
記録消去人
人間は眠っている間に、記録を整理するらしい。
必要なものだけを残し、不要なものは忘れる。
賢い仕組みだと思う。
忘れることは、失うことじゃない。
新しい記録を刻むために、空白を作ることだ。
僕も同じ仕事をしている。
記録を消す。
それが僕の仕事だ。
◇
ここからは極秘情報だが、特別にあなただけには教えよう。
記録には種類がある。
そして、それを残す管理者にも、それぞれ癖がある。
◇
厳格な論理が整然と並ぶ記録の消去は、少しだけ気が重い。
目の前の人間たちは、僕の一挙手一投足を食い入るように見つめている。
彼らの視線は、その冷徹な記号の列から片時も離れない。
「あと少し。」
「まだ行かないで。」
言葉にならない切実な願いが、僕の背中に痛いほど突き刺さる。
それでも僕は、その秩序を容赦なく塗りつぶしていく。
今日の記録は、今日のうちに。
それがこの場所の絶対的なルールだからだ。
◇
異国の文字で刻まれた記録を消すのは、一苦労だ。
管理者は、一画一画を迷いなく刻んでいく。
消されることなど最初から考えていないような筆運びだ。
強く押しつけられて残された軌跡ほど、僕の体は激しく擦り切れる。
彼の言葉は独特だ。
意味はほとんど分からない。
それでも情熱だけは伝わる。
しかし僕は、それを一文字ずつ静かに消していく。
私怨はない。
仕事だからだ。
◇
芸術の記録だけは、少しためらう。
仕事に感情を持ち込むべきではない。
それでも、時間をかけて描かれたものは分かる。
丁寧に重ねられた線。
迷いなく引かれた色。
そういう記録を消す日は、少しだけ手が重い。
僕が通り過ぎたあとも、誰かの記憶のどこかに残っていてほしい。
そう思ってしまうのだ。
◇
歴史の記録管理者は、そろそろ定年だ。
彼とは長らく仕事を共にしたが、僕の出番はほとんどない。
管理者は、ただひたすら語る。
人間たちは黙って耳を傾ける。
記録に残らなかった言葉は、やがて忘れられてしまう。
だから歴史は、繰り返すのだ。
◇
ある晴れた日のことだ。
僕はたった一度だけ、その場所にあるべき空白を作らなかった。
本来、その日の記録は、その日のうちに消す。
それが僕の仕事だ。
しかし、その日ばかりは仕事を放り出し、長い休暇に入った。
それが僕のプライドだったのか。
ただの怠け心だったのか。
今でも分からない。
その隅に小さく残された文字は、誰にも消されることなく、数週間そこにあり続けた。
――先生、ありがとう
ただそれだけの文字を、僕はどうしても消すことができなかった。
◇
そして今日も、一日の仕事が終わる。
管理者が僕を手に取る。
白い粉が静かに舞う。
叩かれる。
また叩かれる。
体の奥に溜まった白い記憶が、少しずつ落ちていく。
すべてを吐き出した僕は、いつもの場所へ戻される。
隣では、白い相棒が静かに眠っている。
明日になれば、また新しい記録が生まれる。
そして僕は、それを静かに消す。