
アルミ缶の上に、昔と変わらずあるミカン(ショートショート)
アルミ缶の上に、昔と変わらずあるみかん。
まるで明日の夜ご飯を考えなくてもよかったあの幼少期に戻してくれるように、それは私を出迎えてくれる。
冬の夕暮れに照らされ、映画のような色合いに染まる部屋の中に、母だけがいなかった。そしてこれからも母の居場所だけを開けたまま、一生を過ごしていくことになる。
去年の春、人生49回目の桜の開花に間に合わず、母は亡くなった。
癌が見つかった頃にはもう覚悟をしていたことなのに、私の人生21回目の桜はモノクロに咲いて、いつの間に散っていった。
お葬式は親族だけでと言っていた父は、母がこの世を去ってから15kgも痩せていた。頬についた涙のあとは、まるで母が見えない親指でなぞったかのように美しく垂れていた。
人が一人減ったとて関係なしに、神様はカレンダーをめくっていく。
母がいない初めての夏。
酷暑という言葉が甘く感じるほどの暑さを乗り越え大学から帰宅をすれば、クーラーをガンガンに効かせたリビングとともに母は私を労ってくれていた。それが普通だと思ってしまっていた。
帰宅しても蒸し暑い家の中に、汗とほんの少しの涙が垂れる。
ドアを開けても「おかえり」と聞こえないリビングに入るのは未だに躊躇してしまう。
私はゆっくりとドアノブに手をかける。
もしかしたら向こうに母がいるのではないかと期待している自分に嫌気がさしてしまう。
扉の隙間から感じる風の冷たさが恋しくなる。
扉の向こうから聞こえる、つまらなそうな韓国ドラマが恋しくなる。
今日はカレーなのかと勘づけるほど廊下に漂う匂いが恋しくなる。
私はリビングに入るのを諦め、自分の部屋に向かう。
部屋に入るのと同時に、Macと少しの教科書が入ったリュックサックをクッションに放り投げ、そのままベッドにダイブする。
汗でベタつく肌が気にならないのは、脳内が母でいっぱいだからなのかもしれない。
久しぶりにこのまま寝落ちしちゃおうか。
もしかしたら風呂に入りなさいと母が起こしてくれるかもしれない。
私は重たくもない瞼を無理やり閉じる。
目尻から溢れ出た涙がゆっくりと頬を伝っていくのが感じる。
(小3の夏、ポチが亡くなった日もこんな感じだったな)
瞼の裏側でポチは私の目の前にボールを置いて、喉を鳴らしている。
私はボールを拾い、目一杯遠くへ投げてあげる。
(母が亡くなって唯一良かったのは、ポチがひとりぼっちから解放されたことだな)
ポチはもう戻ってこないかのように一生懸命ボールを追いかけていった。
いつの間にか寝ていたのか、部屋の中はどこに何かがあるのかわからないほど暗闇に染まっていた。
感覚で手を伸ばし何度か壁を触ったのち、やっと電気をつけられた。
クーラーをつけずに寝てしまったのが良くなかったのか、まるでシーツが汗をかいているのかと思うほど湿っていた。
急いでシーツを外し、洗濯機に持っていく。
父がいつの間にか帰ってきていたのか、リビングの電気がついている。
人がいるリビングに安心感を覚え、父になるべく明るい声で話しかける。「おかえり。今洗濯機回すけど何か洗濯するものある?」
父は、私の顔を何かに重ねながら絞り出した声で応える。
「じゃあこのワイシャツすぐ着替えちゃうね」
このやりとりがなんだか懐かしく思えてしまったのが、私を悲しくさせた。
『今世紀最大の寒波が予想されます!皆様なるべく早いうちに防寒対策を』
母はこのニュースを見るたびにホッカイロを必要以上に購入していた。
だがもう冬だというのに、家の中にホッカイロの温かい赤いパッケージがどこにも見えない。
大学に向かう朝、持ってきなさいと玄関で半ば強制的にポケットに入れてくれたあの暖かさをもう感じることができない。
私は通学途中、なんとなくコンビニでホッカイロを買ってみた。
手袋を外し悴む指先で無理やり開けたホッカイロは、想像していたよりも暖かくない。何度擦っても私の頭の中にあるホッカイロに辿り着かない。
(母の手で暖められた、あのホッカイロをまた握りたい)
私の顎はいつの間にか震えが止まらなくなっていた。
頬に暖かくないホッカイロを当てる。
寒さだけが原因じゃないのは充分にわかっていた。
それでもホッカイロを頬に当てたかった。
もしかしたら母が私の頬を暖めるように手で包んでくれたあの優しさをまた感じられるかもしれなかったから。
大学が終わり、傾く太陽に照らされる電車に揺られながら急いで帰宅する。
この時間だったら父の方が早く帰ってきているであろう。玄関を開けると父の靴が乱雑に並べてあった。
夏の頃はすぐに入れなかったリビングを開けると、父の少し昔に戻った背中が見えた。
炬燵に入っている父は、まるでジェンガで遊んでいるかのように手を空中に出している。
「ただいま、ねぇ何してるの?」
「おぅおかえり。ほらこれ見てみろよ。懐かしいだろ」
顔だけをこちらに向ける父は、机の上にある物体を私に見せるため少し体を傾ける。
そこには、
アルミ缶の上に、昔と変わらずあるみかん。
「ほら、母ちゃんこの季節になるとアルミ缶の上にみかん乗っけて、『アルミ缶の上にあるみかん』とか言ってただろ。なんだか懐かしくってな」
冬の夕暮れに照らされ、映画のような色合いに染まる部屋の中には母だけがいなかった。そしてこれからも母の居場所だけ開けたまま一生を過ごしていくことになる。
でも、母は確かにそこにいた気がした。