
【小説】To be continued ~第9話 ラストノートに恋をのせて~
駐輪場はもうすぐ目の前。
バイクの合間をすり抜けるように、タンブリンガン通りを横切る。
笑顔のTheo。
その場所に着くと、何も言わず右手を差し出した。
その手を握る。
温かい。
ほんの数秒。
二人は手を重ね合う。
彼は笑顔で手を振り、バイクへ向かって歩き始めた。
――いやだ。
喉の奥に押し込めた。
彼には聞こえない。
私は、視線を送る。
無言のまま、両腕をゆっくりと広げた。
その姿を見たTheoが足を止める。
そして、笑った。
もう一度、私のところへ歩いてくる。
ーー世界の音が全部消えた。
次の瞬間。
何も言わず、その大きな腕で私を包み込んだ。
硬く鍛えられた胸板。
息を吸うたびに伝わる体温。
その温もりは、言葉よりずっと正直だった。
離れ際、最後にもう一度、
重ねた掌から、指先に残る温もりを確かめる。
そして今度こそ、
彼は人波の向こうへ歩いていく。
私は、手を振る。
彼も。
姿が小さくなっても、
何度も、
何度も・・・。
大通りから、細い道を抜け、ぼんやりとした足取りで、
いつものヴィラに戻った。
「Thank you for the wonderful time tonight.」
Theoとメールのやり取りをして、静かな夜が過ぎていく。
タブレットからは、ピアノ曲。
Summer Candlesが聞こえてくる。
私は、大人の莉緒じゃなかった。
妻でもない。
優等生でもない。
今まで見たことがなかった自分。
いや、違う。
ずっと前にどこかへ置き忘れてきた自分。
恋なんてもうしないと思っていた。
それなのに。
シャワーのお湯を浴びても、身体の感覚だけは消えなかった。
硬く鍛えられた胸板。
壁みたいだった。
あんな身体に抱きしめられたことなんて、人生で一度もない。
髪を乾かしながら、鏡を見る。
思わず笑ってしまう。
「私、何してるんだろう。」
ベッドに腰を下ろして、
今日一日をぼんやりと思い返す。
どうして、あんな短い時間で。
どうして、あんなに心を交換できたんだろう。
言葉は半分も通じなかったのに。
夢だったのかな。
……いや。
右手に残る温もりが、
「夢じゃないよ」
と静かに教えてくれていた。
ぼんやりとした気持ちのまま、
サヌール最後の夜は静かに更けていった。
ーーーサヌールを離れる朝
乾季に入ったバリは、今日も快晴。
時間通りに迎えの車がやって来て、ドライバーにスケジュールを伝える。
余裕を持って選んだはずの大きなスーツケース。
かつてのように、隙間を埋め尽くすことへの執着はもうない。
今は、自分にとって意味のあるものだけを選びたい。
そう思いながら、旅の最後の目的地へと足を向けた。
欲しいものは、少しだけ。
いつものコーヒー、家族へのささやかなお土産。
それから、バリ島で見つけたお気に入りのレギンスをもう一着。
あの身体の動かしやすさを知ってしまった以上、
もう他のものでは代わりが利かない。
最初に、サヌールから近い自然食品の店へ。
誰にも教えたくない、お気に入りの場所の一つだ。
まだ10時前。
店員さんが量り売りの果物を並べる。
ここは、ほとんどがオーガニック。
今夜の食後のマンゴーをひとつ。
色と感触で確かめながら、店員さんに選んでもらう。
店の奥には、ココナッツのオイルと石けんが並ぶ小さな棚がある。
キラキラしたお土産用じゃない。
地元の小さな工房で作られたシンプルな石けん。
そう、Theoに渡したものと同じ石けん。
洗いあがりがすっきりするのに、肌あたりが良くて、こればかり買ってしまう。
大好きなフランジパニの香りを選んで、カゴに入れる。
バリのナチュラルな製品を見るのは、とても楽しい。

会計を済ませ、再び車に乗り込みウブドへ向かう。車窓を流れる景色が、次第に濃い緑へと変わっていく。
手入れのされていない空き地には、
背の高い草木が南国の湿り気を帯びて生い茂り、
時折、その隙間に埋もれるようにして小さなお店が顔を出す。
軒先に吊るされた色とりどりの布や、無造作に置かれた看板。
変わらずにそこに在り続けてくれる風景が、愛おしい。
そのレギンスの店は、バリにある唯一の店舗。
ショウウィンドウには、薄いピンクの新作が飾られている。
「Miss~!」
「Hello~!」
2か月ぶりの再会。
”Miss”ではないのだが・・・。
いつものスタッフが笑顔で出迎えてくれる。
あのスタジオでレッスンする自分を想像しながら、選ぶ。
「やっぱり、コレ。」
そう、店先にあった淡いピンク色の新作。
ピンク色なんて、もう着ないと思っていたのに。
水彩絵具を落としたようなニュアンス柄のせいか、
着てみたら不思議と合う気がする。
予約していた黒の花柄、ピンクの2枚を紙袋に入れてもらう。
もっと欲しかったけれど、それはまたのお楽しみ。
これが私流。
旅を楽しむための秘策なのだ。
ウブドでの用事を済ませ、まだ少し時間がある。
以前から気になっていて、
まだ一度も訪れたことが無い、その店に寄ってみることにした。
靴や洋服、所狭しと積み上げられている。
コスメやボディクリームもあって、思ったより品揃え豊富だ。
コスメの棚と反対側を見ると、香水が目に入る。
日本では、窮屈な満員電車に乗るから、香水はつけない。
昔使っていたようなハッキリした香りも、もう苦手になっていた。
なのに・・・中性的な香りを見つけたくて幾つか試してみる。
「これかな。」
手に取ると、彼が纏っていた香水の残り香と、微かに重なった。
帰国後の日常に、この香りを紛れ込ませる。
バリの空気をそのまま閉じ込めるような心持ちで、レジへ向かった。
再び車に乗り込む。
実は、今日。
ぼんやりした少し焦点の合わない時間を過ごしていた。
買い物をしていても、意識はすぐに昨夜の余韻へと戻ってしまう。
このまま、ホテルに向かえない。
行き場のない気持ちが、溢れて止まらなくなっていった。
「海が見たい。場所はどこでもいい。その後、ホテルへ。」
翻訳画面を見せながら、予定の変更を伝える。
一度ここから近い海へ向かうと言っていたが、
やっぱり、と進路を変えた。
ホテルを通り過ぎ、車は吸い寄せられるように、
スミニャックの海へたどり着く。
あと30分ほどで、夕陽が海に溶けていく時間だった。
駐車場で車を降り、ひとり海へ向かう。
ビーチクラブやカフェが立ち並び、この時間は賑わっている。
砂浜に降りると、潮風が心地いい。
「生きてる。」
そう思った。
夕陽と反対方向に、潮風を浴びながら、ゆっくり歩く。
振り返ると夕陽がどんどん傾いていく。
また日本のことが頭をよぎる。
背中にこびりついた重い荷物を、まだ完全には脱ぎ捨てられずにいた。
誰の目も、関係なかった。
そして、昨日の幸せな時間のことも・・・。
映画みたいに映像と会話が次々に浮かぶ。
好きなだけ、涙を流した。
止めなくていい、と思った。
スマホを取り出して、ピアノ曲のSummer Candlesをかけてみる。
海の音に重なって、自分だけの曲になった。
一人、岩場に腰かけて。
潮風の中にただ身を委ねて、ゆっくり傾いていく夕陽を見つめた。
それから、海に別れを告げ、
旅の途中に変更したホテルへ。
予定を書き換えるなんて、かつての私なら考えられなかった。
今はただ、この胸のざわめきに素直に従いたい。
Theoと過ごした昨夜。
「計画の変更があったら、どうするの。」
「私の計画はPerfectだよ。」
私は、間違った答えを伝えていた。
崩れた計画の先にしか見えない景色があることを、
この旅は教えてくれている。
スミニャックの夕焼けの写真とホンモノの答え。
Theoに送信した。
荷物を片付け、ようやくビンタンビールの時間。
お惣菜を色々買いこんだが、何となく、
バリ島のジャガイモを使ったポテトチップスを開けてみる。
アルミ袋の外側は、紙袋で麻紐で閉じてある。
塩味がとがっていなくて、素朴な素材の味。
Theoから、
「Beautiful sunset!
Enjoy your last day tomorrow.」
夕陽の写真の隅には、
小さなハートマーク。
思わず笑ってしまう。
ちゃんと見てくれてた。
胸の奥が少し温かくなった。
歩き回って疲れた体。
大きなベッドに包まれて、静かに眠りに落ちていった。
ーーースミニャックで迎えた滞在最終日
日中は、スパで最後の癒し時間。
まだ数回しか訪れていないのに、弾むようなおしゃべりが始まる。
彼女たちの裏表のない人懐っこさに、少しだけ助けられた気がした。
スパを終えて部屋に戻ると、
そこには買い物袋に入ったお土産が並んだまま。
昨日買った香水の箱をそっと開けてみる。
まだ帰りたくない気持ちのまま、スーツケースに詰め込んだ。
気付けばもう日暮れの時間が迫っている。
ただ夕飯を買って部屋に戻る、それで良かったはずなのに。
出来なかった。
ロビーでバイクを呼び、再びスミニャックのビーチへと向かう。
まだ太陽が落ちる前。
ーー間に合った。
ビーチに降りてみる。
「バカヤロー。」
小さなその声は波間に飲まれていった。
胸に残っていた苦しみを全部、
海へ放り投げた。
それなのに。
昨日の笑顔が浮かぶ。
昨日の温もりが浮かぶ。
どうして。
どうしてバリ島の神様は、
私を彼に、出会わせたんだろう。
幸せな場面がフラッシュバックして、涙がこぼれた。
夕陽が沈むのを見届けた後、潮風を背に、バイクを呼んでホテルに戻る。
「バリの海が、
私のすべてを受け止めてくれたような。
ここで、
本当の自分に戻れたような。
そんな気がする。」
今日も、Sunsetの写真とともに、彼にメッセージを送信した。
いよいよ明日は帰国日。
外から聞こえる小さな虫の声。
タブレットから流れるピアノ曲。
夜は、私をゆっくりと眠りに誘っていく・・・。
目次はこちらから👇
マガジンはこちらから👇