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ぼくのSRYと、鍵のかかった初恋 〈33.彗星

    樹立夏

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    三十三、彗星 <最終話>

    創が劇団に戻って、二週間が経った。四月がもうすぐ終わる。

    「今年は、桜の開花が早いらしいよ」

    スマートフォンで何気なくSNSを見ながら、彗は創に話しかけた。創は今もまだ、歌えていない。

    「そうなんだ。彗。じゃあ一緒に桜を見に行かない?」
    「いいね。ぼく、おにぎりなら作れるから、握って行こうか」
    「彗のおにぎりは大きすぎるからなあ」

    創がふざけて笑う。このところ創が笑うことが増えた。奥底にはきっと星南の死が、癒えない記憶として堆積しているのだろう。それでも彗は、創が笑うと安心する。スクロールしながらSNSを流し見していると、喫茶店「海箱」のポストが目に入った。次の土曜日、大型連休の初日に、喫茶店を夜間開放するという。

    「彗星……?」

    ポストには、彗星が地球に接近するため、夜間に海辺での観察会を行うとある。夜通し空を見上げられるように、喫茶店と周辺の海辺を開放するというのだ。

    「行ってみたい」

    彗の横でスマートフォンを覗き込んでいた創が、囁くように言った。

    「じゃあ、行こうよ」

    画面に魅入られたように静止していた創が、根元が黒くなった金髪に触れ、「うん」と呟く。

    「とはいえまだ四月だからね。夜は冷えるよ。えーと……。ほらここ。『防寒着、寝袋と毛布をお持ちください』って」

    彗と創は、リサイクルショップに行き、寝袋と毛布を二人分買った。定価の半額以下だった。

    「ぼくも創も、お金持ちじゃないからね。安く買えてよかった」

    「海箱」に行く日を待つ彗は幸せだった。前日の金曜日、彗は昼休みに研究棟の外に出た。構内のソメイヨシノは、七割程度咲いていた。目的地の図書館で専門書を借りると、彗は、図書館の前に広がる芝生へと進んだ。デニム姿で座る。若草の香りが立つ。ソメイヨシノの老木を見上げると、節くれだった枝が、微笑むように、彗に向かって伸びていた。専門書が入ったトートバッグを枕に、芝生の上で仰向けになる。瞼を温める春の陽光は、創の金色の髪の毛を想起させた。

    「何かいいことあった?」

    理学部に戻り、研究室の廊下を歩いていると、阿藤が彗に声を掛けた。

    「一条さん。今日はすごく、すっきりした顔をしているから」

    彗は、トートバッグを肩にかけ直し、まっすぐに阿藤を見た。

    「彗星を見に行くんです。海辺に」
    「そう。一条さんはいつも研究ばかりしているから、たまには他の世界に関わることも必要ね。楽しんできて」

    阿藤にお辞儀をし、彗は実験室へと向かった。突如、背中をばしっと叩かれる。

    「クリティカか。びっくりした」
    「さっきの会話聞いた。彗星を見に行くんでしょう?  誰と?」
    「創とだけど?」
    「ふーん」

    クリティカがにやけて、彗の周りをくるくると回る。

    「色々考えたけど、やっぱり明日、気持ちを伝えようと思う」

    クリティカが頷いた。

    「彗。応援してる。いい結果でも悪い結果でも、私に報告して。プログレスレポートだよ」
    「わかった。報告する」

    彗が手をひらひらと振ると、クリティカはにんまりと笑って手を振った。

    「連休明け、セルロティを作って待ってる」
    「ありがとう、クリティカ」

    まったく、いい友人を持ったものだ。彗は白衣のポケットに手を突っ込み、前を向いて研究棟の廊下を歩いた。

    ◇

    土曜日。彗と創は、寝袋と毛布を大きなボストンバッグに詰め込み、駅へと向かった。荷物は創が持ってくれた。大型連休初日の札幌駅は、普段の三倍くらいの人出だ。彗は、創が人混みに酔わないか心配した。当の創は、特段辛そうな気配もなく、改札を通った。ホームへと続くエスカレーターの近くの売店で二人分の紅茶を買う。創が「持つよ」と手を伸ばしたが、「お茶くらいぼくが持つ」と言って、彗はペットボトル二本をリュックに入れた。

    創と乗車した普通列車は、想像していたよりも空いていた。創は、二人掛けの椅子の窓側に座りたいと言った。彗は、創の隣に座った。午後五時。太陽は、まだ沈まない。創は、他愛のない話を投げかけてきた。最近料理が好きになってきたこと。彗よりも速くジャガイモの皮がむけること。洗濯物を綺麗に畳むのが楽しいこと。小鳥が歌う春の歌を聴きに、大学の原生林に入るのが好きなこと。

    「彗。連休のどこかで山に行かない?」
    「海の次は山? でも、熊が怖いよ」
    「彗は慎重派だからね。大勢の人がいる時間帯なら比較的安全だと思うけど」

    創と話していると時が経つのが早い。列車は、「海箱」がある、小さな港町の駅に止まった。

    「ダウンジャケットを着てきてよかった。晴れてるけど寒いね」

    彗がベージュの薄いダウンジャケットのポケットに手を入れる。創が頷いて、ボストンバッグを肩にかけなおす。「海箱」への道のりを、創と二人、無言で歩く。沈黙が気まずくないのは、一緒に暮らすことにお互い慣れてしまったからだろうか。海風が創の金色の髪を巻きあげる。根元がずいぶん黒い。創は、美容室が怖いと言った。今度、髪の毛を切ってあげようか。さらりとした髪の手触りを想像して、彗の胸の奥が苦しくなる。

    「海箱」に到着すると、駐車場に車があった。旭川ナンバーの、白いSUVだ。

    「車があったら楽だったね」
    「そう? 僕、好きだよ。電車に揺られるの」

    創が屈託なく目を細めるので、彗もつられて目を細くした。SNSでは、彗星の観察会は予約制で、先着五名までとあった。定員に到達しているのであれば、彗と創のほかに三名の申し込みがあったことになる。今日は特別に、「海箱」で夕飯が提供される。マスターの手料理への期待が膨らんだ。

    石造りの建物の木製の扉をぎいっと開けると、室内は暖かかった。レモングラスの香りに安心する。彗は、ごく小さな音量で流れているピアノ曲の名前を思い出そうとして、こめかみに触れた。

    「あ、知ってるこの音」

    創が、音を聴くや否や、反射的に立ち止まった。

    「いらっしゃい」

    キッチンの奥から、マスターが顔を出す。アイロンが効いた、いつもの白いシャツに、カーキ色のエプロン姿だ。

    「こんにちは。あの、このピアノって、もしかして去年亡くなられた、あのピアニストの」

    創がピアニストの名前を出すと、マスターが一転、嬉しそうに顔を輝かせた。

    「よくわかったね。そうだよ。その方の演奏なんだ」

    ピアノを奏でているのは、とある老齢のピアニストだという。創は本当に耳がいい。

    「うれしいな。私は音楽が大好きなんです。今夜は語り明かしちゃおうかな」

    マスターが、皺だらけの顔をして、清潔に整えられた白髪混じりの髪に手を遣る。

    「マスター。ご挨拶が遅れましたが、今日の観察会を予約した、一条です。こっちは」
    「長谷川です」

    創が頭を下げた。彗と同じシャンプーの香りが、レモングラスと混じる。

    「荷物はこちらへ」

    促されるまま、クローゼットに荷物を置き、広い木製のテーブルへと案内された。テーブルにはすでに三名が着席している。三十代くらいの男女と、少年。三人は、家族のようだ。

    「まずは、珈琲をどうぞ」

    マスターが二人分のコーヒーカップをテーブルに置く。

    「今日は深煎りなんだ」

    創はブラックで一口飲んだ。次いで彗も一口含む。苦みよりも先にさまざまな香りが鼻へと抜けた。

    「美味しい」

    創がマスターに微笑みかける。マスターが自分用のコーヒーカップを持って、テーブルについた。

    「せっかくだから、自己紹介でもしようか」

    マスターが少年に片目を瞑って見せた。少年はぱっと明るい顔になって、両側に座る両親を交互に見た。両親が、少年に頷く。

    「天野清之助です。九歳です。小学四年生です。星が好きだから、将来は天文学博士になりたいです!」

    清之助に、皆が拍手を送った。次いで、母親と父親が手を挙げる。父親は、スポーツブランドのカットソーにジャケットといういで立ちだ。一方の母親は、前髪の短いすっきりとしたボブヘアで、春らしい淡いブルーのシャツに、白い暖かそうなカーディガンを羽織っている。

    「天野信二です。高校で物理の教員をしています」
    「天野香夏子です。旭川の総合病院で、管理栄養士をしています」

    家族。血が通っていて、あたたかくて、彗からは遠い存在。彗は、隣に座る創の手を取りたかった。無意識に創へと伸びた指先を、こわばらせ、無理に止める。

    「長谷川創です。舞台俳優をしています」

    天野家と、マスターが、「おお!」と歓声を上げた。

    「どんな舞台ですか?」

    香夏子が好奇心を抑えきれないと言った様子で創に問う。大丈夫だろうか。歌えなくなった創は、どう答えるだろうか。

    「ミュージカルですね。踊ったり、歌ったり」

    創は何でもないように笑った。演技なのか。「へえ」という声が上がる。マスターが、彗に視線を投げかけた。

    「一条彗です。彗は、彗星の彗です。北都大学の大学院で、生物学を研究しています」

    「ほおー」という声が上がる。物理の教師をしていると言っていた信二が、手を挙げた。

    「実は僕、一条さんの先輩なんですよ。北都大の物理学科にいました」
    「そうだったんですね。物理だから、A棟ですか?」
    「はい!」

    信二がさわやかな笑顔で応えた。

    「一条さん、彗さんって呼んでいいですか?」

    清之助が身をのりだした。彗は、「いいよ」と微笑む。

    「彗さんは、博士になるんですか?」
    「今、博士になれるように、頑張って実験をして、論文を書いてます」

    彗が清之助に微笑みかけると、清之助の瞳が輝いた。

    「勉強は楽しいですか?」
    「楽しいよ。大学の勉強って、好きでやるものだから。嫌いだったら博士になろうとは思わないんだ」

    清之助が、ほおっとため息を吐いた。

    「僕も、博士になりたいなあ」
    「清之助くんが博士になったら、論文読むね」

    清之助が、「うんっ!」と大きく頷いたので、皆が微笑み、場が一気に和んだ。いつの間にかキッチンからチーズが焼けるいい匂いがして、お腹が鳴りそうになる。マスターが、じゅうじゅうと音を立てるグラタン皿をお盆に乗せて運んできた。

    「シーフードグラタンね。こっちが、今朝焼いたロールパンと、蒸した海鮮」

    「わあ!」と歓声が響く。白い大皿の上で、山のように盛り付けられた牡蠣やホタテ、海老やタコが、湯気を立てていた。

    「僕、グラタン大好き」

    創がグラタンを見つめている。この表情を、記憶に刻み込んでおこう。創と二人で海へ出かけることは、これが最初で最後なのかもしれないのだから。

    水平線に落下する太陽を眺めながら、夕食の時間となった。日没後、ばら色に染まった水平線と空を見つめている間に、マスターが、あたたかい色合いの照明をつけて回る。グラタンのホワイトソースは丁寧に作られた味がして、表面でカリッと焼けたチーズとの相性は抜群だ。今朝焼いたというロールパンは、しっかりとバターと塩の味がして、何もつけなくても美味しい。ボイルされた海老の、鮮やかな朱色の縞模様にレモン汁を絞ると、臭みのない潮の香りがして、彗は思わず目を閉じた。

    「この蒸し牡蠣、塩気がちょうどいい。ぷりぷりしていて美味しいですね」

    香夏子が感動したように言うと、「栄養士さんに褒めてもらえるなんて嬉しいなあ」とマスターが頭を掻いた。

    食事と後片付けが終わると、黒いダウンジャケットに着替えたマスターが、創と信二、彗に声をかけた。

    「ちょっと手伝ってくれる?」

    マスターが持っていたのは、薄手の巨大なカーペットだった。

    「スリランカに旅行に行った時に買ったんだ」

    店の外に出ると、ひとりが一つずつカーペットの隅を持って、砂浜に広げた。マスターから渡された金属の杭を打って固定する。十人くらいが横になれるほどの大きさだ。カーペットを敷き終えた時、店の中から香夏子と清之助が砂浜に出て来た。

    「ここで毛布と寝袋で星空を眺めながら寝てもいいし、店の中も片付けておくから、そっちで寝てもいい」

    マスターが、ランタンを手渡した。彗と創、天野家に一つずつ。彗と清之助の顔が、下からぼおっと照らされる。穏やかな波の音がして、水平線を見つめると、星々の灯かりが海面を輝かせているようだった。

    「ほら、見えたね。あそこ」

    マスターが指す方へ、一同が夜空を見上げる。

    「うわあ……!」

    真っ先に歓声を上げたのは、清之助だ。

    「彗星だ!」

    満天の星空の中を、ひときわ明るい光の玉が、駆けている。

    「パパ! 望遠鏡出していい?」
    「ああ。持っておいで」

    清之助が、小型の天体望遠鏡を持って、車から出てきた。

    「すごいなあ! 青緑色だ!」

    清之助は、彗星に焦点を合わせ、歓喜している。

    「ねえ、彗さんも見て! 彗さんの彗は彗星の彗でしょ!」
    「ありがとう」と小さく呟いて、彗は望遠鏡を覗き込んだ。またたく夜空の星の中で、尻尾のような光を携えた彗星が見える。

    「母さんはどうして、ぼくに『彗』という名前をつけたんだろう」

    誰にも聞こえないようにこぼしたつもりだったのに、創がふっと笑った。

    「きっと、お母さんが見た彗星がとてもきれいだったからだよ」

    彗は飛び上がって創を見た。創が、透き通った瞳をして、彗を見つめていた。

    「清之助くん。僕も見ていい?」

    創が屈託のない声を出す。

    「うんっ! いいよ!」

    清之助が、創に望遠鏡の使い方を教えている。彗の体温が上がっていく。耳たぶが熱い。彗は、創が好きだ。あの日から不可逆的に、創が好きだ。

    午後九時を過ぎた。「海箱」にいる全員が、カーペットの上に横になり、満天の星空を眺めていた。浜辺を撫でるように、波音が響く。空を遮るものがない。宇宙の真下に、生身の体で横たわっている。天を彩る星々は、降ってくれば手で掴めそうだ。彗はうとうとと眠くなっていく。

    はっと目を覚ました。手元のスマートフォンを確認すると、午後十一時を回っていた。いつのまにか毛布が掛けられている。頭を左に回すと、創が天を見上げていた。遠くに置いたランタンの明かりで、表情がなんとか確認できる。

    「創。毛布、ありがとう」
    「寒くない?」
    「ちょっと寒い。寝袋持ってくる」
    「さっき、取ってきたよ」

    天野一家とマスターは、喫茶店の中で眠ることにしたという。創と二人、星空の下で息をする。創が寝袋を広げ始めたので、彗も寝袋を支度し、中に潜りこんだ。

    「中古品だけど、十分あったかいね」

    彗は、創の横顔に囁いた。創の黒い瞳には、星の明かりが映っている。

    「創。せっかくだから、ここでしかできない話をしようよ」
    「ここでしかできない話って?」
    「ただ星を眺めている夜なんてそうそう来ないよ」
    「そうだなあ。じゃあ彗。ちょっと重苦しくてもいい?」
    「いい。創の重苦しい話、聞きたい」

    彗は寝袋の中で体を捩り、創のほうへと向いた。

    「僕の本当のお父さんがいなくなった理由」

    創は、詩を暗唱するように、夜空に言葉を浮かべ始めた。

    「僕の本当のお父さんはね。悪魔に魅入られちゃったんだって」
    「どういうこと?」
    「お酒にね。依存してしまったんだって。お酒が入ると、お母さんに暴力をふるってしまったんだって。僕は、お母さんのお母さん、つまりおばあちゃんの家に預けられていたから、直接は見ていないんだけど」

    まるで他人の話をするように、創は淡々と話す。

    「お母さんはね、歌の先生だったんだよ。音大受験をする子に歌を教えてた。けど、お父さんからの暴力が原因で、歌えなくなった」

    打ち上げられた言葉が、座礁していく。創の歌声は、母親譲りなのだろう。

    「僕が五歳の時に、お母さんはお父さんと離婚した。新しいお父さんと結婚して、僕が八歳の時に、星南が生まれた。お母さんは、僕が別れたお父さんとそっくりだったから、僕を嫌いになったんだって。それから、自分自身を見ているようで嫌だって、星南のことも、嫌いになったんだって。星南の入院費用だけは持ってくれた。お金はくれた。けど、それだけ」

    夢を見るように地獄を語る創を、抱きしめることができたなら。

    「創。創には星南ちゃんしかいなかったんだね。星南ちゃんのために歌うことが、創を支えてきたんだね」

    頷いた創は、夜空を見上げたままだ。

    「星南が入院したのは、高校一年の春だった。お父さんとお母さんは、義務教育が終わったから、星南を置いていったんだと思う。星南は、ずっと待ってた。お父さんとお母さんが迎えに来てくれるって、信じてた。星南はね、小さい時から僕が歌うとすごく喜んでくれたんだよ。どんなにへたくそな歌でもね。それが嬉しくて、星南とミュージカルごっこをして遊んでいたんだ」

    涙に飲み込まれていく言葉は、届くはずもない相手を探して、夜空を彷徨っている。

    「でも、星南はもういない。僕は、何のために歌えばいいんだろう」
    「ずっと走り続けてきたんだから、少し休むのもいいんじゃない?」
    「彗は優しいね。いつも、僕にすごく優しい」
    「優しくなんてないよ。ぼくはね——」

    夜空から彗星が落ちてきて、今、この体を焼き尽くせばいいのに。

    「ぼくはずっと女の子として生きてきたし、これからも女性として生きていく。だけどぼくは子供が産めない。ぼくは子供を産みたかった。愛するひとの子供の母親になりたかった。愛するひとの子供なら、何が起こったって、どんな困難が直撃したって、絶対に守って、育てるのに」

    その後は言葉にならなかった。波の音だけが響く。夜空に輝く彗星がこのまま軌道上を進めば、いずれ地球からは離れていく。しばらくの沈黙の後、彗の額を創が撫でた。ゆっくりと。泣いた子供をなだめるように。

    ——星南ちゃんにも、こうしていたのかな。

    クリスマスプレゼントに、星南にあげた教科書。星南の死後、教科書を開いて見つけた星南の遺言を思い出す。

    『彼と結婚して。彼を支えて。彼の北極星になって』

    星南には伝えずじまいだった。彗の体のことを知らないまま、星南は旅立ってしまった。

    「彗は、自分のことを誤解してる」
    「どういうこと?」
    「『ぼくはいのちをつなげない』って思ってるでしょ。彗」
    「……そうだけど?」
    「『つなぐ』ってさ。子どもを産めるかどうかじゃないって、僕は思ってる。星南が言った言葉が、星南の笑った顔が、彗の中にはあるでしょう?」
    「うん」
    「星南は、彗の中で生き続けるんだ。星南が見ることのできなかった未来に、いま僕たちは生きてる。いまの彗の目は、星南の目でもあるんだ。彗。星南は彗に、『いのちをつないだ』んだよ」

    心が、波に侵食されていく。彗は、とても穏やかな気持ちになった。ずっと自分を責め続けてきた、正体不明の毒が、波に溶けていく。

    「ぼくは、ぼくのままでよかったんだ。母さんがぼくを産んだ日から。いや、ぼくという存在が一つの受精卵として発生した時から、ずっと」

    隣で、創がふっと笑った。「やっと気づいたの?」と、彗をからかうように。波の音が心地よくて、眠気が、彗を飲み込んでいく。彗の意識は、海の中へ、羊水の中へ、引き返していく。

    ——隣に、創がいる。ぼくたちは、今、肉体を持ち、生きてこの世に存在している。

    彗は、目を閉じた。星明かりの夜が、更けていく。

    ◇

    海鳥が鳴く声がして、彗は目を覚ました。浜辺だった。昨日太陽が落下した水平線が、反対の山側から昇った朝陽に照らされて、きらきらと光っている。隣の寝袋は空だった。

    「創?」

    辺りを見回しても、創はいない。全部夢だったんじゃないかと、寝ぼけた頭をもたげた。もう一度海に目を向けると、波間に立っている人物を見つけた。膝下くらいまでが水に浸かっている。

    ——創だ。

    気づくのと同時に、彗は寝袋を抜け出していた。裸足で砂浜を走る。砂に足を取られてうまく進めない。夢であって。おねがいだから、これは夢だと言って。

    「創!」

    必死で彗が叫ぶと、創が振り返った。彗は、何のためらいもなく、海の中へと走る。足の指の間に、海藻がまとわりつく。それでも走る。ついに創に追いついた。背中から創を抱きとめる。

    「だめだよ、行っちゃだめだよ、創」

    泣きじゃくる彗の髪を、振り返りながら、創が撫でる。

    「もう起きたの? 早かったね」
    「呑気にそんなこと言ってる場合?」
    「彗は何か勘違いしてるね。僕、決めたんだよ」
    「何を?」
    「これからは、彗のために歌を歌って生きていく」

    彗は一瞬、間が抜けた顔になった。状況が飲み込めない。

    「今日はね、星南の誕生日なんだ。僕、星南に報告があるんだよ」

    創は、彗の瞳を覗き込んだ。創の瞳には、朝陽が宿っていた。

    「僕は、星南がいなくなったこの世界で、これからもちゃんと生きていけるよって。どうして僕がそう思えるようになったと思う?」

    何が何だか分からない。ぽかんと口を開ける彗を見て、創はおかしそうに笑った。

    「気づかなかった? 僕はね、彗のことが好きなんだ」

    彗の腕から、力が抜けていく。叶わないと思っていた願いが、いま、叶ったのだろうか。これは現実だろうか。夢だとしたら。そうしたら彗は、創がいない世界でもう一度目覚めるのだろうか。

    「彗と一緒に暮らしてわかった。僕のために泣いてくれた彗がいたから、僕は今、生きて夜明けを迎えられたんだ」

    創は、彗に背を向け、水平線の彼方を眺めた。波間にひとつひとつ文字を浮かべるように、歌うように、創は言葉を放つ。

    「彗といる時は、僕は何者でもない。肩書も、役名も、名前さえも必要ない。彗といれば、僕はただの人間でいられる。明るい方へ歩いて行ける」

    彗の腕の中で、創がゆっくりと振り返る。目の前の創をやっとの思いで見つめ返す。創は、彗の言葉を待っていた。彗は、引き攣って震えた唇で、なんとか想いを紡ぎ始めた。

    「ありがとう。創。とても嬉しい。ぼくも、創が好きなんだ」

    自分が泣いていることに気付かずに、彗の足ががたがたと震える。信じられない。恋が叶うなんて。

    けれどたったひとつだけ、今、創に伝えたいことがある。

    「嬉しい。けど、ぼくのために歌を歌うのは、だめだよ」
    「え?」
    「創。これからは、歌は自分のために歌わなくちゃ」

    創が大きく目を見開いた。創の黒い瞳には、朝の海と、風と、それから泣きながら笑う彗が映っていた。彗星は、いつのまにか空から消えていた。

    「彗。目を閉じて」

    言われるがままに、彗は目を閉じた。
    創の歌が聞こえた。囁くように、そっと彗を撫でるように、創は歌う。
    歌声が止み、彗の唇に、あたたかな何かが触れた。

    ——ぼくは。いいえ、わたしは。

    わたしは、「ぼく」を降りた。
    わたしは、あなたを愛している。
    あなたが光の中で笑っていても。
    あなたが暗闇の中で病んでいたとしても。
    ただ、いつまでも。いつまでも。

    大切なあなたを、愛している。

    <了>

    <<第一話


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    樹立夏(いつき・りつか)と申します。 小説家を目指しています。創作大賞2025お仕事小説部門で入選を頂きました。主に小説、時々エッセイを書きます。 草花と森と海をこよなく愛しています。

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