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「趣味」を失くした人たちへ

    やさしいグラタン

    近頃、友達と話をしている中で、聞いてて悲しくなる言葉がある。「私って、趣味がなくて…」である。聞いてみると、どうも「最近寝てなくてさ〜!」とか「私なんてさ…」と言った不幸自慢の類でもない。

    どうも本当に「趣味」がないことを嘆いている。心の中では「いや!あなたは趣味ありますよ!好きなものに囲まれてるじゃないですか!気付いて!!」と思っているが、押し付けがましいので言わない。

    何より、私より人生を謳歌してそうで、徳のあるのある人たちが悲観的になると、<自認・多趣味な私>が馬鹿みたいにに見える。

    今回は、他人へ示唆を与えるふりをしながら、自己弁護をする文章を書こうと思う。

    1.「趣味」は自分のためのものではない

    【趣味】
    仕事・職業としてでなく、個人が楽しみとしてしている事柄。

    https://kotobank.jp/word/趣味-78244

    上記、コトバンクより引用してきた「趣味」の定義である。
    言葉の定義通り行くならば「趣味」のない人なんていないはずである。

    生活を重ねていく中で、楽しみはあるはずだ。コーヒーを飲む、洗濯物を取り込んだ時の衣服の香り、空模様を観察する、こんなことでも楽しみに繋がるはずなのに、何故「趣味はない」と言ってしまうのか。

    それは「趣味」が利他的なもの、つまり「他人と会話するための道具」になってしまったから、ではないだろうか。

    ◇

    巷に、趣味に以下のような発言がある。

    趣味が「サウナ、カフェ巡り、読書」って言っているやつ、ほぼ「趣味がないです」って言っているのに等しい。

    バカほど厳しい。そこまで言わなくても良いと思う。

    一方、言わんとしていることは分かる。要するに、個性が見えてこないのだ。

    サウナ、カフェ巡り、読書、いずれもサービスを受ける活動、つまり消費である。
    これらはお金と時間を費やせば同じ体験が出来る。
    また、大衆的な趣味であるため「自分の内面を掘り下げる努力を放棄した言葉」のように捉えられてしまう。

    そもそも、趣味について聞かれる場面は、自己紹介、自己開示が求められる時である。会話は次のように進行する。

    👩「趣味はなんですか〜?」
    意図:人柄を知るついでに、会話を広げるぞ〜
    👨「趣味は、サウナとカフェ巡りと読書です」
    👩「そうなんですね」

    地獄の会話が生まれる。私は、関西地方に住んでいたことから、会話に多少の「利他性」言い換えれば「面白さ」を求めてしまう。

    この動画では関西人の本質を「利他」と考察している。
    関西人が会話の中でボケ・ツッコミを織り交ぜるのは、会話の場面に抑揚をつけることで、場を盛り上げることを目的としていると評している。本当にその通りでございます。

    このプロトコルに沿って話すと、趣味も「場を盛り上げる」ことが求められる。

    しかし、そんな場を盛り上げる、都合のいい趣味なんか早々持っていない。
    逆に「趣味は寝ること」と話してみれば「無個性」や「自堕落」と言った負のレッテルを貼られるし、「趣味はカバディです」と言えば「何それ…」と相手を困惑させてしまうかもしれない。

    現代の私たちには「場を盛り上げる」趣味を語る十字架を背負わされている。この十字架から逃れるために「趣味はないです」と言ってしまうのではないだろうか。

    2.趣味に「競争」が持ち込まれている

    先程の地獄の会話を目にした時「そんなことで会話が終わることはなくない?」と思った人がいるかもしれない。
    確かにそう。実際の世の中は、そんな殺伐としていない。
    多分こんな感じである。

    👩「趣味はなんですか〜?」
    👨「趣味は、サウナとカフェ巡りと読書です」
    👩「そうなんですね。どのような本を読まれるのですか?」

    そう、深掘りが始まるのである。
    いや、会話的には極めて自然ではあるが、我々は時にこれに耐えれない。

    👩「趣味はなんですか〜?」
    👨「趣味は、サウナとカフェ巡りと読書です」
    👩「そうなんですね。どのような本を読まれるのですか?」
    👨「朝井リョウ先生とか読みますよ」
    👩「えー!私も読んでます!『何者』とか読んだ時のあの絶望、覚えてます?「自分は特別だと思いたいけど、何者でもない自分」を突きつけられるあの感覚!SNSの裏垢で…」

    などと、もし相手が自分より熱量も知識量も上回っていた場合、我々の身体は持たない。実家に帰りたくなっちゃう。

    また、SNSの普及も、趣味に「競争」が持ち込まれたことの一因ではないかと思う。

    Instagramを開くと、桃のカプレーゼと共に、彩り鮮やかに盛られたフルーツ、グラスに輪切りレモンが入った水などが映った"丁寧な暮らし"をしている様子が投稿されている。

    一方、私は鍋を作り、彩りもクソもない"鍋から直接飯を食う暮らし"を謳歌している。こんな人の前で「料理が趣味です」と言うには、面の皮が大分分厚くないといけない。

    SNSを見れば、常に自分の趣味の上位互換がいる。
    もちろん、それぞれのペースで趣味を楽しんでいるので、比較される所以はないはずなのだが、何故か世間のハードルは高くなっていっている。

    なんで趣味も追求しないといけないんや。社会人は資本主義の中の競争で日々疲弊している。それなのに何故趣味も「競争」しなければならないのか。

    この「競争」の十字架に耐えれない人たちが「趣味はないです」と口にしてしまうのではないだのうか。

    3.「趣味」を奪われた人たちへ

    以上「趣味はないです」と言ってしまう背景について、利他性と競争の観点から考察してみた。

    私に言わせてみれば、あなたは趣味がないのではない。奪われたのだとはっきりと主張したい。

    私の"趣味"の1つである、積読チャンネルの中では「現代で働く社会人には趣味が必要」という凡庸な主張が繰り返されている。

    必死に働く社会人には趣味が必要なのに、趣味が奪われるのは許せない、という思いから、私は今回筆を執った。

    さて「趣味がない」人たちへ、趣味は必ずしも明るいものでなくてもいい。なんでもいいのだ。

    残念ながら、私たちに「趣味」を語るスペースはないかもしれない。なぜなら、利他主義と資本主義に侵略されてしまったから。

    でも「休日にすること」や「なんとなく楽しいこと」と言えば、答えやすいのではないだろうか。ここには、場面を盛り上げる必要も、専門性も要らない。安住の地だ。

    趣味を奪われた人たちへ、海は割った。シナイ半島を渡ろう。

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