
【棗の世界と三つの骰子《さいころ》】
〜あらすじ〜
棗(なつめ)と弟のるいは、互いに陽画と陰画の関係にあるような存在だったが、るいは自身が「泥棒の街」と呼ぶ不条理の街のただ中に姿を消す。棗は、恋人の葉嗣(はつぐ)にるいの面影を見ようとするが、その喪失感は拭えるものではなかった。棗はるいの不在に向け、ある朝、祈るように骰子(さいころ)を虚空に投げた。
未来の戦争の記憶や、子(るい)殺しの運命に翻弄される父ー玻璃夫(はりお)、るいの手記、庭師マナセの困難が時空を超えて交錯する中、棗は時間のたゆたいと流れを回復させようと試みる。それは世界のアレゴリーとしての庭を再生させることだった。そして棗、葉嗣、庭師マナセは改めて三つの骰子を振る…それは新たな世界の可能性の開示の儀式だった。
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1.【繭の中で】〜⚀棗と葉嗣〜
目が覚めると頬が濡れていることがよくあった。悲しい夢を見たからではおそらくない。ごつごつした黒い窓枠に嵌め込まれた硝子は、戸外の柔らかい湿度を感じる乳白で、むしろ早朝の散歩から戻って朝霧の名残を頬に確かめるようだった。
葉嗣《はつぐ》はまだ寝息を立てていた。棗《なつめ》は半ば夢の繭の中にいて、幼かった日ベッドの隣にいた弟と、葉嗣を間違えることがあった。
時間は留まることなく一方向に流れるものではない。淀んだり、背後からやってきたり、朽ちた古い橋の形をしたよもぎの葉の上で露が結ぶようにぽつりぽつりと現れたり潰えたり。だから、棗にとって葉嗣がときに幼い弟ーるいであるとしても不思議なことではなかった。橋を見かけるとその上に佇んで時間の断面を観察しようとする彼女にしてみれば。
葉嗣/るいの身体に紅茶葉の香りがして、蜂の麻酔針に刺された小さな蛾の幼虫のように、棗は痺れて動けなくなる。
ー これを辿るのか、辿らないのか…
葉嗣はなにを意図したのでもなさそうに、そう呟いた。棗が聞き返すと小さく笑いながら寝返りを打って背中を向けてしまった。
彼が少し前に同じようなことを言ったのを棗はすぐに思い出した。棗の鎖骨の下に触れながら。「なに?」//でも応えにこだわりなどない//というように棗は言った。そのときも彼は先刻と同じ顔をして、そのあと言葉で棗に伝えたのだった。
ー この静脈だよ。この青くて消え入りそうな、 迷路のような小径のこと。僕はこれを辿るうちにはぐれてしまうのだろうか。はぐれるのもいい。この小径を眺めて、そして触れていられるのなら…そんな気持ちになった。こんなことを誰かに言うなんてどうかしているのかもしれない。でも君の血が流れているのがわかる。気味が悪いかな。本当のことっていうのはたいてい気味が悪いものだけれど。
気味が悪いことなどなかった。気味がよかったくらいだ。わたしの静脈の中で、誰かが径に迷い込んではぐれてしまう、その人がわたしの隣で生きている、それが楽しくないはずがない。
ー あなたがはぐれて惑うのか、はぐれずにいられるのか、骰子《さいころ》が知っているはず。…神聖で、ひどく下卑たこのおもちゃが。枕元の小物入れから、棗は骰子一つを取り出した。
ー いや、二つだね。
葉嗣は小物箱の中にあと二つの骰子があるのを見つけて言った。年季が入った象牙の骨董品で、ところどころ面が黒ずみ、ややもすると一見では読み取りにくい目もあった。棗は言った。
ー そうか、あなたとわたしの骰子。骰子一つだけではその癖が占いの精度に強く響くわね。それが世界を歪めてしまう。でも考えてみてよ。例えば⚂ばかり出る人生ってどう?簡単でわかりやすくてお手頃かもしれない。世界はどうあれ、⚂の中に引き籠ることも可能かもしれない。墓碑銘に「⚂しか知らない人でした」って書かれて称賛されるかもしれない。
ー 嫌だな。うれしくない。
そう葉嗣は言った。
棗はなぜ嫌なのかが知りたいと思う。でもそれを葉嗣に聴くことはしない。迷うというならいつまでも互いに迷いはぐれ続けているほうが面白く、悲しいのは、小賢しい偽物にだまされて気付かず、後でつまらない思いをする人を目の前に見ることだから。真実を見つけることは誰にとってもそうであるように棗に難しいことだが、偽物を嫌でも嗅ぎ当てねば気がすまない資質を彼女は自分で知っていた。
あなたは本物?本当のことが言える?そう訊きたかったことを棗自身も気付かなかった。
ー 二つにしましょう。互いの癖が複雑に絡み合い、新しい世界が開示される。今よりも真実に近いかもしれない世界が。
ー 三つでは?持っているものを全部使えばいい。
ー そうしたい?でもいずれ三つを振らなければならないときのために、取っておいていいのじゃないかな。
葉嗣は苦笑した。
ー 三つを振らなければならないという特別なときがいずれ来るの?…でも、君が考案したゲームなのだから、ぼくがとやかく言うのもどうかということか。そもそも何のゲームだったのやら…
棗は意を決したように、古風な黒枠の窓を開く。寝室に生温かい風が吹き込んで、レースのカーテンが揺れた。彼女は二つの骰子を掌に載せて葉嗣を振り返り、それを窓の外に投げた。庭の花壇の薔薇群が強く薫った。
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骰子は棗によって投げられた。まどろむような空の下に薔薇の花園に向けて二つの軌道が描かれた。その目は何を占うものだったか?寝物語の戯言《ざれごと》…?そうであっても「戯言ではないもの」として何かをはっきりと示し得るのだろうか?夢と現のあわいで囁かれるむつごとの中に、なにか重要な言葉の一片が含まれてはいないと誰が言い得るだろうか?
二つの骰子はそれぞれの瑕疵を抱え、不可視の影響を与え合いながら中空に放たれた。もう知り得ない骰子の目はそこでどれほどの意味を持つのか?自分たちの来し方行方が、空虚に向けて放たれた回転する象牙の多面体に託されることそのものに比してどれほどの?
窓の外に吹いているぬるい風は庭の植物群の呼気を感じさせた。ここからの眺めが棗は好きだった。右手には古い時計塔の屋根が見え、遥か向こうはおぼろげなブルーの海だった。 海にはときどき貨物船が浮かんでいた。船はだるまさんの遊びのように、じっと見ていると動かず、目を離すと動いた。
棗の船は靄に包まれながら長い航路につく。タービンは静かに回転を開始し、巨大なスクリューは渦を作り始める。
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2.【彼はいかにして狂える庭師になりしか?】〜⚁マナセを巡るいくつかのこと〜
道端にキツネアザミのロゼットを見つけた。ひとつ見つけるといくつも湧いて出るように現れる。回転する緑色のカレイドスコープの中に足元から巻き込まれるようなめまいににわかに襲われ、蕗野マナセはそこにしゃがみこんだ。さっきは金持ちの屋敷の威嚇的な四酸化三鉄の窓を見た。その窓にどこか浮世離れした風情の女の貌があり、あろうことか薔薇のステンドグラスまでついている。目を背け視線を落した途端に、地ベタにも同じ地獄の蓋みたいな回転スコープが、いくつも口を開けて待ち構えていたのだった。シャベルを持っていたら、その中心部に先端を捩じ込んでグリグリとやりたい衝動に駆られ、その後、嫌悪感に軽く襲われる。その嫌悪を吟味すると、いい歳をして人には言いづらい、幼時の母親からの叱責を思い出すが、どうもそればかりでもなく、窓辺の女の貌ともかかわりがありそうで、しかし不明だ。出所不明な嫌悪感ほど始末に負えないものはなく、そんなものを抱えてしまったら、その自然消失まで、腹に鈍痛を抱えるような時間を過ごすのを覚悟しなければならない。
マナセはこどもの頃から下ばかり見て歩くので母親から「みっともない」とか「なにも落ちていませんよ、しっかり胸を張って前を向きなさい」などと言われて、無理解な母親への怒りと情けなさを自覚のない心の裡に醸成させていた。そのときのやり返しを今ならば何とでも思い付く。前や上を見る人間ばかりだったら、陥穽に容易に嵌まり込んで怪我人が絶えないだろう。それに、道に倒れている仲間を踏み付けることだってないとは言えない。穴に嵌まらないように、それから、間違っても弱った他人をそれ以上痛めつけることがないようにしなければならない。そう言い返せと、こどものマナセに教えてやれる。今ならば。
本当にそう思ってるのか?そんなことまで考える必要はなく、本当かと聴かれたら知ったことではないと放っておけばいい。しかしあながち嘘でもない。本当6割、嘘が2割、本当にも嘘にもなりそうなのが2割というところだろう。浮動数が嘘に回ればどっこいどっこいだ。そう、そんなところだ。それで誰が悪いというものでもない。人間の凡庸さとはそんなものだろう。
凡庸だと言われて、ムキになって否定するようなスラップスティックからは自分には相当な距離がある、とマナセは寂しく充足していた。それは自身の経験から心得ている。もし、若い誰かが自分の凡庸さに嫌気がさしたなら、自分の二層目の心を剥き出しにしてみたらいい。すぐに自分の凡庸さに身を隠したくなるはずだ。
マナセは二層目の心からこんな言葉を見つけた。
"わが凡庸なる網膜に映る曼荼羅の如き春のロゼット"
素人の短歌の如きもの。少なくとも致死的な毒はない。それでいい。
そう。下を向いて歩いているやつはそんな遊戯が大好きで、こんな玩具じみた言葉で砂を噛む如き人生に味付けすることこそ彼らの至福なのだ。しかしその中でマナセはいつもキツネアザミのロゼットを探索していた。宿命的に。
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子どもの頃のことだった。
タンクは興奮を抑えきれない息遣いでマナセに言った。「その人形を手に入れられたのは、おまえがよくやった。おまえはおれが守ってやるから、おまえは、チャンスを見て姫さまのベンチをスチールだ。それで勝ちってことだよな。それでいいんだよな?」
姫さまの救出ゲーム。
タンクが「姫さま」と言うのがマナセにはこそばゆかった。
マナセはそのとおりその作戦でいいんだと思うが、答えてしまうとタンクはマナセに頼らなくなる。マナセはタンクの参謀でありたかったし、何よりこのゲームの全容を理解しているのはタンクじゃなくて自分だった。マナセはボロボロの姫さまのぬいぐるみの頭をぽんぽんと叩いてごまかした。
南高校のグラウンドの朝礼台に置いてある人形を最初に手にしたタンク/マナセの組は、アドバンテージを得て自陣のベースに戻ることができた。どう見ても誰も欲しがらないような汚い人形だったが、眺めていると救出されるべき悲劇のお姫様に見えてくるから不思議だ。マナセはこれを自分のウインドブレーカーの懐にいち早く突っ込むことができた。彼は自分の手柄にしばらく酔いしれていた。
あとは、いつも自分たちがたむろしている自販機横の赤ペンキのベンチに姫さまを座らせれば勝ちだった。しかし、自陣ベースから500メートルも離れたベンチまでそのボロ人形をエスコートするには非常な困難が伴う。最も危険で、過去最も頻繁に逆転が行われたゲームのクライマックスはこれからだった。石つぶてあり、バットあり、木刀ありだ。自分たちは人形を手にしているのでむやみな戦闘は無駄、防御専心だから、武器が必要なのは人形を奪われそれを奪い返すときだけだ。
マナセは言った。「木刀を1本持って。おれは滑り込んでこの可愛い子をベンチに座らせる。勝ったらタンクの天下だよね?」そう、このゲームの勝者は次のゲームまで、他の組を従わせることができるのだ。
マナセは気になっていたことを尋ねた。今ならば訊けると思った。「この人形、タンクの妹が持ってたやつなの?」タンクの妹は3年くらい前、はしかに罹って死んだと誰かから聞いていた。タンクには家がなくて、母親と妹と3人で、塗装屋の物置みたいなところで暮らしていた。小学校になんかそこから通えるようには思えなかったが、タンクは週に一回くらいは来ていた。その塗装屋の息子は今日のゲームのライバルで、人の気持ちの分からないバカな奴だった。奴が妹の人形をタンクから取り上げたんじゃないかと、マナセは思っていた。「そんな人形は見たことないな」タンクは顔を上げずに言った。そして続けた。「おれは風呂の蓋と木刀を持つ。たぶんおれたちが勝つ。勝ってもいいよな…」
ベースを出るといきなり石が飛んできて、マナセの背中に当たったが大したことはなかった。タンクは風呂の蓋で敵の攻撃を防ぎながらジリジリと交差点まで進んだ。塗装屋のキクチがバットで襲ってきたが、キクチは、普段ほとんど通らない車が来るのにひるみ、その隙にタンクは足を引っ掛けて転ばせた。キクチもさるもの、転びながらタンクの脛をバットで痛打した後、それを見て驚いたマナセから人形を奪った。タンクはほとんど逆上して、木刀をキクチの額に振り下ろした…キクチは気を失い、他の仲間も集まってきて、ゲームは永遠に中断した。
1週間くらいして、タンクは界隈から母親と一緒に出ていくことになった。タンクの母親をマナセはまじまじとは見たことがなかったが、タンクにそっくりな顔のブラックで、丸い目はとても若い女の子のようだった。
マナセは人形を持ってきていたのでタンクに渡したが、タンクは受け取らなかった。母親はそれをじっと見つめるだけだった。
タンクは言った。「おれは勉強して、幸せな庭を作りたい。きれいな庭…おまえと一緒に作れればと思ってた。黄色い薔薇とかが咲いてる…」
マナセは言った。「おれは貨物列車に飛び乗って、タンクを探しに行くよ。どこに行こうとおれにはわかる。きれいな黄色の薔薇の庭は目印になるから。」
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タンクもタンクの若い母親も受け取ってくれなかった持ち主不在の少女の人形は、成り行きからマナセが持ち帰った。もうどこをどう拭っても、繕ってももとどおりの姿にならないぬいぐるみなんて、マナセの母親が見たら半時間も我慢がならないだろう。
素性のしれない、ワタのはみ出した気味の悪いその物体がタンクにまつわる切ない記憶に彩られていなければ、マナセだって躊躇なくゴミ箱に放り込むはずなのであり、そんな思いの濃淡をぴったりと共有するなど稀なことだと、特に母親との大小の確執の中でマナセは学んでいた。
人を好きな気持ちも、何かが大事だったり、耐えられないほど嫌いだったりすることも他人とは分かち合えないのだ。だから他人を尊重するとは、共感をもって遇することではなく、そっとしておくことだとマナセは考えた。しかしその考えはむしろ、感情の波が他人に強く向かうのを防ぐ堰となって、他人と自分とを護るものだと、こどもながらに薄々気付いてもいた。
それを侘びしい処世の風船の軽みとすれば、その点対称の場に、象徴として、あの消化できない薄汚れた人形を位置づけることができる。
これは実はどうしても必要な、人間の留め具であり、地下に降りていく階段であり、薔薇の根から吸収される滋養なのだ。
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坂を上って私鉄駅に続く道の左手に小さなカトリック教会があり、その一隅にマナセが生活するホームがあった。彼は信徒ではなかったが、教会に依頼が来る庭の手入れの手伝い仕事をしていた。道をさらに上がった頂きには小池を見おろす邸宅があり、小池のほとりには大小の家がひしめいて、頂きの家があるあたりから屋根の色彩の軽快なヴァリエーションが眺められた。
マナセはこのあたりを散歩するのが好きで、仕事を頼まれなかった平日には、結構な負荷の掛かるアップ・ダウンを経て駅裏の「にんじん」で、罅割れたなまこ型のドイツパンとコーヒーを味わうことが愉しみだった。心がさざ波立っていないときにはバッハのインヴェンションを繰り返し聴き、そうでないときには目を閉じて、ミツバチの飛翔と揺れ動く羽音を想起する。
その日はミツバチの日になったのだ。邸の窓から女の顔が現れ、庭に向けて何かを投擲したのを見てから。それがなにか世界にとって「悪い種」だという強迫観念にとらわれていた。いや気に掛け過ぎだと否定もしてみもした。しかし無理に否定することはできない。それは脳裡のミツバチを危険にさらすことだから。無理をして都合よくイメージを歪ませると、ミツバチは金輪際現れなくなる気がするし、それはマナセにとって致命傷に近い。
「悪い種」のことを考えながら、なまこ型のパンを少し残して店を出る。女性の店主が訳知り顔で応じてくれるのが申し訳なく、また恐ろしい気がした。そして教会のホームに戻る。
解いていない荷箱を開けてみた。タンクの壊れた人形が中に横たわっていた。あの救出ゲームのときそのままの状態で、あのときの土埃の匂いとタンクの表情まで、はっきりと思い出された。マナセは「悪い種」が土の中で、壊れた人形の肢体と菌糸の結ぼれを作って連絡し合うのを想像した。
棗によって投擲された二つの骰子は、互いの糸に絡んだり解れたりしながら緩慢に回転し、ファサードを越えて、薔薇の花がさざめき立つ美しい花壇の中に消えた。
放物線上の骰子に蕗野マナセは遭遇していた。
かつて何者にも占有されたことのない地の、完全に解放された拡がり続ける猶予の地図…又は起こり得ることが全て起きてしまったことと同義であるような歴史書の一句を、彼は目撃した。
棗と葉嗣が見過ごしたかもしれない風景を、その一瞬の凝視で瞳に感光させた。
それはイラジエーションを起こし、セルロイドが灼け広がるように細胞を侵していく不定形の癌腫や、たちまちに発芽して瘴気を発する黒い種子、あるいは監獄の数多の独房の鍵が解かれていく、不可視の何かの意思をマナセに想起させるのだった。善悪の彼方で泡立つようなそれらの出来事。
骰子の出す目は、そこではなんの意味もなさないだろう。
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3.【イエローとブルー】〜⚂父ー玻璃夫に似た画家、画家に似た玻璃夫〜
父が気持ちを波立たせているとき、穏やかな口調で微笑んでいるように見えても棗にはすぐそれとわかる。首の傾げ方、瞬き、飲み物をテーブルに戻す静かな音。自分が過度に父の心持ちにとらわれているのではと、棗はどこか自分に恥じているのを感じていた。そして父が目の前から去るとその感覚はすぐに父への小さな軽侮にすり替わった。それも快いものではなかった。
居間には国立美術館のポスターが額に入れて飾られている。見方によれば、シックな居間に乱調をもたらすような装飾に過ぎないとも言えた。父ー玻璃夫《はりお》と数年前、ある抽象画家の回顧展に行き、ショップで父が求めたものだ。画家が自作の前にもの思わしげに佇んでいる写真をデザインした、少し風変わりなポスターだった。画家はどこか父に似ていた。そのことに父は気付いていたのだろうか?
美術館の外壁は、深い緑色の蔦に覆われていた。少し前から降り始めたにわか雨に洗われて目に染みた。棗の差す一つの傘で雨を避けながら、タクシーを拾える場所まで歩いた。棗は父のパイプ煙草の残り香に目まいがして立ち止まった。父は…
父は傘を離れて独りで歩いていった。棗は後ろからその背を眺めた。気づいていないのだ。
ポスターの中で、画家は、黒い縦横の枠に仕切られた牢獄の房を思わせる彼の代表作の前にいた。黒い枠の中では脆弱で瑞々しいイエローとブルーが声のない悲鳴を上げていた。
わたしはイエローだ。るいはブルーだ。泣いていることを忘れている。玻璃夫はわたしたちに枠を与えて閉じこめた。
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4.【左目は何を見たか?】〜⚃マナセと井谷と草の名前〜
教会のホームのまかないなどを助祭の井谷が受け持っていた。
井谷から以前聞いた話だったと思う。彼にはボクサーだった短い時期があり、彼自身も自らの才能を信じていた。ある試合でほとんど呼吸も乱れないうちに相手をノック・アウトし、もしかすると自分はボクシングに困難を見出だせないボクサーなのだと疑念が生じた。勝利への意欲が崩れもし、その後、勝ち続けもした。
人が物事を続けるためには、そこに困難を見つけねばならない、それが生きる意味なのだ、という半ば強迫的な考えにとらわれながら試合に臨み、左目への強打を浴びて眼球が破裂した。もちろんそれが、最後の試合になった。
その話は教会での説教だったのかマナセにははっきり思い出せない。井谷は訥々と、しかし投げ遣りさと人懐こさが同居するような北関東の人らしい口調で語っていた。マナセはその話に自己顕示的な臭みを感じて、小さな反発もあったのだったが、彼の猪首と傷付いた左目、どこか幼い友だちだったタンクを彷彿とさせる体躯の印象から、好感を持っていた。
話の意味はよく判らなかった。もちろん塞翁が馬でも、触るもの皆黄金になるミダス王の話でもなく、うぬぼれを戒めるものでもないだろう。今ではマナセはこう解釈している。
人が生きることに意味はない。意味は眼球のように破られる。意味が破られても人生は続いていく。この三つの命題と天の摂理は矛盾しないが人智が及ぶところではなく、そこに人は誰でも困難を見出す。困難が見出された人生には改めて意味が発生する。井谷はそこまで意図しなかっただろうが…
マナセはそれを信じない。信じないまま、井谷が取ってきた庭仕事の手伝いをする。井谷に教えられた木の名前、草の名前を覚え、季節の移ろいを学ぶ。
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5.【わたしをもぎとらないで】〜⚄るいについて∥a〜
棗とるいはよく似ていた。声も体つきも。特に笑い声などは、母親にも区別が付かないようで、どちらかが笑うと、顔を向けて確かめることがよくあった。高校生になる頃まで。
休日にはどこにも出掛けずに、二人はよく絵を描いて過ごした。それが何よりも楽しかった。互いが互いの姿を描くことがあって、描かれた姿は、棗なのか、るいなのか、見る者には難しかっただろうが、彼らは自分たちの絵のスタイルの違いを明確に自覚していた。だからあとで感じたままを話し合う時間がとても好きだったのだ。
ー 棗はね、滲みながら周りを染めていく。棗っていう人が目の前にありながら広がっていく。落ちてく太陽に喩えてもいい。海に沈んでも、海が染まって黄色や緑色になる。そういう棗を描くのがとても楽しい。
棗も応える。
ー なんだろう。そういう言い方で言えば、あなたは留まってるよ。止まってる青い水なんだ。青とか青紫になって、ここにいる。そして窓の雨の筋がまとまって流れるように流れていく。留まって流れるという動きのなかで、何かが息づくというのかな。
絵の話が、人間の話になる。
そういうやりとりは、うっとりするくらい楽しいものだったが、棗にはるいが近くに感じられすぎて苦しくもあった。接近しすぎる息苦しさというよりも、るいを自分が取り込んでしまい、いつか自分のその一部がもぎ取られるときが来ることを予期する苦痛だろうと感じた。
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6.【泥棒の街】〜⚅るいについて∥b〜
小池の上の家から私鉄駅までるいと歩いた。るいは家にいるときとは違ってストローみたいになって、見ていないところでぽっきりと折れそうで棗は少し心配になり、しかしそれとは裏腹に、これは隠したい気持ちなのだが、そんなストローみたいな弟と歩いているのが恥ずかしい気もしたのだ。それは自分の二の腕の内側が汗ばんだりすることが恥ずかしいのと似ていたかもしれない。だからかえって距離を開けて歩くよりも、淫靡さを囲う恋人たちのように密着して歩くのが棗には自然だった。
るいはどうだったのか?るいは自在に見えて意外に人目を気にすることもあった。気紛れの無責任で棗を風除けにして息をついていたことに彼自身が気付かずにいたとしてもそれでよかった。それが彼らしいと棗は思った。
美味しそうで目にもきれいな菓子を見つけに行く。いや、目的は何でもよかった。アスファルトの割れ目に芽吹いたハハコグサに目を奪われたり、開店前のバーの裏口に大小の空き瓶がケースに入って並んでいるのを侘びしいような、少し胸を塞ぐような気持ちで眺めたりしながら街の匂いを嗅ぐ。
二人が呼吸を合わせたら、街にはどこかに繋がる隙間が至るところに見つけられた。隙間っていうのが、自分たちの鍵言葉だと話したことがあった。
隙間からスコープを覗いてこちらに向け、逆さまになった時計塔の時間を読む。通行人が裏返しの背広を来て、右ストレートを放った直後の格好の腕で、スーパーマンのようにひゅんひゅんと真顔で滑空していくその顔を笑いながら数える。「さはさりながら」という七文字が、夕焼け空に強調フォントで浮かんでいる。
棗にはるいとの時間は晴れやかだった。
φ線に乗って、市街を東西に分けている運河を渡る。運河の水は錆びた鉛のような色をしていて、ところどころが鈍い白で、それがまた運河の底に沈んだあと、湧いてくるように盛り上がってきて光った。水は熱せられて泡を噴き出しているように見えた。運河の岸に釣り人が糸を垂らし、二人が乗った列車を目で追った。
るいが言った。
ー こんな色の水は見たのが初めてだ。棗はどう?ー 見たことがない。
ー 嫌なことを言うけどさ
るいはこれまでで一番気の利いた冗談を言うかのように目を見開いて黒目をくりくりさせ、その後で苦しそうに言った。
ー 泥棒の街では、水の色はみんな鉛色になって、人の顔も同じ色になるって、ぼくの年寄りの友だちが、煙草を吸いながら言ってたよ。そんな話、独りで抱えていられない。ごめんね、棗。
ー 泥棒の街?
ー そうだ。くんちゃんはそう言ってた。くんちゃんはもういないから、どういうことかはっきりとは分からない。ばかにしないで聴いて。もうこんなことは一度きりしか言わないから。
泥棒の街っていうのは、きれいなものとそうでないものが最初から決まっている。きれいなものはいつまでもきれいだし、きたないものははじめからずっときたない。これからもずっとだよ。だから泥棒の街の人間は、自分がきれいかきたないか、わかってるんだよ。きれいな人はきたない人から搾り取るし、きたない人はきれいな人から隙を狙って掠めるのが、当たり前になるだろう。
なんでそうなるか…死ぬことが隠されて、生きることだけしかないからだ。棗、隙間がなくなっちゃうんだよ。
隙間は海を底から掻き回す台風の場所だ。17世紀に死んだ劇作家が言ってた言葉があるよ。
「きれいはきたない。きたないはきれい。」これは台風の仕事だ。そういえば、そのときからずっと死んでいる偉大な劇作家はテンペストって劇も書いていたな。
ぼくは学校が好きだ。どうしてか?学校は隙間だらけだから。なんで隙間だらけなのか?学校では死んだ人が生きてるみたいだからだ。いろんな死んだ人の言ったことしたことを教えてくれるし、死んだ人に何かを尋ねることだってできそうだ。死んだ人が応えてもくれるだろうね。死人の肖像だらけの音楽室なんかたまらない。…冗談だよ。 そんな場所ほかにある?ぼくには思いつかない。そこでは盗まなくても済むだろ?みんなが死んだ人につながる隙間を持ってれば盗まなくても生きていけるだろ?
ー なんでそんなこと言うの?
ー 思い出したからだよ。
ー るいはきたないの?きれいなの?
ー なにそれ?
ぼくはまだらがいいんだよ。棗といるとまだらでいられるんだ。まだらでいることが魔法使いの要諦だね。知らなかったかな?ぼくは魔法使いなんだ。誰も知らないけどね。
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7.【誰かの記憶/不死】〜⚂⚃父ー玻璃夫と実験室〜
作業台の上にアリが10匹ほどの行列を作って這っているのを見つけた。どこから入ってきたのか、どこへ行こうとしているのか見当がつかない。実験室の環境として当然望ましくはないが、神経に刺さった些細なその棘を黙殺すると、玻璃夫は奇妙に気持ちが上ずるのを感じた。
アリたちはペトリ皿の周囲で、ときどき停まっては触角を緩慢に動かし逡巡したあと、また歩き出したり、常に左右にぶれながらそれでも大きくは隊列から離れずにせわしく動いたりしていた。
玻璃夫は不思議に、一世紀も前の画家のある有名な絵を思い出した。
赤銅色をしたほとんど素裸の、神話の神々を思わせる10人の漁師が、浜辺を列をなして歩いている。ひとりは仕留めたヨシキリザメを背負っている。誇らしげな男たちの中に、おしろいを厚く塗った白い顔があった。おそるおそる様子を見ながら、しかしどこかこちらを誘うような目をしていた。
アリたちの顔を玻璃夫は凝視した。アリに顔なるものがあるとしてだが。玻璃夫を誘い込む顔がそこにあるか?彼は見つけた。その顔は幼いわが子るいのものだった。彼はたじろぎ、釣瓶が井戸に落ちていくように、自分のものではない不可解な誰かの記憶らしきものに引き摺り込まれるのだった。
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土嚢、泥濘、硝煙と汚れた軍帽の汗の匂い。蒸し暑さ。逃げ場にもならない貧弱すぎる灌木の藪。上役のサディスティックな細い目。そこからは甘いロマンスの欠片も見つけることができない。願わくはほんの5ccでいい。強い蒸溜酒があったなら。そうすればおれはあの臭い男の顔の真ん中に拳を埋め込まずに済むかもしれない。おれの腰の太い革ベルトには1個の手榴弾が収まっている。脇にはアサルトライフル。突撃銃。冗談のような名。おれに限らず、誰でも持っている装備だ。敵は誰だ?それはおれが決めるものであるにもかかわらず、おれが決めるものではない。お仕着せの敵。おれを本来の敵に向かわせないための、レディメイドの敵。陰影を畳み込んだ雲の塊。強い雨が降りそうだ。
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アリは老化しない。ある日突然壊れて死ぬ。動力伝達のシステムが捩じ切れるようにして動かなくなって終わりだ。
かつての時期に比して玻璃夫には仕事の上で奮わないときが続いていた。そうなると玻璃夫の中で枠が外れ、アイデアと妄想の境界が曖昧になる。
不死薬…
委託元の担当者との打ち合せで玻璃夫はそんな考えに取り憑かれた。もとより医薬は玻璃夫の領分ではないから、手の出しようも、手を出すつもりもないが、不死はあらかじめプログラムされた死の、そのプログラムの作用を阻害することで可能だとされているものだ。ヒトの正常な細胞分裂の回数の限界は寿命と相関しているが、癌細胞ではそのリミットは取り除かれている。癌は宿主の死まで不死だ。それは不死のための、オイディプスに課せられたスフィンクスの問いなのだ。
玻璃夫はアリの一匹を摘んでペトリ皿に入れ、愛おしくいつまでも観察していた。
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8.【巨大な耳/巨大な蜘蛛】〜⚁⚅母に抱か れること〜
画面上部にフリーハンドで太く水平の線を引き、その上に波状の多次曲線を置く。青の掠れた具合が海岸から眺めた沖に立つ波濤のようだった。これは悪くはない。壁画のためのモチーフとして提案しようと思った。
オープンを3か月後に控えた現場のホテルをもう一度見ておきたかった。壁画のイメージとアクリル塗料との相性、壁の質感、ホールの広さ、人の動き、音の反響、場に身を置かなければ分からず、場に身を置いて忘れることがある。大きく掌を描きたい、と感じた。褐色の太い指と深く刻まれた皺を。この場所にはそれが相応しいだろう。それと…巨大な耳だ。静寂を聴き取る耳。でもそんなモチーフを誰が喜ぶのか?面白がるのは、るいくらいのものだろう。誰にも気付かれない見捨てられた面白いものを見つけては、棗に教えてくれたるいだったら、面白いね、と言ってくれるだろう。
どこからかコンクリートドリルの音が聞こえる。ある生物学者が言っていた。崩壊する前に壊してしまえ。不快な警報音もそれに混じった。珍しいことではない。設備業者が何かのシステムをチェックしているのだろう。棗の思考は散乱して戻らなかった。
警報はチェックではなく、厨房設備の不具合のようだった。蒸気がマシンからとめどなく噴き出して、ホールに水けむりが充満していた。中に人影があった。作業衣を着た男が何をするでもなく立ち尽くしていた。服は明るいベージュだったが、電灯のついていない誰もいないホールの箱の向こうに、陽の満ちた表通りが映るせいなのか、青いゾルが流れ出しながらも佇立しているように見えた。るいがいる。これを描く。これは現に起きている現象だ。これをただ活写するだけだ。
それが葉嗣を知った初めだった。それから棗は性急に葉嗣に近付いた。意地悪く言えば、彼はるいの代替だったのかもしれない。しかしそれを責めることができる潔白な人がどこにいるのだろうか?
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高いレストランやショップが並ぶ表通りを外れると、急に腥く、薄暗くなる。ビルの外付け階段は錆止めペンキのまま洒落気もなく、踊り場には生ゴミの溢れたペールがあったりする。場所を稼ぐためだろう径の細い螺旋階段などは上等だがいかにも安っぽい。そこにきれいでもない川などが流れていたら、しかし棗にとって申し分なかった。どこかでジェラートを買ってきて、非常階段の中段に座ってRoman Holidayだ。しかし手にジェラートもなく、ましてholidayでもない。奇妙な一日とでもいうのがふさわしいか。
奇妙な一日を構成する大きな端切れが残っていた。棗はその裏通りを跨ぐほど巨大な蜘蛛に出くわした。蜘蛛は、強靭で柔らかく軽いネットの中央から少し上で微睡んでいた。足下には糸でくるまれた白い玉がいくつも並んでいる。
わたしはここに至った、気付かず望んでいたものに出会ったと棗は思った。壁画に描きたくなった大きな掌、大きな耳はこの蜘蛛のものだ。そしてあの餌の玉はわたしだ。くるまれているのはわたし自身で、生まれて帰ることになる場所だ。るいがいつか話していた泥棒の街を離れてここに至る。あの蜘蛛の微睡みをわたしもいっしょに味わうんだ。
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9.【藪の陰】〜⚃⚄玻璃夫の子るい〜
灼け落ちて瓦礫になった団地群の傍らには、かろうじて生き残っている10㎡ほどのソテツの藪があった。
藪は庭石屋が持っている飛び地の隅にあった。数日前までその飛び地には雑木が茂り、仄暗くじめじめとしていて、御影石やチャートの巨岩が唐突に鎮座していた。これが売り物になるのかというような貧弱な楓が時季外れの赤い葉をつけ、松の捩じ曲がった太い枝には子どもがぶら下がったり寝そべったりしてはしゃいでいた。
大仰なフェンスに囲まれた軍用地が近くにあり、ここが襲われた。敷地内の弾薬庫が戦闘機数機に襲撃されて猛烈な火が上がり、爆発の連鎖で団地群にも被害が及んだ。強い爆風が襲い、部屋の西向きの扉がゆがみ、窓硝子が一瞬で粉々になり、そのあとで団地を火が取り囲んだ。さらに隊列を離れた一機の戦闘機が団地の上空から焼夷弾を投下した。着弾地点そばにいた人は、直接の衝撃を免れても爆弾に仕込まれていた油脂が身体に付着して拭えず、焔を上げて燃えながら逃げ惑った。自分の身体から逃げるなど到底できるわけがなかった。ゆがんだ扉が開かずに逃げ遅れた家族もあった。みんな焼けた。雑木は焼けて巨岩が割れた。辺りは瓦礫と灰になり、ソテツの小さな藪だけが残った。
ここではすべての疑問は無効だった。なぜあの人は焼け、あの人は焼けなかったのか?なぜこの団地は爆撃されたのか?とある敵兵の反射的な誤った判断によったのではないか?そのとき眼下に古い団地があった。それだけの理由で焼夷弾は投下されたのか?いつの瞬間から敵は敵となり、なぜこのような方法で敵とわれわれは関わり合うのか?ソテツの藪に玻璃夫は退避していた。自分はなぜソテツの陰でこんな光景を仔細に眺めているのか?答えの分母は現実の前でゼロだ。そこに数字は立てられない。
にわか雨が降って灰が雨水に溶け強いアルカリ臭がした。どのような経路でここに来たのかは判らなかった。足下には琺瑯製の古びて半ば朽ちた看板を見つけた。特徴的な見覚えのある書体で「山縣医院」とあった。ぐらぐら目まいがした。これは妻がるいを出産した医院である上、この場所から数百キロも西にあるのだ。
うめき声がして、玻璃夫は飛び上がるほど驚いた。重いヘルメットを被った敵兵がそばに倒れていた。
おそるおそる近づくと男の右腕が吹き飛んでいるのが判った。おれには何もできないと玻璃夫は思った。ヘルメットの中を覗いた。ヘルメットの中には巨大なアリの頭があって無表情な、いや上機嫌とも言える顔についた黒光りする目が玻璃夫を見返していた。殺すべきか?それは可能だ。首に軍用ナイフを突き立てることはたやすいだろう。殺すべきか?…アリの顔は紛れもなくるいの顔になった。
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10.【パラフィリアのクレバス】〜⚅⚃マナセと黄色い薔薇の園〜
蕗野マナセはある時期、目と耳が繋がりすぎていた。視るものと聴くことが互いに干渉し合い、それぞれの刺激がだんごになって、あるいは極端な分離のせいで主観的には認識の中枢に到達するまで数秒の時間差が生じ、世界のクレバスから空白の地に落下するようだった。
他者と関わることが恐ろしく地獄のように苦痛だった。相手がどんなつもりで何をしたがっているのかが判らず、視れば視るほど、聴けば聴くほど混乱した。「ぼんやりした人」の範疇に収まっていられればまだよかったが、相手の理解を超える行動に出ることもあった。やっとありついたアルバイトで、突然の落下を食い止めようとして、目の前にいた同僚の女性の手を両手で掴んで握り締め、解雇された。
精神科でパラフィリアと診断され、彼自身もそう信じ込まされた。親は嘆いた後に困惑し、それから空気のように扱った。つまり彼が面倒をかけない限りはいないものとし、影響が生じれば災難と捉えた。マナセも無理のないことだと考えた。彼自身は世界から"3p.p."退いた。"p.p."とはパラフィリアの綴りからとった彼自身の作った単位で、世界からの後退の距離を表した。
ある夜、独りで強い酒を飲み、その帰りに教会の前を通りがかって自分の名前が聖書由来であることを思い出した。そして小さな門扉の前に踏み石として置かれたブロックを取り上げ「狭き門より入れ」と書かれた紙が貼られていた簡素なショーケースにブロックを投げつけて壊し、しばらく立ち尽くしていた。
夜半だったがすぐに中から小柄ながら筋肉の太い、ゆっくりと動く初老の男が出てきた。左目が不自由なのがすぐに分かった。マナセは言われるままに応じようと思っていた。
ー どうした?
マナセは無言のままでいた。
ー ここが教会だと判るな?
マナセは頷いた。
ー 思うところがあるのだろうな。中に入りなさい。
木の小さなテーブルに麦茶が注がれたコップが置かれ、マナセはそれを飲んだ。マナセはずっと黙っていた。なぜか懐かしい気持ちがして息をつき、涙が出てきたことに自分で驚いた。吐く息は感謝であれと以前に読んだ聖書の言葉を思い出した。感謝とはどんな気持ちなのか?
彼は井谷と名乗る男に、自分が空になるほど喋った。言葉は堰を切ったように出てきた。喋っている言葉は反射することなく、井谷の中に吸い込まれたから、自分の言葉を再び聴く必要がなかった。涙が止まらなくなった。自分の落ち込んでいたクレバスの氷壁がゆっくり軋み緩んでいくように思えた。
マナセはその小さな教会のホームに住まいながら、仕事を手伝うことになった。井谷が受けてくるのは地域の庭仕事だった。除草や樹木の剪定、ときには花壇を作ることもあった。夕方まで働き、井谷が作った質素な夕食を食べた。
昔、貧しい友だちのタンクは庭を作ると言った。黄色い薔薇の咲く庭を作るのだと言っていた。彼はブラックの母親の血を引いていて、母親によく似ていたが、井谷はタンクに似ているとマナセは思った。マナセは黄色い薔薇の花壇を作りたいと井谷に言った。井谷はマナセを見て静かに笑顔を見せた。
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11.【薔薇の庭と悪い種】〜⚄⚅棗の凪とマナセの嵐〜
薔薇のステンドグラスのある池の上の家から、マナセの言う「悪い種」を中空に放擲した女が、今目の前にいて話をしている。それは驚くべきことだった。
マナセは棗のような女性……もちろん初対面で何が分かるはずもないのではあるが、彼には第一印象がすべてで第二以降の印象はなかった。それが彼の対人関係の特性だった。……例えば足が地面からわずかに浮き、ここと、どこか他のいくつもの場所に同時に存在するような女性に初めて出会った。世界のクレバスの底の、光のない無音の地からやってきた人とならば、心ゆくまで話がしたい。
しかし精神科がマナセに教えたのは、それがまさにパラフィリア的世界観であり、そのように省みることが、世界から3p.p.以上後退しないための方途だということだった。お仕着せの幸福に至るために、自身の本来的な幸福を振り捨てる亀裂の上で、パラフィリアは呼吸を続けることになるだろう。それは鋭く冴え続けるだろう。
寓話の中の、枝から血の滴る糸杉の根が、忘れられてしまった寄る辺のない若者の身体を抱え込んでいるのが見えたし、恨みと悲しみの虜になった娘が恐ろしい悪鬼になるのをマナセは見た。
世間並みのあることとないことは逆さまになってマナセを苦しめたが、いま、棗の中で、それらはそれぞれにふさわしいところを得て、凪いだ海のように美しかった。マナセはしかし、自分のあり方が、凪いだ海を掻き乱す小さな嵐でしかありえないことにどこかで絶望していた。美しい海に自分は与せないのだと信じていた。
彼女の静かな声はマナセの耳には早すぎない。柔らかな顔は、うるさく泡立つ意味の汚泥のほとばしりを浴びて、見る間に石化してしまうこともない。
庭の回復のための作業を、井谷は棗から依頼されていた。庭にはたくさんの薔薇が咲いていた。回復とは棗の言葉だった。庭が笑いかけてこなくなった、と冗談を言うように棗は言った。少しも友だちのようではない。前はそうではなかった。もっと朗らかで、なにかを誘いかけてくれるようだった。
なにがいけないのだろう。土に肥料を足しても、水やりに気をつけても、病気がないか、いじめる虫はいないかと手当てしてもうまくいかない。
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12.【ソテツの祝祭】〜⚅⚅父ー玻璃夫の逸脱〜
ソテツは蛾の触角に似た、密生して濡れそぼった葉を、急に吹き出した風に揺らしていた。ばさばさという派手な音の陰で細く太くうねったり捻れたりする歌が間断なく続いた。玻璃夫とそのそばに横たわる敵兵とは別のいきものの歌声に違いなかった。ソテツの藪は舞踏していた。人間群が自壊していくさまを冷徹に見つめながら踊る。おまえたちが滅びようが、われわれの舞踏が止むことはない。ソテツの群れはそう歌っていた。灰を溶かした雨水のアルカリ臭の中に、微かに甘く饐えた香りがあった。10年に1度しか咲かないという花が咲いていた。爆撃とその結果の瓦礫を背景にして、ソテツどもの祝祭が行なわれていた。
アリの頭の敵兵は大きな三角形の一辺が湾曲して鋭い刃になった二枚のあご板をさかんに動かしていたし、何よりときおり苦しげな声を発していたから、生きているのがわかった。黒光りのするキチン質の右腕の前腕部がもぎ取られて、体液が滴っていた。
玻璃夫はこの兵士に殺される危険はなく、遅からず息絶えるだろうと思い、藪を離れようと思った。
ー ぼくを殺して。もう見込みがない。胸もやられたよ。頼むから。…見殺しか、手をくだすかの違いだろう?もう同じことだよ。
るいの声だった。
玻璃夫は、先刻アリの頭がるいの顔に変わったのを見ていたので予期していた。アリの頭でいる間に、逃げようと思ったが遅かった。
ー なぜおまえがここにいるんだ。なぜおまえは敵なんだ。
答えはない。
もしやと思って右腕を捜すと、数メートル向こうの水溜りの中にそれは落ちていた。玻璃夫はるいの白い繊細な指が好きだった。しかしもはやその腕は、るいの人格から逸脱した何かわけの分からない肉塊でしかなかった。
玻璃夫は藪を出た。おれは正気ではない。誰かの記憶の中ーそれはおれ自身のものかもしれないがーに迷い込んだのだ。
彼は泥濘に足を取られ、「山縣医院」の看板を踏みつけて逃げ出した。
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13.【憎むべきは…】〜⚃⚂⚅ぼろ船の底〜
葉嗣の青いシビックに乗り、半島に伸びる高速を走った。海に近づくと緑が濃くなって、道路脇の崖に自生したウツギが雪のような純白の花をたくさんつけているのを、車窓から眺めていた。サービスエリアで選んだサンドウィッチとコーヒーを葉嗣と車中で分け合う。冷えたチキンの皮の、強い醤油味のゼラチンが口中に残り、あちらこちらに自由に移ろっていた気分が一つところに留まり、動かなくなった。棗は声に出して言った。
ー 憎むべきは食い意地。食い意地さえなければ。
言ってみると、何か詩句のようで愉快だった。
ー 憎むべきは食い意地。
もう一度口にした。葉嗣には何のことか判らなかっただろうが、ハンドルを握りながら笑った。
棗は漁港そばのガレージつき一軒家を仕事場にしていた。母屋には寝台といくつかの質素な調度。外の空気や光線がそのまま部屋に影響するが、隔絶されているようでもある。今は薄暗くて外の様子がよく窺える。箱舟に乗っているようなのが、棗は好きだった。以前読んだ小説で、語り手が自分の部屋を「ぼろ船の底」と言っていた。いつかぼろ船の底のような部屋に住みたいと思っていた。映画にもあった。ボートの底で、木漏れ陽をちらちらと顔に受けながら、気弱なボーイフレンドとひとときを過ごす奔放な少女。そんなときを持てれば、ほかに人生になにも要らないはずだったのに。
棗は先刻のフレーズを思い出して笑った。
ー 食い意地さえなければ。
葉嗣をモデルに描こうと思っていた。彼に近づくと紅茶の匂いがした。るいを思い出した。棗は葉嗣のシャツのボタンを外していった。白い胸元が露わになった。葉嗣が言っていたわたしの青い静脈。葉嗣の胸にもそれがあった。たぶんるいの胸にも見たことがある。
葉嗣は微笑みながら棗を見つめていた。棗は彼の顔から紗が剥がれるのを感じた。
この人はるいじゃない。違う人だ。
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14.【世界の生殖と蕩尽/新月】〜⚂⚅⚄るいの手記〜
なんという匂いと熱の横溢だろうか。数えきれないほどの花々や果実、花粉、胞子が満ち満ちている。
そのなかでぼくたちは何者か?隠しようもなく露出された、粉飾も繕いも施すには機を逸した、多くの可能性のうちの一つの貧しい結果にすぎない、もはや誤魔化しようもない骰子《さいころ》の目なのか?
ぼくたちは何を世界から借り受けたのだろう?思念はこの奔流のような生殖のめまいを前にして、何かをなす自由を有するのだろうか?この身体は不自由だと言う。ではかつて自由な思念などどこにあったというのか?
なにかぼくの考えの痕跡のようなものを書いておかねば…書いておきたいと思う。以前からそう思っていた。
誰に宛ててと考えたのか、そもそも誰かに宛てて、ということだったのか?思い出せない。そうだとするなら、ぼくには棗しか思いつかない。あるいはぼく自身に宛てて?いや、棗のほかの誰もぼくには思い浮かべられない。それはぼくにとって自然なことだ。棗…姉さん、どう呼んでも、ぼくのなかに、名付けられない感じが湧き上がってくる。これはなかなか始末に困るのだ。ーこれを始末するー否、始末ではない。ただあるように、手を添えよう。それができたらと思う。ぼくはそうしよう。
棗、これを言うのは最後だ。ぼくはあなたに感謝している。これを書くのに、ぼくがもしかすると過度に情緒的になっているらしいことを白状しなければならない。
あなたがいたからぼくは歩けた。あるいは留まった。ぼくはあなたと話をした。なんの目的もなく。そう、この目的の定まらない手記のように。
あなたは感情的だ。感情はときに醜悪かもしれない。破滅的なものですらあるだろう。それはそうなのかもしれない。でもそれは感情の自然がゆがめられているのだと、あなたは言った。ぼくは嗤った。感情はそもそもゆがんでいるものだと言った。憶えているだろうか…
ぼくはいま感情に任せてこれを書いている。それでいい。感情は流れる。積み上げて何かを形づくったりはしない。ただ流れるように。昔ギリシャ人は言った。「同じ川に二度入ることはできない」書いたものがそうであったなら、と思う。書いたものだけではない。ぼく自身がそうだったならと思うのだ。あなたは、ぼくを流れる青だと言ったのだ。
ぼくはなにも伝えない。だれにもなにも。誰かに何かを伝えることができるのなら、それは伝える必要のないことで、すでに自明のことなのだ。同意してくれるだろうか?伝えることができないこと。それだけがぼくたちに重要だった。
ぼくはあの有名な琵琶法師の言い伝えを喩えにしてみたくなった。ぼくはあの話が大好きなのだ。姉さんは笑うかもしれない。姉さんの笑いには…笑わないでほしいのだが…ぼくは深淵を見ていた。徹底した拒みと無抵抗の深淵。それがあなたの神秘だと言っておこう。
合戦で滅ぼされ悪霊になった武者たちを相手に、法師は琵琶を弾く。悪霊たちは美しい琵琶の音色に魅せられる。鬼火に囲まれている彼を危ぶんだ彼の師匠は彼が悪霊に食われないよう全身に経文を描く。悪霊は経文を忌避したのではないのだ。意味に染まったものに見向きもしなかっただけなんだ。悪霊に必要なものは、意味に疎外された耳だった。
ぼくは悪鬼になろうと思う。悪鬼になってどこでもないところ、いつでもない時間に棲む。そうだ、棗ー姉さん。このことだけは伝えておくことにしよう。ぼくはたぶんあなたの前に現れることはない。そのかわりに、あなたの中、世界の裡に遍在する、そう、法師ならぬ、世界の生殖のための胞子になろう。
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小池のほとりに焼串のような時計塔が立っている。戦争時代に界隈の住宅のための給水設備も兼ねていたらしいが世間で戦争の記憶が薄れていくのといっしょに、いまや無用の長物になっている。それだけに大昔の歌ではないが、ここは心の捨て場所で、だから時計塔には捨てられた心の残滓が貼り付いている。
シンプルで扇情的なあの歌は、心を捨てようとする、そうでなければもう心を捨ててしまった人たちがそぞろにやってくるこんな場所のことを歌っているのだろうかとも思う。しかしこの場所がそんな意味に染められてしまうことを我慢するのは難しいことだ。
棗にはこんな話はしたことがない。思えば、棗に話をしたら、この時計塔…窓からも見えるそれを、奇しくも棗はオベリスクだと言っていた。だからぼくはギリシャ語の原義である焼串のようだと書いた。実際に焼串の面白い形をしている…これへの奇妙な執着が喪われてしまうのをぼくはどこかで恐れていたのだろう。
これは、この書きものを書くことになったなりゆきにも関わることだ。
この国では…羞恥とともに「わが祖国」と言ってもいいだろう…もう手に入れることが難しくなったゴロワーズをぼくは時計塔を見上げる公園のベンチで吸っていた。午前零時に近い頃だった。そういえばわが祖国ではベンチも少なくなった。希少なゴロワーズを希少になりつつある深夜のベンチで吸うぼくは希少な男ということになりそうだ。生産に与さない人間には居場所を与えない、いや生産という概念すら、誰かに恣意的に決定されるようなものに変質してしまった、立派な我利我利亡者の泥棒の国に、わが祖国は成り果てたのだ。
海からの風がやってくる。煙草は腐葉土の香りの煙を立ちのぼらせている。汗のような磯臭さと混じってぼくの記憶は枠をほどかれて飛びまわる。
ベンチの前を前かがみに男が歩いていった。プラタナスの葉を踏む乾いた音がした。見覚えがあるような気がして目で後を追ったが、すぐに消えた。思い出した。学生時代の知己だ。このあたりに住む男ではないはずだった。ぼくはベンチを立って追いかけたが見当たらなかった。
ぼくは知人に会っても、向こうが気づかない限り関わることはしない。声を掛けられたいと思っているとは限らないからだ。だが彼の魂の抜けたような様子が頭から離れなかった。棗ならばぼくの言いたいことがわかるだろうが、安物の弁当箱のような黄緑色が彼に纏わりついていた。陰翳のないつるんとしたその色は困難の色だ。棗とはそんな話をしたこともあったはずだ。
ほぼあり得ないと思いつつ彼の存在の痕跡を探して時計塔をぐるりと回った。彼は居た。時計塔の壁に巻き付くように設けられた階段をよじ登っていた。ぼくは彼に向けて叫んだ。止まれ。話を聞かせてくれ。ぼくも時計塔を囲んだフェンスを越えて階段を登っていった。
階段には行き交える幅はなく、ぼくはちょうど塔の高さの半ばあたりで彼を見上げた。ああ久しぶりだね。彼に切迫した様子はなかった。笑顔もあったほどだ。ぼくは何をしてるんだと尋ねた。ああちょっと登ってみたくなったんだ。大丈夫、飛び降りもしないし、危険なことをするつもりもない。風に当たりたいだけだ。ぼくは彼の言葉を無理に信じようとした。すでに巻き込まれているけれど、これ以上は無理だと思ったから。いや正確にはそうではなかった。ぼくは彼がやろうとしていることを、ぼくがしたかったことと重ねていたのだ。
ぼくらは新月から数日経った細い月を階段の途中で眺めた。それから、階段を降りてベンチでふたりでぼくのゴロワーズを吸いながらほとんど話らしい話もしなかった。ただ最後に彼は深い謎の言葉を口にした。
ー いい時間だったよ。また数年前にでも会えたな ら、今日見た月の話でもしたいと思う。それまで楽しみにしているよ。ピアノの減衰音はどこまでも引き延ばされて行き場を失うが、描かれた時間の絵の隙間が、音の住処を作る。
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15.【ブラックバッカラと時間の庭】〜⚄⚄⚄三つの骰子〜
あの振り出しの日のように、棗の家の大きな窓から見える空は白い薄曇りだった。井谷によれば神代欅の無垢板だろうという黒いダイニングテーブルに着いて、棗はマナセと井谷と、庭の手当てについて話し合っていた。依頼主の家に上がり込んで打ち合わせをするなどまれなことだ。
ー いろいろとやってみたのに、なにかうまくいかなくて
井谷から、専門の庭師に相談してみてもと婉曲な提案もされたが、棗は、教会のかたにお願いしたかった、とだけ言った。
マナセは口出しするつもりはなく、井谷の指図に沿うだけと決めていた。ただマナセは、棗が教会という理由を考えることにしばし没頭した。
クレバスの底の景色を知っているはずの彼女は、気がついているのだ。自分が投げた「悪い種」の影響が出始めていることに。それは何かは判らないが、何かのために必要なプロセスであり、状況の順列組み合わせで選ばれた、まさにパラフィリアの自分との、この関わりを経て回復していくだろう、とマナセは考えていた。しかし、これを口にしてはならない。真実のもたらす禍福は沈黙をもって贖われねばならない。
どこからかソテツの花のようなうっすらとしたアルカリ臭がした。気のせいかもしれない。マナセは自分が発作的な恐慌に陥る前にこの匂いを感じることを知っていたが、棗の前でそれを起こすのを自ら試みるような、奇妙な気分にもとらわれていた。
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るいは水溜りの中に、自分のキチン質の腕が転がっているのを呆然と見ていた。るいは自分がアリになっているのを感じ、今となってはそれはそれで構わず、自分でそうありたいと思っていた気すらした。ソテツの匂いのする泥にまみれて横たわりながら、玻璃夫にも助けを求めることができたじゃないか。もう殺してくれと。玻璃夫が逃げるのは当たり前だ。おれでも誰でも逃げるだろう。あとは父ー玻璃夫と棗、それに今は空の上にいるのか、自分を産んだ母親が心安からんことを祈るのみだ…
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もう、るいをあのソテツの藪の中に置いてきたことを忘れなければ、おれは生きていけない。
玻璃夫はヘルメットがずれるのを構わず、合わない軍靴の中で足が痛むのを堪えて、息が続く限り走った。爆撃が止んでから時間が経過していたが団地の崩壊はまだ続いていた。オベリスクのような時計塔が無傷のまま静かに立っていた。玻璃夫はしばらくその陰で休んだ。命にかかわるような怪我はしていなかった。
気がつくと、玻璃夫は医院の待合室のベンチにいた。汚れていない白い開襟シャツを着て、ブルーの麻のジャケットを羽織っていた。玻璃夫は待っていた。
もうすぐるいが生まれるのだ。
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発作が出る前にマナセは独りで庭に出てしゃがみ込んだ。しばらくすれば治まりそうだった。赤黒い滲んだ色のブラックバッカラ…この薔薇は知っていた。母親が好きだったのだ。母はブラックバッカラのような人だったと思う。愛の裏と表。母自身のためにマナセを愛し、手離した。マナセは仕方ないと思うほかなかった。パラフィリア…そんなレッテルは罪だと恨みがあるが、母はそのレッテルにこだわった。…ブラックバッカラは乳白の空から浮き上がって見え、黒種草…これは井谷から教えられた名だった。…はマナセの顔の前でギザギザの白い花を揺らしていた。ブラックバッカラの根元に象牙の骰子が転がっていた。これは彼が見た二粒の「悪い種」の一粒だったろう。それをポケットに入れ、後で棗に渡すのだ。
少し先に花弁の先が赤紫色になったブラックバッカラとは別の薔薇が咲いていた。これはほとんどむせるようによく香る花だ。名前は知らない。見事な庭だとマナセは思った。ただ風が抜けずにむっとした温気が留まり、額に汗が浮いた。ミツバチの羽音が聴こえたが姿が見えない。タンクの姫さま人形のことが頭に浮かんだ。
ー どうですか、庭は?
人好きのする表情の、おそらくは棗とあまり変わらない年恰好の男がマナセに声を掛けてきた。マナセはいい庭ですね、と言った。薔薇がこんなに香っている庭に入るのは初めてです。
葉嗣は言った。
ー 彼女はなにかを気にして、そちらの教会に庭の手入れを頼んだんですが、この庭のなにが悪いんでしょうね。ぼくもとてもいい庭だと思ってるんです。
マナセは、ポケットの骰子を出した。落ちてました、と言った。葉嗣は、あ、と言って、自分の骰子をマナセに見せた。
ー ぼくもさっき拾った。ずいぶん前に、彼女が窓から投げたんですよ、二つ。その骰子とこれを。ぼくには理由がよく判らないけど。
どうですか?あと一つ骰子が部屋にあるんですが、それを彼女とぼくとあなたの三人で、改めて投げるんです。あなたが一つ拾ったのであれば、何かつながりみたいなものがあるのだろう。
彼女が庭を気にしていたのは、そういうことかもしれないので…
ー そうなのかもしれませんね。そうするのがいいのかもしれません。
マナセはそう言った。
了