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短編小説『二分間の上下盲』

    「物語の一文によって人生が変わった」

     学生のころ、友人に言われた言葉だ。鮮烈で印象的な文に魅了され、その瞬間にこれまでの固定観念や常識さえも覆されたような気持ちになったそうだ。
     当時の僕は、心の中で彼を馬鹿にしていたと思う。たった数秒、文字列を読んで変わるほど、お前が持っている価値観は脆弱だったのか、と。

     このことを思い出したのは、二年前。梅雨も終わりを迎え、夏の足音が回り角のすぐ向こうまで聞こえてきた七月だった。

     その日は朝から、バケツをひっくり返したような土砂降りだった。天が堰を切ったみたいに、抱え込んでいた涙を地面にぶちまける音が、やけに大きく聞こえたのを覚えている。夕方の会議に向けた資料作成がひと段落し、僕はオフィスビルの向かいのスターバックスに足を運んでいた。

    「イングリッシュティーラテのトールサイズ、テイクアウトでお願いします」

     いつもの注文は、考えるより先に口が動く。

     しばしの待ち時間。
     窓の外を見ると、向かうときに降っていた雨はいつの間にか止んでいた。雲は相変わらず分厚く空を覆っていたが、ところどころにできた切れ間から、青空が控えめに顔を覗かせていた。西へ傾きはじめた陽の光が、細い柱となって地上に降り注ぐ様は、まるでーー

    「うわぁ、珍しい。天使の梯子ですね」

     自分に向けられた言葉にハッと振り返ると、髪を後ろで一つにまとめた店員が、どうぞ、とティーラテを差し出しながらにこりと笑っていた。

    「天使の梯子って言うんですか、あれ」
    「正式には『薄明光線』って言うらしいんですけど、こっちの方がロマンチックだと思いませんか?」

     発音し慣れない言葉なのか、彼女は眉間にわずかに皺を寄せながら、はくめいこうせん、と確かめるように発音した。
     そうですね、と頷きながらも、僕は自分の中でどこか腑に落ちきっていない部分を感じていた。

     礼を言って店を出たあとも、この違和感は消えなかった。ティーラテを片手にオフィスへ戻る道すがら、エレベーターで二十七階へ上がるあいだも、僕はさっきの光景を反芻していた。彼女に声をかけられる直前、自分があの光をみて何を思ったのか、その輪郭を再度なぞろうとする。

     補助線だ。

     唐突に、なんの脈絡もなくそう思い当たった。
     雲の切れ間からまっすぐ地上へ伸びる線は、難解な図形の内側を、なんのためらいも遠慮もなく貫く補助線を連想させた。たった一本の線によって、それまで曇り空みたいに判然としなかった思考が強引に整理され、視界の角度そのものががらりと変わる。さっきまで解読できなかった図形が、急に別の顔を見せはじめる。

     では、なぜ僕は「天使の梯子」というネーミングに違和感を覚えたのだろう。
     補助線とはあまりにも遠いイメージだからだろうか。あるいは、「天使」という存在自体が非現実的だからだろうか。
     もやもやと燻っている違和感が晴れないまま、手元のティーラテを一口飲む。初夏の気温に晒された甘い液体はほとんど熱を失っておらず、舌の先を少しだけ焼いた。

    § § §

     電車がトンネルを抜ける。圧縮された空気が一気に解き放たれる感触が、もたれかかったドアを通して伝わってくる。暗闇に長く包まれていたからだろう、平日の目覚めを主張する太陽がやけに眩しかった。
     車窓の外に目を向けると、線路のすぐ横を走る土手と、その奥を流れる川が目に入った。昇ってまもない朝陽が水面に反射し、電車と並行して土手を駆けるランニングウェアの男性の輪郭をじわりと滲ませる。

     いた。

     川の対岸に視線を移す。土手に生える木々の右から三番目、一番低い枝に彼はいた。
     スリーピーススーツに身を包んだ、若いサラリーマンが、逆さ吊りの状態でぶらさがっている。僕の部下と同じか、少し若いくらいだろうか。遠いゆえに表情までは読み取れないが、彼は両足をしっかりと枝にかけ、腕を組みながらこちらの方向を見ていた。

     彼を初めて見かけたのは一週間ほど前だった。
     何かの見間違いかと思った。水面に映る朝陽の乱反射が気まぐれに作り出した偶像のように、その光景にはおよそ現実味と呼べるものが一切なかった。

     だが、次の日も彼はいた。そして次の日も。
     今日に至るまで、毎朝同じ時間に、同じ場所で、同じ姿勢でこちらを見ている。

     電車内を見渡すが、彼の姿に気づいた者は僕以外いないようだった。他の乗客はみな、手にしたガラス面を通した世界に埋没しているか、閉じた瞼の裏に意識を退避させていた。
     電車という移動手段をただ享受するのは物足りなく感じ、それ以上の価値を与えようと奮闘するために、彼らは各々の世界に身を沈める。
     狭いステンレスの板一枚によって枠取られた空間で身を寄せながらも、それぞれがここではないどこかの世界に意識を飛ばしている。

     ここにある身体と、ここにない意識。分断された自己がいつ重なり合うのかは、本人ですら分からないのではないだろうか。

     僕が彼を見つけられたのも、ほんの偶然だ。たまたま、身体と意識が重なり合った瞬間に窓の外を見ただけ。その一瞬の重なりで、僕の目に彼は留まったのだ。

    ———————————————

    「会いに行けばいいだろ」

     昼食を食べながら朝見た光景を同僚に話すと、一片のためらいもない顔で、あっけらかんとそう言われた。

    「そういうものかな」
    「そういうもんだ」

     口いっぱいに含んだ生姜焼き定食を麦茶で流し込んだあとに、彼はさも当然かのように言い放った。
     最近増えてきたという白髪が蛍光灯の下で、彼が歩んできた三十五年という年月を静かに主張していた。

    「お前は色々と難しく考えすぎなんだよ。これがフランツ・カフカの小説ならば、そのサラリーマンが時間とともに木と同化する、なんて数奇な事件の一つでも起きるかもしれない。だが、残念ながら現実はたいてい、一番つまらないことが答えだ。大方考えごとやストレッチでもしているんだろう」

     新卒から十二年、配属先が変わっても彼とはよく食事をする。くだらない世間話から仕事の相談まで、話すことはさまざまだが、自分とは違った視点からの意見は参考になる。その竹を割ったような性格も相まって、行動を決めあぐねているときはよく、こんな風に会社の食堂で話すことが多い。
     彼の意見に相槌をうちながら、僕もぶり大根を口に運ぶ。しっかりと身の締まったぶりと、大根のほろりと崩れる柔らかさが舌の上で溶け合い、あまじょっぱい煮汁が白米を食べる速度を加速させる。

     ふと、今目の前で生姜焼き定食を頬張っている同僚の電車内の姿を想像する。
     彼も今日乗っていた乗客と同じように、己の世界に退避するのだろうか。小さなガラス面に吸い込まれそうなほど顔を近づけ、体の居場所から離れたどこかに意識を飛ばすのだろうか。

     僕には不思議と、その光景を想像することができなかった。

     翌日、僕はガラスを叩きつける雨音で目が覚めた。窓の外は土砂降りだったが、僕は半ば確信があった。
     彼はいる。いつもどおりの場所で、いつもどおりの姿勢で。

     幸い、雨音に起こされたおかげで出勤時間には余裕がある。
     僕は急いで支度をし、家を出た。焦茶色のオックスフォードシューズが水たまりを弾く音が雨音と混ざり合い、独特のリズムを奏でる。

     だが、いつもより三十分ほど早い時間の電車に乗って初めて、僕は窓の外の景色など見えないことに気づいた。窓越しに降りしきる雨が、水に滲んだ絵の具のように外の風景を柔らかくほどき、境目をなくしていたのだ。川にさしかかり、目を凝らすが対岸の様子はぼんやりとしか見えず、人影があるかの判別はできなかった。

     仕方ない。こうなったら降りて直接確認しにいくほかはないだろう。どのみち、早めに家を出てしまったせいで、このままだと会社に早く着きすぎてしまう。
     僕は次の駅で降り、対岸にかかる橋を渡ることにした。雨が傘を穿つ音を耳に入れながら、電車内からしか見ていなかった景色に向けて一歩を踏み出した。
     ゴオ、と電車が通る音が後ろから聞こえる。

     いつもは眺めているだけだった景色に実際に足を運ぶと、まるで絵画の中に迷い込んだような錯覚を覚える。窓越しに見ていた景色にはちゃんと奥行きがあって、道は先に続き、建物には裏側がある。死角になっていた光景もつぶさに観察することができ、空間として確かにそこに存在することを再確認できる。
     橋を渡りきり、いつもサラリーマンがいる場所へと歩みを進める。近づくにつれ、自然と鼓動が高鳴るのを感じる。いてほしい、という気持ちといてほしくない、という気持ちが、きつく撚られた二本の縄みたいにきしきしと軋みながら胸の奥で絡まり続けていた。

     そして、その時が訪れた。土手に生える木々の右から三番目、一番低い枝に、いつもと変わらない姿で彼はいた。僕に背を向ける形でぶらさがっていたが、ジェルでがっちりと固められた髪は、彼の意志の強さを示すように逆さの状態でも一切の乱れを見せていなかった。
     雨の音か、集中していたからか、彼は僕が近づいたことにも全く気づいていない様子で、微動だにせずに川の対岸に視線を向けていた。

    「あの」

     気づくと声が出ていた。サラリーマンはぶらさがったままわずかに頭を回すが、すぐに正面を向いてしまう。

    「失礼ですが、前に来ていただけますか。その位置ではあなたが見えません」
    「あ、はい。すみません」

     反射的に謝ってしまった。礼儀正しい声に、自然と背筋が伸びるのを感じる。
     彼の正面に回ると、ざっと僕の全身を視線が撫でたのを感じる。僕はといえば、逆さ吊りの人物と喋るという初めての経験に、自分でも分かるほど視線がふらふらと所在なさげにさまよっていた。

    「雨、大丈夫ですか?」

     迷った挙句、絞り出したのはそんな言葉だった。

    「なぜ私がこんな姿勢なのか、聞かないのですね」
    「いきなりお聞きするのは失礼かな、と」
    「お優しいんですね。でも、意外と平気ですよ。枝葉によって雨はほとんど防がれていますので、むしろ音が心地よいくらいです。強いて言うなら、時たま水滴が鼻に入るのが少し気になるくらいでしょうか」
    「そうですか」

     自分から聞いた質問なのに、生返事になってしまう。そんな僕などまったく気にしていないかのように、サラリーマンは朗らかに続ける。

    「こういう、見えないところで人類の進化を実感しますよね。だってほら、鼻の穴が上向きについていたら、なんてことは普段考えないでしょう? でも、現に私たちは鼻の穴が下向きについていることでこうやって恩恵を受けている。多分、気づいていないだけで、こんなことは数え切れないくらいあるんですよ」

     そう言うと彼は一度言葉を切り、僕を改めて見据えた。

    「ところで、貴方はどうしてこんなところに?」

     自分が聞こうとしていたことを逆に聞かれてしまい、思わず吹き出してしまう。

    「それはこちらの台詞です。一週間ほど、毎日枝に逆さ吊りでぶらさがっている男性がいたら気にならないほうが不思議です」
    「なるほど、道理ですね」

     彼はそう言うと、顎に手をあててしばしの間押し黙った。姿勢も相まって少し滑稽に見えたが、僕は静かに答えを待つことにした。
     ややあって、彼は上体を起こし、二メートルほどの枝から驚くほどの身軽さで地面に飛び降りた。少しよろめいたあと膝裏についた木屑を軽くはたくと、ぴしりと背筋を伸ばして立ち上がった。オリーブグリーンのスリーピーススーツにネイビーのネクタイがよく似合っていた。

    「私が毎日、ここにどれくらいいると思いますか?」
    「そうですね……十五分ほどでしょうか」

     あてずっぽうに答えると、彼はゆっくりとかぶりを振った。

    「人間が現実的に逆さ吊りをできる時間は二分ほどです。それ以上は頭に血が昇ってしまい、失神する危険性が上がります」
    「それはどういう……?」
    「貴方は一週間ほど私を見かけたとおっしゃっていますが、それはかなりの偶然かもしれない、ということです。私は確かに一週間ほど前からこの木にぶらさがっています。ですが、そうしている時間はわずか二分ほど。仮に貴方が毎日逆さにぶらさがる私を見かけたというなら、それはその二分の間のできごとを見かけているということです」

     確かに、考えてみるとすごい偶然だ。身体と意識が、時計の短針と長針がぴたりと合うように重なり合ったうえで、電車が一本前でも一本後でも実現しえなかった偶然。

    「僕より前にここに来た人はいますか?」
    「貴方が初めてです」

     もっとも、貴方以降に誰か現れるとも思えませんが、と苦笑しながら彼は続ける。

    「先ほどの質問ですが、なぜ私が逆さでぶらさがっているか、でしたね。これをお答えするには、まずは私と同じ状況に身を置いてみてください」

     百聞は一見にしかずです、と言いながら彼は先ほどまで自分がぶらさがっていた枝を指差す。

    「僕にも同じことをしろ、と?」
    「もちろんです。大丈夫、危なくなったら支えるので」
    「そういう問題じゃ……」

     僕の言葉を無視し、サラリーマンはにこやかな笑顔で背中をそっと押してきた。

    「……分かりました。ですが少しだけですよ?」

     僕はそう言うと、幹から伸びる一番低い位置の枝の根本に足をかけた。
     木登りなんていつぶりだろう。そんなことを思いながら、ゆっくりと枝に乗せた足に重心を移す。そのまま両手で高い位置の枝を掴み、慎重に全身を持ちあげる。久しく使用していなかった全身の筋肉が、錆びついた部品みたいにひとつずつ軋みを上げる。手のひらに伝わる樹皮のざらつきが、自然の荘厳さを無言で肌に刻みつけてきた。

     彼がぶら下がっていた枝に腰掛け、一息ついていると、下から声が聞こえた。

    「僕が足を抑えているので、貴方はそのまま背中向きに倒れてください」
    「そんな無茶な」

     そう言いながらも、ここまで来たのならどうにでもなれ、という気持ちが先行したのか、僕は半ば投げやりに背中から落ちた。

     途端。

     世界がぐるりと回り、浮遊感とともに景色が反転する。いつも覗いていたレンズが急に取り替えられたように、見慣れない世界にピントを調整する。
     いつの間にか雨は止んでおり、雲の裂け目からところどころ覗く青空は、ふわふわのコンクリートに点在する水たまりのようだった。

    「子供のころ、鉄棒が好きだったんです」

     彼の声が聞こえた。

    「いつもは何の問題もなく、ぐるぐると回っていたんですが、その日はうまくいかなくて。勢いをつけ損ねて、途中で止まってしまったんです。ちょうど半回転して、身体が逆さになった時でした」

     灰色の天井を、列車が走っていく。重力がその効力を失ったように、あらゆるものが上に引かれているように感じた。

    「そのときに見た光景をつい最近、街を歩いているときに思い出しましてね。雨上がりで、石畳のあちこちに水たまりができていました。何気なくそこを覗き込んだ瞬間、映し出された逆さの街が、ふいに昔の記憶と重なったんです。そうです。あの時、鉄棒にぶらさがりながら見た光景です。それはあまりに唐突なことで、まるで誰かが記憶の引き出しを乱暴に引き抜いて、その場面だけを私の目の前に放り出してきたみたいでした」

     僕の目線の先には川がある。
     毎朝電車の窓から眺めている川が、雨に濁ってくすんでいた。何年も前から水底に沈んでいた土砂が、大雨に掻き回されて水面近くまで浮かび上がり、川を黄土色に染め上げながら下流に流されていく。
     数時間もすれば、川はもとの色を取り戻すだろう。けれど、いったん浮かび上がった土砂は、以前とまったく同じ場所には戻らない。次の雨に呼び起こされるまで、静かに水底で眠ったまま、上流から流れてくる土砂に埋もれていく。

    「ですが、浮かび上がってきたのは景色だけなんです」

     彼は言った。

    「そのとき、鉄棒にぶらさがった私が何を思ったのか、それだけがどうしても思い出せない。なにかを強く感じたことだけは確かなんです。鮮烈な光景でしたからね。けれど、それが何だったかは、この歳になっても分からないままです」
    「では、あなたはそれを思い出そうと、こうして毎日ここに通っているのですか?」
    「そうです。もう一週間ほどになりますが、掴んだと思った次の瞬間には、もう消えている。その繰り返しです。まるで霧を掴もうとしているようです」

     目の前の土手にできた水たまりを逆さの状態で見る。映った逆さまの世界は、僕たちが普段見ている正しい向きの世界だった。まるで、小さなスクリーンを通して現実を観察しているようだった。
     すべてが逆さまなこの世界では、水たまりだけが現実を観測できるレンズだ。それは虚構の視界において、唯一と言っていい真実に見えた。自然と目線がそちらに寄せられる。

     不意に、電車内でスマートフォンに顔をうずめる乗客たちが頭をよぎる。通勤や通学のための空間に一時的に身を置き、目的地まで別の世界に意識を飛ばす。彼らにとっては、電車の中こそが虚構の空間であり、情報を入手するスマートフォンこそが真実の世界だったのだろう。だから、自然と目線がそちらに寄せられ、他の景色が目に入らなくなる。自分たちが身を置く逆さまの世界で、唯一スマートフォンという水たまりこそが現実の世界との境界を保つ存在だったのかもしれない。

     視界の端に光が差す。
     ふわふわのコンクリートの切れ間から、陽の光がスポットライトのように電車が走る天井にむけて立ち上っていた。

     一瞬、違和感を感じる。

     なんだろう。あと少しで、掴めそうな気がする。
     そんな僕の思い虚しく、輪郭は霧散する。それはまるで、大まかなところははっきりと見えるのに、細部まで覗き込もうとすると詳細がするするとほどけていく、起きる直前まで見ていた夢を思い出すかのようだった。

    「そろそろ降りた方が」

     下から聞こえた心配そうな声に、思い出したかのようにじわりと、頭の中に血液がたまっていくのを感じる。こめかみのあたりが内側から脈打ち、顔に熱が集まっていく。目の奥がじんわりと重い。
     上半身を起こし、世界を正しい向きに修正する。内臓が正しい位置へずるりと滑り落ちる感覚とともに、頭にたまっていた血が全身へと巡り始める。

     そのとき、夜空を裂く稲妻みたいに、僕は気づいた。

    「どうかしましたか?」

     木から降りようとした姿勢のまま止まった僕に、サラリーマンは声をかける。

    「見えますか」

     遠くに見える光線を指差しながら、僕は自然と言葉を発していた。

    「あれ、天使の梯子っていうらしいですよ。天から地まで伸びる光線を梯子と見立てて、そこを天使が行き来するイメージだそうです」

     登った時と同じ軌跡を描くように、太い枝を足で探りながらゆっくりと木を降りていきながら、二年前にスターバックスの店員から聞いた知識を呼び起こす。

     わずか二メートルほどの高さから降りただけなのに、靴裏が柔らかい土を踏んだことに妙に安心する。オックスフォードシューズ越しに感じる大地が、自分の存在を抱擁してくれているかのようだった。

    「へえ、初めて知りました」

     サラリーマンは話が見えないという顔をしながらも、木を降りながら喋る僕に相槌をうつ。

    「僕が最初にその名前を聞いた時に感じたのは、どうしようもないほどの違和感でした。当時はそれの正体に気づくことができませんでしたが……」
    「今なら分かると?」

     セミロングの髪を後ろで一つに結んだ彼女の顔はもう思い出せなかったが、あの時ティーラテが舌先を焼いた感覚だけは、二年が経った今でも脳裏に刻まれている。

    「『天使の梯子』とは、天を上、地を下と定義した呼び方です。上下関係を前提とした呼び方だからこそ、梯子という言葉が使われ、光がスポットライトのように、上から下に降り注いでいるように見える。ですが、枝にぶらさがっている時、僕はごく自然に、光線が下から上に向けて立ち上っていると感じました。空へ消えていく煙のように、光の向きが下から上になっていることに、なんの違和感も覚えなかったんです」
    「なるほど、視点が逆転したことによって、光の道筋も逆に見えたんですね」

     そう言うと、サラリーマンは先ほどと同じように顎に手を当てた。

    「ですが、それでも梯子という単語は合っているのではないでしょうか。下から上に上ることだってありますし、どちらが上下かはその時々により変わります」
    「そこなんです。では、たとえば血はどうでしょう」
    「血、ですか」
    「そうです。身体を循環する血に、上下関係は存在するんでしょうか。頭部から心臓に向かって流れる血に向かって、血が『落ちている』とは言いませんよね。でも、事実として頭部の位置を流れている血は足元を流れている血よりも高い位置にあり、心臓に血を届けるときは低い位置に向かって落ちていると言えます」

     血には上下というものが存在していない。頭部を流れていても、足先を流れても、それは等しく「血が巡る」と表現される。位置の上下関係を、循環という概念が凌駕しているのだ。
     だから、逆さの状態から戻ったとき、僕は血が落ちた、というイメージが湧かなかった。むしろ、堰き止められていたダムが決壊したかのように、止められていた血管が再び全身に血を送り出していくような感覚になった。

    「つまり、なにが言いたいんですか?」

     少し眉を顰めて、サラリーマンが聞いてきた。

    「上下どちらにでもなりえるということは、本質的にはそのどちらでもないことを意味します。僕はあの光を見ると、上下を意識させる梯子ではなく、補助線が思い浮かびます」

     途端。
     彼の顔つきが変わったのが分かった。訝しげに聞いていたのが、なにかを思い出したかのような表情で、天使の梯子をじっと見つめていた。

    「……補助線?」

     彼はゆっくりと尋ねた。

    「そう、補助線です。僕はあの光を最初に見たとき、天地というひとつながりの面を貫く直線として捉えました。そこには上下など存在していない。見慣れた風景でも、たった一本の線がひかれることによってまったく違う姿を見せてくれるからこそ、その直線そのものに焦点を当てたかったんだと思います」
    「そうか、なるほど…… 上下の関係性がないからこそ、どちらが上でも下でもない、面と直線という関係なわけですね」

     台形の対角に補助線を引くと、三角形が二つできる。だが、それらの三角形は必ずしも、一番下にある辺が底辺ではない。
     そのときどきに、自分にとって最も都合がいい辺こそが「底辺」になるという、ある種エゴイスティックな側面を引き出してくれるのが、補助線なのかもしれない。

    ———————————————

     それからしばらく、僕らは他愛もない会話を交わした。
     仕事のことやお互いがこれまで歩んできた人生などを話した。無数の選択を経て、今日、この場所で話しているという現実が、なんだか運命めいたものを感じさせ、年甲斐もなく胸が躍った。

    「それでは、私はそろそろ行きます。また、どこかで」

     しばらくすると、彼はそう言い、土手を後にした。僕はもう少し残ると言い、枝に腰掛けた。

     最後まで名前を聞くことがなかった、スリーピーススーツを着たサラリーマンの後ろ姿が橋を渡り、電車のホームに向かう。水に落とされた一滴の絵具をかき混ぜたときのように、つい五分前まで木の枝に逆さでぶらさがっていた彼が、社会と混ざりあい、再び無色になっていく。

     なんとなく、彼はもうこの場所には来ないような気がした。補助線という言葉を出した時に彼が見せた反応は、答えの片鱗を掴んだもののような気がしたからだ。
     きっと、泡沫の夢のように、彼がここに来たという痕跡は消えてしまうだろう。枝に残る温もりや、彼の革靴が踏んだ草も時間とともに元の形に戻っていき、最終的には彼が来たという痕跡すら残らないだろう。

     だから、せめて僕はもう少し彼の色を残しておくことにしよう。初夏の風にのって彼の残影がかき消されてしまわないように、せめて僕の中で生き続けられるように。

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