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濃尾平野で生まれて #創作大賞2026

    あらすじ。
    今回、#創作大賞2026 に応募してみることにしました。
    私が生まれた濃尾平野の時の流れを、時代と四季と共に記録に残してみようと思いました。
    #オールカテゴリ部門  だけではなく、広く田舎がある人、田舎に興味がある人、同じ地域の人に読んでもらいたいです。
    どこか1文でも新聞に載りたいな。特に地域の岐阜新聞さんや中日新聞さんのみなさまが見てくれるといいな。

    :::::::::::::::::::::

    春の小川は さらさらいくよ
    岸のすみれや れんげの花に
    すがたやさしく 色うつくしく
    咲けよ咲けよと ささやきながら

    春の小川は さらさらいくよ
    えびやめだかや 小ぶなの群れに

    1970年代(〜園児)
    私の生まれた田舎は、この歌そのものの世界だった。
    山と川に囲まれ、古い大きな家がポツンとポツンと点在し、田んぼが広がり、家を囲むようにして人1人歩く幅しかない田んぼの畦道は、春になると土に混じって野の草花が咲いていた。小さな草ならそのまま踏みつけて歩き、その度に靴からぷんと緑の匂いがした。クローバーがあると四つ葉を探しながら、たんぽぽやつくしは踏まずに歩いた。大きなたんぽぽを見つけると、茎からちぎって、4〜5センチほどの長さにし、苦っと思いながら口に当てプープーとラッパや笛のように鳴らしながら歩いた。小さなエンドウも、ちぎってはプープー鳴らした。目の前は水平線の田んぼで、遠くには青い山脈が連なって見えていた。一番手前の山にはいつも山頂に雪が積もっていたのが見えた。
    田んぼの横の用水路は、水の流れが見えて、ザバザバ音をたて、お魚いるかな?とよく覗いたものだ。私は魚を見つけられなかったが、祖母は見つけるのがうまかった。
    ある日、澄んだように透明で、ガラスのようにとても綺麗な水たまりがあったので、どんな味がするかなと思って四つん這いになって飲もうとした。「そんな汚いもん飲むな!死んでまうぞ!」と、おばぁちゃんにしこたま怒られた。それ以来水たまりの水は飲もうとしていない。
    私はおばぁちゃんのいちご畑が大好きだった。小ぶりなものが多かったけど、畑でちぎっては、水で洗って、砂糖と練乳をかけて食べた。その頃から常温のフルーツが好きになった。

    田んぼは、全て稲ではなくて、稲作する人がいないのか、栄養のための休田なのか、一面ピンクのれんげの花がたくさん咲いてるところがあった。幼なじみや近所の子と、田んぼに入ってはれんげの花輪を毎日のように作って遊んでいた。中でも、ごく稀に真っ白なれんげの花が咲いていた。たいてい1つの田んぼに1つ2つ咲いていたので、それを見つけるのがとても楽しかった。
    道路には、コンバインがドドドドと音をたて、ゆっくり走っていった。

    冬、保育園で、とある出来事があった。なんかの影響で、数日間、お昼のお弁当を持って来ることになった。でも冬なのでカチコチに冷たくなってしまう。そのお弁当を温めようと、保育園の先生が、大きな銀色の鉄の四角い機械(暖飯器)を持ってきたのだ。まるでテレビアニメのマジンガーZのようにかっこよく見た。みんな興味深々だった。「この中に入れるの?」「お弁当暖かいんだって」「へぇ」お昼が待ち遠しかった。お昼になると、先生はギコギコと四角い機械を持ってきて、1個1個丁寧に配った。本当に温かった。すごい!と私は思った。ところがえみちゃんは困った顔をしていた。えみちゃんのお弁当は、お昼は冷たいと想定していたので、冷えても美味しいお稲荷さんとウサギ形のりんごだった。先生は温めてしまったので、えみちゃんは生温かいお稲荷さんとりんごを食べることになった。「おいしくないよ」と言っていた。ちなみにえみちゃんのおばぁちゃんは、自宅で手作りの豆腐を作っていた。

    私は生まれながらにして、家が3つあった。母家と、父の工場と、母の作業場だ。3つの建物が1つの敷地にあった。それでも私の家は最近の家なので周りに比べたら大きくはなかった。近所の何百年も昔から住んでる人たちは、何段も積んだ石垣の上に家があった。大きな門があり、2階建ての瓦の母家、庭は松の木がある日本庭園で、白い蔵、コンバインがすっぽり2〜3台入る農作業の倉庫、それらをぐるっと垣根で囲んでいるのが普通だった。いろんなところに田んぼや畑を持ち、中には近くに大きな山を持ってる人もいた。

    1980年代(小学生)
    私は春から小学校に通うになった。その頃、学校は木造から鉄筋になったばかりだった。学校の前には、古くからある石橋があった。学校は遠く、みんなで集団登下校した。通学路には、ヨモギがいっぱい生えていた。でも誰も採らなかった。たまにどこかのおばぁちゃんが採りに来ていたようだ。近所の人から、あんこの入ったよもぎもちをもらって食べていた。
    途中、菜の花が咲いてるエリアがあったので、帰りにみんなで寄り道をした。菜の花は大きく、自分の背丈以上あった。見上げると黄色の花に包まれて、いい気分になった。茎からニョキニョキ生えてる実をちぎると、水分がびょっと出ててくるので、水分補給をした。
    水分補給は、そのほか、サルビアの花、ツツジの花もあった。
    いつしか、菜の花は人の畑になってしまった。もともと誰かが管理していたのかもしれない、学校から「実をちぎってはいけません」とみんなで怒られた。
    小学1年生の時、鯨が学校に来た。大きな鯨かと思ったら、小さな鯨だった。解体をするところを見た。解体といっても、ちょっと切るだけだった。給食にサイコロほどの四角いくじらの肉が出た。でもそれっきりだった。

    新しい先生達は、クラスメイトの毛利くんの名前を見ると、必ずこう言った。「毛利?ひょっとしてあの毛利軍の毛利か?」関ヶ原に近かったので、そう思うらしい。でも私たちは、毛利くんのお母さんはおとなしくて優しい人だということを知っているので、「先生、違うと思います」と言った。毛利くんはおとなしいので何も言わなかった。
    何年生になっても新しい先生は関ヶ原のことを言う。「ねぇ、あっちにいくと関ヶ原なんでしょ?」「次の日曜日、関ヶ原に行くんだ」と言った。私たちは、当時は関ヶ原に行っても山ばかりで何もなく、あんな何もないところに行って何が楽しいのだろう?と、ポカーンとしていた。「もうっ!この辺の人たちはピンとこないかもしれないけど、天下分け目の関ヶ原って、全国ではすごいことなのよ!!」と、プンスカしていた。そんなこと初めて知った。関ヶ原が羨ましい?どういうことなのだろう。

    小学1年か2年の時、教科書に、「スーパーマーケット」のページがあった。商店街のイラストもあった。スーパーマーケットをなんとなくしか分からない私たちは先生に「スーパーマーケットってなんですか?」と聞いたら「この辺には無いね」と答えた。誰かが「タマコシのことじゃないか」と言った。

    土曜日は、授業が午前中のみの「半ドン」だった。なぜか土曜日だけ近道をして帰ることになっていた。川沿いには桜があり、満開だった。昔からきれいが当たり前だったので、特に驚きはなかった。川では土手の草原に座り込み、釣りをしている同級生もいた。牛小屋の牛の匂いがするところは、少し小走りをして帰った。
    近くに店がないので、土曜日になると、近くに移動販売のトラックが1台来た。私はそこのうずらのたまごの串が大好きだった。土曜日になると、母から小銭を受け取り、買いに行っていた。

    初夏になると、桜の木は、全て新緑の葉でおおわれた。私にとっては、葉は1枚1枚違う緑色に見えた。キラキラ光ったり、太陽に当たったり、雲の影になったり、葉の影になったり、枝に反射したしていた。
    夜には、田んぼにいる蛙の大合唱だった。ケロケロケロと、でもうるさくは感じなかった。逆に心が落ち着いてよく眠れた。カエルは見るのはイヤだけど、声はイヤじゃなかった。だけど、グォーグォーとなるカエルはやっぱり怖くてイヤだった。

    夏休みが始まった。
    子供の朝は早い。朝6時半から公園でラジオ体操と、その後、お寺でお経を読んだり、習字を習ったりした。その後、やっと自分の時間だ。
    ラジオ体操に多く前に、必ず朝顔に挨拶をした。まだひんやりしてる朝と緑の香り。朝顔の観察も欠かさなかった。葉の成長まで描いた。
    私は幼馴染や友人や近所の子と、毎日のように遊んだ。学校のプールへ毎日のように行った。学校で配られたプリントには勉強になるNHKのテレビ番組表があった。理科の実験や、社会などの番組を見た。
    山へキャンプに行った。学校、そろばん塾、幼なじみと、何度も行った。バンガローで1泊し、カレーを作ったり、川で泳いだり、セミの声を聞いたり、スイカを置いてクワガタを捕まえたり、バーベキューをしたりした。学校では、毎年、誰かが川に流された。特にニュースになることもなかった。男子たちが「あそこ急に流れはえーんやて!」「おれ、でかい石につかまった!あははは。」「誰かハンカチ落さんかった?拾ったで。これ誰のですかー!?」と武勇伝のように話した。日が沈む頃、暗い森の中からヒヒヒヒキキキキと鳴くひぐらしの蝉の声が広く響き渡り、とても怖かった。

    夏はよくみんなで近くの川で泳いだ。保護者は、近所の親たちがなんとなく行ける人が行っていたようだ。どこでも泳げるのではなく、遠浅で泳ぎやすいところを、親たちが知っていた。「いいか、奥に行くんじゃないぞ。あそこは川の流れが早いからな。あそこは深いし、あそこは足元が岩だらけだから必ずビーチサンダルをつけろ。すぐ潮が満ちるから浅いところにいろ」と、色々教えてくれた。その川での事故は全くなかった。河原には何台も車が停まっていた。車から降りると、砂利の石が熱くて「熱い熱い」と言いながら、川まで歩いた。川に入ると、今度は冷たく「冷たい冷たい」と言いながら、岩についた藻がツルツルで、「滑る滑る」と言いながら、川に入った。足元には、小さな鮎の稚魚もたくさん泳いでいた。大きな鮎の影を見つけては、「あそこに大きいのがいる!」と、みんなで捕まえようとした。捕まえてもすぐ逃した。夏祭りの時、あゆのつかみ取り大会がよく行われていた。みんな素手で魚を捕まえることができる。
    あゆを食べるかわやなには、家族と親戚とでよく食べに行った。河原に簡易的な日差しよけがあり、陽が落ち、涼しくなり、コオロギの声が聞こえてきた。星空の下、みんなであゆ料理を食べた。揚げ物に、刺身に、雑炊にしたりした。私はいつもお腹いっぱいになった。このあゆを食べないと、夏じゃない気がした。
    祖母が田んぼでフナを、父が川でしじみを、親戚のおじさんが川ガニをとってきて、よくそれを食べた。クラスメイトのなっこちゃんのお父さんは釣りが大好きで、よくみんなを池まで釣りに連れていってくれた。「今日はここはダメだな」と、釣れるまで池を転々とした。その川はダムがないので、池が点在していたのだ。今思うと、川を汚さない選択をした先人達に感謝している。

    私の家族と幼なじみで、今度は海へ行くことになった。海なし県民なので、海に行くとなったら、一大事だ。1年に1回あるかないかだ。みんなはしゃいでいた。スイカの形のビーチボールを持つことが憧れだった。
    父親が車を運転し、太平洋の海へ行った。私はお土産屋さんにあった、小さな小瓶に入った「星の砂」に夢中になった。砂は白くて星の形をしている。母は真珠がどうのこうのと言っていた。
    「これ本当にはまぐり?」昼には、見たことのない大きな、焼きたての蛤を食べた。いつもは、川のしじみを食べていたので、その蛤の大きさに本当にびっくりした。七輪に黒い鉄の網に乗せて焼いた。醤油を少し垂らしただけだったと思うが、旨味が滲み出て、本当に美味しかった。まだそれより美味しいはまぐりに出会えていない。今までの人生で一番美味しい蛤だった。

    稲が黄金になると、秋だ。山には紅葉する樹木があまりなかったので、紅葉を見に行った記憶はあまりない。山に行き、栗を拾い、栗ご飯にして食べた。これも人生で一番美味しい栗ごはんだった。祖母の家の庭には、柿の木畑があり、柿を食べた。渋柿か干し柿か忘れたが、それも作っていて、子供の頃は苦く感じたので、あまり食べなかった。田舎なので、みずみずしい梨などの果物もいっぱいもらった。
    夕焼けも美しく、空を見上げては鳥が山へ飛んでいくのが見えた。
    気候がいいので、秋になると学校で毎年写生大会があった。外に出て、みんな好きな場所で、水彩絵の具で絵を描くのだ。2日ほどあったと思う。私はそれが大好きだった。神社の苔だらけの大きな灯籠を見上げるように描いた。賞をもらったこともある。
    紅葉は主に神社にあるので、山の神社に行かされた。が、その神社には、仏の教えなのか、地下に1週する真っ暗な歩道があって、とにかく怖かった。片手で友人と手を繋いだり服を掴んだり、もう片手で手探りで歩いた。みんなで、「怖い!何も見えへん!」「どこ?まだ?キャー!」と。キャーキャー言いながら1週した。最後は必ずみんなで「あー怖かった」と言った。父親は般若心経の本を持ち、最後まで唱えていた。終わるのが長かった。

    冬になると、工場のトタンの屋根から、30cmはあろうかと思うぐらいの、大きな長いツララが何本もできることがあった。先っぽを折り、透明具合を見てから、ボリボリ食べた。30cmぐらいの雪が降ることもあり、夜な夜な雪だるまを作ることもあった。親に「かぜひくから早く家に入れ」と注意された。出来上がりは、玄関の前に飾った。翌朝になると、道路の雪は凍ってジャリジャリだったり、ゴリゴリに固まったタイヤ痕は、歩く時危険さえ感じた。冬休みに、吹雪になり、4日間外出しなかった日もある。その後、晴れても、母は「あそこの山道、雪がまだあるやろか、ないやろか。どっちやと思う?車で買い物したくても、あの道に雪があったらなんともならん・・」とブツブツ言っていた。私は「雪はあるけど、少しだけで、ギリギリ車で通れると思う」と答えた。

    垣根の垣根の曲がり角
    焚き火だ焚き火だ落ち葉焚き
    あーた廊下当たろうよ、北風ぴぃぷう吹いている。

    この歌のとうり、祖母の家の垣根の曲がり角で餅つきをした。本当に北風が入ってこなくて、暖かだった。
    年末年始は、母の兄弟の家族が集まって、みんなで餅つきをした。力持ちのおじさんは、石臼をごろごろ回しながら運んだ。一年間ほど乾燥させた薪を使って、私はフーフーと火を起こし、もち米を炊き、ペッタンペッタンと杵でついた。子供用の杵もあったので、大人に混じって子供は少しだけお餅をつ具ことができた。おばぁちゃんは熱々の餅をひっくり返していた。神棚に飾るお餅ができたあと、みんなで残りのお餅を食べた。おばぁちゃんの畑から、大根を引っこ抜き、そのまま削って醤油をかけて食べた。採りたてだから、めっちゃ水分があった。大根の先は辛いので、「ヒー辛い辛い」と言いながら食べた。私はこの辛い大根のお餅が大好きだった。
    庭や、近所の堤防で、凧揚げをした。凧揚げはすぐ体が温まった。

    そういえば、小学6年生になると、最上級生なので、学校の最上階になった。しかも私のクラスは、運よく角の教室になり、見晴らしもよく広かった。そこから、新幹線が走るのが見えた。クラスの男の子は、新幹線が通るたび、時間をメモしていた。あまりにも新幹線に夢中になるので、先生が授業に集中するようにと怒った。

    1980年代後半(中学生)
    中学生になったら、父から「山をナメたら死ぬぞ」と、教育された。
    「夏でも絶対暖かい暖かい格好をしろ。上着を持っていくんだ。いいか、人は1センチもあれば溺れて死ぬ。」「1cmで?まさかぁ?」「本当だ。うつ伏せになって倒れてみろ。口元と鼻が水で埋もれるだろ?呼吸ができなくなり、死ぬ。」試しにやってみたら、本当だ!と、私はゾッとした。
    その頃、真夏でも山頂では雪が残り、夏スキーを楽しんでる人たちの姿があった。雪解け水は冷たく、試しに足を入れてみたら、2秒も浸かっていられなかった。だからあひるが優雅に泳いでいるのか。我々人間が追って来られないと知っているのだ。
    中学生になると、学校で3000m級の山に登らされた。そこで3泊4日で、山での集団生活を学んだ。そういう施設があるのだ。ベッドのシーツのたたみ方、物の並べ方や向きなども統一してやらされる。他県の子も来るので、全く知らない学校の子と一緒になった。なんと私たちは声の出ない学校の子たちと同じだった。同じ歳の子たちが、素早い手の動きだけで会話していた。生まれて初めて手話を見た。私たちは手話ができないので、何もできなかった。無力さを知った。ところが、しばらくしたら、よっちゃんが手話をしていたのだ。よっちゃんは背が高めで、長い髪をしていて、少し大人びていた。私は聞いた。「えっ?手話知ってるの?」「あのさ、めっちゃかっこいい男の子いたやん?」「いたいた」「さっき、その子に教えてもらったの」「ええっ?!」さすがよっちゃん。そんなことできるの?行動が早すぎてついていけない。その男の子は、すれ違うたび、よっちゃんに手を振っていた。
    雲海を楽しみにしていたけど、今回は見れなかった。翌年の後輩たちは素晴らしい雲海が見れたらしい。先生が写真を見せてくれた。
    山を持っていた先生が、トラックで竹を運んできてくれた。「おおい、みんな!ぜんちゃん(先生の呼び名)が竹を持ってきたぞ!」クラスの数だけ自宅の竹を切って、持ってきたのだ。トラックの荷台から、笹が溢れ出ていた。先生はトラックの中でニヤニヤしていた。自慢したいのだろう。七夕になると、体育館で、クラス対抗笹の葉の飾りつけ大会が行われた。飾りつけが終わった竹が体育館の壁際にズラッと並ぶ姿は、子供ながらに壮観だった。飾りつけはクラスの個性も出ていた。
    絵が好きだった私は、中学2年生のとき、将来は絵に関係する仕事をしようと決めた。

    1990年(高校生)
    美術部のある高校に入った。ここで生涯の友を得た。
    美術部のみんなで、デッサン旅行に行った。彦根城とかも行った。めちゃくちゃ楽しかった。
    大学も美術大学に決めた。油絵コースか、デザインコースかで迷ったが、先生が、「絵画の先生はいつでもなれる。いつでもどこでも働けるよう、グラフッックデザイナーがいい」とアドバイスしてくれ、グラフッックデザイナーを目指すことにした。受験は主にデッサン。見たまま描くだけなので、簡単だった。そして、楽しかった。
    高校では、カヌーに乗って、みんなで漕ぐ練習をした。もちろん、女子もオールで漕いだ。水難の訓練でもあると思う。

    1990年代初頭(大学生)
    無事、名古屋の美術大学に受かった。というか全部受かった。
    野菜が高騰していたのに、デッサンで出た学校があった。
    白いタオルと白いダンボールと白いドーナツ電球がでた学校があった。白くて平たいものを、いかに立体的に、いかに描き分けるかということだ。レベルが高いなと思った。
    私は、大学の寮に入った。

    1990年代中盤以降(社会人)
    尾張名古屋に就職した。そのまま名古屋に住むことになった。
    みんなバブル崩壊で、就職できなかった。私は運がいい方だ。
    田舎に、道路工事の波が押し寄せてきた。
    お盆か、正月に実家に帰るたび、自然がなくなっていった。

    2000年代〜2020年代
    家を囲っていた田んぼの畦道は、コンクリートの道路となり、多くのトラックがビュンビュンと通り、田んぼは埋立られ、工場が立ち並んだ。
    つくしも花の蜜もフナもいなくなり、私は食べるものがなくなった。
    工場があるのに、私の食べ物がなくなったのだ。
    温暖化が進み、田植えとれんげ畑の時期ががズレてしまい、れんげ草が無くなってしまった。鮮やかなピンクの色彩も視界から消えた。
    雪もツララも無くなった。白の世界も無くなってしまった。

    垣根の垣根の曲がり角
    焚き火だ焚き火だ落ち葉焚き
    あーた廊下当たろうよ、北風ぴぃぷう吹いている。

    と私は歌った。そしたら姪っ子が「その歌なぁに?」と聞いてきた。「えっ?幼稚園で歌うでしょ?」「知らなぁい」「歌わないの?」親戚の、都会からきた新しいお嫁さんが「今、焚き火はできないんですよ。うちでは違法になっちゃって。火事になるからって。ここは許可とかされてるんですか?」
    え?許可?
    周りの民家も餅つきをしてるので、そんなこと考えたこともなかった。
    とある神社の神事の馬も、馬が可哀想という都会人の声が上がった。
    田舎の生活が、都会の生活に埋もれていった。

    仕事場が、名古屋から、東京に移った。
    岐阜から来たというと、質問された。
    都会と田舎の生活の違いが話題となった。
    ・「Nさん、なんでお経が読めるの?お経の最初ってどんなの?」
    ・「Nさんって西方面ですよね。僕家紋マニアなんですけど。」
    ・「私、都会育ちだから、海で溺れそうになって。海って、プールみたいなものだと思っていたの。」「私の学校、プール、大・中・小と3つありましたよ。運動場は2つかな。裏には山羊がいましたよ。田舎だから土地だけはあるんですよ。田舎ってそんなもんですよ。」
    ・「Nさん、岐阜っていっぱいお城あるよね。」「一夜城の城跡は遊び場で、遠足でもよく行きましたよ。今は観光でお城建ってるけど。」「いいなぁ、城跡で遊ぶなんて贅沢だなぁ、僕はね、定年退職したら地方の城巡りするつもりなんだ!」
    ・「えっ?学校でスキーに行くの?学校でキャンプしに行くの?学校で海に行くの?」「そうだよ。学校で、紙漉き体験も行くよ。」「いいなー!私何もしたことがない・・!羨ましい!」
    ・「岐阜って世界遺産あるんでしょ?!行ってみたいんだぁ!古民家カフェとかも行ってみたい!」「古民家?めちゃくちゃありますよ。」
    ・「風船飛ばし?」「学校で風船飛ばしもしたよ。お手紙書いて飛ばして。本当に返事が来たよ。」「ええ〜ーいいなー、そういうのしてみたい!」
    ・「私の祖母の畑にレモンがあって。」「いいなー!国産じゃん!!国産レモン食べたい!」
    ・「こないだ、新しい道ができて、新しい温泉行ってきたよ。」「えっ?!道路ってもうできてるもんじゃないの?温泉って新しくできるものなの?」
    ・「Nさん、家3つもあるの!?え?みんな庭付き?」「池に鯉とかいたよ。おとんが池のスッポン食べた時はもうトラウマでさ・・」「庭に池があるの?スッポンもいたの?ええ?」
    ・「夏は川でよく泳いだよ。」「ええっ?!こっちの都会だと川で泳げないよ。信じられない。いいなぁ羨ましい。」
    ・「Nさんは、どこの予備校に行っていたの?」「え?田舎だから予備校なんてないよ。」「えっ?じゃぁどうやって美術大学受かったの?予備校行かずに美大に受かるなんてありえないよ。」「田舎の絵画教室の2階で、夏休み1ヶ月だけデッサンの勉強をしたよ。」それで受かると奇跡だと言われた。そうなんだ。よく考えたら、小学生の頃の朝顔の観察で、見たものをそのまま紙に落とす訓練がついたようだ。私は朝顔の観察で美大に受かったようなものだ。「あら奇跡なの?ごっめーん、しかも華のデザイン科!」と笑ってごまかした。

    「濃尾平野?輪中地帯?教科書で習ったよ!みんな、シャトーに住んでるんでしょ?いいなー!って。」
    「シャトー?!」
    「お城みたいな、石垣の上に住んでるんでしょ?!」
    「ええっ?!お城じゃないよ。」
    石垣の上には住んでるが、生まれて初めて石垣をシャトーと言われた。私はおかしくって笑ってしまった。本人は、石垣の上だからお城という。

    都会でいい仕事についていいマンション持ってる人が、私たちの子供の頃を羨ましがった。岐阜のコメも林檎も美味しいといってくれた。
    都会の山岳用品が売られている「モンベル」に行った時、スキー用品やバーベキュー用品の値段にびっくりした。寝袋が4万円、カヌーが8万円から売られてた。びっくりした。こんな小さなカヌーが8万円?!子供の頃は、全て大人達が貸してくれたので、値段がわからなかった。本当に恵まれていたのだと知った。

    とある国の仕事で、細かく言うと宣伝になってしまうから、大きな声ではいえないが、そうだ、もう廃刊になった仕事なら大丈夫だろう。光栄にも、文科省の平成28年度版中学音楽の教科書の誌面のデザインの仕事をした。その時は、岐阜の空、岐阜の新緑、山に夜のとばりが落ちるその暗闇、夕焼け、雪の音、春霞の桜、雪解けから顔を出す刈り取った稲の跡・・岐阜の全てを、誌面に落とし込んできた。
    デザイン人生に悔いはない。
    だけど、あの頃の自然は戻ってこない。

    私は食べるものも、景色も失ってしまった。
    だが、濃尾平野はまだまだ広い。
    美稲(うましね)がみのる濃尾の地は、変わってほしくない故郷の景色だ。

    #創作大賞2026 #オールカテゴリ部門

     
     
    ロスジェネ。グラフィックデザイナー。美術や旅行とか。お酒は飲めないのでランチとか。フランスのブルゴーニュ地方に短期留学経験あり。2026.3.13よりnote始めました。

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