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昼休み、隣のベンチのOLさん

    空は抜けるように青いのに、わたしの心は分厚い鉛色の雲に覆われていた。
    ひんやりとしたアスファルトの感触だけが、この足がまだ地面についていることを教えてくれる。
    今朝の出来事が、まるで終わらない悪夢のように脳内で再生され続けていた。

    「数字、一桁間違ってるじゃないか!」

    納品先で響き渡ったお客様の怒声。
    血の気が引くとは、まさにこのことだった。
    慌てて会社に戻ると、デスクの周りには冷ややかな空気が漂っていた。
    フォローに追われる同僚たちの呆れたような視線が、無数の針のように突き刺さる。
    極めつけは、上司からの「どうしてくれるんだ」という、失望を隠さない低い声。
    もはや、わたしに許された呼吸は、浅いため息だけだった。

    ✅部署で食べたくなくて公園へ

    正午を告げるチャイムが鳴り響いても、席を立つ気力は湧いてこない。
    いつもなら賑やかなはずの社員食堂へ向かう同僚たちの背中を、わたしはただぼんやりと眺めていた。
    あの輪の中に、今のわたしが入っていける場所はない。
    きっと、わたしの失敗が格好の噂話になっているだろう。
    そんな想像が、胃の腑をぎゅうっと締め付けた。

    いてもたってもいられず、わたしはコンビニで買ったサンドイッチの袋を掴んで、逃げるように会社を飛び出した。
    向かったのは、オフィス街の片隅にある、小さな公園。
    ビルの谷間に忘れ去られたように存在するその場所は、今のわたしにとって唯一の避難所のように思えた。

    色とりどりの花が咲くプランターの横にある、大きな木製のベンチ。
    その端に、まるで世界の終わりみたいに悄然と腰を下ろした。
    サンドイッチの袋を開ける気にもなれず、ただ俯いて自分のつま先を見つめる。
    なぜ、あんな簡単な確認を怠ってしまったのだろう。
    わたしのせいで、どれだけ多くの人に迷惑をかけてしまったのか。
    自己嫌悪の沼に、ずぶずぶと沈んでいく。
    会社に戻るのが怖い。
    いや、もう戻る資格すらないのかもしれない。
    そんな考えが頭をよぎった時だった。

    ✅となりのOLさんの金言

    「あの、よかったら…」

    ふいに、穏やかな声がかけられた。
    顔を上げると、ベンチの反対側の端に、いつの間にか一人の女性が座っていた。
    隣のビルの制服を着た、わたしより少し年上だろうか。
    彼女の手にも、可愛らしいお弁当箱が握られている。

    「なんだか、とてもつらそうだったから。お節介だったらごめんなさいね」

    彼女はそう言って、ふわりと微笑んだ。
    その笑顔は、初夏の木漏れ日のように優しくて、強張っていたわたしの心の扉を、ほんの少しだけこじ開けた。
    わたしは、堰を切ったように今朝の失敗をぽつりぽつりと話し始めた。
    自分がいかに愚かで、取り返しのつかないことをしてしまったのかを。

    ひとしきり話を聞き終えた彼女は、静かに頷くと、こう言った。

    「大変だったわね。でもね、少しだけ聞いてくれる? 失敗しない人間なんて、この世に二人しかいないのよ」
    「二人、ですか…?」
    「そう。一人は、まだ生まれてきていない人。そしてもう一人は、もうこの世にいない人。つまりね、生きている限り、人は必ず間違うの」

    彼女の言葉は、まるで染み入るようだった。

    「それにね、もう一つ。あなたが起こしたそのミスは、あなたがその仕事を担当していたからこそ生まれたものでしょう?」
    「…はい。わたしが担当でした」
    「だとしたら、それはあなたがその仕事に『挑んだ』証拠なのよ。何もしていない人のデスクでは、ミスすら起きないのだから。そしてね、ここからが一番大事なことなんだけれど」

    彼女は少しだけ間を置いて、わたしの目をまっすぐに見て言った。

    「あなたが失敗したことで、今、あなたの周りの人たちが動いているはずよ。あなたのミスをカバーするために。それはね、組織があなたを見捨てていない証拠なの。本当に必要のない人間が起こしたミスなんて、誰も拾い上げたりしない。ただ、その人がいなくなるだけ。叱られるうちが花、なんて言うけれど、本当そうよ。叱ってくれる人がいる、呆れてくれる同僚がいる、後始末に奔走してくれる仲間がいる。それって、あなたがその組織にとって『異物』ではなく、『一部』である何よりの証拠なのよ」

    彼女も昔、会社のシステムを根幹から揺るがすような大きな失敗をしたのだという。
    何日も眠れず、退職も考えた。
    けれど、その時、普段は口うるさいだけだと思っていた上司が、徹夜で一緒に復旧作業をしてくれた。
    「お前がやった穴は、俺たちが埋めてやる。だからお前は、次にどうするかだけ考えろ」と。
    その言葉で、彼女は救われたのだと話してくれた。

    ✅自分が本当は必要とされている事

    彼女の話を聞いているうちに、鉛色だったわたしの心に、一筋の光が差し込んできたような気がした。

    そうだ。お客様は、わたしという個人ではなく、会社の看板を背負った担当者として、真剣に怒ってくれたのだ。
    上司の失望の裏には、普段の仕事ぶりに対する信頼があったからこその落胆があったのかもしれない。
    呆れていた同僚たちも、今はわたしのミスのせいで生まれた余計な仕事に、文句ひとつ言わずに向き合ってくれている。

    わたしは、一人で仕事をしているのではなかった。
    わたしが空けてしまった大きな穴を、今はみんなが必死で埋めようとしてくれている。
    わたしは、その輪の中にいる。
    問題を起こした厄介者かもしれないが、それでも間違いなく、あの場所にいる一員なのだ。

    わたしが本当にすべきことは、この公園で膝を抱えてうずくまることではない。会社に戻り、まず心から謝罪し、そして、この失敗を未来の糧にするために自分に何ができるかを考えることだ。

    「ありがとうございます」

    気づけば、わたしは深々と頭を下げていた。
    彼女の名前も、部署も知らない。
    けれど、彼女の言葉は、どんな慰めよりもわたしの心を溶かし、再び立ち上がるための力をくれた。

    「ううん。午後からも、がんばってね」

    彼女はそう言って優しく微笑むと、お弁当の蓋を閉めて立ち上がり、颯爽とビルの中へ消えていった。

    わたしは、まだ少しも温かくないサンドイッチを一口だけかじり、残りはカバンにしまった。
    ベンチから立ち上がると、さっきまであんなに重かった足が、少しだけ軽くなっているのを感じる。
    公園の木漏れ日が、まるでスポットライトのように、これからわたしが戻るべき道を照らしているように見えた。

    誰かにとっての「必要」とは、完璧な成功を続けることだけを指すのではないのかもしれない。
    失敗し、もがき、それでも前を向こうとする不完全さを受け入れてくれる場所があること。
    そして、その不完全な自分を許し、再び歩き出す勇気を持つこと。
    昼休みの終わりを告げるチャイムが、今日のわたしには、午後の始まりを告げるゴングのように聞こえていた。
    さて、顔を上げて、会社に戻ろう。
    わたしの席は、まだそこにあるはずだから。


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