覧会が本部町で開催され、1976年にその跡地に海洋博公園が設置されました。
    それからフクギ並木です。備瀬のフクギ並木は琉球王朝時代に、250年以上前ですが、防風林として植えられました。今では沖縄を象徴する風景となっています」
    「ありがとうございます。本部町の観光スポットは、はっきりしていますね」
    竜崎は続けた。
    「フクギ並木は、住民の方々が250年も前から守り続けてきたからこそ観光地としての備瀬がある。この風景を観に観光客が訪れる。まさにこの地域は風が強い気象条件と海辺で砂が舞うという場所が防風林を必要とし、潮風に強いフクギが防風林として選ばれた。そしてフクギを250年間住民が守り続けてきた。備瀬の気象条件で生まれたフクギ並木をこの土地の風土として大切に守り続けてきた住民の慣習が、ここ備瀬の特殊生産要素です」
    「なんねー、その特殊・・・。やまとんちゅー(沖縄の人が本土に住む人を指す言葉)の言うことはようわからないねー」いきなり面を食らった辺士名は、竜崎に怪訝な顔付きで尋ねた。
    竜崎は、特殊な気候や地形、地域に古くから備わっている伝統や文化であったり、その地域に住む人々の気質であったり、慣習だったり、そういったものをその地域に備わる特殊生産要素と言います。そして、その地域に由来する特殊生産要素が、地域の競争力の源泉になると説明した。
    「なんだかさっぱりわからないねー」辺士名の表情は、豆鉄砲を食らったかのように、ポカーンとしていた。まるでクエッションマークの吹き出しが頭から出ているようだ。
    「すみません、分かりにくくて」と竜崎が申し訳ないと言わんばかりに続けた。
    「ローマを訪れる日本人観光客は多いですよね。ローマが、観光客を引きつける魅力は、ローマの歴史・文化そのものなんです。古代ローマの遺跡、フォロ・ロマーノはロマンそのものです。ローマ時代の歴史的建造物が街の至る所にある。確かに多くの歴史的建造物に観光客は引き寄せられる。しかし、建造物は人が作ったものであり、何世紀にも渡りそれを愛し守ってきたローマ市民がいて、彼らによって歴史が作られ、伝統が蓄積され、文化が育まれる。つまりは、観光客を引き付けるのは歴史、伝統、文化といった、その地域に存在する特殊な要素でありローマ市民なんです」
    竜崎は続けた。「ジンベイザメのいる美ら海水族館は、沖縄に来たら、必ず訪れる一大観光スポットですね。では100年後、300年後に美ら海水族館が存在していたら、どんな水族館になっているか、想像しただけで、わくわくしませんか?美ら海水族館は、今も沖縄を代表する観光スポットですが、本部町と住民がちゃんと愛し続ければ、100年後には世界を代表する水族館になっているかもしれない。世界中から観光客が美ら海水族館を訪れるために本部町に来ると思いませんか。いつか世界遺産になっているかもしれませんよ。しかし美ら海水族館は100年後には存在していない可能性もあります。美ら海水族館の未来は本部町住民と町行政に委ねられていると言っても過言ではありません。フクギ並木と同じです」
    「ふん」と辺士名の鼻から息がもれた。辺士名はそんなことは百も承知であるかごとくの反応だった。
    構わず竜崎は続けた。
    「私は水族館のような施設をソフトなインフラストラクチャーと呼んでいます」
    「え、それ、なんねー。やまとんちゅーの言うことはわからんさー」
    辺士名は、眉間に皺をよせて、訝しそうな眼付で竜崎を見た。いらつきを隠せず、今にも怒り出しそうだった。沸騰したやかんのように、辺士名の赤らんだ顔からは湯気が出そうだった。
    新垣が、状況を察して言った。「少し早いですが、そろそろお昼にしませんか」と割って入った。新垣が割って入ったタイミングは絶妙だった。
    新垣のランチ提案は辺士名の熱を一瞬にして冷ました。
    会話をしているとき、竜崎は笑みを忘れなかった。竜崎は人と話すのが大好きで仕事上であっても同じだった。
    「沖縄そばはお好きですか」と辺士名が気を取り直して竜崎に訊いた。
    「大好きです」と竜崎は即答した。
    「フクギ並木を先に行ったところに景色のいいそば屋がありますが、どうですか」と辺士名が新垣と竜崎を見て訊いた。
    「いいですね、今日は天気も良いし、そこにしましょう」と竜崎が、頷きながら返事した。
    辺士名は平常心に戻っていた。フクギ並木を3人は縦一列になって歩いた。辺士名が先頭を歩き、竜崎、新垣が続いた。
    竜崎が「琉球王朝時代も同じ風景だったと思うと感慨深いですね」と辺りをきょろきょろしながら言った。
    太陽の直射日光が差さない並木道は幾分涼しく感じられた。所々に木漏れ日が射し足元を照らしていた。観光客らしき人たちと行きちがった。車が通ると、人が脇を歩くのがやっとの狭い並木道を進み、何本か交差する小道を通り過ぎ、海のほうに抜ける細道に店はあった。バラックのような簡素な作りの小屋に、庭にテーブルとイスが数セット置かれていた。3人は木越しに伊江島が見える席に座った。
    「ここはスペアリブの沖縄そばが有名なんよ」と辺士名がメニューを見ながら言った。
    「じゃー私はスペアリブの沖縄そばにします」と竜崎は2人を見て言った。
    辺士名がソーキそば2つとスペアリブ沖縄そば1つと店の亭主に注文した。
    「ここで食事しながら見る景色はプライスレスですね。この景色を見ながら、美味しい沖縄そばを食べられる。これは凄いことです。ローマのコロッセオやバルセロナのサグラダファミリアを観ながらピザやパエリアを食べるようなものですから」と竜崎が辺士名に言った。
    今までにこりともしなかった辺士名に笑みが零れた。竜崎の例えが受けたみたいだ。
    新垣が辺士名に「沖縄そばは、地域色もあって奥が深いですね」と食べ物に話題を振った。食べ物は竜崎の得意分野であることを分かったうえの振りだった。
    訊かれた辺士名も美食家であったので、嬉しそうに答えた。
    「そうなんです。北部の名護そばは、平打ち麺でもちもちしているのが特徴です。名護はソーキそば発祥地なんですよ。ソーキそばを最初に始めたお店が名護にあります。そばが好きだったら行ってみるといいねー」と少し鼻高げに辺士名が言った。
    「ええ、貴重な情報ありがとうございます。今度行ってみます」と竜崎は辺士名と新垣を見て返事をした。
    新垣は辺士名の様子が解れたのを感じ、内心ほっとした。辺士名は地元愛が強く、やまとんちゅーと聞いただけで機嫌が悪くなると聞いていたからだ。
    そんな辺士名だったが、新垣からの依頼は仕方なしに受けた。辺士名は新垣が伊江島の出身であることなど、新垣の事を比嘉から聞いていた。辺士名は新垣の上司の比嘉とは大学の先輩後輩にあたり、比嘉からよろしく頼むとの連絡を受けていた。
    店の亭主がそばを運んできた。
    竜崎はスープを蓮華で掬い口に流し込んだ。優しいうま味が口いっぱいに広がった。
    「このスープは優しくて、コクもあり、実に美味しいですね」と最初の一口を食べた後に感想を言った。
    「そうでしょ。ここは豚、鶏、鰹の合わせだしです」と辺士名が説明した。
    「良くご存知ですね?よく来るんですか?」
    「ええ、まあ」
    「麺は腰があって、もちもちですね。このスペアリブも立派ですね。柔らかくて美味しいです」
    辺士名は、竜崎が美味しそうに食べるので、沖縄各地のそばの種類について一通り説明した。辺士名の口元にネギが付いていることを、辺士名に言うか、竜崎は迷ったが、新垣も何も言わないので気づかないふりをした。
    竜崎は、ソールフードとして各地域の特徴を残すのは、その地域の食文化を継承していくことに他ならない。他地域のとの差別化につながり、地域の食文化の豊かさを生み、ひいては将来の地域の魅力になると説明した。
    食文化に関して、辺士名は竜崎の言っていることに心の内で賛同していた。
    「竜崎さんの言っていることは、はっきり言って解かり難いけど、地域の食文化の継承は、私たちにとって重要なのはわかるさー」と辺士名が竜崎に視線を向けて言った。
    竜崎は、最後の一啜りし、出汁まで全て飲み干した。「あー、美味しかった。沖縄そば大好きです。ただ、沖縄そばは、腹持ちが良いと言うか、どっしりくるというか。これは私の気のせいですかね」
    「良いことじゃないですか」と新垣が辺士名を見ていった。
    辺士名はただ頷いていた。
    竜崎は説明が足りなかったと辺士名をちらりと見て、新垣に言った。
    「というか、なんか、私が今まで食べてきたうどんやそばとは違って、少しずつ消化するというか、消化が遅いというか・・・、麺が胃の中でとぐろを巻いているようで、」と言い足し、口元を拭き、額の汗を拭った。
    辺士名は「そうですか。そんなこと感じたことないねー。子供の頃から食べているからかねー。新垣さんはどうね」と新垣に振った。
    新垣は「私も沖縄そばが消化し難いなんて感じたことはないです」と辺士名と顔を見合わせ、辺士名に同意した。
    辺士名の口元からネギは無くなっていた。竜崎が口元を拭き取ったのを見て、辺士名も口元を拭き取っていた。竜崎は、もしかすると自分の口元にもネギが付いていたのかもしれないと思った。
    辺士名が打ち解けているのを見て、竜崎はそれ以上沖縄そばの話を続けるのを止めた。竜崎は新垣の機転に救われたと思った。
    本部町には食材とか食べ物で観光客に有名な物産はあるか竜崎は辺士名に質問した。
    辺士名が即答した。「本部牛。沖縄のブランド牛は美味いよ」
    辺士名は続けた。「竜崎さん、知っていますか?実は沖縄県は子牛の生産地としても有名で、黒毛和牛の取引頭数では、県別で4位なんよ。黒島も子牛の生産地として有名さー。県産の子牛は県外に出荷され、各地のブランド牛に育てられます。つまり沖縄のブランド牛は全国ブランド牛と同等レベルの肉質を誇っていると言うことよー」
    「それは知りませんでした」と竜崎が返した。
    「沖縄のブランド牛は、我が本部牛以外に石垣牛、美崎牛、山城牛があるさー」と辺士名が付け加え、「そう言えば、伊江島にも伊江牛があるねー。伊江島の牛も多くが子牛のうちに出荷されるよねー」と新垣に話を振った。
    新垣は頷き伊江牛も子牛の出荷が多いことを同意した。
    「新垣さんは伊江島には帰る?」辺士名が新垣に唐突に訊いた。
    「ええ、数か月に一度は帰っています」
    「ご家族は?」
    「おばぁとおかぁはおかげさまで元気です」
    「そうねー」
    「ええ、2人とも畑にでています。私もおばぁになったら島に帰るつもりです」
    「そうね。それがよかー」
    竜崎は新垣と辺士名の話を聞きながら、二人越しに、遠く伊江島を眺めていた。
    辺士名も食べ物の話で竜崎と意気が合ったことで、竜崎の話を聴く気になっていた。
    「美ら海水族館のことをソフトなインフラストラクチャーって言っていましたが」と辺士名が竜崎に訊いてきた。
    「ええ、そうでした」と言い、説明を始めた。これはあくまで私の持論ですが、インフラにはハードなインフラとソフトなインフラがあります。と言うか、インフラをハードなインフラとソフトなインフラに敢えて分類して考えます。そして、テクノロジーも同様にハードなテクノロジーとソフトなテクノロジーに分けて考えます。これらはあくまで言葉の定義です。ハードなインフラから生み出される技術をハードなテクノロジー、ソフトなインフラからはソフトなテクノロジーと言った具合です。テクノロジーを生むにはインフラが必要で、夫々のインフラとそこから生まれるテクノロジーが融合しあうことで競争力の源泉になると考えます。
    「また、難しいねー」
    辺士名の顔つきは食事前とはちがい和らいでいた。竜崎の説明を聴いて理解しようとしていた。
    「すみません。説明が足りませんね」
    例えば、工学技術研究センターといったハードなインフラからは高度なメカニック技術や精密加工技術などのハードな工学技術が生み出されます。医科学研究所のようなハードなインフラからは、バイオ技術や医療機器技術などが生まれます。他方、美術館はソフトなインフラと定義します。子供の頃から絵画に多く接することができる子供は、自然と絵心が育成されたり、色彩感覚が優れたり、芸術を愛するようになると思うんです。言うまでもなく、優れた絵を鑑賞できる場所は美術館です。例えば美術館というソフトなインフラから育まれる色彩感覚や芸術に纏わる技術はソフトなテクノロジーと定義します。美術館や博物館などのソフトなインフラが、村や町に多く存在すればするほど、その村や町で育つ子供には美意識が備わってきます。例えば芸術大学のキャンパス内では美意識の密集率が高いですよね。芸術大学はソフトなインフラの一つです。村や町のような大きな共同体になれば、芸術大学よりも、ずっとそのような意識は薄れます。しかし、他の市町村と比較したらどうでしょう。きっと有名な美術館のある地域に住む住民の美意識偏差値は、そうでない地域と比べれば高いと思います。パリにはルーブル美術館、フィレンツェにはウフィツィ美術館があります。地元の人たちは子供のころから世界の巨匠たちが残した絵画に接しています。当然、芸術感覚、色彩感覚が知らず知らずのうちに養われます。パリやフィレンツェの住民の美意識は、きっと世界的に比較すれば、ずば抜けていると思います。パリやフィレンツェでは多くの芸術家を輩出するし、優秀な芸術家が世界中から集まってきます。その人たちの中から突出した画家や芸術家がやがて出てきます。そのような人の中で、デザインを手掛ける人がいると、秀でたファッションデザイナーが出現し、ひいてはファッションブランド企業となり、世界を席巻することになります。例えばシャネルでありグッチでありプラダです。色彩感覚やデザイン力も子供の頃から芸術に接することが容易な環境の中で育つ能力であり、私の言い方をすれば、ソフトなテクノロジーです。美術館サイドでは、絵の修復や美術館そのものの修復などの技術が必要になります。修復技術は様々な技術へ繋がっていきます。例えば顔料や塗料のような化学技術ですと説明し、
    話を美ら海水族館に戻した。
     「水族館はソフトなインフラに分類します。水族館も運営側とビジター側に分け、それぞれにソフトなテクノロジーが育まれます。運営側は魚の生態の研究により、海洋生物学や海洋生物の養殖に役に立つ水産の知識が集積します。ビジター側も魚への関心を強めたり、環境への配慮に気づいたりします。現段階では美ら海水族館がソフトなインフラとしてソフトなテクノロジーを生み出し、競争力の源泉になり、世界で戦える企業を生み出すかどうかは分かりません。しかしながら、100年後はどうでしょうか。水族館には、未だ見えていないポテンシャルのある未知のパワーがあると思いませんか?わたしはそんな美ら海水族館の未来を想像すると、ちむどんどんします」説明が長くなってしまいましたと竜崎は頭を下げた。
    ちむどんどんは、竜崎が最初に覚えた沖縄口の一つだった。
    辺士名は「沖縄の言葉、ちむどんどん、いいね」と右手の拳を握り、親指を立てた。
    新垣には、辺士名のやまとんちゅー嫌いは、竜崎に関しては払拭されたような気がした。
    「で、私たちは何をすればいいね?」と辺士名が訊いてきた。
    「例えば、現存しているフクギは250年以上も前からのものです。海岸沿いに新たにフクギの植林を増やすことはできないでしょうか。つまり、フクギ並木を延長・拡大する事業を今後10年、20年かけておこなうというのは。新たに植林したフクギ並木の周りには、カフェやレストランなどの業者にもっと出店してもらい、その収益の一部をフクギ並木事業に寄付してもらったり、店舗の利益に課税される法人住民税からフクギ並木事業に充てるのは如何でしょうか。
    私は北部地域への観光客はまだまだ増えると思います。残念ながらオーバーツーリズムによる問題も発生すると思います。観光促進による観光客増加による地域経済の活性化と、その副作用であるオーバーツーリズムによる地域環境の悪化という背反する状況にも対処していかなければいけません。
    美ら海水族館ですが、本部町がコラボして、海洋生物や水資源や環境をテーマとした催しを子供向けに面白く開催するのはいかがでしょう。海洋生物と環境の子供サミットの開催とかも面白いのではないでしょうか。他の市町村ではできない、美ら海水族館がある本部町だからできる催しがあると思います。美ら海水族館での子供の頃の体験学習によって、その子たちの中から海洋生物学や海洋環境学の道に進む子供が出てくると思います。子供の頃の感動体験は、その後の人生に少なからず影響すると思います」
    「竜崎さん、1975年に海洋博覧会が催されました。その跡地に、国営の海洋博公園が整備されました。熱帯ドリームセンターやプラネタリウムのある海洋文化館などの施設があります。そういった施設で子供向けのイベントを企画して既に行っています。それでは不十分だと」と苦虫を潰した顔で反論した。
    「いいえ、不十分だなんて言っていません。様々の試みを行っているのは十分承知しています。私は単に私の持論と意見をお話ししているだけです。参考にしてもらえるところが一つでもあればそれだけで結構です。ミクロサイドとして民間企業のやるべき事とマクロサイドで行政のやれること。単なる水族館ではなく、ソフトなインフラとしての水族館が、ソフトなテクノロジーを生む施設にするのに、行政のアシストは欠かせないと私は思っています」
    「やっぱり、竜崎さんの言っていることは、難しくて、よーわからんさー」
    辺士名の顔つきが再び厳しくなった。
    新垣は場の雰囲気を読み、先週今帰仁村に行ったときに、寒緋桜の咲くころの今帰仁城跡についての話があったことを思い出して、辺士名が言わなかった本部町の観光地を口にした。
    「辺士名さん、寒緋桜の咲くころの八重岳には多くの観光客が訪れますよね」
    「そうそう、そーねー、八重岳ね、言うのを忘れてたさー」と白髪の頭を搔きながら言った。
    竜崎は今帰仁村の與那嶺との打ち合わせの後、寒緋桜に関して調べていた。
    「私はまだ寒緋桜を見てないですが、日本で一番早くに咲く桜で、寒緋桜の花は、下に向かって咲くらしいですね。山に咲く桜と言えば吉野の桜を思い出します。三伏から、秀吉・家康まで、さまざまな人々が作り上げてきた吉野の桜の歴史は、観賞用に植えた桜とは一線を画します。当時としては革命的な『秀吉の花見』、山を貸し切り、桜以外にも、能、歌、茶会など色んな催しが開かれたといいます。1300年もの間、吉野の桜を支えてきたものは『桜守』です。献木、植樹された桜を管理している人々の、桜を愛して育ててきた風土がそこにあったから今の吉野の桜があるんだと思います。八重岳に寒緋桜を献木し、植林し、守り続けていけば、いつか秀吉のような人が現れますよ。つまり、八重岳で寒緋桜の咲くころ本部町の伝統・文化を紹介する催しがあったりすると良いですね。県の行事かもしれないし、企業のイベントかもしれません。八重岳を訪れる観光客に本部町の物産を刷り込む戦略も良いと思います。いかがですか。例えば本部産の果物のお菓子とか。あるいは寒緋桜の花びらを載せた大福とか。花見をしながら本部牛のバーベキューとか」竜崎は思いついたことを述べた。
    「吉野の桜と備瀬のフクギは似ているかもしれませんね。少なくとも何百年もの間、住民が守ってきた点では。八重岳の100年後はどうなっているでしょうね」と付け加えた。
    「まだまだ知らないことが多くて、沖縄について勉強中です」
    「竜崎さんは、沖縄に来てどれぐらいね?」と辺士名が訊いた。
    「まだ、1か月です。」と竜崎が答えると、
    「そうね。それでは知らない事ばかりだねー」優越感を滲ませた辺士名は幾分胸を張ったように見えた。
      フクギの並木道を戻る途中に何組もの観光客とすれちがった。竜崎は観光客とすれちがう度に、こんにちはと挨拶を忘れなかった。辺士名と新垣はそんな竜崎を見ていた。
    駐車場で辺士名に丁重に礼を言い別れた。
    別れ際に辺士名は竜崎に「伝統・文化・風土の継承が観光にとって重要なのは良く分かってます。また、本部町に来ることがあったら立ち寄ってー」と言った。
    辺士名は、すれちがう観光客に挨拶をしている竜崎を見たときに、もし、備瀬の住人が竜崎と同じように観光客に挨拶をするようになると、観光客の備瀬に対する印象はどうなるだろうかと思いが至った。答えは明白だった。
     
     
     
    5章 恩納村 2021年5月 スーマンボースー
     
     沖縄では5月のゴールデンウィークが終わると梅雨の季節に入る。スーマンボースーの季節だ。曇りと雨のすっきりしない日が続いていたが、晴れマークが週末に出た。二人は休日を利用して恩納村に来ていた。ムーンビーチにある、老舗ホテルのカフェラウンジでビーチを眺めながら話していた。コロナ禍でなければ、観光客で賑わうラウンジは、緊急事態宣言下で閑散としていた。人気のないビーチはどこか寂しそうに見えた。
    最近進出してきた欧米系の超有名なホテルと以前からある日系の老舗ホテルが、恩納村に乱立していた。ホテルに隣接するビーチは良く整備されている。恩納村は、既に一大ビーチリゾート地としての地位を確立している。沖縄への観光客数は、コロナ前はハワイを超える勢いだった。
    恩納村には美しい海、白い砂浜のビーチがある。しかも空港から2時間弱の立地である。ここはそれだけで世界的に競争していける。恐らくそのポテンシャルからすると、今の観光客数の3倍にはなるだろう。ビーチのアクティビティも豊富に用意されている。隣接するゴルフ場もある。十分観光客を引きつける観光インフラは整っている。
    コロナ禍でなければ、プールには家族連れの弾ける声。青く輝く海上では水上バイクに引かれて、波間を白しぶきを上げながら快走するバナナボートに乗った若者たちの黄色い声が聞こえてくるはずだった。
    恩納村には青い海という無敵な観光資源がある。でも竜崎は一抹の不安をどこかで感じていた。はたしてそれだけで十分なのだろうか。100年後の恩納村はどうなっているだろうか。
    新垣はアイスティーをコースターに置いた。上の方の氷が崩れ、カランと音を立てながら、透き通った薄いブラウン色の液体に落ちた。氷から透明の液体が溶け出しブラン色の液体に滲んでいく。
    新垣は竜崎の曇った目の中の不安を読み取っていた。
    「竜崎さん、恩納村に何か問題でも」
    「いや、今は問題ない。でも持論なんだけど、鉄壁と誇る城は、歴史の教訓からすると、必ず崩れ落ちる。なにも問題ないことが不安なんです」
    「え、言ってる意味がわからないわ。どういうこと?」
    「綺麗な海があるから今は勢いで欧米系のホテルが進出してくるけど、それだけでは駄目なんだ。今は私にも分からないけど、恩納村にも何か特殊な、この地域の細胞のようなものを限りなく増幅させるような仕組みを、風土とか文化を通じて培っておかないと、100年後、300年後の未来が危ない気がするんだ」
    「例えばどういったものですか?」
    「恩納村に特有な文化とか伝統とか地域に根差した特殊な感性とか個性とか。地域に根差す感覚や個性は地域の細胞のようなもので、それらが文化や伝統や風習を育み、その地域に住む人を無意識に動かすんだ。文化や伝統や風習は時代と共に少しずつ進化する。人は、細胞を超越しては生きられないのと同じく、地域も一流ホテルの存在だけで繁栄し続けることはできない。そこには細胞として進化し続ける地域特有の感覚や個性があって、作り上げられた文化や伝統や風習が、人や地域を制御したり、行動させるんだ」
    新垣は、ムーンビーチに白いさざ波が繰り返し寄せるのを見ながら、竜崎の言ったことを暫し考えていた。
    「なんとなくは分かるけど、やっぱり私にはよく解らない」とぼそっと口にした。
    「話は変わるけど、恩納村には沖縄科学技術大学院大学(OIST)や沖縄電磁波技術センターとか先端技術研究機関があるのを知っていますか?」波間を見ていた新垣が竜崎の方を向きなおって言った。
    竜崎の目が大きく開いた。竜崎は飲みかけていたアイスコーヒーをコースターの上に戻した。アイスコーヒーの入ったグラスの表面に付いている水滴が、グラスを辿りコースターに吸い込まれた。
    「知りませんでした。それは以外だな。沖縄屈指の観光リゾート地である側面と先端技術研究所か・・・。実に興味深いな。ハードなインフラが恩納村にはあるってことか。サンゴ礁の研究やサンゴ保全に取り組む活動が上手くリンクするような仕掛けを作るとか、美ら海のある本部町とコラボして海洋資源に関する取り組みを促すとかもできそうですね」
    「恩納村は、海ぶどうやもずくの養殖が盛んだし、パッションフルーツや菊の栽培もしていますよ」
    「ちゃんと農水産業が地域産業として根づいているんだ」と竜崎が言ったことに、新垣が「沖縄は昔、三山の時代があって、北山、中山、南山の三つの地域が分立していて、それぞれ自立していたから、それぞれの地域で自活できていて、三山が統一されて琉球王国になったのよ」と言った。
    その時竜崎は、沖縄の地域の伝統と文化の理解には、琉球王朝の成り立ちと王朝時代の伝統・文化・風習を知らないと、地域に土着している特殊な要素を深く理解できないと思った。
    「私には養殖に関する技術のことは分からないけど、日本の農業は品種改良の技術は世界一だと思う。苺やぶどうなどは世界中に輸出できる。世界に誇れる果物だと思う。良く分からないけど、海ぶどうの品種改良とかはできないのかな」
    なぜか新垣には凄くうけたみたいで笑い出した。
    「それって葡萄つながり?海ぶどうは果物じゃないですよ。海ぶどうは海藻です。わかめとかと同じ」
    「私だって海ぶどうが、果物じゃないことぐらいは知っています。でも品種改良はできるのでは。もっと美味しい海ぶどうにできないかなって」
    「環境変化に強いもずくの品種改良とかは研究されていると聞いたことがあります」
    「沖縄ならではの世界に発信できる最先端研究なんてわくわくする。沖縄で海洋環境や海洋生物の学術会議を行うのも悪くない。新垣さん、今度OISTに行って話を聴いてみましょう」
    「分かりました」
      乾いた喉をアイスティーで潤して、新垣は「私は、カタルーニャに関してもっと知りたいさー」と話題を変えた。
    「カタルーニャには独自の文化があって、言葉もスペイン語とはちがうカタルーニャ語が話されているんだ」
    「うちなー口みたいね。竜崎さんは、カタルーニャ語は話せるの?」
    「少し。あっちで10年も仕事していたから。でもどうしてもスペイン語ができる外国人は、スペイン語に頼ってしまいがちになって、カタルーニャ語の習得は疎かになってしまう。そうこうしているうちに10年なんかあっという間に過ぎてしまった」
    「言葉がちがうのは不便ですね」
    「日本人的な感覚だと不便と考えるのかもしれない。でも彼らは、全くそうは思ってなくて、むしろそれがアイデンディーの一部を形成しているから、誇りと感じている。だからカタルーニャ人の家庭ではカタルーニャ語で話す家庭が多い。沖縄の言葉は私には全く理解できないから、カタルーニャと状況は似ているかもしれない。決定的なちがいは、カタルーニャではカタルーニャ語は公用語だし、カタルーニャ語の教育が学校で行われていることですね。沖縄の言葉が廃れないようにしてほしいな」
    「以前、カタルーニャは、スペインから独立を目指しているってニュースでやっていたけど、それ、ほんとですか?」新垣は以前からの抱いていた疑問を竜崎に訊いた。
    「うん」と竜崎は首を下に何度か振り頷き、「カタルーニャ人の半分ぐらいはそう思っていて、残りの半分は独立には反対です」と話を続けた。
    「複雑ね。なんで独立したいのかな?」
    「それはカタルーニャの歴史に由来していて。以前、カタルーニャは国だったんだ。それが歴史の流れのなかでスペインに統一されることになった。カタルーニャはその独立運動とそれに対する弾圧と迫害の歴史を辿って。カタルーニャには今もナショナリズム派の人たちが多く、極右な考え方をする人たちもいる。なかなかよそ者には分からない歴史的・文化的背景がある」
    「歴史や文化を理解するのは簡単じゃないですね。それは私たちがいる沖縄も同じかも」と新垣が言った。
    「サグラダファミリアは壮大な建造物ですね。百年以上かけて建造しているんだから」と竜崎が言うと、
    「そうねー」と新垣が頷いた。
    「実際にみると圧倒されますよ」
    「サグラダファミリアを見ながらパエリアとか食べたいな・・・」
    「実はパエリアはバレンシア地方が発祥なんだ。辺士名さんには、分かり易く説明するのにサクラダファミリアを見ながらパエリアを食べる例をだしたけど。バルセロナのソールフードっていえばパン・コン・トマテ。ハード系のパンにトマトを塗り込んで、オリーブオイルをかけたシンプルな料理」
    「へー、美味しそうね。食べてみたい」
    「今度家に食べに来ますか?パンやトマトが現地のものと違うから少し味は変わるけど、簡単に作れる料理です」
    「わー。楽しみにしているわ。スペインと言えば生ハムとかも有名ね」新垣の屈託のない笑顔があった。
    「生ハムはカタルーニャでも作られてはいるけど、他の地域で養豚した豚で作る生ハムが有名でね。スペインの生ハムには種類があって、最高級のものはイベリコ豚で作ったものなんだ。一定期間にどんぐりを食べさせて飼育したイベリコ豚で作った生ハムは絶品なんだ。口の中で油が纏わりつくって感じで、脳神経を刺激する薬物のようなものかも。定期的に摂取したくなる麻薬性の食べ物だよ」
    「え、麻薬?体に悪そう」
    「いや、単なるおいしいを現す表現です」
    「なーんだ」食べてみたいわ、と言ってけらけらと笑った。
    「今度スペインレストランに行ってみない?」
    「沖縄にあるスペインレストランじゃなく、バルセロナで食べたいわ」
    竜崎は、新垣との会話にのめり込んでいた。
    新垣は、竜崎との会話に引き込まれている自分がいるのが分かっていた。
    竜崎も新垣もソファーに寄り掛かってリラックスしていた。新垣は普段、仕事場ではパンツにかりゆしシャツだが、休日の新垣はラフな格好だった。ブルージーンズに黒色のカットソー。黒いカットソーと対照的に新垣の腕は白く眩しかった。薄化粧も色白を際出せていた。竜崎は、新垣をじーと見つめないように気を付けていた。竜崎は、彼女の素直で飾り気がないところに救われていた。
     
     「せっかくだから、残波岬に行ってから帰りましょう。時間大丈夫ですか?」と新垣が訊いた。
    竜崎は「ええ、明日は日曜だし、家に帰っても何もすることないですから」
    残波岬は沖縄の中部、読谷村にあり、今いるところから比較的近かった。沖縄本島の最西端にあり、東シナ海に面した岬は、高さ30メートルほどの断崖が2キロも続いている場所である。沖縄本島で夕日が最後に沈む場所として知られていた。
    残波岬の光景は、今まで見てきた沖縄の海とは全くちがった光景だった。波が白いしぶきを上げて、断崖に激しくぶちあたり、飛び散ったと思えば、また次の波が容赦なく断崖に襲いかかる。強い風に煽られた荒々しい海がそこにはあった。そんな気の荒い海を宥めるかのような水色の空が被さっていた。
    竜崎には、何か海が沖縄のやるせなさを吐き出すかのように、怒りとか苦しみを断崖にぶつけるかのように、激しい波が岬に繰り返し打ち寄せているように思えた。
    竜崎の直感は、敏感に何かを感じ取っていた。体が受け付けない異物のようなものを。竜崎はそれが何かはその時は分からなかった。
    新垣の髪の毛が風に煽られていた。突風で新垣の体が揺れた。
    足元にはごつごつした琉球石灰岩があった。新垣に自然の厳しさが襲い掛かってくるかのように思えて、竜崎はとっさに新垣を守ろうとして、反射的に、新垣の腕を掴んだ。次の瞬間、直ぐに新垣の腕から手を離した。竜崎は、新垣の腕を思ったより強く掴んでしまったという気持ちが先にたった。そんな心の動揺を隠そうとして、「大丈夫?」と訊いた。
    「ええ、大丈夫。ありがとう。今日は風が強いですね。帰りましょうか」と新垣が小さく呟いた。
    「ええ」
    「また、今度風の無い日に夕日を観に来ましょう」と新垣が言った。
    「喜んで」
    きっと、綺麗だろうねとは言ったが、竜崎は何か悲しい夕日を想像していた。
    新垣の腕は筋肉質だった。新垣がバスケを中学の時にやっていたことを思い出した。
    後で分かったことだが、残波岬には太平洋戦争で沈んだ米軍の戦車の残骸や、不発弾などの遺跡が残っているとのことだった。
     
     新垣は通常の業務以外に、竜崎と訪問した市町村での打ち合わせ内容を報告書に纏める事務作業をこなしていた。観光課としての業務はコロナ禍で一変していた。沖縄県内のホテル、飲食店は、軒並み観光客の激減で厳しい状況にあり、廃業を余儀なくされた店舗も出てきた。県内のお祭りや様々なイベントが次々と中止された。那覇の目抜き通りで通常は観光客が絶えない国際道りでも見かける人はまばらだった。観光課として本来の業務ができず歯がゆい状況が続いた。
     観光課の部長の比嘉が「明けない夜はない。コロナはいずれ収束する。インバウンド需要をどのように回復させるか、コロナ後の復活を見据えて、皆で一丸となって取り組もう」と号令をかけた。
    台湾や韓国からのインバウンドは少しだが入ってきていた。欧米からの観光客もいち早く回復基調に乗っていた。残っていたのは中国本土からの観光客だったが、政治的な問題もありこちらは時間がかかりそうだった。
    コロナ禍では感染者数の日々の増減を一喜一憂する毎日が続き、政府の緊急事態宣言が全てを変えた。感染症がこれほどまで沖縄の経済を痛めつけるとは、以前は予想するものなどいなかった。
     
     
     
    6章 読谷村 2021年6月 カーチーベーの季節
     
     第3回目の緊急事態宣言が終了した。梅雨の季節も過ぎ、夏本番を迎えていた。カーチーベーと呼ばれる温かい南西の季節風が吹いている。竜崎と新垣は読谷村にあるやちむんの里を訪れていた。やちむんとは焼物の意味である。つまり陶器の里である。読谷村観光協会の平良が出迎えてくれた。「はいさーい」と陽気に右手の平をこちらの方に向け、顔の横で手を小さく揺らして近づいてきた。
    平良は、背丈は160センチちょいの小柄でずんむりむっくり、浅黒く、深く刻まれた顔しわの、沖縄の典型的なおじぃ予備軍だ。人なつこそうな人柄が全身からにじみ出ていた。平良は陶芸を嗜んだ。陶芸歴20年はなかなかのものだ。
    「本日はよろしくお願いします。竜崎です」と丁寧にお辞儀をした。
    平良は予め新垣から連絡を受けていて、竜崎たちの訪問の目的を理解していた。
    平良は会うなり「沖縄での生活はなれたー」と竜崎に訊いてきた。
    「ええ、おかげさまで。皆さん、良くしてくれますので」
    「本土とはちがうでしょうー」とまた平良が訊いた。
    「ええ、歴史的にも文化的にも沖縄は良くも悪くもちがいますね」
    「悪くもは、よけいさー」
    「あ、そうですね。失礼しました」竜崎は頭を下げた。
    「そうねー、沖縄は琉球王朝の文化や風習が根っこにあって、アメリカによる統治があったからさー。やまとんちゅうにはわからないさー」。
     琉球王朝は今から約590年前から約140年前まで、約450年間に存在した王制国家である。12世紀、日本は鎌倉時代で、沖縄では一定の政治的勢力が出現し、各地に按司(あじ)とよばれる豪族が現れた。彼らは互いに抗争と和解を繰り返しながら淘汰され、やがて佐敷の按司、尚巴志が主要な按司を統括(1429年)した。これが琉球王国の始まりである。
    やがて琉球王国は、中国や日本、朝鮮、東南アジア諸国との外交・貿易を通して海洋王国へと発展する。特に中国との交易は重要だった。しかし、1609年に薩摩藩により軍事侵攻をうけ、首里城が占領される。それ以降270年間にわたり、中国と政治的な関係を保ちつつ、薩摩と徳川幕府に従属する微妙な国際関係の中で存続していた。しかし、やがて日本の明治維新により成立した日本政府は、軍隊を派遣し首里城から国王を追放し沖縄県の設置を宣言した。
    琉球王国は、その地政学的な位置から、中国と日本の間で微妙なバランスを取りながら存続しなければならい外交・通商国家であった。
    そのような歴史を背景として、沖縄には、本土とは明らかに異なる文化があり、生粋のうちなんちゅーの平良からすると、数か月前に沖縄にやって来たやまとんちゅーの竜崎には沖縄のことなどわかるはずがないという思いが言葉の端々に出ていた。
    「そうですね。我々、やまとんちゅーには決して分からないものが、沖縄にはありますね。そこは否定しません」と竜崎は『やまとんちゅー』と言ううちなーぐち(沖縄の言葉)を使い同意した。
    「やちむんはさー、1616年に薩摩藩から朝鮮の陶器職人が派遣され、その時の技術がやちむんの基礎となったさー。1682年に当時の琉球王国の長である尚貞王が、沖縄各地に点在していたやちむんの工房を那覇市の壺屋へ集めたことで、一気にその技術力が高まったさー。壺屋で焼かれた焼き物は壺屋焼と呼ばれ、いまのやちむんの源流になった。1970年代、那覇では、焼き物を焼成するための登り窯からでる煙が公害問題になり、職人たちは読谷村に移り住み、登り窯を建設して再出発したさー」と平良は淡々とやちむんの里の説明をした。
    「そうなんですね。実に興味深い」
    「やちむんは、独特の文様や絵付けが施されるさー。魚をデザインした線彫りや立体的な線や文様を器に施すイッチン、唐草模様、印花などはやちむんの特徴でね」
    陶芸を趣味としている平良の説明は実に分かり易かった。
    「やちむんに歴史ありですね。やちむんの伝統や技法は世代を超えて受け継がれているんですね。ここ、やちむんの里は登り窯をソフトなインフラとして、工房の集積はクラスターを形成し、人間国宝となる巨匠がリーダーとなり、その他の工房がフォロワーとして、団結してやちむんを栄えさせるグループダイナミックスが機能してるように思えます」と竜崎がいつもの持論を展開した。
    当然の事ながら平良にはちんぷんかんぷんだった。
    「なんねー、そのクラスターやらグループダイナ・・・・って」と平良は眉根に皺をよせ訊いた。
    「失礼しました。クラスターとは一言で言えば群れとか集まりです。生産共同体のようなもので、ゆいまーる精神が根付いている沖縄では、集積することでその効果が発揮しやすい風土が根底にあると思います。グループダイナミックスとは集まることで生まれるグループの同調意識やシナジー効果のようなもので、グループ内にはリーダーとフォロワーがいて、フォロワーはリーダーを支えて局面を打開していく、時としてリーダーが交代しながら、ダイナミックに集団が成長していくメカニズムを言います」と竜崎が説明した。                 
    「ええっと、グループ内の相互作用から生み出される成長運動みたいなものです」と付け加えた。
    「つまり簡単にいえば、優秀な陶工には、師匠がいて、優秀な弟子が育成され、切磋琢磨することにより、より技術が高まる。時代や流行とともに、弟子たちの中らか出てくるリーダーつまり、頭とか巨匠と言っていいと思いますが、彼らが工房を引っ張っていき、伝統を未来に継承してく。そういった工房が沢山集められると、工房の中からリーダー的な工房が生まれる。時代とともにリーダー的工房は交代して地域として繁栄する。多分、やちむんは400年前から、工房内でのグループダイナミックスが発揮されていて、壺屋に工房が集められたことをきっかけに、生産共同体、つまりクラスターが形成され、壺屋で発揮されたグループダイナミックスが、今もやちむんの里でも機能していると思われます」と竜崎は説明を続けた。
    いつものように竜崎のしゃべることを一生懸命メモを取っていた新垣が口を開いた。
    「さっき平良さんが、沖縄各地に点在していたやちむんの工房を壺屋へ集めたことで、一気にその技術力が高まったって説明されてましたけど、それは竜崎さんの言ってる集積による相乗効果のことだと思います」
    平良は、正直面を食らった。今まで竜崎のような説明を聞いたことがなかったからだ。平良は、竜崎の説明に異を唱える理由が無かった。むしろ、賛同すべきではとさえ思った。
    平良は、竜崎たちの話を切るように、「説明よりも、工房を見ましょーね」と平良が百聞は一見にしかずとばかり竜崎と新垣に言った。
    「ええ」と竜崎は頷いた。
    「ここは金城陶器秀陶房。人間国宝の金城次郎から連綿と受け継がれてきた金城一門の工房です」と平良が竜崎に向き直って言った。
    「生命力を感じる焼き物ですね」と竜崎は見たままの感想を述べた。
    「そうねー」と平良は言って納得した感じだった。
    ここ読谷村に、やちむん工房が来る切っ掛けになったのは、金城氏の影響が大きかったらしいと平良は説明した。
    竜崎が、魚が描かれた大皿に釘付けになっていた。魚が皿の中で気持ち良く跳ねているかのようだ。優しく奥深い色合いで描かれた絵柄には生命力が感じられた。竜崎はスペインのマニセス焼きの魚や鳥の絵柄を思い出していた。
    平良と新垣は、先に工房から出て、竜崎が工房から出てくるのを待っている間、立ち話をしていた。平良は来年2022年3月にやちむん市がコロナの感染拡大防止のため分散開催になることを新垣に説明していた。
    やちむんフェスは、沖縄では各地で催される人気フェスとして認知されている。コロナ禍でもやちむんのフェスは、各地で規模を縮小して開催される予定で、平良はその実行委員として忙しく、この日も2時間だけと言うことで、新垣と約束を取っていた。竜崎が工房から出てくると、平良は若手の陶芸家の工房を紹介し二人と別れた。沖縄に由来した動植物をモチーフにした絵柄のやちむんは親しみが持てた。伝統工芸の中に新しい息吹が生まれつつあった。
    その後も幾つかのやちむんの工房を訪ねた後、新垣が「竜崎さん、食事どうしますか?」と訊いた。
    「どこかいい所を知ってますか?」と新垣に訊き返した。
    「沖縄そばの美味しいお店があります。沖縄そばで良いですか?」と笑顔で訊いた。
    「ええ、行きましょう」
    国道58号線の脇道に入った、沿道に松が植えられている向こう側に、間口3メーターほどの小さなそば屋だ。何人か店の外で待っている客がいた。
    待っている客は、入り口の所に置いてあるウエイティングリストに名前と人数を書いて待つ一般的なシステムだ。
    新垣は、「私たちは2番目。ラッキーだわ」いつもこの店は順番待つ人が並んで、入店までに30分以上待つのは普通だった。
    都心ではレストランに入る時に待つのはランチどきには当たり前だ。でも沖縄でお店に入るのに列を作るのは稀で、30分も待たないと入れないお店はかなりの人気店だ。
    待っている間、新垣は沖縄そばの話をしだした。
    「そう言えは、竜崎さんが以前に、沖縄そばって腹持ちが良いとか、消化しにくいって言っていたけど、たぶん本土のうどんやそばと比べればそうかもしれない。原因はその製法と調理法からだと思うんだけど。沖縄そばは小麦粉にかんすい、または薪を燃やして作った灰汁を加えて作るんです。製法的にはほぼ中華麺と同じです。今時はかんすいを使うけど、昔は、家のかまどに残ったガジュマルの木の灰を水に溶かして、それで麺を打っていたそうよ。沖縄そばは、ゆで汁にかんすいを加えてアルカリ性にして茹でて、油処理するらしいわ。うどんやそばはかんすいは使わないでしょ。それに油処理をするから、うどんや蕎麦とは製法が異なるわ。沖縄そばは少々茹でてものびないわ。うどんやそば、ラーメンは直ぐのびるでしょ。つまり、胃の中でも簡単に柔らかくならない。えーと、つまり胃の中で消化しにくいのでは。それから油処理も消化し難いのに影響しているかも」というのが新垣が出した答えだった。
    竜崎は新垣の説明を頷きながら聞いていた。「凄いね」、新垣さん。竜崎はなにか腑に落ちないところもあったが、新垣の説明にはそれなりに説得力があった。
    竜崎が、かんすいを使うとなぜ消化し難くなるのか考えていたら、店から観光客らいしカップルが出てきた。笑顔が零れていたから、美味しかったんだろうと竜崎は思った。自分たちの順番が10分ほどできた。店に入ると地元の人と観光客らしき人達が混在していた。作業着で来店している人たちは明らかに地元の客だ。写真をカシャカシャとっている客は観光客であろう。
    よくある自動販売機で食券を買うシステムだ。新垣は沖縄そばとジューシーの食券を買い、竜崎はそーきそばとジューシー、それにトッピングする味卵を買った。
    ジューシーは、沖縄風炊き込みご飯で、沖縄そば屋では必ずと言っていいぐらい一品としてある。沖縄に来てから、竜崎は沖縄そばをよく食べにいっていた。竜崎は紹介されたお店には必ず一度は足を運んだ。そば屋ではジューシーを必ず注文した。新垣が、先に奥の小上がりに三卓あるうちの空いている席に座った。
    竜崎は体が硬く座敷が苦手だった。胡坐をかいて後ろに倒れないようにするのが精いっぱいだった。幸い壁がある席だった。何とか後ろの壁に体を預けて態勢を保った。
    竜崎から正座した新垣は斜め上に見えた。新垣は胡坐をかいて窮屈そうにしている竜崎を見て可笑しかったのか、微笑んでいた。
    暫くして店員がソーキそばとジューシーを運んできた。ソーキは別に皿に盛られていた。
    早速、竜崎はソーキそばの出汁をすすった。出汁は鰹出汁が利いた優しいがしっかりした汁に仕上がっている。次にそばを食べた。そばは小麦の味がしっかりあった。麺をよく見ると、麺の色よりも濃い点々があった。なんだろうと思いをはせたが分からない。何種類かの小麦をブレンドしているのかもしれない。
    「凄く美味しいです」と満足げに言った。
    次に竜崎は、小さな茶碗に盛られたジューシーを口に運んだ。
    「うーん、美味い。豚の脂が浸み込んだジューシーだ。これ、脳の美味しい中枢を刺激するやばい奴ですね」と食レポのように感想を言った。
    「やばい奴?」新垣は訊き返した。
    「ええ、麻薬性のある、そう中毒性のある、定期的に食べたくなる奴です」と答えた。
    「良かった。気に入っていただけて」と新垣は満足そうに言った。新垣も沖縄そばとジューシーを交互に口に運んでいる。
    竜崎は、小皿に盛られているソーキを口に運んだ。とろとろという表現がぴったりで、口の中で溶けながら、甘みのある味付けと肉の脂が口内に広がっていく。あっという間に口内の味覚神経を占領した。
    「美味しい。絶品ですね」と竜崎は発した。
    「良かった」と幸せそうな竜崎を観て、新垣は微笑んだ。
    二人は沖縄そばとジューシーを堪能した。
    先に立ち上がった新垣は、一段高い座敷から下り、厨房の中のスタッフにご馳走様を言い、小上がりの方を振り返った。
    竜崎は立ち上がって、柱に捕まって右足をぶらぶらと揺らしていた。明らかに焦っている竜崎を見て、「大丈夫ですか?」と声を掛けた。
    竜崎は「大丈夫、大丈夫」と2回大丈夫を繰り返したが、歩き始めた足は、かくかくと歩調を取った。
    竜崎の様子を伺っていた新垣はにこにこしていた。
    車に戻る途中、新垣は「近くにある座喜味城にいってみましょう。世界遺産よ」と言って誘った。
     
     松林の中を舗装された小道を少し上ったところに突然それは現れた。城壁だ。精巧に積み重なった石垣が、柔らかい曲線をなしていた。座喜味城は1420年頃、建城家として名高い按司護佐丸(ござまる)によって、国王に対抗する勢力を監視する目的で作られた。城壁にはアーチ型の石門があり、強度を高めるためのくさび石を用いる技法は、当時優れた建築方法だった。
    石門から中に入り、城壁に上った。琉球石灰岩を切った石を一つ一つ積み重ねて作られた城壁は、優雅ともいえる風貌で、力強く沖縄の大地に建っていた。
    東側には森が広がり、西側には残波岬や恩納村の海が一望できた。
    「絶景ですね、新垣さん。連れて来ていただき、ありがとうございます。城壁をみると私はアビラの城壁を思い出します」アビラの城壁は、イスラム教徒の攻撃から守るために、11世紀末に建造された城壁である。重厚で緻密な石組みは、中世ヨーロッパの建築技術のレベルの高さが伺える。その美しさは、城壁という戦いのために作られていても、その外観に形となって表現される当時の建築家の美意識が高かったことが容易に想像できる。竜崎は、座喜味城を建築した当時の人の美意識に思いを巡らした。
     座喜味城の天辺から、竜崎はこの間行った残波岬の方をみながら、新垣の腕をつかんだ時の動揺を思い出していた。突風でぐらついた新垣をとっさにかばった反応であったのだが、新垣の体がピックっと反応したのを感じていた。その時、新垣も気まずかったので、とっさに、言葉が見つからず、ありがとうという言葉で、その場を繕った。
     「竜崎さん、ぼーとしているけど、何か考え事?」と竜崎を見て訊いた。新垣は、竜崎が残波岬での事を思い出していた時に、竜崎を見た。何となく少年ぽさが残る横顔だった。
     竜崎は、ふと我に返り「え、ごめん」ととっさに口から出た。
    「あやまらなくてもいいですよ」と新垣が微笑んだ。
    「読谷村の今後の観光戦略をどうしようかとか考えていました」
    竜崎は、新垣の事を考えていたことを気づかれまいととっさにごまかした。
    「そうなの」と言ったが、竜崎の表情から、新垣は直ぐに竜崎が嘘をついたことに気が付いていた。泳いでいる目をみて直ぐに嘘だと分かったが、竜崎が何を考えていたかは分からなかった。
    もうぎらぎら輝く日中の太陽ではなく、その日のお勤めを終え、帰り支度を始めて、家路に向かおうとしているがごとく、柔らかい、やさしい、茜色の太陽になっていた。新垣の顔が茜色に照り、顔の赤らがそれを一層濃くしていた。
     「1400年代の建築か。城壁しか跡が残ってないのが残念だね。正殿なんかは首里城のように木造だったのかな。それで焼失していまい、その後復元されずに今に至っているということか」と竜崎は言って話し続けた。
    「1400年代の日本は室町時代、築城ラッシュで、小田原城や熊本城が築城された。座喜味城が形が復元されていないのは、つくづく残念だ」
     新垣が、「琉球王朝時代の建築物は、今ではその幾つかは世界遺産に認定され、沖縄の貴重な観光資源になっている。一旦世界遺産に登録されると、簡単には手を加えられなくなる。今からは復元はできないんじゃないかな」と言った。
    「世界遺産のルールも、ニーズも時代と共に変わると思うよ。いつか復元されることを願うね」と竜崎が言った。
     世界遺産の登録はブームになっていて、どこも世界遺産の登録を目指すけど、竜崎はずーと疑念があった。世界遺産の登録で遺産を保護する義務と責任が生じ、国から予算が出やすくなるメリットがある。世界遺産条約は、たかだか1972年にユネスコで採択された条約だ。それ以前に遺跡や建築物は何百年も前から存在していて、地域の住民が保護してきた。重要なのは地域住民の遺産を保護し、継承していく意識で、その地域の住民に宿る特殊生産要素であって、世界遺産の肩書と登録による義務と責任のような第三者機関による監視下の保護ではないはずだと竜崎は思っていた。規則が無いと道徳を守れない。人が見てないとモラルを破る。まさしく人間の性で、先人の偉業を守り継承するという人間としての当たり前の事すら危うい時代になってしまった世の中を憂いた。
     新垣は竜崎の方を横目で見ながら、読谷発祥の織物で読谷山花織(ゆんたんざはなうい)のルーツとなる技法が東南アジアから伝えられ、琉球王府の御用布として受け継がれたことを説明した。
    「琉球は東南アジアとの通商を通じて、アジアの影響を大きくうけているよね」と竜崎が返した。
    「ただ、その織物は明治以降に途絶えてしまったみたい」と新垣が言ったことに対して、
    「沖縄は廃藩置県によって多くのものが失われたんじゃないかな」と竜崎が答えた。
    「どうして?」と新垣が訊いた。
    「琉球王朝という一国から、日本国の一県になると、色々な変化が起きる中で、継続できないものも沢山でてくるんじゃないかな・・・」と竜崎が言った。
    「今では無形文化財に指定されて復活しているんだって」と新垣が返した。
    「そうなんだ。でも無形文化財に指定されたから復活したんじゃないと思うけど。琉球王朝時代の文化や伝統は、今でも立派に沖縄に根づいていて、沖縄に宿る特殊な要素がちゃんと機能しているんだと思う」
     竜崎は、沖縄には琉球王朝文化が根っこにある。やまとんちゅーには分からないといった読谷の平良や本部町の辺士名の言葉を思い出していた。
     
     その日の夜、竜崎は、平良との話で出た琉球王国の歴史本を読み直していた。歴史には、仮には存在しないのは分かっていたが、もし仮に琉球王国が薩摩の侵攻をうけなかったら、日本政府に併合されていなかったら、今でも琉球王国は存在していただろうか。もしかすると、中国に併合され中国琉球省とかになっていたかもしれない。中国琉球省と日本国沖縄県では、どちらが沖縄にとってよかったのだろう。日本国沖縄県であったために沖縄戦で多くの戦死者がでた。過去は変えられない。今を持って過去を考えることしかできない。だとすれば、答えは明らかなのではないか。天安門で何が起こったか。香港で何が起こったか。いま、中国で何が起こっている。今後、台湾に何が起きる。琉球王国の消滅という過去を、100年後、300年後の沖縄の繁栄と栄光に繋げないといけない。歴史は変えられないのだから、今後積み重ねていくしかない。
    竜崎は、沖縄はその歴史の中で、今でも揺れていると思った。それは、もし台湾有事が起こったら、少なからず沖縄も影響を受けるからだ。


     
    7章 沖縄市コザと嘉手納町と北谷町 2021年7月
     
     3回目の緊急事態宣言は終了し、観光シーズンを迎えていた。エイサーの太鼓音と掛け声が威勢よく聞こえてきた。ドンドコドン、ハーイーヤ、イーヤーサーサー。いかにも沖縄らしい音色だ。頭にサージとよばれる布をまき、打掛と帯を纏い、太鼓を腰から吊るし、撥を振り上げ、太鼓を打ちながら、掛け声をリズムよく出し、練り歩く姿は、勇ましくすら感じる。旧盆はまだ先なので、商店街の催しか何かでエイサーを踊っているのだろうと竜崎は思った。
     沖縄市は、沖縄中部に位置し、前身は、琉球王朝時代の越来(ごえく)間切と美里間切だった。ここコザは、沖縄市のダウンタウンにあるコザ十字路から胡屋地区、中の町地区まで広がる商業圏の愛称で、米軍が越来村の胡屋地区をKOZAと呼んだことがきっかけに、コザと呼ばれるようになった。米軍基地が近いこともあり、繁華街として賑わい、民謡やオキナワロックなど沖縄芸能が盛んに行われた。沖縄の伝統芸能の一つ、エイサーが盛んで、旧盆には地域内を踊りながら練り歩く。エイサーの町として沖縄市では、毎年、旧盆の翌週末に、沖縄全島エイサー祭りがコザで開催される。沖縄市もまた琉球王朝の伝統・文化を脈々と受け継いでいる。竜崎は、エイサーの踊りを遠目にみながら、再認識していた。
     アメリカ人らしき男女数人の若者が、道端でホットドックを食べている。ケチャップとマスタードの臭いがツンと鼻につく。竜崎は、彼らの食べているホットドックを横目でチラリと見ながら、彼らの横を通り過ぎた。
    「さすが、米軍の影響を強く受けているコザならではの光景だね」と竜崎が新垣を見て言った。
    「ここのホットドック美味しいのよ」と新垣が言った。
    確かに、見るからに美味しそうだった。
    「コザにはホットドックとかハンバーガーとかアメリカンなものが合うね」と竜崎が言った。
    「そうね。米軍の影響が大きいわね。まだまだ、アメリカンなものは一杯あるのよ。シナモンロールの専門店とかね。それから沖縄で進化したタコス」
    竜崎は道路を行きかう車にYナンバーの多さに気づいていた。Yナンバーは米軍専用のナンバーである。本土ではまず見ることはない。
    新垣が「コザは皮肉なことにベトナム戦争時に、出兵していく多くのアメリカ兵で繁盛していたの。今ではアメリカ兵の数も減り、沖縄の米軍基地負担軽減の流れで、米軍人の数は、以前と比べるとずいぶん減ったわ。米軍の問題は複雑だから、なかなか本土の人には分からい問題だわ」と竜崎の横顔を見ながら話した。
    米軍に関係する事故が起こるたびに、沖縄の米軍の基地負担の不公平さが議論されるのを竜崎は思い出していた。
    「知っていますか?竜崎さん。コザで起きた・・・」
    「コザ騒動のこと?」
    「ええ」
    県民の4分の1人の命が失われた沖縄戦の後、沖縄本島中部に広大な米軍基地が建設された。それが嘉手納基地。この嘉手納基地に隣接するコザの街には、基地や兵士がもたらす繁栄を求めて南西諸島各地から人々が集まっていた。1960年代に入るとベトナム戦争景気に沸いた。1969年11月、当時のニクソン米大統領と佐藤栄作首相による会談で72年の沖縄返還が合意された。
    戦後25年、日本復帰を1年5か月後に控えた1970年12月20日未明、米兵が起こした交通事故をきっかけに、駆けつけた群衆が、米軍関係の車両を焼き討ちしたコザ騒動が起きた。四半世紀に及んだアメリカ統治への不満や怒りの爆発だった。
    騒動の3か月前、糸満市で飲酒とスピード違反の米兵が主婦を轢き殺す事件があり、無罪判決が下されたばかりだった。
    当時琉球警察は捜査権を持たず、米軍法会議で加害者が無罪になったり、アメリカへ帰ったまま未解決になるケースも少なくなかった。
    それから既に50年が過ぎ、その当時の20代の若者は70を超えている。反米、反基地への思いは、一部県民にいまも脈々と受け継がれているけど、今の若い人たちの多くは基地の存在を受け入れているようにみえる。いやもしかすると受け入れているというより、どうしようもないから考えないのか、あるいは基地の事より、他に優先することが沢山あって、自分たちの生活にしか関心がないのかもしれない。何か事件が起これば反米、反基地の運動が、消えかけた薪に風があたり、酸素が送り込まれるように、勢いを取り戻すかのように赤い炎がたぎるけど、すぐに炎はおさまり、何事もなかったように静まり種火だけがのこる。基地がある限り、反基地のくすぶりは続くように思うけど・・・と続きがあるように言葉を止めた。
    「けど何?」と新垣が訊いた。
    「時の流れには逆らえないし、いつも、いつもネガティブなことばかりは起きないと思うんだ。基地関係者が、県民の人命を救ったりすることもあるかもしれない。基地の存在が、近隣諸国に対して抑止力になっていることも事実である。誰も何が起こるかなんて予測できないし、世の中、思ってもいないようなことが起こるからね。良い意味でも悪い意味でも」と竜崎が言った。
    新垣は、竜崎の言ったことを頭では解るが、感情的には同意できなかった。新垣の曽おじぃと曽おばぁは戦死しているからだ。新垣のような若者がたくさんいるのが現実で、戦争で家族を失っていない者にはわからない。
    「隣接する北谷町も米軍の影響を少なからず受けた地域で。米軍が沖縄本土へ上陸したのは、この間行った残波岬がある読谷村と北谷町なの。今は北谷町にはアメリカン・ヴィレッジがあって、若者を中心に観光客には人気の場所になっているわ」と新垣は説明を続けた。
    そこは奇抜な、色彩豊かな建物が立ち並び、そこだけ異空間で、テーマパーク的な場所である。
    「58号線を通るときに、目を引く建物群だよね」
    「そう。行ってみますか?」
    「いい、止めときます。多分、そこは自立している場所で、私にはなにもすることがないと思う。ただ、コザの街と北谷が特徴を出すとしたら、アメリカ文化との絡みだと思う。アメリカンな音楽や食文化に関わるイベントを行うことで、他の沖縄の地域から差別化を図れるのではないかな」
    「例えば、どんなこと?」と新垣が訊いた。
    「ロックやジャズと沖縄の伝統芸能を組み合わせたコンサートを行うとか、アメリカンな食べ物を沖縄風にアレンジした料理のコンクールを催すとかかな。ありきたりだけど」竜崎は続けた。
    「ロックやジャズのクラブでの生バンド演奏とか、行きたい人はいるとおもうけど。沖縄での移動はどうしても車になるし、車で行くとお酒を飲めない。多くの観光客が足を運ぶのは難しいのが現状じゃないかな。那覇からゆいレールが延長されば、若者や観光客の行き来も増えると思うけど」
    「沖縄縦貫鉄道の計画はあるのよ。那覇から名護まで1時間で結ぶ計画だけど、今どうなっているかは知らない。行き詰まり感がでているってことを聞いているわ。費用対効果の問題で採算性が悪いのが、最大の問題じゃないのかな」と新垣が言った。
    「沖縄は今後、北部への交通の問題は解決しないといけない問題だと思う。北部に行ったときに感じたのは、観光客数は今の3倍になるってこと」
    「ええ、覚えているわ。私には信じられなくて」
    「どのビーチに行っても人が少ないことにびっくりしているんだ。こんなに綺麗な海に、この程度しか人が集まらないなんて、僕には考えられないのね。本土のビーチには足の踏み場もないぐらいの人が、海水浴に押し寄せている。わざわざ、ハワイやグアム、バリ島やプーケットに行く観光客はビーチリゾートが目当てだよね。沖縄の海の方がずっと綺麗だと思うから」と竜崎が言った。
    「ハワイは行ったことあるけど、それ以外は行ったことないから分からないけど。ハワイはよかったけど」と新垣が言った。
    「確かに、どこもいいよ。でも沖縄はぜんぜん負けてないし、むしろ色々な面で優っていると思う。沖縄は、まだ世界的には知られていない場所だからね。沖縄は、必ず世界有数のビーチリゾート地になると思う。言っちゃ悪いけど、沖縄の未来は観光立県、それしかないと思う」
    「それしかないって、酷い言い方ね」
    「そうじゃなくて、沖縄の未来はそこにあると思う。今から20年後には2倍、30年後には3倍の観光客が押し寄せているよ。58号線も一部拡張工事を行っているけど焼け石に水だろうね。高速道路もいずれ慢性的に渋滞する。交通網は沖縄発展のボトルネックになりかねないと思うよ。道の混雑はオーバーツーリズムの問題を提起し、行き過ぎた観光にブレーキをかける。観光が行き過ぎたんじゃなくて、単にインフラが追い付いてないだけ。沖縄縦貫鉄道は難しいとしても、ゆいレールの路線延長のプロジェクトはいずれ動きだすと思う」
    「あと、これば私の個人的な印象だけど、北谷は明るいイメージがあるけど、コザはどちらかと言えば暗いイメージがあって、観光客には行きにくい雰囲気があるんだよね。ちょっと怖い感じもする。夜は特にね。観光客も安心して訪れることができる街にイメージを含めて変えたほうが良いと思う」と竜崎が言った。
    新垣は竜崎の印象はあながち間違っていないと思った。コザは昼と夜では全く雰囲気が変わる。夜のコザは怪しい雰囲気が漂う。
    「女性一人で夜のコザを歩くのは怖いと感じると思う。でも夜のコザはここにしかない物があって、独特な魅力のある街だと思う」と新垣が言った。
    「確かにコザに残るこの怪しい雰囲気は貴重だね。コザは唯一無二。この雰囲気を残して、女性でも安心して夜も訪れる街にするにはどうしたらいいかな?」竜崎は新垣の意見に頷きながら、新垣に訊いた。
    新垣が答えた。「夜間照明をもっと設置して明るくするとか。防犯カメラを沢山つけて犯罪を抑止するとか」
    「確かに効果あると思う。六本木も歌舞伎町も怪しい雰囲気が漂う繁華街だけど、若い女性も一人で歩ける街になっているからね。だけど六本木も歌舞伎町も決定的にコザとちがうのは、夜でも人が沢山いることじゃないかな」と竜崎が言った。
    「確かに人が沢山いると、安心するというか、怖くないね」と新垣が頷きながら言った。
    「夜、沢山の人が訪れるようにするには、那覇からの容易なアクセスの確保が必須だと思う」
    「そうねー、やっぱりゆいレールの延長かな・・・」と新垣が力なく言った。



    8章 那覇の沖縄料理屋 2021年7月
     
     金曜の仕事帰りに、新垣は竜崎を安里にある沖縄料理居酒屋に誘った。薄暗い通りに、温もりのある光が零れていた。古びた木造の2階建てで、店の中から客たちの楽しそうな話声が聞こえてきた。予約してあることを店員に伝えると直ぐにテーブルに案内された。店内は満席で人気店であることが一目で伺えた。
     店内に入って左側のテーブルに7,8人の70台前後のグループが泡盛で盛り上がっていた。どうみても地元のおじぃ仲間の飲み会だ。中心にいる丸顔に白髪の男性が、コロナがどうだかと言っているのが聞こえてきた。
    観光客らしき女性3人の客がカウンターに座っていた。泡盛をぐいぐい飲みながら、料理に舌鼓を打っていた。彼女たちは、落ち着いた雰囲気から30代後半に見えた。ソーメンチャンプルを食べているのが見えた。店内はそれぞれの会話が交差してざわざわしていた。
     コロナ禍ではあったが、旅行支援で観光客も戻ってきていた。マスクを除くとコロナ前の光景と変わらなかった。食べ物を口に運ぶ時にマスクをずらして、またマスクを元に戻す。それを繰り返す光景は滑稽とも思えた。新型コロナの世界的な感染爆発は、誰も予期などしていなかった。コロナは沖縄経済の脆弱な所を露呈させた。
     新垣は12年物の古酒を竜崎と自分のグラスに注いだ。
    グラスは琉球ガラスで小さな水疱がガラスに閉じ込められていた。アンバー色のグラスに注がれた泡盛は小さな湖を見ているようで、不思議な世界に引き込まれそうになる。まして店内の暗めの照明と古びた木造の内装は、何十年も前にタイムスリップしたかのようだ。
     竜崎は、沖縄での生活にも慣れ、充実した日々を送っていた。誰も予期しないことが起こることが怖かった。考えてもどうしようもないのに。避けることはできないと頭ではわかっているが、自分から大切なものを全て奪われる恐怖心があった。コロナは多くの人から大切なものを奪っていった。店内の和んだ雰囲気をしみじみ感じながら、何も起きないでほしい、今の他愛もない日常が続いてほしと望んだ。
     泡盛が注がれた琉球ガラスのグラスを持ち上げ、乾杯といって新垣の方に差し出した。
    新垣はカリーと言い、グラスを合わせた。泡盛がなみなみとグラスの中で揺れ、今にもグラスから飛び出しそうになっていた。
    竜崎は飛び出しそうになった泡盛を口に流し込んだ。新垣も同じように泡盛に口を運んだ。新垣のプルンとした唇がグラスから離れた。グラスの中の液体は、浜辺に寄せた波が引くように、グラスの中で左右に動き、グラスがコースターに収まると、波もおさまった。
     なめらかな味わいで、コクのある香りがした。二人はメニューを見ながら何を注文するか話し合った。新垣がメニューにある沖縄料理を説明した。新垣が説明している間、竜崎は新垣に視線を送り続けた。
    竜崎は新垣から目を反らし、グラスを口に運んだ。泡盛の海面は下のほうにあり、グラスを傾け、グビィと大きく飲んだ。
     新垣も泡盛をゴックと飲んだ。
    「あー、美味しい」、新垣が脱力するのが伺えた。
    竜崎も泡盛をグイグイ飲んだ。「うーん、染みるね」
    深みのある味わいの透明の液体が、喉から食道、食道から胃へ落ちていくのが分かる。胃に落ちた液体は、じゅわっと熱くなり、全身に浸透していく。
    新垣も続けて2口、3口と泡盛を口に含ませた。二人は可なり早いペースで飲んでいた。
     「沖縄の人はお酒強いよね。新垣さんも凄く強そうだけど」
     「強いかどうか分からないけど、普通に飲めるさー」
     「沖縄の人の普通は、普通じゃないからなー」
     「それって、どういう意味?失礼ね」
     「いや、悪気はなくて、普通に強いってこと」
     沖縄料理は新垣が主導権を握った。新垣はジーマーミ豆腐、ごーやチャンプルー、らふてーを注文した。
     隣の三人の女性客は、相変わらずテンション高めで、信じられない、美味しい、ヤバいねとそれそれが発していた。三人はターンム(田芋)の唐揚げを食べていた。
     ジーマーミ豆腐はやちむん皿に盛られて運ばれてきた。甘いたれをかけて食べるのが一般的だ。豆腐が皿の上でプルンプルンと揺れている。
     新垣が半分を小皿に盛ってくれた。
     竜崎はその仕草を見ていた。
    ジーマーミは落花生で作った豆腐で、ゴマ豆腐に似ているが、風味が独特だ。プルプルで粘っこい触感に、トロリとした舌ざわりだ。甘いソースの相性がよく、デザートでも通用するかもしれない。ジーマーミ豆腐は琉球王朝時代の宮廷料理が受け継がれて、現在に至っていると新垣が教えてくれた。
     
     少し酔ったのか新垣は自分の事を話し出した。今までとは打って変わって暗い表情になっていた。
    「この間、備瀬の海岸から見えていた伊江島の出身なのは話しましたね。島は小さくて、島民は皆、顔ぐらいは知っていて。皆、美羽ちゃん、って呼んでくれてね、一日に何回も挨拶をしてたわ」
    新垣の通った伊江小学校は1学年1クラスで、生徒は15人前後で、1年生の時のクラスメートが、6年生まで一緒に学年が上がっていく。一人二人は引越しで転校する生徒はいるが、転入してくる生徒はいなかった。皆幼馴染って感じ。
    「私は小さいころからお転婆だったみたい。駆けっこはクラスでいつも1番だったし、体育の時間は大好きだった。どちらかというと勉強は苦手だったかも。2歳上の兄といつも比較された。兄は大人しく、勉強ができた。そんな兄と、入れ替われたらよかったのにねってよく言われたわ」
    「中学に入った時には今の身長に達していて、クラスの女子のなかでは2番目に大きかったわ。身長はそこで止まっちゃった。で、身長を生かしてバスケットをしたわ。ほんとはサッカーをやりたかったけど、人数が集まらなくてクラブがなかった。中学はバスケに明け暮れた。高校は島にはないから、皆、高校入学の時に島を出るのね。私は名護の高校に進学したわ。高校でもバスケット部に入ったけど、ついていけなくて1年の秋に止めちゃった。伊江島は、人口も少ない島だからバスケのレベルも低かったのね。もともとサッカーがしたかったから未練などは全くなくて。私は、そのころテレビのアナウンサーになりたくて。普通に大学受験をして那覇の大学に進学して。周りの友達からまぐれだって言われたりしたけど、合格したときは私自身びっくりしたわ。実際私もまぐれだと思った」
     新垣の話を聞きながら、竜崎がゴーヤチャンプルとラフテーを小皿に取り分けた。
     新垣は那覇での大学生活を楽しんだ。高校の時からの夢だったアナウンサーの採用試験に幾つかのテレビ局を受けた。
    地元のテレビ局や東京のキー局にも採用面接にいったが、夢は叶わなかった。いまでも何が駄目だったのかは分からない。一方で公務員試験は見事に突破し、沖縄県職員として、今の観光課に配属された。
     竜崎は新垣の暗い表情を見て話題を変えようとした。
    「新垣さんって、美味しいお店を知ってるよね」
    「父に連れてきてもらったの。父は那覇で農協の仕事をしながら、週末に帰ってきて母と畑で落花生と野菜を作っていたわ。父は美味しいお店によく連れて行ってくれたわ。高校の時に私は、母からの託け物をもって父に会いに那覇までいくことがあったの。私が会いに行った時は、父は美味しいお店に連れて行ってくれたわ。父は私が美味しそうに食べるのを見て、にこにこしてよく頷いていたわ。父はどちらかというと田舎より都会に合っていた人なのかも。父は歳よりも若く見えて、お洒落だったと後で知った。でも伊江島に帰ってくるときは、いつも農協の作業着を着て帰ってきて、畑で母と楽しそうに農作業をしていた。そんな父が、私とおかぁの父のイメージだっただけど、ある日那覇のフレンチ料理のレストランで御馳走してくれるって、レストランの前で待ち合わせたことがあったの。スーツにパナマ帽姿で現れて、歩いてくる人が、父だと思わなかった。でも、近くまできて美羽って呼ぶからびっくりして固まっちゃった。父は、よくそのレストランに行っていたみたいで、いつもお洒落していくから、その日も同じように身なりを整えたんだって。そのことを帰って母に話したら、母は父がお洒落なのは知っていた。でも母は農作業をしている父が好きだったみたい。最初のプロポーズの時に父はスーツ姿で現れたんだって」
    「最初のプロポーズって?」
    「ええ、呆気なく、出直すように言われたんだって」そして「母からプロポーズの場所を畑と指定されたって」
    「凄いね、お母さん。それで?」
    「翌朝、畑で農作業姿でプロポーズしたんだって」
    「それで?」
    「母は、宜しくお願いしますって」
     竜崎は話題を変えるのに成功したと思った。
    「その父も13年前に事故で他界してしまったわ」
    竜崎は新垣の目が曇るのが分かった。竜崎はしまったと思ったが遅かった。
    「それは辛かったよね。ごめん」
    「謝ることなんかないわ」
    新垣の父は那覇で、横断歩道の無い所を渡ろうとした男の子を見つけて、父の前を大型のトラックが通り過ぎた時に、子供を助けようと道路に入った。追い越し車線を走っていた大型のセダンが、子供を避けようとして、左側に急ハンドルを切った。その車に跳ねられて、頭蓋骨骨折。打ちどころが悪く、あっけなく亡くなった。子供は車が左側に避けたので、何の傷も負わずに助かった。横断歩道の無い所で父が飛び出したので、最終的には、その車の運転手は軽度の過失で、父の飛び出しと言うことで事故は処理された。
    「私は、病院のベッドに横たわる父の傍で、父のことを祈ることしかできなくて。母が駆けつけた時は、父は病院で息を引き取っていて、母の取り乱しようは大変だったわ」
    「私は、大好きだった父の突然の死が、ずっと後を引き、49日が過ぎても、ぼーとして、何もやる気が出なかったわ」
    「そんな時に偶然、高校の1つ先輩の健司に会ったの。健司は野球部のキャプテンで甲子園を目指していたけど、県大会の3回戦で負けたわ。父の突然の死に、気持ちが沈んでいたころ、私に寄り添ってくれて。励ましてくれた。そんな健司に自然に気持ちが傾いた。それで、私たちは付き合うことになって」新垣の話が止まった。
    竜崎は躊躇ったが「いまでも付き合っているの?」と訊いた。
    「健司はもういない」
    「え、どういう事?」
    「亡くなった。コロナで1年前に。私を置いて行っちゃった」
    竜崎は何も言えなかった。ただ、新垣がなにか発するのを待つしかなかった。新垣の悲しい表情で、竜崎は、耐えがたい胸に何かつっかえたような、胸苦しさを感じた。竜崎は、新垣の時折みせる曇った悲しげな表情の原因が分かった気がした。

     健司は高校卒業後、うるま市で介護士の仕事に就いた。その明るくて優しい性格から、介護される老人たちから慕われた。
     2020年11月、新型コロナウイルスが医療現場と介護現場を容赦なく襲っていた。当初得体のしれないウイルス感染により死亡するニュースが日本中を震撼させた。沖縄の医療現場は崩壊危機に瀕していた。感染者は隔離され、病床の不足を含め医療崩壊の危機が報道され続けた。
     要介護者のPCR検査も十分とは言えなかった。健司は自分の体調管理には特に気を付けていた。毎日自分のPCR検査を朝夜欠かさなかった。コロナに感染しても潜伏期間があるので常に危険は付き纏った。しかし要介護者はコロナとは関係なく生きていくために介護を必要とした。
    健司は、自宅待機になった要介護者の家を廻って介護を続けた。要介護者の多くは自宅で体調を崩し、微熱があるものが多くいた。
     ある日、健司は夜中に気分が悪くなり目が覚めた。熱があり、吐き気があった。体全体が怠かった。朝が近づくに従って、熱が上がった。直ぐにコロナ感染を自覚した。介護士として、多くの感染者を見てきた健司にとって、自分の症状は、コロナ感染に疑いがなかった。備え付けのPCR検査キットは陽性を示した。健司は、勤務先に体調の悪化とコロナ感染の疑いを連絡し、欠勤した。
     健司は、心配をさせないように両親や美羽とは連絡を取らなかった。美羽からのラインに対して、忙しいとだけ返答した。
     健司の容態が、3日目の深夜に急変した。咳が止まらず呼吸ができなかった。高熱で意識が薄れていくのがわかった。健司は力を振り絞って救急車を呼んだ。うるま市の病院に移送された。ICUに運び込まれた。医師とナースが険しい表情で対応した。せき込む健司にECMOが装着された。入院し2日後、一旦は回復に向かったかに思えたが、3日目の朝、容態が急変し、呼吸器不全を起こした。
     病院から連絡を受けた両親が、その日の昼前には名護から駆け付けたが、面会は許されなかった。
     病院の待合室で待つ両親の所へ、担当医が険しい顔つきで近づいてきた。
    「誠に残念です」
     母親はその場に泣き崩れ、父親はかろうじて立ってはいたが、目を赤く充血させて、今にも泣き崩れそうだった。父親は泣きじゃくる母親を起し、医師に健司に会わせてほしいと頼んだ。
     医師の許可は下りなかった。
     「できないんです。こう言う状況で無理なんです。ご理解下さい」
    その後家族は、火葬場に遺骨だけを引き取りに行った。 
    仏壇には白い陶器の壺と黒い額縁に収まった健司がいた。健司は笑顔で、集まった皆に悲しまないように、語りかけているようだった。
     彼の死を伝えられた新垣は、職場で泣き崩れた。人目を気にせず泣いた。周りにいた同僚が数人駆け寄り、新垣を抱きかかえ、その場から連れ出した。廊下から、なんで、どうしてー、いやよ、しゃくり声が響いた。
     比嘉が新垣の状態を悟り、新垣の母親に連絡を取った。6時間後、新垣は迎えに来た母と一緒に伊江島に帰っていった。それから、新垣は1週間欠勤した。
     伊江島に帰った新垣は毎日タッチューから海を見続けた。魂が抜かれたかのように、ただ、ぼーと海を眺めていた。
    母はそんな娘を心配して、毎日、夕日が沈むころにタッチューに娘を探しにいった。おばぁも美羽のことが心配だったが、かける言葉がなかった。

     新垣も竜崎も箸が止まっていた。半分になったラフテーは皿の上に取り残され、さっきまでの艶が消えていた。
    父が逝き、恋人が逝き、取り残された新垣の事を思うと、竜崎の心は張り裂けそうだった。
    新垣の頬を透明の液体がつたっていた。
     

      
    9章 那覇 2021年8月 
     
     「盆休みは実家か」と上司の比嘉祐介が新垣に声をかけた。
    「ええ、帰ります」
    「そうか、おかぁに甘えてくると良い」
    「そんな歳じゃないです」
    「そうだな、失敬」
    竜崎は、比嘉と新垣の話を気にしていた。
    比嘉は次に竜崎に話しかけた。
    「どうする?お盆」と訊いた。
    「予定はありません」
    「そうか、沖縄のお盆を過ごすのもいい」と言って、踵を返し、自分のデスクに戻っていった。戻っていく比嘉の口元は緩んでいた。
    比嘉は、少しずつ元気を取り戻している新垣を見て、竜崎と組ませたことに為て遣ったりと思っていた。
    比嘉は、恋人の突然の死で、落ち込んで、なかなか立ち直れなかった新垣を見るに耐えなかった。なんとかして以前の明るい新垣に戻ってほしいと願っていた。そんな時、コロナ後を見据えた沖縄県経済振興アクティブブランに、観光振興のプロの臨時採用が含まれることを知った。竜崎が自分の課に配属が決まった時に、新垣を補佐役に付けることを思いついた。竜崎の採用時に比嘉は、竜崎が各地の市町村を廻って観光振興を行うことを応募書類で知っていた。採用面接官の一人として、選考時に比嘉は竜崎を押した。
    比嘉は、新垣をコロナ禍のルーティンを行う職場ではなく、外に引っ張り出すことを考えたが、コロナ禍でなかなか手当てが見つからなかった。毎日感染者数や死亡者数が伝わり、各地のイベントがキャンセルされる対応は、仕事とはいえ新垣には酷だった。コロナ後を見据え、竜崎のサポート業務にあたらせることで、新垣を立ち直らせる戦法だった。
    ちょうど竜崎が、予定がないと比嘉に答えていた時に、新垣が、竜崎と比嘉を横目で見ながら、デスクに座った。新垣のデスク上には、予定表や沖縄各地の観光冊子のファイル、数冊の名刺入れが整然と置かれていた。
    新垣は、沖縄の離島のファイルを取り出した。沖縄本島の市町村への訪問は順調に進んでいたが、離島は手付かずだった。
    新垣は、竜崎に同行して沖縄各地への訪問を行いながら、県外での沖縄観光のプロモーション業務もこなしていた。同僚の具志堅かおりも新垣に笑顔が戻ってきていることに気が付いていた。
    具志堅は新垣の2年後輩で、入職1年目の時に新垣に業務のいろはを教わった。今でも具志堅にとって新垣は良い相談役で、新垣の事を慕っていた。
    具志堅が新垣に与那原の大綱曳が中止になったことを伝えた。与那原の大綱曳は、沖縄3大綱曳の一つで、毎年8月に開催される祭りだ。綱の引手と引手たちを応援する女たちが熱狂する祭りだ。コロナ禍による中止は仕方がなかった。
    新垣が離島の観光協会に電話していた。忙しそうにしている新垣を見て、竜崎は一人で外出することにした。
    竜崎は県庁舎を出て、国際通りに入った。所々シャッターが閉まっていた。単なる休みではなく、新型コロナの影響で廃業に追いやられた店だ。まばらだが観光客は来ていて、ぶら下げている白いレジ袋からお土産の箱に印刷されたシーサーが透けて見えていた。牧志で国際通りを右折し、希望ヶ丘公園を横目に歩いて、欧米資本のホテルを通り過ぎ、やちむん通りに入った。
    1682年に当時の琉球王国の長である尚貞王が、沖縄各地に点在していたやちむんの工房を現在の那覇市の壺屋へ集めた。そこにはやちむんに使う土があり、登り窯を作るのに欠かせない傾斜した土地があり、小川があり水にも事欠かなかったためこの地が選ばれた。当時の那覇の中心は港付近で、壺屋付近は辺鄙な所で、畑地が広がっていた。
    戦前は登り窯も30を数え、多くの窯元が焼き物を作っていた。1970年代、登り窯からでる煙の問題で、窯元が読谷村に移ってからも、幾つかの工房がガス窯を採用し焼き物を作り続けている。また窯元のアンテナショップやセレクトショップ、初心者向けに陶芸の体験ができる工房がある。観光客は疎らだが陶器ショップを散策している。
    戦後、米軍の管理下にあり、県民は自由に場所を選んで住むことは許可されなかった時に、戦後市民の生活の向上が目標として掲げられた中、壺屋の窯元たちが、自分たちであれば食器など不足している物資を焼き物で提供できると米軍と交渉し、壺屋に戻ってくることを許された。その後家族たちも戻ってくることを許され、徐々に人が戻ってくると共に、壺屋に役所ができる。那覇市役所の前身となる。そして隣接するところに闇市ができた。市場は広がって、現在の公設市場一帯に発展していく。ヨーロッパ的に言うと旧市街のような地域だ。細い路地が入り組んで、来るたびに新しい発見があるのが旧市街の魅力だ。この町が、新陳代謝を続け、観光客を魅する那覇の旧市街に変貌していくのが想像できた。
    竜崎は、いつか、今は使われなくなった現存している登り窯が復活するのを想像した。そして那覇観光の目玉はやはり首里城だった。首里城のない那覇は想像できなかった。
     
     
      
    10章 うるま市 2021年8月 りっすーどぅり 
     
     新型コロナウィルスの感染拡大で緊急事態宣言が発令されていた。うるま市中央病院でクラスター感染が発生した。そんな状況で、竜崎と新垣のうるま市への訪問は、タイミングが合わなかった。
    8月に入り、延期された闘牛が開催されることになったのをうけ、うるま市への訪問が実現した。当初うるま市への訪問は秋以降へ延期することも想定していたが、うるま市観光課の伊波が、竜崎たちの訪問を強く要望したことによって訪問が決まった。
    うるま市への訪問は、新垣の車で行くことになった。新垣が古波蔵にある竜崎のアパートまで迎えにきた。竜崎は、新垣の恋人の話を知ってまもなく、うるま市へ訪問が決まった時に、新垣の車に同乗することを決めた。竜崎なりの新垣を気遣っての判断だった。
    伊波とはうるま市役所で待ち合わせた。伊波は,すらっとした体型の50前後の中年男性だ。日焼けした頭は健康的に光っている。丸々した目は爬虫類的だ。気さくで、とにかく明るい男だ。赤いハイビスカスがデザインしてある紺色のかりゆしウエアに、チノパンという飾らない出立ちだった。
    「今日はお世話になります、伊波さん」新垣が挨拶する。
    「竜崎です。よろしくお願いします」と続けて竜崎が挨拶する。
    「ハイサイ、竜崎さん。お話を頂いてからお会いできるのを楽しみにしていました」伊波が新垣と竜崎に挨拶した。
    「お盆のエイサーの準備で忙しいでしょう」と新垣が続ける。
    「そーね、新型コロナの集団感染で大変ですけど、それなりに観光課は大忙しさー」と伊波が額の汗を拭いながら言った。
    「そうですよね。うるま市は闘牛とエイサーの街だから夏は忙しいですよね」と新垣が伊波を気遣った。
    「秋に全島闘牛大会もあるしねー」と言い、続けて今日の日程を二人に説明した。
    「今日は2か所お連れします。延期されていた闘牛があるから、闘牛を観に行きましょうねー。そのあと勝連城跡にご案内します」
    「ありがとうございます」と竜崎は頭をさげた。
    「早速行きましょうねー」
    二人は伊波の車に乗り込んだ。海岸沿いを北上した。丸い円錐形のコンクリートにUFOのような円盤が乗っかった建物が見えてきた。うるま市石川多目的ドームだ。闘牛の里と書かれた石のオブジェがある。
    天井部分と円盤部分から自然光がさしている。闘牛場は円形ですり鉢状に淵がせり上がっている。コロナ禍というのに、会場は観客で熱気に包まれていた。臭いも独特でむっとしていた。
    伊波が席を確保してくれていた。「闘牛をみるのは初めて?」と伊波が新垣と竜崎に訊いた。
    「初めてです」と新垣が返事をした。
    竜崎も沖縄の闘牛は初めてであることを伊波に言った。
    伊波から竜崎に話しかけた。「スペインに住んでいたって聞いたけど、沖縄の闘牛はスペインの闘牛とはちがうさー。沖縄では牛同士の決闘さー。牛は死なないしね。竜崎さん、スペインは闘牛、有名ね・・・」
    伊波が竜崎との面会を希望したのは、スペインの闘牛の話を聴きたかったからだった。
    伊波の素直な性格が出すぎている質問に竜崎は面食らった。
    「で、スペインの闘牛はどんな・・?」
    「スペインでは闘牛は一種の格闘技ですね。牛と闘牛士の命を懸けた戦いに、ファンは熱狂します。スポーツ的な要素もあります。煌びやかな衣装に着飾ったマタドールと言われる闘牛士が、牛を剣で仕留める。その身のこなしの優雅さ、剣裁きの技の高度さを見せるエンターテインメントですね。でも闘牛士は命懸けです。過去には亡くなった闘牛士もいますしね。」と竜崎が説明した。
    「牛が殺されるのをみるのは残酷よ」と横から新垣が言った。
    「そうですね。動物愛護という観点からは反対する人も多く、議論が絶えません。それでも、闘牛はスペインの文化の一部として根づいていることも確かです」
    伊波が「沖縄でも動物愛護の観点から、闘牛はいかがなものかという人はいますね」と言った。
    沖縄の闘牛も地域の文化になっているので、続けていくべきだと竜崎が意見を述べた。
    新垣が難しい問題ですねと言いった。
    伊波が「スペインの闘牛を見てみたいな」と竜崎に言った。
    その時、会場の雰囲気が一変した。黒々とした牛が、丸い闘牛場に引かれて入場してくる。観客席からトランペットでランボーのテーマ曲が演奏された。今入ってきた牛のテーマ曲だ。牛の関係者の応援である。
    その後もう一頭の牛が、のしりのしりと体を左右に揺らしながら入ってきた。前足で土を掘り返し、前足を折りたたみ、首を土にこすりつけファイティングポーズをとる。
    「大きい」と新垣が興奮気味に声を発した。
    「重量級だねー」と伊波が言う。
    7連勝している“ランボーファイト”と6勝した後1敗の“ブルドーザー赤い闘魂”との闘いとアナウンスがあった。
    それぞれの牛がにらみ合いを続ける。ランボーファイトがブルドーザー赤い闘魂に歩み寄る。
    頭を下に向け、角と角を絡ませ、二匹の押し合いが始まった。両方の牛が目をむいて闘争心を露にしている。
    角の形はそれぞれちがい、絡ませ方が重要であることを伊波が説明した。
    「どちらもがんばれー」と新垣がマスク越しに黄色い声を飛ばした。
    声援を聞いた観客が一斉にこちらを振り返った。コロナ禍なので声を出しての声援は控えるようにアナウンスがながれる。
    新垣は申し訳なさそうにペコリと頭をさげた。
    周りにはブルドーザー赤い闘魂と書かれた赤いタオルを持った応援団が座していた。
    両牛とも引かない。10分経過のアナウンスがある。それでも2頭の牛は前傾姿勢を保ちながら、回りながら押し合っている。シンバルのような音が会場内に鳴る。会場内に英語のアナウンスも流れる。外国人らしい観客はいないが、コロナでなければきっと外国人観光客も観戦にくるのだろう。体力の消耗が激しいブルドーザー赤い闘魂が押され気味になった。牛の両側にそれぞれの牛をあおる勢子(闘牛士)がつき、ヒーアイ、ヒーアイと牛に激励を送り、戦いを促す。苦しい表情の中で意地をみせているとアナウンスがある。
    「試合によっては40分を超えることもあるんです」と伊波が言う。
    闘牛士からヒーアイ、ヒーアイと掛け声がかかる。試合時間は20分を経過した。ブルドーザー赤い闘魂は押されているが、驚異の粘りをみせる。体力の消耗が激しいが、闘争心はまだ残っている。勢子が交代しながら、アァーイィヤイッと右足を地面に打ち付けながら声を張り上げる。右足で何度も地面を踏みつけ、闘争心を掻き立てる。
    「牛にはそれぞれ戦い方があって、攻めのタイプとか守りのタイプとか、持久戦が得意とか」伊波が説明する。
    今度は「がんばれー」とだけ小声で新垣が声援を送る。
    竜崎が興奮気味の新垣を見ると、新垣の目が心なしか血走っているように見えた。真剣に応援いていた。新垣の意外な一面を見たようで嬉しかった。
    ランボーの勢子が、ここが勝負見て、ヤグイと掛け声をかけた。ランボーが、ぐいぐいとブルドーザー赤い闘魂を押し込んでいく。ブルドーザー赤い闘魂も死力を尽くし、闘争心をむき出しに応戦している。ブルドーザー赤い闘魂は舌を出し疲れを隠し切れない。その時だった。ブルドーザー赤い闘魂が脱糞した。見ていた新垣が反応にこまっているのが分かった。伊波がその場をつくろおうとして哄笑し、竜崎も笑った。二人を見て新垣は「あー、やっちゃったか」とぼそっと呟いた。
    一挙にランボーがぐいぐいと押し込んだ。ブルドーザー赤い闘魂が角の組み合をといた瞬間にランボーが腹取りを決めた。ブルドーザー赤い闘魂はたまらなく逃げ出した。ブルドーザー赤い闘魂は戦意を失っていた。
    「戦意を失った時点で勝負ありです」と伊波が説明した。
    「沖縄の闘牛は牛自身の意思が勝ち負けに反映されるんですね」と竜崎が言った。
    軍配は赤、ランボーファイトの勝ちですとアナウンスが流れた。28分56秒の対戦時間。28分56秒での決着でした。
    見事な勝利を収めたランボーファイトに飼い主たちが集まってくる。牛の角に黄色とピンクの布が結ばれる。イヤーサーサーサーのお囃子の沖縄ソングが流れる。飼い主の子供なのか、勝利した牛に担いで乗せられた。牛は優勝の布を掛けられる。飼い主はしたり顔で、牛を引いて、会場を1周し、ランボーはトランペットによるテーマ曲の演奏と共に、疲れた目で会場をあとにした。
    「生で見ると凄い迫力ね」と興奮が収まらない新垣が言った。
    「コロナ禍でスペインの闘牛はどうですか?」と伊波が竜崎に訊いた。
    「コロナ禍でも2020年は100回以上の闘牛が開催されました」と竜崎が答えた。
    「対戦は続きますが、我々は出ましょう」と言い、伊波はすーと立って出口の方へ向かった。
     
     「これから勝連城跡に行きましょうね」と伊波が次の行先を告げた。伊波はゴールデンウイークにスペイン旅行を計画していたが、新型コロナで旅行はキャンセルになった。伊波は、旅行好きでスペインで闘牛とフラメンコを見るのを楽しみにしていた。
    車中、伊波が竜崎に「私のスペインのイメージはフラメンコに闘牛、パエリア、ガウディ、それにサッカーかな」と言った。
    竜崎は「当たっています。スペインのプロトタイプのイメージです」と同意した。
    伊波が竜崎にとって沖縄のイメージは何かと逆に訊いてきた。
    「私にとっての沖縄は、伊波さん風に言うと、青い海と赤瓦にシーサー、沖縄そば、三線とエイサー、それに琉球王朝かな」と答えた。
    「私は、沖縄は日本で一番、地域の住民に文化と伝統が生きづいている県だと思います。そして観光資源には事欠かない豊かな地域だと思っています」と付け加えた。
    新垣は、エイサー祭りの準備はどうかと伊波に訊いた。
    「それなりに大変よ、コロナ対策もしながらだからねー。例年より規模を小さくしてやるさー」
    旧暦の7月、まち全体がエイサーの踊りと音楽に包まれる。エイサーは旧盆の最終日(旧暦7月15日)に、戻ってきた祖先の霊を送り出す念仏踊りだ。
    「うるま市の各青年会にとっての一大イベントだからさー。去年はコロナの影響でかなり縮小したからね。今年も例年通りとはいかないけど、昨年よりはいいねー」
    うるま市には琉球王朝時代から300年以上も踊り継がれている平敷屋のエイサーがある。一つの集落に東西の青年会があり異なる踊りと音楽で競い合ってきた。
    「新垣さんは、お盆はどうするね」と伊波が聞いた。
    「実家に帰ります。伊江島です。母とおばぁが待っていますので」
    「そーね」
    「竜崎さんは、お盆は?」
    「私は初めて沖縄でお盆を過ごします」
    「それはいいねー、各地でイベントやお祭りがあるから、行ってみるといいよ」
    「はい、そうするつもりです」
      車の窓から丘の上に聳える石を重ねて積んだ美しい城壁が見えた。勝連城の遺跡だ。伊波は竜崎に勝連城跡が、世界遺産に登録されたグスクの中で一番古いグスクだと少し自慢げに説明した。
    琉球石灰岩を積み上げて作られた城壁は優雅な曲線を重ねて作られていた。今帰仁城と共通する建築だった。琉球王国に最期まで抵抗した有力按司阿麻和利(あまわり)が住んでいた城として有名だ。阿麻和利は海外貿易により、勝連に繁栄をもたらした。琉球の中央からは反逆者であった阿麻和利は、この地では貧困から地元民を救った英雄であった。
    いつかこの地から沖縄を、いや日本を引っ張っていく阿麻和利のようなリーダーが出てくるかもしれないと海来は思った。
    グスクを見た後、あまわりパークに移動した。あまわりパークは勝連城の歴史を学ぶことができるテーマパークである。子供たちによる阿麻和利の劇を上演している。
    竜崎は、沖縄の歴史や伝統を大切に後世に伝えていこうをする自治体の試みに改めて感銘を受けていた。
    「沖縄は自治体ごとに地域色が豊かで、歴史・伝統・文化を大切にしているのが素晴らしいです。伊波さん、うるま市は素晴らしい文化と伝統のある地域ですね」
    伊波は笑顔で嬉しそうに頷いていた。
    うるま市役所へ帰る車中で、竜崎は伊波にうるま市の特産品は何かと訪ねた。
    伊波は「もずくです」と即答した。「うるま市のもずく生産量は県で一番さー」
    「もずく、美味しいですよね。実家が神奈川なんですが、沖縄産のもずくをよく食べていました」
    「もずくを使った創作料理展とか、もずく料理のコンクールとかを企画してみてはどうでしょう」
    「面白いねー。農林水産部に伝えとくねー」
    沖縄もずくの養殖や天然もずくが世界一なのは、亜熱帯気候とサンゴ礁の内海で1月から6月まで長期間養殖できる最適の環境が存在するからだ。沖縄の海は美しく豊かだ。
    「伊波さん、今日はどうもありがとうござました。凄く楽しかったです」と竜崎が言うと、伊波は、「また、遊びにきてねー。私で良ければいつでもお相手するよー」と竜崎に声をかけた。
    「ありがとうございます。早くコロナが収束して、スペインに旅行できるといいですね」
    新垣と私はお辞儀をして伊波と別れた。
     
     時間があったので、新垣と私は海中道路を渡ることにした。両側にエメラルドグリーンの海が広がっている。左側の海にはウインドサーフィンの帆が風をうけて、海上を疾走している。10人ぐらいのウインドサーファーはいるだろうか。近くで見るウインドサーフィンは迫力満点だ。ウインドサーフィンの大会とかを企画するも良いかもしれないと竜崎は思った。遠くの方に丸い円柱形の備蓄タンクのようなものが見える。石油の備蓄タンクだと新垣が教えてくれた。
    車の窓を開けて風を通す。新垣が「気持ちいいですね」。竜崎も「ほんと、気持ちいいね。沖縄はいい所ですね」と言った。
    「じゃぁ、ずーと沖縄に住めば」と新垣が言った。
    竜崎は、橋の両側に広がる青い海と空から視線を一瞬新垣に移したが、直ぐに正面を向いた。竜崎は少し考えたが、新垣の言葉には深い意味はないと思い、竜崎は何も返答をしなかった。
    海中道路を渡り切り、右折し、2つ目の橋を渡った。浜比嘉島だ。アマミチューの墓に向かった。琉球開闢伝説で有名なアマミチューとシルミチューの男女の神の墓が浜比嘉島にはある。
    アマミチューの墓をお参りしたあと、シルミチューの墓を参った。子宝や安産にご利益があるらしい。海辺の小道を降りていくと男女が抱擁しているように見える石像がある。
    新垣が「幸せそうね」と言ったことに対して、竜崎はただ「ええ」とだけ答えた。抱擁している像を見て、竜崎は何といえばいいのか思いつかなかったので、そう答えるしかなかった。
    新垣は「ええ」と頷いた竜崎の顔を覗き込んでいた。
    竜崎は気まずそうに「そうだね、幸せそうだ」と付け加えた。
    今日の新垣は闘牛を観たせいかぐいぐい来るように竜崎には思えた。
    竜崎と新垣はアマミチューの墓のあるところに戻った。岩陰にテーブルを置き、おばぁがもずくを売っていた。椅子が無造作に置かれていて、猫が脇で寝ていた。死んでるいかのように動かない。
    イートインもできるというか、そもそもインはなくアウトだけだ。もずくとか、ぜんざいとか食べれるようになっていた。新垣は、もずくを注文し、竜崎はぜんざいを頼んだ。もずくはシークアーサー味で酸味があり、新垣はするーと食べた。ぜんざいは黒糖で甘く煮てある。しろい団子入りで、美味しい。甘さは脳に直行する甘さだ。
    ぜんざいを食べていると、おばぁは気さくに、「どこらきたさー?」と聞いてくる。日焼けして、顔の皺が刻まれた笑顔が可愛い。
    「那覇から」と答えると、おばぁは少し拍子抜けしたみたいで、「内地の人かと思ったさー」と竜崎を見て言った。
    「ええ、私は神奈川出身で、仕事で沖縄に」
    「そうねー」
    新垣は、おばぁと竜崎の話を聞いていた。
    おばぁは新垣をちらっと見て、何か言いたげだったが、言葉を飲み込んだ。少なくとも、新垣はうちなんちゅーであると、おばぁは察していた。
    竜崎はおばぁに何も言わず、食べかけたぜんざいを指さして「これ、美味しいです」と場を繕った。
    終始、猫は一度も動かず寝たままだった。竜崎は、海をみながらぜんざいを食べるのも沖縄ならではだと思いながら、おばぁ手作りの超甘いぜんざいを平らげた。おばぁにまた来ることを伝えた。おばぁはにこにこして手を振って見送ってくれた。
    新垣と竜崎は浜比嘉島を出て、右折して海中道路に入った。真っすぐに伸びる橋を渡っている時に、新垣が竜崎にお盆に家にこないかと誘った。
    竜崎は「いいんですか、私なんかがお邪魔して、お盆は家族で過ごす大切な祭事でしょ」と訊いた。
    「いいの、この前、母と話したら、連れてらっしゃいって・・・」
    「ありがとうございます。嬉しいです。正直いって旧盆をどう過ごすか全く思いつかなかったから」
    「そんなことだろうと思った」
    「ありがとうございます。今から楽しみです」
     
     
      
    11章 伊江島 旧盆 2021年8月
     
     新垣が早朝迎えに来た。湿気を含んだ海風がなま緩く流れている。野鳥の甲高い泣き声があちこちでする。竜崎は漫湖公園ちかくのアパート住んでいて一年を通して野鳥が飛んでくる。白いペンキで塗られた外壁は所々かびで黒ずんでいた。
     竜崎は、沖縄で仕事をすることになった時に、どこに住むか全く見当が付かなかった。1年後のことは分からなかったので、取り合えずというぐらいの気持ちだった。インターネットに賃貸物件情報を見ても全くイメージがわかなかったので、那覇市内の地元の不動産屋に相談することにした。電話すると直ぐに担当に繋がり、希望条件を伝えた。那覇市内、自然が感じられる場所、40から50平米、駐車場有、予算は10万だった。コロナ禍で需要が落ち込んでいることもあって不動産屋の対応はすこぶる良かった。数時間して3件の候補物件の詳細情報がメールで届いた。それぞれ金城ダム、識名園,漫湖近くの物件だった。マンションの外観、内観、間取り、地域情報の他に地域の動画情報が添付されていた。紹介された物件はどこも竜崎の提示した条件を満たしていたが、竜崎は迷わず漫湖近くの物件を選んだ。他の2件に対して、自然環境で抜きんでていた。
     竜崎はマンションの前で、新垣を待つ間、道路を挟んだ公園沿いに立つ木に止まっている大きな鳥を見ていた。ミサゴだった。竜崎の実家のある鵠沼海岸ではトンビをよく見ていたので、カラスよりも大きい鳥を見るのは慣れていた。ミサゴはトンビよりも迫力がある。ミサゴを近くで見ることができる環境はそうない。ミサゴは鋭い目つきで辺りを見渡していた。
     新垣は、アパートの前に車を停車させ、窓を開けて「おはよう」と挨拶した。その瞬間ミサゴは大きな翼を羽ばたかせて飛び立った。
    竜崎は車の中の新垣に挨拶した。「おはようございます」笑みが零れた。竜崎にとっては旅行気分だった。新垣の実家で2泊する日程だ。
    「良い天気になりましたね」
    「そうですね、新垣さんは晴れ女ですね」
    「昔から良く言われます」
    「やっぱり」と苦笑しながら「新垣さんに雨は似合わないですから」と付け加えた。
    「さあ、早く乗って」と新垣が竜崎に催促した。
    「はい」竜崎は荷物を後部座席にのせて、車の助手席に乗り込んだ。赤いコンパクトカーの中は良い香りがした。小さな音量でボサノバがかかっている。新垣はバックミラーをチラリと見て、後ろを確認し、車を発進させた。
    「さっきミサゴを見ました」
    「ミサゴ?」
    「ミサゴって言うタカ科の鳥です」
    「タカ科の鳥がこんなところに居るのね?」
    「ミサゴは、魚しか食べないタカ科の鳥で、上空から海中に突っ込んで魚を取るんですよ」
    「鳥って目が良いのね。空から魚を認識して取るなんて」
    「そうですね、凄く遠くの獲物が見えているみたい」
    竜崎は新垣の横顔をチラリと見た。いきなりミサゴの話で退屈ではないか確認しようとした。運転に集中しているが、顔からは笑みが零れている。
     西原インターから高速に入る。いくつかのトンネルを抜けると、嘉手納の標識が見える。高速道路の両側の路肩はブロックで固められていて、その上に咲いているブーゲンビリアの濃いピンクとアラマンダーの黄色が咲き乱れている。嘉手納の基地内に米軍の住居が見える。手入れされた芝生が敷き詰められ、だだっ広い敷地内に平屋の住居が点在していて、別世界が広がっている。
     暫くすると「伊芸サービスエリアで休憩にしましょう」と新垣が言い、サービスエリアの進入経路に入った。
    「そうしましょう。運転、ありがとうございます」
    新垣は、サービスエリアのパーキングに駐車した。
    名護方向の伊芸サービスエリアは、この間行ったうるま市を見渡せる高台に位置している。青い海の向こうに、彎曲するうるま市の市街地と海中道路、伊計島まで見渡せる。濃紺の海は朝の太陽光を受けキラキラ輝いていた。
    竜崎は遠くに横たわるうるまの市街地と背後のどこまでも続く海を眺めた。「朝日が昇るここからの景色は、綺麗でしょね」と言い、竜崎は遠い景色から新垣に視線を移した。
    竜崎は新垣の白いカットソーが太陽光を跳ね返しているようで眩しかった。もしかすると白いカットソーによる反射ではなく、新垣自身が何か光を発しているかのようで、新垣の笑顔は眩しかった。
    竜崎の視線に気づいたのか「さー、行きましょうか」と新垣が号令をかけた。
    「ええ」
    宜野座を過ぎると両側が深い緑に包まれる。東海岸から西海岸へ横断する。許田で高速を降りる。右手には紺碧の海が広がる。名護市が視界に入ってくる。本部半島が見える。
    「昔はこの辺りではイルカ漁が盛んだったって聞いたわ」と新垣が言った。
    「昔のようにイルカが戻ってくるといいね」と言って新垣の話に合わせた。
    名護市内に入り、フクギの街路樹を横目に見ながら道路を走り抜ける。海沿いにでると、右側の山が削り取られ山肌が露になっている。砂利を運ぶパイプラインが陸地から海に伸びている。右手にはコンクリート工場。海上では10隻以上の土砂を運ぶ大型の船が順番待ちをしている。辺野古の埋め立ての土砂を運ぶ船だ。そこだけ違和感が漂う。
    新垣は運転に集中しているのか黙っていた。辺野古の埋め立てについて、新垣がどう思っているのか訊いてみたかったが、運転に集中する新垣の横顔を見て止めた。
    本部港に着いた。出航まで30分。
    「結構、ぎりぎり。間に合ってよかったわ」切符を購入し、新垣は車をフェリーに載せた。
    伊江島行きのフェリーに乗り込んだ。錨を上げる音がギーとし、エンジンがボンボンと響く。海の色が変わっていく。エメラルドグリーンが混じる。フェリーは瀬底島を繋ぐ橋の下を潜る。
    二人はフェリーの室内客室ではなく、デッキで海を見ることにした。
    新垣が伊江島について教えてくれた。伊江島ではゴールデンウィークにはゆり祭りがある。100万本を超える満開のゆりは、芳醇な香りを放ち、生きていることをアピールしているかのようだと。ふるさと創生の交付金でゆり園を作ったそうだ。伊江島の人たちのゆりを愛する意識が生んだ観光スポットである。
    心地よい海風が新垣の前髪を揺らした。新垣との距離が思ったより近かった。仄かな甘い香りが、竜崎の鼻孔を通り抜けた。花のような甘い香りだった。船の甲板でゆりの香がするはずはなかった。竜崎にはゆりの香がどういうものか分からなかったが、竜崎は新垣にゆりを感じた。香水の匂いのような人工的な匂いではなく、間違いなく彼女から発せられる香だった。新垣は香水を付ける女ではなかった。
    遠くに見えていた伊江島タッチューが少しずつ大きくなってくる。本部ビーチで見た烏帽子の山が近づいて山肌まで見える。
     新垣が「もう直ぐよ」と言った瞬間、船が揺れた。新垣の体が横に振れバランスを崩した。竜崎が新垣を受け止めた。
    「ありがとう」
    竜崎は言葉にならない。首を少し左右に振り、なんでもないふりをした。
    眼前に広がる海は、濃い青からエメラルドグリーンへと変わっていた。そして海水は白濁し、船着き場に泊まった。落花生の栽培が盛んで別名ピーナッツアイランド。今では落花生より菊の栽培が盛んだと新垣説明してくれた。新垣がフェリーから車を下船させた。新垣は実家のある方向とは逆の方向に車を走らせた。お盆のウンケーの行事にはまだ時間があるので、実家に帰る前に、竜崎に島全体を見せようと思ったからだ。
     タバコ畑が両サイドに続く。伊江島はタバコ栽培も盛んだそうだ。ラムネ瓶色の海がタバコ畑の向こうに広がっている。しばらく行くと牛が放牧されていた。伊江島の牛は子牛の内に日本各地に売られ、各地のブランド牛として育ち出荷されると本部町観光協会の辺士名が言っていたことを思い出した。
    暫くすると、コンクリートの凸凹した直線の道路に入った。どこまでも直線が続いていた。
    「ここは滑走路で。米軍の。使われてないけど」と新垣が言った。
    意外だった。車で滑走路を走ることなど本来できない。初めての経験だ。
    今でも伊江島の三分の一は米軍が占めている。島の西側には米軍の演習場があり、落下傘で降りる演習などが行われている。時折オスプレイが轟音と共に飛んでくる。
    「この滑走路は、太平洋戦争当時はアジア一長い滑走路だったのよ」
    伊江島には滑走路が4つある。一つは伊江島空港、伊江島空港は沖縄海洋博の時には旅客機が往来した。もう一つはここ、ここは米軍の管理下にあり使われていない。あと2つは米軍の演習場の中だ。小さな島に滑走路が4つある。これはかなり特殊であると竜崎は思った。
    「フェリーで話した、リリーフィールド公園よ」車で通り過ぎる。
    風力発電の風車が見える。ゴルフ場を過ぎたところにハイビスカス園がある。沿岸部の道路に沿って島の中心部に戻る。役場や公民館を過ぎ、城山(タッチュー)の麓まで来た。
    「実家は城山の東登山口から東へ1キロほどのところよ」
    「毎日伊江島タッチューを観ながら、通学したわ」
    「伊江小学校と伊江中学校」
    少し車を走らせ石垣が積まれた民家の横に車を止めた。
    「ここが私の育った家よ。少し行ったところに畑があって、島らっきょうを作っている。その横の畑で、戦前はサトウキビを作っていたんだけど、今は落花生を育てているわ」
    「畑仕事はお母さん一人で?」
    「おばぁとおかぁが二人で。小さな畑だから。おとぉは農協の仕事で那覇だったから。週末に家に帰ってきて畑を手伝ったりしていたわ」
    新垣の家は、赤瓦に白い漆喰が塗られた屋根にクリーム色の壁の典型的な沖縄の伝統建築の民家で、表玄関と周囲は琉球石灰岩の外壁で覆われていた。玄関先に箒が立てかけてあり、水桶が横に置いてあった。
    新垣が、ソーローホーチ(精霊箒)と言って、旅路で汚れたご先祖様の足元を払って、水桶で足を洗うためのもだと教えてくれた。
    玄関を入ると庭があり、周囲に色とりどりのハイビスカスが植えられていて、庭の隅に月桃が植えられていた。中央には2本のサガリバナの木が存在感を出していた。庭は小綺麗で、手がかかっていた。
    庭を見渡していると、新垣のおかぁ(幸子)が出迎えてくれた。
    「ようきたねー」
    「初めまして、竜崎と言います。いつも新垣さんにはお世話になっています。お世話になります」と言葉少ないが、丁重に頭を下げて挨拶をした。竜崎はめずらしく緊張し、顔が強張っていた。
    「美羽の母です」「竜崎さんは・・・」と言いかけた時に、
    「おかぁ。挨拶はもういいから」と新垣がおかぁの話を止めた。
    竜崎にいつもの笑顔が戻っていた。おかぁの優しい笑顔が竜崎の緊張を解いていた。
    「わかった。じゃあ、おばぁも待っているから、早速だけど、ウンケー(お迎え)しましょうねー」とおかぁが2人に言った。
    新垣のおかぁは、整った顔立ちで、典型的な沖縄美人だった。彼女の優しさと凛とした強さは、その雰囲気から簡単に察することができた。
    今日はウンケーと言って先祖の霊お迎えする日だ。タッチューの方向に真っ赤な夕日が沈もうとしていた。本来ウンケーは早い時間にするが、最近では本島から家族が帰ってくるので、時間は家族によってまちまちになっている。
    新垣のおばぁ(とみえ)が奥から出てきた。おばぁは、矍鑠として、ピンと伸びた背筋で、動作はきびきびしていた。
    ヒラウコー(平線香)に火をつける。迎え火の蝋燭はすでに火がついていた。おばぁがしゃがみ、手を合わせてなにか言い始めた。おかぁと新垣が、すぐ後ろにしゃがんで手を合わせた。新垣が「真似して」と声にならない声で言った。竜崎もとっさにしゃがんで手を合わせた。おばぁはご先祖様に子孫が集まって、お迎えすることを伝えていた。孫の遼(新垣の兄)は仕事で帰ってこれなかったが、元気で頑張っていることを伝えていた。おばぁは立ち上がりヒラウコーを取り、「チネーサンムトゥカイ、アンネーサビラ」と言いながら、仏壇のウコールに拝した。その後をおかぁがロウソクを仏壇まで運んだ。竜崎が、おばぁは何て言ったのかと新垣に訊いた。
    「ご先祖様に、お家の中までご案内しますって言ったのよ」と教えてくれた。
     竜崎は琉球畳に正座した。仏壇の前に4段の棚状のラックが置いてあり、お花、お酒、お水、お茶、数種類の果物、サトウキビを束ねたもの、サトウキビの杖、団子、お膳をおばぁとおかぁが次々に供えていく。何の迷いもなく手慣れたものだった。おかぁが、野菜の入ったボウルを仏壇には供えずに畳に置いた。竜崎が興味深そうに見ていると、新垣が『ミンヌク』といって、ご先祖様と一緒に付いて来てしまった無縁仏や餓鬼へ渡すものだと教えてくれた。
     おかぁが「遼は仕事でこられないさー、元気にしとるよー」と言いながら遼から送られてきたお供えも置いた。仏壇の横には床の間があり、端っこに三線が立てかけてあった。壁には紅型の掛け軸が掛かっていた。
     仏壇の上に、額縁に入った6枚の写真がかけられていた。新垣が、左から高祖父と高祖母、曽祖父(衛)と曽祖母(公子)、祖父(一雄)、父(浩二)だと教えてくれた。高祖父と高祖母の名前は憶えていないらしい。曽祖父と曽祖母は戦時中に亡くなり、祖父は20年前に台風で亡くなり、父は13年前に交通事故で亡くなったことを新垣が竜崎に説明した。
     新垣は写真を見ながら竜崎に、昔、おばぁから聞いた話を始めた。戦争が激しくなってきて、一雄と妹の百合子は、公子の実家に疎開した。公子の実家は今帰仁村の山間にあり、実家には公子の姉(和子)が住んでいた。とみえは、今帰仁村にある伯父の家に疎開していた。とみえの伯父の家は、公子の実家の2軒隣にあった。今帰仁村の集落からかなり離れた山間に数軒がシークアーサー園を営んでいた。疎開先で、とみえは百合子とよく遊んでいた。沖縄戦当時、伊江島から今帰仁村に疎開する学童も多くいた。
    今帰仁村自体も運天港などへの爆撃もあり、地域によっては危険な場所であったため、鹿児島や宮崎に疎開する学童も多かった。学童の中には運悪く対馬丸に乗ってしまった者もいた。一雄と百合子ととみえの実家は、やんばるに位置していて爆撃もなく安全だったため今帰仁村に残った。
    伊江島の六日戦争でとみえの両親はガマでの集団自決で一生を終え、一雄の両親は砲弾に倒れた。当時、一雄は13歳で、百合子(9歳)とよく遊んでいたとみえ(5歳)の面倒をよくみていた。とみえは寂しくていつも泣いていた。一雄はそんなとみえの話し相手になり、とみえを励まし続けた。とみえは一雄を実の兄のように慕った。時が経ち一雄ととみえは結婚した。伊江島に帰ることになった二人は、衛と公子の家の敷地に、自分たちの家を建て、先祖代々の畑で農業を営み、家族を作った。一人息子の浩二(美羽の父)は二人の愛情を一身に受け、優しく、逞しく育った。
    浩二は那覇で農協に就職した。幸子(美羽の母)は大宜味村のシークアーサー農家の出で、農協で働くようになり浩二と知り合った。浩二は幸子に一目惚れだった。浩二は幸子と結婚し、遼と美羽の2子を授かった。
    おばぁは仏壇のお供え物の位置を変えては戻しを繰り返していた。お供え物の位置を変える必要などなかったが、おばぁは美羽の話が気になって、美羽の話に聞き耳を立てていた。
     美羽の話が一旦終わったのを見て、おばぁはお供え物を元の位置に戻し、美羽の横に座り、話し出した。美羽が竜崎に家族の話をしているのを見て、竜崎にはちゃんと話さないといけないと何故か感じたのだ。
    「私と一雄は疎開先の今帰仁村で知り合って、一雄は私の傍にいてくれた。一雄と百合子は、私にとって兄姉のような存在だった。いつも寂しくて泣いていた私を励まして、毎日遊んでくれた。ある日、私が一雄と百合子のところに遊びに行ったら、明日は遊べないって言われた。理由を聞いても教えてくれなかった。私は凄く不安になったわ。私のことを嫌いになったのか、私が何かいけないことをしたのか、私を置いて二人はどこかに行ってしまうんじゃないかとか、子供ながらに考えたわ。後で知ったんだけど、一雄と百合子の母親の公子が伊江島に行った日だったと。その日から2週間ぐらい遊んでもらえなかった。私は、一雄と百合子が朝早くから2人で家を出てどこかへ行くところを見たさー。翌朝、私は、出かけていく彼らを待ち伏せして、一雄に一緒に行きたいって頼んだけど、一雄は連れて行ってくれなかった。毎日二人は朝早く出かけて行って、夕方帰ってきた。私が帰って来た二人に話しかけても、何も話してくれなかった。二人の顔はいつも強張っていて疲れた表情だった。後から思えば5歳だった私は、一緒に行くことができなかった。それに一雄と百合子は、私を連れて行ったりして、もし万一私が怪我でもしたら取り返しがつかないと思ったんだろね。後になって二人は、伊江島が見える山に行ってたのを知ったさー。もちろん二人は私の両親が、伊江島に居たことは知っていたわ。二人は、私の事を心配して、何も話さなかったんだろうね。二人の幼い私に対する愛情と気遣いだった。
    二人が山に行きだして何日かして、いつもよりも遅く帰って来た二人に近寄ったら、二人の目は充血して、顔は腫れぼったくなって、引きつっていた。まるでお化けでも観たかのように怖い顔をしてたわ。これも後から知ったんだけど、一雄と百合子は、山から伊江島の至る所から黒い煙が上がっていて、伊江島が燃えているのを見たのよ。その日から10日ぐらいして、母親がもう帰ってこないって知らされた日の翌日に、二人は私に会いに来て泣きながら私を抱きしめたわ。私は、一雄と百合子のおとぉとおかぁが死んだんだって思ったさー。その日から毎日2人は以前のように遊んでくれてね。一雄も百合子も以前にもまして優しくて、いつも一緒だからって言ってくれて。私の両親も戦死したことを二人は知っていたけど、私には言わなかったの。あの時、一雄と百合子が私を抱きしめて泣いていたのは、私を思ってのことだったんだと分かったわ。伯父から私の両親が死んだと伝えられたのは、1か月ぐらいしてからだったかな。伯父は、小さい私になかなか伝えることができなかったんだろね。その後私は、伯父に育てられた。伯父は子供がいなかったので、私を養子にして、なに不自由なく育ててくれた。私は、一雄と出会えて幸せだったさー。私たちは戦争で死ぬこともなく、今帰仁村での生活は大変だったけど、一生懸命毎日を生きたさー。私は、伯父のシークアーサー畑を手伝った。畑仕事は嫌いじゃなかった。いや、畑仕事はどうでもよかった。隣のシークアーサー畑に手伝いに来る一雄と百合子と一緒にいることが、私にとってのなりよりだった。私にも、一雄と百合子にも両親はもう居なかったけど、私には一雄と百合子がいてくれた。私は、一雄を慕い、一雄は、私を愛しんでくれた。私は一雄と結婚して、その後の伊江島に引越した。そこでの生活は、貧しかったけど最高に幸せだったさー。紺碧の海を昇る金色に輝く朝日、タッチューに沈む夕日、海と土の香。浩二が生まれ、毎日、一生懸命に働き、家族一緒に食べるご飯は美味しかったさー。家族の笑いは絶えなかった。寝て、起きて、食事して、仕事して、遊んで、また寝る。平凡な毎日、私たちは幸せで、毎日生きていることだけで感謝したよー」
    竜崎は、おばぁの戦争を生き抜いた強さに心を揺さぶられた。家族の強い姿と絆に憧憬を覚えた。
    おばぁの話を神妙な顔つきで美羽と竜崎が聴いているのを見て、おかぁが食事に誘った。「さあ、さあ、こっちにきて。竜崎さんも美羽も、お腹空いてるでしょう。食べましょうねー」
    美羽たちが、話をしている間、おかぁがお膳を用意してくれていた。
    おかぁが、「なーんもないけどねー、沖縄のウンケーの食事食べてー」
    竜崎は、ありがとうございますと言い、手を合わせ、頂きますと言った。もずくの酢の物、島ラッキョウの漬物、ジューシーとソーキがお膳に並んでいた。おかぁが皆に泡盛を注いでくれた。
    おばぁが、泡盛を口にするのを見届けて、おかあ、新垣、竜崎の順に泡盛に口をつけた。
    おばぁが、この島ラッキョウは家でとれたものさーと言った。
    竜崎は、咄嗟に島ラッキョウを口に運び、コリコリとした食感を味わった。美味しいかった。
    美羽は、少し緊張していた。
    おばぁが美羽を心配して「美羽、だいじょうぶー?」と訊いた。
    美羽は、「だいじょうぶよー」と答えた。
    美羽が、「おばぁは、どう?」と訊き返した。
    おばぁは、「心配ないさー」と答えた。
    おばぁは、美羽の事を日ごろから案じていた。
    2020年11月、仲間健司の死後、それ以来、美羽が帰って来て、美羽が笑っても、おばぁには、美羽が無理して作り笑いをしているのが分かっていた。以前の美羽の弾けるような笑顔は消えていたからだ。健司の死から10か月が経とうとしていた。おばぁは、美羽の様子を注意深く伺っていた。おばぁも夫である一雄が亡くなった時に深い悲しみにさいなまれた。おばぁは、息子の浩二を事故で亡くした時には、悲しみを外には見せず、自分の中に閉じ込めた。悲しみにくれる幸子と遼と美羽を気遣ってのことだった。おばぁは、大切な人を亡くした美羽の心情を思うと、いつも心が張り裂けそうになった。おばぁも夫と一人息子を不慮の事故で亡くしていたので、美羽の悲しみが痛いほど良く分かった。
    竜崎は、湿っぽい雰囲気に包まれていた空気を読み、「もずく美味しいです。じゅうしーもいい味です。ソーキも柔らくて口の中で蕩けますね。じゅうしーはおばあの料理ですか?」と話題を変えた。
    「私じゃない、幸子さんよー」とおばぁが答えた。
    おかぁが、「私はおばぁのレシピーを真似してるだけさー」
    おばぁが、「レスピーなんかないよ」
    「レスピーじゃなくて、レ シ ピー」と新垣が訂正した。おばぁが破顔し、大きく口を開けて笑った。
    おかぁが、「おばぁの作ってるところを見て紙に書いたさー。それがレシピー」
    竜崎は雰囲気が変わったのを感じて少しほっとした。
    おばぁが、竜崎の方をみて訊いた。
    「それで、竜崎さんは何してるー?」
    竜崎は、不意を突かれたが、「観光のプロモーションをしています」答えた。
    おばぁが、「なんねー?」
    「沖縄に観光客にもっと来てもらって、沖縄のいい所をもっと知ってもらう、そのお手伝いをしています」
    「この島にもホテルができて、外人さんも来ているみたいや。私ら、外人さんみたら、怖いからさー。苦手さー」
    竜崎は、おばぁの言ったことばに戸惑いを隠せなかった。
    また、雰囲気が悪くなりそうだった。
    その場の雰囲気を読み取った美羽が「おばぁ、そろそろ、今日は疲れたから休むねー」と言ってくれた。
    おかぁが、「そうやねー」
    おばぁが、「おばぁも休もうかなー」と言い、自分の部屋に戻っていった。
    竜崎は、客間に案内された。6畳の和室で沖縄畳の上に布団が引かれていた。
    新垣が、「ここを使ってください」言った。
    「ありがとうございます」
    「明日はゆっくりしてください」ナカヌヒー(中日)はご先祖様とくつろぐ日だから。
    「じゃ、おやすみなさい」
    竜崎は、なかなか寝付けなかった。新垣のおばぁの話が、頭から離れなかった。
     
     朝起きて居間に行くと、新垣家の人たちは、皆それぞれ忙しそうにしていた。ご飯が炊ける臭いがしている。おばぁは庭で、ハイビスカスの花に向かって、なにやらひそひそ話している。しばらくすると庭の中央に行きサガリバナの木と話し始めた。サガリバナの木には、淡いピンクのイソギンチャクのような花が鈴なりに垂れ下がっている。甘美な匂いに誘われたミツバチが花から花に飛び移っている。地面には今朝落ちた花びらが散乱していた。夜明けとともに、サガリバナはひらひらと羽子板の羽のように落ちていく。数時間もしないうちに全て落ちる花におばぁは話しかけていた。
    おかぁは台所で、鍋で何か作っているが、鍋に向かって何か話している。その横で、美羽はおかぁに何か話しかけている。美羽にはお構いなしに、おかぁは気にせず鍋に話しかけている。竜崎はそれぞれに目をやった。新垣家の微笑ましい日常を垣間見たような気がした。それは、平和な親子3世代の日常の風景である。
    美羽が「おはよう、寝れました?」と竜崎に訊いた。
    「ええ、おはようございます。皆さん早起きなんですね」竜崎は寝れなかったことを隠した。
    「うちは農家やからね」とおかぁが言った。鍋に話しかけていたおかぁは、ちゃんと美羽と竜崎の話を聞いていた。
    「朝ごはん食べたら島を案内しますね」と美羽が言った。
    「わかりました。よろしくお願いします」
    おかぁは、鍋からお椀に味噌汁を注ぎながら、竜崎と美羽の会話を聞いていた。おばぁは相変わらず、庭に咲いている月桃の花と何かひそひそ話している。
    おかぁが朝食の用意ができたので、食卓に来るように声を掛けた。
    おかぁが匙でじーまみ豆腐を掬って、皆のお皿に盛った。
    食卓に皆集まり、おかぁの作った朝食を食べた。アーサーの味噌汁にじーまみ豆腐、それと昨夜の残りのジューシー。
    美羽が、「おばぁもおかぁも植物や鍋に向かって話しかけるの、びっくりしたでしょう。気にしないで。いつものことよ」と言い、竜崎を外出に誘った。
      美羽は、竜崎を伊江小学校に連れて行った。中には入らなかった。校門の前で小学校時代の思い出を竜崎に話した。美羽は、活発な女の子だったので、駆けっこではいつも1番だった運動会のことや、1学年上の男の子と喧嘩して、男の子に尻もちを付かせ泣かせ、おかぁが、学校に呼び出された。学校から帰って来たおかぁに叱られると思っていたが、おかぁは叱るどころか抱きしめてくれたことを話した。
    次に向かった先は中学校だった。美羽は中学校時代の事を話した。部活動はバスケットボールをしていたこと、クラスメートと島を出る冒険をしたことなど。
    二人は海の近くの食堂で沖縄そばを食べにいった。そばの上に超特大のソーキがのっていた。完食後、城山(タッチュー)に向かった。
    「せっかく来から登っていきましょう」を美羽が誘った。
    竜崎は、山は苦手だった。というより高い所が苦手だった。
    竜崎は登り始めて、階段が急なのに直ぐに気が付いた。でもたかだか70メートルだと思い、自ら不安を打ち消した。城山は170メートルだが、途中まで車で上れる。100メートルの所に駐車場やお土産屋がある。登山口はうす暗く、神聖な雰囲気を醸し出していた。先に登っていく新垣が直ぐに見えなくなった。石の階段の高さは不規則で、階段は回りくねっていた。下山してくる観光客らしき人とすれちがう。階段が狭いので、すれちがうのがやっとだ。片方にはチェーンが掛かっているが、もう片方は山肌だ。草木が茂っている。すれ違う人は「頑張って」と口々に声を掛けてくる。
    美羽は先へ、先へ進んでいく。美羽の足取りは軽く、すたすたと登っていく。上の方から美羽の声がする。「見て、見て、綺麗でしょう」
    竜崎は、「ええ、凄く綺麗ですね」と答えたが、もう下の景色は見ないようにしていた。見ると足がすくみ進めなくなるのが分かっていた。上を見ても新垣の姿は見えない。
    100段ぐらい登った所は、伊江島の畑と民家が遥か遠くまで見渡せる。竜崎の足は震えていた。股間あたりがむずむずする。すーと冷気のようなものが心臓を冷やす嫌な感じがした。高い所が苦手な竜崎は、なるべく景色を見ないように、階段だけを見て、一段一段上がることだけに注力した。階段の一段一段の高さはまちまちで、気を付けないと階段を踏み間違える。こんなところで階段から転げ落ちることは避けたかった。
    竜崎は左手でチェーンをしっかり掴み、一段上の階段だけを見ながら登った。周りの景色やすれ違う人を見る余裕などなかった。相変わらず、すれ違う人は「がんばれー」と挨拶してくる。額から汗が噴き出している。息が切れる。チェーンを握る手からも汗が出ている。必死だった。竜崎にとっては命懸けだ。すれ違う人たちは足取りも軽くスイスイと降りていく。先は余りないことに気が付き、もう少しと自分に気合を入れた。上に伸びている階段に終わりが近づいたのが気配で分かった。階段が緩やかになり、階段自体がなくなった。岩と土の凸凹した頂上に着いた。頂上のスペースはせいぜい10人が居るのが限界だ。崖っぷちのごつごつした岩に座って5,6人が写真を撮っている。美羽がニコニコしてこちらを見ているのがわかった。美羽の顔は汗一つかかず、すがすがしささえ伺える。
    「竜崎さん、遅い、遅い」
    「新垣さん、早すぎ」としか返せない。竜崎の顔は引きつっていた。
    竜崎はしゃがみこんだ。息がきれ、足が震えていた。
    普通の人は15分もあれば登れるところ、竜崎は30分かかった。
    美羽はもっていた水筒をそっと差し出した。竜崎は水筒を受け取り、口をつけないように飲んだ。水が口から洩れ、首からシャツに零れた。美羽はそんな竜崎を観て微笑んでいた。気づくと風が爽やかだった。
    竜崎は、少し落ち着きを取り戻し、座ったまま恐る恐る周囲を見た。立つことはできなかった。何かに捕まっていなければ不安だった。なるべく地面を見ていたが恐る恐る頭を上げて周りを見ると、タッチューの頂上からは360度伊江島が見渡せた。緑と土色の畑、点在する民家、青い海が360度に広がっている。その向こうに沖縄本島が迫っている。
    竜崎は、あの時の事を思い出していた。備瀬のビーチから見えていた伊江島タッチュー、沈んでいくオレンジ色の夕日、新垣の目に映っていたオレンジ。
    美羽が「竜崎さんって、もしかして、高所恐怖症?」
    「高所恐怖症だとここまで登れないですよ。でも、正直、高い所は大の苦手で」
    「やっぱり、あはははは」
    美羽はまた笑い「あはは、竜崎さんって意外と繊細ね」と言った。
    「え?・・・」言葉が続かなかった。
    竜崎には下山が待ち受けていた。できればこの上でもう少しいたかったが、下りることにした。頂上は狭く、あまり長居をしていると後から来る登山者に迷惑がかかるからだ。と言っても皆、平気に直ぐに下りていく。
    美羽は、スイスイ下りていく。
    竜崎は、チェーンを握りしめ、おそるおそる下りる。腰が引けている。下りるときは、いやがおうにも下の景色が目に入ってくる。膝に負担がかる。足がすくみ、足が止まる。後ろから下りてくる人に先にどうぞ、先に行って下さいと先を譲る。膝ががくがくする。
    汗がまた噴き出てくる。息づかいは登りほどではない。
    「98,99」階段の数を数えながら登ってくる人とすれ違う。
    登っている時に階段の数を数えている人がいて、階段は300段前後だと分かっていた。もう少しだと思った。やれやれと思った。
    下に着くと、美羽が伊江ソーダを買ってくれていた。美羽は、ショッキングピンク色のソーダを飲んでいた。私にはグリーンマースというソーダだった。海水から作られた塩と大宜味村産のシークアーサー果汁を使用した塩入りソーダだ。汗をかいた私には丁度よかった。美羽が飲んでいるのは赤いドラゴンフルーツ果汁と紫芋を使用した、ピンクドラゴンだ。
    乾いた喉を潤し、生き返った気がした。
    「ありがとう、美味しい」
    「あー、よかった。なんか死にそうな顔していましたよ」
    「あ、やっぱり、そうですよね」「あはは」今度は竜崎が笑った。
     
     竜崎は、ヌチドゥタカラの家に行きたかった。反戦平和資料館だ。積極的ではない美羽を察した。竜崎がヌチドゥタカラの家を見学している間、美羽は家に戻ることにした。美羽にとっては戦争の資料は見るに耐えなかった。竜崎は美羽から聞いた美羽の曽祖父母やとみえの両親を巻き込んだ憎い戦争の事をちゃんと知っておきたかった。ちゃんと史実を知ることが、伊江島に住んできた人たちへ敬意を表すことだと思っていた。
    ヌチドゥタカラの家に入ると、戦時中の生活品や遺品、米軍の銃弾などが展示されていた。周囲22キロのこの小さな平和の島で起きた惨劇の記録が展示されていた。
    1945年4月16日に米軍が上陸し、23日までの6日間で島民の半分が命を落とした。島全体が阿鼻叫喚の巷と化した。日本軍の兵士だけでなく、本来は非戦闘員であるはずの住民も武器を手に、少女までも竹槍や爆弾を手に敵に向かっていった。当時、捕虜になるとひどい目に遭う、生きて捕虜になって恥をさらすなと言った教育を受けていた住民が、集団自決により多くの命が失われた。家という家は砲撃と銃弾の標的となり破壊された。激しい地上戦を生き延びた住民は、米軍に収容され、慶良間諸島などに強制的に移送された。2年ぶりに島に帰ってきた住民たちは、家ひとつ畑ひとつ残っていない、単なる土地と化した島を目にした。
    ヌチドゥタカラは、沖縄の言葉で命は宝という意味だ。竜崎は、生きてるだけで丸儲けというフレーズを思い出した。お笑い芸人の大御所が言った言葉だと記憶していた。命は尊いもので、人が他人の命を奪うなんて、絶対にあってはならない。美羽の曽おじぃと曽おばぁ、とみえの両親も戦死している。展示品を見ていると、竜崎は暗澹たる海に自分が沈んでいく感じを覚えた。
     
     美羽が、竜崎と島を廻っている間に、百合子が新垣家を訪れていた。仏壇に供えられた手土産にはウチガビ(あの世のお金)が添えられていた。美羽が居間に入ると、とみえと百合子が談笑していた。百合子が持ってきたシークアーサーとサーターアンダギーが供えてあった。とみえと百合子は姉妹のように見える。幼馴染であり、親友あり、悲しみを共にした仲間だった。
    「百合子おばぁ、ご無沙汰しています」と美羽が挨拶した。
    「美羽ちゃん、げんきー、那覇での仕事はどう?」
    「うん、なんとか」
    百合子は美羽を見てにやぁと微笑み、「美羽ちゃん、彼氏連れて来てるんだって」と美羽をちゃかした。
    続けて「いつねー」と結婚はいつなのか突っ込んできた。
    「いつねーって、なんねー?」と美羽が訊き返した。
    「いつねーって、決まっとる」
    「百合子おばぁ、ちがう、ちがう、そんなんじゃないよー。彼は職場の同僚さー」と竜崎との関係を否定した。
    「別に職場の同僚とかは関係ないさー」
    美羽は百合子のとっぴな話に耳たぶが熱くなるのを感じた。
    とみえは百合子と美羽の会話を聞きながら、知らん顔をしていた。
    百合子は、疎開した今帰仁村で和子から引き継いだシークアーサー畑を営んでいた。一雄ととみえと過ごした思い出詰まる地に根を下ろした。
    「美羽、シークアーサーのサーターアンダギー持っててきてくれたよー」ととみえが言った。
    「ありがとね。百合子おばぁのサーターアンダギー、大好きサー」
    「美羽ちゃん、今度、遊びに来てー。待ってるさー」
    「ありがと。百合子おばぁ、体に気を付けてね」
    美羽は1時間ほど百合子おばぁたちと過ごした後、挨拶をして家を出た。美羽は、竜崎をヌチドゥタカラの家まで迎えに行った。ヌチドゥタカラから出てきた竜崎は、重苦しい顔つきをしていた。なにか幽霊でも観たかのような顔だった。いつも笑顔で微笑んでいる竜崎の初めて見る顔だった。
    美羽が車を寄せて、「乗ってー」と明るく竜崎を呼んだ。竜崎は迎えに来てくれた美羽にありがとうと一言いった後、何もしゃべらなくなった。
    美羽は、百合子おばぁの家族が来ていたが、もう帰ったこと、今晩の夕食のこと、明日の予定について竜崎に話した。
    竜崎はぼーと聞いていた。「うん、うん、分かった」「ごめん、なんか、ぼーとしてて」
    ヌチドゥタカラの家で見たものに衝撃を受け、この島の凄まじい歴史が竜崎の胸に突き刺さっていた。
    美羽が「いいのよ、わかるわ」
    「でも、お願い、家に帰ったらそんな顔しないで」
    「ごめん、わかった」
     
     その夜も、竜崎はなかなか寝付けなかった。伊江島の戦争の事が、どうしても頭から離れなかった。何度も寝返りを打った。寝付いたのは朝方になってからだった。
    おばぁとおかぁ、新垣がバタバタと忙しそうに台所と仏壇のある居間を行ったり来たりしている。ウークイの準備をしていた。
    ウークイヤーヨンナー(お見送りはゆっくり)と言われ、ご先祖様と宴を楽しんだ夜遅くに始める習わしだが、早くウークイを始めることにした。新垣と竜崎は今日中に那覇に帰らなくてはいけなくて、16時のフェリーに乗ることになっていた。
    ウークイの午後、エーサーの太鼓と歌が何処からか聞こえてきた。太鼓の音と歌が大きくなった。『スリサーサー スリエイ スリサーサー』
    おばぁは庭でハイビスカスに話しかけていたが、エーサーの音が聞こえてくると、体が自然にリズムをとり、エーサーの曲に合わせて踊りだしていた。エイサーの太鼓と歌が直ぐ近くから聞こえてきた。
    『テンヨーテンヨー シトリトテン ハリガヨーヌ ユイヤナ』
    おばぁのゆったりとしたそれまでの足取りとはちがい、おばぁの足取りはかろやかに見えた。
    おばぁは力強く生きてきたことを、ここで示しているかのようにも見えた。夫だった一雄や父や母に自分の元気な姿を見せているようにも見えた。エイサーの音が遠のいても、おばぁは暫く踊っていた。おかぁが美羽に言った。「おばぁは嬉しいのさー」
    おばぁは、踊るのを止め、仏壇の前に正座し拝み始めた。おばぁは日ごろの感謝を先祖に伝えていた。続いておかぁ、そして美羽の順に名前を言いながら仏壇に向かって拝み始めた。
    おばぁが「さあ、おまえの番じゃ」と竜崎に言った。
    竜崎海来ですと名乗って、見様見真似で線香を3本拝した。またおばぁが仏壇の前に進み拝みだした。おかぁと美羽が手を合わせる。竜崎も手を合わせた。
    おばぁが供えてある重箱の料理(ウサンミ)から幾つかを取り出して皿に乗せた。後で美羽が教えてくれたのだが、ウハチ(お初)と言い、ご先祖様におかずを出して食べてもらうという意味なんだと。
    おばぁが仏壇の前に置いた火鉢の上で、ウチカビを5枚焚いた。次におかぁがウチカビを3枚焚いた。美羽が続いた。おばぁが、ふう、と首を右から左に振り、竜崎に同じようにやるように促した。竜崎はウチカビを3枚取り、火鉢の上で火をつけた。ウチカビは勢いよく燃えた。
    おばぁは、竜崎が焚いたウチカビが灰になるのを確認すると、火鉢にお仏壇に供えてある、お初、お茶、供え花、お箸の代わりになるメドハギを火鉢に入れてウサンデーをつくった。
    お供え物を入れていく間、おばぁはなにか独り言を言っていた。竜崎には何を言っているのかは聞き取れなかったが、なんとなく想像はついた。美羽が、ウサンデーを門前に供えた。
    おかぁは、ミンヌクを門の前まで行き撒いた。ミンヌクは門前で撒くのがならわしだそうだ。
    おばぁが線香(ヒラウコー)を2片を拝し、おかぁ、美羽、竜崎は手を合わせた。手を合わせたおばぁが、なにか話している。やはり竜崎には何を言っているのは分からなかった。おばぁの後に、おかぁと美羽が拝んだ。竜崎も続いた。おばぁが拝んでいた内容は、お盆の3日間の滞在を終えた、先祖が無事にお墓に帰れるように祈り、来年も来てくれるように伝え、子孫皆元気に今日を迎えられたことに対する先祖への感謝だと後で美羽が教えてくれた。
    祭事を終えた4人は食卓に着いた。ラフテー、魚の天ぷら、紅白のかまぼこと黄色いカステラかまぼこ、揚げ豆腐、大根やごぼうや昆布の煮つけが入ったお重が並んでいた。色鮮やかな料理は、竜崎には、何かほのぼのとした味がした。
    エイサーの太鼓と歌声が遠くの方で聞こえていた。新垣が地元青年会による道ジュネー(練り歩き)だと教えてくれた。
    おばぁが立ち上がりカチャーシーを踊りだした。おかぁも後に続いた。美羽が「さあ、竜崎さんも」と言って、美羽自身もカチャーシーを踊りだした。おばぁが目で竜崎に合図を送った。竜崎は、おばぁは踊れと言っていると察しがついた。竜崎はカチャーシーの踊り方など知らなかったが、ぎこちないながらも、なぜか自然に体が動いた。美羽は竜崎のカチャーシーを見て笑みが零れた。竜崎の所作を見ていた幸子もさっきからニコニコしている。カチャーシーは「かき混ぜる」を意味して、喜びも悲しみもかき混ぜて、みんなで分かち合いましょうという踊りだと新垣が教えてくれた。
    竜崎にとって伊江島での3日間は一言では表せない貴重な体験となった。悲惨な伊江島6日戦争。生きることの尊さを教えてくれる島。辛い過去を乗り越え、力強く生きる美羽の家族。
    「おばぁ、おかぁ、元気でねー」美羽の目は潤んでいた。おばぁも,おかぁも、カチャーシーを踊っていた時の笑顔から一転して涙目になっていた。また数か月で帰ってくる美羽だが、一時の別れも美羽の家族には辛かった。
    「元気でいるんよー、美羽」おかぁが美羽を抱いた。
    「体には気をつけるんだよー、美羽」おばぁが言うと同時に美羽がおばぁにハグをした。
    「わかったー。おばぁ、おかぁ、じゃあね」
    竜崎はおばぁとおかぁに深くお辞儀をし、「お世話になりました」と言い、お辞儀を解き、おばぁとおかぁの目を強く見た。
    おばぁが何か言いかけたが、おかぁがおばぁが言うのを制するかのように、竜崎に「ありがとねー、来てくれて」とだけ言った。
     
     二人は本部港行のフェリーの甲板で海風に打たれながら、伊江島タッチューが遠ざかっていくのを見ていた。
    竜崎がぼそっと「最高のお母さんとお祖母ちゃんですね」
    美羽が「世界一よー」と言った美羽の声が海風に流された。
     
     
      
    12章 台風16号 2001年9月
     
     さがり花の木の枝が上下左右に揺れ、葉の擦れる音と雨の音が混ざりザーザーと音を立てた。ハイビスカスの枝も左右に大きくゆれ、撓った枝は折れるぎりぎりのところで、風が弱まると跳ね返っていた。伊江島でも風雨が強くなっていた。
     琉球赤瓦の屋根から、瓦の形状に合わせるように、30センチぐらいの間隔で雨水が地面に落ちている。落ちていく雨水は途切れなく、風に煽られて屋根から落ちる夫々の雨水が、同じ方向に煽られながら落ち、落ちていく雨水はホースから出てくる水のように切れ目なく、風の吹く方向に同調し靡き、暫くすると垂直に戻り、また揺れる。リズムを刻むメトロノームを逆さにしたかのようでもあり、噴水のようでもある。地面の吸水力を遥かに超えた雨が水たまりを作っていた。その輪が見る見るうちに広がっていく。雨が大きな窓に引っ切り無しに打ち付け、網戸の網が揺れる、網戸に着いた雨は雫となりゆっくりと網をつたい、下に行くほどそのスピードを上げて落ちていく。
     時折風雨が増し、ひゅーひゅーと風が鳴る。さがり花の木の枝はちぎれんばかりに上下左右に撓る。枝と葉はまるでお祓いの時の白い紙垂のように揺れている。ハイビスカスの枝も激しく揺れ悲鳴を上げていたが、撓ってなんとか耐えていた。色とりどりだったハイビスカスは、抵抗むなしく落ちてしまい、ハイビスカスは緑の木に変わっていた。エメラルドグリーに輝く海は消え失せた。海と空は一体となり、雲色というか濁った灰色一色に視界全体が染まっている。村全体に警報が鳴っていた。避難勧告が告げられた。
    暫くして島全体が停電した。一雄がラジオで台風情報を聴いて、一雄の解釈で幸子と美羽に伝える。遼は外の様子を興味深く観察していた。窓からいつも見ているタチューの姿は厚い雨雲に覆われて見えない。時折ヒューと強い風に煽られて窓ががたがたと揺れその揺れが遼の体に響いた。
    勢いが衰えない台風の接近を警戒して、一雄は雨戸を閉め、戸締りをした。遼と美羽は、台風で停電になった家の中を懐中電灯が照らすのをむしろ楽しんでいるかのようだ。無人島で冒険の仮体験でもしているかのように、無人島で台風がきたらどうするかを二人で話し合っていた。
    プロパンガスだったので料理は普通にできた。幸子が缶詰のスパムと卵焼きを挟んだおにぎりを作った。遼と美羽は薄暗い部屋で、目をキラキラと輝かせて幸子が作ったおにぎりを食べた。
    一雄は身支度をしていた。とみえが不安げに何処へ行くのかと一雄に聞くと、一雄は役場に行って様子を見てくると告げ、合羽を羽織り、長靴を履き、家を出て行った。こういう時の一雄は、とみえがいくら言っても無駄だった。決めたら最後梃子でも考えを変えない。一雄は、台風の時にはいつも役場に行っていた。
     役場では緊急事態の対応のために、村長を含め数名が待機していた。村民からの電話の対応や警察、消防との連絡を行っていた。一雄は台風の時に、役場ではいつも人手が足りなくなることを知っていた。特に今回のような大型台風の時は、役場に残るのは村長を含め数人で、若い職員は家に帰し、ベテランの職員だけで緊急事態に対応しなければならなかった。島の者は皆知り合いで、困っている時は助け合うのは当たり前だった。
    一雄が役場に着いたときは、案の定引っ切り無しに電話が鳴り、職員があたふたと対応していた。避難場所はどういう状況かとか、避難したいが助けが必要だとか、停電はいつ復旧するのかと言った電話だった。職員は丁寧に電話に対応して、電話の内容によっては消防や警察にも応援を依頼した。
    一雄も電話の応対を始めた。一雄が台風の度に役場に駆けつけて来るのは毎度のことだったので、村長は一雄を見ると、手を上げて「おー」と言っただけで自分の業務を続けた。職員たちも一雄のことは良く知っていた。村長も職員も気が引き締まっていた。緊急時の対応には慣れていた。役場の中は発電機で明かりは確保していた。
    台風は沖縄本島の中で方向のない動きをして停滞した。一雄が来て数時間後には電話が鳴る回数が減ってきた。落ち着きだした様子を見て、村長に早く帰って、とみえと孫たちを安心させてやれと言われ、一雄はその言葉に甘えて、帰ることにした。一雄は、役場に残る職員たちに、申し訳ない気持ちで一杯だった。
    一雄が雨に濡れた合羽を羽織った時に、一本の電話に対応していた職員の声が聞こえた。東江前の照屋さんが、雨戸が閉まらないから助けてほしいって言っている。スナックみなとの斜め向いの一人暮らしのおばぁだけど。一雄は帰り道だから俺が行ってくると引き受けて、役場の皆に手を上げて出ていった。
    役場を出ると大粒の雨が横殴りに一雄の体に当たってくる。ピシピシと顔に打ち付ける雨はまるで砂のようだった。時折吹く強風で前に進めず後ずさりした。何かに捕まらなければ前に進むことができなかった。台風は本島中部まで来ていた。線状降水帯が沖縄中部から北部にかかっていた。
    一雄の足元を濁った水が川のように流れていた。一雄はスナックみなとを確認し、斜め向かいの照屋のおばぁの家の外門を入った。
    「照屋さん、役場からきたよー」と数回叫んだ。大声を張り上げないと雨と風の音にかき消されてしまう。雨戸は閉める途中で放置されていた。雨と風が容赦なくガラス窓に当たって、今にもガラスを破りそうだった。おばぁが玄関から顔をだして「雨戸が閉まらん」一雄に助けを求めた。
    一雄は雨戸の所に行き、閉めかけていた雨戸を閉めようとしたが、全く動かない。一雄は渾身の力で雨戸を一旦元に戻した。レールに落ち枯れ葉が層になって絡まっていた。一雄はレールに詰まった落ち葉を手で除き、雨戸をスライドさせた。雨戸はガラガラと音をたてて閉まった。
    おばぁは、窓越しに心配そうに一雄を見ていた。
    「おばぁ、雨戸閉まったよ」と一雄が声をかけた。
    おばぁが玄関から顔をだし、申し訳なさそうに一雄に頭を下げて、家の中に戻っていこうとした。一雄は、おばぁに避難したほうがいいと言いかけたが、すぐに考え直した。一雄ですら前に進むのがやっとだった。一雄は避難するときは役場か消防所に必ず連絡するように、決して一人で外に出ることのないよう言った。
    おばぁはわかった、大丈夫と言って家の中に引っ込んだ。
    この雨と風ではおばぁが一人で避難するのは無理だった。一雄は家を眺めて、この家が倒壊するようなことはないだろう思い、家路に戻った。雨と風はますます酷くなっていた。一雄は、民家が並ぶ道沿いに外壁に手を添えながら前かがみで進んだ。花ブロックの外壁に手を添えて進んだ。花ブロックの間から強い風が吹き抜けて一雄に吹き付けた。花ブロックの壁の所では、花ブロックを通して来る風を受けている間、前から来る風が弱まった気がした。花ブロックの外壁の家を過ぎると、コンクリートブロックの外壁の民家が続いていた。数軒進んだ時に、大きな風圧を感じた瞬間、頭に衝撃を受け倒れ意識を失った。突風でコンクリートブロックが倒れ、一雄を襲った。あっという間だった。一雄が最後に見たものは、コンクリートの壁が波打つように彎曲し、自分を飲み込む瞬間だった。
    巡回中の消防隊員に発見された一雄は病院に運ばれた。頭に外傷があった。停電の中、緊急処置が行われた。脳外科の手術は伊江島の病院では無理だった。とみえは、消防から連絡を受けた。幸子と孫たちを家に残して、とみえは消防に病院まで送ってもらった。病院内は暗く、所々通路に緑色の非常口が浮かび、非常灯が通路をぼんやりと照れしていた。非常用電源は機能していたが、病院中の照明をつけるほど万全ではなかった。緊急の医療ヘリは、この台風では飛ぶことはできなかった。とみえは、一晩中祈り続けた。一雄は、暗い個室で、酸素吸入を受け、何本かの管が一雄の体に伸びていた。医師から説明を受けた。頭への打撲による脳挫傷だった。台風が通り過ぎたら医療ヘリで那覇に移送し手術をする説明を受けた。翌朝になっても台風は、迷走し本島から抜けなかった。一雄の様態は、意識が戻らず一進一退を続けた。その日もとみえは、一日中一雄の傍らに寄り添い、手を握り、意識のない一雄に話し続けた。一雄の状態は危険な状態だった。朝になりとみえは、医師から説明を受け、家族を呼んだ。とみえは、一雄がとみえの手を握り返してきた。とみえは、それをしっかりと感じ取った。酸素吸入のマスク越しに苦しそうに口を動かしているのが分かったが言葉になってない。容態が悪化した。
    とみえが、担当医を見ると、担当医は無言で患者を見ていた。一雄の手から力が抜けるのが分かった。
    幸子と遼、美羽が病院に駆けつけた時に、病室で泣きじゃくるとみえの泣き声だけが響いていた。とみえは、ごつごつして大きな一雄の手を両手で握り締め、一雄に話しかけて、一雄に寄り添い泣いた。幸子と遼と美羽は一雄の横たわるベッドの傍らで茫然と立ち尽くした。医師たちはお別れをするように告げ、とみえたちを残し一旦、その病室から退出した。
    翌日台風は、沖縄本島から久米島方向へ南下した。伊江島へ船が出るようになり、百合子が駆けつけてきた。遺体は霊安室に移されていた。本来なら自宅に移送されるのだが、台風の影響で、全てが遅れた。百合子は、横たわる一雄の傍から離れないとみえを優しく包んだ。
    一雄、とみえ、百合子は戦中、戦後の過酷な日々を一緒に生き抜いた同士であり、小さな喜びを分かち合った友であった。
    幸子から連絡を受け、那覇から浩二が駆けつけた時、一雄の傍らで、とみえと百合子が立ち竦み項垂れていた。一雄の亡骸の傍で、茫然と立ち竦んでいるとみえが、百合子に支えられていた。とみえのやつれた、魂を抜かれたようなとみえ、そんなとみえの傍に寄り添う百合子と幸子が居た。
    一雄の人生は、両親を戦争で亡くし、辛かった時期に、とみえと共に生き、兄のようにとみえを愛しみ、いつも励まし、苦楽を共にした。とみえを愛し、伴侶となり、浩二を生み、育て、幸せだった。
    葬式は家族だけで行われた。とみえは一雄との思い出が、悲しみと苦労とささやかな幸せが走馬灯のように蘇っては消えた。百合子も一雄ととみえと過ごした過去の記憶が蘇っては消えた。とみえは、葬儀に出席した皆に気を使って振る舞った。
    そんなとみえに、浩二はかける言葉を失ったが、ひたすらとみえの肩を抱き、背中を撫で、気遣った。「おとぁは、幸せな一生をおかぁと過ごしたんだから」という言葉が浩二の口から零れ出た。
     20年前の台風16号は、沖縄本島を2度横断し、30時間もの間県内を方向感なくジクザク動き、記録的な雨量により各地で、道路の埋没や地すべり、浸水など大きな災害をもたらした。その後台風は台湾に上陸し、華南で熱帯低気圧に変わった。台風16号は2週間に渡り迷走した台風だった。
     
     
      
    13章 OIST 2021年9月
     
     台風が去り、台風一過で快晴の空を反映して恩納村の海は、沖からリーフまでの濃い青とリーフから浜辺までのコバルトブルーが、くっきりとツートーンをなしていた。
     竜崎と新垣はOISTを訪れていた。OISTは恩納村谷茶の小高い丘に位置し、海を一望できる場所にある。以前は植物園だった広大な敷地に、自然に溶け込むかたちで、スカイウオークに繋がれたセンター棟と数棟の研究棟が立っている。教授陣や学生が滞在する沖縄風建築の宿泊棟が併設されている、基本、学生たちは、そこで生活を共にして研究に励む。
     新垣は、マリンゲノミックスの西城教授との面会のアポを取っていた。センター棟の受付で登録をすませると、3階のカフェ入口で待つように言われた。受付の先はチューブ状のトンネルが続く。トンネルの両壁にはOISTの説明が書かれたパネルが連なっていた。研究棟に続くエレベーターで3階に上がる。3階に上がるとカフェとオープンテラスがあり、ガーデンスペースが広がっていた。言われた通りにカフェの入口で待った。周りには海外から来た学生がランチを取っていて、さながら外国の大学のようだ。気持ちのいいスペースで、学生たちはリラックスしていて、笑い声も聞こえてくる。笑い声は万国共通だ。暫くすると教授らしい人が近寄って来た。その風貌から学生とはちがい一目で教授だと分かった。
    竜崎は、西城に一礼し、ゲノム解析を通じて、より美味しいもずく、海ぶどう、海ゴーヤの品種改良ができないか話を聞きに来たと言った。
    教授が口を開いた。
    「初めまして、西城と申します。竜崎さん、レジメを拝見しました」
    竜崎は予め相談する内容と目的を纏めたレジメをメールしていた。
    竜崎は自分の行っている業務に関して簡潔に説明し、本題に入った。マリンゲノミックスを専門とする西城に対して、品種改良に関する協力を要請するのに回りくどい理由など必要なかった。
    竜崎は「沖縄の未来のために、力を貸していただけないですか。お願いします」と単刀直入に伝えた。
    西城教授は終始にこにこしていた。「分かりました。やってみましょう」と竜崎の依頼をあっさりと承諾した。
    西城はOISTで行った研究で、地球温暖化に適応するための海藻類の新品種開発手法の確立における研究結果が既に出ていることを説明した。花が咲かない海藻類では品種改良が進んでおらず、海藻の生育には微生物の共在が必須であり、陸上植物では共生微生物の種類に応じて植物の性質が変化することが知られている。ゲノム科学を使い海藻類と微生物の相互関係の解明に迫り、高温耐性を持つモズク新品種改良法を確立し、地球温暖化に影響されない海藻類の作出が可能になった。
    西城が続けた。「品種改良の研究内容、研究期間と費用など、プロジェクトの概要を纏めます。沖縄県側は水産試験場や関連漁協の協力を取り付けて下さい」
    沖縄県の水産試験場や関連する漁協に協力してもらう必要があった。OISTには大きな水槽設備がないからだった。
    「プロジェクトチームを編成するための県との打ち合わせは3か月後ではどうですか」
    竜崎と新垣は、西城の提案に、想像していたよりは展開の速さに驚いた。県への予算申請、水産試験場と漁連との協議を含めると最低6か月は必要だった。
    新垣は、2022年度の沖縄県の予算に盛り込むために西城のレジメが必要であることを説明した。水産試験場とは前もって根回しをして、漁連とは新年度が開始する4月に打ち合わせを行うなど、無理のないスケジュールを提案した。
    品種改良は、結果が出るまでゆうに10年はかかるプロジェクトだったため、西城も新垣の意見に同意した。
    その後、竜崎と新垣は県の水産課と協議し、本件を水産課に引き継いだ。
     
     
      
    14章 宮古島と竹富島 2021年10月たかぬーしーばい(鷹の小便)の季節
     
     2021年9月末、第4回目の緊急事態宣言が終了した。この季節はミーニシ(新北風)の影響で天候が不安定になり小雨が降ることが多い。たかぬーしーばい(鷹の小便)の季節である。
    10月初め、竜崎と新垣は、福岡で行われたコロナ後の観光促進についての会合に出席し、その足で宮古島に飛んだ。飛行機の翼にはヤンバルクイナが張り付いていて、飛行機と一緒にヤンバルクイナは雲の中を飛んでいた。昔は俺も大空を飛んでいたんだよとでも言いたげだ。
    竜崎は飛行機の窓から、時折雲の合間から現れるエメラルド色とコバルト色の層が織りなす自然のキャンバスとその下に点在するサンゴ礁を見ていた。色々なブルーとグリーンがサンゴを浸していて、段々畑のようにも見えた。
    島の輪郭に沿って、白い帯が蛇のように縁どられ、深い緑色が、島の外輪に沿って、島の内側から、白い帯に接するところまで続いている。白の外側には、沖縄本島の海の色より一段と色鮮やかに鮮明に透き通った海が広がっている。
     宮古島観光協会の下地佳織が空港まで迎えに来てくれていた。空港では貝殻で飾られたシーサーが観光客を迎えていた。空港はいかにも南国の島といった雰囲気を醸していた。空港には緊急事態宣言終了の合図で日本人観光客が訪れていた。夏の観光シーズンを外したこの時期なので、外国からの観光客はあまりいないようだ。宮古島では10月中でも水温は高く、ビーチリゾートのシーズン継続中だ。
    竜崎と新垣は下地の車に乗り込んだ。下地は宮古島観光協会で働く30アラウンドの女性で、小柄だが目鼻立ちがハッキリしていて、エキゾチックな顔立ちである。
    下地は直ぐにアポを取っていたマンゴー農家に向かった。目的は農家の状況を聞き、情報を収集し、意見交換を行うことだった。
    「ハイサーイ」と下地が農家の主人に声をかけた。農家の主人も「ハイサーイ、佳織ちゃん」と元気よく挨拶した。どうやら知り合いらしい。
    マンゴーは6月上旬から7月下旬にかけて出荷の最盛期を迎える。この時期になると、沖縄中のスーパーや道の駅でマンゴーが並ぶ。島では様々なマンゴーが栽培されているが、アーウィン、別名アップルマンゴーが主流だ。温暖な気候に排水性の良い宮古島の土壌がマンゴーの栽培に適していた。県内でも宮古島の生産量はトップで、宮古島マンゴーと言うブランドが認知されていた。
    9月になると緑色のマンゴーが旬を迎える。キーツマンゴーだ。10月はマンゴーの収穫は既に終了していると農家の主人が説明してくれた。農家の主人が遅なりのアップルマンゴーを一つ切り取り出してくれた。
    完熟したマンゴーは、むっとした芳醇な香りを放っていた。オレンジ色の果肉は、小麦色に焼けた若い女のように、挑発しているかのようだ。口の中で甘い汁が広がり、一瞬で恍惚感が脳を満たす。
    「うーん甘い。今まで食べたマンゴーの中で一番甘いかもしれません」と竜崎が言うと、
    「美味しいですねー」と新垣も感想を言った。
    「アーウィンの出荷時期は既に終わっていてね、収穫されずに木で完熟したマンゴーだから特別甘いさー」と主人は言った。
    主人は農場に併設されたカフェを指さし、「そこで何か食べてくといいよ」と言い、農作業に戻っていった。
    カフェは観光客で賑わっていた。3人の若い女性客はそれぞれ注文したものを食べあいっこしていた。体格のいい、筋肉もりもりの、どちらかと言えば、いかつい4,5人の男客たちもマンゴーのソフトクリームをぺろぺろ舐めて、美味しいを連発していた。彼らの風貌に全く似合っていない。
    マンゴーに関しては、既に様々な形で食されるようになっていた。果物として食べるのは言うまでもなく、ジュース、プリン、ババロア、アイスクリーム、シャーベット、かき氷にスムージー、ドライフルーツ、ケーキ、焼き菓子、ジャム、サンドイッチ、マンゴーカレー、マンゴー酒などなど。カットされて冷凍マンゴーとしても流通していて、竜崎は新たな提案など何も思い浮かばなかった。
    竜崎たちは、カフェを横目に、次のキーツマンゴー農家へと向かった。竜崎たちが着くと、直ぐにビニールハウスに通された。ハウスの中はむーとした熱帯植物の香が漂っていた。
    キーツマンゴーも旬の出荷時期は過ぎ、最後の出荷を迎えていた。夫婦でマンゴーを木から切り取って、プラスティックのケースに一つずつ丁寧に並べていた。キーツマンゴーは、果肉は黄色く、糖度も高い。大きいものではラクビーボールぐらいに育つので見栄えがする。その為高級品種だ。本土ではほとんど見ることのない幻のマンゴーである。主人は今年の出来は非常に良く、大きく育ったこと、毎年出荷量を増やしていることなど説明してくれた。
    主人は、私たちに説明している最中も、収穫の手を休みなく動かしている。本土では、キーツマンゴーの知名度はアップルマンゴーと比べてまだまだだ。農家としてはキーツマンゴーの知名度を上げたいという要望があった。
    下地に対して、竜崎は宮古島のマンゴー農家が共同で食品の展示会等でプロモーションをかけるのはどうかと言うありきたりな助言しか言えなかった。夕張メロンのように、ブランディングして、如何に高級品として販売するのかが肝だと思った。ふるさと納税の品に含めるとか。都心の百貨店や有名フルーツパーラーなどでの販売に絞って、知名度を上げることから始めるというのが竜崎の意見だった。竜崎は、ふとしたことから知り合った都内で店舗展開を始めたフルーツパーラーのオーナーを紹介することを約束した。
    新垣も農家の夫婦も、もっと何か斬新な提案を期待していたみたいだった。しかし、竜崎は、マンゴーに関しては、既にマーケティングが十分行われきたと思っていた。農家に併設されたマンゴー専門のカフェに客が賑わっている光景を目にして、またその客たちが老若男女問わず、美味しいと笑顔でマンゴーを食べているところを見ると、それ以上のマーケティングは思いつかなかった。農家から街中に戻った竜崎と新垣は下地にお礼を言い別れた。
     
     宮古島には、1000を超える御嶽があり、島では昔から水が貴重だった。湧水に寄り添うように人々が暮らし、村落が形成され、湧水を大切にし、祈る習慣が生まれた。多くの地区の祭事で踊られるクイチャーも、雨乞いがルーツと言われている。
    コロナ禍でなければこの時期に、街中では子供の泣き声やキャーキャーという叫び声が聞こえてくる。パーントゥプナハとういう行事だ。パーントゥは『来訪神 仮面・仮装の神々』としてユネスコ無形文化遺産に登録された祭祀である。なんともおどろもどろした衣装を纏ったパーントゥは、身にまとった蔓草に『ンマリガー』と呼ばれる神聖な井戸の泥をつけて集落を廻り、泣きじゃくる子供を抱える。抱えられた子供は泥だらけで降ろされる。降ろされた瞬間、母親の所に駆け寄り、スカート越しに足にしがみつく。しがみつかれた母親も泥の洗礼を受ける。泥を塗られた人は、1年間無病息災になると言われ、大人から子供まで、そして新築の家や自家用車まで泥だらけになる。新型コロナ禍で今年は昨年に続き中止された。
    竜崎と新垣は、宮古島の視察を終え、最終の那覇行に乗り込んだ。機中、竜崎は、マンゴーを食べて、美味しいと微笑んだ新垣を思い返していた。新垣の屈託のない笑顔を見るのが好きだった。ずっと見ていたいと思った。竜崎は新垣が自分の事をどう思っているのか気になっていた。
    着陸に向けて、最終着陸態勢を取るとアナウンスが流れた。
    瀬長島の明かりが見えた。竜崎は新垣越しに窓から滑走路上に配置されている照明塔の明かりを眺めていた。
     
     宮古島を訪問して1週間後、竜崎と新垣は、週末に竹富島に来ていた。
    琉球石灰岩を積んだ石垣に、赤瓦の民家が並ぶ。集落の中、細い道を水牛車がのそのそと進む。観光客向けのイベントだが、沖縄気分を味わうことができる。
    100年後は自動運転、空飛ぶ車が普通になっているかもしれない。AIの進歩により、ロボットが人にとって代わる時代がそこまで来ている。でもその一方で、竹富島に来たら、水牛車に乗りたい人は増えるだろうと竜崎は思った。自然や生命あるもの、伝統や文化、それらを見て、感じて、人どうしの繋がりによってのみ人は癒され、生きがいを感じる生き物であると竜崎は思った。
    竜崎と新垣が、集落の小道を歩いている時、話し声と共に、わーという歓声、綺麗、見て、見て、という声がして後ろを振り返った。観光客を乗せた、のっしり、のっしりと歩く水牛車が近づいてきた。沖縄民謡が水牛車から聞こえてきた。
    『サー君は野中の いばらの花か サーユイユイ』
    ちょうど歌のモデルとなった安里屋クマヤの家がすぐそこだった。
    安里屋ユンタという沖縄民謡で、沖縄では知らない人はいない。この歌の主人公は琉球王朝時代の18世紀に実在した人物だ。安里屋クヤマは美人で、クヤマに一目惚れした役人とのやりとりを歌っている。なんとも人間味あふれる浮世が歌われている。
    「竹富島の水牛車は、イタリアのベネチアでゴンドラに乗るのと同じだと思う。エジプトの砂漠のツアーでラクダに乗るのと同じ効果だよ。旅行者は非日常とか異国情緒に接することで旅を楽しむ。記憶に残る旅を経験した旅行者は、自分の経験した旅の出来事や感動を家族や友達、職場の同僚に話す。旅行者の体験が、口コミで広がり、行ってみたい旅行先として記憶される。
    沖縄料理の店に行くと、沖縄民謡がバックミュージックとしてかかっている店が多い。旅行者向けにライブのある店もある。沖縄ほど旅行者が地元民謡を聞く機会が多い県は日本にはないだろう。ライブでは民謡以外に、現代の沖縄に因んだ流行歌も歌われ、いつも盛り上がる。沖縄では音楽は重要な文化で、県民の生活に溶け込んでいて、観光とも結びついている」竜崎がいつものように持論を展開した。
    「そう言われれば、そうね」と新垣が頷いた。
    観光客を乗せ、のたのたと進む水牛車が竜崎と新垣を追い越していった。
    「確かに非日常よね、水牛が引く乗り物なんて」
    竹富島には、沖縄の代表的な建築様式の赤瓦に白漆喰の屋根の民家が多い。赤瓦、白漆喰のコントラストの屋根は沖縄らしい風景だ。
    赤瓦は、もともと首里付近で作られていたが、明治時代に、河原の原料であるクチャの産地だった与那原町に生産地が移った。赤色の粘土瓦で琉球赤瓦とも言う。18世紀までは、沖縄では瓦は灰色だったが、琉球王朝時代に赤瓦がつくられるようになった。
    竜崎は、建造物は街の外観を特徴づけ、観光客を魅惑すると思っていた。スペインやイタリアでは、中世の佇まいが今でも残っている町が多く存在している。そのような町には世界中から観光客が集まる。その町には歴史があり、伝統・文化の継承がなされているからだ。人々はそれらに魅せられ、集まってくる。
    竜崎は今回の沖縄観光業振興の報告書の中で、一つの提案をするつもりだった。沖縄県内で赤瓦、花ブロック、琉球石灰岩を使った建物に対して助成金を出し、未来にむけて、沖縄の原風景を形成していく提案である。
    スペインやイタリアでは建物の外観を残すため景観法により規制・保護されている旧市街が多くある。それには行政側には、コストがかかるし、住民側にとっては、不便も強いられる。それでも彼らは喜んで受入れ、自分たちの住んでいる町に誇りと愛着を感じ、代々生まれた町に住もうとする若者が多いと聞く。彼らは100年後、500年後に、自分たちの町を残していこうとしている。
    スペインの古都トレドやイタリアのルネサンス発祥の地フィレンツェを訪れると、そういった行政の試みと住民の意思が伺える。そういう住民意識は、その地域に存在する特殊な生産要素として、魅力的な地域を創り上げる。
    琉球王朝があった沖縄は、今もその伝統と文化を色濃く残している独特な所である。だからこそ特殊生産要素が多く存在し、地域優位性が発揮できると竜崎は考えていた。
    日本は島国で、地震国だ。大きな戦争があり、戦後復興に景観を気にする余裕はなかった。戦後の大都市では無秩序な中、復興が進んだ。今では高層ビルがにょきにょきと乱立している。ヨーロッパでは旧市街があり、古い町並みが残っている。
    日本でも高山や倉敷、白川郷や京都の祇園など古い町並みが残っているところは沢山ある。そのような場所には観光客が絶えない。沖縄の遠い未来に琉球王朝の伝統・風土・文化を受け継ぐ街並みや景観をつくっていくのは、きっと沖縄のアイデンティティーを形成することになり、特殊性を際立たせ、唯一無二の存在となるだろうと竜崎は信じていた。竜崎は、竹富島にはそのようなモデルになる風景と風習が残っていると実感していた。
     
     

      
    15章 名護市 2021年12月ふーちぇびーさ(ふいご祭り寒さ)
     
     12月になっても竜崎は、寒さを感じなかった。沖縄県民には、ふーちぇびーさと言う寒さだそうだ。
     竜崎と新垣は名護市を訪問した。新垣が打ち合わせに選んだ場所は万国津梁館のカフェテラスだった。新垣は何処で名護市観光課の石嶺と打ち合わせするか迷ったが、九州・沖縄サミットの首脳会合会場になった万国津梁館を選んだ。岬の先端で高台に位置していて、カフェはテラス席があり、海を一望できる。サミットの際に首脳たちがくつろいだ空間で、首脳たちの座った椅子が残されていた。
    竜崎が「初めまして、竜崎と申します。今日はよろしくお願いします」と挨拶すると、「名護市観光課の石嶺です。明け澪の里、名護にようこそ」と返した。新垣と石嶺は既に面識があった。明け澪とは夜明けの静かで青々とした美しい水の流れを意味する言葉だと石嶺が説明してくれた。
    石嶺は、名護市観光課の課長職の40半ばの男性だった。石嶺は市職員で、竜崎が今まで会って来た観光協会のスタッフとはちがっていた。見るからに役人の風貌で銀縁の眼鏡が特徴的だった。
    石嶺は、名護への観光客数の推移をグラフで分かりやすく説明し、ネオパークなどいくつかのテーマパークが観光スポットとして点在する沖縄県きっての観光地であること。名護城をはじめとする史跡や御嶽、名護市庁舎や津嘉山酒造所などの伝統的建築物、伝統と文化をパワーポイントを使い説明した。石嶺の説明は慣れたものだった。
    竜崎は名護の観光ポテンシャルの大きさを改めて認識した。
    石嶺はさらに農業や畜産業について説明を続けた。名護では、農作物8品目が拠点産地に認定されていること。あぐーの養豚や養鶏も盛んなことを数字を交えて説明し、パイナップルのブランド化などにも言及した。沖縄北部に分布する国頭マージといわれる酸性土壌は、農作物の成長に必要な栄養素が少なく、農業には不向きとされていた。しかし、パイナップルは酸性土壌を好むうえ台風や塩害にも強かった。沖縄県農業研究センターで品種改良され、ブランド化されたサンドルチェ、ジュリオスター、ゴールドバレルなどが名護、大宜味村、国頭郡東村で栽培されていますと淡々と説明を続けた。
    「あ、ゴールドバレル、東京で食べたことあります。パイナップルとは思えない値段だったけど、美味しかったですね」と竜崎が言っても、石嶺は「そうねー」と愛想なく答えるだけだった。
    石嶺の説明は、実に流暢でかつ説得力に富んでいた。
    竜崎が感心していると、「それだけはないよー。名護はオリオンビールの発祥地で、おじぃだけじゃなく、おばぁも自慢してるさー」とユーモアもあった。
    竜崎は、名護ではおじいもおばぁもオリオンビールを自慢するんだと、石嶺の言葉通り真に受けとった。竜崎には、今までの説明から石嶺にそのようなユーモアがあるとは思えなかったからだ。
    新垣は石嶺の言ったことが、沖縄出身のグループのヒット曲の一節を捻った一言であると直ぐに分かり微笑んだ。竜崎は新垣が微笑んだことに少し驚いたが、真面目に「そーか。私もオリオンビール大好きですから、沖縄のおばぁが自慢するのは理解できます」と竜崎が言うと、石嶺は自分のいった冗談を、竜崎は全く気が付いていないので、苦笑しながら  「私も好きなので、今度飲みに行きましょう」と誘った。
     私たちが話している傍を男女が通り過ぎた。「私は、クリントンにする」と女性の声が聞こえてきた。すると「俺はプーチン」と男が言うと「嫌だー」と連れの女性が言い、「じゃあ、プーチンはやーめた、シラクにする」と聞こえた。「誰、それ?知らなーい」と甲高い女性の声が聞こえてきた。
    石嶺がサミットの時に各国首脳が座った椅子が残されていると教えてくれた。
    「石嶺さん、ご説明ありがとうございます。名護の観光資源の豊富さを改めて認識しました」
    竜崎は、石嶺は地元愛が強く、本土の人にはなかなか難しい人だと聞いていたので、内心よかったと安堵した。
    石嶺は自信に満ちていた。やることはやってきたさーと言わんばかりに、いまさらやまとうんちゅーの助言など聴くことはないと思っていた。新垣は、竜崎が沖縄で働きだした4月の時点で石嶺に打ち合わせを打診していたが、石嶺側から承諾を受けたのは12月になってからだった。
    竜崎は一通り石嶺の説明を聴いた後に言った。
    「名護の観光ポテンシャルが大きいのはよく分かりました。観光資源はその地域に根差した特殊生産要素から作り出されるものなので、さすがです。名護にはパイナップルパークという、沖縄県にある南国のフルーツや鮮やかな植物をテーマにしたパークで、子供に人気があると聞きました。私はまだ行っていないのですが、沖縄ならではのテーマパークだと思います」
      いつしか石嶺の名護自慢が始まり、終わりの見えない雰囲気に変わっていた。新垣のサポートもあり石嶺との会話は良い雰囲気で進んだ。
    そこで名護市庁舎に場所を変えて話の続きをすることにした。
    花ブロックを使った風格ある建造物が見えてきた。風合いと言い、色合いと言い、その個性的な建物は堂々とした威厳さえ感じられる。老朽化が進み、取り壊しが議論されていた。竜崎はヨーロッパだとコストが掛かっても補強してこのままの建物を残すだろうなと思った。
    花ブロックは、コンクリートブロックにデザインした空洞を作って模様にする。沖縄では湿度が高く、日差しがとても強い。そうした沖縄独特の気候を緩和する。風を通し、強い日差しを和らげる。外観をお洒落に表現し、花ブロックの内側では太陽の角度により、光の入ってくる角度が変わり、光と影が時間の経過と共に変化する。
    戦後、米軍の基地の建設にあたり、アメリカからコンクリートやブロック製造機が持ち込まれ、コンクリートに多くのデザインが取り入れる。花ブロックは実用性と美しさを兼ね備え、沖縄の風土にマッチし定着している。花ブロックは、沖縄という風土と環境にマッチした建築資材となった。
    名護市庁舎の会議室で石嶺が話を続けた。名護にはネオパークという自然動植物公園があり、沖縄の立地を生かした動植物園で、その広さゆえ園内を電車で巡るユニークな公園です。
    「そこもまだ行ったことがないです。行ってみたいリストに上げます」と言いながら竜崎はメモした。
    石嶺は名護に関する大方の説明を終えた後、竜崎と話したいことがあった。竜崎との面会を拒否し続けた石嶺が、突然受け入れたのは理由があった。しかも石嶺側から新垣に申し入れたのだ。
    石嶺が改まって竜崎に訊いた。
    「先日、今帰仁観光協会の與那嶺氏から電話を貰いましてね。名護の屋我地島の車エビと今帰仁村のスイカを使ってカレーを考案し、今帰仁村の名物料理に育てたいので協力してほしい。よければ沖縄北部の地産地消の名物料理として名護でも売ることを検討して貰えないか?という相談を受けました。その際にあなたの話がでましてね。どういう経緯だったのか直接話をお伺いしたくて、ご足労願った次第で」
    「そうでしたか、與那嶺さんとは4月にお会いして、今帰仁村の観光振興に関する私の持論を述べさせていただきました。当時私は沖縄に来て間もなく、沖縄の事に全く無知で、お恥ずかしい話ですが、屋我地島は今帰仁村だと思っていました。與那嶺さんとは、古宇利島で打ち合わせをしましたので、屋我地島にある車エビ専門店で昼食を取ることになり、エビで名物料理を作るコンクールを開催してはどうかという提案をしました。その場で屋我地島は名護市であると指摘されました。そこで與那嶺氏には屋我地島の車エビで名護市とコラボでもしたらと提案をしました。車エビとスイカのカレーって斬新ですね。與那嶺さんも凄く考えたのではないでしょうか。私は地元に密着した名物料理の考案は、観光促進には極めて重要なファクターだと考えています。地元の住民を巻き込んでコンクールなどを企画するのはどうでしょうか。そういえばソーキそばは名護が発祥だと聞きました。歴史と伝統文化がある地域には名物料理があるというのも私の持論ですが」
    「竜崎さん、ありがとうございます。経緯は分かりました。本件、名護市観光課としても、今帰仁村と協力したいと思います」
    「石嶺さん、ご協力ありがとうございます。何年後かにできるテーマパークも今帰仁村と名護市に跨っていると聞きました。沖縄北部の観光にとって、市町村同士で協力することは不可欠になりますよ」
    竜崎は続けた。
    「お話をお伺いしていますと、名護には多くの観光資源が点在していて、観光客を引きつける多くのソフトなインフラが既に存在しているのが良く分かりました。恐らく今日の説明から洩れた観光のスポットは沢山あるでしょうけど、かなりお時間を頂いてしまったので、また続きを、日を改めてお聞かせ願えますでしょうか?」と竜崎が話を締めた。
    「ええ」と石嶺はにこにこ顔で答えた。
    竜崎と新垣は丁重に石嶺に礼を言い、名護市庁舎を後にした。名護からの帰路、真っ赤な夕日が新垣の顔を照らしていた。
     
     
      
    16章 クリスマス 2021年12月とぅんじーびーさ(冬至寒さ) 
     
     12月中旬、新垣は2022年度の沖縄県観光振興のイベント企画のスケジュールを決めるため、各協力団体や主催者候補との協議でバタバタしていた。このころ新垣は、職場でも本来の笑顔を取り戻し、仕事に没頭する以前の新垣に戻っていた。
    竜崎は、多忙を極めていた新垣とは別行動をとることも増えてきた。竜崎は那覇市内を歩いて回り、観光スポットを確認していた。お土産などの買い物には国際道り、食の公設市場と周辺の飲食店、焼き物を散策する観光客が絶えないやちむん通り界隈。首里城と首里の街並み、世界遺産の識名園と玉陵(たまうどぅん)、神社好きにはたまらない波の上宮、若者に人気の瀬長島、歴史好きに沖縄県立博物館。さすが県庁所在地で観光スポットも多く、ゆいレールで移動できる点でも那覇は観光地としての必要十分条件を満たしていた。
    竜崎はなかなか時間のとれない新垣を昼食に誘い、ランチの間那覇について思っていたことを話した。
    「国際道り、公設市場、やちむん通りの一帯を一つのブロックとして、100年後の旧市街として、魅力的な地域に変貌させたい」
    ヨーロッパの旧市街には必ず市場があり、細い道がくねくねと入り組んでいる。旧市街全体が石造建築で石の色で統一されているところが多い。道路に面した1階部分はバルなどの店舗になっている。迷路のようになっていても、全ての通りに名前と番号が付いていて、旅行者は迷わず目的の店にたどり着ける。国際道りから裏通りに入り、やちむん通りにたどり着くのは、方向音痴の竜崎には難易度が高い。昨今の観光客は、スマホ片手に、地理アプリを使って目的地に誘導してもらえる。国際道り、公設市場、やちむん通りの一帯は意外と大きく、今後飲食店を含めてかなり入れ替わりがあるだろう。世界各国からの観光客が押し寄せる買物とグルメが楽しめる地区にするというのが考えだった。
    飲食店やお土産ショップ情報は外国人観光客にとって重要である。那覇市の観光協会が飲食店とお土産ショップ情報を独自にアプリで提供し、旅行者が新しい情報提供や口コミ、評価をできるようにし、旅行者参加型のアプリに育てる。那覇市内の飲食店や土産物ショップのSNSを独自に作り、アプリとリンクさせ、観光客を行きたいお店に誘導する。アプリとSNSの参加者ページは少なくとも英語に対応するようにする。那覇市は旅行者から高評価を受けたお店を表彰するなどのインセンティブを与え、旅行者をもてなすための、各店のアイデアや努力を引き出す。店舗は店が提供するサービスに於いて切磋琢磨し品質を向上させていく。
    目を輝かせた新垣が「それって、グループダイナミックスの応用?」と言った。
    竜崎は笑みを浮かべ頷いた。
     
     12月下旬には、新垣は新年度2022年4月からの観光振興イベントのスケジュールをほぼ纏めていた。
    竜崎がその日の仕事を終え帰宅しようとした時、新垣が竜崎に明後日のクリスマスの予定を訊いた。
    「竜崎さんは、クリスマスの予定は?」
    「予定なんかないです。沖縄のクリスマスってどんなかなーって」
    「もしよかったら、スペイン料理食べに行きませんか?」と新垣が竜崎に訊いた。
    「いいですね、どこか知っていますか?」
    「行ってみたいお店があるの。浦添にあるスペイン料理店だけど。美味しいという噂なの」と店の情報を伝え、矢継ぎ早に「24日19時はどうですか?」と訊いた。
    「それって、イヴだけどいいの?」
    「ええ、予約いれときますね」
    「了解。ありがとう」
     
     竜崎にとって、沖縄のクリスマスはなにか味気ない気がした。暖かいことも原因しているのかもしれないし、街のイルミネーションが少ないからかもしれないと思った。
    竜崎は今まで、冷たい師走の風が吹く街で、街のイルミネーションを楽しみ、クリスマスを過ごしていた。バルセロナのクリスマスは、プラタナスの大きな枯れ葉がカサカサと路上を舞う。クリスマスのイルミネーションも日本とはちがい異国情緒を感じる。商店街はセールで活気づき、ウインターファッションに身包んだスペイン人たちは楽しそうにおしゃべりをしながら、散歩したり、食事をする。
    沖縄のクリスマスは暖かい。昼間、日差しがあれは半袖でも大丈夫だ。沖縄にはクリスマスという西欧由来の祝日はしっくりこないと思った。それは沖縄が地元本来の伝統祭事を今でも祝う風習が根付いているからなのかもしれない。
     
     竜崎はゆいレールを浦添前田駅で降りて、地図アプリを見ながらレストランへ向かった。歩いているうちに目的地から遠ざかっているのに気が付いた。さっき曲がったところにもどり、反対側の通りを速足で進んだ。息が切れた。しばらくすると赤に挟まれた黄色い旗が見えた。スペインの国旗が店の前に立てかけてあった。道に迷って焦った竜崎は、店の前で大きく深呼吸をした。店の中は暖かな光に包まれていた。ところどころにLED照明でクリスマスらしく演出している。こっち、こっちと言わんばかりに、奥の方で手を振って合図している新垣が居た。リザーブされているテーブルも合わせるとほぼ満席だ。
    「遅れてごめん、待たせちゃいましたね」と竜崎が声をかけた。20分の遅刻だった。
    「ううん、私もさっき着いたばかり」
    時間に正確な新垣はかなり待ったはずだと竜崎は思った。
    店内を見渡すと、カウンターがあり、その奥が厨房になっている。カウンターには生ハムの足が置いてある。スペインレストランとしては定番だ。竜崎は生ハムの足が黒いことを確認した。店内の壁には所々にスペイン製の絵タイルが張り付けてあり、スペインの風景画やポスターが貼ってある。いかにもスペイン料理店といった内装だ。
    直ぐに店員が近寄ってきて「ビエンベニードいらっしゃいませ」と挨拶し、メニューをテーブルに置き、戻っていった。
    新垣がメニューを竜崎に差し出した。「ここは竜崎さんに全て任せるわ」
    竜崎は飲み物のメニューを見て、食前酒を探した。
    食前酒は幾つかあったが、シェリー酒に目が留まった。「シェリー酒は飲んだことありますか?」と新垣に訊いた。
    「シェリー酒は飲んだことないけど、いいですね」
    店員を呼んで「このヘレス産シェリー2つ、お願いします。あと、生ハムも」
    直ぐに店員がシェリーを運んできた。
    「新垣さん、まずはメリー・クリスマス、カンパーイ」
    新垣が小さな声でメリー・クリスマスと言って、グラスを竜崎のグラスに近づけて、軽く当てた。チンとグラスは乾いた音を立てた。
    グラスの中のシェリーが波打った。
    「スペインでは乾杯をサルーって言うんだけどね」
    「猿?変なの」
    「健康っていう意味」
    「あはは、なーんだ、そうですよね、猿な訳ないですよね」
    新垣との会話はいつも楽しい。
    新垣はしっかりしているが、ときどき抜けていた。そういう面では竜崎も同じだった。
    竜崎はシェリーを口に含んだ。ドライなシェリーはすきっ腹に染みた。
    生ハムが運ばれてくる間、注文しようと思う料理を新垣に説明して、新垣の同意を得てどの料理をオーダーするか決めた。
    「オーダーいいですか?」と竜崎が店員に声をかけた。
    「カタルーニャ産のカヴァ、セコ(辛口)をグラス2つ」 ワインもワインリストから入念に選んで注文した。
    「スペインオムレツはジャガイモのオムレツですか?」と店員に訊いた。
    「ええ、スパニッシュオムレツです」
    「じゃあ、それを一つ」
    「ガリシア風タコを一つ、お願いします」
    「あとポテトのアリオリソース和え一つ」
    「パン・コン・トマテもお願い」
    注文を終えると竜崎は語り始めた。「スペインでは2回クリスマスがあるのね」
    「へー」新垣は楽しそうだ。
    「1回目は12月25日のクリスマス、2回目は1月6日のレジェス・マゴスと言うんだけどね」
    「ふーん」
    「レジェス・マゴスは三賢人っていう意味で、キリストの誕生時にやってきた三賢人が、キリストに贈り物をしたと言われているんだ。それに因んでスペインの子供たちはプレゼントを貰える日で、どちらかというとレジェス・マゴズの方が主流かな」
    「へー」
    店員が最初にオーダーした料理とワインを次々に運んできた。
    新垣は、カヴァがシャンパングラスに注がれるのを見ていた。ボトルには女性の横顔のイラストがあった。
    薄い琥珀色した液体は、細長いグラスに注がれるやいなやプチプチと泡を底からたたせ、泡は直ぐにグラスの側面にくっ付いた。くっ付かずに上に上がっていく泡は、海面でシュワシュワと泡立つ波の粒のようだ。
    新垣が、薄くスライスされた生ハムを見て、イタリアの生ハムは食べたことはあるけど、スペインの生ハムは、初めてであることを言った。
    「イベリコ豚の生ハムってメニューに書いてあったけど?」と新垣が訊いた。
    「そう。生ハムはイベリコ豚じゃないと」
    「そーなの?」
    「うん、イベリコ豚の中でもベジョータっていうのが最高級なんだ」
    「なに、そのベジョって?」
    「ベジョータ。飼育の一定期間、放牧されてどんぐりを食べて育つ豚さん」
    「白い筋のようなのがあるでしょ。霜降りとおなじやつ。脂肪のさしが、程よく入っている生ハムが最高級なんだ」
    「こんなのスーパーで見たことないわ。イタリアの生ハムより色が濃いね。いただきます」と言って口に入れた。「わー、口の中に脂が広がるわね」
    「でしょ。ジュワジュワって感じで、甘い脂が口に広がり、噛むと肉のうま味が出てくるでしょ」と竜崎がどや顔で説明した。
    「美味しいですね」
    「良かった。癖があるから、美味しいと思わない人もいるみたいで」
    「でも、あぐーの食文化がある沖縄だから、沖縄の人にはイベリコ豚の味も良く分かと思う」
    「沖縄の豚は、搾汁後のサトウキビを食べさせているって聞いたことがあるけど、もしそうだとしたら甘いお肉の豚さんが育つよね」
    「あぐーも美味しい生ハムができるかもね」と続けた。
    「実際にあぐーで生ハムを作っているところがあるって聞いたことがあるわ」
    「それは食べてみたいな」
    「今度、食べに行きましょう」
    「是非」
    あぐーの生ハムの話は、どこかで以前にした会話だったが、竜崎にはどっちでも良かった。
    新垣と話しているだけで楽しかった。
    竜崎は生ハムと一緒にパン・コン・トマテを食べるのを勧めた。バゲットのスライスにフレッシュトマトが塗られていた。
    「うーん、これ最高」
    「でしょう」
    スペインオムレツは厚みがあり、ジャガイモの層が何層にもなっていて、ジャガイモの間に卵が、固まる前の寸止め状態で、理想的なできあがりだった。上にはパプリカが効いたソースがかかっていた。
    「ここのオムレツはジュウシーに仕上がってて美味しいね。中のポテトはまるでミルフィーユ。本場スペインのオムレツの味が再現できているよ」と竜崎が食レポ風に言った。
    「そうなのね」
    「うん、懐かしい味です。スペインの家庭料理の定番です」
    「スペインに帰りたくなった?」と新垣が訊いた。
    竜崎は、新垣の発した言葉に対する返答を考えたが、「わからない」という曖昧な言葉しか出てこなかった。
    「ジャガイモのサラダも美味しいですね」
    「うん、アリオリソースが絶妙だね。スペインで修行しないと、なかなかこの味は出せないと思う」
    新垣が竜崎のカヴァが無いのに気づき「カヴァ、おかわりする?」と訊いた。
    「次は、ワインにしようかな」
    「じゃ、私も」
    「ねー、選んで、白ワイン」
    「わかった。じゃーこれ。ガリシア産のすっきりした後口のシャルドネのワインが良いかな」と新垣に白ワインを勧めた。
    「私は、リオハ産のテンプラニーリョの赤ワインも良いけど、プリオラート産の赤にする」
    「この後パエリア、食べれる?」
    「ええ」
    「じゃあ、バレンシアのパエリアにするね」
    「なに、パエリアに産地があるの?」
    「うん、沖縄そばと同じだよ」
    「地域によってそれぞれ特徴があるんだ」
    「へー、そうなんだ。沖縄そばと同じとか言われると、直ぐにピンとくるわ」
    竜崎は新垣との会話を楽しみながら、ガリシア風のタコを一切れ爪楊枝で刺し口に運んだ。
    「新垣さんも、これ食べてみて」
    新垣はタコとその下に敷いてあるジャガイモを小皿にとり、恐る恐る口に入れた。
    「うーん、柔らかいね、タコ。スパイスが効いていて美味しい」
    「でしょ、パプリカと塩とオリーブオイル」
    直ぐにワインが運ばれてきたが、パエリアが運ばれてきたのは40分後だった。
    パエリアが出てくるまで竜崎はスペインの料理の話を続けた。
    店員は、自慢げにほんのり湯気が立っているパエリアの入ったパエリア鍋を二人に見せ、取り分けますねと言って、慣れた手つきで、スプーンを両手に持って、皿に盛りだした。色褪せたインゲンがしなっとなって入っている。鶏肉とガラフォン豆が入っている。店員がレモン絞り器でレモンを上からかけてくれた。
    新垣の目が一層大きく開いて、「魚介じゃない。意外」
    「そう。バレンシアの元祖パエリアは鶏肉がベースなんだ。それにガラフォン豆が入っているのが定番。レストランによっては数種類の豆が入っているんだ。」
    新垣が一口食べるのを待って、竜崎もパエリアを口に運んだ。
    お米はタイ米を使っていた。微妙に芯が残り、絶妙な炊き込み具合に仕上がっていた。
    「美味しい、美味しいわ」と新垣が満面の笑みで歓喜した。
    竜崎は新垣のその言葉を聞いて、内心やったーと喜んだ。
    竜崎自身も店の料理一品一品が美味しくて、スペインの味を再現しているのに満足していた。
    「デザートは何にする?」
    「えー。もうお腹いっぱいよ。食べられない。」
    「せっかくだから」
    「えー。でももう無理」
    「じゃ、一口だけ食べて」
    竜崎は店員を呼びデザートを一つだけ注文した。
    「クレマ・カタラン。カタルーニャ風のカスタードクリームで表面を火であぶっているんだ」
    竜崎はスプーンを新垣に渡して、「一口だけ」
    新垣はスプーンを受け取り、カスタードクリームの表面をコツンコツンと割って、スプーンにクレマ・カタランを収め、口に入れた。
    薄いガラス状になったカラメルの表面が口の中で割れていく。カスタードの甘く官能的な味が口いっぱいに広がった。
    「うーん、確かに一口だけでも食べないと損ね」
    竜崎は新垣の笑顔が嬉しかった。竜崎はスペインに帰りたいかと訊かれて、分からないと答えた理由がここにあると思った。帰りたいとは思わないというのが竜崎の本心だった。今ここにある幸せを感じていた。
    レストランを出る時に、シェフが挨拶に出てきた。竜崎はシェフにスペインの味を存分に味わえたことを伝えた。シェフは竜崎と新垣に「フェリス ナビダ(メリー クリスマス)」と言って見送った。
    竜崎は、シェフの思わぬ一言に、バルセロナのクリスマスを思い出し、とぅんじーびーさの寒さを感じた。
     
     
      
    17章 正月 2022年 ムーチービーサー(餅寒さ)
     
     暮れに美羽が実家に着くと、遼が帰ってきていた。
    「よー、ねーねー、元気そうじゃん」が遼の第一声だった。
    「じゃんって?沖縄の言葉使ってー。変だからさー」
    「はいさい。ちゃーがんじゅーねー」
    「俺もそうとは思うけど、東京ではうちなーぐちは通じんし、目立つしな。それに郷に入っては郷に従えって言うだろ。東京では隠れ関西人とか、隠れなんちゃらって一杯いてさー。東京弁を使ってるさー。俺はうちなんちゅーを隠しているわけではないけど、言葉はあっちの言葉を使ってるさー、でないと皆解からんさー」
    「東京で仕事するって大変ね」
    遼は東京の大学に進学後、食品メーカーに就職し、職場で知り合った3つ年下の女性と結婚し、2人の息子がいた。
    「充希さんと学君、優君は元気にしている?」と美羽が訊いた。
    「うん、皆元気さー。皆コロナにもならずにピンピンしてる。こんな状況でなかったら一緒に帰って来たんだけど」
    「学も優もおばぁと曽おばぁに会いたがってたさー」
    「あー、コロナ禍やから仕方ないねー」
    「夕飯の準備、できたよー」おかぁが呼んだ。
    おばぁとおかぁが沖縄そばとジューシーを運んできた。
    「おー、これこれ。おばぁのジューシーは最高さー。おかぁのそばももちろん。東京ではこんなに美味い沖縄料理はなかなか食べれんさー」
    おばぁとおかぁの嬉しそうな、優しい眼差しが遼と美羽に向いていた。
     
     竜崎は、年末年始の休みは実家のある鵠沼海岸に帰郷した。玄関を入ると父と母が出迎えてくれた。
    「疲れたでしょ。さあ、早く上がって、上がって。お風呂にする?それともご飯?」
    寒い季節の風呂は格別だった。じーんと、お湯の温もりが体の芯に染みわたってくる。食卓に着くと父は既に熱燗で一杯やっていた。テーブルには母の手料理が並んでいた。
    「で、海来、沖縄はどうだ?」と父が唐突に訊いてきた。
    海来は沖縄のことを一通り話した。もちろん新垣と彼女の家族にお盆にお世話になったことも話した。
    「仕事は楽しいよ。あっという間だよ。4月に帰ってきたらまた厄介になっていい?」
    「いいさ。母さんも楽しみにしている」
    「いやー、もう子供じゃないんだけど」
    「いつまでたっても子は子だから。海来が帰ってきたければ、いつでも帰っておいで」と横から母が言った。
    父も母も海来の話に出てきた新垣という女性の事をもっと知りたがったが、海来がそれ以上話さなかったので、訊かなかった。
     元日、早朝に海来は散歩に出た。小さい時から鵠沼海岸の砂浜を朝散歩するのが好きだった。沖縄とはちがい、冷たい海風が肌を刺す。ピーヒョロロと懐かしい鳴き声がした。上空を見ると数羽のトンビが旋回をしていた。波乗り初めのサーファーたちが、思い思いにサーフィンを楽しんでいる。沖に見えるサーファーは頭だけ出したアシカかなにかの海洋動物のようだ。海来も子供の頃にサーフィンを練習したが、運動音痴で長続きしなかった。
     湾曲した海岸沿いの奥には、積雪した富士山が座している。富士山はいつ見ても得した気持ちになった。その手前には箱根の山々があり、伊豆半島も見える。烏帽子岩が力強く海から突き出ている。伊江島タッチューが浮かんだ。烏帽子岩は旧日本軍の砲撃訓練に使われたことを聞いたことがあった。伊江島タッチューは、伊江島戦で米軍の砲撃を受けた。よく似ていると言えばよく似ている。砲撃を受けると先が尖った三角錐のような形状になるのだろうか。砲弾に倒れず、そこにある烏帽子姿は、暴挙には決して屈しないと言っているようだ。
     竜崎は、伊江島タッチューに登った時の、頂上での新垣の清々し笑顔を思い出した。新垣のことが好きになっている自分がいた。
     久しぶりの正月を家族と過ごした竜崎は、3日に那覇に戻った。4日、仕事始めは沖縄も同じだった。竜崎がオフィスに着くと皆はすでにそれぞれ立ち話をしていた。竜崎は年始のありきたりな挨拶をした。竜崎には皆から同じ話題を振られた。親孝行をしてきたか。美味しいものを食べたか。
    ありきたりの質問に、竜崎は皆に同じ返事を返した。寝正月だったことと、雑煮とおせちを食べて過ごしたこと。
     比嘉が近寄って来た。「沖縄には正月が3回あるの知ってる?」と唐突に竜崎に訊いた。「新暦の正月と旧暦の正月、あと一つは分かりません」
    「ジュールクニチー、あの世の正月があるんよ」
    「糸満市などの本島南部や離島では旧正月と十六日祭は盛大に行われている」と説明を加えた。
    「あの世にも正月があるんですね」
    「あるほうが、ご先祖様も楽しいさ」と言って、比嘉は踵を返し席に戻って言った。
     タイミング悪く新垣は具志堅と話していた。具志堅は正月太りでダイエットとエクササイズの話をしていた。具志堅はニコニコしながら、竜崎をチラリと横見し、新垣との話を切り上げて、最後に竜崎を見た。あたかも竜崎にどうぞと合図を送るかのように。
    新垣とも年初の挨拶をして、正月話あるあるのありきたりな話をした。たった一週間しか離れてなかったが、長く会ってない感じがした。もっと話していたかったが、業務時間が始まるアナウンスが流れた。
    竜崎が年賀状の確認、休暇中のメールチェックをしていると、新垣が「20日に大宜味村に行くから、準備お願いします」と正月モードから抜けた顔で言った。
     
     
       
    18章 大宜味村 2022年1月 ミーニシ(冬の北風)の吹く頃
     
     概ねシークアーサーの収穫は終わっている季節だ。まだ収穫できていないシークアーサーが、黄色く色づいて早く収穫しろとせがんでいるかのようだ。黄色くなったシークアーサーはクガニといって果物として出荷される。1月といっても最低気温の平均が15度という温暖な気候だ。竜崎にとっては全く寒くない。
     いつからか竜崎は新垣の車に乗って外出するようになっていた。仕事とはいえ新垣とのドライブは楽しかった。竜崎が車の中でする話は、食べ物や外国の話が中心だった。どこの何が美味しいだの、どこへ何を食べに行きたいだの。
    竜崎はバルセロナで仕事をしていた時に、休暇を取って、好きでよくスペイン国内やイタリアを旅した。竜崎は毎年多くの観光客が訪れるスペインやイタリアの地方都市が好きだった。
     大宜味村に向かう車中、竜崎はイタリアのフィレンツェについて話した。その歴史や文化、ルネッサンスと産業、建築物やアート、そこに住む人たちの意識やこだわりに至るまで話は及んだ。新垣は竜崎の話を聞くたびに、そこへ行って、自分の目で見てみたいという興味が強くなっていった。
     やんばるの深緑と海の藍の間を海岸沿いに走る。途中、糸芭蕉の木の畑が目に入る。大宜味村の役場に着くと、観光協会の知念玲那が新垣と竜崎を待っていた。
    「美羽ちゃん、久しぶり」と美羽に手を振って知念がこちらに歩み寄ってきた。
    新垣も「玲那、どう?忙しい?」と友達感覚で話し出した。
    二人は歳も近く、同じ高校の先輩後輩の仲だった。
    知念は小柄な体形。彫が深く、ぱっちりとした目は如何にも沖縄美人と言った感じだ。
    「美羽、今日は付き添い?」
    新垣は知念に頷いて、竜崎を紹介した。
    知念は予め新垣から今日の訪問に関して趣旨を聞いて理解していた。
    「早速だけど、喜如嘉を案内しますね」
    喜如嘉は沖縄で最も古い神聖な御嶽とされる七滝があって、森の精霊のキジムナー(ぶながやー)が住んでいる。大宜味村では、やんばるの自然の豊かな森で、エコツーリズムを推進している。
    「神聖な御嶽と精霊、いいですね」竜崎が頷きながら言った。
    新垣が、県行政は、大宜味村、国頭村、東村の世界自然遺産の登録を見据えて、観光客の遺産周辺地域への誘客の取組を支援していて、玲那とは年に数回打合せの機会があることを竜崎に説明した。
    「やんばるの自然だけじゃないさー。芭蕉布でも有名よ。芭蕉布は知ってる?竜崎さん」
    「聞いたことはありますが、詳しくは知りません」
    三人は芭蕉布会館に着いた。
    すぐに芭蕉布を知るビデオを見て、その後、実際に製作している作業場を見学した。芭蕉布は沖縄の織物の中で最も古くて、13世紀ごろから織られ、現在に至っている。芭蕉布の糸となる植物の栽培から、糸を紡ぎ、布を織る工程は気の遠くなるほど時間がかかる作業だ。作業場の見学を終えて、芭蕉布会館を出て3人は立ち話を始めた。
    「少子化が進んで、大宜味村の人口も減ってるさー。これは大変なことで、悩みの種さー。芭蕉布の織り手も高齢化が進んでるさー。後継問題は深刻よ、後継問題と言えばシークワーサー畑も。だからさー、この村にとって観光は大切なんです。私たちも良く分かっているさー」知念が続けて言った。
     「オーストラリアのようなワーキング・ホリデーみたいな制度を導入するのもいいかもしれませんね」と竜崎が言った。
     「確かに、一案ね」と新垣が頷いて言った。
    知念が続けた。「大宜味村では観光客誘致のため、いろいろな活動をやっています。例えば、先ほど美羽が説明したやんばる、将来の世界自然遺産の周辺地域へのエコツーリズム」
    「他に有りますか?」と竜崎は知念に訊いた。
    「もちろん、体験的旅行。農業民泊をしてます。農村地域で暮らす人々の家々に泊まってもらって、農作業や収穫体験や地元食材を使った食事などしてもらうグリーンツーリズムとか」
    「いいですね、私も是非一度体験してみたいですね」
    「以前、喜如嘉公民館で、ぶながや食堂を開催したさー」
    「ぶながや食堂?」
    「ぶながや食堂は200円で沖縄家庭料理を食べてもらうイベントさー。観光客も来て、大喜びしてくれたさー」
    面白いイベントですね。是非今後も継続してほしいと竜崎が頷きながら言った。
    「まだあるよー」と知念が説明を続けた。
    「大宜味村は世界一の長寿地域にWHOに認定されたさー。長寿の秘訣は何かとおじぃ、おばぁに尋ねるとねー、人間生きてる限り生涯現役。心の中に定年を作ってはいけないさーて。人生一度きり、楽しまないとねーて。返事が返ってくるさー。元気なおじぃ、おばぁがいる場所さー」
    「ほー、おじぃ、おばぁを見に観光客が来るのは凄い」とすかさず竜崎が反応した。
    「いやいや、おじぃ、おばぁは見世物ではなくて、この土地の宝、わかるー」
    「いやー、それは是非、会って話したいですね」竜崎は知念との会話が少しずれているのは分かって続けた。
    「そう思う?」と知念も竜崎に合わせて会話を続けた。
    「ええ」
    「まだまだあるよー」と言って続けた。
    「4~5月にはオクラレルカが水田一面に咲くー。オクラレルカの紫とやんばるの緑と真っ青な空は本当に美しく、県内外から観光客が見に来る。それから毎年旧盆明けの初亥の日におこなわれるお祭りがある。塩屋湾の海神(ウンガミ)祭である。この祭りは500年の歴史がり、五穀豊穣や無病息災を神や先祖に祈る伝統行事である。この祭りは女性中心の祭りで、神人(カミンチュ)と呼ばれる女性が、西の海に祈願した後、船漕ぎ競争が行われる。その時に腰まで海に浸かった女性たちが、漕ぎ手を応援するさー」と知念が大宜味村の説明を一通りした。
    竜崎が「女性中心のお祭りって、珍しいですね」と知念に訊いた。
    「この村では昔から男は那覇なんかに出稼ぎにいって、女が畑や織物を織って家庭を守っていたからね」
    「ちょうど今週は、産業祭りがあるよ。大宜味村の特産物を展示しているさー。販売コーナーやシークワーサーを使ったコンクールなんかもしているよー。やんばるアートフェスティバルも開催中よ。自然とアート、自然と人の共生をコンセプトにしている。以前は、大宜味村は優秀な船大工が住む村として知られ、それを支えるように女性は芭蕉布を織って生活を支えた歴史があったさー。その労力と時間を惜しまない丁寧な手仕事が、現在の芭蕉布をはじめ、陶芸、漆器、木工芸へ受け継がれて、多くの工芸家が工房を構えているさー」と知念が説明した。
    新垣が「凄いね、竜崎さん、なにも言うことないねー」
    新垣は昨年4月から竜崎と共に沖縄の市町村を回り、竜崎の観光振興の考え方を理解するまでになっていた。
    新垣は「大宜味村にはおじぃ、おばぁが受け継いできた伝統と文化がある。それはここの特殊生産要素ですねー。芭蕉布会館など、ソフトな技術を生み出すソフトなインフラストラクチャーがある。工芸家が移り住んで工房を構えるコミュニティ(共同体)がある。毎年の展示会で、工芸家たちは他の工芸家の作品から刺激を受け、さらに技術や芸術性を向上するようになる。つまり生産共同体を形成して、グループダイナミックスが機能している。何れは世界へ羽ばたくリーダー的工芸家か輩出されるかも」と説明した。
    「美羽、どうしたの、凄いね」知念は美羽の説明に目をぱちくりさせた。
    知念は、以前の美羽と違う美羽にびっくりした。
    竜崎が「彼女が言っていることは、ここ大宜味村には観光優位性を作り出す、様々な要素とインフラが既に存在していて、観光地としては有望である」とかいつまんで説明した。
    知念が「そ、そーね、良かった」と驚きを引きづっていた。
    良く知っている仲だったので無理もないと竜崎は思った。
    新垣は、竜崎の発言を事細かにメモを取って、何度も何度も繰り返し読み返していた。新垣は、竜崎の臨時雇用契約が3月末で切れることを比嘉から聞いていた。
    「じゃあ、美羽、私はこれで失礼するねー、またね」
    「玲那ありがとう。エコツーリスト支援の件、また連絡するね」
    竜崎は深くお辞儀をし、知念に感謝し見送った。
    竜崎は、新垣に大宜味村のポテンシャルに驚いたことを感想として言った。大宜味村は那覇から遠いため、ここまでなかなか観光客は足を運べない地理的なウィークポイントがある。しかし、大宜味村にしかないものを求めてくる観光客、もしくは那覇も恩納村も既に良く知っている沖縄観光リピーターが来る場所で、那覇や恩納村にはない沖縄の自然と原風景が残っていると思った。
    大宜味村には、観光客を誘致するには、那覇からの移動時間の長さという問題を克服する必要がある。北部に新たに飛行場を作ることなどできないのは、竜崎も分かっていた。
    観光客を大宜味村に滞在させるためには、現在の宿泊施設では不十分で、ホテルの誘致は必要だった。
    竜崎は幾つかの考えを報告書に纏めるつもりだった。誰でも考えが付きそうだが、3年後に開業するテーマパークから直通バスを出し、観光客に大宜味村に来てもらうのが一つの案だ。その際、宿泊施設が整備されていないと観光客は名護や恩納村に流れてしまう。もう一つの案は、実現の可能性に難ありだが、思い切って提案に含めようと思った。
     それは辺野古の米軍基地の飛行場の民間共同利用だ。本土からの観光客を直接沖縄県北部へアクセスを確保する。辺野古基地建設は概ね住民に受け入れられているが、県民には基地への不安はある。辺野古に作る飛行場が基地のためだけではなく、民間機の利用が可能なら、基地建設を後押しするのではないか。普天間基地の返還は譲れない。辺野古基地建設が進む現実を直視し、辺野古基地との共生が沖縄がとるベストの選択肢だと竜崎は思った。
     竜崎はもっと未来のことも想像していた。それは100年先の未来だ。アジアの緊張状態が、未来において続いているとは限らないということだ。世の中には、想像を超えた思いもよらないことが起きることがあるから、希望を捨ててはいけないというのが竜崎の座右の銘だ。米軍基地の要らないアジアだ。昔ここは米軍の基地だったと言える未来だ。100年先の辺野古基地は沖縄北部空港になっているかもしれない。
     大宜味村には観光で成功する要素が全て揃っている。単に大宜味村までの足を確保し、メディアを通じてアピールするだけだと竜崎は思った。
    竜崎はまだまだ話したそうだったが、新垣は立ち話しを打ち切って、竜崎を食事に誘った。「自家栽培した島野菜をふんだんに使い、沖縄の昔ながらの料理を提供する店があるの。行ってみますか?」
    「いいね、行ってみよう」と竜崎は笑顔で答えた。
    古民家を改装したお店には簾が掛かっていて、天井が高く、沖縄の田舎を感じる懐かしい雰囲気である。お店の向かい側には自家栽培の畑があり、色々な野菜が植えてある。
    注文したお膳には、所狭しと小鉢が並んでいた。
    根菜と豚の煮物、ゴーヤの卵とじ、スルル小(きびなご)のマース煮、パパイヤの和え物、クガニサクナ冷麺、ハンダマと豆腐入りの味噌汁、玄米ごはんのおにぎり2種、ヨーグルトのすももソース、パイナップルとシークアーサーアンダギー。豆腐は、海水を使って、薪を炊いて作る昔ながらの製法を守っている。琉球王朝の宮廷料理から受け継がれる伝統の製法で作られている。どれも愛情が込められているおばぁの料理だ。竜崎と新垣は、使われている食材と味付け一つ一つに会話が尽きない。二人は大地の恵みを一品一品味わって食べた。
     那覇へ戻る途中、竜崎は大宜味村の特殊生産要素を考えていた。自然と人の共生、女性が村を守ってきた長寿の村、おじぃ、おばぁが生き生きと働ける村、琉球時代には船大工職人が多くいた地域、伝統工芸が盛んでアート精神が根差す村。大宜味村は唯一無二の存在だった。自然と共生するスローライフを生きている人たちは、決して急激でドラスティックな変化は望まない。急ぐ必要はない。むしろゆっくりでいい。大宜味村から自然に起きてくる変化を見てみたいと竜崎は思った。
     
     
      
    19章 ジュールクニチー 2022年2月はるびーさー(田植え寒さ)
     
     新垣家でも、旧正月にはヒヌカン、仏壇、床の間にそれぞれお供え物をして祝う。旧正月はおかぁの作ったソーキ汁、ラフテー(豚の角煮)、田芋(ターンム)の揚げ物を食べる。そしてジュールクニチーには墓参りに行く。
     2月9日、新垣は、ジュールクニチー(旧暦の1月16日)に前日から休暇を取り、伊江島に帰った。おばぁとおかぁと3人で夕食を食べた。食卓で、おじぃとおとぅの話で盛り上がった。色褪せたおじぃとおとぅが上から3人を見下ろしていた。こんなこともあったさー。あんなこともあったさー。楽しい思い出だけを言い合った。おばぁもおかぁも笑った。美羽が笑っているのを見て、おばぁとおかぁは目を見合わせて頷いている。
    健司の死からやっと立ち直った美羽を見て涙が零れた。おかぁも同じだった。
    美羽が「いゃだ、おばぁもおかぁも笑い泣きしてー」何故か美羽の目からも大粒の涙が頬をつたう。
    「いつだったか美羽が友達3人で伊江島を出る冒険をしたことあったねー」
    「あった、あった、伊沙子と杏と」
    「冒険と言っても日帰り旅行なのに、おとぅときたら帰ってくるまで心配で仏壇の前で一日中拝んでたさー。」
    私が「心配なかー、美羽はもう中学生や」って言ったら、おとぅは、「そんなこと分かってる。歳は関係ない。心配やからご先祖様にお願いして何が悪い。俺の勝手さーって、今度は怒り出して。その日はおとぅは、美羽が返ってくるまで仏壇から離れなかった」とおかぁが話した。
    美羽は食事の後、暫くしてタッチューに登った。この季節の伊江島では電照菊のイルミネーションを見ることができた。キクミネーションだ。伊江島では菊の栽培が盛んで、冬の夜に菊畑を照らし、開花時期を調整する。美羽は、冬のタッチューから電照菊の夜景を見るのが好きだった。
    翌日、おばぁとおかぁと美羽は朝、から墓参りに出た。このころは、はるびーさーと言って田植えの時期で、沖縄では寒い日が続くが、春が間近に迫っている。
    おばぁが拝み、おかぁと美羽が続いた。
    ジュールクニチーの祭事が一通り終わり、おばぁが言った。「よか、よかー、美羽、生きるということは美しいことだー。生きること、それ自体が素晴らしい。美羽、生きて羽ばたけー」
    おかぁが美羽を深く見つめ「美羽、何かあったらいつでも帰ってきなー」と言った。
     
     
      
    20章 戦禍と慟哭 2022年2月 ニンガチカジーマイ(風向きが変わる季節)
     
     曇り空、時々小雨と海風が体感気温を下げ、寒い日が続いていた。
    2022年2月に世界を震撼させる出来事が起こった。世界中がまさかそんな事がと目を疑う事態がテレビの画面に映し出されていた。不穏な動きを見せていたロシア軍が、ベラルーシからキーウへ侵攻したのだ。
    この現代において今もなお、世界には戦争を仕掛ける国があり、戦争に巻き込まれる国が存在している。毎日のようにウクライナでの戦況を伝える番組が放映された。テレビでは元自衛隊のトップと防衛関係の研究所の論客が戦況を分析して論じていた。毎日両軍の戦死者と負傷者の数が報告され、兵器の損害も報じられた。ネット上では、両軍のプロパガンダによる情報心理戦が繰り広げられ、何を信じていいかわからない。
     竜崎は、予期せぬことが世の中では起きるものだといつも思っていた。予期せぬことは、あたかも芝居の舞台でシーンが一瞬にして変わるかのように、突如として私たちの前に出現する。舞台のシーンが変わる時、すでに準備された次の舞台が現れるのだ。私たちの前に出現する予期せぬ出来事は、私たちが知らないうちに準備を整えているのだ。
     
     2月下旬、竜崎の観光振興業務契約の終了まで来月に迫ってきていた。
    週末、竜崎と新垣は、糸満市にある平和祈念公園を訪れた。新垣は、竜崎が沖縄を離れる前にどうしても平和の礎に連れてきたかった。新垣は平和祈念公園の入り口で御供花を買った。黄色い菊に白いゆりがアレンジされていた。
     刻銘碑は、平和の広場を中心にして放射状に円弧の形で広がっていて、屏風状に並んでいる。新垣が「こっち」といって竜崎を左側に誘導した。伊江島出身者の慰霊碑に、沖縄戦で犠牲となった新垣の曽おじぃと曽おばぁの名前が刻まれていた。新垣は花を供え、手を合わせた。竜崎も手を合わせて冥福を祈った。竜崎が新垣の様子を窺うと、新垣は刻銘碑の前で、おばぁから聞いた戦争当時の事を話し出した。
     
     1945年戦況が悪化していく中、新垣衛(美羽の曽おじぃ)に赤紙が届いた。沖縄防衛を目的に召集されたのだ。直ぐに、衛(当時39歳)は、公子(当時31歳 曽おばぁ)と一雄(当時13歳 美羽のおじい)と百合子(当時9歳 美羽のおばあ)の三人を今帰仁村の公子の実家に疎開させた。実家は両親が他界してから。公子の姉(和子)が住んでいた。当時、集団疎開地として宮崎県へ疎開する選択肢もあったが、衛は、3人を今帰仁村の公子の実家に疎開させることを選んだ。
     その頃、アメリカ軍の沖縄上陸が近いと噂されるようになっていた。いよいよ沖縄での戦闘が激しくなるということで、公子は子供たちを和子に託し、1日だけという我儘で、衛に会いに行った。公子には、もしかするともう衛には会えないという悪い予感があった。
     既に伊江島へは船の定期便はなく、公子は知り合いを頼り、漁師に頼みこみ、やっとのことで船を出してもらうことになった。
    翌日、漁師と公子は、夜中に本部から出向することになった。公子は、漁師と待ち合わせ場所に行く途中に、夜空に満開に咲いていたデイゴの花を見上げた。デイゴの花は赤く漆黒の夜空に溶け込んでいた。
    夜のうちに伊江島に着き、公子を降ろした漁師は、直ぐに今帰仁村へ戻って行った。公子は翌日には今帰仁村の疎開場所に戻る予定で出かけた。漁師とは翌日の夜に同じ場所に迎えに来てもらう約束をした。
    しかし翌日は海が荒れ、約束していた漁師は来なかった。そして、それからもその漁師は来ないまま、1945年4月16日を迎えた。アメリカ軍が伊江島に一斉射撃を加え、上陸作戦を断行した。
    衛と公子は砲弾の飛び交う中、ニヤティア洞へ向かった。そこでは砲弾を避けることができると言われていたからだ。二人はたどり着けなかった。砲弾の犠牲に散った。6日戦争とも言われる伊江島戦争が21日に終わった。伊江島の人口の半分近くが犠牲となった激しい戦闘だった。二人はサトウキビ畑の中で、抱き合うように折り重なっていた。衛は砲弾から公子を守ろうとしたに違いない。衛は公子の体を優しく覆っていた。
     
     今帰仁村に残された一雄と百合子は、やんばるの山から、おかぁが無事の帰りを祈った。黒煙と炎が上がる伊江島を見て二人は泣いた。一雄は百合子の小さな手をしっかり握り、おかぁもおとぉも無事で生きていると励まし続けた。次の日も、また次の日も、一雄は百合子を連れて山に上った。10日目におとぉとおかぁにはもう会えないことを和子から告げられた。泣きじゃくる百合子を一雄は包んだ。百合子を包んでいる両腕は震えていた。一雄も泣いているのを百合子は感じていた。
    その後、二人は、和子に引き取られることになった。和子は、10年後に肺がんで亡くなった。和子は、一雄が23歳、百合子が19歳の時に体調を崩し、病院で検査を受けた結果、末期の肺がんで既に手遅れの状態だった。
    「おばぁのとみえから聞いた曽おじぃと曽おばぁの話よ」
    新垣の頬には涙の雫が流れていた。竜崎の眼がしらにたまった涙がぽとりと地面に落ち吸い込まれた。
    その時、新垣は、溢れ出た感情が涙と共に堰を切って吹き出し、慟哭に包まれた。
    竜崎も泣いていた。竜崎は何とも言えないやるせなさを感じ、涙がとめどなく流れた。
    悲しみを共にしてくれる人が私の直ぐ横にいた。新垣は、心の底からこみ上げてくる何か温かい竜崎への感情が生まれているのを感じた。
    健司の死で、落ち込んで、立ち直れなかった自分を今の自分にしてくれた竜崎に対する思いが、竜崎を慕う感情に変わっていた。

     
      
    21章 竜崎の離島 2022年3月
     
     3月中旬、日中の気温が25℃を超える日が続いた。竜崎は沖縄県の未来へ向けての提案書を纏めあげて提出を終えた。それに先立って、12か月間の業務内容、訪問先市町村での観光振興案のプレゼンを役所内で行った。県としての観光プロモーション、市町村の独自の観光振興、各旅行協会・団体への啓蒙、ボランティア活動の促進、今後必要とされる投資と費用など、中長期にわたってビジョンと目標などの説明をした。
     沖縄県観光課での業務の最終日が来た。竜崎は、各市町村の観光協会のお世話になった人たちに電話でお礼し、県観光課のお世話になった同僚にお別れの挨拶を終えた。最期に竜崎の業務をサポートしてくれた新垣から花束が渡された。比嘉が、さんぴん茶で乾杯の音頭を取ってくれた。
    「竜崎君の今後の健闘を祈り、アリカンパイ」皆がそれに続いて「カリー」の掛け声とともにさんぴん茶を飲んだ。
     沖縄を離れる日に新垣が空港まで見送ってくれた。竜崎は新垣が運転する車の窓から見える波の上宮神社にまた来ると心の中で呟いた。空港は空いていた。搭乗便のアナウンスが流れた。
     竜崎は手荷物検査場の入り口で、新垣に礼を言った。「新垣さん、この一年本当にありがとう」竜崎は手を出して握手を求めた。新垣は沖縄滞在で日焼けした竜崎の手を握った。竜崎も新垣の手を握り、彼女の目を見つめた。新垣の目じりに溜まったものがあったが堪えた。竜崎は頭の中で新垣にかける言葉を探したが、適切な言葉が思い当たらなかった。 
     竜崎の新垣の瞳を見る目は単なる同僚に対するものではなかった。竜崎は昔から女性に対して言うべき時に何も言えずにいた。竜崎は新垣に対する気持ちを伝えようとしたが、今回もできなかった。新垣がそういう竜崎を察してか「早く行った方が、ボーディングが始まってい よ、連絡するね」と言ってくれた。
     
     竜崎は、鵠沼海岸に戻って来てからも、新垣との連絡は継続していた。竜崎が、沖縄の市町村で手掛けた提案のフォローアップを新垣がしていた。竜崎の撒いた種が芽を出し始めていた。
     
     
      
    22章 トルコ 2023年2月
     
     トルコ政府は2022年6月1日以降、新型コロナによる入国制限を撤廃した。トルコへの観光客数は順調に回復し、直ぐにコロナ前の観光客数を上回った。
     トルコは、ロシアによるウクライナ侵攻による悪影響をもろに受けた。資源価格の高騰による高インフレと通貨安がトルコ経済を襲っていた。トルコの大統領は、経常収支の黒字化を経済政策の中心に据えており、観光収入はトルコ経済にとって重要であった。
     竜崎には、スペインで観光振興の業務を行っていたとき、同僚にトルコ人がいた。アリは新型コロナの流行で、竜崎と同じ時期に帰国していた。当時アリは、トルコ政府観光局の職員としてスペインに派遣されていて、帰国後もトルコ政府の観光局で業務を続けていた。2022年11月に入り、アリから連絡があった。竜崎を対日トルコ観光のコンサルタントとして推薦したいから考えてくれないかというのが趣旨だった。
     トルコ政府観光局では、今後10年間で外国人観光客数を2倍にするという野心的な目標をたてた。観光客が見込めるマーケットに対して、積極的な観光客誘致のプロモーション行うため、観光マーケットに精通したコンサルタントを雇うというものだった。
     アリからの話は2023年1月3日から勤務を始めるというもので、余りにも急だった。竜崎はこのオファーを貰った時に、アリには即答はせず、数日間の猶予をもらった。
     竜崎は、沖縄の観光振興の業務で幾つかペンディングになっている案件があったし、何より新垣の事を考えると日本から離れたくなかった。沖縄を離れてから7か月が経っていた。
     在日トルコ大使館の商務部がトルコ航空とタイアップして、日本でトルコ観光のキャンペーンを時々行っていた。日本人にとってトルコは親日国であり人気の観光地になっていた。イスタンブールを巡る旅、カッパドキアなど日本人観光客に人気である。既にかなり多い観光客数を10年で2倍にするのは簡単ではない。竜崎は、トルコ観光のリピーターを増やすことが、今回の成功の鍵を握ると考えた。竜崎はトルコには1度も行ったことがなく、そんな自分に今回の業務が遂行可能なのか悩んだ。もしこのミッションに失敗すると、友人であるアリに迷惑をかけることになる。竜崎は今回のトルコでの仕事を受けるかどうか迷っていた。そんな時、新垣からのビデオ会議のメッセージが届いた。
     新垣は報告したいことが二つあった。一つ目はシュリンプ・スイカ・カレーのコンクールが実施されることになったこと。二つ目は、恩納村、大宜味村、うるま市の漁業組合、沖縄県水産試験場と沖縄科学技術大学院大学(OIST)の共同プロジェクトで、モズクと海ぶどうの品種改良に関して話が進み、品種改良の研究と実験が具体的に進みだすことだった。
     新垣からの話が一通り終わったのを見計らって、竜崎はトルコでの観光促進の仕事について思い切って新垣に話した。
    新垣の返答は呆気なかった。
    「いい話じゃない」と一言だった。
    竜崎が「沖縄の」と言いかけた時に。「ペンディングになっている案件は心配しないで、私がやれるから、それにネットで連絡とれるし、ほんと、心配しないで行ってらっしゃい」と新垣がトルコ行に賛成した。
    竜崎には新垣の返答はなんとなく分かっていたが、あまりにも呆気ない返答だった。
    「わかった。ありがとう。」と答えた。竜崎は新垣の返答に少し寂しい気持ちになった。
    「いつ出発なの」と新垣が訊いた。
    「12月10日前後」
    「そう、一か月後、早いわね」
    「うん、あのー、クリス」と言いかけた竜崎に対して
    新垣が「帰ってきたら会いましょう」
    クリスマスに会いたかったけど、会えなくなったことを伝えようとした竜崎は、新垣の機転に助けられた。
    その後の会話は続かず、「じゃあまた連絡するね」と新垣が言った。
    新垣の帰ってきたら会いましょうと言った一言は余りにもあっさりしていた。新垣が伊江島に帰るようには、竜崎はトルコから帰ってこれないことは、新垣にも分かっていたはずだ。竜崎が新垣に対して自分のこととなると言いたいことが言えないのと同様に、新垣もまた自分の思いを伝えることができなかった。
    竜崎と新垣は、根は凄く似ていた。相手の事を思うばかり、自分のことは控えてしまうタイプだった。電話越しの新垣の雰囲気が、少しずつ静かになっていくのが分かった。
    竜崎は「分かった。また」とだけ答えた。寂しい気持ちになったのは竜崎だけではなかったのは電話越しの新垣からも感じた。
     
     トルコはイスラム教の国である。1月1日は休日だが、2日が仕事初めだ。2023年は2日が日曜と重なり、3日から仕事が始まった。
    竜崎はトルコに来て直ぐに住むアパートを探した。職場のあるクズライから20キロほどのコルにアパートを借りた。コルは丘陵があり樹木が多い地域だ。年が明けて、竜崎はアンカラのトルコ政府観光局へアリを訪ねた。戦略的マーケットとして15か国からコンサルタントが集められていた。アジアからは日本を含め3か国だった。今回の招集の目的の説明があり、各国から集まったコンサルタントがおのおの自己紹介をした。集められたコンサルタントたちは、トルコ観光に関してのプロだった。トルコに1度も来たことがなかった竜崎は特異な存在で、日本マーケットを任せるコンサルタント選考の際に、アリが推した竜崎には、反対する選考委員が多かったが、最後はアリの強気の押しで決まった。
     コンサルタントたちは、トルコ内の移動や訪問先へのアポなど全て単独で行った。どうやって観光客を増やすか、プロモーションはコンサルタントの裁量に委ねられた。プロの世界では結果が全てだった。週間活動報告書提出と月間活動報告会への出席だけが義務付けられた。
     竜崎は、トルコへの日本人観光客の訪問回数、訪問回数に対する訪問先、トルコでの滞在日数、日本の旅行会社のトルコ観光のルート、日本人観光客のトルコ旅行に対する評価、ネット上でのトルコに関する口コミなど、ありとあらゆる情報の収集と徹底的な分析を始めた。
    多くの日本の観光会社の代理店があるイスタンブールに週1で足を運び、データ収集と情報分析をするのに数か月は必要だった。
     トルコ観光のリピーターを増やすためには、1回目のトルコ旅行で訪問できなかった場所を、日本人観光客の趣向に合わせた形で組み合わせる。旅行会社に対して、魅力的に観光地を紹介し、旅行プランに採用してもらう。旅行会社は新しい観光ルートを企画し、旅行客を募る。
    竜崎が、トルコで仕事を始めて1か月が経っていた。竜崎にとって1月は怒涛の1か月だった。2月に入り竜崎は、日本人観光客に定番のイスタンブールやカッパドキアなどを外し、トルコの観光地を視察する計画を立てていた。竜崎はトルコを旅行したことがなかったため、トルコ中の観光地を巡って、各観光地の長所、短所をよく理解する必要があった。
     竜崎は、週末を利用してコンヤを視察して、山上の世界遺産のネムルト・ダウを観てみたかった。しかし、トルコ南部の冬は厳しく、ネムルト・ダウは、2月は閉山期間中だった。
     竜崎は、ネムルト・ダウの代わりに、コンヤからアダナ経由でカフラマンマラシュに立ち寄り、6日月曜にはアンカラに戻る予定を立てた。プライベートな旅行も兼ねていたので、アリには2月6日コンヤ終日視察と連絡していた。コンヤはアンカラから高速鉄道で2時間弱なので日帰りも可能だった。
     コンヤは紀元前3000年に遡るほどの歴史のある古都である。11世紀ルーム・セルジューク朝時代の都だったコンヤは、歴史・伝統・文化が色濃く残る街である。イスラム神秘主義メヴレヴィー教団の発祥地で、旋回舞踊セマーで知られている。音楽、詩、瞑想を組み合わせた旋回する礼拝の儀式で、メヴレヴィー教団における修行の一つである。白いスカート状の衣服と筒状の帽子を身に着け、音楽に合わせて1時間以上も回転し続ける。旋回する舞踏によって神との一体感を得るとされている。
    2月4日高速列車に乗り、午前中にコンヤに着いた竜崎は、コンヤの街の中心にあるメヴラーナ博物館近くのホテルにリュックを預け、メヴラーナ博物館に向かった。コンヤの街は所々に纏められた灰色の雪が残っていた。メヴラーナ博物館はイスラム神秘主義の一つであるメヴレヴィー教団の総本山があった場所で、メヴレヴィー教団の文化や歴史を学ぶことができる博物館だ。
     竜崎は、メヴラーナ博物館を見学した後、食事をすることにした。文化が豊かな地域には、美味しい食べ物があるというのが竜崎の持論である。竜崎は、コンヤでエトリ・エキメッキとフルン・ケバブを食べることを楽しみにしていた。
     メヴラーナ博物館を出て、通り沿いに数分歩いたところにあるトルコ料理のレストランに入った。ヨーグルトのスープとエトリ・エキメッキを注文した。エトリ・エキメッキはピデの一種類で、細長い形状なのが特徴だ。ひき肉とチーズをトッピングしたもの注文した。かなりのボリュームで、完食するとお腹一杯になった。フルン・ケバブは夕食に食べることにした。
     昼食の後、ジェラフェッディン・モスク、カラタイ博物館を次々に見学したが、アラエッディン・モスクを見学するには時間が遅かったので、翌日にまわした。翌日はアラエッディン・モスク見学後、アダナに路線バスで行き、アダナ経由でカフラマンマラシュまで行くことにした。
     竜崎は夜、メヴラーナ・カルチャー・センターに向かった。セマーを鑑賞するためだ。暗い会場内で照明が照らすホールで祈りの朗唱が始まった。弦楽器、打楽器、笛などの楽器の奏でる神秘的な音色と厳かな歌唱が会場内に響いた。次々に僧侶が旋回しながら大きな輪になるように、一人、また一人と解き放たれる。手は天に八の字型に広げられ、微妙に形が変わる。天を仰ぎまわり続ける僧侶たちの白い衣装のスカート部分が広がる。
     古くからの伝統・文化が生きづく地域には、独特な踊りがあり、特有の音楽がある。舞踊には、その衣装があり、音楽には、伝統的な楽器が音色を奏でる。
     セマーを堪能した竜崎は、ホテルへの帰り道にレストランに入った。竜崎はフルン・ケバブとラクの水割りを注文した。フルン・ケバブは、羊肉を石窯で何時間もかけて、ほろほろになるまで焼いた肉料理だ。ラクは葡萄からできていて、アニスというせり科のハーブで香りを付け酒だ。ラクは無色透明だが、水と混ぜると白濁する。トルコではライオンのミルクと呼ばれているお酒である。竜崎は、翌朝に備え早めにホテルに戻った。
     2月5日翌朝、竜崎はチェックアウトを済ませ、クロークにリュックを預け、アラエッディン・モスクに出かけた。モスクまではホテルから歩いて20分ほどだった。ほどよい朝の散歩がてらだった。昨夜降った雪はうっすらと積雪している所がある。寒くどんよりとした雲に覆われていた。アダナへのバスの時間もあるので時間はかなりタイトだった。
     モスクは円形の小高い丘にあり、季節柄葉を落とした木々が庭園の中に佇んでいる。開館と同時に入場した。モスク内にはセルジューク朝のモザイクタイルに飾られていて美しかった。竜崎はアダナ行のバスの時間が迫っていので、ゆっくり見ている時間もなく、モスクから庭園に出た。庭園を抜ければホテルまでは歩いて20分。ホテルに預けていたリュックを取りに帰らなくてはならなかった。
     竜崎は、モスクの庭園の中を急ぎ足で歩いている時、クガニ(黄色く色づいたシークアーサー)色の蝶が舞っているのに気付いた。蝶は竜崎の周りを旋回し、目の前を大きな美しい羽をゆらゆらと羽ばたかせながら舞った。優雅に舞う蝶に暫し見惚れた。トルコの2月、寒く雪が残っている庭園だった。蝶は竜崎に離れては近づき、近づいては離れるのを繰り返した。目の前を舞う蝶が信じられなかった。この季節に蝶などいるはずもない、ありえない光景だった。どんよりと曇った空に旋回する蝶。あまりにも美しい蝶に気がとられた瞬間、先日からの寒気で凍った地面に足を取られた。転ばないように踏ん張った瞬間だった。踏ん張った足は濡れた落ち葉の上にあった。竜崎は踏ん張った右足が地面をスライドし、バランスを崩した。滑った時に足首を捻って転んだ。右足首に鈍い痛みを感じたが直ぐに起き上がった。足首に痛みが走った。どうやら捻挫したようだった。バスの時間が迫っていた。足を庇いながら一歩一歩坂道を下りる竜崎に、また蝶が纏わりついてきた。あたかも竜崎の行く手を阻むかのように蝶が執拗に舞った。バスの時間が気になって、竜崎には蝶を見ている余裕がなかった。モスクの庭園を出て、痛みを我慢して、大通りに出た。蝶はいなくなっていた。痛みに堪え、何とかホテルに戻った竜崎は、リュックをピックアップし、タクシーを呼びバスターミナルに向かった。竜崎がバスターミナルに到着した時には、乗る予定だったバスは既にバスは出ていた。目的地はカフラマンマラシュだったので次のバスでは乗り継ぎができなかった。
     竜崎はカフラマンマラシュへは翌朝早くから行くことにして、昨夜泊まっていたホテルに引き返した。運よく空き部屋があったので、再度チェックインした。竜崎はホテルのロビーカウンターで鎮痛剤を貰った。さすがに湿布薬は無かった。
     鎮痛剤を飲み、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。とんだ週末になったと思いながら、ベッドに寝転がり、ビールを飲んだ。昼食はまだだったが、足が痛くて昼食を食べに行く気にはなれなかった。ベッドに横になっていると、鎮痛剤のせいか直ぐに眠気が襲ってきた。竜崎は寝入ってしまった。目が覚めると窓の外は既に暗かった。竜崎は窓に何かついているのに気づき、レースのカーテンを開けた。蝶が窓の外に留まっていた。竜崎はしばらく蝶を見ていたが信じられなかった。朝の蝶とよく似ている。よく見ると蝶は昼間見た蝶よりは少し小さいような気がしたが、直ぐに気のせいだと思い直した。それに飛んでいる蝶は、止まっている蝶よりも大きく見える。そもそも蝶がこの季節いること自体が奇妙だった。
     竜崎は足の痛みもあって、夕食も断念した。冷蔵庫の中にあったスナックとビールを飲みながら、明朝、アダナ経由でカフラマンマラシュ行く予定をどうするか考えた。カフラマンマラシュへの訪問は、伸びるアイスクリームが目当てだった。予定通りカフラマンマラシュに行くか、取りやめてアンカラに帰るか、足首の状態を見て決めればいい。アリには6日は終日コンヤとだけ連絡を入れていたので、なんなら7日朝一の高速列車でアンカラに戻れば問題ない。
     窓の外に止まっている蝶は、ときどき羽を広げてはまた閉じた。部屋の中を覗き込んでいるかのようで、まるで蝶に監視されているかのように、竜崎には思えた。
     竜崎は昼寝をてしまったこともあり、なかなか寝付けなかった。窓のカーテンを開けたままにして、窓の外に留まっている蝶を眺めながら、横になっていた。いつの間にか寝てしまった竜崎は、床の下で津波が起きているような変な感じがして目を覚ました。気のせいだと思った次の瞬間、それは始まった。地響きと共に、上下、左右に大きく揺れて、テーブルに置いていたミネラルウオーターのペットボトルが倒れ、飲み残したコップの中の水が揺れていた。ペットボトルと空のビール缶が床に落ちて転がった。すぐに館内にサイレンが鳴った。
     竜崎はカーテンを開けっ放しにしておいた窓を見た。そこには蝶の姿はなかった。空腹に飲んだ鎮痛剤が効いたのか頭がぼーとしていた。新垣の声がしたような気がしたが、そんなわけはないと直ぐに正気にもどった竜崎は、ホテル内の異常に気付いた。
     ホテルの廊下で部屋から飛び出した宿泊客でざわついていた。館内に放送が流れた。また大きな揺れが襲ってきた。ホテル内の廊下からキャーという悲鳴が聞こえてきた。余震だった。
     館内放送が繰り返しメッセージを流した。トルコ南部で地震が発生したこと。現時点では当ホテルには大きな被害は確認できないこと。今後余震の可能性もあるので、念のため部屋から出てガーデンに集まること。施設の詳しい安全点検を行い、安全確認後に部屋に戻れることが館内放送で説明された。外はかなり寒かった。ホテル側から暖かい飲み物と毛布が直ぐに用意された。
     竜崎は毛布に包まり、コーヒーを両手で持ち、コーヒーの温もりを手に伝えながら、啜った。周りでは多くの宿泊客が不安そうに話し合っていた。何人かがスマホで電話をして状況を話していた。
     竜崎は携帯を部屋に忘れてきたことに気が付いた。コーヒーを啜りながら、昨日起こったことを思い出した。アラエッディン・モスクの庭で蝶が現れ、竜崎に纏わりつき、竜崎は転倒し、捻挫をした後に蝶は消えた。竜崎はアダナ行のバスに乗り遅れ、ホテルに再チェックインすると、夜にその蝶が、竜崎が泊っている部屋の窓の外に現れ、窓に止まっていた。蝶がこの季節にいること自体が、あり得ないことだった。竜崎は、考えもしないことが人生には起きると思っていたが、正にそのあり得ないことが現実に起きた。
    竜崎の部屋では置き忘れた携帯が鳴り続けていた。
      宿泊客が部屋に戻れたのは、7時前だった。竜崎は部屋に戻ると直ぐにテレビをつけた。トルコ南部を襲った大地震だった。2月6日4時17分に起きたマグニチュード7.8の地震だった。トルコ南部で多くの建物が倒壊している映像が目に飛び込んできた。竜崎の携帯には複数の通話とメールの着信があった。母親から留守電に心配しているメッセージがあった。新垣から数回にわたる通話着信とメールが入っていた。アリからも折り返し電話を要望するショートメッセージがあった。竜崎は母親と新垣に電話を試みたが、既に電話やメールは繋がりにくい状況になっていた。
     トルコ南部の被災状況は酷かった。竜崎はもともと訪れる予定だったアダナやカフラマンマラシュに災害支援にボランティアとして行く考えが一瞬脳裏をかすめたが、冷静に考え直した。現地の人たちに頼らないで、被災地で過ごす装備がない。行っても足手まといになるだけだ。右足も捻挫している自分が、今行っても何もできない。そんな自分に苛立ちを感じながら、アンカラにできるかぎり早く戻ることを選択した。
     駅は人でごった返していた。アンカラ行の列車は満席だったが、立ったまま帰ることにした。空席の出る次の列車を待つなど、悠長なことはできない。こういう状況では、先に先に立ち回らないと機会を失う。次は無いと思った。トルコは緊急事態だった。
     列車内はざわついていた。アンカラに近づくにつれて、通信状況が回復していった。着信のあった母親、新垣、そしてアリにショートメールで無事を伝えた。メールは短い電報文のようなメッセージになった。竜崎はスマホでインターネットのニュース欄を見た。トルコ南部を震源とする地震のニュースの続報が次々に入ってくる。竜崎は地震に関するネットニュースを片端から読んだ。行く予定だったカフラマンマラシュの被害は激しかった。
     ニュース欄で下の方に蝶に関するニュースを見つけた。2月5日にコンヤ郊外でオオカバマダラの目撃情報が相次いだことを伝えていた。コンヤ・トロピカル・バタフライ・ガーデンから1匹のオオカバマダラが逃げたというニュースだった。
     コンヤ・トロピカル・バタフライ・ガーデンは、蝶をかたどった建物になっており、蝶を自然の生息環境に近い状態で観察することができる蝶園だ。この冬の時期にも孵化した蝶が自由に飛んでいるテーマパークである。地震の直前にバタフライ・ガーデンの蝶たちは、いつもとは違う動きで飛び回っていたという。
     昨日竜崎に纏わりついてきた蝶は美しいクガニ色の羽の蝶だった。あの蝶はコンヤ・トロピカル・バタフライ・ガーデンから逃げたオオカバマダラだったと合点がいった。
    もし蝶が逃げ出さなかったら、そして蝶が竜崎のところに現れなかったら。竜崎はおそらく足を滑らせて捻挫してなかった。捻挫しなければ竜崎は予定通りアダナに向かっていた。アダナを経由して行く予定だったカフラマンマラシュで、この大地震で竜崎自身被災したかもしれなかった。
     
     
      
    23章 ジュールクニチー 2023年2月6日
     
     2月5日、美羽は、ジュールクニチー前日に伊江島に帰っていた。
    おかぁの作った沖縄そばを食べながら、美羽はおばぁと話していた。おかぁは聞き役に回っていた。体は大丈夫なのか。腰の具合はどうだとか。畑仕事は止めた方がいいとか。おばぁの体を気遣うやり取りが中心だった。
    「美羽はどう?」とおばぁが訊き返した。
    美羽は仕事や同僚のことなど、自分のことを一通り話し終えると、さんぴん茶を啜った。
    おばぁもおかぁも、口にはしないが、美羽の今後のことを心配していた。美羽もおばぁとおかぁが、気を使ってそのことに触れないのは察していた。
    おばぁが、「おばぁは、美羽の笑顔をみるのが好きさー」とポツンと言った。
    美羽が「私は幸せよー。おばぁもおかぁもいるからねー」と返した。
    おかぁが「今はいいさー、でもおばぁも私もいずれいなくなるんだよー、その時の美羽のことが心配さー」ジュールクニチーの前日の話題としては微妙だった。
    おばぁが唐突に「あの人は、今何してるー」と訊いた。
    美羽が「あの人って?」
    「ほれ、去年の盆に連れてきた人さー」
    「竜崎さんね、彼は今トルコで仕事してるさー」
    「トルコ・・・」意外な美羽の言葉におばぁは、何が何だか分からなかった。
    「おばぁ、彼は元気よ、沖縄の仕事のことで時々連絡してるさー。今は仕事でトルコに居るのよ」
    おばぁが「いつ帰ってくる」と訊いた。
    「分からない」
    おばぁが、「あの人は良い人だと思うよ。おばぁには分かるさー」とぼそっと呟いた。
    おかぁはおばぁのその一言に、ナイスタイミング、さすが、おばぁと内心思い、おばぁと美羽の話に耳をそばだてていた。
    美羽が「おばぁは何でもお見通しだからねー」と話をはぐらかした。
     
     例年通り新垣家ではジュールクニチーを祝っていた。お供えものをして、朝から墓参りに来ていた。新垣家の墓はリリーフィールド公園近くの小高い所にある。
     ヒジャイガミ(左の神様)におばぁがお酒とシルカビ(白い紙の半紙で神様へのお金としてお願いで用いるもの)を供える。墓前には、お酒、お茶、水、供え花、ウチカビを供える、仏壇まで案内をしに来たことを伝える。おばぁが拝み、おかぁと美羽が続く。美羽が手を合わせて、自分と家族の無事と今日ここにいる感謝を伝えていた。
     1匹のクガニ色の蝶が、もう1匹のクガニ色の蝶を追いかけるように、2匹の蝶がゆらゆらと大きな羽をゆっくりと羽ばたかせ飛んで来た。
    おかぁが蝶に気づき「美羽、見てハベル(沖縄語で蝶)、2匹飛んでるさー」
    おばぁが蝶を見て「おじぃと浩二が来てるさー」と言った。
    おかぁが「そうねー」
    おばぁが「アヤハベル、マイコーマイコー(蝶よ、舞って、舞って)」と言った。
    クガニ色の美しい蝶が三人の頭上を舞っていた。
    美羽が「おじぃ、おとぅ、私たちを見守ってぇー、お願いねー」と蝶に向かって心の中で叫んだ。
    美羽の携帯の着信音が聞き取れるか、聞き取れないかぐらいの小さな音が鳴った。美羽はメールの着信だと思い、携帯を取り出した。ネットニュースの着信音だった。トルコ南部の地震の第一報だった。午前十一時前だった。美羽は胸騒ぎがした。
    美羽の様子が急に変わったことにおかぁとおばぁが気が付いた。
    美羽の顔が強張り、見る見るうちに顔色が褪せていく、以前良く見せていた不安な顔になっていた。
    おばぁとおかぁが「美羽、どうしたの? だいじょうか? 何があった?」と訊いた。おばぁとおかぁには美羽に何があったのか全く理解できず、ただ心配がつのり狼狽えた。
    美羽は、竜崎のことを気にかけた。直ぐに竜崎に電話をかけたが、電話に出ない。メールを送っても返信がない。再度電話をかけたが、電話は繋がらなかった。
    おかぁがまた「美羽、何があった?」と美羽に訊いた。
    美羽が「今ニュースで、トルコで大地震が起きたって」
    「竜崎さんに電話したけど、でないの。メールもしても返信がない。今はもう繋がらない」と言い、今にも泣きだしそうだった。
    おかぁが「美羽、大丈夫よ、きっと、彼は、大丈夫」
    おばぁが「美羽、きっとなんくるないさー」
    気が付くと2匹の蝶はいなくなっていた。
    美羽が携帯を見ると、メールは全て送信済みになっていた。
    家に帰りテレビをつけると、トルコ南部で起きた地震のニュースを地震の専門家が画像を見ながら解説していた。マグニチュード7以上の余震、震源地、トルコ南部で大きな被害が出ていること、活断層の存在。倒壊した建物の耐震性の問題などだ。
    竜崎からの連絡がないことが、より一層美羽を心配させた。
    美羽は、竜崎が仕事でトルコ各地の観光スポットを回っていることは知っていた。竜崎が南部に行っていないことを祈った。
    午後、竜崎からのメールの着信があった。「無事です」とだけのメッセージだった。美羽の目にうるうると涙が溜まっていく。大粒の涙が美羽の頬をつたった。美羽は安堵し、破顔した。笑顔が広がった。
    竜崎から通信アプリのビデオコールがあった。竜崎の顔を見た途端、また涙目になった。でも笑顔が漏れた。「連絡がとれないから心配したのよー。おばぁもおかぁも心配してるさー」
    「ごめん、でも大丈夫。危なかったけど。信じられないことがあって」
    竜崎はコンヤで起こったことを話した。信じられないことが起こり、地震を免れたことを話した。携帯の画面には、美羽の後ろにおばぁとおかぁが時折横切った。おばぁとおかぁが美羽の後ろに映っているのを見て、竜崎は今日がジュールクニチーだったと気が付いた。
    竜崎が、蝶に助けられた不思議な話をすると、新垣が、今朝お墓で蝶が飛んでいたことを思い出した。
    竜崎は、その蝶はコンヤ・トロピカル・バタフライ・ガーデンから逃げ出した蝶だったことを言うと、美羽が、沖縄では蝶は神の使いだと伝え、美羽が、今朝見た2匹の黄色い蝶の話をした。2匹の蝶はトルコの地震の前に美羽のところに現れて、何処かへ消えていった。美羽はアラエッディン・モスクの庭園で竜崎の所に現れた蝶とホテルの窓に張り付いていた蝶は、今朝現れた2匹の蝶だと思い、心の中でおじぃとおとぉにありがとうと呟いた。そして仏壇に向かっておじぃとおとぉに手を合わせた。
     
     地震の2日後には、日本の医療チームの先遣隊も現地入りし、医療支援を開始していた。発生から72時間が過ぎても、生存者の捜索、救助が続いていた。トルコ中が地震一色に染まり、瓦礫に埋もれていた人が、救出される映像が繰り返しテレビに映し出されていた。現地では歓喜が沸き起こり、トルコ中が生存者救出のニュースを喜んだ。
     
     トルコの観光振興プロジェクトは、地震と共に頓挫した。トルコ政府は、地震で被災した地域のインフラの復興と被災者の支援に注力するためだった。観光促進で招集されたメンバー全員に契約解除の説明がなされたが、異議を唱える者はいなかった。
    竜崎を含めメンバーの多くが、それまで受け取った報酬と契約解除の補償金を震災の義援金に寄付して帰国していった。
     
     
       
    24章 新垣との再会 2023年3月
     
     竜崎はトルコから帰国して、1か月後に那覇空港に降り立った。那覇空港で飛行機から出ると温かいふわぁとした空気に包まれた。沖縄の空気が、竜崎の緊張を弛緩させていく。
    竜崎が、沖縄を去ってからちょうど1年が経とうとしていた。新垣とはネットのビデオ会議やらネット通信アプリを使い時々連絡は取り合っていたが、その間、色々な思いが二人の気持ちに変化を与えていた。
     新型コロナウイルスは2類から5類への変更が政府内で協議され始めていた。気象庁で東京のさくらの開花予想が3月14日と発表されていた。花見が解禁され、多くの花見客が桜の名所に繰り出していた。インバウンドを含め各地の観光地には観光客が戻ってきていた。那覇空港でも到着ロビーにも出発ロビーも多くの観光客で賑わっていた。
     到着ロビーに出た竜崎は、手を振っている新垣が直ぐに目に入った。1年ぶりの再会だった。竜崎には、新垣が少し逞しくなったように見えた。新垣は笑顔で「お帰り」と言って出迎えた。竜崎は照れから「やあ、久しぶり、元気そうだね」と答えたが、内心ただいまと言いたかったが言えなかった。
    新垣が夕食に何を食べたいか竜崎に訊いた。竜崎は以前行った沖縄料理の居酒屋が良いとリクエストした。
    落ち着いた店の雰囲気は以前と全く変わらなかった。店は相変わらず繁盛していた。
    泡盛、ジーマーミ豆腐とフーチャンプルを注文した。
    泡盛で再会の乾杯をした。泡盛が胃に染みた。直ぐに新垣が口を開いた。
    「スイカ・スイーツ・コンテストが成功して本当によかったわ。実は内心びくびくだったの」
    「與那嶺さんの実行力と準備のお陰だよ」と竜崎が言った。
    2022年7月に開催された今帰仁村スイカフェスティバルで行われた。スイカ・スイーツ・コンテストにはスイカを使った様々なスイーツが出品された。そんな中で、高校性の作った大胆なスイカケーキは、味もさることながら、生クリームでコーティングされた見た目からは全く分からないサプライズがあり、ホールケーキをカットしたときに現れる大胆なスイカの塊が皆の注目を浴びた。スイカの甘さを引き立てる生クリームとスポンジの甘さ加減も良く、楽しいスイーツというコンセプトにピッタリだった。その後名護市内のホテルのデザートでスイカケーキが採用された。
    「正直反響には驚いているわ」どれも、美味しく仕上がっていて、レベルの高いコンクールだったことを新垣は話した。
    「私もスイカ・スイーツを食べたかったな」
    「え、そっち」
    「それからニュースよ」と言って新垣が話始めた。
    今帰仁村と名護市のコラボで『シュリンプ・スイカ・カレー』のコンセプトでコンテストが開催され、プロとアマの料理家が出来を競い合った結果、名護市に住む料理研究家のココナッツとカカオが香るシュリンプ・スイカ・カレーが優勝したこと話した。
    「カカオ?」
    「凄いでしょ。大宜味村でカカオを生産しているところがあって。そこのカカオがドライココナッツと一緒に使われているの」
    「斬新だね。きっと北部の名物料理になるよ」竜崎は続けた。
    「沖縄特産のもので、美味しい料理やスイーツを作って、観光客にふるまえば、きっと沖縄旅行が強く印象に残って、口コミで広がり、観光客は増えていく。そんな沖縄の未来が見えるんだ」
    「それからもう一つ」
    OISTでもずくと海ぶどうの全ゲノム解読の研究をもとに、美味しさを追求した品種改良のプロジェクトが進みだしたことを竜崎に伝えた。
     竜崎は新垣とビデオ通話で話す度に、トルコでの仕事や料理を話していたが、まだ話していなかったことなど、記憶の中から引き出して話した。
    竜崎が、地震の前日にあった不思議な蝶の話をすると、新垣は、ジュールクニチーの日の2匹の蝶の話をして、二人で盛り上がった。二人は次から次に思いつくままに話し、久しぶりに会った喜びに浸った。その日帰り際に、竜崎は新垣への思いを伝えようか迷った揚げ句に言い出せなかった。
    「おやすみなさい、今日は楽しかったよ」
    「おやすみなさい。私もよ…」新垣は今までとはちがう何かを感じていた。ワームムーンが安里の夜道を照らしていた。
     
     
      
    25章 アリからの仕事のオファー 2023年10月
     
     竜崎はトルコから帰国後、暫くは英語やスペイン語の翻訳の仕事をしていた。
     2023年10月、アリからメールが届いた。トルコ・シリア大地震では5万人を超えるトルコ人が死亡し、被災した地域では、多くの人がテントやコンテナの仮設住宅で避難生活を送っていた。トルコ政府による公営住宅の建設が急ピッチで進んでいた。トルコ政府による中長期地震災害復興プロジェクトが震災後動き出していた。そのなかに地震で頓挫してしまった観光客倍増プロジェクトが、規模を縮小する形で組み込まれていた。アリからのメールには、2024年1月から再スタートするのでトルコに来てほしいという内容が書かれていた。アリからの要望はいつも急だった。
    仕事のオファーを受け入れて、トルコに行けば10年は働くことになる。今回は、竜崎は、一人でトルコに行くことは考えられなかった。竜崎はコンヤで起きたことを思い出した。美羽と一緒ならどんなことも乗り越えられると思った。美羽に自分の気持ちを伝えようと思った。
     竜崎は新垣に週末に予定が入っているかどうかメールを送った。新垣から直ぐに予定は入っていない旨の返信が届いた。メールのやり取りを続け、会うことになった。新垣はジュールクニチーのあの日以来、新垣には、竜崎に対して今までより強い気持ちが芽生えていた。それは大切な人に対する感情だった。
     新垣は空港に竜崎を迎えに来ていた。ゲートから出てきた竜崎にお帰りと言った。竜崎は自然にただいまと答えた。新垣は竜崎のただいまという返事が嬉しかった。新垣が竜崎にどこか行きたいところはあるか訊いた。海が見たいと言った竜崎に対して、わかったとだけ答えた。新垣は知念岬に向かった。知念岬の先端からは大海原と沖には久高島が望める。久高島は神の島だ。
    あの日の蝶のように、パラグライダーが空を旋回しているのが見えた。竜崎は視線を落とし、青い海を見て、深呼吸を3回繰り返し、気持ちを落ち着かせた。竜崎はここで新垣と色々なことを話し始めたら、大切なことを言えなくなると思った。
    「綺麗だね」
    「ええ」
    「青い海を見てると、落ち着くね」
    「ええ」
    「あの、」
    「なに?」
    「ずーと、一緒にいてほしい」
    「え、なに?」
    「ずーと、一緒にいたいんだ」
    「・・・・ええ」
    「ええ、って?」
    「はい」
    「言っとかないといけないことがある」
    「なに?」
    「一緒にトルコに来てほしい」
    「え?」
    「実は、1月からトルコに行こうと思っている」
    「え?」
    「アリから仕事の誘いがあったんだ」
    「そうなのね」
    「明日、伊江島にいけるかな」
    「え?」
    「時間に余裕がないから」
    「分かった。おかぁと話すね」
     
     伊江島に向かうフェリーから伊江島タッチューが近づいてくる。海の色が濃紺からエメラルドブルーになり、エメラルドグリーンに変わる。竜崎は初めて伊江島に行ったフェリーでのことを思い出していた。新垣に白ゆりを感じたあの時のことを。
     新垣の家に着くと、おばぁとおかぁが出迎えてくれた。お仏壇でお線香をあげ、卓袱台を前に正座した。おかぁが前に座り、おばぁが「よっこらしょ」と言っておかぁの横に座った。美羽は私の横に座った。竜崎は「あの」と言った後「今日参りましたのは美羽さんとの結婚を許してもらいに来ました」と開口一番だった。
     竜崎は色々世間話をしてからでは、タイミングが掴みづらくなると思い、いきなり切り出した。この日の竜崎は、今までとはちがっていた。おばぁはニコニコして、さんぴん茶を啜った。
    おかぁは頷きながら美羽の方を見た。美羽が頷き、おかぁが「そうねー、良かったね、美羽」
    おばぁが「美羽、幸せになれ」
    おかぁが立ち上がり床の間の隅っこに立てかけてあった三線を持ってきた。竜崎が初めて新垣の家に来た時に見た三線はおかぁの三線だったのだと分かった。おかぁは、かぎやで風節を弾いた。祝いの唄だ。
    おかぁが美羽に夕食の事を聞いた。美羽は、明日仕事があるから、もう那覇に帰らないといけないことを伝えるとおかぁは残念がった。
    海来と美羽は、おばぁとおかぁに挨拶をして別れた。本部港行のフェリーに乗った。遠ざかるタッチューを見ていた。爽やかな海風が二人を吹き抜けた。海来は美羽の肩に手を回して引き寄せた。
    美羽の目にはタッチューに沈む夕日が移っていた。
     
     1か月後、海来の両親が伊江島を訪ねた。海来がトルコに旅立つ1週間前のことだった。
    一通り挨拶が終わり、おかぁの作った祝いの料理に舌つづみを打った。飾り気のない会話が続いた。
    おかぁが三線を引き始めた。「一曲だけ」と言って。沖縄では祝いの席では欠かせない歌だった。
    あの時と同じかぎやで風節だった。曲が終わるころエイサーの歌声と太鼓が響いてきた。村の青年会のエイサーだった。村長の計らいだった。おかぁもおばぁもカチャーシーを踊りだした。美羽と海来も続いた。海来の両親は手拍子で答えた。
    翌日婚姻届けを伊江村役場に届けた。
     
     美羽は、5か月遅れでトルコに来た。海来と美羽のトルコでの生活が始まった。トルコの地震から1年以上が過ぎていた。
     竜崎の仕事は、被災した地域の復興の中で、復興のスピードに負けない速度で観光客の増加を達成する要請があった。竜崎はトルコの地方の観光スポットを回り、地元住民と話し、地域のセールスポイントを細かくスタディーしていった。
    観光客を受け入れる場所の強みと、観光する側の興味をマッチングさせる。ニッチな需給を探り、需要を創造する戦略だった。
    竜崎は訪問したトルコ各地で、トルコ料理レストランを廻り、プロの料理人に対して、日本人観光客向けの料理コンテストを行う提案をしていた。トルコ料理は世界三大料理の一角をなし、日本人の味覚にも合うことは分かっていた。しかし日本人に合った料理にするにはディーテールが重要だった。最終的な味付け、見た目と量を調整する必要があった。
    優勝した料理に対しては、竜崎のブログでの紹介、日本の旅行会社への情報発信を行った。航空会社や旅行会社をスポンサーに、著名な日本人料理人や料理系インフルエンサーをトルコに招き、料理コンテストで優秀な成績を残したトルコ料理レストランで実際に試食する企画が通り、テレビでも放映された。
     旅行をする楽しみは、その国の、その地域の歴史・伝統・文化を、そこに住む人やそこにある自然、遺跡、建物、工芸、芸能、食を通じて知ることで満たされると竜崎は信じていた。
    竜崎の観光振興は旅行者に対する情報発信や旅行を企画する旅行会社へのプロモーションをする一方で、旅行者を受け入れる地域に住む人々に働きかけ、彼らを巻き込んで、観光客を受けいれる側への意識付けを行う。地元を巻き込んでいくには時間がかかるが、観光地を育てるためには必須だ。地域の観光に関わる産業の促進にまで手を付けることで、その地域の人たちが豊かになれる。トルコの観光促進は日本人観光客のために行うのではなく、観光地に住むトルコ住民のために行うというのが彼の信念だった。
    ローマは1日にしてならず。多くの年月があっという間に過ぎていった。竜崎の仕事は、トルコ政府観光局に認められつつあった。10年契約期間が近づいていた。
    日本人観光客はトルコの様々な観光地に現れるようになっていた。磨きのかかったトルコ料理を目当てに、トルコ各地を回るグルメツアーも人気のツアーになっていた。かつてのイタ飯ブームのように、日本ではトルコ飯ブームが起こっていた。トルコでは、日本人観光客向けのトルコ料理のアレンジから旅行者をどうもてなすかを学んでいった。
    海来と美羽は男の子(真流)と女の子(紗耶香)双子を授かった。子供たちは現地の学校に通い、現地に馴染んだ。
     
     トルコに来てから矢のごとく20年の年月が流れた。
    トルコで起こった震災から21年、トルコ経済は完全復活を遂げていた。震災を経験し、トルコ国民は以前にもまして、結束する気持ちが強くなっていた。
    トルコ人は勤勉で真面目な国民性を有している。そんな特殊生産要素は、なんらかのきっかけで、潜在能力を発揮する。
    トルコ南部を襲った地震が、国民の愛国心と結束力を一層強くし、以前にもまして豊かな国へと変貌しつつあった。トルコ各地には観光客が押し寄せ活況を呈していた。アジアとヨーロッパを結ぶ中継地点に位置し、異文化の融合が行われた地域だ。世界遺産と豊かな伝統・文化を有し、勤勉で真面目な国民性に、訪問者をもてなす精神が加われば、観光客を魅さないはずがなかった。
     海来はトルコ勤務20年を迎え帰国することにした。海来と美羽は帰国前に家族でコンヤへ旅行した。コンヤ・トロピカル・バタフライ・ガーデンを訪れた。蝶を見ながら、海来は成長した子供たちに21年前のトルコ・シリア地震の時にコンヤで起きたことを話した。 子供たちはすくすくと育ち18歳になっていた。娘の紗耶香が黄色の蝶を指さして、お父さんを救った蝶の子孫かもよと言った。息子の真流がオオカバマダラだねと言うと、その蝶に美羽がありがとうと呟いた。海来はそんな3人を見て微笑んだ。
    コンヤのレストランで、4人でエトリ・エキメッキとフルン・ケバブを食べた。紗耶香と真流は美味いを連発していた。美羽は、そんな子供たちを見て微笑んでいた。海来は、あの日のことがリンクするコンヤの名物料理を感慨深く味わった。竜崎がデザートを紗耶香と真流に訊いた。二人はトルコアイスクリームを注文した。海来と美羽も同じものをシェアすることにした。
    海来がアイスクリームを口に入れた時に、紗耶香がアイスを食べながら「あの日、アイスを食べにカフラマンマラシュに行けなくて良かったね」と言った。
    真流が「捻挫したことに感謝だよ」
    美羽が「そーねぇ、あの日の蝶に感謝ね」
    海来は、皆を順に見て何も言わずにただ頷いた。
     
     
      
    26章 2044年以降 帰国後の沖縄
     
     2044年、海来と美羽は、美羽の故郷、伊江島に帰ってきた。トルコから帰国後、海来に観光振興の仕事の依頼が複数あったが、全て健康を理由に断った。体のどこかが悪かったわけではなかったが、美羽と伊江島で新垣家に代々受け継がれてきた畑で野菜を作って暮らす生活を選択した。
     20年前の伊江島は、米軍基地が島の約35%を占有し、轟音と共にオスプレイが定期的に飛来していた。当時、極東アジアの情勢が緊迫の度を増し、オスプレイの爆音は伊江島の住民に不安を駆り立てた。
    琉球王朝の揺れ動く時代の延長上にある沖縄。沖縄は今も時空の波のなかで揺れていると。20数年前に何度か訪問した伊江島でオスプレイの飛ぶ空を見たときに思った。
     海来と美羽が,トルコへ旅立ってから20年が経ち、伊江島は大きく変わろうとしていた。戦争当時、実践では使われなかったアジア一長い滑走路の整備計画が進んでいた。数年前に米軍の管理下から日本に返還され、平和利用されようとしていた。伊江島空港の第二滑走路として整備され、本島の主要空港からの運航と一部アジア諸国からの国際便が計画されていた。
    北部にできた大型のテーマパークは開園後入場者数に苦戦したが、訪問客を満足させる仕掛けが徐々に加えられ、訪問する度に新たなサプライズや発見ができ,リピーターが増えていった。当初の期待通り北部地域の起爆剤となり、北部を訪れる観光客は増え続けた。当時既に高速道路の複車線化やバイパスなどの整備が行われたが、増え続ける観光客によって観光シーズンには渋滞が発生していた。そのような状況を緩和するため伊江島にある滑走路の活用が計画された。
     
     紗耶香は海来と美羽が帰国するときに一緒に帰ってきて、高校卒業後、那覇の大学に進学し、海洋自然学を専攻した。卒業後OISTで海洋生態系の研究補助をしながら、珊瑚の養殖や海ガメの保護のボランティアをしている。ザングサの海洋プランテーションを行うNPO法人を立上げ、活動も始めた。
    ザングサはジュゴンの好む海藻で、ザングサのあるところにジュゴンが来て食べた形跡が残っている。ザングサのプランテーションは当初困難を極めた。一本一本ザングサの苗を植えていく海中田植え方式で行っていた。植えても、植えても、直ぐに波に浚われてしまった。
    紗耶香はOISTの協力を受け、根付き易いザングサの品種改良を行い、漁協の協力で養殖を行い、ザングサを芝生のように面で植えていく方法を開発した。紗耶香がトルコから帰国して20年の年月が過ぎ、ザングサは沖縄の離島の海で根付きだした。
     紗耶香の呼びかけで、珊瑚の養殖を行っているNPOやウミガメの産卵を手助けしているNPO、サンゴ礁やウミガメの研究所、OISTやその他の大学の研究者、沖縄の海洋自然環境保護を目的として活動をしているボランティアの交流会がハート・ロック・カフェで開かれた。
    懇親会では、品種改良されたモズク、海ぶどう、海ゴーヤを使った創作オードブル料理、県産の野菜、肉、魚を使った料理、マンゴー、スイカ、パパイヤ、パイナップル、パッションフルーツに島バナナなど沖縄産フルーツを使ったスイーツが立食できるようになっていた。沖縄産のバニラ紅茶、カカオを使ったココア、コーヒー、全て沖縄県産の材料を使って振る舞われた。県産の食材は既にブランド化していて、それらを使った料理やスィーツは県各地の名物料理として観光客にも人気だった。
    紗耶香は数名のOISTの関係者の輪の中で談笑していた。OISTの外国人研究者たちは、ココナッツとカカオ香るシュリンプ・スイカ・カレーに舌鼓を打っていた。あぐー豚の生ハムをのせたパン・コン・トマテが紗耶香の皿には載っていた。古宇利島産のトマトと名護産のあぐーの生ハムが使われていた。
    「イクスキューズ ミー(失礼します)」、OISTの関係者の輪の中から出た紗耶香は、一人の老人に近寄った。老人は黒いよれよれのパンツに皺皺のかりゆしシャツ姿だった。彼は、近づいてくる紗耶香に軽く頭と目を下に動かし挨拶をした。彼は、満足そうな優しい表情でデザートを食していた。スイカのショートケーキである。
    「與那嶺さん、メンソーレ」
    「紗耶香さん、お招きいただきありがとうございます」と紗耶香に丁重に挨拶した。
    「紗耶香さん、盛況ですね」
    「ええ、お陰様で、與那嶺さんたちの何十年にも渡るご尽力のおかげです」
    「いーえ、私たちは、お父様とお母様が撒いた種を育てただけですよ」
    「種を撒くより、育てることは遥かに大変ですから。私もザングサのプランテーションなどで経験しています」
    「お母様はどうされていますか?」
    「母は、一昨年父が亡くなり、暫くショックで塞ぎ込んでいましたが、今は元気です。毎日畑で野菜と喋っています」
    「是非、お母さまに宜しくお伝えください」
    「ええ、分かりました。必ず伝えます。今日は、與那嶺さんの口添えで、ここを借り切ることができました。ありがとうございます。ここはいつも観光客で一杯だと聞きました」
    「紗耶香さん、スイカのショートケーキもう食べましたか?美味しいですよ。」
    「いえ、まだです。是非いただきます」
    紗耶香は抜かりなかった。沖縄のために役立つ機会は、徹底的に利用した。交流会の様子をネット生配信をしていた。数百年前の沖縄の海を取り戻すという活動の反響もさることながら、懇親会で食べられていた料理やスイーツへの反応には多くの『いいね』が集まった。海来と美羽が撒いた種が見事に実っていた。
     
     真流は海来たちが帰国後もしばらくトルコに残った。トルコの大学で環境科学を専攻し、卒業後、トルコのNPO自然保護団体で働きだした。真流はトルコ在住時にコンヤ・トロピカル・バタフライ・ガーデンを何度も訪れた。海来と美羽の不思議な話に魅せられ、蝶が大好きだった。
    真流が帰国したのは海来たちの帰国から10年経った頃だった。真流は美羽の紹介で大宜味村にあるシークアーサー農家で働きだした。そのころ遼は今帰仁村でシークアーサー農家を営んでいた。真流がシークアーサー園で働きだしたのは動機があった。シークアーサーの樹液に集まるコノハチョウを観察したかったからだ。『幸せを呼ぶ蝶』と言われているツマベニチョウも一年を通し見ることができた。越冬するリュウキュウアサギマダラにも会うことができる。真流にとって大宜味村は働く場所としては、趣味と実益を兼ねることができる最適な所だった。
    真流は大宜味村にバタフライ・ガーデンを作る提案を大宜味村に出していた。やんばるの森があり、コンヤに比べて気候が温暖な大宜味村は、バタフライ・ガーデンの立地条件を満たしていた。バタフライ・ガーデンを作って蝶の保護研究センターにすることがライフワークになっていた。
     
     
      
    27章 美ら海の島々 2120年
     
     2120年、海来が美羽と出会い、沖縄中を観光振興で廻っていた時から100年が過ぎた。沖縄は大きく変貌していた。沖縄は世界が憧れる一度は行ってみたいビーチ・リゾート・アイランドになっていた。離島近くの無人島を利用した海上ヴィラは、シーズン中は予約が取れない状況だった。沖縄の海は、透明度が増し、青から緑の色のグラデーションが広がり、その色が濃くなっていた。沖縄中部西海岸では、オレンジ色と淡いピンク色に染まる夕焼けとマジックアワーを見るために観光客が後を絶たない。北部西海岸ではイルカと共に夕日をみるクルージングが人気となっていた。
     
     国内外からの観光客を受け入れる陸海空の交通インフラネットワークが整備されていた。
    南部の那覇空港と北部の伊江島空港は国際空港として、辺野古空港が国内空港として機能していた。小さな島に国際空港が2つもある島は世界でも稀だった。空港の維持管理など効率性を考えると不効率ではあった。また航空機離発着の騒音問題も存在した。しかし、かつて米軍基地が点在した沖縄にとっては、歴史的にも、住民意識としても、受け入れることに抵抗は無かった。これも沖縄の特殊生産要素がなせることだった。泊港には昔と変わらずクルーズ船が停泊した。伊江港、本部港、名護港は整備され、フェリーや高速客船のシャトル便が頻繁に航行していた。
     
     沖縄独特の建築様式を採用した建物が沖縄各地で増えていた。白塗りの壁に赤瓦と白い漆喰の屋根。屋根の上に座したシーサーが観光客の邪気を払っているかのようだ。涼しさを醸し出す花ブロックの外壁、琉球石灰岩の内壁や回廊。沖縄は時を経て、沖縄の原風景に回帰しているようにも見えた。厳密にはヨーロッパのように旧市街と新市街が共存し、沖縄の伝統・文化・風習を感じることのできる旧市街と、東南アジアに対してビジネスを展開する新市街、沖縄の原風景を残す町村がモザイクをなしていた。
     
    沖縄を訪れる観光客にとって、那覇は異国情緒を感じるアジアに開かれた国際都市に変貌していた。石畳があり、細い道がくねくねと曲がり、坂がある首里地区には、ブーゲンビリアやハイビスカスが咲き乱れ、街路樹に蘭が着生している。古民家が改装され、沖縄そば屋、沖縄スイーツ店、カフェなどの飲食店が点在し、観光客が吸い込まれていく。
    首里城は沖縄のシンボルとして、その存在感を増し、伝統・文化行事を通じて、琉球王朝文化を後世に伝える先導的役割を担っていた。国際通り、公設市場、壺屋の一帯は旅行者のお腹とショッピングを満たすエリアとして旧市街地区になっていた。
     
     エイサー、三線と沖縄民謡、琉球舞踊は、琉球王朝からの伝統と文化の継承が行われていた。芭蕉布や久米紬をはじめとする沖縄各地に残る織物、紅型、壺焼などの伝統工芸は、後継者が次々に現れ、新進気鋭のアーティストが出現していた。
     
     うるま市はエイサーと闘牛の町として、フォルクローレと闘牛による国際交流が盛んに行われていた。勝連城の按司阿麻和利が外国との交易で繁栄をもたらせたように、国際感覚がこの地域の特殊生産要素になっていた。海中道路ビーチはウインドサーフィンのメッカとなり、国際大会も行われるようになっていた。
     
     かつて沖縄戦で米軍の上陸作戦が繰り広げられた読谷村では、ホエールウオッチングのツアーが盛んだ。コザと北谷へは、ゆいレール延長により那覇から50分のアクセスが可能となり、観光客が気軽に足を運ぶようになっていた。沖縄の伝統とアメリカの文化の融合が、新しい芸術・芸能を生み、ショービジネスも根付いた。その文化は沖縄クールと言う流行を生み出していた。
     
     名護市は沖縄北部観光の宿泊地としての拠点になり、欧米の有名ホテルが新たに進出していた。直接に沖縄北部に来る外国人観光客とっては、伊江島で入国し、クルーズ船で北部の目的地に向かうルート自体が魅力になっていた。
     
     国頭市(以前の国頭郡)には多くの若者が押し寄せていた。本部湾にはイルカパークができ、美ら海水族館と共に子供たちに人気のスポットとして揺るぎない。美ら海水族館は、沖縄の海の生態系の変化を見ることができる施設として、海外の海洋生物環境の研究者の視察を多く受け入れ、学会が開催されるようになっていた。
     
     恩納村の海には、昔のように色とりどりのサンゴ礁が広がを取り戻していた。OISTの研究により、白化に耐性を持つサンゴが育っていた。そこには色彩豊かな熱帯魚が生息し、世界中のダイバーやシュノーケルを楽しむ人たちが訪れていた。ビーチではビーチバレーとビーチフットサルの大会が回を重ねていた。
     
     今帰仁村を舞台にしたアニメがヒットし、主人公が愛した古宇利島に恋島巡礼のため、世界中からファンが押し寄せた。巡礼の終着点のハートロックを見て、オープンスペースのハート・ロック・カフェで、スイカ料理とスイカスィーツを食べるのが定番になっていた。古宇利島と屋我地島では趣向を凝らした車エビ料理のレストランが点在し、繁盛していた。地産地消の食材を生かした屋我地島産車エビと今帰仁スイカのカレーライスは沖縄北部の名物料理になっていた。
     
     大宜味村に位置するやんばるの森には蝶の保護園ができていた。記念碑が立っている。竜崎真流とコンヤ・トロピカル・バタフライ・ガーデンの協力に感謝すると記されていた。
     
     沖縄ではボランティアによる海洋環境保護活動が人気化し、海外からも参加者も増えていた、OISTとの共同研究も進み、珊瑚の生息地域が広がり、海洋生物も琉球王朝の頃のように戻ってきていた。八重山諸島、宮古諸島、慶良間諸島に産卵にくる海ガメの保護地区があちこちにできていた。また、ジュゴンの好物であるザングサのプランテーションが広がり、保護地区に指定されていた。ジュゴンは保護地区にときどき現れた。ジュゴンの親子が泳ぐ姿も目撃されるようになっていた。
     
     伊江島リリーフィールド公園に立って、青い海を眺める白髪のおばぁがいる。おばぁは遠く海を見つめていた。彼女の目は潤んでいた。そよ風がおばぁをやさしく包んだ。おばぁの頭上をクガニ色の2匹の蝶が舞っていた。 
     
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