【創作大賞エッセイ部門応募】私はもう一度、ワタシの人生の主役になる。いや、ならなければいけない。
「見て見ぬふり」という孤独がある。
私が夫に対して、どうしても、どうしても許せないこと。それは、私が一番苦しかった時に、彼が私から完全に目を逸らし、「知らないふり」を突き通したことだ。
ワタシは一人っ子で、特に母と祖母に溺愛されて育ち、期待に応えようと県立高校・県立大学を卒業し、小学生から演劇を続け就職に失敗し、25才で両家の猛プッシュで大学から付き合っていた大手企業に就職した夫と結婚した。
夫は転勤族だった。結婚して初めて地元熊本を出て、大阪・岡山・川崎・タイ・長野と2〜3年間隔で転々と暮らし、39歳やっと地元熊本に帰ってこられた。夫との転勤生活の中三人の子どもを授かった。三人共里帰り出産で、母と祖母の近くで産んだ。タイに夫が転勤した時は約一年離れて暮らしていたりした。夫は優しいが典型的な九州男児野郎で、子育てや家事をあまり手伝わない転勤先で助け合えないタイプだ。
『仕事だから仕方ない。』
知らない土地への転勤、慣れない環境、孤立無援の子育て。心身ともに追い詰められ、限界だった約10年間、私の苦しみは間違いなく顔に出ていた。隠そうとしても溢れ出していたはずだ。一番近くにいるパートナーなら、気づかないはずがない。
けれど、彼は何もしなかった。声をかけることも、寄り添うこともせず、ただ「仕事」を免罪符に、自分の平穏を守るためだけに私の横を通り過ぎていった。その無関心さと冷たさと卑怯さが、私にはどんな裏切りよりも許せなかった。
忘れられない朝がある。長女が一歳半で、二人目を妊娠して7ヶ月の頃だった。タイへの転勤前に川崎で暮らしていた。
ある日長女が突発性発疹にかかり、高熱が続いて一週間、夜も昼もなく泣き続けた。夜もまともに眠れないまま、ワンオペ育児で心も体もボロボロになっていた看病三日目の朝、仕事に行こうとする夫の背中に、私は涙ながらに訴えた。
「もう、限界なの。お願い、助けて……」
けれど、返ってきたのは血の通わない言葉だった。
「仕事だから、仕方ないだろ」
彼はそう言い捨てて、玄関のドアを閉めた。泣き叫ぶ娘と、悲鳴を上げる私を、狭い部屋に置き去りにして。あの朝のドアの閉まる音と、絶望の中で立ち尽くした自分の姿を、私は一生忘れることができない。
夫の川崎転勤が決まった時、タイ赴任前のわずか三ヶ月間だけなので、「もう地元熊本に戻らせてほしい」と願った私に、夫の両親から届いたのは「ついて行った方がいい」という、私の状況を一切顧みない残酷な「正論」だった。普段は実家に連絡もしない夫が、その時だけ親を頼って味方につけたのだ。
結局、私は身重の体で川崎へ向かった。しかし、そうまでして守ったはずの「家族一緒」の生活の中で、夫は飲み会や出張でほとんど家にいなかった。
何のために私はここにいるのか。空っぽの部屋で泣き続ける娘を抱えながら、私の中で何かが決定的に壊れた。「もう、この人とは歩んでいけない」。あの三ヶ月は、私にとっての「家族の通夜」だった。
その後、熊本で里帰り出産して約一年母と祖母の近くで落ち着いた子育てができたと思えば、三歳と一歳の子供を連れてタイへ渡った。夫が熊本まで迎えにきてくれたが、最初のたった一週間を過ぎれば、彼はまた私と幼い子供二人をマンションに取り残して会社へと消えた。日本人マンションのママさん達にたくさん助けてもらいながら、私は必死に異国の地で子ども達を守った。
約ニ年で日本に戻り、医療的ケアが必要な三男が産まれ、長野で過ごした五年間。そこでも、彼は「父親」にはなってくれなかった。子供たちは、自分たちを見ない父親、母を助けない父親の姿を冷ややかに見つめていた。子供たちが父親を好きにならなかったのは、彼が子ども達の中に自分の居場所を作ろうとしなかった結果の、自業自得だ。
外に出れば、彼は「いいお父さん」を演じ、私は隣で微笑む。「仲が良くてお似合いですね」と言われるたびに、私の心は冷たく凍りつく。
この10年間、私はどんどん「不細工」になっていたと思う。ストレスで体型が変わり、生気を失い、鏡を見る余裕もなかった。ただ「生き延びる」ためだけの、死んだ魚のような顔をしていた。
けれど、長野から岡山に夫へまた転勤の話が来て、私は夫に強く訴えて子ども達を連れて地元の熊本に帰ってきた。クマモトに帰ってきて、私はようやく「ワタシ」を取り戻しつつある。
最近、私は娘と一緒に、改めてメイクや美容の練習を始めた。「少しでも綺麗になりたい」と肌を整えるだけで、鏡の中の自分はこれまでと全く違う。私は、わたしとして、ワタシらしく年を重ねて美しく生きていきたい。
夫が家族を生活に困らせないよう、必死に働いてくれたことには感謝している。それは当たり前のことではない。けれど、その対価として彼が私から奪った自尊心や生気は、お金で測れるものではない。
私は今、この約10年であきらめ、捨ててしまった自分の欠片を、ひとつずつ拾い集めている。
マクドナルドの仕事で社会と繋がり、Webライターという新しい挑戦に足を踏み入れた。自分の力でお金を稼ぎ、自分の足で立ち上がりたい。医療的ケアが必要な次男に最善の環境を整え、長女と長男の背中を力強く押してあげられる母でありたい。3人の子ども達をもっと目一杯、溺愛し、抱きしめ、言葉にして愛を伝えたい。
夫に対して許せない想いは消えない。けれど、その時々の節目で、耐えることを「選択」してきたのは他ならぬ私自身だ。誰かのせいにしている間は、人生を変えることはできない。文句を言うエネルギーがあるなら、それを自分を磨き、整えるためのエネルギーに変えていく。
今日、私はこの10年間の鬱々とした想いを、一心不乱に「言語化」した。
溢れ出る想いを書き出す手が追いつかなくて、声を大にして言葉を紡ぎ、文章へと昇華させた。その瞬間、自分でも驚くほど、胸の奥のモヤモヤとした霧が晴れていくのが分かった。
「オモイをコトバにしたい」
それは、かつて私が演劇を好きになり、脚本を書いていた頃の、原点の衝動だった。忘れていたワタシが、心の奥底でずっと叫んでいたのだ。
文章を書き終えて顔を上げたとき、まるで一本の壮絶な映画を観終えたかのような、圧倒的な爽快感が私を包んだ。映画館から外に出た瞬間の、「まぶしい。スッキリした。景色がいつもと違って見える」という、あの感覚。
抑圧されていた感情を言葉として外に放出したことで、私の心は浄化された。自分の本音と、紡ぎ出した言葉が100%一致したとき、脳が「やっと分かってくれた!」と歓喜している。自分の内面を深く掘り下げたことで、感受性が一気にブーストされ、見慣れた景色が鮮やかに輝いて見える。
私は今、自分の感情をコントロール下に置き、それを「表現」に変えることができた、一人のクリエイターの目をしている。
私はワタシを諦めてはいけない。私の人生、こんなもんだなんて思っちゃいけない。
私は、もう一度ワタシの人生の主役にならなければいけない。
この壮絶な10年を支えてくれた母へ、心からの感謝を。
そして、不器用な言い訳ばかりを繰り返す夫へ。あなたが傷つけた私と子どもたちの10年の重みを、せめてこれからの仕事の成果で、稼ぐお金で、文句言わずに示しなさい。私は私の力で、この人生を美しく再生させてみせるから。
