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園だより 〜おむかえに関するお願い〜

    子どものいないオカルトライターのもとに、差出人不明の茶封筒が届く。中身は、ある保育園の「園だより」のコピー。一見ありふれたお便りだが、毎号のように奇妙な「おむかえのお願い」が書き添えられている。17時以降は子どもの名前をフルネームで3回呼んでから連れ帰ること——。ライターは取材を決意するが、現物は資料棚から消え、彼自身も消息を絶つ。

    残されたのは、園だより・連絡帳・保護者会の議事録・留守番電話の書き起こしといった断片的な資料と、当時この園に子を通わせていた保護者三名の証言だけ。母親のA、父親のB、園の「昔」を知る古老のC。彼らの語りと資料をたどるうち、「名前を三回呼ぶ」という決まりの背後にあるものと、ある一家の身に起きたことが、少しずつ輪郭を帯びていくー。

    ※保育園にまつわるホラー小説です。ホラーが苦手な方、保育園にお子さんを通わせている方は自己責任でお読みください。
    ※読み終わったら、必ず最後のアンケートにお答えください。

    ===

    「いやー、最初はいたずらだと思ったんですよね」

    N氏はそう苦笑いを浮かべながら、コーヒーをすすった。

    「よくあるんですよ。実名でSNSやりながらね、オカルトライターなんかやってると。〇〇墓地で幽霊を見た!とか、呪いの〇〇で心霊現象が起きた!とか。取材行ってみてくれませんか?って。

    自分だけでネタ探すのには限界がありますし。中にはおもしろそうなのもあるんで、足を運ぶんですけどね。

    まあ、俺が担当するコーナーならこんなもんでも喜んでもらえるかな、程度ですよ。」

    そう言いながら創刊25周年を迎えるオカルト雑誌『Nu』を手に取りヒラヒラさせる。

    「でもねぇ…なんていうか、あれだけは違うかなって。オカルトライターとしての本能ですかね?

    茶封筒に入っていて、消印は大阪のS市。中にコピー用紙が数枚、折りたたまれてたんですよね。

    俺、子どもいないからなんの紙か一瞬ピンとこなかったんですけど、タイトルみたらわかりました。

    『園だより』って書いてあったんですよ。あー、保育園かなんかのお知らせかなって。

    最初読んだときは普通のおたよりだなって思いました。なんだ、悪戯かよって。

    すぐ捨てようかなと思ったんですけど、まあ全部一応目を通すかって読んでたんですよね。

    そしたらね…変なんですよ、ところどころ。

    何が変かって?

    …お願いがね、書いてあるんです。毎回。

    そのお願いが、保育園ではよくあることなのかなって思ったんですけど。子どもいないからわからなくてね。

    でも、よくよく考えたら「さすがにやりすぎじゃないか」って内容なんですよ。

    最後は『退園手続きについてのお知らせ』で、そのおたよりは終わってました。

    読み終わったあと…なんていうのかなこう、すごくざわざわして。だから取っておいたんですよね。この保育園に取材しに行こうと思って。

    現物ですか?いや、それがどっかいっちゃったんですよ。

    どっかいった…という表現は語弊があるか。なんせ、大切にしてましたからね。きちんとファイリングして、ほら、あの資料棚の“ほ”の棚に保管しておいたんです。

    で、今日話を聞きに来るっておっしゃってたんで見せようとしたら…なくなってた。

    オカルトライターやってますけど、自分の身に何か起きるのは怖いんですよ(笑)だから、ここまでにしておいてください。俺が知ってるのはこれだけです。」

    現物なくなっちゃったけど、来週取材に行ってきますよと言って別れた彼とは、その後連絡が取れていない。


    ※以下に掲載するのは、この本の執筆過程で入手した資料と、当時この保育園に子どもを通わせていた三名の保護者の証言である。証言はすべて録音をもとに文字に起こし、ご本人の確認を得たうえで、発言の趣旨を損なわない範囲で整理した。
    ※プライバシー保護のため、園名・人名はすべて仮名とし、証言者は保護者A、B、Cと表記する。
    ※なお、資料の中に繰り返し登場する「木下さん」という保護者の一家とは、現在も連絡が取れていない。
    ※最後までお読みいただいたあとに、巻末の確認事項に必ずお答えいただきたい。

    【資料1】めばえ保育園 園だより 6月号(抜粋)

    保護者のみなさまへ
     紫陽花のつぼみがふくらむ季節となりました。園庭では、すみれ組さんが植えたミニトマトが元気に育っています。梅雨入りも間近です。お着替え(Tシャツ・ズボン・パンツ)の補充を、いつもより一枚多めにお願いいたします。

     さて、6月より、おむかえについて下記のとおりお願いいたします。

    ◆17時以降におむかえに来られる保護者さまは、必ずお子さまのお名前をフルネームで3回お呼びになってから、お連れ帰りください。

     ご不便をおかけしますが、お子さまの安全のため、ご協力をお願いいたします。
    めばえ保育園 園長 三隅

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    保護者Aの証言(一)

    Aさんは三十代の女性。取材当時、たんぽぽ組(三歳児クラス)に息子の悠真くん(仮名)を通わせていた。市内の中小企業で事務として働いており、お迎えはほぼ毎日、17時を過ぎていたという。取材は市内のカフェで、二時間ほどに分けて行った。

    ——最初にあの園だよりを読んだとき、どう思われましたか。
    変だなとは思いました。だって、3回も名前呼ぶんですよ?(笑)なんでろうなー、ちょっとめんどくさいなとは思いましたけど、正直、そこまで気にしてなかったんです。

    保育園のお便りって、細かいお願いが多いじゃないですか。おむつに名前を書いてくださいとか、爪を切ってきてくださいとか。その延長というか、また何かあったんかな、くらいで。

    名前を呼んでから連れて帰るって、防犯かなって思ったんです。ほら、たまにニュースであるでしょう?保護者のふりして連れ去ろうとする人の話。

    ああいうのの対策で、ちゃんと親子だって確認するために呼ばせてるのかなって。三回っていうのは大袈裟やし、理由はわからなかったけどまあ念のためやろって。

    最近、物騒ですしね。

    だから最初の何日かは、普通にやってたんですよ。お迎えに行って、教室の入口から「悠真、悠真、悠真」って。

    悠真は「なに?」って笑って嬉しそうに走ってくるから、「あ、これはこれでいいな」って。

    それで終わり。何ともなかったです。何ともないから、余計に深く考えなかった。

    ——他の保護者の方はどうでしたか。
    みんな、普通にやってましたよ。でもそれが…なんていうんかな、逆に不気味やったって、いまなら思います。

    誰も理由を知らんのに、みーんなやってるんです。夕方の廊下に立ってると、あっちからもこっちからも、子どもの名前を三回ずつ呼ぶ声が聞こえてくる。

    「――ちゃん、――ちゃん、――ちゃん」
    「――くん、――くん、――くん」って。

    ……そんなん、聞いたことあります?ないですよね。

    一回だけやったら普通なんですよ。お母さんが子どもを呼んでるだけやから。でも全員が全員、機械みたいに三回ずつ呼ぶんです。誰も雑談しながらとかじゃなくて、ちゃんと子どもの顔を見て、区切って、三回。お経みたいでした。夕方の、オレンジ色の廊下で。

    ちょっと、不気味でした。

    ——園の立地について教えてください。
    古い住宅街の外れです。園舎自体は建て替えて十年くらいでわりと綺麗なんですけど、敷地が変な形をしてるんですよね。

    正門が南側の道路に面してて、北西の角にもう一つ、西門っていう小さい門がある。昔はそっちが正門やったって聞きました。

    西門の外は細い坂道で、街灯が一本しかありません。道を挟んだ向かいが古いお寺の墓地で、その手前に、桜の大きい木があります。

    幹がこう、大人二人で抱えても届かんくらい太くて!

    春はそこそこ綺麗なんですよ。でも満開の時期でも、あの木の下で写真を撮る親子はいませんでした。なんでかは、わかりません。普通、園でも子どもたち連れて、桜を見に行ったりするじゃないですか。それもないんですよね。

    誰に言われたわけでもないのに、みんな、避けてました。

    悠真が一回だけ、あの木を指さして言ったことがあります。二歳の頃やったかな?夕方、西門から帰るときに、「せんせーい!せんせーい」って。

    私、担任の先生かと思って見たんですけど、誰もいませんでした。木の下、暗くなりかけで。よく見えへんなと思って「誰もいいひんよ」って言ったら、悠真、不思議そうな顔して。スッと指さして

    「おっきい、せんせい」って。

    それ以来、西門は使わんようになりました。遠回りでも正門から帰るようにして。だから6月に「名前を三回」のお願いが出たときも、私はどこかで、ああ、西門のことと関係あるんかなって、思ってたのかもしれません。

    …思ってたのに、考えんようにしてた。

    子どもを毎日預けなあかん場所のことって、深く考えたら負けなんですよ。考え出したら、預けられへんようになるから。仕事、辞められへんし。

    みんな、そうやったと思います。
    だからあの園は、あんなに長いこと、あのままやったんかな…。

    【資料2】連絡帳の写し(すみれ組・木下ゆあちゃん)6月12日

    保護者記入欄: いつもお世話になっております。園だよりの「お名前を3回呼ぶ」というのは、防犯上の取り組みでしょうか? 昨日、お迎えの際に名前を呼んでいたら、ゆあに「ママ、はやく」と急かされてしまい、少し恥ずかしかったです…。理由を教えていただけると、娘にも説明しやすいので、よろしくお願いします。

    園記入欄: いつもご協力ありがとうございます。お名前をお呼びいただくのは、お子さまのためです。ゆあちゃんは本日も、お給食を残さず食べました。3回、必ずお呼びください。回数を数え間違えないよう、指を折りながらお呼びになることをおすすめいたします。

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    保護者Bの証言(一)

    Bさんは四十代の男性。ひまわり組(五歳児クラス)に娘のゆりちゃん(仮名)を通わせていた。奥様が看護師で夜勤が多く、お迎えはほとんどBさんの担当だったそうだ。仕事の都合上、迎えが19時近くになる日も多かったという。取材はBさんの職場近くの、ファミリーレストランで行った。

    ——Bさんは、お迎えが遅い時間になることが多かったそうですね。
    ええ。うちの園、延長保育が19時までで、最後の三十分は「夕方保育」いうて、残ってる子を全員、一階の遊戯室に集めるんです。

    多いときで十人ちょっと、少ないときは三人とか。うちのゆりは、だいたい最後の方まで残ってる組でした。

    …あそこの園、18時を過ぎると空気が変わるんですよ。これは大袈裟に言うてるんやなくて、物理的に変わるんです。

    まず、園内の照明が全部つく。廊下も、トイレも、使ってない教室も全部。電気代もったいないなあて最初は思てました。それから先生の数が、明らかに増える。夕方って普通、先生は減っていくもんでしょう?シフトあがりで。でもあの園は、18時になったら事務室から園長まで出てきて、玄関と、遊戯室の前と、廊下の角に立つんです。持ち場みたいな感じですかね。

    ——名前を呼ぶルールについては。
    最初は面倒やなあて思てました。こっちは仕事帰りでクタクタで、はよ帰って飯食わせて風呂入れて寝かさなあかんのに。

    玄関先で「ーーゆり、ーーゆり、ーーゆり」って、3回も。フルネームですよ?指定されてるんです、フルネームて。近所に聞こえたら恥ずかしいやないですか。

    ほんで、呼んだら呼んだで、ゆりがすぐ来るとは限らん。遊びに夢中で聞いてへんときもある。でね、そういうときの園の対応が不思議で。

    先生が絶対に、代わりに呼ばへんのですよ、名前。

    普通だったら「ゆりちゃん、お父さん来たよー」て言うてくれるでしょう?でも、あの園の先生は絶対に言わへん。

    「もう一度、最初からお願いします」て言うんです。真顔で。

    一回、聞いたことあるんです、ベテラン先生に。なんで先生が呼んだらあかんのですか?って。そしたらその先生、周りをちらっと見て、小さい声で言いました。

    「呼ぶのは、迎えに来た人やないと、意味がないんです」

    意味て何ですかて聞いたら、もう笑ってごまかされました。作り笑いて、ああいうのを言うんでしょうね。目が全然、笑てへんかった。

    ——資料2の連絡帳を書いた木下さんのことは、ご存知でしたか。
    顔見知り程度ですね。すみれ組のお母さんやし、うちとはクラスが違うから、挨拶するくらい。ゆあちゃんのことは知ってました。夕方保育でよう、ゆりと遊んでたから。

    おかっぱ頭の、ようしゃべる子でね。遊戯室の窓から、迎えに来た親を見つけたら、誰の親でも「――ちゃんのママきたでー!」て教えてあげる子でした。

    ……ひとつ、忘れられんことがあるんです。6月の終わりやったかな。その日は雨で、暗くなるのが早くて。僕がゆりの名前を呼んで、三回目で振り向いたのを確認して、靴を履かせてたら、遊戯室の窓のとこにゆあちゃんが立ってて、外を見てたんです。

    ほんで、言うたんです。「ゆあのママ、きた」て。

    僕もつられて外を見たんですけど…誰もおらんのです。門灯の下、雨だけで。そしたらゆあちゃん、窓に顔をくっつけて、続けて言いました。

    「ちがうわ。ゆあのママの、かっこうしてるだけや」

    ぞわっとしました。ほんまに。でも、五歳の子の言うことでしょう。雨で見間違えたか、ごっこ遊びの続きか。そう思うことにして、僕はゆりを連れて、正門から帰りました。

    …三十分後くらいですかね、木下さん——本物の、やと思います——が迎えに来たのは。うちはもう帰ってたから、これは後から他のお母さんに聞いた話ですけど。

    その日から、ゆあちゃんは夕方保育で、窓の外を見んようになったそうです。

    【資料3】めばえ保育園 園だより 7月号(抜粋)

     保護者のみなさまへ
    毎日暑い日が続いておりますね。プール遊びが始まり、園内は毎日にぎやかな歓声に包まれています。水筒のお茶は、いつもより多めにご用意ください。
     おむかえについて、お願いを一部追加いたします。ご面倒でも、必ずお守りください。

    ◆お名前を3回お呼びになった際、お子さまが「3回とも」振り向いたことをご確認のうえ、お連れ帰りください。
    ◆1回目、2回目に振り向かなかった場合は、恐れ入りますが、最初から数え直してください。
    ◆振り向いた回数について、お子さまご本人にお尋ねになることは、お控えください。
    ◆お子さまの方から先に保護者さまのお名前を呼んできた場合は、お返事をなさらず、職員までお知らせください。

     なお、7月より西門は17時で施錠いたします。おむかえは、すべて正門をご利用ください。時間外に西門付近でお待ちになることも、ご遠慮ください。
    めばえ保育園 園長 三隅

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    保護者Aの証言(二)

    ——7月号の園だよりが出た頃のことを聞かせてください。
    あれが出たときは、さすがに保護者の間もざわつきました。だって、おかしいでしょう?「三回とも振り向いたことを確認」て。振り向くかどうかなんて、子どもの機嫌次第やのに。

    それに最後の一個。「お子さまの方から先に保護者さまの名前を呼んできた場合は、お返事をなさらず」て。

    あれを読んだ夜は、眠られへんかったです。だって、うちの子が「ママ」て呼んでくれるのは、嬉しいことやないですか。それに返事したらあかんて、どういうことですか?

    クラスのグループLINEでも、ちょっとした騒ぎになって。誰かが園に電話で問い合わせたらしいんですけど、「お子さまの安全のためです」の一点張りやったて。

    ほんで、そのやり取りの中で、一人のお母さんが書いたんです。

    「実はうちも変なことがあった」て。

    そこからです。堰を切ったみたいに、みんなが書き出したのは。

    夕方のお迎えで、名前を呼んだら、教室の中と、廊下の奥から、同時に返事が聞こえた気がした——とか。うちの子、お迎えのあと家に着くまで一言もしゃべらへん日がある。次の日はケロッとしてる——とか。

    寝てる子どもの顔を見てたら、目をつぶったまま、まばたきをした——とか。

    まばたきて、おかしいでしょう?目、つぶってるのに。書いたお母さんも「見間違いやと思うけど」て付けてましたけど。

    そういうのが、ぽつぽつ、ぽつぽつ、三十件くらい。全部「気のせいやと思うけど」付きで。ほんで最後に誰かが「先生に聞いてみます」て書いて、その日はそれで終わったんです。

    次の日、そのLINEグループ、消えてました。

    管理者やったお母さんに聞いたら、自分は消してへんて。誰も消してへんのに、グループごと、履歴ごと、なくなってたんです。いまやったらあれも、何かの不具合やて思いたいですけど。

    ——Aさんご自身にも、何かありましたか。
    ……一回だけ。7月の半ばです。夕立がひどかった日で、私、傘さしながら片手に荷物持って、玄関で悠真の名前を呼んだんですね。「ーー悠真、ーー悠真」て。

    ほんで三回目を言いかけたときに、スマホが鳴ったんです。職場からで。反射的に出てしもて、話しながら、悠真に靴履かせて、手ぇつないで、駐輪場まで歩きました。

    電話切ってから、気づいたんです。私、三回目、言うたっけ? て。

    雨の音で、自分の声もよう覚えてない。悠真に聞こうとして——聞いたらあかんのやった、て思い出して。園だよりの「お子さまご本人にお尋ねになることはお控えください」て、あれ、こういうときのことなんや、て。

    自転車の後ろで、悠真はいつも通りでした。いつも通り、保育園であったことをしゃべって、いつも通り「今日の晩ごはんなに?」て聞いてきて。カッパ着ながら、いつも通りの顔で。

    やのに私、その「いつも通り」が、その日は確認できひんかったんです。

    いつも通りて、何やろって。私、この子のいつも通りを、ほんまに全部知ってるんかなって。

    信号待ちで、悠真がフードの中から言いました。「ママ」て。

    私、返事、できなかったんです。園だよりのあの一文が頭に浮かんで。「ママ」「ママ」て、後ろで二回、三回。声はどう聞いても悠真なんです。悠真の声で、ちゃんと重さを感じているのに。

    でも、何かが違う気がする。

    青になって、私は自転車をこぎ出しました。返事をせんまま家に着いて、玄関の電気をつけて、振り向いて、顔を見て——悠真でした。

    ちゃんと、悠真やった。

    「ママ、なんで無視すんの」て、べそかいてました。私、悠真を思いっきり抱きしめて、ごめんごめんて。ほんまにごめんて。

    ……あの日のことは、今でもわかりません。あれはただ、私が電話のせいで自分の子を疑って、自分の子を泣かせただけの話かもしれません。それやったら私はただの、ひどい母親です。でも、それでええんです。それやったら、ええんですよ。

    ただ、次の日の連絡帳に、担任の先生がこう書いてました。

    「昨日は、お電話のあと、きちんと三回お呼びいただけていたので、ご安心ください。」

    私、電話のこと、先生に言うてません。それに玄関には、あの雨の中、先生は誰も立ってなかったんです。

    …誰が、数えててくれたんでしょうね。

    【資料4】連絡帳の写し(すみれ組・木下ゆあちゃん)7月24日

    保護者記入欄: すみません、昨日は仕事の電話をしながらのお迎えになってしまい、名前を2回しか呼ばずに連れて帰ってしまいました。今朝になって園だよりを読み返して、不安になっています。ゆあは家ではいつも通りに見えるのですが、何か問題があるようでしたら教えてください。

    園記入欄: ご報告ありがとうございます。どうぞご安心ください。ゆあちゃんは本日もいつも通り、園に登園しております。お給食も残さず食べました。お昼寝のあと、少しだけ泣いていましたが、いまはもう泣き止んでいます。

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    保護者Cの証言(一)

    Cさんは六十代の女性。この土地の生まれで、三十年前、娘をめばえ保育園(当時は別の名称だった)に通わせていた。長く保護者会の役員を務め、その後も園のバザーの手伝いなどで出入りがあったという。取材に応じてくれた三人の中で、園の「昔」を知る唯一の人物である。証言はCさんの自宅で行った。仏間に通され、録音の許可をもらう際、Cさんは「その機械に、私の声以外が入っとっても、消さんといてな」と言った。冗談の口調ではなかった。

    ——この保育園は、昔からあるものなんですか。
    うちの母の代からありますよ。もともとはお寺さんがやってた託児所やそうです。西門の向かいの、あのお寺。昔は正門があっち向きでね、桜の木の横を通って、みんな出入りしてたんです。

    …あの桜、ね。あれはお寺の桜と違うんですよ。あれだけ、誰の土地でもない、道の上に生えてるんです。市も切らへん。何十年も前から、根がアスファルト持ち上げて、車も通りにくいのに、誰も切らへん。一回だけ、切る話が出たことがあるらしいんですけどね。

    業者さんが下見に来た日に、その、まあ、いろいろあったそうで…流れました。詳しいことは、私も母から聞いた話やから、よう分かりません。

    ——「名前を三回呼ぶ」という決まりは、昔からあったんでしょうか。
    ありました。ただね、昔は「決まり」やなかったんです。文書にするようなもんでもなかった。おばあちゃんが孫に言うて聞かせる、しつけ話みたいなもんですね。

    私が子どもの頃に聞いたんはね、こういう話です。

    夕方のこと、逢魔が時(おうまがとき)いうでしょう?昼と夜の境目の、あの時間はね、「よんでくるもの」がおる。

    子どもの名前を、どこで覚えるんか、ちゃんと覚えて、呼んでくる。
    ほんで、呼ばれて振り向いた子の顔を、覚えて帰る。

    一回振り向いたくらいなら、まだええんです。顔を見られただけやから。二回振り向いたら、声を覚えられる。三回振り向いたら——名前を、渡してしもたことになる。名前を渡したら、あとはもう、入れ替わるだけです。

    せやから逆に、親の方が先に三回呼ぶんです。

    夕方に子どもを連れて帰るときは、親が名前を三回呼んで、三回とも、こっちを振り向かせる。名前は呼んだもんのもんやから。親が先に三回呼んだら、その日はもう、その子の名前は親のもんなんです。よそのもんには、渡らへん。

    昔の人はみんな知ってました。夕方、外で遊んでる子どもを家に入れるときは、名前を呼んで、顔を見て、それから入れる。呼ばれても一回で振り向くな、三回目まで待て、て子どもにも教えました。私も娘に教えました。いまの人は、教えませんやろ?…教えんでええ世の中の方が、そらええんですけどね。

    ——資料4の連絡帳を見ていただけますか?園の返答の意味が、私たちにはよくわからないのですが。
    (Cさんは老眼鏡をかけ、コピーを長いあいだ読んでいた。それから眼鏡を外し、コピーを裏返しにして、座卓の上に置いた)

    ……この園の返事はね、嘘は一個も書いてないんです。それがこの園の、昔からのやり方です。ここの先生は、言えんことは書かへん。書いてあることは、ぜんぶ、書いてあるまんまです。

    そやから、書いてあることやのうて、書いてへんことを、読むんです。

    ——書いていないこと、というと。
    ……このお母さん、連絡帳になんて書いてはります? 家ではいつも通りに見えるけど、心配です、て。家の子のことを、聞いてはるんですなあ。

    ほんで園の返事は、どうです?給食を食べた、昼寝のあと泣いた、もう泣き止んだ。ぜんぶ、園でのことでしょう。

    お母さんが聞いた"家の子"のことには、一言も、触れてへんのです。

    答えてへん。はぐらかしたんと違いますよ。この園はね、園におる子のことしか、書けへんのです。書けへんから、書かへん。それだけのことです。

    ——では、質問を変えます。あの園は夕方になると、使っていない教室まで、すべての照明をつけるそうですね。ご存知でしたか。
    知ってます。私が役員やった頃から、そうです。

    電気代のことをね、一回、会計の集まりで聞いたことがあるんです。夕方の電気、教室ぜんぶつけんでもいいんちゃいますか?って。そしたら当時の園長先生——三隅先生の、先代ですわ——が、笑いもせんと言わはった。

     「暗い教室いうんはね、奥さん、数えられへんのですわ」

    それだけです。誰を数えるんかは、言わはらへんかった。私も聞きませんでした。聞いたら教えてくれはったと思います。あの先生は、聞かれたら答える人やった。そやから、みんな聞かへんのです。

    ひとつだけ、忘れられんことがあります。

    三十年前、夕方、園へ用があって行ったとき、遊戯室の窓に、子どもの顔が並んでたんです。四つか、五つ。外を見てるんです、ずうっと。私は役員やから、在園児の顔は全部わかります。わかるはずなんですが…。

    ……それ以上は、言いません。ただ私、それからは夕方の園に、用を作らんようになりました。

    ——先代の園長先生は、他に何かおっしゃっていましたか。
    帰り際にね、玄関まで送ってくれはって、靴を履く私の背中に、ひとつだけ。

    「奥さん。もしお知り合いに、夕方のお迎えで、数え間違えはったお家があったらな。その家では、昔のアルバムだけは、開かん方がよろしい。そう言うたげてください」

    意味は聞きませんでした。聞かんまま、三十年です。

    ……うちにもね、娘のアルバムが何冊かあります。そのうちの一冊だけ、私、この三十年、開けてないんです。何年の分かは、言いません。理由も、堪忍してください。ただ、開けへんかったから、うちは娘を無事に嫁に出せたんやと、私はそう思て生きてます。それでよろしいやろ。

    あんたに言えるのは、ここまでです。あとはあの園の紙が、ぜんぶ教えてくれます。

    書いてあることやのうて、書いてへんことを、読みなさい。

    【資料5】保護者会 議事録(7月29日開催)※役員による非公式メモの写し

    出席:三隅園長、主任保育士、各クラス担任、保護者12名

    冒頭、園長より夏祭り(8月2日開催)の日程と持ち物について説明。
    質疑応答。鈴木さん(たんぽぽ組)より「お迎えのルールの理由をきちんと説明してほしい。子どもに『なんで三回呼ぶの』と聞かれて答えられない」と質問。

    園長「お子さまの安全のためです」と回答。同様の質問が続くが、同じ回答を3回繰り返す。

    木下さん(すみれ組)より発言。「連絡帳の返答の意味がわからない。うちの子は毎日家にいて、私が毎日連れて帰っているのに、『園に登園しています』とはどういうことか。からかっているのか」と、強い口調。

    園長、しばらく沈黙。主任保育士が何か耳打ちするが、園長はそれを手で制し、回答。「名前を呼ばれて3回振り向けるのは、その名前をほんとうに持っている者だけです。木下さん、お帰りになったら、お家で、ゆあちゃんの名前を呼んでみてください。フルネームで、3回。ゆあちゃんの目を見て」

    会場、ざわつく。木下さん「ふざけるな」と発言、着席せず。

    主任保育士「西門の外の桜の木の下には、お子さまを近づけないでください。古い言い伝えのようなものとお考えいただいて結構ですので」と補足し、質疑を打ち切り。

    木下さん、退席。以降、夏祭りの係決めのため議事省略。
    ※メモ書き:散会後、正門のところで、木下さんがゆあちゃんの名前を呼んでいるのを見た。三回どころではない。十回、二十回。ゆあちゃんは一度も振り向かなかった。振り向かないまま、木下さんの手を引いて、笑っていた。「ママ、はやく」と言っていた。

    保護者Bの証言(二)

    ——議事録の最後のメモについて伺います。Bさんもその場にいらしたそうですね。
    ……はい。あのメモを書いた役員さんと、僕と、あと何人かが見てます。
    保護者会が終わって、みんな、なんとも言えん空気で正門から出ていくときでした。門灯の下に木下さんとゆあちゃんがおって。木下さん、しゃがんで、ゆあちゃんの両肩をつかんで、呼んでたんです。「木下ゆあ。木下ゆあ。木下ゆあ」て。

    最初は僕らも、ああ、園長にあんなこと言われたから、確かめてはるんやな、くらいで。そら確かめたなりますよ、あんなん。ほんで、確かめて、ゆあちゃんが振り向いて、なんや、うちの子はうちの子やないか、園長め、いうて笑い話になる。そのはずやったんです。

    ゆあちゃんは、振り向きませんでした。

    目の前で肩つかまれて呼ばれてるのに、「振り向く」も何もないやろて思うでしょう。それがね、違うんです。あの子、お母さんの方を、見いひんのです。肩をつかまれたまま、顔だけ、よそを向いてる。門灯の、灯りの方やったかな。ほんで木下さんが呼ぶたんびに、めんどくさそうに、ちょっとずつ首の角度を変えるんです。絶対にお母さんと目ぇが合わん角度に、ちょっとずつ。

    四回、五回。木下さんの声が、だんだん大きくなって、最後の方は悲鳴みたいになってました。「ゆあ! ゆあ! こっち見なさい! お母さんの顔、見なさい!」て。

    そしたらゆあちゃんがね、ふう、て息をついたんです。五歳の子が、大人みたいに。ほんで、よその方を向いたまま、木下さんの手ぇを取って、言うたんです。

    「ママ、はやく。おうち帰ろ」

    ……声はね、ゆあちゃんでした。夕方保育でいっつも聞いてた、あの子の声です。ほんでにっこり笑って、お母さんの手ぇ引っぱって、坂の方に歩いていきました。木下さんは、引きずられるみたいに、ついていって。

    僕、見送りながら気づいたんです。ゆあちゃん、僕らの方には、顔向けたんです。すれ違うときに、ちゃんとこっちを見て、「ゆりちゃんのパパ、ばいばい」て。愛想ようて、ほんまに、いつものゆあちゃんで。

    お母さんにだけ、顔を見せへんのです。

    あとで、あの雨の日のことを思い出しました。窓のとこで、ゆあちゃんが言うたやつ。「ゆあのママのかっこうしてるだけや」て。

    あの日、僕が帰った三十分後に迎えに来た「木下さん」は、ほんまに木下さんやったんかな、て。

    それとも、順番が逆やったんかな、て。

    考えても、わかりません。わかりませんけど、あの園のルール、思い出してください。「迎えに来た人が呼ばなあかん」いうやつ。

    あのルールはね、子どもだけを確かめるルールと違うんです。呼ぶ方も、確かめられてるんです。ほんまの親の呼び方やないと、ほんまの子は、振り向かへんのやから。

    …あの門灯の下で確かめられてたんは、ゆあちゃんやのうて、木下さんの方やったんかもしれません。

    【資料6】めばえ保育園 夏祭りのお知らせ(8月・臨時配布)

    保護者のみなさまへ
     8月8日(土)の夏祭りは、16時開始、18時30分終了です。終了時刻の延長は、いかなる理由でもいたしません。18時30分になりましたら、演目の途中でも照明を全点灯し、閉会いたします。あらかじめご了承ください。
     当日のお願いです。

    ◆迷子のお子さまをお預かりした場合でも、園内放送でお子さまのお名前をお呼びすることは、いたしません。迷子のお子さまは本部テントにてお預かりしますので、保護者さまの方からお越しください。お引き渡しの際は、通常のおむかえと同様、お名前を3回お呼びいただきます。
    ◆お子さまとはぐれた際、暗がりに向かってお子さまのお名前を呼ぶことは、お控えください。必ず、照明のある場所でお呼びください。
    ◆西門は終日、施錠しております。いかなる理由があっても開けないでください。

     みなさまのご来園を、職員一同、お待ちしております。
    めばえ保育園 園長 三隅

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    保護者Bの証言(三)

    ——夏祭りには行かれましたか。
    行きました。あんな空気の保護者会のあとやったから、行くかどうか迷たんですけどね。ゆりが楽しみにしてたし、年長やから最後の夏祭りやし。それに、妻が珍しく休みで。家族三人で行けるんやったら、まあ大丈夫やろて。

    着いたら、拍子抜けするくらい普通の夏祭りでした。ヨーヨー釣りがあって、輪投げがあって、先生らが焼きそば焼いてて。園庭の真ん中にちっさい舞台があって、盆踊りして、年長組の出し物やって。提灯がぐるっと吊ってあってね。綺麗でしたよ。

    ただ、明るいんです。異様に。

    提灯だけやなくて、園舎の外壁に投光器がついてて、園庭の隅から隅まで、昼間みたいに照らしてるんです。夏祭りて、もうちょっと薄暗いのが風情でしょう?あの園の夏祭りには、影がないんです。どこ見ても、明るい。子どもが隠れられるような暗がりが、設計として、一個もない。

    妻が言うてました。「この園、防犯意識だけは日本一やね」て。

    妻はあのお便りの数々を、僕が話半分にしか伝えてへんかったから、そのくらいの感想やったんです。僕は、投光器の位置を見てました。全部の光が、西門の方には向いてへんのです。西門のあたりだけ、意図的に照らしてない。明るいとこと暗いとこの境目が、定規で引いたみたいに、まっすぐで。

    その境目の内側に、先生が一人、立ってました。お祭りのあいだじゅう、ずっとです。焼きそばも焼かんと、出し物も見んと、暗がりに背中を向けて、園庭の方を向いて、立ってるだけ。交代はしてました。三十分くらいで、次の先生が来て、何も言わんと入れ替わる。あれ、見張りやなくて、なんていうんやろ…人間で、見えない壁を作ってるみたいな感じでしたわ。

    ——お知らせにあった「迷子」の件について伺います。当日、何かあったんでしょうか。
    ……ありました。18時前くらいです。盆踊りの二曲目やったかな。

    放送が入ったんです。「迷子のお知らせです」て。若い先生の声で。「青いTシャツの、四歳くらいの男の子をお預かりしています。お心当たりの保護者さまは、本部テントまでお越しください」。

    名前は言わへん。お知らせの通りです。服装と歳だけ。

    そしたら、舞台の向こう側から、お母さんが一人、走ってきました。たんぽぽ組の方やと思います。血相変えて、本部テントに行って、ほんで、テントの中を見て、その場で崩れるみたいにしゃがみこんだんです。

    僕、近くにおったから、聞こえてしもたんです。そのお母さん、しゃがんだまま、先生に言うてました。

    「うちの子と違います」て。

    テントの中の子はね、僕のとこからも見えました。青いTシャツの男の子が、パイプ椅子にちょこんと座って、麦茶を飲んでました。おとなしい、ええ子でした。ほんで、そのお母さんの顔を見て、にこーって笑て、手ぇ広げたんです。抱っこ、て。

    お母さんは、後ずさりしました。ほんで先生に、青ざめた顔で言うんですよ。

    「同じ服装だったからなんで?と思ってきてみたら…うちの子はあっちで主人と踊ってます、この子は知りません、なんでこの子は私に向かって手ぇ広げるんですか?」って。半分、悲鳴でした。

    先生らの動きは、早かったです。園長がどっからともなく来て、そのお母さんには別の先生がついて、ご主人と息子さんのとこまで送り届けて。青いTシャツの子は、園長が手ぇつないで、園舎の中に連れていきました。連れていかれるあいだ、その子、ずっと園庭の方を振り返って、誰かれかまわず、にこにこ手ぇ振ってました。ばいばい、ばいばい、て。

    誰もね、振り返さへんのです。手ぇ振られた大人はみんな、ふっと目ぇそらすんです。僕もそらしました。理屈やないんです。

    あの子と目ぇ合わしたらあかんて、体が先にわかるんです。

    かわいい子でしたよ。ほんまに、かわいい、普通の子です。…それがいちばん、あかんのです。

    ——その子は、結局、誰のお子さんだったんでしょう。
    わかりません。少なくとも、閉会までに迎えは来ませんでした。それどころか、あとで役員さんに聞いたら、その日の来園者の子どもの数と、名簿が、合わへんかったそうです。

    一人、多かった。

    青いTシャツの子が名簿の外の子やったんか、それとも、名簿の中の誰かがもう……どっちやったんかは、わかりません。

    18時半ちょうどに、投光器が全部、いっぺんに強うなって、園長がマイクで「おしまいです」て言いました。閉会の挨拶も何もなし。

    「おしまいです。お名前を、三回」。それだけです。

    ほんで、園庭のあちこちで、いっせいに始まるんです。親が子の名前を呼ぶ声が。何十人分も、いっぺんに。

    「――、――、――」「――、――、――」て。

    提灯の下で、みんな指ぃ折って、数えて。呼ばれた子らが順番に振り向いて、振り向いて、振り向いて。

    僕も呼びました。ーーゆり、ーーゆり、ーーゆり。三回とも、こっちを見ました。綿菓子持って、笑て、走ってきました。妻が「なにこれ、点呼?」て笑てました。僕も笑いました。笑いながら、ゆりの手ぇ、痛い言われるくらい、握ってました。

    帰り道、正門を出るときに、一回だけ振り返ったんです。

    明るい園庭の、あの暗がりとの境目のとこに、青いTシャツが、ちらっと見えた気がしました。園舎に入ったはずの、あの子です。境目の内側の、ぎりぎりのとこに立って、こっちに手ぇ振ってるんです。ばいばい、ばいばい、て。

    僕は振り返さんと、前を向きました。ゆりが僕の手ぇを、ぎゅうと握り返して、前を向いたまま、ちいさい声で言いました。

    「パパ、あの子にバイバイしたらあかんで。バイバイは、おかえりの挨拶やから」

    ……娘らはね、僕らよりずっと前から、全部わかっとったんやと思います。教えられんでも。あの園の子は、みんな。

    【資料7】めばえ保育園 園だより 9月号(抜粋)

    保護者のみなさまへ
     朝夕は涼しくなってまいりました。運動会の練習が始まり、園庭には毎日、元気なかけ声が響いています。
     このたび、すみれ組の木下ゆあちゃんが、ご家庭の事情により退園されました。みなさまで温かく見送りましょう。なお、木下さんのご家庭への連絡は、ご遠慮ください。いま木下さんのご家庭からかかってくる電話には、お出にならないでください。留守番電話にお子さまの名前が残っていた場合は、消去せず、園までお持ちください。
     また、おむかえについて、お願いを追加いたします。

    ◆「ママ、はやく」「パパ、はやく」と急かされても、必ず3回、お呼びください。
    ◆おむかえのあと、ご帰宅までのあいだにお子さまが一度でも「おうち、こっちやで」と道を教えてきた場合は、その道を通らず、いったん園までお戻りください。


    めばえ保育園 園長 三隅

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    【資料7-2】留守番電話の録音書き起こし(提供:すみれ組保護者・匿名希望)

    ※9月号の配布後、すみれ組のある家庭の固定電話に残されていたメッセージの書き起こしである。着信は深夜1時台。発信元の番号は、木下さんの自宅のものと一致していた。提供者は園の指示に従い、録音データを園に提出する前に、自分用の控えとしてこの書き起こしを作成していた。データ提出後、提供者宅への着信は止まったという。

    (無音・約8秒)
    (女性の声)「……もしもし。もしもし。夜分にすみません。木下です。すみれ組の、木下ゆあの母です」
    (無音・約3秒)
    「あの、うちのゆあと、おたくの――ちゃん、仲良くしてもろてたと思うんですけど。それでね、ひとつだけ、教えてほしいことがあって」
    「――ちゃんの、下のお名前。漢字まではええんです。読みだけで、教えてくれませんか?」
    (無音・約5秒)
    「教えてくれはったら、もう、かけません」
    (ここで、受話器の向こうで別の声が入る。子どもの声。近い。送話口のすぐそばと思われる)
    (子どもの声)「ママ、だれにかけてるん」
    (女性の声)「……ゆあは寝とき」
    (子どもの声)「ゆあ、ここにおるで」
    (女性の声)「寝ときて言うてるやろ」
    (子どもの声)「ママ。ゆあ、ここにおるで。ここやで。こっちやで」
    (無音・約10秒。この間、規則的な吐息のような音が続く。)
    (女性の声)「……すみません。まちがえました」
    (通話終了)

    ※提供者への補足取材によると、書き起こしには残していないが、録音の最後、通話が切れる直前に、子どもの声が早口で何かを言っていたという。何度も聞き直したが聞き取れず、聞き直すたびに「自分の家の子の名前に、近づいていく気がした」ため、それ以上の再生をやめ、園に提出した。園からは礼とともに、一枚の紙が渡された。「よく提出してくださいました。お宅は、まだ二回です」とだけ、印刷されていたという。

    保護者Cの証言(二)

    ——木下さん一家のその後について、何かご存知ですか。
    直接は知りません。私はもう園に子どもを預ける歳やないですから。ただ、あの家がどうなったかは、町内やから、耳に入ってきます。

    8月の頭までは、普通やったそうです。ゆあちゃんが公園で遊んでるのも見られてます。お母さんの方が、ちょっとやつれてはったて。そら、やつれますやろ。

    お盆前くらいから、木下さんの家、夜も雨戸が開いたままになったそうです。電気はついてる。ついてるのに、雨戸も窓も開けっぱなし。ほんで夜中にね、家の中から、お母さんの声がするんです。ゆあちゃんの名前を呼んでる声です。

    木下ゆあ、木下ゆあ、木下ゆあ。三回で区切って、また三回。それが夜通し、朝方まで。

    近所の人が心配して、昼間に訪ねていったら、お母さんが出てきて、けろっとして「なんですか」て。夜の声のことを言うたら、「うちははよ寝ますから、よそと違いますか?」て。

    ほんでその人がね、玄関の奥に、ゆあちゃんが立ってるのが見えたそうです。廊下の突き当たりの暗がりに、こっち向いて。

    にこにこして、手ぇ振ってたそうですわ。近所の人にはね。

    8月の終わりに、一家でおらんようになりました。夜逃げみたいに、いうんとは、ちょっと違います。家財道具もそのまま、車もそのまま。ただ、おらんようになった。警察も来ましたけど、事件性なしいうことになったそうです。書き置きがあったからやて。

    書き置きの中身は、私も人づてです。ほんまかどうかも知りません。知りませんけど、聞いたまんまを言います。一行だけやったそうです。

    「ほんもののゆあをむかえにいきます。こんどはちゃんとかぞえます」

    ——園に行った、ということでしょうか。
    園やったら、まだよかったんですけどね。

    園はね、次の日、いつも通り開いてました。三隅先生に警察が話を聞いたときも、「木下さんはお見えになっていません」て。これも、嘘やないんです。あの一家はね、園には行ってないんです。

    夜中に、西門の外の、あの桜の下におるのを見た、いう人がおります。三人で立っとったそうです。お父さんと、お母さんと、女の子と、手ぇつないで、木の方を向いて。声をかけようとしたら、女の子だけが、くるっと振り向いた。ほんで。

    ……ここから先は、堪忍してください。私もこの歳まで、いろんな話を聞いて生きてきましたけど、その人が見たいうもんのことだけは、口に出して言いとうないんです。口に出したらね、あかんのです。ああいうのは、口に出して言うたら、聞いた人の頭ん中に、住むから。

    あんたも、これ以上は調べなさんな。あんた、お子さんは。……おらんの。そう。そんなら、まだましや。

    まだましやけどな。あの子ら、名前やったら、大人のでもええんですよ。

    あんた、この取材で、ようけの人に名刺配りましたやろ。

    保護者Aの証言(三)

    ※三度目の取材を申し込んだとき、Aさんからは長く返信がなかった。二週間ほど経って届いたメッセージには、「引っ越しました。転園しました。最後に一度だけお会いします。あの書類のことを、誰かに言っておきたいので」とあった。以下は、Aさんの新居近くの駅前で行った、最後の証言である。Aさんは終始、駅の時計を気にしていた。お迎えの時間だという。

    ——転園を決めた、直接のきっかけは何だったのでしょうか。
    9月号の園だよりです。あれが出た日に、決めました。

    「おうち、こっちやで」のくだり、読まはりました?

    あれね、うちの悠真が、言うたことあるんです。9月号が出る前に。お迎えの帰り、いつもの角で、悠真が反対の道を指さして「おうち、こっちやで」て。私、笑って「なに言うてんの、こっちでしょ」て、いつもの道で帰りました。何ともなかったです。

    何ともなかったのに、9月号にあれが載った。うちの子が言うたことが、そのまんま、園の「お願い」に載ったんです。いうことは、他の家でも起きてるいうことでしょう。園はそれを、把握してるいうことでしょう。把握してて、対処法だけ配って、閉めへんのです、あの園。

    もう無理や、て思いました。主人と話して、市外の実家の近くに引っ越して、転園させることにしました。役所も驚くくらいの、最短で。

    ——それで、「書類」のことを。
    はい。退園の手続きに行った日のことです。

    事務室で書類を書かされて、最後に、園長先生が直々に出てきはって、封筒を一枚くれたんです。「転出・退園される保護者さま向けの、最終確認アンケートです」て。

    今後の園運営の参考にするから、退園までに必ず出してください、て。

    家に帰って、夜、悠真を寝かしつけてから開けました。それも指定されてたんです。「お子さまがお休みになってから、ご記入ください」て。当時は、子どもの前で書きにくい質問でもあるんかな、くらいに思て。

    最初は普通のアンケートでした。保育内容に満足しましたかとか、行事の数は適切でしたかとか。丸をつけていって、真ん中くらいから、様子が変わってくるんです。

     「おむかえの際、お子さまのお名前を毎回3回お呼びになりましたか」
     「呼ばなかった日は、合計で何日ありましたか」

    私、正直に書こうとして、手が止まりました。あの夕立の日。電話の日。あの日は、数に入れてええんか、あかんのか。連絡帳には「きちんと三回お呼びいただけていた」て書いてあった。誰かは知らんけど、数えててくれた誰かが、三回や、て。そやから、ゼロ日。ゼロ日て書こうとしたんです。

    書こうとしたら、次の質問が目に入りました。

    「その日、お連れ帰りになったあと、お子さまのご様子に変わったところはありませんでしたか。たとえば、お食事の好みが変わった。あなたのお名前を呼ばなくなった。寝ているとき、まばたきをしている」

    ……まばたき、て。あのLINEに書いてあったんと、おんなじことが、書いてあるんです。消えたはずのLINEと。

    私、ペンを置いて、悠真の部屋に行きました。寝顔を見に。ほんまに、ただ、寝顔を見て安心したかっただけなんです。

    豆電球の下で、悠真はよう寝てました。口をぽかんて開けて、いつもの寝相で。まぶたも、ちゃんと閉じたままです。まばたきなんか、してません。してませんでした。ほんまです。

    ただ、部屋を出るときにね。

    後ろで、ちいさい声がしたんです。寝言やと思います。寝言やと思いますけど、それは。

     「……に、かい」

    て、聞こえました。

    ——「二回」、ですか。
    わかりません。「みかん」かもしれません。あの子、みかん好きやから。寝言で果物の名前を言う子ですから。…そうです、きっとそうやと思います。
    ……アンケートは、最後まで書いてません。書かれへんかったんです。最後の方の質問が。

    あれだけは、書いたらあかんやつです。読んだら、わかります。あれは、アンケートと違います。あれは——なんて言うたらええんかな。

    …答え合わせです。書いた人間に、自分で答え合わせをさせるんです。

    最後の一問で、こっちに。

     (Aさんはここで言葉を切り、駅の時計を見て、立ち上がった)

    すみません。お迎えの時間なんで。今の園、17時までなんです。17時までに行ったら、名前は、一回でええんです。一回で、走ってきてくれるんです。「ママ」て。私もちゃんと「なに」て返事します。何べんでも返事したります。

    あの、最後にひとつだけ。あなた、あのアンケートの現物、手に入れはったんでしょう?記事にするんでしょう?

    載せるんやったら、最後まで載せてあげてください。途中で切ったら、あかんやつやから。読んだ人が、ちゃんと最後の一問まで行けるように。

    その方が、親切やから。

    ※アンケートは巻末に掲載している。

    おわりに

    取材はここで終わっている。

    Aさんとは、あの駅前の日以来、会っていない。年賀状が一度だけ届いた。親子三人の写真で、悠真くんは前歯の抜けた顔で笑っていた。どこにでもある、幸せな家族の写真だった。私はそれを、いまも捨てられずにいる。捨てられない理由は、自分でもよくわからない。

    写真の悠真くんと、長く目を合わせられないことと、関係があるのかもしれない。

    Bさん一家は、ゆりちゃんの卒園を待って、市外へ転居した。最後の電話でBさんは「卒園式の日、遊戯室の窓に、おかっぱの子がおりました」と言った。それ以上は、話してくれなかった。

    Cさんは、この原稿がまとまる少し前に、老衰で亡くなった。大往生だったと聞いている。葬儀の日、Cさんの娘さんが、私に小さな紙片を渡してくれた。「母が、あのライターさんに、て」。紙片には、達者な字でこうあった。

    「名刺、配った先を、よう思い出しなさい」

    めばえ保育園は、いまも開園している。ウェブサイトには、笑顔の園児たちの写真と、「アットホームな保育」の文字が並んでいる。お迎えのルールについての記載は、どこにもない。あれは在園の家庭にだけ、紙で配られるものだからだ。

    一度だけ、私はそのウェブサイトの写真を、拡大して眺めたことがある。

    運動会の写真だった。かけっこのゴールテープの向こうで、大勢の保護者がわが子にカメラを向けている。にぎやかな様子が分かる、楽しそうなよくある一枚だ。

    その背景に、園舎の遊戯室の窓が写り込んでいた。画質の粗い、豆粒のような窓だ。そこに、白いものがいくつか、並んでいるように見えた。ガラスの反射だと思う。

    運動会の日に、遊戯室に残っている園児など、いるはずがないからだ。全園児が、園庭にいるはずの日なのだから。

    私はその写真を保存していない。かわりに、翌週もう一度アクセスしたとき、その一枚だけが差し替えられていたことを、記録として書き残しておく。園に問い合わせはしていない。

    三隅園長は取材依頼の電話口で、終始丁寧だった。丁寧なまま、最後にこう言って電話を切った。「あなたのお名前、もう一度、うかがってもよろしいですか。……ありがとうございます。二回目ですね」。

    私はあの電話で、名乗った覚えが一度しかない。

    最後に、ひとつだけ書き添えておく。

    私には子どもがいない。配偶者もいない。だからこの取材のあいだも、いつも通り家にいた。

    だが、明日からどこか安全な場所に移動するつもりだ。

    この原稿を書いているいま、深夜の二時である。さきほどから、集合住宅の外の廊下を、小さな足音がいったりきたりしている。子どもの足音だ。それだけなら、上の階の音が響いているのだと思える。夜中だから、早く寝たほうがいいと思うが。

    ただ、その足音は、私の部屋の前だけで、止まるのだ。
    止まって、しばらくして、また歩き出す。さっきから、二回。

    私は名前を呼ばれても、返事をしないと決めている。あなたも、そうしてほしい。この文章をここまで読んだあなたの名前を、私は知らない。

    知らないが、あなたがこれを読んでいるあいだ、あなたの後ろが無防備だったことだけは、確かだ。

    だから、確認事項はひとつだけだ。
    このあとに続く、アンケートの最後の質問にはしっかり答えてほしい。

    (了)

    ※この原稿は茶封筒に入れられて、当出版社に届いた。差出人は不明。添えられていた名刺に電話したところ、何度かけてもつながらない状況が続いている。

    【資料8】転出・退園される保護者さま向け 最終確認アンケート

    ※以下は、Aさんが後日、私宛てに郵送してくれた現物のコピーである。Aさんの回答は途中までしか記入されていない。原文のまま掲載する。

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    このたびは、めばえ保育園をご利用いただき、誠にありがとうございました。今後の園運営の参考にさせていただきますので、お子さまがお休みになってから、ご退園までに必ずご提出ください。すべての問いにお答えいただくまで、ご退園のお手続きは完了いたしません。

    問1. 当園の保育内容に、ご満足いただけましたか。(大変満足・満足・ふつう・やや不満・不満)

    問2. 在園期間をお聞かせください。(   年   か月)

    問3. ふだん、主にどなたがおむかえにいらしていましたか。(母・父・祖父母・その他____)

    問4. おむかえの際、お子さまのお名前を毎回3回お呼びになりましたか。(はい・いいえ)

    問5. 「いいえ」とお答えの方に伺います。お呼びにならなかった日は、合計で何日ありましたか。(   日)

    問6. その日、お連れ帰りになったあと、お子さまのご様子に変わったところはありませんでしたか。たとえば、お食事の好みが変わった。あなたのお名前を呼ばなくなった。お休み中、まばたきをしている。(はい・いいえ)

    問7. 当園を退園される理由をお聞かせください。(転勤・ご家庭のご事情・お子さまが園に行きたがらない・その他____)

    問8. 「お子さまが園に行きたがらない」とお答えの方に伺います。その子がなぜ園に行きたがらないのか、お考えになったことはありますか。(はい・いいえ)

    問9. この用紙は、お子さまがお休みになってからご記入いただくよう、お願いしておりました。いま、お子さまは、寝ていらっしゃいますか。(はい・いいえ)

    問10. それは、いつから後ろに立っていますか。振り向く前に、最後にもう一度だけ、ご確認ください。

    あの日、連れて帰ったのは、本当にお子さまでしたか。


    #創作大賞2026 #ホラー小説部門

     
     

    りこ

     
     
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