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【小説】ひび割れパレット

    いつ公開バラバラな六人だけの美術部。衝突や嫉妬、才能への劣等感を抱えながら共同制作とコンクールに挑み、それぞれの「描きたいもの」を見つけていく青春群像劇。

    約1万8500字/読了目安40分

    第一章「六人だけの美術部」

    (ましろ)

    放課後の美術部室には、いつもピリッとした空気が流れている。

    窓外から差し込む春の西日は、埃の舞う室内を容赦なくオレンジ色に染め上げていた。3年生の先輩たちが引退し、新入部員が一人も入らなかったせいで、2年生だけのたった6人の空間。広すぎる部室は、どこか空っぽだった。

    カリカリ、カリカリ。

    部屋の中央で、栞ちゃんがイーゼルに向かって激しく鉛筆を走らせている。彼女の描くデッサンは正確で、迷いがない。張り詰めた空気をまとった彼女の背中は、周囲の雑音を一切拒絶しているようだった。

    その少し奥、一番壁際の席では、奏ちゃんが静かに筆を動かしている。彼女から聞こえる音は、パレットの上で絵の具を練る、かすかな擦過音だけ。無音に近いその佇まいは、まるでこの部屋に自分しかいないと信じ込んでいるかのようだった。

    そのさらに奥。窓際の机だけが、今日もぽっかりと空いている。

    環ちゃんの席だ。

    彼女は気が向いた時しか部室に来ない。来たとしても、誰かと深く話すわけでもなく、ふらりと現れて、ふらりと帰っていく。だから、その机が空いている光景にも、もう慣れてしまっていた。

    漏れ聞こえる音と、存在しない誰かの気配。そのすべてが、同じ空間にいる私をどこまでも縮こまらせる。部屋の隅にある私の席で、私は手元の小さなキャンバスに描かれた、歪んだリンゴの静物画を見つめていた。何度も描き直したせいで画面は濁り、輪郭線はどんどん太くなっていく。

    上手く描けない。どう筆を動かせばいいのか頭では分かっているつもりなのに、指先が思うように動いてくれなかった。

    そんな私の耳に、窓際からのんびりとした声が届く。

    「あ、莉乃、それ『ゴリラ』? 画力高すぎて逆に怖いんだけど」

    ひなちゃんがくすくすと笑いながら、莉乃ちゃんの手元のスケッチブックを指差していた。

    ひなちゃんと莉乃ちゃんは、クラスが同じというわけでもないし、放課後に一緒にどこかへ遊びに行くほどの仲でもないけれど、二人はたぶん似ている。絵が上手くなりたいというより、ここで気楽に過ごしたい人たちなのだと思う。

    「違うし、ラッコだし」

    莉乃ちゃんがめんどくさそうに、でもどこか楽しそうに口を尖らせる。「っていうかさ、今日もこの部屋、西日当たりすぎじゃない? 冷房入るのっていつからだっけ」

    「6月じゃない? まだまだ先だよー。ほら、莉乃の番」

    「えー、めんどくさいな……。じゃあ、これ。はい」

    莉乃ちゃんはひなちゃんのスケッチブックの端に、お世辞にも上手とは言えない、でも絶妙に特徴を捉えた落書きを滑らせる。ひなちゃんはそれを見てまた小さく笑った。二人がやっているのは、ただの「絵しりとり」だ。

    ガタッ、と激しい音が部室に響いた。

    栞ちゃんがキャンバスを削るように強く鉛筆を置き、椅子を半回転させて窓際を睨みつける。彼女の鋭い視線が、ひなちゃんと莉乃ちゃんの間に突き刺さった。

    「……あのさ。お喋りしながら描くの、やめてくれない? 線の位置が狂うんだけど」

    部室の空気が一瞬で凍りつく。ひなちゃんはスケッチブックを抱え直しながら、困ったように眉を下げた。

    「えー……。ちょっと喋ってるだけじゃん。栞ちゃん、いっつもカリカリしすぎだよ。もっと気楽に描けばいいのに」

    「気楽に描いて上手くなるなら苦労しないでしょ。ひなはちゃんと描けば描けるんだから、もっと真面目にやりなよ」

    栞ちゃんの言葉には、焦りと苛立ちが混ざっている。彼女の視線は、ひなちゃんを通り越して、手元に筆すら持っていない莉乃ちゃんへと向いた。「……あと、莉乃。アンタ、今学期になってから一回でもまともにキャンバスに向かった? 部活をスマホ触るための暇つぶしスポットか何かと勘違いしてない?」

    莉乃ちゃんは視線をスマホに落としたまま、トーンの低い声で淡々と言い返した。

    「……別に、誰の邪魔もしてないじゃん。部活には毎回来てるし」

    「チッ……。やる気ないなら、最初から美術部なんて来なきゃいいのに」

    栞ちゃんは吐き捨てるように言うと、乱暴に椅子を戻し、再びスケッチに向き直った。背中越しでも、彼女が怒りで肩を震わせているのが分かる。ひなちゃんと莉乃ちゃんはそれ以上何も言い返さず、ただ気まずそうに視線を交わし、絵しりとりを止めてそれぞれのスマホを見つめ始めた。

    部室を支配する、重苦しい沈黙。

    私はその板挟みのような位置で、心臓をバクバクさせながら固まっていた。どうにかして、この最悪な空気を和らげなきゃいけない。そう思って、私は震える声で栞ちゃんの背中に呼びかけた。

    「あ、あの……栞ちゃん」

    「……何?」

    振り返った栞ちゃんの顔はまだ険しかったけれど、私と目が合うと、少しだけ表情が和らいだ。栞ちゃんは、不真面目な二人には厳しいけれど、下手なりに必死にやっている私には、いつも牙を剥かない。

    「その、ここの、モチーフの影の付け方なんだけど……。どうやっても、ただの真っ黒になっちゃって。どうしたら、栞ちゃんみたいに立体感が出る、かな……?」

    栞ちゃんは小さく息を吐き、私のキャンバスに目を落とした。

    「……ましろは、ちょっと筆圧が強すぎるんだと思う。影を塗るんじゃなくて、光が当たっていない場所を探す感じ。もっと遠くからモチーフを見て、光の方向を意識してみて。ましろは真面目なんだから、もっと自信持ちなよ」

    「う、うん。ありがとう……やってみる」

    私は努めて明るく返事をして、再び自分の絵に向き直った。

    景色を線で切り取る技術。光を色に変えるセンス。ここにはそれを持つ人がたくさんいる。

    目指す場所があって焦っている栞ちゃん。上手いのに、誰とも交わろうとしない奏ちゃん。上手いのに、お喋りをして楽しめればいいと思っているひなちゃん。最初から描く気なんてなく、ただ居場所に居座る莉乃ちゃん。そして、今日も来なかった環ちゃん。

    みんな、バラバラだ。

    真面目にやっているから何だというのだろう。自信を持てと言われても、肝心の技術が追いつかない。私の手から生み出されるのは、やっぱりただの濁った黒い塊だった。一番下手くそで、ただ真面目なことしか取り柄のない自分が、一番この場所にふさわしくない気がしてならなかった。

    キーン、コーン、カーン、コーン……。

    部活の終了を告げるチャイムが、重苦しい部屋の空気を切り裂くように響き渡った。

    「おつかれー」

    ひなちゃんと莉乃ちゃんが、それぞれのタイミングでササッと荷物をまとめて部屋を出ていく。栞ちゃんは悔しそうに自分の絵を睨みつけたあと、道具を乱暴に片付け始めた。奏ちゃんは、淡々とした動作でリュックに道具を詰め込んでいる。

    私は、最後まで自分の描いた歪んだリンゴの絵を見つめていた。

    来週からは、顧問の提案で、文化祭に向けた『共同制作』が始まるらしい。3人ずつのグループに分かれて、1つの大きな絵を描くのだという。

    今のこのバラバラな私たちが、一緒に絵を描くなんて、本当にできるのだろうか。

    窓の外に夕闇が広がるのを見つめながら、私は押し潰されそうなほどの不安を、そっと胸の奥に閉じ込めた。


    第二章「共同制作」


    (ましろ)

    「――以上のメンバーで、2グループに分かれてもらう」

    夏の気配が混じり始めたある日の放課後、顧問の淡々とした声が部室に響いた。黒板にチョークで書きつけられた名前の羅列を、私はただ呆然と見つめる。

    【A班】栞、ひな、莉乃

    【B班】奏、環、ましろ

    「じゃあ、さっそくそれぞれのグループで机を合わせて、テーマ決めを始めるように。わかっていると思うけど共同制作は秋の文化祭に向けて取り組むと同時に、冬のコンクールに向けた個人の制作も同時並行で進めてね。環にも後で伝えること。それじゃあ今から職員会議があるから、何かわからなかったら聞きに来てね」

    顧問はそれだけ言い残すと、早々に部室を出ていってしまった。

    その瞬間、部室の空気が目に見えて二つに割れた。

    「……はあ」

    まず聞こえたのは、莉乃ちゃんのあからさまな溜め息だった。ひなちゃんは困ったように眉を下げ、苦笑いを浮かべている。そして栞ちゃんは、黒板に書かれた莉乃ちゃんの名前を、穴が空くほど鋭い視線で睨みつけていた。

    一方、私のいるB班は――。

    「(嘘、でしょ……)」

    私は喉の奥で小さく悲鳴を上げた。奏ちゃんと、今日もまだ来ていない環ちゃん。部内最強の二人に挟まれてしまった。

    奏ちゃんは黒板を一瞥したあと、感情の消えた目で手元のスケッチブックを開き、淡々と鉛筆を走らせ始めた。まるで、グループ分けなど最初から存在しないかのように。

    「じゃあ、席集めよっか」

    ひなちゃんの頼りない声を合図に、私たちはぎこちなくイーゼルや椅子を動かした。

    部屋の右側では、A班の三人が机を挟んで向かい合う。

    部屋の左側では、私と奏ちゃんが、ぽっかりと空いた環ちゃんの席を挟んで斜めに向かい合う。

    この時、2つの班の間に生まれた温度差は、異常としか言いようがなかった。

    「――だから! コンクールも兼ねてるんだから、テーマはちゃんとメッセージ性があるものにしたいって言ってるの。ねえ、聞いてる? 莉乃」

    右側から、栞ちゃんの刺々しい声が飛ぶ。打ち合わせが始まって数分、A班は早くも火花を散らせていた。

    「聞いてるって。青空とかでいいじゃん。描きやすそうだし、グラデーション綺麗にすればそれっぽくなるでしょ」

    莉乃ちゃんはスマホの画面を見たまま、気だるそうに返す。その態度が、栞ちゃんの地雷を正確に踏み抜いた。

    「はあ? 青空? そんなありきたりなもので賞が狙えるわけないでしょ。共同制作の意味分かってる? ひなはどう思ってるわけ!?」

    「え、あ、うーん……」

    矛先を向けられたひなちゃんが、おろおろと視線を泳がせる。「私は莉乃の言う通り、みんながパッと見て『綺麗だな』って思えるモチーフがいいと思うな。お花畑とか、花火とか。栞ちゃんみたいに、あんまり難しい意味とか込めなくても……」

    「それじゃただの『お飾り』だよ!」

    栞ちゃんが机を強く叩いた。ガタッとペン立てが揺れる。

    「せっかく大きなキャンバスが使えるのに、そんな中身のない絵を描くために居残りなんてしたくないんだけど。二人とも、もっと真面目に考えてよ!」

    激しく言葉がぶつかり合い、今にも爆発しそうなA班。

    対する我がB班は――絶望的なまでの「無音」だった。

    「あの、ええと……」

    私は、喉をきゅっと締め付けられるような静けさに耐えかねて、震える声を絞り出した。

    「奏ちゃん、私たちの班、どうしよっか……?」

    奏ちゃんはピタリと鉛筆を止めた。配置のバランスを確認するように画面を睨んだまま、低く平坦な声で呟いた。

    「……なんでもいい。合わせるから」

    「な、なんでもいい、って言われても……。あ、じゃ、じゃあ、奏ちゃんが普段描いてるみたいな、果物とか、静物画っぽい感じにする……?」

    「共同制作で静物画は、見栄えがしないと思う」

    「う、うわあ、そうだよね! ごめん! ……えっと、じゃあ、風景とか……? ほら、学校の裏山とか綺麗だし……!」

    「……ましろの、描きやすいものでいいよ」

    「あ、う……うん」

    会話が、続かない。

    奏ちゃんは決して怒っているわけではないのだと思う。ただ、本当に周囲に興味がないのだ。私に合わせると言ってくれているけれど、私の拙い画力で提案したモチーフに決まれば、作品全体のクオリティが下がるのは目に見えている。

    (ひえぇ……! 誰か、誰か助けて……!)

    右側からは「やる気ないなら帰れば!?」「そんなに怒んなくてもいいじゃん!」と激しい言い合いが聞こえてくる。それが羨ましく思えるほど、こちらの沈黙は重かった。耳の奥が痛くなるような静けさの中で、私は冷や汗を流しながら、ただ時間が過ぎるのを待つしかなかった。

    すると、ガラガラと部室の引き戸が、遠慮のない音を立てて開いた。

    「うっわ。何この空気。修羅場?」

    肩にスクールバッグを引っ掛けた環ちゃんが、気だるげに髪をかき上げながら入ってきた。

    「あ、環ちゃん! 来てくれたんだね……!」

    私は救世主を見つけたような気持ちで、椅子から立ち上がった。

    「あのね、今、来期のコンクールに向けた共同制作のグループ分けをしてて、環ちゃんは私と奏ちゃんと同じ班で……」

    環ちゃんは、歩みを止めないまま、黒板の名簿を面倒くさそうに一瞥した。

    「ふーん……。めんどくさ」

    その一言に、右側で激しい口論を繰り広げていた栞ちゃんの手が、ピタリと止まった。栞ちゃんの鋭い視線が環ちゃんに突き刺さる。しかし、環ちゃんはそんな視線などどこ吹く風で、自分の空っぽの席にバッグをドサリと置いた。

    「えっ、あ、でも、大きなキャンバスに3人で描くんだよ? 何を描くか決まれば、きっと楽しい、かも……」

    私が必死に間を繋ごうと紡いだ言葉を、環ちゃんは感情の削げ落ちた、退屈そうな声で切り捨てた。

    「……別に、やらなくてもよくない? 賞とか興味ないし。出したい人だけでやればいいじゃん」

    「え……」

    私の口から、間の抜けた声が漏れた。

    さっきまで怒鳴り散らしていた栞ちゃんも、それをなだめていたひなちゃんも、スマホを見ていた莉乃ちゃんも、全員が完全に言葉を失った。奏ちゃんだけが、相変わらず表情を変えずに手元を見つめている。

    喧嘩の熱すら一瞬で凍りつかせるような、圧倒的な拒絶。

    キーン、コーン、カーン、コーン……。

    ちょうどその時、下校時刻を告げるチャイムが鳴り響いた。

    西日が完全に沈み、薄暗くなった部室には、ただ環ちゃんの冷めた足音とチャイムの音だけが、虚しく響いていた。


    第三章「ちゃんとやってよ」

    (栞)

    どうして私ばかりが、こんなに必死にならなければいけないんだろう。

    「じゃあ、この部分の背景はひなに任せるから。ちゃんとグラデーションの境界、馴染ませてよね」

    「はーい、分かってるよー」

    言葉とは裏腹に、ひなの筆の動きはどこまでも軽い。楽しそうに鼻歌混じりでキャンバスに向かう彼女を見ていると、胸の奥がチリチリと焼けるように熱くなる。

    共同制作が始まってから、私は毎日、胃が痛むような焦燥感と戦っていた。

    美大に行きたい。プロになりたい。そのためには、高校のコンクールで少しでも実績を残しておかなければならない。それなのに、私の班の二人はどうだ。莉乃は相変わらずスマホばかり見ているし、ひなは「みんなで楽しく描ければいい」と、まるで絵画教室にでも来ているような感覚でいる。

    どうしてそんな中途半端な気持ちでここにいられるの? 描ける技術があるくせに、どうして上を目指そうとしないの? 莉乃みたいに、最初から描く気がないなら、お願いだから目の前から消えてほしい。

    でも、本当に怖いのは――。

    チラリと部屋の反対側に目を向ける。そこでは、奏が相変わらず静かに、でも圧倒的な密度を持った線をキャンバスに走らせていた。そして、今日もサボっている環の、あの圧倒的なセンス。

    私は、あの2人の才能が、心の底から恐ろしかった。

    私は天才じゃない。努力して、必死にしがみついて、ようやくこの位置にいる。もし、この共同制作でひなたちのせいで足を引っ張られ、あっちの班に無残に負けたら? 私の努力は、最初から無価値だったということになってしまう。

    「あ、栞ちゃん、そこ、ちょっと青が強すぎない? もうちょっと明るい色の方が――」

    「うるさいな!」

    ひなの何気ない一言に、私の糸が、ブツリと切れた。

    「な、何……? 急に怒鳴らなくてもいいじゃん」

    ひなが驚いたように筆を止める。その隣で、莉乃もようやくスマホをポケットにしまった。

    「ひなはさ、呑気でいいね。ただ楽しく、綺麗なお花畑が描ければ満足なんだもんね。でも私は人生懸けてんの。美大に行くために、このコンクールで結果を出さなきゃいけないの。お願いだから、その中途半端な姿勢で私の絵に口を出さないで」

    「……中途半端って、何?」

    ひなの目が、初めて冷たく据わった。「私は私なりに、この絵を良くしようと思って言ったんだよ。栞ちゃんはさ、いっつも自分の意見ばっかり押し付けて、私や莉乃のこと、最初から見下してるじゃん」

    「見下されるような態度取ってるのはそっちでしょ! 莉乃なんか、一回でも真面目に描いた!?」

    「私は楽しく描きたいだけなのに!」

    ひなが声を張り上げる。その瞳には、怒りと、悔しさが滲んでいた。「そんなにピリピリして、誰かを攻撃して、そうまでしなきゃ描けないなら、部活じゃなくて一人で家で描けばいいじゃん!」

    「だったら、最初からコンクールなんて出るなよ!!」

    私の叫び声が、部室の壁に跳ね返った。

    ひなは唇を噛み締め、持っていた筆をバケツに叩きつけるように入れた。

    「……もういい。今日、帰る」

    ひなはリュックをひったくるように持つと、莉乃の腕を引いて、そのまま部室を飛び出していった。バタン、と激しい音を立ててドアが閉まる。

    静まり返った部室で、私は自分の手が激しく震えていることに気づいた。

    キャンバスの上には、私たちがバラバラに塗った、まとまりのない色が広がっている。

    「……っ」

    涙がこぼれそうになるのを、私は奥歯を噛み締めて必死にこらえた。


    第四章「描きたいもの」

    (ましろ)

    夏の盛り。部室の空気は、熱気と気まずさで淀んでいた。

    隣のA班は、あの大喧嘩以来、最低限の事務連絡しか交わさなくなっていた。栞ちゃんは一人で、何かに取り憑かれたように大きなキャンバスに向かい、ひなちゃんと莉乃ちゃんは、別の意味で完全に心を閉ざしてしまっている。

    けれど、我がB班の空気も、決して良くはなかった。というより、相変わらず何もなかった。

    「あの、ええと……奏ちゃん、この真ん中の木の幹なんだけど、私が塗ってもいい、かな……?」

    「……うん。いいよ」

    奏ちゃんは、班を引っ張るようなことは一切しない。私の拙い提案に「いいよ」と繰り返すだけだ。環ちゃんは、グループ分けの日以来、一度も部室に姿を見せていなかった。

    私は2人の間で、なんとかこの共同制作を成立させようと、毎日必死に空回りを続けていた。私が頑張らなきゃ。私が声をかけなきゃ。

    でも、そんな私の浅薄な焦りは、ある日の放課後、あっけなく打ち砕かれることになる。

    その日、私は部室に忘れ物をして、夕方に一人で引き返した。

    鍵の開いていた部室のドアをそっと開けると、西日の中に、見慣れない背中があった。

    「あ……」

    環ちゃんだった。

    彼女は自分の席に座り、B班の大きなキャンバスの前にいた。手には、私が見たこともないほど太い鉛筆が握られている。

    環ちゃんは、私が来ていることにも気づかない様子で、キャンバスの余白に、恐ろしい速さで何かを走らせていた。

    息が、止まった。

    それは、ほんの数本の、殴り書きのような線の集まりだった。

    鳥が羽ばたく瞬間の、翼の動き。ただそれだけなのに、その線は生き物のように躍動し、キャンバスから飛び出してきそうなほどのエネルギーを放っていた。

    私が何時間も、何日間もかけて、デッサン狂いを気にしておずおずと引いていた線とは、根本的に何かが違っていた。圧倒的な、才能の塊。今まで「なんで部活に来ないんだろう」と不思議に思っていたけれど、違う。来る必要がないくらい、彼女は最初から遠い場所にいたんだ。

    「あ、ましろ」

    ふと手を止めた環ちゃんが、私に気づいて面倒くさそうに頭を掻いた。

    「見つかった。じゃ、帰るわ」

    「あ、待って、環ちゃん……!」

    彼女が立ち上がった拍子に、彼女のイーゼルの下に置かれていた、奏ちゃんのスケッチブックが目に入った。そこには、今回の共同制作のために奏ちゃんが描いたと思われる、大量のアイデアスケッチが残されていた。

    私は、それを見て二度目の衝撃を受ける。

    奏ちゃんの絵は、完璧だった。構図も、デッサンも、緻密に計算されている。だけど、見ていると胸が苦しくなるほど、どの絵も暗く、沈んでいた。まるで、何かに怯えながら、自分をすり減らして描いているかのような、悲痛なほどの「苦しさ」が、その画面から溢れ出していた。

    天才の環ちゃんと、苦しむ奏ちゃん。

    その2人の圧倒的な世界の真ん前に、私のあの、歪んだリンゴがある。

    「私……」

    私の口から、自分でも驚くほどはっきりとした声が出た。

    「私、もっとちゃんと描きたい。二人の足引っ張るの、もう嫌だ。……下手くそなりに、納得できる線を、引きたい」

    環ちゃんは、ドアに手をかけたまま、驚いたように目を見開いて私を振り返った。

    夕暮れの光の中で、彼女は少しだけ、本当に少しだけ、面白そうなものを見るような目で私を見つめていた。


    第五章「来なくてもいい部活」

    (莉乃)

    「莉乃って、本当にやる気ないよね」

    栞にそう言われるたびに、私は心の底から面倒くさいな、と思う。 別に否定するつもりもない。実際、私には美大に行きたいなんて強い目的意識はないし、放課後にスマホをいじるだけなら家やマックでもいいはずだ。

    でも、私は毎日ここに来ている。

    理由は自分でもよく分からない。ただ、ひなが持ってきてくれるお菓子を食べて、彼女が描くお世辞にも実用的とは言えない可愛い花畑の絵を眺めて、たまに意味のない絵しりとりをする。その、どこまでも生産性のない時間が、私にとってはひどく心地よかった。

    ひなは、私が適当に描いた落書きでも「莉乃、これ味があって最高!」とゲラゲラ笑ってくれる。 それに、たまにふらっと現れる環。あいつは私と同じ匂いがするくせに、いざ筆を持つと、私なんかには到底理解できないような、恐ろしいほど綺麗な線を引く。そういう「自分とは違う生き物」が、すぐ近くで息をしているのを感じるのが、実は嫌いじゃなかった。

    だから、栞に「やる気がないなら来なきゃいい」と言われたときは、少しだけ胸の奥がチクッとした。

    別に、みんなの邪魔をしたいわけじゃない。 ただ、私はこの、油絵の具の匂いが充満した生ぬるい部室の片隅に、自分の居場所を少しだけ分けてもらいたいだけだった。

    だから、共同制作で私が担当することになった背景の「空」だけは、スマホの画面を睨みつけながら、指先が絵の具で真っ青になるまで、何度も何度もグラデーションの境目をなじませた。

    「……別に、誰のためでもないんだけどね」

    誰もいない通学路で、私はスマホの画面を閉じ、カバンのキーホルダーを指先で弾いた。 明日もきっと、あの気まずい部室に行くのだろう。そう思うとため息が出るけれど、足取りがそれほど重くないことに、自分自身が一番呆れていた。

    (環)

    ぶっちゃけ、他人に興味がない。
    美術部に入ったのも、他にやりたい部活がなかったし、絵ならある程度、頭の中で完成したものをそのまま手から出力すれば、みんなが勝手に「すごい」と褒めてくれるからだ。

    だから、部活としてみんなで集まる意味なんて分からないし、コンクールで賞を取ることに何の意味があるのかも知らない。

    特に、あの栞っていうプロ志望のやつ。あいつの顔を見るのが、一番苦手だった。必死で、泥臭くて、こっちが普通に描いた絵を見ては「どうしてそんなに簡単に描けるの」と言いたげな、嫉妬と羨望が混ざった目を向けてくる。頑張ってる人を見るのは疲れる。私を責めているみたいで、息が詰まる。だから、部活には行かない。

    でも――。

    「あ、環、おはよー。っていうかもう放課後だけど」

    「おー。莉乃、それ何。新しいグミ?」

    「そう。食べる? 青いやつ、全然味しないからあげる」

    放課後の廊下、莉乃とのこの生産性のない雑談だけは、不思議と楽だった。

    莉乃は絵を描かない。ここをただの「暇つぶしスポット」だと言い切っている。だから、私に「真面目に描け」なんて絶対に言ってこない。ひなと莉乃が窓際でゆるく喋っている空気は、部室の油絵の具の匂いと混ざり合って、実はそんなに嫌いじゃなかった。「毎回来てくれたらずっと喋れるのに」と莉乃が口を尖らせるのを聞くのも、悪くない。莉乃がたまに私の落書きを見て、「え、環これ描いたの? めっちゃうまいじゃん!」って素真面目に驚くのも、なんだかんだ嬉しかったりする。

    だから、たまには部室に行ってやるか、と思って足を運んだあの日。

    ましろという、クラスも違う、春先までは名前もおぼつかなかったやつが、私に向かって真っ直ぐ言ったのだ。

    『もっとちゃんと描きたい』

    あいつの絵は、お世辞にも上手いとは言えない。線の引き方もおどおどしているし、形の捉え方も狂っている。栞みたいにプロを目指しているわけでもないらしい。

    なのに、あいつの目は、ものすごく真っ直ぐだった。

    下手くそな自分に絶望しながら、それでも「描くこと」から逃げないと言い切ったあいつの姿が、なぜか胸の奥に引っかかって消えない。

    「……はぁ」

    気がつくと、私はいつもなら家に帰っているはずの時間に、美術部室のある特別棟の階段を上っていた。

    自分でも、どうかしていると思う。他人の絵なんて、どうでもいいはずなのに。

    ガララ、とドアを開ける。

    案の定、ましろが一人で、泣きそうな顔をして大きなキャンバスに向き合っていた。

    「……よ。まだやってんの」

    「あ、環ちゃん……!」

    驚いて振り返るましろに、私はバッグを床に放り投げて、自分の指定席の椅子を引き寄せた。

    「なんか、テーマ決まったんでしょ。私の描く場所、残ってんの?」

    そう言うと、ましろの顔がパッと明るくなった。その顔を見たら、まぁ、莉乃の言う通りたまには真面目に部活をやるのも、悪くないかもしれないと思ったりした。


    第六章「好きだけじゃだめなのかな」

    (ましろ)

    文化祭の足音が、すぐそこまで迫っていた。

    夏休みが明け、部室の熱気は本番に向けて本格化していく。

    環ちゃんが部室に来てくれるようになった。それはものすごく嬉しい変化だったけれど、だからといって、私の絵が急に上手くなるわけではなかった。

    共同制作のキャンバスの、私が担当するエリア。森の奥の木漏れ日を描こうとしているのだけれど、どうしても色が濁ってしまい、汚い泥のようになってしまう。

    「ましろ、そこはもっと、補色を意識して。緑の上にそのまま茶色を重ねるから濁るの」

    通りかかった栞ちゃんが、見かねたようにアドバイスをくれる。

    「補色……? ええと、反対の色、だよね。じゃあ、赤を入れるの……?」

    「そうじゃなくて、パレットの上で混ぜるんじゃなくて、画面の上で点描みたいに――あぁ、もう、なんで分からないかな」

    栞ちゃんは焦れったそうに髪をかきむしり、自分の席に戻っていった。彼女自身も、自分の絵が思うように進まず、余裕がないのだ。

    分かりたいのに、分からない。技術がないから、アドバイスの言葉が頭を通り抜けていってしまう。

    以前、ひなちゃんに上手く描くコツを聞いた時のことを思い出す。

    『うーん、感覚だからわかんないや!』

    そう言って悪気なく笑ったひなちゃんの顔。彼女は感覚でそれができてしまう天才肌だから、教えてもらえなかったんじゃない、教えようがなかったんだ。みんなの言う「普通」や「感覚」が、私には高すぎる壁だった。

    「ましろちゃん、そんなに詰め詰めにならなくても良くない?」

    窓際から、ひなちゃんが柔らかい声をかけてくれた。栞ちゃんとはまだぎこちないままであるけれど、私にはいつも通り優しかった。

    「絵なんてさ、自分が『好き』なら、それで良くない? 楽しく描くのが一番だよ」

    好きなら、それでいい。

    その言葉は優しかったけれど、今の私には、少しも救いにならなかった。

    好きだから、上手くなりたいのだ。好きだから、2人の隣で胸を張れる絵を描きたいのだ。ただ楽しければいい、と割り切るには、私はもう、絵のことを好きになりすぎてしまっていた。

    「……う、ぐすっ」

    ポツリ、とキャンバスに涙が落ちた。

    一度溢れ出したら、もう止められなかった。上手くなれない悔しさと、誰の言葉も素直に受け取れない自分の小ささが情けなくて、私は筆を持ったまま、その場にしゃがみ込んで泣いてしまった。

    部室が、しんと静まり返る。

    ひなちゃんが慌てて駆け寄ろうとした、その時だった。

    「……その絵」

    ずっと奥の席にいた奏ちゃんが、ゆっくりと立ち上がり、私の横に立った。

    彼女は、涙で濡れた私のキャンバスを、じっと見つめていた。

    「ましろのその絵。……私、前より好き」

    「え……?」

    涙を拭いながら見上げると、奏ちゃんは少しだけ視線を彷徨わせたあと、不器用そうに口元を動かした。

    「前は、誰かの真似をしようとして、迷ってる線だった。でも、今の絵は……濁ってるけど、ちゃんとましろが『ここを描きたい』って思って、泥臭くあがいた跡が残ってる。上手いだけの死んだ絵より、ずっと……綺麗だと思う」

    奏ちゃんの言葉は、技術的なアドバイスではなかった。だけど、私がこれまで必死に筆を動かしてきた時間そのものを、肯定してくれる言葉だった。

    「奏ちゃん……」

    「……だから、泣かなくていい。そのまま、描き続けなよ」

    奏ちゃんはそう言うと、恥ずかしそうにすぐ自分の席に戻っていった。

    胸の奥のモヤモヤが、少しだけ晴れていくのが分かった。完璧じゃなくていい。私の、私だけの泥臭い絵を、最後まで描き切ろう。私はもう一度、しっかりと筆を握り直した。


    第七章「諦めたくない」

    (奏)

    「絵で食べていけるわけないでしょう。いい加減、現実を見なさい」

    家に帰れば、毎日同じ言葉が降ってくる。机の上に置いた美大のパンフレットは、翌朝にはゴミ箱に捨てられている。

    親の言うことは、きっと正しい。絵のプロになれる人間なんて、ほんの一握りだ。だから私は、半分諦めていた。傷つかないように、最初から「趣味ですから」という顔をして、誰とも関わらず、ただ淡々と筆を動かしていた。

    だから、同じプロ志望の栞が、眩しくて、同時に怖かった。

    彼女は実力では私より少し下かもしれない。それなのに「絶対に美大に行く」という強い意志をギラギラと滾らせていた。その熱量が、諦めかけている自分を責めているように感じて、以前、私は彼女に弱音を吐いてしまったことがある。

    『プロなんて、なれないかもしれないよね』って。

    あの時、栞は猛烈に怒った。

    『なれないかも、なんて言ってる人に、負けたくない!』って。

    今なら、彼女が怒った理由が、痛いほどよく分かる。

    彼女は、才能がある(と彼女が思っている)私が、そんな風に簡単に夢を手放そうとすることが、許せなかったのだ。必死にしがみついている彼女に対して、それは一番の侮辱だった。自分の不安を、私にぶつける形でしか保てないくらい、彼女もギリギリだったのに。

    「……はぁ」

    ましろの絵に「好き」だなんて言ったあと、私は自分のキャンバスに向き合っていた。

    ましろは下手だ。でも、彼女の絵には「生きたい」という執念があった。親に反対されているからと、自分で自分の限界を決めて、冷めたフリをしている私とは大違いだ。

    そして、隣の班の栞を見る。

    栞は、ひなたちとぶつかりながらも、自分の信じる「表現」のために、狂ったように筆を動かしている。

    みんな、あがいている。

    私だけが、安全な場所から一歩も動かずに、諦めたフリをして澄ましている。

    そんなの、ダサすぎる。

    「……栞」

    部活の終わり際、私は初めて、自分から栞に声をかけた。

    「何よ」

    栞はまだ警戒したような目で私を見る。私は深呼吸をして、ずっと胸の奥に閉じ込めていた言葉を、彼女の目を見て伝えた。

    「前は、変なこと言ってごめん。私……本当は、諦めたくない。親に何を言われても、絵を描き続けたい。だから……コンクール、絶対に負けないから」

    栞は一瞬、きょとんとしたように目を見開いた。

    それから、ふっと、これまで見たこともないような、不敵で、綺麗な笑みを浮かべた。

    「あったり前じゃない。あんたに負けたら、私の人生計画狂うんだから。覚悟しときなさいよ」

    胸の奥の澱みが、一気に消え去っていくような気がした。

    私はもう、逃げない。この6人の美術部で、私は私の絵を、最後まで描き切る。


    第八章「わたしたちの絵」

    (ましろ)

    秋。文化祭本番の朝。

    体育館の壁際に、完成した2つの巨大なキャンバスが並べられていた。

    数ヶ月前まで、バラバラで、言葉すら交わさなかった私たちが、泥をこねるようにして作り上げた、私たちの絵。

    「……すごいね」

    ひなちゃんが、ぽつりと呟いた。

    私たちは自然と、お互いの班の作品の前に集まり、じっとそれを見つめ合っていた。そこには、最初は嫌いだった、理解できなかった相手の「その人らしさ」が、嘘偽りなく刻み込まれていた。

    A班の絵は、爆発するような生命力に満ちていた。

    中心にあるのは、栞ちゃんの圧倒的な執念が込められた、精密で力強い大樹のデッサン。だけど、その周りを彩る葉や花々は、ひなちゃんの持つ、華やかで自由な色彩感覚が見事に表現されている。端正な大樹と奔放な色彩。真逆の2つの個性が、不思議な調和を生んでいた。そして、その背景に広がる空と大地の境界線には、莉乃ちゃんが絶対に妥協せずに選んだという、絶妙にニュアンスのあるグラデーションの色彩が、全体を一つに調和させていた。

    栞ちゃんは、莉乃ちゃんの色の前に立ち、静かに口を開いた。

    「……悔しいけど、この背景の色、私には絶対に出せない。莉乃、アンタ、やっぱりセンスあるよ」

    莉乃ちゃんは少し驚いたように目を見張ったあと、ふいっと顔を背けた。

    「……別に。ひなに言われたから、適当に塗っただけだし」

    でも、その耳が少しだけ赤くなっているのを、私は見逃さなかった。ひなちゃんは、栞ちゃんの描いた大樹を見つめながら、優しく微笑んでいた。

    「栞の執念、この木の幹からビシビシ伝わってくるよ。やっぱり、栞はすごいね」

    そして、私たちのB班の絵。

    奏ちゃんの圧倒的な技術で描かれた、深い深い夜の底のような背景。だけど、そこには環ちゃんが「ましろに引っ張られて」少しだけ本気で引いたという、鮮烈な光の線がいくつも走っていた。そしてその中心に、私が何度も何度も色を重ねて、濁って、それでも消さずに描き切った、小さな、だけど確かに暖かく光る「灯火」が描かれている。

    奏ちゃんが、私の肩にそっと手を置いた。

    「ましろの灯火があるから、私の暗闇が、ただの黒じゃなくなった。ありがとう」

    「う、うん……!」

    言葉にならなかった。

    私たちは、友達のように仲良く手を繋いで描いたわけじゃない。傷つけ合ったり、拒絶し合ったりしながら、絵の具を通じて、お互いの内側を覗き込み合っていたのだ。

    少しだけ、部室を流れる空気が変わった。

    私たちはまだ、ベタベタした親友にはなれないかもしれない。でも、お互いがここにいる理由を、その絵を通じて、確かに理解し合っていた。


    第九章「敵同士」

    文化祭が終わり、季節は一気に冬へと加速していく。

    部室のイベントは、いよいよ個人の力を試す「冬のコンクール」へと移り変わっていた。

    (栞)

    共同制作が終われば、今度は全員がライバル、完全な「敵同士」だ。

    特に、覚醒した奏や、相変わらず天才的な絵を描く環は、私にとって最大の壁だった。だけど、不思議と夏の頃のような、ドロドロとした焦燥感はなかった。

    「あー、そこ、もうちょっとハイライト入れた方がいいんじゃない?」

    「……環。アンタ、自分の絵が進んでないくせに、人の絵に口出さないでよ」

    「えー、だって栞の絵、真面目すぎてガチガチなんだもん。もっと遊べばいいのに」

    「うるさい!」

    言い合いは相変わらずだけど、言葉の裏にあるトゲは、いつの間にか丸くなっていた。

    (ましろ)

    部室の中は、コンクールに向けた熱気で満ち溢れていた。

    今度は全員が自分のキャンバスに向かっているけれど、以前のような「バラバラの孤立」ではなかった。

    「ましろ、この筆、使いやすいから貸してあげる。グラデーション綺麗にぼかせるよ」

    「ひなちゃん、ありがとう……! あ、栞ちゃん、ここの構図、これで大丈夫かな?」

    「うん。ましろ、前の共同制作の時より、思い切りが良くなったね。その調子」

    敵なのに、仲間。ライバルなのに、一番の理解者。

    お互いの技術を盗み合い、アドバイスを送り合い、道具を貸し借りする。

    カリカリ、という鉛筆の音も、絵の具を練る音も、窓際からの莉乃ちゃんとひなちゃんの笑い声も、すべてが心地よい一つのシンフォニーのように、冬の部室に響き渡っていた。

    「(楽しい……!)」

    絵を描くことが、こんなに熱くて、こんなに愛おしい時間になるなんて、春の頃の私は思いもしなかった。夕日に照らされた6人の背中を見つめながら、私はこれが、私たちの「青春」のピークなのだと、確信していた。


    第十章「個人制作の結果」

    (ましろ)

    冬の放課後。
    暖房の効ききらない部室には、いつもよりずっと静かな空気が流れていた。

    窓の外は、もう薄暗い。吐く息が少し白いくらいには冷え込んでいるのに、私は変に手のひらだけ汗ばんでいた。

    「……まだ?」

    ひなちゃんが、私の隣でそわそわとスマホを覗き込む。

    「あと5分くらいじゃない? コンクールの結果、今日の17時公開って書いてあったし」

    莉乃ちゃんは椅子の背にもたれながら、気だるそうに答える。でも、いつもみたいにスマホゲームをしているわけじゃない。画面には、コンクールの公式サイトが開かれたままだ。

    部室の中央には、自然と六人が集まっていた。

    栞ちゃんは腕を組んだまま、落ち着かないように床を何度も爪先で叩いている。奏ちゃんは静かにスマホを見つめていたけれど、膝の上で握られた指先だけが少し強張っていた。

    環ちゃんだけは、窓際の机に腰掛けながら、

    「なんで結果発表って17時ぴったりなんだろ。サプライズ感でも出したいのかな」

    なんて、いつも通り気の抜けたことを言っている。

    「環は緊張感なさすぎ!」

    栞ちゃんが鋭く睨む。

    「だって別に死ぬわけじゃないし」

    「そういう問題じゃないでしょ!」

    「はいはい」

    そんなやり取りに、少しだけ空気が緩む。

    でも、本当はみんな分かっていた。

    この数ヶ月、自分たちがどれだけ必死に描いてきたかを。

    共同制作が終わってからも、私たちはずっと描き続けていた。

    放課後の匂い。
    乾きかけた油絵の具。
    鉛筆の粉で黒くなった指。
    上手くいかなくて、何度も塗り潰したキャンバス。

    その全部の答えが、あと数分で出る。

    ピコン、と小さな電子音が鳴った。

    「あ」

    莉乃ちゃんが、スマホの画面を見たまま呟く。

    「……更新された」

    一瞬で、部室の空気が凍りついた。

    私たちは反射みたいに、莉乃ちゃんのスマホを覗き込む。

    コンクール公式サイト。
    ずらりと並ぶ受賞者一覧。

    スクロールする指が、やけに遅く感じた。

    「……あ」

    最初に声を漏らしたのは、ひなちゃんだった。

    『準特選  藤崎 奏』

    その文字が、白い画面の中にはっきりと表示されていた。

    一瞬、誰も言葉を失う。

    「え……」

    私の口から、震える声が漏れた。

    奏ちゃんが、受賞した。

    しかも、準特選。

    県内でもかなり上位の賞だ。

    「すご……」

    ひなちゃんが素直に目を丸くする。

    栞ちゃんは息を呑んだまま、画面を凝視していた。悔しさと、驚きと、納得と――色んな感情が、一気に押し寄せている顔だった。

    当の奏ちゃん本人だけが、静かだった。

    ただ、画面を見つめたまま、小さく息を吐く。

    「……そっか」

    その声は、嬉しいというより、どこか呆然としていた。

    「待って、まだある!」

    莉乃ちゃんがさらにスクロールする。

    『入選  朝倉 栞』

    「あっ……!」

    今度は私が叫んだ。

    栞ちゃんの名前。

    ちゃんと、そこにあった。

    栞ちゃんは数秒、完全に固まっていた。

    それから、ぎゅっと拳を握りしめる。

    「……っ、しゃ……!」

    小さく漏れた声。

    次の瞬間、栞ちゃんは勢いよく顔を上げた。

    「っっしゃあああああ!!」

    部室中に響くくらい大きな声だった。

    「ちょ、栞うるさ!」

    「うるさくなるでしょこれは!!」

    目尻に涙を浮かべながら、栞ちゃんは笑っていた。

    ああ、この人、本当にこのためにずっと頑張ってきたんだ。

    胸が熱くなる。

    「まだあるよ」

    環ちゃんが、後ろからひょいとスマホを覗き込む。

    『佳作  一ノ瀬 環』

    「あ、環ちゃんも!」

    「へー」

    環ちゃんは、拍子抜けみたいな顔をした。

    「佳作ってどのくらいなん?」

    「普通にすごいから!」

    栞ちゃんが即ツッコミを入れる。

    「環、それで『へー』で済ませるの腹立つ!」

    「いやでも、佳作じゃん」

    「アンタねぇ……!」

    でも、その声にはもう、昔みたいな刺々しさはなかった。

    ひなちゃんが笑いながら言う。

    「なんか環っぽいね」

    「でしょ」

    環ちゃんは肩をすくめる。

    その横顔を見ながら、私はそっと画面を見下ろした。

    スクロールは、もう終わっている。

    そこに、私の名前はなかった。

    ひなちゃんも、莉乃ちゃんも。

    受賞者一覧には載っていない。

    胸の奥が、じわっと熱くなる。

    悔しい。

    すごく、悔しい。

    みんなの隣に並びたかった。
    少しでも、届きたかった。

    でも――。

    「ましろ」

    顔を上げると、奏ちゃんが静かにこっちを見ていた。

    「……今回、私、ましろの絵にかなり刺激もらった」

    「え」

    「私一人だったら、たぶん前みたいな、冷たい絵描いてたから」

    その言葉に、胸がぎゅっと締め付けられる。

    すると、栞ちゃんも少し照れくさそうに視線を逸らしながら言った。

    「ましろ、前より全然良くなったよ。……マジで。悔しいくらい」

    「うんうん! なんか最近、絵に勢いある!」

    ひなちゃんまでうなずく。

    「あと、前よりちゃんと自分の絵って感じする」

    莉乃ちゃんも珍しく真面目な顔でそう言った。

    私は、思わず笑ってしまった。

    悔しいのに。

    落選したのに。

    なんでこんなに、あったかいんだろう。

    部室の空気が、少しだけ緩む。

    窓の外は、もうすっかり夜だった。

    「……でも」

    ぽつりと、栞ちゃんが呟いた。

    その声に、みんなが自然と彼女を見る。

    栞ちゃんは、自分の手のひらをじっと見つめながら、ゆっくり息を吐いた。

    「奏に負けたの、めちゃくちゃ悔しい」

    「え」

    奏ちゃんが少し目を丸くする。

    「準特選とか……普通にすごすぎるでしょ。私、絶対もっと上行けると思ってたし」

    栞ちゃんは悔しそうに笑った。

    でも、その顔は春の頃みたいに尖っていなかった。

    「……でも、前みたいに『才能あるやつなんか嫌い』って感じじゃないんだよね。ちゃんと悔しい。ちゃんと、負けたくない」

    その言葉に、奏ちゃんが静かに目を伏せる。

    「私も」

    小さな声だった。

    「栞がいたから、今回ここまで描けた。たぶん一人だったら、途中で逃げてた」

    部室が静かになる。

    環ちゃんが、「うわ、青春っぽ」と茶化すみたいに呟いたけれど、その声もどこか優しかった。

    「環はどうだったの?」

    ひなちゃんが聞く。

    「んー?」

    環ちゃんは少し考えてから、

    「……まあ、ちょっと楽しかったかも」

    とだけ言った。

    それだけなのに、なぜかみんな笑ってしまった。

    ああ、この人がそんなこと言うようになったんだ。

    春の頃だったら、絶対にありえなかった。

    莉乃ちゃんがスマホをポケットにしまいながら、小さく肩をすくめる。

    「なんかさ」

    「?」

    「結果出るまでは、『落ちたら終わり』みたいな気分だったけど」

    莉乃ちゃんは窓の外を見たまま、ぼそっと続けた。

    「別に、終わんないんだね」

    その言葉に、胸の奥がじんわり熱くなる。

    賞を取った人もいる。

    届かなかった人もいる。

    結果はちゃんと残酷だった。

    でも、それで全部が決まるわけじゃない。

    ここで描いた時間まで、消えるわけじゃない。

    「……また描こっか」

    ひなちゃんが、柔らかく笑った。

    「次はもっとヤバいの描こうよ」

    「当たり前でしょ」

    栞ちゃんが即答する。

    「次は絶対、もっと上行くから」

    「私も」

    奏ちゃんが静かに頷いた。

    環ちゃんは面倒くさそうにしながらも、

    「まあ、気が向いたら」

    なんて言っている。

    私は、その光景を見つめながら、そっと自分の指先を握った。

    悔しかった。

    もっと上手くなりたいと思った。

    みんなみたいに、自分の絵で誰かを震わせられるようになりたい。

    でも同時に、確かに思っていた。

    ――この人たちと、もっと描いていたい。

    暖房の音が、小さく部室に響いている。

    油絵の具の匂いが混ざった冬の空気の中で、私たちはしばらく、誰も帰ろうとしなかった。


    最終章「6人の美術部」

    (ましろ)

    季節は巡り、本格的な冬がやってきた。

    凍えるような寒さの放課後、私は部室の引き戸を開ける。

    「あ、ましろ、おつかれー」

    ひなちゃんが、暖房の効いた部屋の窓際から手を振ってくれる。そこには、いつもの、でも春とはまったく違う景色が広がっていた。

    環ちゃんが、普通に自分の席に座って、クロッキー帳にサラサラと落書きをしている。

    「だから! その構図だと画面が右に寄りすぎだって言ってるでしょ!」

    「えー、栞は頭が固いんだよ。これがナウい構図なの」

    「ナウいって何よ、古い!」

    栞ちゃんと環ちゃんが、いつものように言い合っている。だけど、その声にトゲはもうない。莉乃ちゃんは、ひなちゃんのスケッチブックの端に、相変わらずユルい絵しりとりを描き殴って笑っている。

    そして私の隣では、奏ちゃんが、新しい美大の募集要項を机に置きながら、真っ直ぐな目でキャンバスに向き合っていた。彼女の描く絵は、もう暗くない。冬の澄んだ光のような、透明な強さに満ちていた。

    私は、自分のイーゼルの前に立つ。

    新しく用意した、真っ白なキャンバス。

    春の頃は、この真っ白な空間が怖くてたまらなかった。自分だけが下手くそで、ここにいてはいけないような気がして、筆を握る手が震えていた。

    でも、今は違う。

    横を見れば、それぞれの熱量で、それぞれの「表現」に向き合う、大好きな仲間たちがいる。

    私は、少しだけ自信を持って、新しい絵の具をパレットに絞り出した。

    前より少しだけ、ここにいてもいいと思えた。

     
     
    小説投稿したりしてます。 不定期投稿。書きだめしたものを一気に投稿します。

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