
なぜ、私たちは幸せにならないといけないのか?
皆さんは、今、幸せですか?
私は幸せです。
幸せを噛み締めています。
モグモグ。
でも、最近、味がしなくなってきました。
ウソです。
ところで、幸せってなんでしょうか?
こんにちは、りおです。
今回は幸せについて、ちょっと考えてみたいなって思っています。
テーマは、「なぜ、私たちは幸せにならないといけないのか?」です。
私たちは、知らないうちに、幸せになることが、人生における当然の目的のように思っています。
そんなことはない! という方もいるかもしれません。
そのような方は、そっと戻るボタンを押してください。
なぜなら、自分で答えを見つけている人だからです。
私は⋯まだ迷っているというか、混乱しているというか、暗夜行路で五里霧中。
幸せについて考えていると、心の中は常に喪中。
ラッパー気取りで、暴走中。
すいません。
話をグイッと戻します。
何が言いたいのかというと、幸せな人生じゃなかったとして、はたしてそれは、問題なのでしょうか? というのが、今回のテーマに込めた意味です。
不幸な人生にだって、意味はあるんじゃないでしょうか。
不幸だったら、人間としての存在意義はないのでしょうか。
あなたは、どう考えますか?
ジョン・スチュアート・ミルは、自由論の中で、愚行権という考え方を述べています。
愚行権とは、ざっくり言えば、他の人から見て愚かな行為であったとしても、その人が自分の意思で愚かな行為をする権利です。
つまり、人間は幸福を目指しても良いし、不幸を目指しても良いのではないでしょうか?
もちろん、他者から見れば愚行でも、本人はそう思っていない場合もあります。
もし、そうなら、愚行ではないと言えるかもしれません。
ただ、真夜中のアップルパイは、罪深き至高の味です。
わかっちゃいるけど、やめられません。
太ることは重々承知、合点承知。
食べない方が良いことはわかっているけれど、食べてしまうのが人間というものではないでしょうか?
モグモグ。
もし、私がAIであったとしたら、食べないことを選択するでしょう。
そもそも、AIはアップルパイを食べないというツッコミは、すでに自分でしました。
何が言いたいのか? というと、人間が論理的判断で合理的に行動する生き物であれば、愚行はしないということです。
私がまだ十代だった頃、ずっと考えていたことがあります。
それは、人間とは何か? ということです。
まさに十代に考えるべきではない、愚かな行為と言えるでしょう。
もっと、ワキャキャウフフするような、甘く切ない青春時代を過ごした方が、どれだけ有意義な人生だったことか。
と、話がそれました。
その当時、考えていたことは、人間には理性と本能があり、本能を理性でコントロールすることが人間ではないか? ということです。
本能の赴くままに生きるのは、動物と一緒。
だから、理性でしっかり本能の手綱を握り、制御すること、制御できることが人間だと考えたのです。
その結果、青春時代の色恋なんて、本能剥き出しの動物と一緒じゃないか! と思い、ずっと近づかないようにしていました。
決して、色恋が近づいてこなかったわけではありません。
あえてです、あえて、自分から遠ざかったのです。
それこそが人間らしさだと、本気で考えていました。
これが、私史における大後悔時代です。
もう一生、取り戻すことができない、悲しい歴史。
人は歴史から学ぶと言いますが、自分の歴史に学んだところで、過去を改変することはできません。
変えられるのは、記憶だけ。
なので、私の記憶では、十代の頃、恋愛フラグをボッキボッキとへし折ったことにしています。
また、話がそれてしまいました。
つまり、ここで言いたかったことは、人間とは理性のある動物だということです。
さて、幸せの話。
幸せな気分というのは、誰しも味わったことがあると思います。
もし、まだ味わったことが無いというのであれば、真夜中にアップルパイを食べてみてください。
とても幸せな気持ちになるので。
で、ここで1つ疑問が生じるわけです。
この幸せな気分って何だろう? と。
私は、この幸せな気分を味わいたいから、アップルパイを食べてしまったのです。
そして、この幸せな気分というのは、人間のDNAに刻まれた本能的仕組みなのではないか? と考えてしまいました。
現在、これを書いているのは午前2時。
誠に遺憾ではありますが、糖分が不足しているので、アップルパイをもう1つ食べないといけないようです。
モグモグ。
ああ、幸せ。
これは、あくまで私の意思で食べたアップルパイであり、決して人間のDNAに刻まれた本能に負けてしまったわけでありません。
きっとそうです。
そういうことにしておきましょう。
つまりです、私たちはDNAに刻まれた本能的な仕組みである、幸せな気分を味わいたいがために、アップルパイを食べてしまうのではないか? ということです。
これは、とても由々しき問題ではないでしょうか。
人間とは理性ある動物ではなかったのか?
本能に負けてしまっては、人間の本分を失ってしまうのではないか?
そんな不安に駆られます。
私だけでしょうか?
あなたはどうですか?
幸せな気分は、理性によって生み出されるものだと考えますか?
それとも、本能によって生み出されるものだと考えますか?
もし、本能によって生み出されるものだとしたら、私たちは知らず知らずに本能によって、つまり、DNAによって操られていたことにならないでしょうか?
私たちの肉体は、遺伝子の乗り物にすぎない! と言ったのは、誰だったか。
もし、そうであるならば、幸せにならなければいけないというのは、DNAからの指令であるのかもしれません。
だとすると、私たちは人間としての意味があるのでしょうか?
幸せを求めることが本能的であるならば、それに反することをするのは、理性的と言えるかもしれません。
理性的ではなかったとしても、少なくとも本能に抗うことは、人間的とも言えるのではないでしょうか。
そうすると、愚行権こそ、まさに人間らしさと言えるかもしれません。
ビバ!愚行!
そうなのです、夜中にアップルパイを食べることは、まさに人間らしい行動であり、私は人間であることを高らかに宣言したと言えるのです。
あれっ、ちょっと待って。
幸せな気分を味わいたいと思うのが本能で、でも、あえて愚行をするのは理性で⋯。
なんだか、頭が混乱してきました。
ただ、1つだけ言えることは、幸せになろうとする行為、通称、幸せになろう系は、本能に突き動かされている可能性があるということ。
そして、幸せにならなければならないという考え方は、何も考えずDNAの奴隷に成り下がっていると言えるかもしれない⋯ということです。
あなたは、それでも幸せを追い求めますか?
それとも、独身を貫きますか?
私は、自分の意思で独身を貫きます。
決して、婚活市場で売れ残ったわけではありません。
そもそも売りに出していませんし、売る気もありません。
売れる気配がずっと無かったですから。
そりゃそうですよ、初めてのデートで、「ねぇ、なんで人間って幸せにならないといけないのかな?」って聞かれたら、あなたは何て答えますか?
優しさと戸惑いが複雑に絡み合った笑みを浮かべた後に、突然スマホに通知が来て、急な仕事が入りませんか?
そういうことです。
それこそ理性がなせる技だと思います。
次に、少し違った観点から、幸せについて考えてみましょう。
幸せって、多くの人は心地よい気分だと考えていると思います。
少なくとも、私は苦虫を噛み潰したような顔で、幸せです! と言うことはありません。
これが何を意味しているのかというと、幸せは大きく分類すると快楽に入るのではないか? ということです。
幸せと快楽の違いは何でしょうか?
これはあくまで私見ですが、幸せは長期的な少し心地よい気分、快楽は短期的な心地よすぎる気分と考えています。
つまり、幸せと快楽の違いは、時間と大きさではないか? ということです。
大きさというのは、具体的に言うと、脳内における化学物質の分泌量と言い換えても良いかもしれません。
化学物質というと少し抵抗があるので、脳内ホルモンとしておきましょう。
一瞬、食べ物を想像してしまったあなた、きっと食いしん坊です。
こうやって予言者は生まれるのかもしれないと、ふと思いました。
さて、幸せが脳内ホルモンによるものだとすると、ずっと幸せな気分でいることはできるでしょうか?
答えは明白です。
ずっと幸せな気分でいることはできません。
なぜなら、アップルパイは食べると無くなってしまうからです。
ペロリ。
本当は、幸せな気分に慣れてしまうため。
脳内ホルモンがバッシャーっと出続けると、それが普通になり、幸せな気分では無くなっていきます。
これは、快楽も一緒です。
麻薬などの快楽に慣れてしまうと、もっと強い刺激が欲しくなる、もっと強い刺激でないと、快楽を味わえなくなってしまいます。
いわゆる、依存症や中毒と言われる状態です。
そして、それは幸せについても同じことが言えるのではないでしょうか?
朝、理想のパートナーが優しく起こしてくれて、すでに朝食の準備ができていたらどうでしょう。
とても幸せな生活ですね。
でも、それが毎日続いたら、どうでしょうか?
トーストに焦げ目がついていたら、「おいおい、お前の私への愛はその程度だったのか?」って思いませんか?
最初は、朝食があるだけで幸せだったのに、それが当たり前になってしまうと、今度はアラが見えてしまうのです。
そうやって、二人の気持ちはすれ違い、気づけば破局。
これが恋人たちが別れる理由ではないでしょうか。
それはちょっと言い過ぎかもしれませんが、本当はトーストが焦げていたって、感謝するのが当然なのではないかなって思います。
私は焦げたトーストでも、ガリガリと焦げた部分を削ぎ落として、美味しくいただける人です。
安心してください、りおの横、空いてます。
話が逸れ過ぎてしまいましたが、伝えたかったことは、幸せな気分も慣れてしまうということです。
では、幸せな気分をずっと感じているには、どうすれば良いのでしょうか?
これも答えは簡単ですね。
朝食にアップルパイを追加すれば良いのです。
少なくとも私はそれで満足できます。
つまり、幸せな気分をずっと感じてもらうには、どんどん幸せなモノやコトを継続して提供する必要があるということです。
なぜなら、アップルパイの例ばかりで飽きたと思うので、フロランタンで話を進めますが、フロランタンが朝食に追加されたら、普通は嬉しいでしょう。
たとえ、フロランタンを食べなかったとしても。
そして、フロランタンがある朝食に慣れてしまったら、次はシャインマスカットで手を打ちましょう。
シャインマスカットに慣れてしまったら⋯と、永遠と追加されていけば、幸せな気分が持続できるのはないでしょうか。
もちろん、食べ物じゃなくても、お花でも良いですし、愛の囁きでもかまいません。
ただ、お花も愛の囁きも、お腹が膨れないのが難点です。
すいません、ちょっと暴走しました。
もうお気づきだと思いますが、これって結局、麻薬と変わらないのです。
幸せな気分の刺激に慣れてしまうと、もっと強い刺激が欲しくなり、気づけば幸せ中毒に陥ってしまいます。
それはもはや、幸せ地獄と言えるかもしれません。
あー良かった、私はそんな地獄に落ちなくて。
でも、一度くらいは経験しておいたいものです。
今度、Amazonのウィッシュリストを公開しようかしら。
冗談はさておき、言いたかったことは、幸せを追い求めるということは、結果として幸せ中毒になる可能性があるということです。
脳が幸せに慣れてしまい、本当は幸せなのに、幸せを感じなくなってしまった状態。
もっと、幸せを! もっと心地よくなりたい!
これが幸せ中毒です。
これでもまだ、あなたは幸せにならなければならないと思いますか?
むしろ、不幸であることの方が健全なのではないでしょうか。
おそらく、多くの人は、幸せになりたいと思っているでしょう。
しかし、その先は、麻薬中毒と一緒で、幸せ中毒になる可能性があるのです。
中毒というのは、人間にとって良くないことなのは間違いありません。
そうであるならば、やはり幸せを目指すことは、良くないのではないでしょうか?
それは詭弁だ! というご意見、ごもっとも。
私もそう思います。
だから、私は迷ってしまうのです。
混乱しているのです。
私は考えました。
もしかすると、幸せの定義が間違っているのかもしれません。
ここでは、幸せというのは、気分のことだとで定義しました。
それが間違っていたのではないか? ということです。
これは蒙恬、いや盲点でした。
もし、幸せというものが気分ではないとすると、ここまでの前提がすべて覆ることになります。
ちゃぶ台がひっくり返るわけです。
大丈夫です、すでに湯呑みは右手に持っているので。
幸せが気分ではないとすると、一体、幸せとは何でしょうか?
あなたは、幸せって何だと思いますか?
続きは、また次回⋯⋯という洋ドラみたいなことはしません。
これはあくまで私の考えであり、所属する組織はありませんので、組織の代表の意見というわけでもなく、十秒ほど逡巡し出たものなので、正しいかどうかはわかりませんし、そもそも正しいということ自体⋯⋯すいません、ちょっと書いてて楽しくなってしまいました。
端的に言えば、幸せとは状態ではないか? ということです。
どういうことでしょうか?
例えば、生活に困っていない状態。
それが、幸せということです。
幸せな気分を味わうことが、幸せではないということです。
ここに告白します。
ここまで読んでくれた、あなたのことが大好きです。
じゃなかった、私は幸せとは状態ではないか? ということを最初から考えていました。
それなのにあえて、幸せな気分について書いたのです。
それには、マラリア海峡よりは、かなり浅い理由があります。
最近、私の友人に恋人ができ、私にのろけ話をしてきます。
「私、今、とっても幸せな気分なの(ハート三つ)」と。
なんということでしょう。
友人は、幸せという概念に踊らされていたのです。
目を覚ませ!
私は友人の肩を揺すり、目を覚まさせるために、ビンタしたい激情を抑え、それは良かったね! と笑顔で伝えました。
社会に生きる人間としての最低限のマナーは、心得ております。えっへん。
けれど、全くもって納得いきませんでした。
生まれて来たからには、私も幸せな気分を味わう権利があるのではないかと。
ところが、私の明晰な頭脳は、こう考えたのです。
羨ましくなんかないもん!
いつか、爆発する運命を選んだのね、と。
そもそも、そんな簡単に幸せを味わえるわけがない。
その幸せは、偽物の可能性すらある! 大いにある! いや間違いない!
でもちょっと待って、幸せって、そもそも何だろう?
何で、私は幸せになりたいのだろうと。
友人の幸せそうな顔を見て、そんなに顔が緩みっぱなしじゃ、将来顔が垂れるぞ! 私はそれを断固拒否する! と。
ああ、私情をぶちまけすぎました。
反省です。
裁判長! 愚行権を行使します!
いや、行使しました!
そういうわけで、めちゃくちゃ楽しそうで、嬉しそうで、喜びが溢れ、幸せな気分を満喫している友人を見て思ったのです。
その気分は長続きしないと。
一過性のものであると。
それはひがみでも、ねたみでもなく、羨ましいだけでしたが、ずっと恋人気分で男女が一生を終えることは、歴史上皆無に等しく、確実にその幸せには終わりが来るのです。
私は震えました。全然、会いたいわけではないのに、ブルブルと。
終わりが見えているのに、幸せになるのは危険ではないだろうかと。
かの陽明門は、完成しないように、柱が逆になっているそうです。
完成したら、あとは朽ちゆくのみ。
幸せの先には、断崖絶壁が待っているのです。
押すなよ! 押すなよ! と叫べば叫ぶほど、勢いよくお尻を蹴られることは、自明の理。
幸せな気分とは、なんと恐ろしいものでしょうか。
と、大いに脱線しすぎてしまいました。
時を戻そう。
話を戻すと、幸せとは状態ではないか? ということです。
もし、状態であるとするならば、気分は関係ありません。
不快な気分であっても、幸せな状態が成り立ちます。
前述したように、生活に困っていない状態が幸せであるならば、日本人の多くは幸せといえるでしょう。
そう、私たちは、幸せだったのです。
しかし、残酷な現実があります。
それは、状態にも人間は慣れてしまうということです。
よく話題になるのが、世界幸福度報告書の幸福度ランキング。
2025年は、日本は55位だったそうです。
世界的にみても安全で、飢えている人も少なく、スマホもあって、蛇口をひねれば飲める水が出てくる、その上アップルパイもあるのに!
日本人、幸福に慣れすぎ問題。
これこそ、今問題にすべきことのような気がします。
皆さんは、デジタルデトックスという言葉を知っていますか?
デジタルデトックスとは、スマホの奴隷となった人間たちを救済する活動です。
意訳しすぎました、反省。
デジタルデトックスは、インターネットが繋がらない場所で、スマホなどのデジタル機器を持ち込まずに生活をし、デジタルに侵された心身を解放し、リフレッシュするというもの。
デジタルデトックスをすると、スマホのありがたみに気づくことができます。
もちろん、スマホが無くても生きていけることにも気づけます。
もしかして、これは素晴らしい活動なのでは? と思いました。
つまり、幸せな状態を感じるために、ハッピーデトックスをするということです。
目からウロコでした。
あえて、幸せじゃない状態に身を置くことで、幸せを再認識するというのは、良いアイデアではないでしょうか。
身体を椅子に縛り付け、目の前に美味しそうなアップルパイを置きます。
食べたくても食べられない状態に、フラストレーションが溜まり、アップルパイが普通に食べることができた生活が幸せだったと感じることができるのです。
ハッピーデトックス最高!
ということで、私、ハッピーデトックスのビジネスを立ち上げようと思います。
ウソです。
ただ、今が幸せである状態を実感するには、幸せではない状態にならないといけないというのは、ある意味、正しいアプローチではないでしょうか。
逃した魚は大きいなんて言いますし、別れてから相手の大切さに気づくというのもあります。
家族や友人もそうですよね。
ちなみに、私はかれこれずっと大海を泳ぎ続けているのですが、エサを見つけて食べようとすると、エサに逃げられるため、キャッチされたことがなく、よってリリースされたこともないという、当然の帰結に今、愕然としました。
この物語はフィクションです。
実在の人物とは一切関係がないことにしておきます。
さて、幸せは状態だとして、その状態をキープし続けることはできるのでしょうか?
確かに、現代の日本においては、生きていく上で困ることはほとんどありません。
これはある意味、幸せな状態と言えるでしょう。
そういう意味では、キープが可能だと言えます。
しかし、人間は慣れてしまうもの。
今が幸せだということに気づかず、愚かにも、さらに幸せな状態を望むものです。
だから、ハッピーデトックスが必要で⋯という話でした。
ということは、社会制度としてハッピーデトックスを導入すれば、もしかすると日本人の幸福度が上がるかもしれません。
私は考えました。
ハッピーなカップルを見たら、ビンタをして良いという制度というのはどうでしょうか?
ぐへへへ、私はビンタし放題ですね。
でも、手が痛くなりそうだからやめておきます。
というのは、私の妄想ですが、社会制度としてのハッピーデトックスは、あまり受け入れられることはないでしょう。
なぜならば、人は痛い、苦しい、悲しいといったマイナスなことは嫌だからです。
私だって、ぶたれるのは嫌です。
縛られるのは良いですが。
ちょっとふざけすぎました。
話を戻しましょう。
言いたかったことは、生活するのに困らない状況ではあったとしても、苦痛や苦悩があると、それは幸せではないのか? ということです。
日本では、自ら命を絶つ方が増えています。
経済的困窮によって、八方塞がりになってしまった方もいますが、端から見たら、幸せそうに見える人でも、お金を持っていても、自ら命を絶つことを選ぶ人がいるということです。
その多くは、幸せではないと感じていたからではないでしょうか。
なぜなら、幸せすぎて自らの命を断ちたい! って思う人はいないでしょうから。
あなたは、どうですか?
つまり、幸せな状態だけでは幸せとは言えず、幸せな気分も重要であるということです。
ハッピーデトックスも、言ってしまえば、再び幸せな気分を感じるためのものとも言えます。
ようやく、結論がでました。
私たちは、気分と状態が揃ってはじめて、幸せであると言えるのではないでしょうか。
あー、すっきりしました。
お花を摘みに行っていたわけではありません。
これでようやく本題に入ることができますね。
そういえば、知っていますか?
この文章の目的のこと。
それは、ハートマークのスキを押してもらうことです。
てへっ。
という戯言は置いといて、「なぜ、私たちは幸せにならないといけないのか?」について、考えていきましょう。
ここまでで、材料はすべて揃ったのではないかと私は思っています。
もし、足りていない事柄あったら、コメントをお願いします。
返信はAIに頼むので、安心してコメントしてください。
冗談です(真顔)。
まず、「幸せとは良い気分と良い状態が両方あるとき」と言えます。
そして、気分にしろ、状態にしろ、人間は慣れてしまうという事実。
さらに、幸せだったとしても、さらに上の気分、状態を目指す生き物です。
それは、DNAによって人間に刻まれた本能と言えます。
その結果、私たちは、幸せをずっと目指し続けることになるのです。
逆に、ハッピーデトックスのように、あえて苦痛や苦悩を選択することは、幸せを再認識するのに必要です。
そして、その選択をすることが、人間の理性によって行われていれば、本能、つまり、DNAの縛鎖から解放されてたと言えるのではないでしょうか。
そうであるならば、幸せを目指すことは本能であり、それをあえて選択しないことが、人間らしさと言えそうです。
まさに私のように、永眠しても幸せな結婚生活を夢見たまま生きることこそが、人間の本分。
少子化、クソ喰らえです。
むしろ、少子化こそ、人間の人間たる所以。
子どもを作って人の数を増やすのなんて、まさに、DNAに操られている動物と一緒、という結論に至ってしまいました。
「なぜ、私たちは幸せにならないといけないのか?」という問いの答えは、幸せになってはいけない、ということになります。
とても悲しい気分です。
残念ですが、これが真理。
幸せになることを目指せば目指すほど、DNAの操り人形になってしまうという残酷な現実に、私は絶えられません。
なので、美味しいアップルパイのお店を教えてください。
さて、困りました。
そんな時に、さっそうと現れたのが、SHAKAさんです。
いつも面白いゲーム配信してますよね。
じゃなかった、ガウタマ・シッダールタの方の釈迦です。ブッダです。
右の頬をぶったね。父さんにもぶたれたことないのに。ならば、左の頬もぶちなさい。
なんか、いろいろと混ざってしまいました⋯、すいません。
ブッダといえば、解脱。
解脱といえば、本能的なものを解き放ち、悟りを開くこと。
ちなみに、ブッダが解脱できた最大の理由は、アップルパイを知らなかったからだと私は考えています。
もし、アップルパイを知っていたら、きっと解脱はできなかったでしょう。断言します。
冗談です。
ブッダは、感情に囚われてはいけない、様々なことに執着してはいけない、その先に、真の心の平安がある、という感じのことを言っていた気がします。
かなりざっくりですけど。
執着の先には終着しかない! と言ったのは私ですが、結局、幸せというものを追求していくと、そこには幸せ中毒が待っています。
だからこそ、幸せになることに執着しない、幸せを目指さないという生き方もあるということです。
これは素晴らしい答えかもしれません。
あなたも、そう思いませんか?
そうです! すべてを手放しましょう。
特にお金を手放しましょう。
お金を手放すときには、私に送金してください。
大丈夫です。
私が責任を持って、至高なのか、虚無なのかわかりませんが、新しいアップルパイのレシピをYoutuberの方に作ってもらうように依頼しておきます。
ウソです。
ただ、言いたかったことは、幸せを追求しないという考え方もあるということ。
そもそも、幸せになる必要はない、という考え方もあるということです。
流石に、ちょっと疲れました。
ここまで考えてくると、幸せって目指すべきものではないような気もしてきます。
「幸せにならなければならない」というのは、まぼろしー! であり、幸せなんて存在しない可能性すらあるかもしれません。
あー、クマった、クマった。
あっ、これはクマに遭遇した時に、使う言葉でした。失敬。
あー、困りましたね。
感情にとらわれず、あらゆるものに執着せずに生きていく。
私のこれまでの生き方とは、まったく異なる生き方です。
アップルパイの欲望に負け、再びアップルパイを食べるために働き、アップルパイに一喜一憂し、お墓にはアップルパイを供えてもらいたい。
子孫がいないので、供えてくれる人がいないのが玉に瑕ですが。
と、ここで、私ひらめきます。ピラメキーノです。
解脱って、もしかして、幸せとは違うのでは? ということです。
涅槃であって、ご飯ではありません。
心が安らいだ状態であって、それが幸せとは限らないのではないか? ということです。
煩悩が無く、動じず、感情が揺れ動かない⋯それって、何だかAIのようにも思えます。
もちろん、AIと人間は違いますよね。
じゃあ、人間って何? って話になるわけです。
皆さんは、人間とは何だと思いますか?
私は、アップルパイ⋯以下略。
人間とは何か? については、この記事が人気になったら書こうと思います。
なので、ハートマークよろしく、ブラック・ジャックによろしく、ジョー・ブラックをよろしく、です。
さて、ようやく話が佳境に入ってきました。
本当にここまで読んでいただき、感謝しかありません。
ここからが、本記事の本題になります。
真面目モードで書いていく所存。
まず、大前提として、幸せな気分になる方法は、人によって異なります。
また、幸せな状態というのも、人によって異なるわけです。
幸せというものは、時代によっても変化すると、私は考えています。
ですので、あくまでこれから述べることは、現時点での、私が考える幸せとは何か? です。
その上で、やはり私たちは、「幸せにならなければならない」と考えています。
それでは、幸せってなんだと思いますか?
私は、「幸せとは、選択できること」ではないかと考えています。
心地よい気分を味わうことを選択できること、生きていくのに困らない状態を選択できること、愚行を選択できること、解脱を目指すことを選択できること⋯などなど。
何か特別なことではなく、選択できることこそが、幸せなのではないでしょうか。
逆に言えば、不幸な状態というのは、選択できないことと言えます。
辛いことがあったとき、悲しいことがあったとき、苦しさに悶え、悲しみに浸り、悲劇のヒロインを気取ることも可能です。
もちろん、苦しみや悲しみを受け止め、それを乗り越える選択をすることもできます。
でも、苦しみしか選択ができなければどうでしょうか?
たとえば、A:拷問、B:拷問と、どちらも拷問しかない時。
死ぬまでずっと拷問され続けることがわかっていたら、幸せと言えるでしょうか。
それは不幸なのだと思います。
拷問じゃなかったとしても、選択肢がない状態って、とても窮屈で、精神的に追い詰められてしまうのではないでしょうか。
これが、私が今考えている幸せです。
この文章を読むのも、読まないのも、ハートを押すのも押さないのも、選択できます。
当然ですが、ここまで読んでしまったあなたは、もうハートを押す以外の選択肢はありません。
強制です!
って、言われたら、何か嫌な感じがしますよね。
押すも押さぬも自由。
それを選ぶことができるのが、幸せなのではないでしょうか。
だからこそ、「私たちは幸せにならないといけない」ということです。
様々ある選択肢から、自分で選択をして、自分の人生を生きる。
自分の人生を、自分でコントロールすると言ってもよいかもしれません。
それが、幸せなのではないでしょうか。
※イメージ画像はチャッピーじゃなかった、ChatGPTに作ってもらいました。
※このエッセイはフィクションです。実在の人物とは一切関係が無いと思ってください。関係があったとしても、それは、偶然の一致であり、あくまで事実を参考に、思い浮かんだことを、筆の赴くままに書き綴っただけであることを、ここに宣言しておきます。
追記
このnoteを元に、Sunoで歌を作ってみました。
良かったら聴いてください😇