日々に押し流されて #エッセイ
暴力的な感情
誰の反応も答えも聞かず、ただ自分の中にあるぐちゃぐちゃの感情を吐き出して、投げ捨てる。書きだして、ただ置いておく。
どんな人の感想も言葉も聞きたくない。いらない。感情にまかせて投げやりでやや暴力的に吐きだせる場所はやけに少ないと思った。
一方的に投げて捨てておいても、顔をしらない誰かの目に触れる。言葉を交わしたことのない人ですら、そのリアクションやコメントのひとつにうるささと怒りを感じるときがある。はじめましての挨拶も交わすまえに。
女性
そんなことを書く女性は冷たいのだろうか。
誰しもが生まれたときから男性と女性を意識して、女性らしさや男性らしさを感じながら、もしかしたら頭に「こうあるべき」とまでいう概念を持ちながら生活している。
なんだ、女性って。男性って。性別に関する言葉、マイノリティについて多く取り上げられ、社会と混ざり合ってきたこの頃、ふと生きにくさを感じたのは「女性なのだからこうあるべきなのだろうか」と、心の中にある「こうあるべき」が「女性」という私の性に関連していることに気づいたときだった。
「私は女性だ」そのことを気にしないで居られるときはずいぶん居心地が良い。「女性」の席にしっかり座っていた学生時代。何年も経った現在、「男性と女性のあいだ」に座っている私がいた。性の解釈をなくす、に近い感覚。
「女性」の席に座っていたとき、ものごとはずいぶんはっきりと、くっきりとしていた気がする。今は、曖昧のなかにいる。だからこそ心地がいい。だからこそ、時折触れる「女性らしさ」に敏感に反応してしまう。
関心と無関心
自分に精一杯で、周りを頼ってばかりの人をみるとやけに腹が立った。「あなたが、助けてくれるよね?」その表情、大嫌い。他をあたってほしかった。けれどみんな、知らないふりをするのが上手だった。
役割は私になって、「そのくらいやってあげたらいいじゃん」と言われる。代わりにやってほしかった。代わりにやって、と大声をだしてなにかを投げつけたいくらいに腹が立った。
優しく綺麗に笑う笑顔に裏に、沸き立つ感情を抱えながら生きている。
その場を離れたら恐ろしいほど冷めた表情にかわるその私に、何人が気づくだろう。何人の知り合いが”あなたらしい”と思い、”はじめて知った”と思うのだろう。
好かれていると思っているあなたに、私は、心の中で「あなたなんて大嫌い」と言いたかった。言って感情をぶつけたかった。
そんな私をなにも言わずに抱きしめてくれる人は何人いるだろう。なにもみていなかったかのように、変わらず日々を一緒にすごしてくれる人は何人いるだろう。
関心があるようで、無関心。はじめましての挨拶を交わした人でも、私に無関心だ。どちらが人としてあたたかいのだろう。そんなことを考えるのも疲れてきた。
けれどせめて、私のなかで思い浮かぶ数人は、なにも言わずに私を抱きしめてくれる人であったなら。それだけで涙をこぼさないように歩いてきた日々が報われる気がする。
けれどすでに、報われているのかもしれない。なんの打ち合わせもなく集まれる人たちだから。言葉なくてもずっと見ていてくれるから。私が話し出すのを待っていてくれるから。私が心からの笑顔を向けられる人だから。
うつむいてただ眺めていた二つの靴が、ひとり分、ふたり分と増えていく。温もりを感じて、些細な優しさに涙が溢れる。
私の名前を呼んでくれる、私の大切な人。大好きな人。
しあわせは、そう遠くない。
ぬくもり
孤独は、自分の心の中に作りだした独りよがりな居場所だ。
あとがき
このエッセイは、#創作大賞2026 #エッセイ部門 のために書き下ろしました。自分の感情を言葉で書きだすのは、誰かに心臓をかき回されるような感覚になります。私の言葉や表現は、抽象的でつかみにくいものがあるかもしれませんが、ごくふつうの、ひとりの女性の心のなかを映し出したものだと、ただ受け止めていただけたらうれしく思います。
いいなと思ったら応援しよう!
応援していただけたら幸いです。 いただいたチップはクリエイター活動費に使わせていただきます。