子どもに期待しない親は、冷たいのか。
合格発表の時刻を待つスマホの前で、私は思ったより冷静だった。
なぜだろう、と少し考えた。
うちの子が中学受験をしました。塾にも通わせました。環境は整えたつもりです。結果は、第一希望には届きませんでした。
その時、私が感じたことを正直に書くと——思ったより冷静でした。
落ち込まなかったわけじゃない。でも、想定の範囲ではあった。
もともと私は、「落ちても困るのは子供自身だ」と思っていた。
これを人に話すと、たまに引かれます。冷たい親だと思われることもある。
でも私は、これを冷たいとは思っていない。むしろ、正直だと思っている。
「子供のために」という言葉は美しい。
でもその裏に、「自分の期待通りに育ってほしい」という気持ちが混ざっていることは、意外と多い。
第一希望に合格した時、一番喜ぶのは誰か。
第一希望に落ちた時、一番傷つくのは誰か。
子供よりも親の方が傷つくことも、少なくない。
それは愛情の深さでもあるけど、期待の重さでもある。
私は、子供に対しても妻に対しても、「他人」というスタンスを持っています。
近しい人間に「他人」という言葉を使うと、冷たく聞こえるかもしれません。
でも私がここで言いたいのは、距離を置くということじゃない。
その人の人生は、その人のものだ、ということです。
子供は親の設計図通りに育つ必要はない。
妻は自分の期待通りに動く必要はない。
それぞれが、それぞれの人生を生きている。
中学受験で言えば、私がやったのは「場を整えること」です。
塾を探して、送り迎えをして、費用を出した。
でもそこから先は、子供の話です。
どれだけ本気で取り組むか、当日どんなコンディションで臨むか、縁があるかどうか——それは私にはコントロールできない。
場を整えることと、結果を期待することは、別の話です。
前者は親にできること。
後者は親にはどうにもならないこと。
その二つを混同すると、結果が出た時に「あれだけやったのに」という感情が生まれやすい。
でも「あれだけやったのに」は、子供への言葉のようで、実は自分の期待への嘆きです。
期待は、自分の中にある設計図を相手に押しつけること。
信頼は、相手の行動に依存しない確信。
子供への信頼とは、「この子は自分の力で、自分の人生を歩いていける」という確信だと思っています。
それは結果とは関係がない。
第一希望に受かっても落ちても、その確信は変わらない。
「落ちても困るのは子供自身だ」という言葉、我ながら少し冷たく聞こえるとは思っている。
でも裏を返せば、「この結果はあなたのせいじゃない」ということでもある。
親の期待を背負わせない、ということでもある。
子供にとって一番重いのは、結果そのものより、親ががっかりした顔を見ることだったりする。
その重さを、できるだけ乗せたくなかった。
場を整えることはできる。
でも結果は子供のものだ。
そして子供の人生も、子供のものだ。
それは突き放しじゃなくて、一人の人間として見ているということだと、私は思っている。
「結果は誰のもの?」
この問いを持っておくだけで、期待が重くなりすぎることを防げると思っている。
