人みなシメールを負えり
フランスの詩人シャルル・ボードレール(1821-1867)が著した「巴里の憂鬱」(1869) に標記の句がある。シメール(Chimère)とは仏語でキメラを言い、頭がライオン、身体が山羊、尻尾が蛇からなる怪物で、口から火炎を吐く。
灰色の荒野を歩く群衆のそれぞれにはそれぞれのChimèreがいて、その爪は深く背の肉に食い入っている。苦しくないはずはない。しかし人々はその怪物を宿命として受け入れているかのように、この象徴詩人の目には映る。
Chimèreとは正も負も含めた固有の資質であり、欲望や野心であり、妄念であり、幻想であり、性癖の象徴だということができる。それぞれが固有で不可視のChimèreを背負っているから、身に染みついた、もはや心体化したその苦痛や快楽は、他の誰かと共有することができない。わたしの苦しみがあなたの苦しみであることはなく、あなたの歓びや快楽はわたしのものではない。
何をわかり合うことが可能なのか?期待不能であるのならば、非志向的・自律的な、自足した期待というものについて何かを想像しうるのか?
その期待自体がすでに妄念・幻想/Chimèreである。
わたしにできることは、それによってわたしをわたしならしめること、それを通して世界を眺めることしかない。
妄念が雲散霧消することは、わたしがほどけて散ることである。
