夫は、声を上げて泣いた
夫との、長い長い戦いが終わった。
その日、夫は、「そんなに泣く?」というくらい泣いていた。
私たちはフルタイムの共働きで、収入も同じくらいの「夫婦別財布」の家庭だ。
子どもが生まれる前、夫婦2人だけだった頃の夫は、本当によく家事をしてくれる人だった。洗濯も掃除も率先してやってくれるので、私は料理くらいしていればよかった。
残業で遅くなれば「大変だったね」と愚痴を聞いてくれて、休みの日は一緒にドラマを見ながらうとうとする。
そこにあったのは、穏やかで優しい時間だった。
でも。
不妊治療、妊娠、そして出産を経て、少しずつ何かが変わり始めた。
妊娠と出産は、女性にとって本当に負担が大きい。身体も、生活も、自分のキャリアも、人生そのものがガラリと変わってしまう。
けれど、その命がけの感覚を、男性である夫と完全に共有することはどうしても難しかった。
子どもが生まれた頃には、夫との間にある決定的な「温度差」に、私は苦しむようになっていた。
そこから、家事育児の分担を巡る、約6年間に及ぶ戦いが始まった。
私の主張はずっとシンプルだった。
「同じようにフルタイムで働いているのに、なんで家事育児が半々じゃないの?」
ただ、私はそれを上手に伝えることができなかった。限界まで我慢して、心のダムが決壊した時にしか言えなかったのだ。
だから夫からすれば、ある日突然、理不尽に一方的な怒りをぶつけられている感覚だったのだろう。
話し合いをするも、夫に傷ついたと言われ、最後にはなぜか私が「言い過ぎてごめん」と謝って終わる。
夫はしばらくの間、申し訳なさそうに家事を頑張る。
でも、日が経つとまた少しずつ元に戻る。
そして、溜め込んだ私がまた爆発する。
もう、何度このループを繰り返したか分からない。
でも、夫は決して不誠実な人ではなかった。
家族を守ろうとしてくれていることも、彼なりに一生懸命に頑張っていることも、頭ではちゃんと分かっていた。
それなのに、どうして私はこんなに苦しいんだろう。
何がそんなに不満なんだろう。
私はずっと、答えを探していた。
そしてある時、自分が本当に求めていたものの正体に、ハッと気づいた。
私は、家事を“手伝って”ほしかったわけじゃなかった。
夫にも、私と同じように「家事育児の全体」を見てほしかったのだ。
何が足りないのか。
次に何が必要になるのか。
何を先回りしてやるべきなのか。
タスクをこなす労働者ではなく、それを一緒に考えてくれる「共同経営者」でいてほしかったのだ。
母親の頭の中は、年中無休で忙しい。
「子どもの爪が伸びているな」
「保育園の着替え、ロッカーに足りていたっけ」
「ちょっと鼻水が出ているな」
「そろそろ夏服を出して、サイズを確認しないと」
「お出かけ用に、日焼け止めも買っておかなきゃ」
頭の中のタスクリストでは、名前のない無数の微細なタスクが、24時間ずっと動き続けている。
その半分でもいいから、夫が自分から自然に気づいてやってくれたら、どんなに楽だろう。そう願って止まなかった。
けれど、夫は夫で、彼なりの視点で頑張っていたのだ。
私が帰る前にエアコンをつけて部屋を冷ましておく。
朝、窓を開けて空気を入れ替える。
洗濯機の乾燥フィルターのホコリを取る。
仕事帰りに、私のアイスやおやつを買ってくる。
夫の視点からすれば、きっとこうだったのだ。
「これだけ家族を想って頑張っているのに、なぜ妻は認めてくれないんだろう」と。
私はずっと、「同じ人間なんだから、言われなくても私と同じように気づけるはずだ」と思い込んでいた。
でも、違った。
少なくとも、私たち夫婦の脳の仕組みは違っていた。
夫に何かを頼むとこう言われる。
「あ、それ、リマインダーアプリに入れといて!」
こちらとしては、心の中で叫びたくなる。
(クソ忙しいのに、そんなの入力してる暇あるか! 自分で記憶しとけ!)と。
でも、分かったのだ。夫には本当に「見えていない」のだ。
見えていないものを「自発的にやれ」というのは、目隠しをして歩けと言うようなものだ。
私はそこで、やっと悟った。
夫は、私にはなれない。
そして私も、夫にはなれないのだ。
だから私は、戦いをやめることにした。
「家事育児は、もう半々じゃなくていい。そのことで責めるのは、もうやめる」
そう伝えた日、夫は声を上げて泣いた。
張り詰めていた糸が切れたような、子どものような泣き方だった。
その涙を見て、夫もずっと苦しかったのだと知った。
責め立てられる夫も苦しかったし、気づいてもらえない私も苦しかった。お互いに、大切に思っているのに、傷つけ合っていたのだ。
他人と生きるということは、きっと、自分の思い通りにならない相手をそのまま受け入れるということなのだろう。
今日も私は、「あーめんどくせぇ!」と心の中で毒づきながら、スマホを開いて夫のリマインダーにタスクを入力している。
第二ラウンドのゴングが鳴らないことを祈りつつ。
