
小説:月の見えない夜に
塾をさぼって葵とふたりでしのびこんだ中学校のプールは、むんと湿った塩素の匂い。
月の見えない夜。昼間より気温は低い。それでも蒸す空気は澱んでいて肌にしつこくまとわりつく。
フェンスを乗り越えた葵の血色の薄いしなやかでまっすぐな足が、ショートパンツから伸びている。すでに裸足になっている葵を真似てサンダルを脱ぐと、プールサイドのコンクリートは案外乾いてザラついていた。
「見て、ミオ。虫えっぐ」
葵の視線の先に目をやると更衣室近くにある灯りに羽虫がたかって白い霧を作っていた。
「きっも」
顔を見合わせると、どちらともなくくすくすと笑いがこみあげて、徐々にお腹を抱えて笑い、しだいにふたりそろってプールサイドに寝転んだ。笑った余韻が心地よく引いていくと、あたりはしんと静まって、遠くの幹線道路を走る車の走行音だけが地鳴りなように響いた。ときおり吹くかすかな風が頬を撫でる。見上げた空は濃い灰色と群青を手でぼやかしたみたいな重さ。
「笑ったら汗かいた。頭あっつ」
葵が四つ這いになって、水の張ったプールに近づいていく。少し覗き込んでから、ギリギリまで寄って仰向けに寝転び、頭だけをプールに浸した。
「気持ちぃ」
ひゃはーと息をもらした葵の声に私も額の汗を拭いながら四つ這いで近づく。水は授業で使ったままなのか、底までしっかり透明で、枯れ葉ひとつ浮いていない。ちらりとこちらを見る葵は四肢を脱力させている。
「冷たくて気持ちいいよ。ミオもやってみ」
私は葵の隣に寝転び、恐る恐る頭をプールの水につける。思っていたより冷たくて、思わず「ひっ」と声が出た。それでもゆっくり浸していくと、頭と水の境界がぬるくなり、しだいに冷たくなっていく。葵のボブと違って長い私の髪が水に引っ張られるように揺蕩うのがわかる。体にためこまれた熱が血流にのって冷やされ、ふーっと吐いた呼気にのって体外に排出されてゆく。
「気持ちいい。けど、この体勢、腹筋きつ」
「それな」
葵がくつくつと笑いながら体を起こした。ざばりと水の音がして、濡れた髪を気にすることなく、黒い毛先から首筋を伝い流れ落ちる雫が葵のTシャツの色を変えていく。
「ミオ、もうちょい、上いける?」
「上?」
葵が私を見下ろしている。ポタポタと落ちる水が私の腹部を小さく叩く。
私はイモムシのようにモゾモゾと身じろぎほんの少しだけ体をプール側に移動させた。
葵が無言のまま私の肩に両手を当てて、そのまま体重をかけてきた。
トプンッと顔が水中に沈む。反射的に息をとめた。水に入った勢いで、細い長い黒髪が顔の前に揺れる。ゴポゴポとくぐもった音が耳をおおった。
水面は、ゆらめく淡い銀色で、液化した金属のよう。それを透過した先に、モザイクをかけたような葵の顔が、羽虫だらけの灯りに照らされている。
体中の酸素が。耳元で弾ける泡の音が。水中でも感じる葵の手の温度が。葵に死なせてもらえるかもしれないという甘やかな期待が。冷やされているのに熱を帯びていく体が。うずまいて考えられなくなって困って苦しくてそれでも悦んでいる体が。
突然葵は手を離し、私はざばりと体を起こした。その拍子に大きくむせる。
「ごめんごめん。苦しかった?」
ふざけたように聞く葵の、ぜんぜんふざけていない瞳の奥に私とまったく同じ痛みを見つけて、酸素を欲して激しく拍動する心臓がねじ切れそうになる。
「今も……苦しい」
息絶え絶えに答える私を見て、葵は一瞬はっと目を見開いてから、柔らかく細めた。私の髪から滴る水がプールサイドに広がっていく。
あいかわらず、月は見えない。
【了】
noteの私設コンテストには参加しない方針でいるのですが、おもしろそうなので書いてしまいました!投稿はしますが、応募はしません。運営側ではありませんが、エキジビション的な扱いでよろしくお願いします。応募しなくても投稿して良い、という大変なわがままを許してくださったコッシーさん、ありがとうございます✨企画がたくさん盛り上がりますように!!(使ったお題は「月」と「プール」です🌝)