
【小説】To be continued ~第10話(最終話) 恋が教えてくれた、新しい私~
帰国日の朝@スミニャック
静寂が、部屋を支配している。
ふと、目が覚める。
時計を見れば、4時35分。
普段の私なら、出発ギリギリまで深い眠りに溺れているはずの時間だ。
電気をつけたまま、倒れ込むように眠ったせいで、
身体には気だるい熱が残っている。
私は、吸い寄せられるように枕元のスマホを手に取った。
画面を点灯させる。
Theoからの返信は、ない。
光を失った画面に、自分の表情がぼんやりと映り込む。
もし、この恋に出会っていなかったら。
目覚ましをかけ忘れたことにさえ気づかず、
帰国便の時間を逃すほど寝坊していたかもしれない。
しばらくベッドで過ごし、洗面所へ向かう。
「カシャン。」
口をゆすぐためにグラスを手にした瞬間、落としてしまった。
普通に持ち上げたはずなのに。
旅先でこんなこと、初めてだった。
チェックアウトの際、私は洗面所のグラスを割ったことを伝えた。
「I broke a glass in the bathroom.」
申し訳なさを口にしながらグラス代を支払う。
バリの物価を思えば安い金額ではないけれど、
私はその金額を淡々と支払った。
旅の最後にこのグラスが、何かの代わりに壊れてくれたんだ、
そんな不思議な救いを感じていた。
この小さな欠片を支払うだけで済んだのだ、と。
ホテルを後にし、空港へ向かう車に乗り込む。
車内は、外の湿気を完全に拒絶するほど冷房がガンガンに効いている。
ドライバーが、バックミラー越しに私と視線を合わせた。
「Where are you from?」
「Japan.」
ニホンゴは話せないよ、と彼は少し寂しそうな顔をしてから、
言葉を継いだ。
「Sanur is better. You should stay in Sanur.」
サヌール。
その名前が、凍てつくような車内に、熱を持って響いた。
「I know. I love Sanur too.」
思わず身を乗り出すと、ドライバーは嬉しそうに頷く。
私たちはまるで秘密を共有する友人のように、
サヌールの魅力について語り合った。海のこと、静かな路地のこと。
__今日もTheoは、サヌールのあのスタジオにいる。
言葉を交わすたびに、心臓の奥がぎゅっと締め付けられる。
サヌールへの愛おしさが募れば募るほど、空港へと近づいていく距離が、
リアルな重みを持って迫ってくる。
チェックインを済ませ、搭乗ゲートの椅子に深く沈み込んだ。
フライトは、定刻通り。
シンガポールで乗り継ぎ、羽田に降り立った瞬間、
日本の硬質な空気が私のバリでの時間を過去へと押し流していく。
スーツケースが届いたのは、その二日後。
中から香水の箱を取り出し、蓋を開ける。
ふわりと漂う香りが、タンブリンガン通りの夜風と、
彼の温度を強引に引き戻した。

スマホをタップしてみる。
通知は現れない。
あんなに好きだったサヌール。
もしかしたら、もう行けないかもしれない・・・。
帰国してから。
テレビをつける気持ちになれなかった。
バリで削ぎ落した心に、余計なノイズを混ぜたくなかった。
満員電車に揺られ、職場ではこれまで通りの私を演じる。
けれど、自分の意見だけは、もう飲み込まなかった。
休暇明け、先輩の悦子さんから会議室に呼び出された。
旅行前、得意先からの仕事について、相談をしていたのだ。
完成度に見合わない費用で請け負ってきたこと。
付き合いが長く言い出しづらいこと。
私たちは気付いていた。
疑問を持つことすら許されないまま、続けてきた。
「莉緒さん!どう思う?」
そこには、得意先からのメールと2倍に増額された見積もり金額が並んでいた。
悦子が相場の根拠を提示し、水面下で交渉を進めてくれていたのだ。
その返信は怒りが滲んでるようにも見えたが、もうそんなことは関係なかった。
「悦子さん!ありがとうございます。
こんな不当な金額で請け負い続けるなんて、あり得なかった・・・。
私たちの完成度が、認められたんですよね。」
大きな変化だった。
二人で仕事の話がひと段落したその時。
歩けなかった頃に、悦子が自宅に見舞いに来てくれたことを思い出す。
体調と仕事の話だけのつもりが、家庭のことや、ずっと飲み込んできた思いまで、いつの間にかこぼれていた。
「そう言えば、あの時、心配して下さって、
本当にありがとうございました。」
莉緒が杖をついて、魂が抜けたような足取りだったこと、悦子は見ていた。
死の淵に立った思いで、全てを諦めかけていた莉緒をそっと見守っていてくれたのだ。
「私、これからもっと自分を出していこうと思って。
まだ離婚してないですけど、会社辞める頃、
たぶん全然違うタイプの人と再婚します。」
本気なのか冗談なのか、自分でも分からないが。
不意に出てしまった言葉。
「莉緒さんが好きって思う人なら、素敵だと思う。
いいんじゃない!」
帰り道の夕暮れの空。
飛行機が次から次へと流れていく。
空を見上げながら歩き、満員電車に滑り込む。
帰宅して過ごす一人の夜。
シャワーから出て、ボディクリームを塗る。
身体は、正直だ。
スーツのパンツは緩くなり、腹筋には一本の筋が浮かぶ。
長年強張っていた私の身体は、バリから持ち帰った新しいリズムを記憶し、もっと自分らしく在りたがっている。
ピラティスの体験レッスンを予約した。
そして、noteに自分の思いを少しずつ綴り始めていた。
今の私なら、もう誰かの正解に自分を合わせる必要はない。
やっと今夜も、晩酌タイム。
ビールを1本、グラスに注ぎ、ピーナッツを頬張る。
いつもの癖で、スマホを開いた。
画面に小さな通知の印は増えていない。
__私。
勇気を振り絞って誘った。
答えた。
伝えた。
なのに。
Theoは、どうだったんだろう・・・。
タブレットの電源を入れ、YouTubeを開く。
ちょうどサヌールからのライブ配信だった。
乾季の風に揺れる木々。
タンブリンガン通りを行き交うバイク。
バリハイアット前の遊歩道。
見慣れたはずの景色。
ただそれだけなのに。
映るはずなんてない。
分かっている。
それでも。
気付けば私は、あの日の続きを探していた。
自然と、涙がこぼれてきた。
ーー帰国して、3週間が過ぎた頃。
無機質な都会の空気、灰色の空の下で。
仕事に明け暮れる毎日。
ようやく週末を控えたその夜、
お土産が入ったまま、ずっと放置していたスーツケースをようやく開いた。
中から取り出したのは、Theoに渡したものと同じアーモンド。
ひと粒口に含んで、旅行中の写真を眺めてみる。
そう言えば、ピラティススタジオの受付の彼女から、
Theoが働き始めた日を聞いていた。
それは私もサヌールに滞在中、
まだ病み上がりの心を引きずっているあの時だった。
スタジオと私のホテルの距離は、徒歩5分。
そんな近くにいたのに、会うことはなかった。
3月のバリを思い出す。
スタジオのスケジュールを見てみると、
あの時キャンセルされたのは、Theoのレッスン時間だった。
出会わなかった理由、今なら少し分かる気がする。
あの日の私は、急に決めたピラティスに、
手持ちのレギンスで間に合わせていた。
まあ、どうせ誰も見てないし。
そう思っていた。
バリの神様は、そんな中途半端な私に、
彼と会う許可を与えなかったのかもしれない。
そして、この5月のバリ。
航空券を前倒していた。
自分の気持ちを優先する、そう決めて買いなおしたもの。
本来行くはずのなかった土曜日、
何となく予約したレッスン。
そのコーチがTheoだった。
ウブドで買ったお気に入りの白とブルーのレギンスで、
たった3回のピラティスのレッスン。
そして、ほんのひとときだけ言葉を交わした夜。
Theoと笑った。
一緒に歩いた。
ささやかな瞬間の連続__
それは静かに重なっていった。
誰も気付かぬままで。
いつもの平坦なサヌールの景色。
あの夜だけはどこか遠い世界にいたみたいに、静かな光を放っていた。
ふと机の隅に置いてあったお気に入りの青い旅ノートを手に取ってみる。
ノートの名前は、
「Continue」
サヌールの海と風を思い出す。
見えない糸がまだ繋がっている・・・そんな気がした。
「未来のことは、きっとバリ島の神様にもわからない。」
私はやっぱり、またサヌールへ帰る。
その頃には、きっと今より少しだけ綺麗になっている。
風に揺れる新しいワンピース。
ピラティスで整えた、しなやかな身体。
それは、誰かのためじゃない。
「心から輝いていたら、その光は距離を超えて、きっと見える。」
あの夜、私はもう一度、恋を知った。
でも、それ以上に。
私を、生まれ変わらせた。
私という人生を選んだ、
一人のレディ。
だから、その時は――
もう一度、
私を見つけて。
続きは、
未来の風が運んでくるから。
To be continued.
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