
どうしても変えられなかった「物事の捉え方」から、自由になるまで㉞|そもそも「整う」とは何か
こんにちは、野村りなです。
私は長いあいだ、「整った状態」というものがあると信じていました。不安がなく、迷いもなく、心が静かで、判断がぶれない。そんな状態になれたら、ようやく安心して動けるのだと思っていました。
けれど、よく考えてみると、その「整った状態」を、私は実際に体験したことがあったでしょうか。一瞬の安堵や、短い静けさはあります。けれど、それは長くは続きません。心はすぐに別の感情へと移り変わります。安心のあとに不安が来ることもあれば、達成感のあとに空虚さが訪れることもあります。
もし心が常に変化しているのだとしたら、「完全に整った状態」を前提にすること自体が、どこか不自然なのかもしれません。整うとは、感情が消えることではなく、揺れが止まることでもない。もしかすると、整うとは、「この揺れはあってはならない」という前提が、少し緩むことなのかもしれません。
揺れがあるままでも、それを異常と見なさない。不安があっても、それを失敗と決めつけない。状態を固定しようとするのではなく、変化していることを前提にする。
仏教で語られる静けさは、完璧に整った状態を指しているのではなく、変化の中にあっても、そこに過剰な緊張を加えないことに近いように思います。整うとは、完成形に到達することではなく、整わなさを排除しなくなること。
私は、そう捉え直したとき、「整う」という言葉の意味が、少し変わりました。
よろしければ、みなさんにとっての「整った状態」とはどんなものか、コメントで教えてくださいね。
マガジンのご紹介
この文章は、マガジン「どうしても変えられなかった『物事の捉え方』から、自由になるまで」の一篇です。
各回800字ほどの読み切りで、日常や仕事の中で生まれる感情や違和感を入口に、しがみついていた前提が少し外れる視点を、静かに言葉にしています。