何者かになりたいと言うけれど、私たちには名前がある
たくさんの人たちの言葉を目にした。
年齢も性別も考え方も違う、そういうたくさんの人たちの。
15歳の女の子が書いた文章を読み、過去の自分を薄っすらと思い出した。
こんなところで諦めるなんて嫌だ!精神でここまでやってきた私は、人生に対して生きるという以外選択肢があることにはまったく見向きもしなかったし、目を向けなくて良いほどの幸せがあった。今だってそう。
幸せや不幸せはそのなかにいる人にしかわからない。「あなたより苦労してる人はいくらでもいるよ」、「私もあなたと同じで」、「皆そういう時期はあるけどね」、そんな言葉が一体何の救いになるのだろう?残念なことに、ほんの少しも救いにはならない。腹が立つだけ、あるいは突き放されたように感じるだけ。
だから私は「あなたの言葉には力とセンスと光があるからどうか諦めないで、言葉を持つことを諦めないで」と彼女に声をかけたくても躊躇する。
幼い頃に片親で育てられると、女の子は父性を追いかけ、男の子は母性を求めるという話はよく耳にするけれど、大人になるまでにそのことに気づく人は決して多くはないのだと思う。
「気づく」とは自分をある程度客観視していないと出来ないこと。
「気づく」があまり上手に出来すぎると、すべてに意味を探し、見つけた答えは誰にも理解してもらえないのだと自分の周りを厚い壁で(ブランケットとかそういうものでも)覆ってしまう。
自分の内側によく「気づける」人は、大抵の場合他人の内側にもよく「気づける」ため、厚い壁をつくっていないと境界線が見えなくなる。
私はね、取り外しが出来るタイプの薄い壁を立てておけばいいと思う。
相手によっては壁が倒れないように内側から押し続けていたほうがよかったりもする。
一方で、家族や恋人、親友に対しては自分の顔をはっきり見てもらえるようにしたほうがいい。
だってそうでしょ、あなただって、大切な人の顔がいつもすりガラスの向こうにいるようにぼやけていたら悲しいでしょう?
人を鏡に見たてたとき、好き、嫌いという感情はそのまま自分に跳ね返る。
人に働きかけて返ってきた反応で自分のことを評価してしまう。
よく気づく才能を持っていると、上手に受け取りすぎちゃうの。
だけど考えてみて、サボテンを投げられたら落としたほうが良いと思わない?ハサミを投げられたときにも避けたほうがいい。口紅を渡されたら、蓋がしまっていればいいけれど、開いたままなら手が真っ赤に、あるいはピンクになっちゃうからこれもやっぱりキャッチしないほうがいいときもある。
何を受け取るか、受け取らないかは自分で決められる。自分の価値も自分で決められる。
何者かになりたいと言うけれど、私たちはすでに自分だけの名前を持っていて、それが自分の名前であるということを知っている。
それでもまだ何者でもないと悲しむの?
誰かと比べて、尊いことまで忘れてはだめ。
流行りを知っていても、有名でも、立派な仕事をしていても、世界にひとつしかない宝石を持っていても、それはあなたが何者であるかの証ではない。
私たちは生まれた瞬間からすでに何者かであるんです。私たちには名前がある。
