
論語は「正しく読むもの」ではないのかもしれないー「実訳」という読み方に触れて|書籍『そろそろ論語』に関するおっしょうさんとの対談@voicy
こんにちは、野村里奈です。
今回は、友人のおっしょうさんのVoicyにお招きいただき、浅田すぐるさんの『そろそろ論語』をテーマに対談をさせていただきました。
論語というと、少し遠い存在に感じていたのですが、『そろそろ論語』を読んだことや、今回の対話を通じて、その距離がぐっと近づいたように感じています。
今日はその中でも、特に印象に残ったことを少し整理してみたいと思います。
「論語には構造がない」という視点
この本の内容で印象的だったのが、
ガイド❶『論語』の著者は孔子ではないし、1人でもない
ガイド❷『論語』に論理的な構成・構造はない
ガイド❸『論語』は1ページ目から順番に読む書物ではない
というものでした。
私たちは普段、
起承転結
ロジカルな構造
順番に理解していくもの(基本的には)
として本を読むことに慣れています。
でも論語は、そもそもそういうものではない。
孔子の言葉や、その後の弟子たちの記録が積み重なって、結果として「一冊になっている」もの。
だから、最初から順番に理解しようとしなくていいし、むしろ「構造を求めすぎないほうがいい」という解説です。
これは、どこか世の中のあり方にも近いように感じました。
私たちは物事を理解するために構造化して捉えますが、実際の世界はそれほど整ったものではありません。
構造はあくまで、私たちが便宜的に与えている「一つの見方」にすぎないのだと思います。
「正しく理解しよう」とするほどズレていく
もう一つ印象に残ったのが、
ガイド❹『論語』の解釈に唯一絶対の解釈を求めない
という話です。
正しく理解したい
正しい解釈をしたい
間違えたくない
これは仕事でも、学びでも、私たちの日常の中でよく起きていることだと思います。
でも、その姿勢そのものが、本来の意味から離れてしまうこともある。
対談の中では、
「正解を探すのではなく、その言葉とどう関係を持つかが大事なのではないか」
という話になりました。
「実訳」という考え方
そして、最も印象的だったのが、
ガイド❺『論語』をどう解釈するかは、自身に響くかで決めていく
というガイドです。
最初に読んだときは、少し大胆な考え方だなとも感じました。
しかし、読み進めるうちに、「実訳」というのは、「自由に解釈していい」というニュアンスではなくて、
自分の経験と照らし合わせる
自分の文脈で意味を見つける
その時点での理解を言葉にする
そういう営みなのだと感じました。
見えているのは「世界」ではなく「解釈」
これは個人的な視点になりますが、人は出来事そのものではなく、その意味づけによって反応しています。
さらに、その意味づけには、
無意識の偏り
過去の経験
身体状態や感情
が影響しています。
だから、どんなに丁寧に読んでも、「完全に正しい理解」にたどり着くことは難しい。
また、私たちが住んでいるこの世界も、常に目まぐるしく変化しているので、ある時に正解だったものも、すぐにそうではなくなってしまう。
でも逆に言えば、その時の自分がどう読んだかには、ちゃんと意味がある。
そう思うと、「実訳」という言葉はしっくりきます。
論語は「読むもの」ではなく「関係を持つもの」
今回の対談を通じて感じたのは、論語は「理解する対象」というよりも、「関係を持ち続けるもの」なのかもしれない、ということです。
すぐに分からなくてもいいし、一度の理解で終わらなくてもいい。
むしろ、
その時の自分でどう受け取るか
時間が経ってどう変わるか
そういうプロセスそのものが、この本の価値なのではないかと感じました。
おわりに
論語というと難しそう、という印象がありましたが、
「正しく読まなくていい」
「自分なりに関わっていい」
そう思えたことで、一気に距離が近づいたように感じています。
もしこれから読む方がいたら、理解しようとする前に、一度「感じてみる」という読み方も、面白いかもしれません。