
だから、私はMacBookをねだろうと思う
先日、夫が泣いた話を書いた。
その後、結局私も泣いた。
きっかけは些細なことだった。
母が持たせてくれた手作りの惣菜を、「冷蔵庫に入れないといけないものがあるから、早めに車から降ろしてね」と夫に頼んだ。
夫は「10分以内にはやる」と言った。
翌朝、冷蔵庫に惣菜がない。
慌てて探すと、車からは降ろされていたものの、そのまま放置されていた。
その瞬間、私の心は折れた。
惣菜がダメになったことが悲しかったわけではない。
もちろんショックだった。
でも、本当に悲しかったのは別のことだった。
母の惣菜は、私にとって「忙しい毎日の中のオアシス」みたいなものだ。
子どもの好みや栄養を考慮した献立を考える義務から解放される。
調理もしなくていい。
しかも人が作ったご飯が食べられる。
毎日ご飯を作っている身からすると、それは決して小さくないご褒美だ。
でも夫には、その価値が全く伝わっていなかった。
悪気がないことは分かる。
責めても意味がないことも分かる。
だから怒らないと決めた。
その代わり、泣いた。
娘を抱きしめながら、
「もう私の気持ちを分かってくれるのは娘しかいない!」
と号泣した。
娘は心配そうに頭をなでてくれた。
その姿に、昔、父とケンカした母に抱きしめられ、一緒に泣いた日のことを思い出した。
娘には同じ役割を背負わせたくなかったのに…と思ったら、余計に涙が止まらなかった。
私は最近、夫に自分と同じレベルで家事を求めることをあきらめた。
脳の使い方も得意不得意も違う。
私と同じように気づき、同じように動くことは難しいのだろう。
でも、それならせめて。
私がやっていることの大変さを理解しようとしてほしい。
「いつもありがとう」と言ってほしい。
本当に欲しかったのは、家事そのものではなく、その向こう側にある理解だったのかもしれない。
女性同士なら、何年ぶりかに会った友達とでも家事育児の大変さについて、簡単に共感し合える。
でも毎日一緒に暮らしている夫には伝わらない。
そのことが、思った以上に辛かった。
ただ、最近こんなことを思う。
家事が見えない人には、その負担も見えない。
だとしたら、理解を求め続けること自体、最初から無理な話なのかもしれない。
そう考えると少し寂しい。
でも、まだ一緒に生きていきたいと思う。
だから、きっと必要なのは「完全な理解」ではなく、「理解されない部分もある」と認めることなのだろう。
……とはいえ。
私はまだそこまで人間ができていない。
なので、夫にはMacBookを買ってもらおうと思う。
それくらいは許される気がしている。