短編小説|挨拶のできる子
彼のことを悪く言う人間を、私は一人も知らない。
だから逮捕された時、みんな冗談だと思った。
近所の人間は警察を疑い、母親は泣き、昔の同級生たちは署名活動までしたらしい。
あんな優しい人が、殺人なんてするはずがない。
誰もがそう言った。
この手記は、判決が出る少し前に書かれたものだ。
*
最初に読んだ時、私は少し驚いた。
字が綺麗だったからだ。
もっと乱れた文章を書く人間だと思っていた。
便箋は大学ノートを切ったものらしく、端が少し毛羽立っていた。
ページ番号だけが、几帳面に右下へ書かれていた。
*
面会室で母はまた泣いた。
透明な板の向こうで、母は痩せた指を握っていた。
寒くないか、ちゃんと食べているか、同じことを何度も聞かれた。
母は昔からそうだった。
「陸は昔から優しい子だから」
母はいつもそう言う。
それについて考えたことはない。
面会時間が終わると、母は何か言いたそうに口を開いたが、結局なにも言わずに立ち上がった。
帰り際、小さく、
「信じてるからね」
と言った。
私は、何も返さなかった。
*
当時、テレビでは連日この事件を扱っていた。
ワイドショーの司会者は、「本当に単独犯なのか」という話を繰り返していた。
コメンテーターの一人は、
「優しい人ほど抱え込んでしまうことがありますからね」
と言った。
私はその言葉をメモしている。
後で読み返したが、今でも少し意味がわからない。
*
彼と最後に会ったのは、去年の冬だった。
コンビニの前で煙草を吸っていた。
泊めてほしいと言われた。
理由は聞かなかった。
そのまま家に連れて帰った。
彼は笑っていた。
「お前ほんと断んねえよな」
と言った。
*
被害者の友人たちにも話を聞いた。
皆、似たようなことを言った。
「昔から無茶苦茶だった」
「でも嫌いになれないやつだった」
「なんか放っとけなかった」
その中の一人が、
「でも、あいつに頼まれたら断れないかもな」
と笑いながら言った。
記事には使わなかった。
*
彼は昔からそういう人間だった。
遅刻するし、金はないし、口も悪い。
高校の頃、教師を殴って停学になったことがある。
でもなぜか、人が集まった。
あまり深く考えていない人間だったと思う。
彼は思ったことをすぐ口にする人間だった。
怒る時は怒るし、笑う時は大きな声で笑った。
私は昔から、あまりそういうことがなかった。
*
手記には、怒りがほとんど書かれていない。
検察は計画性を主張した。
弁護側は心神耗弱を訴えた。
けれどこの文章の中の彼は、ずっと静かだった。
*
同居を始めてから、彼はほとんど外に出なくなった。
カーテンを閉めたまま、昼と夜の区別も曖昧だった。
私は朝になると仕事へ行き、帰りに煙草と弁当を買った。
煙草の銘柄だけは、変わらなかった。
ある日、帰宅すると、彼は浴室の床に座っていた。
服を着たまま、水だけ出していた。
排水口に髪の毛が詰まっていた。
私はそれを取って、ゴミ箱に捨てた。
彼はその間、ずっと床を見ていた。
*
遺体写真を見た時、私は少しだけ安心した。
もっと酷いものを想像していたからだ。
首には痣が残っていた。
けれど顔は、驚くほど普通だった。
眠っているようだ、と誰かが言った。
私はその表現が嫌いだった。
*
夜中に起こされることが増えた。
眠れないと言って、煙草を吸う。
私は隣に座って、火を貸した。
会話はあまりなかった。
彼は時々、思い出したように喋った。
昔付き合っていた女の話とか、仕事を辞めた日の話とか、どうでもいいことだった。
私は聞いていた。
*
ある日、彼は急に笑った。
「お前さ、俺が死んだら泣く?」
テーブルの上にコンビニの焼きそばが置かれていた。
私は少し考えた。
うまく答えられなかった。
「だと思った」
彼は少し嬉しそうだった。
「お前って正直だよな」
そう言って煙草に火をつけた。
部屋が少し煙かった。
*
裁判の傍聴席には、毎回少しだけ人がいた。
ほとんどは記者か、暇つぶしの老人だった。
一度だけ、若い女が泣いていた。
被害者の元恋人らしかった。
彼女は判決前の廊下で、
「なんであの人だったの」
と言った。
誰に向けた言葉なのか、よくわからなかった。
*
その頃には、彼はもう仕事の話をしなくなっていた。
携帯もほとんど鳴らなかった。
たまに鳴っても、画面を見るだけで出なかった。
私は特に何も言わなかった。
ある夜、彼はベランダで煙草を吸いながら、
「なあ」
と言った。
外は雨だった。
「俺のこと、殺してくれない?」
小さい声だった。
冗談みたいにも聞こえた。
私は少し考えた。
彼は笑いながら、
「やっぱ今のなし」
と言った。
私は頷いた。
それからしばらく、雨の音だけ聞こえていた。
*
判決前、担当裁判官はこう言った。
「あなたは本当に、彼のためだと思ってやったんですか」
彼は少し考えてから、
「頼まれたので」
と答えた。
法廷が静かになった。
*
それからしばらく、彼はその話をしなかった。
私も聞かなかった。
以前と同じ生活が続いた。
私は仕事へ行き、帰りに煙草を買った。
彼は昼過ぎに起きて、夜になると少しだけ喋った。
食器は流しに溜まり、洗濯物は畳まれないまま床に置かれていた。
私は気づいた時に片付けた。
*
近所の住人は、逮捕のあともしばらく信じていなかったらしい。
「あの子が?」
という声を、私は何度も聞いた。
アパートの管理人は、
「ちゃんと挨拶する子だった」
と言った。
*
職場では、いつも通りだった。
残業を代わった。
休みの日に連絡が来て、倉庫まで鍵を届けに行った。
同僚には感謝された。
優しいですね、と言われることがあった。
*
会社の同僚の一人は、面会にも来ていた。
透明な板の向こうで、彼は困ったように笑っていた。
「なんで言ってくれなかったんですか」
何をだろう、と私は思った。
彼は目を赤くしながら、
「一人で抱え込むから」
と言った。
*
彼は時々、昔の話をした。
高校の帰り道のこととか、海へ行った日のこととか、細かいことをよく覚えていた。
私はあまり覚えていなかった。
彼はそれを笑った。
「お前、ほんと人に興味ないよな」
煙草の灰が床に落ちた。
彼は拾わなかった。
*
精神鑑定の結果について、新聞は小さく報じていた。
重度の精神異常は認められず。
判断能力あり。
*
冬が終わる頃、彼はほとんど風呂に入らなくなった。
部屋の匂いが少し変わった。
私は窓を開けた。
寒い、と言われたので閉めた。
その夜、彼は珍しく酒を飲んでいた。
缶を何本も床に並べて、天井を見ていた。
三時を過ぎた頃、起こされた。
彼は暗い部屋の中で煙草を吸っていた。
「前に言ったこと、覚えてる?」
私は少し考えた。
「殺してくれってやつ」
雨の音がしていた。
彼は煙草を灰皿に押しつけて、
「お前ならやってくれると思った」
と言った。
私は何も言わなかった。
彼も、それ以上は何も言わなかった。
*
検察は、この部分を強調した。
「被告は拒否することもできた」
当然のことだった。
法廷の誰もが頷いていた。
ただ彼だけが、少し不思議そうな顔をしていた。
*
朝、私はいつも通り仕事へ行った。
雪が少し積もっていた。
駅までの道で、子供が転んで泣いていた。
母親が駆け寄って、服についた雪を払っていた。
私はその横を通り過ぎた。
*
昼頃、彼から珍しく連絡が来た。
『煙草』
それだけだった。
帰りにいつもの銘柄を二箱買った。
ついでに弁当も買った。
コンビニの店員に箸を二膳つけますかと聞かれ、
「はい」
と答えた。
*
このあたりから、手記を読む速度が少し落ちた。
彼はまだ、コンビニへ行っている。
弁当を買っている。
煙草を選んでいる。
*
帰宅すると、部屋は暗かった。
カーテンは閉まっていた。
彼はベランダにいた。
寒そうな格好で、煙草を吸っていた。
「雪すごいな」
と言った。
私は弁当を机に置いた。
彼はしばらく外を見ていたが、やがて部屋に入ってきた。
足が少しふらついていた。
*
アパートの住人の一人は、その夜、何も聞かなかったと言った。
「静かな人たちだったから」
隣室の大学生は、
「たまに笑い声は聞こえました」
と証言した。
*
弁当は半分くらい残した。
食欲ない、と言った。
私は残った焼き魚を食べた。
テレビはついていたが、音は聞いていなかった。
彼は缶ビールを開けた。
ぷし、と小さい音がした。
*
夜中、また起こされた。
時計を見ると、二時を過ぎていた。
彼は床に座っていた。
煙草は吸っていなかった。
「なあ」
と言った。
私は返事をした。
「やっぱ無理か」
何のことかは聞かなかった。
彼は少し笑った。
「お前、優しいもんな」
その言い方が、少し変だった。
*
法廷でその部分が読み上げられた時、傍聴席の何人かが顔をしかめた。
録音は残っていない。
*
彼は立ち上がって、台所へ行った。
水を飲む音がした。
しばらくして戻ってくると、私の前に座った。
暗くて顔はよく見えなかった。
「俺さ」
そこで言葉が止まった。
冷蔵庫の音だけ聞こえていた。
「もう無理なんだよね、多分」
私は黙っていた。
何を言えばいいのかわからなかった。
彼は笑った。
「そういう顔するよな、お前」
*
精神科医は証言台で、
「被害者には希死念慮が見られます」
と言った。
検察はすぐに、
「だからといって殺害が許されるわけではありません」
と続けた。
*
しばらくして、彼は急に、
「首、絞めたら死ねるかな」
と言った。
冗談みたいな口調だった。
私は少し考えた。
「わからない」
と答えた。
「そっか」
彼は頷いた。
それから、少しだけ静かになった。
*
外はずっと雪だった。
街灯の光がカーテンの隙間から入っていた。
彼は壁にもたれて座っていた。
「苦しいの嫌なんだよな」
独り言みたいだった。
私はテーブルの上を見ていた。
コンビニのレシートが置いてあった。
煙草二箱。
弁当二つ。
*
後に押収品一覧として提出された物の中に、そのレシートも含まれていた。
証拠番号三十二。
印字が少し薄れていた。
*
「なあ」
彼がまた言った。
「頼めるのお前しかいないんだよ」
その声は、今までで一番静かだった。
私は少し考えた。
彼は何も急かさなかった。
ただこちらを見ていた。
*
私は昔から、頼まれると断れなかった。
残業も、金の貸し借りも、夜中の電話も。
彼も、多分それを知っていた。
*
「……いいよ」
と、私は言った。
彼は少し笑った。
安心したみたいな顔だった。
*
傍聴席の後ろで、誰かが小さく息を呑んだ。
検察官は眉をひそめ、裁判長は無表情のまま記録を見ていた。
*
彼は自分で座布団を床に置いた。
「なんか変に緊張するな」
と笑った。
私は向かいに座った。
彼は、
「ごめんな」
と言った。
私は首を振った。
*
被害者の母親は、証言の日、一度も彼を見なかった。
ずっと膝の上でハンカチを握っていた。
「息子は、生きたかったと思います」
涙声だった。
*
「苦しかったら暴れるかも」
彼がそう言って笑った。
「その時はちゃんとやって」
私は頷いた。
外ではまだ雪が降っていた。
*
私は、彼の首に手を置いた。
体温があった。
彼は目を閉じた。
しばらく、そのままだった。
時計の音が聞こえていた。
*
実況見分の写真には、壁掛け時計まで写っていた。
午前三時十二分。
*
最初に力を入れた時、彼は少し肩を震わせた。
それでも抵抗はしなかった。
私は彼の顔を見ていた。
彼も途中まで、私を見ていた。
*
苦しそうだった。
当たり前だと思った。
彼の手が私の腕を掴んだ。
爪が少し痛かった。
私は、その手を振り払わなかった。
*
法廷では、その瞬間について何度も質問された。
「被害者は抵抗しましたか」
「あなたを拒絶しませんでしたか」
彼は少し考えてから、
「苦しかったんだと思います」
と答えた。
*
途中で、彼は泣いていた。
私は初めて見た。
でも声は出していなかった。
私はそれを見ながら、少しだけ困った。
やめた方がいいのか、わからなくなった。
*
その部分だけ、手記には小さな訂正線が残っていた。
*
彼は、その時。
ちゃんと、生きようとしていた。
*
そのあと、どのくらい時間が経ったのかよく覚えていない。
気づくと、部屋が静かだった。
雪の音だけしていた。
彼は動かなかった。
私はしばらく、そのまま座っていた。
*
法医学者の話によれば、死因は頸部圧迫による窒息死。
死亡推定時刻は午前三時頃。
*
彼の目は少し開いていた。
私は閉じようとしたが、うまく閉じなかった。
何度か触って、諦めた。
床には煙草の灰が落ちていた。
私はそれを拾って、ゴミ箱に捨てた。
*
その行動について、検察は「犯行後の冷静な証拠隠滅」と主張した。
弁護人は「日常動作の延長に過ぎない」と反論した。
*
台所へ行って、水を飲んだ。
冷たかった。
コップを流しに置いた時、大きな音がした。
私は少し驚いた。
彼は起きなかった。
*
逮捕時、警察官の一人は、
「妙に落ち着いていた」
と証言している。
ただ、
「もう呼吸してません」
とだけ言ったらしい。
*
私は部屋を見回した。
脱ぎっぱなしの服。
空いた缶。
テーブルの上のレシート。
昨日までと、ほとんど変わらなかった。
*
その夜の通報記録には、数秒ほど沈黙が残っている。
オペレーターが「もしもし」と繰り返したあと、
『友人が死にました』
という声が入っていた。
*
救急隊員が到着した時、私は玄関で待っていた。
寒かったので、上着を着ていた。
*
被害者の爪からは、被告人の皮膚片が検出された。
法廷では、その事実が強く読み上げられた。
抵抗の証拠として。
*
警察署の取調室は、思っていたより狭かった。
机と椅子があるだけだった。
刑事は缶コーヒーを一本置いて、
「飲む?」
と聞いた。
私は首を振った。
*
取調べを担当した刑事は、後にこう話している。
「最初、庇ってるのかと思ったんですよ」
動機が見えなかったからだ。
だから何度も確認したらしい。
「本当に頼まれたのか」
彼は毎回、
「はい」
と答えた。
*
「なんで殺したの」
刑事は途中から、そう聞くようになった。
私は少し考えた。
「頼まれたので」
「だから、それだけで人殺せる?」
私はうまく答えられなかった。
*
手記を読んでいると、時々、読む手が止まった。
*
刑事は、途中で煙草を吸いに行った。
戻ってくると、
「お前、優しいって言われるだろ」
と言った。
私は頷いた。
「それ、褒め言葉じゃない時あるからな」
私は何も言わなかった。
*
その発言は、正式な調書には残っていない。
残っているのは、時間と供述だけだ。
*
母が面会に来たのは、その翌週だった。
透明な板の向こうで、母は泣いていた。
「どうしてなの」
と言われた。
私は少し考えた。
「お願いされたから」
と言うと、母はもっと泣いた。
*
世間は、この事件をわかりやすい形にしたがった。
洗脳。
共依存。
心中未遂。
*
ある日、刑事が言った。
「お前さ、あいつのこと好きだったの?」
私は少し考えた。
好き、という言葉がよくわからなかった。
「多分」
と答えると、
「多分ってなんだよ」
と笑われた。
私も少し笑った。
*
その瞬間の記録映像が残っている。
取調室の端で、二人とも少し笑っていた。
*
春になる頃には、事件の記事も少し減っていた。
*
それでも、被害者の母親だけは毎回法廷に来ていた。
小柄な人だった。
いつも同じ紺色の服を着ていた。
一度だけ、閉廷後の廊下で彼とすれ違った。
彼は立ち止まり、小さく頭を下げた。
母親は何も言わなかった。
その代わり、少しだけ後ずさった。
*
あとで彼は、そのことを手記に書いている。
『怖がらせてしまったと思う』
*
弁護人は情状酌量を求めていた。
「被告人は極めて従属性の高い人格であり――」
彼は途中から聞いていなかったと思う。
ずっと机の木目を見ていた。
*
判決前の最後の面会で、母はまた泣いた。
「帰ってきたら、ちゃんとご飯作るからね」
と言った。
彼は少し困った顔をした。
「うん」
とだけ答えた。
*
手記は、その少し後に書き終えられている。
最後のページには、日付だけがあった。
*
判決当日、法廷にはいつもより人が多かった。
裁判長は長い紙を読み上げ、
「被告人を懲役十二年に処する」
と言った。
*
彼は、小さく頭を下げた。
ただ、
「はい」
と言った。
*
そのあと護送される時、彼は一度だけ振り返った。
*
後日、私は最後のページをもう一度読み返した。
そこには、短くこう書かれていた。
『多分、あの時止めるべきだったのだと思う』
*
窓の外では、春の雨が降っていた。
私はしばらく手記を閉じたまま、机の上に置いていた。
けれど最後まで読んでも、私は彼のことをうまく説明できなかった。
ただ一つわかるのは。
彼のことを悪く言う人間を、私は最後まで一人も知らなかった。