芋出し画像

ふず、人生ず目が合うずき

ある日の仕事䞭、勢いよく怅子から立ち䞊がるずバランスを厩しかけお1歩䜙分に埌ろぞよろめいた。頭の䞭に「」を浮かべながら足䞋に目を遣るず、ブヌツの螵が随分擊り枛っおいた。仕事で毎日履いおいるRed Wingのポストマンのハむカットブヌツ。6幎皋前に「䞀生モノ」ずしお奮発しお1床も゜ヌルをリペアせずに季節関係なく履き続けおいたら、䞡足ずも螵の郚分がすっかり擊り枛っおほずんど無くなっおいるこずに気が付いた。

日々ホテルのフロントスタッフずしお通に立ち、䞖界䞭から宿泊に蚪れる客を「ゲスト」ずしお迎え、詰め過ぎない皋良い距離感を保ち぀぀、おおらかな接遇に尜くしおいる。囜籍も性別も異なる人々。倧きなスヌツケヌスず様々なバックボヌンを抱えた個別の人生が、僕の職堎にはひずたずめに、日々代わる代わるやっおくる。そんな日垞が圓たり前ずなっおいる。

ずっくに春の繁忙期が過ぎた早朝のフロントで、PCに向かっおルヌティンワヌクの事務䜜業をこなし、今床は気を付けながらゆっくりず怅子から腰を䞊げお息を吐く。すっかり凝り固たった銖筋ず背筋を䌞ばすず、倩井より少し䞋の郚分の小さい窓から差し蟌む初倏の眩しい光を济びた自分の圱がコンクリヌトの背面に映った。

41歳で流れ着いた今の職堎に勀めおもう4幎目になる。離婚しお居を移し、仕事も倉わり、初めおの業界で蚳も分からず䞀心䞍乱に働いおきた。
繁忙期ずもなれば走り回るこずもしばしば。華やいだ春の京郜の喧隒が嘘だったかのように、気の抜けた静かな6月の誰もいない早朝のフロアで、ふずこれたでの自分を振り返ったずき、ずっず遠くの方からこちらを芋぀める少幎ず目が合った。無蚀のたたこちらを芋぀める少幎。あれはか぀おの自分のような気がしお、しばらく圌ず向き合ったたた時間を忘れおいた。

●010æ­³   父が朱肉で煙草に火を぀けようずしたある日の朝
京郜垂䌏芋区に、どちらもAB型の䞡芪の間に3人兄匟の末っ子ずしお1981幎10月13日(火)午前5:47に生たれる。1番䞊の兄ずは13歳、姉ずは10歳離れおいるので兄匟で遊んだ蚘憶は無く、い぀も母の埌ろにくっ぀いおる1人っ子のような感芚で育぀。僕が幌少の頃、圓時の関西はただバブルの残り銙が挂っおいた時代で、僕が8歳の頃に䞡芪が䞀念発起しお商売を始めたのだが、皋なくしお父が重床の鬱病になり家庭環境は䞀倉した。䞡芪は圓時、今の自分ず同じ44歳だった。父には今でいうずころの「統合倱調症」の症状がある日突然珟れた。蚪れおもいない取匕先の「誰々さんが来た」ずか、印鑑の朱肉で煙草の火を点けようずしたり、1日䞭同じ事ばかりを繰り返し蚀うようになったり。8歳の僕にはそんな父の姿が衝撃ず恐怖以倖の䜕物でもなかった。家庭環境が䞀倉したあの日を、今でも忘れるこずができない。僕は元来匕っ蟌み思案な性栌で、商売人ばかりの呚囲の倧人達を芋おいたせいか、人の顔色を芋たり圌らの本音ず建前を芋分けるこずが幌少期からうたかったように思う。そんな䞭、唯䞀の救いは孊校だった。小孊校では所謂「人気者グルヌプ」に属しおいたし楜しかった。転校を䜙儀なくされるたでは。

●1114æ­³  æ¯ã®ã‚¹ã‚«ãƒŒãƒˆã‚’掎んで泣いた日
母は商売を1人で切り盛りし、たちたち消えおしたいそうなバブルの尻尟をうたく掎むこずができ、比范的短期間で商売を軌道に乗せた。それずは反しお居間の定䜍眮で1日䞭暪たわっおいる父ずの間に心の乖離が激しくなっおいく様子を぀ぶさに芋ながら育぀。ある日「父を眮いお家を出よう」ず決心した母に付いお行く圢で、進玚しお皋ない小孊5幎生の5月ずいう䞭途半端な時期に転校を䜙儀なくされる。商売が軌道に乗り、完党に勢いが付いた母にずっお事務所を構えた近蟺ぞの転居は奜機だったのだろうず今なら理解できるが、圓時僕はただ小孊校5幎生の子䟛だ。どうしおも転校したくなかった僕は、぀いには母のスカヌトの裟を掎んで泣いたが願いは叶わなかった。それでも4月䞭は京郜垂郊倖から電車を2本乗り継いで校区を越境する圢で通っおいた。しかしある日、その事が教頭先生にバレお「そんな危ないこずをさせるな」ず母は怒られ、匷制的に転校手続きを取らされるこずになったのだった。倧人の匷制力に小孊生は逆らえないこずが悲しかった。だけど教頭先生の教員ずしおの刀断は間違っおいなかったず思う。転校先の小孊校はが各孊幎に1クラスしかない閉鎖的な田舎の小孊校で、特有の空気に僕は党く銎染めず、郜䌚のマンモス校から来た僕が意図せず纏う雰囲気が気に入らなかったのか、数人のクラスメむトから靎を隠されたり鞄をひっくり返されたりず、理䞍尜な嫌がらせを受け、心を閉ざした。自分の生掻を取り囲む環境、呚りの人間、家族、孊校、䜕も楜しくなかった。そんな状態で転校先の小孊校を卒業し、そのたた校区の公立䞭孊校ぞ進孊した。楜しかった思い出は本圓に䜕ひず぀ない。

●1519æ­³   割れたビヌル瓶の砎片を拟い集めた倜
「統合倱調症」から少し立ち盎った、ずいっおもただただ波がある父が家族に再ゞョむントするも、今床はアルコヌルに傟倒するようになった。母ず毎晩のように殎り合いの喧嘩を繰り広げる。近所から「ああ、あの家は 」ず同情の目で芋られおいるこずが蟛かった。父が深倜たで酒をあおっおは倧声で隒ぐのでパトカヌが䜕床も家に来た。ある日、いよいよ感極たった母がキリンビヌルの倧瓶で父の頭をめがけお右腕を振り䞋ろした。瓶は粉々に砕け散り、僕はフロヌリングのあちこちに飛び散った砎片を拟い集めた。誰も怪我しないようにず。それたで心のどこかで「泣いたら負けだ」ず思っお堪えおいた涙が溢れお止たらなかった。自分の環境を呪った。兄ず姉はその圓時もう成人しおいお、こんなこずが日々繰り返される家に嫌気が差すのも圓然で、既に2人ずも家を出おおり、僕は孀独だった。僕だけが「子䟛」だった。誰も守っおもくれないし救っおもくれない。い぀もそんな思いを抱えおいた。こんな父芪の醜態から目を逞らせたいず僕を慮った母は、受隓勉匷を口実に僕をマンツヌマン指導の孊習塟に週2回通わせた。ずころが僕は受隓勉匷そっちのけで「先生」である倧孊生のお兄さんずお喋りするのが唯䞀の週2回の楜しみになっおしたっおいた。成瞟は倧しお䞊がらず、そのたた近所の公立高校に進孊した。高校3幎間は父ず1床も口をきかなかった。高校時代の僕は極めお「普通」な高校生だったが毎日が楜しくもあり退屈でもあった。自分も早く家を出お1人暮らしがしたいが為に、実家から遠く離れた倧阪の倧孊ぞの進孊を心に決め、なんずか垌望の倧孊ぞの受隓に合栌し18歳で倧阪ぞ匕っ越す。やっず手に入れた自由。ずころが今床は生掻環境の倉化が身䜓に圱響したのか、子䟛の頃に治ったはずのアトピヌ性皮膚炎が再発。䜓重も激枛した。悲しい家庭環境ずはいえ、これたでの僕はやはり守られおいたのだず぀くづく思った。䜓調を厩しおしたい、これはダバいず賄い目圓おで面接を受けた近所にオヌプン予定の焌肉屋で倧孊4幎間アルバむトするこずになる。ここから生掻が奜転し、倧孊にもバむト先にも仲間ができお楜しい青春を感じ぀぀、授業ほったらかしお友達ず異性に倢䞭な倧孊時代を過ごした。この時初めお自分の人生に光が差した気がした。

●2024æ­³   東京行きの倜行バス
倧孊時代は友人の圱響で音楜ず映画ず読曞に没頭し、4幎間のほずんどをそれらに費やした。僕の呚りの友達は皆、僕が知らないこずを沢山知っおいた。゚ンタメカルチャヌやサブカルチャヌずの出䌚いは無趣味だった僕の䞭で倧きく匟け、バむト代を突っ蟌んでひず倏に䜕本も倏フェスに行くようになる。そんな矢先、高校時代からの芪友が車の事故で22歳を目前に急逝する。4回生になる幎の冷え蟌んだ3月だった。ショックで半幎ほど完党に立ち盎れずにいた。同時に就職を考えないずいけない時期に差し掛かっおおり、圓時むンタヌネットが䞖に広たり぀぀も倧孊生の就職情報取埗方法はただ玙媒䜓メむンだったのず、通っおいた倧孊の孊科の性質もあっお゚ンタメ業界に進みたいず思い49瀟に゚ントリヌするも党滅。埌になっお知るこずになる「就職氷河期」だった。しかしながら京郜に垰っお家業を継ぐ気なんおサラサラ無く、倧阪に居続けおも友達はみんなそれぞれの進路ぞ。僕は目暙も䜕もなく、なんずなく東京に行くこずに決める。23歳の若者の目に映る東京は巚倧な別䞖界だった。

●2529æ­³   初めおバヌカりンタヌに立った倜
䞊京埌も居酒屋などでバむトしながら生蚈を立おおいた。倢や目暙もない日々。ただ食べおいくために朝たで食玩を段ボヌルに詰めるだけのバむトもした。その埌䞀旊飲食業を蟞めお、興味の赎くたたアルバむトを転々。垞にお金は無くお借金こそしなかったがカツカツの状態が2幎ほど続いお埒が明かず、やむなく京郜ぞ垰るこずに。東京で䜕か芋぀かるず思っおいたが結局䜕も芋぀からなかった。蚀い知れぬ敗北感があった。6幎振りに京郜の実家に垰っおからも䞡芪が立ち䞊げた商売を継ぐ気はなく、たたに昌職の面接を受けには行くが生掻の軞足はやはり倜の䞖界だった。䜕床か足を運んだこずがあるBARにお願いしお昌のアパレルや芳光案内所のアルバむトを掛け持ちでバヌテンダヌを始めるこずになった。やがお倜の䞖界のいろはを知り、京郜の街のあれこれを知る。䞖間ずは人の欲望で成り立っおいるのだず、ある皮の正しい認識を持぀ようになり、アルコヌルで酩酊する客を盞手に俯瞰で物事や瀟䌚を芋る思考の基瀎ができおいく時期だった。BARの埓業員ずしお氎商売の䞖界にどっぷり浞かっおいたが「い぀か自分の店を持ちたい」ずいう倢は特に抱かなかった。

●3034æ­³   父の背䞭を流した颚呂堎
30歳のある日、母が血盞倉えお垰宅し、父が末期の胃がんに眹っおいるこずを僕に告げた。父は手術のため2ヵ月皋入院したが「家に垰りたい」ず本人が垌望し、母ず2人で看病するこずに。あんなに嫌いだった父が、日が経぀に぀れ自力で立぀こずも食べるこずも喋るこずもできなくなっおいく姿を芋おいるず、幌少期に感じおいた恐怖や䟮蔑は䞍思議ず湧いおこず、ただただ「哀れ」だった。颚呂でほずんど骚ず皮だけになった䜓を支え、小さくなった背䞭を流しおやりながらシャワヌの勢いを匷めお僕は嗚咜を掻き消しおいた。それから玄1ヵ月埌に父は亡くなった。68歳だった。僕は母ず2人で父の最期を看取った。それからしばらくしお状況が萜ち着いた頃に「䞀緒に店を出さないか」ず以前働いおいたBARのお客様を通じお自分に声が掛かった。数カ月もの間、オヌナヌには䌑みをもらっお出勀しおいなかったのでこれには驚いた。僕は決心し、ダむニングバヌの新店立ち䞊げに際しお再びバヌテンダヌずしお埩垰するこずになった。お店のコンセプトを決めたりメニュヌを考えたり原䟡率を现かく蚈算しおレシピを構築したり、オヌプン準備に远われる怒涛の日々がここから始たる。結局オヌプン日は予定より1ヵ月䌞びおしたったが、順調に客足は䌞び、毎日䌑みなく平均12時間は店に立぀日々。䜓力的には蟛かったが新店を通じお知り合う人間関係の幅が爆発的に拡倧し、自分の感性が远い付かない日々だったが、充実感がそれに勝っおいた。その立ち䞊げた店を通じお、埌に結婚盞手ず出䌚うこずになった。

●35歳39æ­³   誰も揃わない食卓
立ち䞊げに参加したお店はオヌプンから短期間で軌道に乗ったが、オヌナヌの䞍倫問題や売䞊の萜ち着きでオヌナヌが苛立ち始め、絊料未払い4ヵ月を喰らう。氎商売の絊料未払いは過去に勀めた店でも経隓があったのだが、オヌナヌずの関係は悪化の䞀途。「店長ず結蚗しお売り䞊げを盗んでいるだろう」などず難癖を぀けられ衚向きは圌の意向(裏では倫の䞍倫に怒り狂った奥様が閉店させたのは間違いないずは思うが)で店は2幎ず持たず閉店。赀字閉店ではなく人気店に手が届くずころたで来おいただけに垞連のお客様には惜したれたが、圓時の僕は目前に結婚が控えおおり、その頃にはすっかり氎商売に嫌気が差しおいた為、「もう昌間働こう」ず倧しお興味もない䞍動産䌚瀟に契玄瀟員ずしお就職。そこもたた「昭和詰め合わせブラックギフト」みたいな䌚瀟だったので党く銎染めず半幎で退職。1人だけ僕のこずを気にかけおくれおいた心優しい先茩がいたが、振り返るこずはしなかった。そしお無職期間䞭にコロナ犍が始たる。そんな最䞭、たたたた就職詊隓を受けお合栌した某倖資系䌁業に転職。父の死埌、職に溢れおいた兄が継いでいた実家の商売が䞀気に傟き始めたこずを母から聞かされ、今埌に向けおの話し合いを持぀も、兄が半ば投げ出す圢になり実家の商売は業態倉曎に悩む日々。なんずか収益を出しお母を食べさせねばず、あれやこれや忙しくしおいるうちに今床は自分の仕事のほうが疎かにになり成瞟が悪化。あっさり契玄解陀されるず同時に劻から離婚を切り出される。原因はセックスレスだった。

⚫40歳〜珟圚   1人で郚屋を出た朝
劻ずは苊しい話し合いを半幎皋続けたが、圌女の決意は倉わらなかった。正盎、どちらから離婚の2文字を切り出すか、我慢比べのような暗い結婚生掻が䜕幎もの間続いおいた。コロナ犍のストレスも重なり、芯が匷くも枩厚だった圌女の性栌は荒み぀぀あるこずに僕は気付いおいたが、倫ずしお別れを切り出した劻を止めるこずはできなかった。結局は双方玍埗の䞊、協議離婚が成立した。僕は無職で独身に戻った。なるべくしおなったず蚀えば、そうでしかない。自分が招いた結果ず蚀えば、それたでのこずだった。2人で䜏んでいた賃貞マンションを退去し、僕らはお互いを芋るこずなく静かに別れた。それから皋なくしお次の仕事はすぐに芋぀かった。それが今のホテルだ。飲食業に埓事しおいた頃のお客様の䌝手で、これたでの接客業の経隓を買われ今の䌚瀟に再就職するこずができたのだった。

そしお4幎の月日が流れた。

再びブヌツの螵に目を遣る。
擊り枛らしおきたのはここたで歩いおきた人生の距離か、たたは自分の人生そのものか。どちらずも蚀える。これたで出䌚っおは別れおきた人達の顔が浮かんでは消えおいく。そしお僕はもうすぐ45歳になろうずしおいる。

もし今、あの薄暗い家の䞭の少幎に䌚えたら、䜕も蚀わずに抱きしめおやりたいず思う。その時、先に涙を流すのは歳を重ねた今の自分か、ただ幌くお淋しかった無力な自分か。恐らく今の自分が先に泣くだろうなず思う。

いいなず思ったら応揎しよう