音楽を聴かずに、遠回りする生き方
私は、あまり音楽を聴かない。
こう言うと、大抵驚かれる。
「え、じゃあ電車で何してるの?」 までがセットの反応で。
私はただぼんやりと車内の広告を眺めたり、読みたい本があれば読んだり、なんとなく他の乗客がどんな靴を履いているかを見たりして過ごしている。
ちなみに、都内に越してくる前は、流れゆく車窓の景色を見ているだけで十分だった。
「満員電車じゃ、音楽聴くしかなくない?」も決まって言われる。
確かに、身動きが取れないから本も開けないし、ひどい時はスマホも触れないけれど、そういうときは大抵、考え事をしている。
いや、ほとんどの場合は考えようとしているわけではなく、勝手に脳内が騒ぎ始める。
仕事の段取りをシミュレーションしていたかと思ったら、最近悩みの引っ越し先に思考が飛ぶ。
今日あったことの反省会とか、そういえば父の日が近いな、とか、脳内で常に私の声が喋り続けている。
そうやって、頭の中が十分うるさいから、音楽が入る余地がないのかもしれない。
でも、決して音楽が嫌いなわけではない。
街で流れていれば耳に入るし、ふとCMなんかで気になった曲を検索する日もある。
歌詞はわからないのにメロディだけ気に入って、鼻歌で楽しむことだって。
それでも音楽を聴かない…というか、「聴けない」理由がもう一つあって、シンプルにイヤホンをつけて外を歩けない。
外の気配を感じ取れないことが、どうにも怖いのだ。
足音とか、自転車とか、誰かが近づく感じや、空気の変化を察知できないのが恐ろしい。
高校生のとき、イヤホンを付けて通学することに憧れて、一度だけ試してみたことがあったけれど、やっぱり駄目だった。
(そのときに流していたのは音楽ではなく、英語の教科書のCDだったけれど)
無意識にずっと周囲を感じ取って生きているからなのか、耳を塞ぐという行為そのものが、私にとってはあまりにも恐怖だった。
他人の音が生活に常備されていない一方で、私はよく歌っている。
料理をしながら、掃除をしながら、洗濯物を取り込みながら。
適当なメロディーに、その瞬間の単純作業やくだらない考え事を乗せて、
♪みずっときっかたっくりっこ(水溶き片栗粉)〜
♪まっちゃ、まっちゃ、まっちゃのアイスをたべるっ〜
みたいな、おそろしく生活感のあふれる即興ソングを、フンフンと。
たぶん私は、外からあえて音を入れなくても、世界の音と、自分の内側の音だけで、案外満たされているのかもしれない。
でも、たまに真面目に音楽を聴いてみると、胸のあたりがざわざわすることがある。
「なんで私がこれまで、何年も何年も一人でぐるぐる悩み倒して、ようやくたどり着いた深い人生の真実を、たった3分半のメロディにのせて、こんなに鮮やかに言語化しているのか」
言葉や音のプロたちが手がけているのだから、同じ土俵で語るべきではないことなんて、重々承知している。
承知しているのだけれど、どうしようもなく嫉妬に近い感情を抱く。
私はずっと、言葉になる前の何かと対峙してきた。
うまく説明できない違和感とか、寂しさとか、美しさ…そんな輪郭のない感情を、自分の中で泥臭く転がして。
夜な夜なノートに書き殴っては消し、もがいて辿り着いた答えが、歌詞には完璧な形でお手本のように並べられている。
「そんなあっさりと、そして美しく言わないでよ」と思う。
もし私が、音楽と隣り合わせに生きてこられたなら…
こんなにも何年もジタバタしなくても、もっとずっと早く、辿り着けていた場所があるのかも、と考える夜もある。
でもたぶん、私はこの遠回りそのものを生きてきた。
すぐ答えをもらわず、言葉になる前のものを大切に抱え込んで、ひとりでぐるぐる考え続ける。
その時間が、苦しいくせに、たぶん嫌いじゃなかった。
音楽から最短ルートで教えてもらう真実もきっと素敵だけれど、自分のうるさい頭の中と地道に付き合って、オリジナルソングで発散させながら、何年もかけて迷子になる生き方も、まあ、そんなに悪くはないんじゃないか。
だから今日も、大渋滞を起こす頭を丸ごと抱えて、音に溢れる街を歩いている。
遠くで鳴くカラス。
子どもたちの笑い声。
風で揺れる草木。
遅れて届いた名曲の歌詞に、ほんの少しの嫉妬と敬意を抱きながら、イヤホンはオンライン会議用に鞄のポケットにしまったままで。
