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ソアリング! そらのとびかた

    #創作大賞2026 #ファンタジー小説部門

    あらすじ


    特別な翼を着て限られた人がそらを飛ぶことができる世界。
    海に面した「崖街」に住む少女ヒワは、同い年の少女アヤハと少年アトリと共に、鳥人とりびとになるべく、飛行学校に入校する。最初は初歩的な羽ばたきの訓練から始め、初フライトを終えた若鳥たちは、古都で開催される飛行学校初年生による街対抗新人戦に参加すべく、訓練を重ねていく。人間が翼を着て空を飛ぶには、気象や地形などの様々な知識を学び、上昇気流を捉えて羽ばたかずに上昇し、次の上昇気流まで滑空する滑翔ソアリングという飛行技術を習得しなければならない。カヴァという天才的なライバルのいる新人戦に臨んだヒワたちは、順調にフライトを進めるのだが、古都から少し離れた場所に聳える浮島に吸い込まれてしまう。



    プロローグ

    空を見上げよ

    -ヒトは鳥のようには飛べない。

     ふつうなら、そうだ。
     でもヒワは初めてのフライトに臨もうとしている。
     高まる心臓の鼓動を抑えることができない。これまで三か月の間練習してきた。緊張しすぎれば失敗する。これまでやってきたことを信じるだけだ。
     大きく息を吸う。そうだ、できる。そう頭の中で言い聞かせることで、徐々に冷静さが戻ってくる。まわりでは導者や仲間たちが見守っているはずだ。
     しかし視界には入ってこない。見えるのは空と地平線だけ。
     太陽は左手の山際から登ったばかりだ。水平線を朱色に染め上げ、空はもはや瑠璃色から蒼色へと変わろうとしている。先ほどまで無彩色だった地表も物の形が徐々に判別できるようになりつつある。
     早朝の空気は静まり返っている。初フライトにはうってつけだ。
     ただいつもと違うのは、ここが地上から15米メートルの高さだということだ。ここはデッキと呼ばれる発進場だ。
     もう一度息を吸う。そして少女はゆっくりと銀色にも見える灰白色の両方の翼を広げる。腕に感じる翼のバランスを感じながら、顔をまず右に向け、目で右翼に異常がないか確認する。前縁の形状、上面、下面、翼端の風切り羽、そして広げた形はいつもの通りか。問題はない。次に左翼を同じように点検する。そして尾羽。きれいにそろえられた羽が朝日に輝いている。これまで何十回となく行なってきた手順だ。
     吹き流しウインドソックは凪いでいる。無風。
     さらに二回深呼吸をし、ゆっくりと息を吐いた。視点は地平線上の一点をとらえる。
     息を吐ききると同時にヒワは助走した。羽ばたく。
     空中に飛び出ると同時に、体が何物にも支えられていない感覚に襲われる。だがそれは一瞬だった。翼が空気をとらえる。揚力が腕を通して伝わると同時に、ヒワの体は空中で「浮かぶ」状態となる。心地よく空気が体を持ち上げる。
     ここまで来て、ヒワは心に余裕を取り戻し、周りを見渡した。眼下に着地点が見える。短い草に覆われた広い空き地だ。今回は無事に着地することだけを目指せばよい。もう羽ばたく必要はない。滑空姿勢を保ったまま崖から離れる方向へ滑っていく。そしてゆっくりと左に翼を傾ける。崖と平行になったところで翼を水平に戻す。しばらく崖をなめるように進み、今度は右に旋回する。たった今飛び立った場所はもう右手の上方になっている。左へ飛んだのと同じくらいの時間を計り、左に180度旋回する。これを何回か繰り返すと、高度が下がり、着地点が大きく迫ってきた。
    着地は風に正対して行なうのが鉄則だ。右の翼端で着地点を押さえるように右旋回をかけ、着地点を真正面に持ってきた。高度は3米メートルほどだ。
    地面が近づくにつれ、翼が空気をクッションのように抱え込み、沈下速度が抑えられ、滑るように距離が伸びていく。地面効果だ。
    ここで翼をゆっくりと捩じり、すなわち迎え角を大きくして、揚力と抗力を増大させると同時に前進速度を殺していく。
    -ここで引き起こしフレア!
     高度50糎センチメートルになったところで翼をほぼ垂直に立て、両足で地面に着地した。
    速度を殺しきれずに数歩歩いてしまったが、はじめてにしては上々だ。
     なんという達成感。
     
     息を整えている少女に同級生たちが駆け寄ってきた。アトリとアヤハが同時に言った。
    「やったね、ヒワ」
    「初飛行おめでとう」
     うれしさと達成感が込み上げてきた。
     ヒワはとびっきりの笑顔で空を見上げた。



    第1章 飛行学校

    1.飛べるようになるまで

    鳥人(とりびと) 

     ヒワが飛行学校に入ったのは、1年前だった。本来は上貴である鳥人とりびとの子弟しか入れないが、数年に一度、数名の街人の子供を受け入れている。上貴の一族だけに鳥人を継がせることを何世代も続けると、鳥人としての能力が劣化する懸念があるからだ。過去、鳥人たり得ないで没落していった一族は一つではない。「新しい血」を入れることによって鳥人としての能力を維持し、また向上させることが期待されている。したがって誰でも入れるというのではなく、少なくとも一つ以上の特殊能力を持っていることが必要とされる。
     アトリという同い年の少年も一緒に入校した。アトリも庶民の子供であるが、彼の場合は並外れた運動能力が上貴の目に留まったのである。13歳にしては小柄なアトリは、身軽な身のこなしで街渡りを得意とする。街の橋や手すり、設備の出っ張りを手掛かり足掛かりとして、三次元的に街を駆け回る遊びの中で、アトリは街渡り仲間から常に抜きんでていた。ある時、崖街の崖に面したデッキの手すりから4~5歳の子供が身を乗り出して落ち、危うく途中の梁に宙ぶらりんになっていたところを、器用に壁の出っ張りを伝わって抱え込み、落下する勢いを利用して、一層下のデッキに滑り込んだ。それをたまたま崖街の縁を飛んでいたひとりの鳥人に目撃されたのである。
     断崖絶壁に発達した崖街は1300年以上の歴史を持っている。1000米メートルを超える絶壁に居を構えようとした先人の思いはもはや計り知れない。しかし海に連なる平地は幾度となく津波や高潮に襲われた。自然の脅威から少しでも安全な場所を求めたとすれば、必然だったと言える。最初は数十米メートルの高さに崖を穿ってできた住居は、永い年月をかけ、少しずつ横へ、また上層へ伸びていき、街へと発展していった。
     そのような経緯もあり、街の構造は複雑で、絶壁に沿って数十粁キロメートル、高さは高いところで数百米メートルある。崖の頂部に出るため、1000米メートル続く階段は穿たれたのはいつの時代だったのであろうか。奥行はやはり採光と換気のため、深くて数十米メートルといったところか。迷路のように崖の内側に彫り込まれた場所もある。崖面に面して石積みの住居や店舗があれば、それらをつなぐ回廊も穿たれている。そこには不規則な間隔で鳥人が発着するためのデッキが設けられている。このような崖街は街渡りにうってつけの街である、平らな場所の少ない立体的な街では、街渡りが子供たちとって人気の遊びなのである。
     ヒワの場合は少し違う。他の人が持たない能力を持っている人が珍しくないこの街で、ヒワの能力は、鳥と話せる、という能力だった。話せるといっても、人間同士で交わされる会話ではなく、なんとなく鳥が考えていることがわかる、自分の思いを鳥に伝えることができるという程度である。いうまでもなく鳥人が重要な役割を持っているこの街で、鳥と意思を疎通できる能力は貴重だ。
     いつどこでヒワのこの能力が鳥人の誰かに知れたのか、ヒワが13歳の誕生日を迎えたその日の朝に、飛行学校から入学招聘状が届いた。招聘状を持ってきたのは、若い鳥人だった。その人は、翼をしなやかに広げながら、ヒワの家のテラスにふわりと着地し、ヒワの母親を驚かせた。
    「突然飛来して、失礼つかまつる。」
     深い緑の翼を纏った鳥人が言った。ヒワの母親、ハンカはその時仕事場でパンを並べていた。ヒワの両親はパン屋を営んでいる。そろそろその日最初の客がやってくるかという頃合いだった。
    「おやまあ、鳥人さま、こんな朝早くにお珍しい。いらっしゃいませ」
    「いや買い物ではないのだ。こちらにヒワというお子がおられるであろう。」
    「ヒワが何か・・・」 
    不安気な表情になる。
    「いや、まず名乗らなければなるまい。私はクインツスと申す。「上うえ」の飛行学校の導者だ。」
    「上」とは、飛行学校がイルムケップという霊峰に近い、街から少し離れた台地にあることから言われている通称である。

     崖街の営みの中で、鳥人族の能力が重要な役割を占めることになるのは、ある意味必然と言えよう。「翼」を造り、扱うことができることはやはり特殊なのである。鳥人の始祖が初めて翼を造ったのはおおよそ2000年前と言われている。まぼろしの巨大な鳥アネハの風切り羽を分けてもらい、人の体を浮かしうる翼面積を持つ翼を造り上げた。天人あまびとの超常の力の助けを借りたとも伝わっている。その製法は秘伝中の秘伝と言われ、翼を造ることができる匠は、鳥人族の中でも別格の家系である。その翼は必然、高価であり、その高価な翼を誂えることができる鳥人族は上貴ということになる。
     翼を持たない庶民は階段を使って街を昇り降りしなければならないが、鳥人は翼を「着る」ことによって、崖の外側から街を上下することができるのだ。
     翼を着て空を飛ぶことは容易なことではない。ヒトは空を飛びようにはできていない。尾羽と一体となるようデザインされた翼を腕に装着しても、重心位置が翼の揚力中心と一致するのは難しい。ヒトの体は水平の状態では、横隔膜の位置に重心がある。そのため翼造りの匠たちは、可能な限り翼を後方へ伸ばし翼の揚力中心を後ろへ下げ、さらに尾羽にも揚力を受け持たせる努力を行ない、翼を実用化させた。鳥は前腕とそれを支える胸筋が発達し、体を宙に浮かせる羽ばたきをすることができるが、鳥のように中空の骨格ではないヒトは重く、宙に浮かせられる強靭な胸筋を持っているものは少ない。翼の匠は、腕を通す中空の骨格と人工的に補強された筋肉を装着することで、羽ばたきを補助する仕組みをこしらえることに成功した。これに尾羽で空力的なバランスを取る。人工的な筋肉は逞しい胸筋を形成し、体の前面でこれまた人工的な胸骨に結合し十分に羽ばたく力を発揮するようになっている。翼の匠は天人(あまびと)から伝えられた製法に則って人工的な筋肉を製作するが、そのすべてを理解している訳ではないのだ。

     初めて翼に腕を通したとき、ヒワは思ったより翼を軽く感じた。翼はひとりひとりに合わせて作られるのだが、全くの初心者の場合、最も軽く扱いやすい初級者向けの翼で練習する。勢い性能が高くないが、ひたすらこれで羽ばたきの練習をするのだ。
     一緒に入校したのはアトリとアヤハと他三名だった。ヒワ、アトリ、アヤハは、崖下から海へ向かってなだらかに下っていく傾斜地で練習していた。ナビタキ、クイナ、ジナイは、別の傾斜地で練習していた。
     通常の座学の授業が終わった夕方の一刻、ヒワ、アトリ、アヤハの三人は、いつも一緒に練習した。最も早く要領を掴むことができたのは、アトリだった。身体能力が高く、筋力もそこそこあった彼は、終始楽し気に練習をこなしていった。アヤハとヒワはお互いに競うように練習に励んだ。ひたすら羽ばたきを繰り返し、助走して2米メートル、5米メートルと浮揚する距離を伸ばしていく。
    「誰が先に初フライトできるかな?」
     練習が一段階クリアするたびに、誰からともなく発せられた言葉だ。
    三人の導者は、アルシノエという19歳の上貴だ。少女二人がいるクラスであるため、女性の導者が選ばれたのだろう。アヤハは上貴の娘であるため、もともと面識があるらしくアルシノエのことを姉のように感じているらしい。
    「アヤハ、今のジャンプいいね。もう少し腕の角度を高くして次やってごらん。」
     練習は、教程シラバスに沿って進められる。アルシノエは三人にやさしい言葉をかけながら練習を指導する。アトリは自分でコツをつかむのがうまいらしく、アルシノエも「いいよ、きれい。」くらいで、あまり口を挟まない。ヒワはアヤハと同じくらいの進捗度のようで、指摘されたところを直したら、その前に指摘されたことができずに失敗してしまう。それでもアルシノエは怒ったりせず、根気よく練習に付き合ってくれる。本来飛べるからだになっていない人間はすぐに疲れてしまう。そのため、練習は一時間が限界だ。
     
     14歳の少年少女は育ち盛りだ。
    練習後の帰り路で、
    「おなかすいたね。今日何食べる?」
    とアヤハ。
     ヒワが
    「ウチの揚げパン?」
    と返す。
     アトリは口数が少ない。こんな時はいつも黙ってついてくる。
    「ただいま」
     ヒワの家はパン屋を営んでいるが、店内でも買ったパンを食べられるようになっている。いつものように窓際の木のテーブルに座る。落ち着いた木製の調度品に囲まれた店内は三人のお気に入りだ。
    「あらヒワお帰り。いつものね」
     ヒワの母親、ハンカが三人にそれぞれ揚げパンを出してくれた。
    「ヒワんちのおいしいよね!」
     きな粉をまぶした揚げパンをほおばりながらアヤハが言う。
     表面はかりっと香ばしく、中はふわふわの揚げパンはこの辺りでは評判だ。
     ヒワはチョコレートをたっぷりかけたのがお気に入り。
    「ところでさ、アトリ、どう?飛びは」
    「いい感じだよ。しっかり空気を掴んでいる感覚がわかってきた。」
    とアトリ。
     アトリは粉砂糖をアイシングしただけのものがお気に入りだ。
     アヤハは、
    「フーン、あたしはいまいち羽の角度がわからないんだ」とつぶやく。
    「アルシノエが言ってたように、もう少し上体を前かがみにした方がいいかも。」
    とヒワ。
    「でも、わたし、自分で自分がどう飛んでいるのか、あんまよくわからない。」
    「ヒワは感覚のヒトだもんね。」とアヤハ。

    飛行練習

     ひたすら羽ばたきの練習をして、一週間もすれば、一回15秒ほど斜面の上で浮けるようになった。最初は立ったままの姿勢から羽ばたくので、翼を上下に動かすことになる。斜面を走り下りながら、羽ばたくことで自分の翼に揚力を感じることができる。地面からの高さは3米メートルほど浮き上がることになり、この高さから落下すると怪我につながる。この段階になると空中でのバランスをとることに集中する。体は前傾する姿勢となり、揚力をみぞおちの付近に感じることができれば上出来だ。翼が意思を持ち、自分とシンクロしているのではという感覚を持つのもこのころだ。

     今、ヒワ達が練習しているのは、崖街を仰ぐ平地で、海岸まで数粁キロメートルある。満潮時には海が迫ってくるので、耕地などに利用されてはいない、崖に沿って街並みがあるが、海が荒れても潮を被らない場所までしかない。そこから先は短い草が生えているだけの場所だ。海岸線までの間に砂丘があり、頂から海風に向かって行なう羽ばたきの練習にはうってつけなのである。
     そんなさ中、春から夏へと向かうある日のこと。
    「今日は風が息をついているので、ちょっと難しいかも知れないよ。」
    とアルシノエが三人の前で言った。
     ヒワは、そういえばやや海から風が強いような気がした。
    「風の強さは前回と同じような感じですけど」
    とアトリ。
    「そうね、でも今日は弱まったり、強まったり。強さは前と同じだけれど、安定して吹いていないのよ。そんな時は翼が受ける風の量が変わる。」
    「強いときは頭を下げて速度を増し、弱いときは翼を立てて揚力を保つ。」
     習った内容をアヤハが復唱するかのようにつぶやく。
    「そう、ただタイミングが遅れると失速してしまう。そこに意識を集中して。さあはじめよう!」
    とアルシノエ。
     一番目はヒワ。
     翼を高く掲げ、走り始める。速度が上がるにつれ、羽ばたきに力を込める。砂丘を3米メートルほど駆け下りたところで翼に揚力を感じ、体が浮いた。向かい風が強いせいかいつもより早い。しかし風が巻いているせいか、左右の翼が煽られるように傾く。ヒワは反射的に翼を水平に保ち、着地点をわずかに超えたところに粗く着地した。
    「私らしくない。」
     心の中でヒワはつぶやく。
     着地点で見守るアルシノエは何も言わなかった。表情も変わらない。
     最後はアトリ。力強く羽ばたいてすぐに空中へ。その時、アトリは後ろから風を感じた。背風だ。離陸したばかりで十分に速度を得ていない翼は、失速して揚力を失った。急速に高度が下がった。
     アルシノエが
    「引き起こせフレア!」
    と叫んだが、一瞬遅かった。
     足が地面を捉えられず、体が斜面にしたたか打ち付けられた。
    「アトリ!」
     地上で見守る三人が同時に叫んだ。
     
     アトリは右足を挫き、数週間練習を休むよう、医師に申し渡された。
     崖に面した病室には、日が陰り始めた気配が漂っていた。
     アトリはひとりでいた。親は看病についていないのだろうか?そういえば、アトリから家族の話は聞いたことがない。
    「アトリ!具合どう?」
     部屋に入るなりアヤハが明るく声をかけた。
    「ああ、アヤハ、ヒワ、来てくれてありがとう。」
     思ったより元気そうね、と言おうとしたが、かすかな憂いの響きを感じ、実はカラ元気かも知れない、とヒワは思った。
     それでも他愛のないやり取りをすると、アトリにも笑顔が戻ってきたようだ。
    「アトリより早く初フライト出るかも知れないよ。」
     ベッドのアトリに、二人は笑いながら言った。
    「くやしいな・・・」
    とアトリ。
    「うそよ、早く戻ってきな。」
     アヤハが気遣って言う。
     
     帰り路、明かりが灯り始めた家々を眺めながら、アヤハが呟いた。
     崖街の斜面に穿ってある通路は斜路になっていて、その路を登ることで、下層から上層へと行ける。
     ヒワの家は、パン屋を営んでいて、崖街の中層にある。
     斜路を登っていくに連れ、高度が高くなっていき、海辺の風景がだんだん下に見えてきて、遠くの海が見通せるようになってくる。ヒワはこの変化が好きだった。だんだん気分が上がってくるのを感じる。
     崖街特有のこの昇り降りを大変がる人も居たには居たが、ヒワは楽しんでいた。
     アヤハはどうだろう。
     アヤハは上層に住んでいるので、なおのこと楽しんでいるようだ。軽々とした足取りで、がしがしと斜路を登っていく。
     アヤハが呟くように言った。
    「アトリのこと、あまり知らないよね、私たち。」
    「うん。」
    「アトリもクインツスに招待されたのよね、ヒワみたいに。」
    「そう聞いてる。」
    「ということは、街人まちびとだけど、家族はいるのかな?」
    「どうして?」
    「だれも病室にいなかったから。お母さまが看病していてもよくない?アトリの家って、何やってるんだっけ?」
    「お母さまは先生よ、街人学校の。私は習ったことないけど、知ってた。」
     上貴、下貴には専用の学校があるので、街人の学校には通わない。
     アトリの父がいまどこで何をしているのかは、二人に知るすべはなかった。
     
     二人は練習に励んだ。風が強い日や弱い日、この前のような強弱がある日、風向きが頻繁に変わる日、どんな条件の日にも問題なく飛び立てるようになってきた。最終的には、助走なしで羽ばたきだけで浮けるようになることが目標だ。アトリの負傷までは、アトリが頭ひとつ抜きん出ていたが、ヒワとアヤハはほとんど横一列で、これは今でも変わらない。

     3週間後、アトリが戻ってきた。
     ヒワとアヤハの飛行練習を見て、
    「ふたりともすごい!」
    と言っていたが、内心どちらも初フライトにでていないことにほっとしたようだ。
     アトリはブランクがあるので、少し教程を逆戻って練習を始めた。それでも二、三日もすればすぐに勘を取り戻したのはさすがだ。
     この頃ヒワとアヤハは、水平から20度くらい体が前傾している状態で羽ばたきができるようになっていた。練習を始めた最初の頃は、体がほぼ垂直、すなわち立った状態だったため、翼を肩から上下に羽ばたくしかない。そのため、すぐに体力を消耗していた。体が前傾すると、胸の前後方向に羽ばたくため、効率的に揚力と推力に力を使うことができる。そのため、滞空時間が増してくる。揚力を得て前進速度もつけば、羽ばたきをせず翼を広げた状態で、あとは滑空すればよいのだ。
     いつのまにかアトリもこの段階に追いついていた。

    初フライト

     その日は突然やってきた。
     いつもの練習は、崖街から海岸の平地にでる門の内側で待ち合わせる。飛行練習は、授業が終わった夕方、日暮れまでの時間か、金曜日の早朝もしくは学校が始まるまでに時間行なわれてきた。今日は金曜だ。夜明け前のその場に現れたアルシノエは言った。いつもとは違うトキ色の翼を背負っている。
    「今日は上がるよ。」
     三人はすぐその意味を悟った。
    「いよいよ今日か!」
     だれも声を出さなかったが、力強くうなずいた。
     各自自分の翼を背負い、階段を昇る。
     崖街は基本的にどこからでも飛べる構造になっているが、複数の鳥人が同時に飛び立てるデッキがいくつかある。飛行学校の初フライトは、その中でも五層目にあるデッキから飛び立つことが通例だ。ヒワは、一層、一層、昇るにつれ、自分の胸が高鳴ってくるのがわかる。前を昇る二人もおそらく同じだろう。
     いや、アトリは冷静かも知れない。
     胸の高まりは、わくわくか緊張か?ヒワにとっては、それら半分半分だが、アトリにとっては、わくわくの方が勝っているのかもしれない。
     デッキについた。
     暗闇から徐々に物が判別できるように明るさが増していき、水平線がペルシャンブルーに、ビリジアンそしてバーミリオンへと色が変わっていく。視程は良好だ。遠くの山脈がややもやって見える。このデッキのことは知っていたが、ここから飛ぶのはもちろん初めてだ。ヒワにはいつもと違う風景のように思えた。
     崖街は崖に穿った街なので、崖に面した回廊には手摺が巡らせてある。デッキはその手摺のさらに外側に設けられていて、鳥人しか立ち入りを許されていない。翼を持たない一般人には危険だからである。
     アルシノエを先頭に四人は手摺を乗り越え、デッキに立った。
     各々自分の翼を着る。今回はアルシノエも自分の翼を装着した。
    アルシノエが言った。
    「最初に私がここから飛ぶから、航跡通りに飛ぶと良い。順番は、アトリ、アヤハ、最後にヒワね。」
     言い終えると同時に、アルシノエはデッキを蹴った。ふわっと翼が広がる。さすがに上貴だけあって優雅だ。
     デッキから真っすぐ海に向かって羽ばたきながら直進し、しばらくして左90度に旋回した。もはや羽ばたきはしていない。崖と平行して10秒ほど滑空した後、右180度旋回で再び崖に平行に滑空し始めた。
     旋回の度に高度が下がってゆく。
     何回か旋回を行ない、いつも羽ばたき練習をしていた砂地に、海と正対して着地した。
     アルシノエが合図する。
    「アトリ、さあ!」
     アヤハが声をかける。アトリはふたりを振り返り、一瞬微笑んだかと思うと、前を向き、翼を広げて助走し、デッキを蹴った。最初二、三度羽ばたきをしたが、後はすんなり滑空して無事アルシノエのそばに着地した。
     ほぼアルシノエの軌跡通りた。
     それを見届けてアヤハが続く。
    「ヒワ、下で待ってるわ。」
     基本通りに空中に躍り出て、美しい航跡を描いて着地した。

    いよいよヒワの番になった。

    ・・・・・・

     着地して、息をついているとアルシノエとともに、クインツスの姿があった。彼の姿を見るのは入校式以来だ。
    「三名の初飛行、しかと見届けた。」
    と一瞬言葉を切るとおだやかに微笑んだ。
    「見事な初飛行だった。」
     アルシノエはその後ろでうれしそうにうなずいている。同級生が同時に初フライトを迎えるのはまれだそうだ。
     三人は無事、最初の関門を通過したのだ。

    2.空の飛び方

    崖街

     小さい頃からヒワは家のテラスから海を観るのが好きだった。
     ヒワの家は崖街の中層部にあって、右手から登ってくる坂路に面している。路に面した1階は両親が営むパン屋で、小さなテラスがあって、机と椅子が3組おいてあり買ったパンを食べることができるようになっている。
     眼の前には一面の海が広がっており、遠くの島や行き交う船を眺めることができた。
     崖街の西端には港があり、大小さまざまな交易の船が出入港していた。
     店の前の坂道は遠く港ともつながっていて、さほど交通量は多くはなかったが、人や荷物を積んだ馬駱バラ車が行き交っていた。
     ヒワは暇さえあればそのような坂道を行き交う人や馬駱バラ車を見やったり、海の様子や空や雲の様子を眺めていた。
     海や空は、季節や時刻、天気によって全く異なる表情をする。
     夜明け前の薄墨の空、東の方で音もなく灰色が広がっていき、やがて藍、緑蒼色へと変わっていき、白々と明るくなったと思うと橙色が染み出すように地平線を流れ、太陽が顔を出す。
     日中の暑さがまだ残っている夕暮れ、急いでいるかのように太陽が傾いていくと、世界が黄色に輝いて見える。
     雲は春から夏にかけては、地上から湧き出るかのように浮かび、消えていく。見ていると、大体同じところで発生しては、消える。風があるときは風下に流されていくが、また最初の場所に新しい雲が出来ては流される。飛行学校で積雲という名があることを知ったが、ヒワは浮雲と呼んでいた。
     浮雲の下には、鳥が旋回していることもある。
     よく見るのは、トビで、オオタカやチュウヒ、サシバといった猛禽類がほとんどだったが、カモメなどの海鳥もいた、ときどき鳥人とりびとも。
     ヒワはテラスの手摺に持たれながら、そのような景色の移ろいを何ともなしに眺めることが多かった。
     崖街は通路やちょっとした段差に樹々が植わっていて、花を目当てに昆虫や果物や種実を目当てに小鳥もよくやってくる。
     夏にはヒワのいるテラスの眼の前をツバメは崖すれすれを飛びかい、ヒワと目が合うこともある。
     鳥たちはヒワにとっては身近な存在で、意思が通じ合うようになったのも自然なことのように感じる。

    滑翔ソアリング 

     初フライトを終えた生徒は、飛行学校の初期過程を修了とみなされる。初心者用ものとは違う本格的な翼を誂え、自分の命を預ける相棒とするのだ。
     親元からも離れ、飛行学校の寄宿舎で生活しながら、与えられた課題タスクをこなしながら技量を上げていく。タスクは毎回、アルシノエとクインツスによって申し渡される。飛行する距離が徐々に長くなるようタスクが設定される。滑空しても届かない距離だと、羽ばたいて飛行する必要がある。
     羽ばたきを行なうことは相当の体力を消耗する。人工的な筋肉で補助されているとはいえ、継続的に羽ばたき飛行できるのは屈強な鳥人でも1時間程度しか持たないとされる。長距離を飛ぶ必要があるとき、鳥人は滑翔、すなわちソアリングする。
     滑翔ソアリングは、上昇気流を捉えることで羽ばたきをせず、長時間飛ぶことができる技術である。鳥の中でも滑翔ソアリングを得意とする鳥がいて、ワシ、タカ、カモメ、ミズナギドリ、カツオドリ、アホウドリなどが挙げられる。ワシ、タカは主に内陸に生息し、カモメ、ミズナギドリなどは海に生息している。翼の形も異なっており、ワシは四角い翼で、滑翔ソアリングするワシの仲間は翼端羽(初列風切フェザー)が一枚一枚分かれている裂翼だが、カモメやアホウドリは細長く、翼端羽は外後方に向かい収束するように尖っている。
     翼の細長さを縦横比、すなわちアスペクトレシオという。アスペクト比が高い、すなわち細長い翼の方が誘導抗力が小さいので滑翔ソアリングには適している。ワシは滑翔ソアリングしながら、地上の動物などの獲物を見つけ、急降してとらえるために短い翼を持っているのだが、フェザーが一枚一枚分かれている裂翼であることでアスペクト比を高くしていると言える。またワシが利用するのは、地面付近の空気が太陽の日射で温められて軽くなり上昇する熱上昇風サーマルリフトや谷風アナバティックウインドが尾根リッジで収束するときに生ずるコンバージェンス風を利用するのに対し、カモメやアホウドリは、海風が海岸壁に吹き付けてできる斜面上昇風を捉えるスロープソアリングや風が波頭を形成するときに生ずる波頭風を利用するシーショア・リッジソアリングで一日中海上をソアリングする。

     鳥人とりびとの中でも屈強な男性は、羽ばたきによる長時間のフライトが可能であるが、それでも持続的な羽ばたきができる鳥人は多くない。速く飛ぶためには強くて速い羽ばたきが必要なため、特に恵まれた体格を持った「狩翼しゅよく」と呼ばれる鳥人は特別な仕事に就いている。火急の事態において伝令を中心とする役割を担う。狩翼は、アスペクト比の低い翼を着てワシやタカのような飛び方をする。
     そのような役目にない鳥人は、細長い翼を着る。
     ヒワはヒンメルという匠が作ってくれた軽い自分の翼が気に入っていた。羽ばたきをするのは、平地から飛び立つときや次の上昇気流を見つけられなかった時なので、この軽さがとてもありがたかった。匠はそれぞれの鳥人の体格や「気性」に合わせて翼を製作してくれるのだ。

     初期過程を終えたヒワたちは「若鳥わかどり」として認められ、初級者用の翼から、おのおのの特性に合わせて誂えた本格的な翼を与えられる。また、通学ではなく、崖街から少し離れた「上」の飛行学校で寄宿生活をしながら修行を励んでいた。
     朝、目覚めるとまずは飛ぶ用意を整えて、寄宿舎の自室からすぐの発着場に集合する。鳥人としてはまだまだ幼鳥のヒワたちは、気流の穏やかな時間帯で基本をみっちり練習する。日が昇り地面が温まると温まった空気が上空へ昇ることにより海から陸への風、すなわち海風が吹き始める。逆に日が陰り地面が冷え始めるとまだ温かい海への風、すなわち陸風が発生する。海風が吹く前の早朝と陸風が吹く前の夕方、風が止む時間帯がある。これが凪だ。
     早朝はまた、目覚めた鳥たちが一日を始める時間帯でもある。一羽のコルリが寄宿舎のデッキの脇の木の枝にとまった。人の背よりも幾分高い枝だ。
    「おはよう」とその鳥が言ったような気がした。
    -私たちが翼をきているから、仲間と思っているのかしら。
    「おはよう」
     ヒワが返す。
    -二日後に嵐がくるよ。
    コルリが西の空を見ながら呟いた。もちろんさえずりで。
    「え、そうなの?・・・教えてくれてありがとう。」
     そういうとコルリは崖に沿って飛び立っていった。
    「何してたの?」
     アヤハが後ろから近づいてきた。
    「あさって嵐が来るんだって」
    ヒワが振り返って言った。
    「あの鳥が教えてくれた。」
    「ふーん、ヒワは鳥の言葉がわかるんだったよね。」

     その様子は少し離れたところから見ていたアルシノエが、ちょうど階段でデッキへ姿を現したクインツスに話かけた。
    「やはり『鳥使い』ですね、ヒワは・・・」
    「そうか、君が見つけただけのことはある。あの子は上貴ではないが、我々鳥人にとって貴重な存在になろう。」
    アルシノエは自身ありげに微笑み、若鳥たちに歩み寄ると笑顔で声をかけた。
    「さあ、誰から行くの?」

     砂丘からのジャンプで離着陸は問題ないヒワたちだが、上級過程でデッキから飛ぶようになると、少し勝手が違った。砂丘からのジャンプでは飛行時間がせいぜい数十秒に過ぎなかったが、デッキからのフライトは格段に長い時間浮くことになる。しかも初フライトでは海岸に降りたが、上級過程では、飛び立ったデッキに戻って着地することが基本となる。
     空中に出て、意外に難しいのが真っすぐ飛ぶことだ。縦方向は上下に体が向くように体重移動と翼の迎え角を変化させることによって操縦する。迎え角とは、翼を横から見た断面の、翼の先端と後端を結ぶ線(これを翼弦線という)の進行方向の水平に対する角度のことだ。例えば頭を抑えて速度をつけたいときは、翼をやや後方に、かつ迎え角を少なくする。横方向の操縦は左右の翼の迎え角の差をつける、例えば右に旋回したいときは右翼の迎え角を少なくし、左翼の迎え角を大きくするように翼を捩じる。ただ方向の維持は、左右の翼の微妙な差動と体を左右に捩じることによって行なうので、初心者はなかなか真っすぐ飛びことができない。横風が吹いたりするとなおさら難しいので、穏やかな朝に練習する。上貴の鳥人はなんのことなく真っすぐ飛んでいるように見えるが、そのように飛べるようになるまで、思ったより時間がかかることがあるのだ。
     「コツ」がある。
     
     若鳥たちはそれぞれ、自分の翼を「着て」飛ぶ準備を始める。左右の翼は収納と持ち運びがしやすいように別々になっている。尾翼を装着し、主翼の根元で左右を結合し、そこが背中側になるように翼を背負い、それぞれの翼の骨の部分に腕を通す。手のひらは、自由に使えるように外に出ているので、指を使って翼の根元の前の部分を胸の辺りで結合するのだ。
     手のひらに当たる部分に握りが付いていて、飛ぶときは握りをしっかりと握って羽ばたく。翼は人工的な筋肉と羽根から成り、人間の筋力を増強できるように作られている。地上では、本物の鳥と同様に、翼を畳んで背中に背負う形になるので、邪魔にならない。
     そして飛行帽とゴーグルをつければ、飛べる。
     
     ヒワの番が来た。
     翼をしっかりと握り、装着具合を確認する。
     静穏な空気の中、ヒワは羽を広げるとデッキを蹴った。
     すぐに揚力を翼に感じた。体が大気によって浮いている感覚だ。
     何回飛んでも、この感覚がヒワは好きだ。
     季節は夏だが、顔に当たる空気はひんやりしている。
    「真っすぐ飛ぶ秘訣は、できるだけ遠くに目標を見つけることよ。」
     アルシノエの言葉を思い出す。
     崖街の正面は海だ。遠くの海にポツンと島が浮かんでいる。ヒワはその島を目標に、進路がずれないように、体で微調整した。バランスが崩れそうになると、いったん羽ばたきをして態勢を整える。そうして滑空。気流を顔の正面に保っていれば、気流に対して斜めにすべらずに真っすぐ飛んでいることになる。
    -いい感じ!
     ヒワは心の中で呟いた。
     今日の海岸線は崖から2粁キロメートルのところにあるので、このまま海岸に着地しても構わないとアルシノエから言われている。でもそうすると、このデッキまで階段を登って戻らなければならない。
     旋回して、元のデッキに戻ることにする。
     ヒワは、海岸線の上空まで達すると、ゆっくり頭を右に巡らし、何もないことを確認しながら右翼の先端を下に捩じり、同時に左翼端を上に捩じり体を右に傾けた。水平線を顔で横になぞるように意識しながら旋回を続ける。  
     水平線の位置が目線より上がったり下がったりするとうまく回れていない証拠だ。これまでのフライトで何回かギクシャクしたが、そんなとき慌てて翼の角度を変えたりすると、却ってひどくなってしまうことをヒワは体感していた。最初の進路から90度旋回すると、飛び出してきたデッキが視界に入る。ここで少しバンク(垂直方向に対する左右の翼の傾き)が深くなってしまった。
    -まずい、突っ込んじゃう。
     ヒワは素早くかつ過剰にならないようにバンクを戻し、なんとか安定を取り戻した。
    「うまくなってきたな。修正が適切だ。」
     デッキで見ていたクインツスがアルシノエに言った。
    「ええ、あの子の感覚は素晴らしいものがあります。」
    とアルシノエ。
     2粁キロメートルも滑空グライドしたため、ヒワの高度はデッキより70米メートルほど低くなっている。羽ばたいて高度を戻さなければならない。さもなくば、海岸に降りることになる。
     今度はデッキを目標に、ヒワは懸命に羽ばたいた。自分の目線から、デッキの位置が徐々に下がってくる。デッキまでの距離が500米メートルくらいになったとき、ようやくデッキの上面が見えてきた。もう少しだ。でも腕が疲れてきた。デッキの上で見守っている皆の姿が見える。デッキまで50米メートル、40米メートル。だんだん近づいてくる。人の背丈の二倍を超す高さで、ようやくヒワは羽ばたきをやめ、着陸姿勢に入った。
     引き起こしフレアをかけて接地。
    「うまくやったわ。」
     アルシノエが笑顔で言った。
    「前より安定感が増したね。」
    「ありがとうございます。」
     息を切らしたヒワは、疲れた翼を閉じながらお辞儀をした。

    3.飛ぶための勉強

    座学

     二日後、本当に嵐が来た。

     少々雨が降っても翼には撥水機能があるので、任務がある鳥人は飛ぶ。しかしこのような横殴りの雨だとさすがに手練れでも飛ばない方が賢明だ。

     飛行学校では、教室で授業を受けることを座学という。飛ぶためには知識を得ることも大切なのである。飛行学校で学ぶ科目は、鳥はどうして飛ぶことができるのか、それを理論立てた空気力学や翼と体の構造、どんな時に飛んでよいのか気象についての知識、飛ぶためのルールやしきたりなど盛り沢山だ。飛ぶためのルールについては、例えば、同じ高度で二羽がそれぞれ正対して飛んでいるとき、そのままでは正面衝突してしまう。それを避けるため、お互いに右に避けるというルールがある。同じ方向に飛んでいて、追い抜くときは右から追い抜く。また、二羽が直交するように飛んでいるときは、相手を右に見る方が回避行動をする。この場合、相手の後ろを廻るように進路を取る。いずれにしても、相手を見つけたとき、自分の視界の中で相手が動かなければ危ない。二羽が衝突コリジョンコースに入っているからだ。崖街のような斜面をなぞって飛んでいるスロープソアリングのときは、少し複雑になる。同高度で正対しているときは、斜面を左に見ている方が、右に避ける。斜面に沿って同じ方向に飛んでいる場合は、外からではなく斜面に近い方から追い抜く。追い抜かれる方が斜面から突発的に離れたいとき、進路を塞がないためだ。また、長距離を飛ぶ場合、地図の読み方やどのように目的地まで飛んで行くかの航法も大切な知識である。
     飛ぶこと以外にも、この世界がどうなっているのか地理や、地図にある街々について、住民や言葉、習慣、制度、またそれらの歴史(他の街の歴史についてはよくわかっていないことも多い、特に「浮島」については)など知っておくべきことはたくさんある。

     今日は、翼の匠のヒンメルが教室に現れた。翼の構造の話をしてくれるらしい。
     ヒンメルは崖街きっての翼の匠の長で、もう百歳は超えているという噂だ。これまで多くの翼の製作を手掛け、崖街の鳥人に絶対的な信頼がある。
    「さてと・・・おや今日はひよっこたちね。どう羽の調子は?ヒワ?」
     皺の奥から知恵深そうな眼が問いかける。
    「とても良い感じです。」
     ヒワは自分の灰白色の翼が気に入っていた。
     鳥人とりびとの翼は街ごとに共通した模様をつけるようになっている。識別のためだ。崖街の場合、萌葱色と瑠璃色の組み合わせを翼のどこかにあしらってあるのが特徴だ。ヒワの翼には後縁の先端に入っている。
    「これから飛べば飛ぶほど、馴染んでくると思うよ。アヤハは?」
     アヤハの翼は浅黄色で、後縁の翼根側に萌葱と瑠璃の線が入っている。
    「私もです。」
     アヤハには双子の妹、クレハがいる。クレハは翼の匠になる道を選び、見習い助手としてヒンメルの下で修業中だ。そのため、ヒワよりもずっと前から、アヤハはヒンメルのことを知っていた。
    「ヒワとアヤハの羽は、カモメ型にしつらえてある。細長くて滑空性能がそこそこあるけど、ミズナギドリほど長くはないだろう?だから若鳥でも扱いやすい。」
    「アトリのは、シエルが手掛けたんだね。ワシ型が得意だから。」
     翼の製作は繊細な作業で、女性の匠が多い。もちろん専門毎に分業制となっている。
    「何か気が付いたらシエルに言っといてあげるよ。」
     老婆はやさしくアトリに言う。
     アトリは目を合わさず、答えない。
     教室にはおのおのの翼を収納する棚があり、アトリは自分の青碧色の翼を見つめていた。
    「アトリ?」
     アヤハが促す。
    「・・・」
     匠は姿勢を正してアトリを見つめた。でも何も発さない。

     数分間の沈黙の後、アトリが口を開いた。
    「ほくは・・・・」
     言葉がつながらない。ヒンメルは穏やかな目でアトリを見ている。
    「・・・うまく飛べないんだ・・・」
     沈黙が教室を支配する。
    「けがのことが原因?」
     アヤハが口を開く。
    「真っすぐ飛べない・・・。
     常に修正し続けていて、きれいに進まないんだ。」
    「そうかい・・・」
     ヒンメルは言葉を探すように話し始めた。
    「今日は翼の形の話をしようじゃないか。
     アトリの翼は、アスペクト比の小さい、短い翼だね、タカの翼のような。
     タカは獲物を捕らえるために早く飛ぶだろう。そのためには、力強く羽ばたいて空気を後ろに掻き出す必要がある。だからヒワたちの翼より、翼幅スパンが短いことで羽ばたく力が伝わりやすく、翼弦長コードが長いことで多くの空気を掻くことができるんじゃよ。」
     ここで息を継ぎ、続ける。
    「だから滑空中は、翼の長いヒワたちより横安定性は悪いが、その分素早い横回転ロールができる。」
     アトリがヒンメルの方を向いた。少し表情が明るくなったようだ。
    「アトリの翼は、ワシほど短くはない。ワシは熱上昇気流で円を描くように高度を維持して獲物を探すからね。翼端に近い初列羽フェザーが、一枚一枚人の指のように分かれているだろう。一枚一枚がアスペクト比の高い翼のような働きをして、滑空比もそこそこ出るようになっている。」
    「そう、アトリが安定していないように感じるのは、腕のせいじゃなく、翼の作りのせいなのね!」
     アヤハが声を上げた。
     アトリは視線を変えずに言った。
    「でも、態勢を崩したときなんかに、一瞬けがをした時のことが頭をよぎるんだ。そうすると、体がこわばって・・・。」
    「翼を信じることじゃな。そうすればおのずと恐怖心は消えていく。」
    「何もしない方が真っすぐ飛ぶこともある。翼に任せれば良いのよ・・・」
     ヒワが呟くように言った。

    上昇気流

     次の日は快晴だった。
     この日からヒワたちの練習は分量が増した。まず、凪の時間に軽く「行って帰ってくるアウトアンドリターン」をこなした後、海風が吹き始めた昼間の時間帯にも飛行練習するのだ。
     海風が吹くと海からの風が崖街の崖にぶつかり、崖を登る方向へと風向きが変わる。上向きの風、すなわち上昇気流となる。この上昇気流を斜面上昇気流アップスロープウィンドと言い、これを捉えて高度を高めていく飛び方がスロープソアリングである。スロープソアリングは斜面にぎりぎりまで近づき、斜面に沿って直線飛行するため、ある程度の技量を必要とする。

     ヒワたちはまず、斜面上昇気流ではなく、温められた地面から登ってくる空気の流れである熱上昇気流サーマルリフトを捕まえる練習をする。サーマルリフトは小さな低気圧のようなもので、北半球では反時計回りに吹く弱い竜巻と考えてよい。したがってサーマルリフトに乗るためには、円を描くようにリフトに合わせて旋回する。これをサーマリングと言う。サーマルリフトは円の中心に近いほど、強い上昇気流が吹いているので、しっかり傾きバンクをつけて旋回する必要がある。

     うまくサーマルリフトに乗るにはいくつかの技がある。一つは上昇気流を感じてもしばらくは直線飛行を続け、最も強く上昇気流を感じたところで強いリフトがある方向へバンクをつけるという方法で、ベストヘディング法と呼ばれる。もう一つは、リフトを感じたらいったんリフトの強い方向へ切り込んでいく、ここまではベストヘディング法と同じだが、より強いリフトで一旦バンクを緩め、弱くなったらバンクを付けて徐々にサーマルリフトの中心コアに近づけていくサージ法と呼ばれる方法だ。サージ法は、リフトの強弱から上昇気流のイメージを描けなければならない、かなり熟練の方法なので、ヒワたちはまずベストヘディング法を習得する。

     だが、それ以前に上昇気流をいかに感じるか、だ。上昇気流は上向きの気流なので、体が持ち上げられる感覚がある。これをどれだけ敏感にとらえるかに、上手い下手が掛かっている。さあ、三人のうち、だれがソアリングに長けているのか、これからが勝負だ。自分の位置より離れたところにあるサーマルリフトを捉えるには、長い翼のヒワとアヤハが有利である。安定性に悩むアトリは翼が短いので不利と言える。

     アトリがあずき色の翼を広げ飛び立った。見ていると変わらず細かな微修正を繰り返している。その時、アトリの右前方に真っ青な空に刷毛で掃いたような雲の断片が現れた。
    「パフだ。」
     デッキで見守っていたアルシノエが言った。
    「サーマルリフトの兆候ね。あれがしっかりしてくると積雲キュムラスへと発達するのよ。」
     ヒワも家のテラスからいつも観察していたので、わかる。
     アトリもパフを認めたようだ。頭を向ける。パフの下に到達した頃には、しっかりした積雲になっていた。円周飛行サークリングに入る。とたん、アトリの体が持ち上げられたのがヒワの位置からも判った。常にバランスを気にしているのが功奏したのかも知れない。早くも全周上昇気流に入ったと見え、瞬く間にデッキよりも高い位置に昇った。
    「いいなあ、アトリ、気持ちよさそう。」
     アヤハは羨ましそうだ。
     アルシノエは、
    「サーマルリフトはだいたい同じ場所から発生するのよ。地面が温まりやすい場所があって、そういった場所をトリガーというの。そういった場所をいかに見つけるか、鳥人として大事なところね。」
    と説明する。
     このような助言も重要な授業の一環である。
     積雲はほどなく消えた。海に近いこの辺りで発生するサーマルリフトは弱いことが多い。
    「内陸へ行くと、もっと強くてしっかりしたサーマルリフトがあるよ。」
    「サーマルリフトは地面付近の空気が太陽の熱で温められ、周りの空気より膨張し軽くなって浮いてくるものよね。つまり大気と地面の温度差が大きいほど強い上昇気流が生まれるってわけ。その点では、内陸ほど海岸より乾いた空気になりやすいので、寒暖差ができやすい。いずれ皆もダイナミックな上昇気流で飛ぶ機会があるわよ。」
     海岸沿いの平地は、狭いため温められやすい場所は限られる。アトリは海岸線に沿って、サーマルリフトを探り始める。少したって先ほどの場所から離れた場所で旋回を始めた。
    「リフトがあるのかしら」
    とアヤハ。
    「そのうちパフができるわ。」
    アルシノエが説明する。
    「まだ、上昇気流は弱いけど、まとまれば積雲キュムラスができるわ。
    でも雲ができないブルーサーマルというのもあるのよ。
     綿雲とも言うけど、積雲ができるのは、上昇気流が昇って行って冷やされ、水蒸気が水滴になる露店温度に達する高度なの。上昇する空気は、乾燥していれば100米メートル上昇するごとに1℃、湿っていれば100米メートルごとに0.5℃下がっていくけど、高度が上がるにつれ、大気中の気温が上昇する乾燥空気の低減率より大きく低下していると、いつまでたっても上昇する空気の温度が露店温度に達しないので、雲ができないの。これがブルーサーマル。」
     そして、アヤハとヒワを見て言った。
    「さあ、行けば?」
    「私、先行きます。」
     ヒワが翼を広げた。
     続いてアヤハが飛び立った。
     その頃、アトリが最初に高度を取った場所でまたパフが発生した。周期的に上昇気流が発生しているようだ。このようなサーマルリフトをサイクリックサーマルという。
     その後を追ってアルシノエが飛び立った。

     アヤハとヒワは、雲を形成し始めたパフに到達しようとしていた。
     アヤハが上昇気流を捉えたようにヒワからは見えた。左翼が持ち上がりかけたが、アヤハはそれを押さえるように左へ旋回し始める。ヒワの視点からは、明らかにアヤハが昇っているのかわかる。続いてヒワの左翼も煽られるように持ち上げられた。ここで慌ててはいけない。もう少しもっと上昇気流が強くなるまで待ってから、左翼を抑えるように左に旋回するのだ。アルシノエから教わった通りに。

     身体が持ち上げられる感覚があり、アヤハからやや外回りに旋回を始める。アヤハはすでに20米メートルほど高みにいるが、旋回の中心コアがヒワよりもずれているようだ。旋回の後半で高度を落とし、逆にヒワはアヤハの高度に追いつく。

     このような旋回を三旋転ほどすると、ヒワとアヤハは同じ高度となり、お互いの見掛けの位置がほとんど変わらないまま旋回するようになった。アヤハも旋回センタリングを調整し、サーマルリフトのコアに入ったようだ。
     ぐいぐいと高度を上げていく。
     飛び立ったデッキははるか眼下になっている。
     そして、最後に飛び立ったアルシノエが、ヒワたちのサーマルリフトの下方で旋回を始めたのが見えた。
    「アルシノエがサーマルに合流エントリーしたよ。」
     アヤハが叫んだ。
     さすがに導者だけあって、アルシノエは流麗なセンタリングを行ない、瞬く間にヒワたちの高度に達し、一瞬のタイミングでヒワたちの頭上に出た。 ヒワたちよりコアに近い、強い上昇帯を掴んでいるのだ。
    -自分たちより、旋回半径が小さい!
     上を見ると、積雲に成長した雲の平たい底がまるで天井のように、頭の上を覆っている。もうこれ以上上昇すると、雲の中に入ってしまいそうだ。ヒワたちを見下ろす形になったアルシノエは、1粁キロメートルほど離れたところで旋回しているアトリの方に顔を向けてから、ヒワの方に向き直って頷き、翼を翻した。
     これ以上このサーマルリフトにいると雲の中に吸い込まれてしまう。雲の中は、真っ白で回りが見えないので、平衡感覚が掴めず姿勢を保つことができなくなり墜落する場合があるのだ。従って、雲中飛行は行なってはいけないことになっている。

     アトリのいるサーマルリフトにもしっかりした雲があるから、上昇気流がどこにあるのかわかりやすい。三羽はアトリが廻っている雲の下、正確には雲のすこし風上側を狙って一直線に滑空していく。

     サーマルリフト間の速度は、最良滑空速度で飛ぶのが基本だ。最良滑空速度は、その翼の設計上、最も滑空比が良い、すなわち1米メートル沈下する間に最も遠くまで滑空できる時の速度である。翼の翼弦方向の断面の形状とアスペクト比によって滑空比は決まるが、最良滑空速度は鳥人を含めた重量によっても変わる。重い場合、重量を翼面積で割った翼面荷重が高くなり、最良滑空速度は速くなる。したがって高速で飛ぶ必要がある場合は、敢えて重りを抱えて飛ぶこともある。ただし重いと、羽ばたき飛行の際には体力を消耗してしまう。
     今日は、サーマルとサーマルの間の空気は静穏なので、アルシノエは最良滑空速度で飛んで二羽をリードしている。もっと強いサーマルリフトが発生する気象条件だと、上昇気流に吹き込む下降気流がサーマル間に発生することがある。その場合、増速して早く下降気流帯を抜けなければ大きく高度をロスしてしまうことになる。

     若鳥にとって、自分がどのくらいの速度で飛んでいるのかを知るのは難しい。顔にあたる風の強さで感じるのだが、こればかりは回数を重ねて、経験で掴んでいくしかない。

     アトリが旋回している下に到達したときには、アルシノエはもうアトリの近くまで高度を上げていた。続くアヤハもセンタリングがうまくいき、サーマルリフトを捉まえたようだ。
     ここで焦って旋回を始めてはいけない。
     ヒワは言い聞かせるように、リフトが翼を持ちあげるのを待った。今度は体全体が持ち上げられる感覚があった。
    -どっちへ廻ったらいいかわからない!
     頭の中でサーマルリフトのイメージを描く。
    -ちょうど、コアの真ん中を突き切っているんだわ。じゃあ、どっちに廻ってもいいってわけね。
     その場合、上方にいる鳥人の旋回方向に合わせることになっている。右回りだ。その瞬間、突き上げ感がピークを越したように感じた。すばやくヒワは右に体をひねり、右翼を抑えつけるようにバンク傾きをつけ、すばやく右旋回に入れた。
    -しまった。早かった。
     上昇気流を外したようだ。
    -落ちついて!
     右旋回を続ける。先ほど上昇気流を感じた方向に頭が向いたとき、再び突き上げる感覚があった。
    -今度は逃さない!
     素早く翼を水平にする。
    十分に持ち上がる感覚を確かめながらじわりと右翼を押さえ込んでいく。今度は入れたようだ。
     だが旋回中、リフトが強くなったり弱くなったりしてコンスタントに上がっていない気がする。リフトが強くなり始めたところでバンクを緩め、弱くなり始めたらバンクを入れる、ということを何回か繰り返すと、全周、強い上昇気流でコンスタントに上昇することができた。こうなればバンクさえ一定の角度で傾けておけば快適な上昇クライムを楽しむことができる。
     上を見ると、アトリとアルシノエは別のサーマルリフトの方へ抜けていくところだった。

    4.カモメ

    浮島、新人戦のこと

    「今日は楽しかったね。」
     アルシノエが笑顔で言った。
    -本当にこの人の笑顔は素敵だ。
     ヒワは思う。
     2時間ほどのソアリングを終え、四羽は無事デッキに戻った。
     「皆、すごく上達した。
     この分じゃ、新人戦は優勝ね。」
     にこやかにアルシノエが言う。

     新人戦とは、その年に初フライトした若鳥たちが競うレースのことだ。崖街からはヒワたち新入生のうち二~三羽が崖街代表として参加するが、鳥人の飛行学校がある他の街からも参加する。海街や古都などからだ。
     崖街は他の街とも交易がある。崖街から50粁キロメートルほど海岸に沿って離れたところに、海街がある。海岸線は、崖街から30粁キロメートルほど東へ行くと南へ湾曲する。陸地はなだらかな丘になっていて、海岸には港があり、漁業や船による交易を生業にしている。
     古都は、崖街の東、海岸線が南へ湾曲する辺りで海へ注ぐセタ河から、上流に向け80粁キロメートルほど遡ったところで山に囲まれた場所にある大きな街だ。はるか昔、今よりも大きく、人口を多かったと伝わっている。その当時は、崖街、海街、さらに遠くにある街々を支配していたとも言う。
     河をさらに遡ると、巨大なシュマリナイ湖がある。
     湖の上空には浮島と呼ばれる、巨大の岩が中空に「浮かんで」いる。言い伝えによれば、浮島が、湖があった場所から空中へ浮かび上がったと言う。しかし本当のところは誰にもわからない。文字や言い伝えが残っている以前から浮島はそこに浮いていたからである。 

     新人戦は、古都を出発し、湖から河が流れ出る湖尻に着陸するというコースが設定されている。
     別の日、飛行学校の教室でアルシノエがコースを説明してくれた。
     「ゴールの湖尻はセタという名前がついているけど、もう浮島が頭の上に迫っている感じね。」
     浮島という言葉を聞いた瞬間、アトリの表情が一瞬陰ったことにヒワは気づいた。その場にいたクインツスがアトリの変化に顔を向けたこともヒワは見逃さなかった。
    -どういうこと?アトリになにがあるの?
     アルシノエが説明を続ける。
    「スタートは古都の端のシステロン。セタ河の両岸から屏風のように尾根がせり出していて、まるで巨大な門のようになっているの。その上流に丘があって、そこがスタートポイント。飛び立つと丘から古都へと続く山の尾根の上昇気流が使えるわ。尾根に沿って上昇流帯がつながっているはずだから。尾根の端でできるだけ高度を取ってから、古都を左に見ながら谷渡りね。
     レースはいくつかの旋回点ターンポイントが指定されるので、直接ゴールのセタに向かうのではないけれど、湖と古都の間にある東山山脈にたどり着ければ、もうセタは山の向こうよ。」
     レースは来年の春分の日の頃だ。
    「それまではひたすら修行ね。飛んで、飛んで、できる限り空気を感じるようになって。」
     あと九か月。

    アステア

     この日の練習は、崖街のデッキを飛び立ち、上昇気流を乗り継ぎながら東へと翔び、崖が終わる夙シュクまで行って戻ってくるコースだ。その距離、10粁キロメートル。往復で20粁キロメートルとなる。
     サーマルリフトと斜面上昇風スロープリフトの両方を使えるので、練習にはちょうど良い。
     今回は、アルシノエは先導せず、自分たちだけの力で翔ぶ。
     ヒワはアトリ、アヤハに続き、デッキを飛び立った。真っすぐ海に向かって滑翔し、サーマルリフトを捉まえて、アヤハ達を追うつもりだった。サーマルリフトはなかなかヒットせず、かなりの距離を海に向かって進んだ。もう海岸線を越え、海の上だ。高度もだいぶ下がってきている。
    -もう崖に向かって戻り、陸地に近いところで上昇気流を捉まえよう。
     ヒワがそう判断して引き返そうと180度左旋回したところ、もはや100米メートルほどしか高度がないことに気が付いた。アトリ達の姿は影も形もない。あわてて羽ばたきを始める。
    -いったん着陸するしかないか。でもここから離陸するのはかなり大変・・・
     頭から血の気が引いた。
     
     その時、視界の隅に白い影を捉えた。
     一羽のカモメだった。
     ヒワの右斜め前、時計の2時のところに位置を占めると、ヒワの方に頭を向け、
    -ついてこい
     とでも言うように、前を向いた。
     地面が海に向かって、階段状に落ち込んだところ、海岸段丘で、弱い上昇気流を感じた。カモメがさりげなく左へと旋回する。上昇気流の強いところを探っているのがわかる。ヒワはカモメについて旋回を始める。
     何回か旋回を強めたり弱めたりを繰り返していると、次第にしっかりとしたサーマルリフトのコアを捉えることができた。カモメを追うように廻っていたのが、今ではカモメを横に見ながら、ちょうど時計の3時と9時の位置で追いかけっこをしているように、ぐいぐいと上昇していく。

    カモメと目が合った。
    -どうして私に上昇気流を教えてくれるの?
    -別に教えるわけじゃない。変なのが飛んでいるから、観てみたかっただけさ。
    -私はヒワ。あなたは?
    -カモメに名前なんかない。
     ヒワは声に出してしゃべっているのに対して、カモメが言葉をしゃべっているのではない。ただ、ヒワには言っていることが読めるのだ。
    -お会いするのは初めて?カモメさん。
    -いいや、でも海岸の丘でジャンプの練習をしている頃から知っているよ。いつもひよっこ三羽で練習していたね?
     高度が上がるにつれ、上昇する速度、上昇率が早くなってくる。もう発着場のデッキより2倍以上の高度がある。
    -高度1000米メートルくらいかな。
     今日は、サーマルリフトの目安となる積雲がない。ブルーサーマルだ。
     やがて急に上昇が鈍くなった。カモメが言う。
    -これ以上、このサーマルにいても無駄。ついてきて。
     翼を翻して、崖街の方へ向かう。ヒワが続く。
     一般に、上昇する気流があれば、入れ違いに下降していく空気が生じる。下降流帯のことを沈下帯と言い、通常、鳥人はその場所を避け、少しでも空気の沈みが少ないところを選んで飛ぶ。
     カモメをはじめとする滑翔する鳥にとっても同様で、後ろからついていくヒワには、カモメが不規則に左右へと振れながら飛んでいるように見える。気流を読むことは天性のものなので、後を飛ぶとカモメが正確に沈下を避けていることがわかる。

     崖街が迫ってきた。街の様子が良く判る。回廊を歩く人の姿や、家や店の中の様子も見えるようになってきた。
     空気が沈まないところを選んできたものの、高度は失っている。失高は400米メートルほどで、飛行距離を失高で除した滑空比L/Dは12といったところか。

     途中、サーマルリフトはなかった。
    -となれば、このカモメはどうするつもりだろう。
     崖街にぶつかるように突っ込んでいったカモメは、すれすれのところで右に旋回し、今度は崖街に沿って滑空を始めた。
    -そんな真似できないよ!
     ヒワは、カモメが進路を変えた位置より、かなり手前で急旋回にならないようにバンクをつけ右に旋回した。
    -それでよい。でも、私の後ろを離れず付いてきて。
     カモメが言った。カモメは目が頭の横についているので、後ろも見えるのだ。

     左に崖街を見ながら、カモメを追う。崖街は自然の崖に作られた街なので、崖も屏風のように出たり入ったりしている。カモメは崖との距離を一定に保ちながら、鮮やかに崖のでこぼこをトレースする。そして、崖が広く窪んだようになっているところに来た時、急にカモメを見上げる形になり。数秒後、ヒワの体も持ち上げられた。
    -斜面上昇風!
    -そう、ヒワ。今私たちは斜面スロープソアリングをしている。
     進むにつれ、崖が下がっていくように見える。比較するものがあるため、自分たちが上昇しているのが良く判る。斜面上昇風は、海からの風が崖街に当たり、上向きに変わった空気の流れだ。風向きが斜面の正面からだと斜面の広い範囲に亘ってコンスタントに発生する。

     東西に伸びる崖に発達した崖街は、発着場のデッキから東へ7粁キロメートルほど続いているが、やがて街は途絶え、さらに崖だけがなだらか斜面に変わりつつさらに15粁キロメートルほどいくと低くなり、北から流れてくる川に向かって平地となる。そこにある邑むらが夙シュクだ。

     斜面上昇風は、地形と風向きの条件が整った場所で発生するので、斜面がなだらかになると消失する。そのため、崖に沿って飛んでいても、上昇風が弱まってくると、Uターンしてもと来た崖に戻って強いところで上昇することを繰り返す。Uターンする際に斜面の側に旋回すると、崖に激突する危険がある。そのため、必ず崖とは反対側に旋回する決まりになっている。飛行学校のデッキから東に2粁キロメートル行くと、崖が大きくえぐれたようになっている。このように斜面の窪んだところには風が収束してより強い上昇風が生まれる。ヒワたちは、この窪みに沿って行ったり来たり、すなわち8の字飛行を繰り返しながら、徐々に高度を上げていく。やがて斜面上昇風に乗って、崖の最上部を越えた。まだ上昇風は続いている。崖の稜線から十分な高さまで上昇してから、カモメはいままでの8の字から、円を描くように旋回し始めた。
    -そうそう。斜面の風下側に行ってしまうと、稜線を越えた風が巻き込んできて乱気流が発生するので、絶対に風下へは行ってはいけない、のよね。
     ヒワは、授業で教わったルールを思い出していた。
     空を飛ぶためには、さまざまなルールを覚えなくてはならない。特に大切なのは命を守るためのものだ。自然を相手にするため、ちょっとしたミスが命取りになる。
     斜面上昇風は、斜面を登ってくる間に、斜面に温められて熱上昇風、すなわちサーマルリフトとしての性質も持つようになる。したがって、斜面から離れて上昇していく空気が上空で冷やされるまで、サーマルリフトは続く。また、崖の後ろの山塊は、陸地の乾いた空気を持っているため、斜面上昇風と内陸の空気がぶつかって、さらに上昇風が高い高度まで続くことがある。異なる風がぶつかり合って発生する上昇気流を収束気流コンバージェンスという。
    「素敵!」
     思わず声がでた。
     ヒワとカモメは、コンバージェンスに乗ってさらに高度を上げた。もはや崖街は遥か眼下である。この高度から見ると、崖街は海から急な角度でせり上がった斜面に造られていることが良く判る。崖街の上は一旦平らな台地となり、今度は緑の山脈となって東西に延びている。そのわずかな台地で崖街の人々は作物を育てているのだ。
     その時、ヒワと同高度にいたカモメが旋回をやめ、山脈を東の方向に直線飛行を始めた。ヒワは唐突に頭に浮かんだ言葉を口に出した。
    「アステア!」
    -それが私の名前か?
    -そう呼んでもいいかしら?
    -構わないよ
     カモメは笑っているようだった。
     アステアと名付けたカモメの後をトレースしながら飛んでいく。羽ばたきはしない。速度感が気持ちよい。
    -どこに行くのだろう。
     今日はレースの練習なので、山脈が途切れる夙まで行ったら回頭し戻って来なくてはならない。崖が途切れると、その東は湾にそそぐセタ河に沿って、平野となだらかな丘陵地帯が続く。
     目の先7粁キロメートルほどに夙シュクの邑がようやく見えてきた。右手に海を見ながら進んでいく。
    -アトリとアヤハはどこだろう?
     羽ばたかず滑空しているので、高度は下がりつつあるはずだ。しかしヒワは、アステアが真っすぐは進まず、時々左または右に軽く進路を変えていることに気づいた。
    -そうか! 尾根に沿うように飛んでいるんだ。
     尾根に沿って飛ぶことで、斜面上昇風から上がってきたコンバージェンスを捉えることができる。そうすることでサーマルリフト間の下降気流帯、すなわち沈下を避けつつ、失高を最小限にして進むことができる。
     夙シュクの邑がはっきりと見えてきた。しかも近づくにつれ見下ろすような角度になっていた。高度を失わずに進んでいる証拠だ。もし高度を失っていれば目的地は目線の上の方に寄って行く。その場合は、届かないので途中で上昇気流を捉まえて高度を稼がなくてはならない。 
     やがて夙シュクの邑の真上に達した。
     そこから東へ目を転じると、セタ河の河口が見えた。そのセタ河を遡れば古都に至るはずである。
    -ふう、遠いなあ。
     そうヒワが呟いたとき、アステアが旋回を始めた。また上昇気流を捉まえたようだ。
    -ヒワ、今日はここまで。あとは自力で帰って。
     そう言うと、カモメはひらりと身をひるがえし、海の方に戻っていった。
    「アステア、ありがとう」
     声に出して言うと、ヒワは改めて自分の位置を確認する。
     やってきた方の西に向かって、険しくなりながら崖が立ち上がっている。その先に崖街があるはずだ。
     陽は西に傾き始め、崖街の方角は白っぽく見えづらくなっている。
     高度は十分にある。2000米メートルといったところか。
     鳥人たちは、高度が上がるにつれ低下する気圧から、自分のいる高度を知ることができる。気圧は天候によって変化する。ヒワはまだまだだが、身近な山を目安にして、何回も飛び、その日の気圧と見え方を頭に入れることで、比較的正確な高度がわかる。一緒に飛んでいる鳥人同士なら、お互いに認識している高度にさほど大きな誤差がないほどだ。
    -この高度なら、一度も旋回せずに崖街までたどり着けるかも知れない。
     こころに余裕すら感じたヒワは、西に向かって滑空を始めた。もちろん、尾根に沿って。
     来た時と同じ経路を逆に辿っているため、リフトが強かったところは大体覚えている。半分ほど戻ったところで、見覚えがある特徴的なえぐれたような形状の谷を認めた。
    -あの谷の上空は強いリフトがあったはず・・・・
     ところが、その谷に近づくについて高度を失っていく。
    -どうして?
    -たどり着けそうにない!
     ついにヒワは尾根の真上ではなく、斜面を右に見るような位置に追いやられてしまった。
     必死に羽ばたいて高度を上げようとする。だが、若鳥の体力では長時間羽ばたくことは難しい。先ほどのえぐれた地形は通過してしまい、斜面から昇ってくる上昇気流は感じるものの弱い。
     その時、山脈の稜線から海の方に突き出ている尾根の向こうに、鳥が見えた。鳥人だ。二羽いる。
    -アヤハとアトリ?
     あちらの高度は、こちらより高い。斜面上昇風を捉えていることは確実で、徐々に高度を上げてきている。
     ヒワが尾根を越えると、強いリフトを感じることができた。二人との高度差は200米メートルほどか。
     ヒワは丁寧に斜面をなめるように飛び、リフトが弱くなったところで旋回し、もと来た方向に頭を向けた。これを繰り返して、徐々に高度を回復していった。
    -追いついた!
     アヤハとアトリは待っていてくれたようだ。笑っている顔が頼もしい。
     三羽は一緒に崖街に戻った。無事、飛行学校の食堂で夕食を取ることができそうだ。

     アルシノエは、3羽が着地したことを見届けた後、それぞれどのようなフライトをしたのかを報告させた。ヒワがカモメの話をした際に興味深げな表情をしたが、それ以上問うことはしなかった。
    「3人とも良い経験をしたわね。今夜はしっかり休みなさい。」といい、去っていった。
     今は少し離れたテーブルで、クインツスや他の導者たちと一緒に食事をしている。
    「今日はだめかと思った。」
    とアヤハ。
    「そうだよね、ヒワがあの斜面に入り込んだときは降りることを覚悟したよ。でもよかった、強いリフトあって。」
     アトリが記憶を振り返るようにつぶやいた。
     今日の夕食は、鰯を油で揚げた料理だ。藻塩と山椒が疲れた体にとてもおいしく感じる。三人ともがつがつ食らいつくようにして食べている。
     アヤハが言った。
    「今日、夙まで行けたのはヒワだけね。どうやって行ったの?」
     アトリも身を乗り出した。
     ヒワは記憶を辿って今日の出来事を話した。アステアと一緒の時は調子が良かったが、帰り路に高度を失い、あわやというときに2人を見つけたこと。
     そこまで聞いたときに、アトリがトマトにフォークを突き刺しながら言った。
    「そうか、太陽の向きによって斜面上昇風が発生する場所が違うんだ。だから午前中は東向き斜面で強いリフトが発生し、午後になると西向き斜面から発生する。」
     ヒワがあの時に超えた尾根は南に延びていたため、西側に超えた途端にリフトを捉まえることができたのだ。
     三人とも得心して頷きながら、ライムの効いたハチミツドリンクのコップを手に取った。
     ヒワは、アルシノエが三人の方をちらりと見て笑ったような気がした。



    第2章 遠征

    1.海鳥との出会い

    いざ

     もはや盛夏ともいえるある日、飛行学校の食堂で丑ブフの炭火焼が出た。歓声が上がった。若鳥たちの大好物で大変な御馳走だ。肉の塊を頬張っていると、柔らかそうな萌葱色のチュニックを軽くなびかせてアルシノエがやってきた。
    「お食事中、失礼。」
     一呼吸おいて続ける。
    「今日の御馳走は前祝いよ。」
     アヤハが振り返って聞いた。
    「何のお祝いですか?」
    「一週間後、海街へ遠征よ。」
     わあ、という歓声が上がった。
    「毎年、新人戦の前に、海街と合同合宿をやることが恒例になっているの。」
    「楽しみ!」
     アヤハは目をキラキラさせている。こんなとき、一番に興奮するのがアヤハだ。 
     アトリは考え込んでしまったようだ。
    「大丈夫よ、アトリ。まずは行ってみるものよ。」
    とアヤハ。
    「いや・・・そんなんじゃないんだ。」
    「心配性なのよ、アトリは。ねえヒワ?」
    「そ、そうね。でも海街へはわたし、行ったことないし・・・」
    「みんなそうよ。」
     アルシノエが優しく三人を見渡す。
    「どうやって行くんですか?」
     アヤハが質問した。
    「もちろん、飛んでいくのよ。これも練習。」
     この時代の旅は、鳥人を除いては、歩いて陸路か、船を使って海路で行くしかない。船は交易にも使われていたが、時化に弱く危険を伴う。陸路では馬駱バラという大型の動物が人をその背に載せるか、後ろに車を牽かせるために飼育されていたが、その数は多くなく、特に坂の多い崖街では大事な家畜で、農作業にしか使われていなかった。
     ヒワは咀嚼していた肉をごくりと飲み込んだ。塩と幾種類かのスパイスを入れ熟成させたソースに付け込んだ食堂の肉料理は、口溶けの良い脂肪と肉汁のバランスが絶品だ。遠征となると、しばらくここの料理も食べられなくなるかも知れない。
    「どれくらいの期間になるのですか?」
     ヒワは思わず聞いてしまった。
    「天候にもよるけど5日ってところかな。行って帰ってくるまでね。あちらの飛行学校に二泊して、一緒に練習するの。」
    「向こうの学校はどんな感じなんですか?」
    と誰かが訊いた。
     海街のことは父のロジエから聞いたことがある。平坦な農地があり、漁師も多く、魚をよく食べるそうだ。
     アルシノエが思いだすように言った。
    「海街には鳥人がそんなにいない。街道も発達していて食べ物には困らない街だからね。だから飛行学校もそんなに大きくなくて、生徒数も少ない。うちの半分くらいかな。」
     崖街の飛行学校はヒワたち新入生6人を除いて、同級生、上級生が20名ほどだ。
    「でもその分、少数精鋭って感じよ。特に今年の新人レースに優秀なのが来るらしいわ。
    なんでも海の上で朝から暗くなるまで飛んで過ごすって。」

    海街へ

     その二日後の早朝、ヒワたちは家族にしばしの別れを告げ、翼を着こみ、飛行帽とゴーグルを装着すると、旅の用具を詰めた行李を背負って崖街を旅立った。
     ヒワ、アトリ、アヤハ、アルシノエと別のクラスの同級生ナビタキ、クイナ、ジナイと彼らの指導係であるプハチの八羽。クインツスは同行しなかった。
     早朝なので静穏だ。上昇気流はしばらく望めない。崖街に沿って東への進路を進むが、海風は期待できない。海岸線がセタの河口から南へ湾曲するのに沿うように進んでいく。
     ずっと羽ばたきっぱなしなので、疲労も大きい。30分毎に着地し、休憩しながらのフライトとなる。
     そのうち、陽が高くなり、地面が温まり始めたので、弱いながらも上昇気流サーマルリフトが発生し始めた。地表を観察し、サーマルリフトのトリガーになりそうな岩地や地面が露出したところを辿りながら上昇気流を探す。この辺りの海岸は、数年に一度の周期で大潮がやってくるため、耕作には適しておらず、荒れ地のままだ。その海岸線に沿って街道が伸びていて、やや海岸から内陸に入ったその路の上に上昇気流を見つけることが多くなった。崖下の台地の地域には、耕作地と集落の姿もちらほらみられた。こうなれば順調だ。ヒワたちは、サーマルリフトが発生しそうな地形の上に飛んでいき、上昇気流があればセンタリングを始める。それを見て他の鳥人たちが、先に旋回しているサークルの下に合流するように同じ方向で旋回を始める。このようにひとつの上昇気流に複数の鳥人がサークリングしている状態をガグルという。ガグルがあるということはサーマルリフトがあるということなので、鳥人たちはガグルを目指して合流し、次の場所にガグルができたら、そこを目指す。そうすれば確実に上昇できるため、若鳥たちは安心して飛行距離を伸ばすことができ、チームフライトのよい練習となる。
     ときどき、アルシノエやプハチが上がりそうな場所を顔で指し示し、若鳥の誰かに上昇気流を探させることもあった。
     次から次へとサーマルリフトに乗りながら、前へ進んでいく。時間が経つにつれ、サーマルリフトは強くなり、上昇限界サーマルトップも上がっていく。高度を高く稼ぐことができれば、羽ばたかずに滑空グライドしていく時間も長くなるので、距離も伸ばすことができる。
     アルシノエに率いられたヒワたちと、ブハチに率いられたナビタキたちは自然と二つの群れに別れ、競うように前へ進んでいく。
    -おもしろい!
     旅のペースは格段に上がり、太陽が正中する頃には、海岸線はゆるやかに南へと湾曲しはじめ、崖街は視界の後方へと霞んでいった。
     セタ河の河口を横切り、南へと変針する。しばらくは強いサーマルリフトを辿り、南進する。
     やがて太陽は大きく傾き、サーマルリフトも勢いを失ってきた。やや黄色味を感じる風景の中、はるか先に台地の海側の淵にこじんまりした街が見えた。街というより邑むらと言った方が良いかも知れない。
    -行くよ!
     プハチがかぶりを振り、速度を上げ、まっしぐらにそこへ目指して突っ込んでいく。もちろん、辿り着けるのに十分な高度であることを計算してのことだ。レースで言うところのファイナルグライドでは、辿り着ける高度で飛んでいれば、徐々にこの目的地が近くに見え始める。すなわち見越し角度が増してくる場合は十分すぎる高度であるので、さらに増速すると早くゴールすることができる。反対に目的地が徐々に遠くに見え始め、見越し角度が浅くなると、辿り着けないことを意味するので、途中でリフトをヒットしない限り、翼を広げて減速し、滑空比を伸ばすしかない。
     
     八羽は無事、その邑むらの前に広がる浜辺に降り立つことができた。
    「ここが海街?」
     アヤハがアルシノエに問う。
     皆はてんでに翼を脱ぎ、背中の行李を降ろしている。行李は、はじめて背負ったにもかかわらず、飛行にはほとんど影響がないくらい軽かった。
     行李から出した地図で行程を辿りながら、アルシノエが言った。
    「マノスク。海街までまだ倍あるわ。今晩はここで泊まる。」
     邑むらへの坂を登っていく。平屋の家が並んでいた。家の造りも質素で、崖街に比べあまり裕福な街とは言えなさそうだ。周囲の高台には何の植物だろう、薄紫のきれいな花をつけた背の低い灌木が一面に広がっていた。
    「こんな邑むらに泊まれるところはあるの?」
     とアヤハ。
    「旅人は私たちのように鳥人ばかりではないのよ。普通の人々は歩いて旅をするので、大抵の郷さとや邑むらには宿があるのよ。」
     そう思って邑むらの様子を見てみると、質素ではあるけれど清潔な家並みである。
    -これなら気持ちよく夜を過ごせそうだ。
     初めての外泊となる若鳥たちは想った。
     この街で最も大きな建物に入っていったアルシノエとプハチが戻ってきた。今夜の宿は確保できたらしい。
    「さあみんな、今晩はこの宿に泊まるわ。」

    マノスク

    「いやあ、よう来なさった。」
     満面の笑みを白い髭と眉毛で隠れんばかりの皺だらけの顔に浮かべながら、おそらく宿の主人であろう老人が、門の中、建物の扉の前で待っていた。
    「年に一度とは言え、こんなに大勢の鳥人の客人は珍しいでな。」
    「お世話になります。」
     皆が口々に言った。
    「お若い鳥人さま、マノスクは、漁とハーブの栽培で生計を立てている小さな街なのですよ。崖街の人だったら、魚は食べられますわいね。お口に合うとよろしいじゃが。」
     その言葉通り、夕食に供されたのは、体の長い銀色に光った魚のハーブを和えたオーブン料理だった。
     ヒワには初めての味だったが、昼食は昼休憩で摂った糒ほしいだけだったため、ハーブの香りと塩味が疲れた体に染み入るように感じた。
     主人とその家族で切り盛りしている宿の雰囲気は親しみやすく、若い鳥人に優しく声をかけ、労ってくれた。
     普段は徒歩や馬車の旅人が多く、鳥人は頻繁には泊まらないこと、鳥人はやはり一定の敬意をもって扱われることが察せられた。
     
     翌朝、宿のベッドで目覚めると、窓の外の天気はよさそうだ。
    小魚を香ばしく焼いたものと、大麦を豆乳で煮た朝食をいただいた。
     羽を着て行、李を背負い、身支度を整える。その間にアルシノエが皆の分の宿賃を支払った。
     この遠征の費用は飛行学校から出る。鳥人を擁する街はそれほど多くない。翼は高価だし、数も沢山製作することはできない。また優秀な導者を雇う飛行学校の運営にも金がかかる。ある程度財力のある裕福な街の特権なのだ。

     邑むらの高台にあるハーブ畑の間を通る、海へとなだらかに傾斜したあぜ道を助走路にして、ヒワたちは飛び立った。宿の人たちが見送りに集まってくれた。
     朝は地面が温まっておらずサーマルリフトは期待できないので、各自羽ばたきながら高度をとって南へと進んでいく。先行の誰かが上昇気流を捉えたら、後続の鳥人たちはそのサーマルリフトに合流する手筈だ。
     しばらく苦しい羽ばたきの時間が続く。昨日と同様、30分が過ぎたころ、先頭のクイナが着地しやすそうな空き地を見つけ、高度を下げていき着地した。
     他の若鳥たちも続いて着陸した。マノスクで入れた井戸水の水筒で喉の渇きをいやし、しばらく羽根を着たまま休憩する。
    「後どれくらいかしら」
     クイナが呟いた。
     休憩するときは、若鳥たちで固まり、アルシノエとプハチは少し離れたところで、周囲を見張っている。特に危険はないのだが、何が起きるとも限らない。
    「さあね、お昼までにつければいいなあ」
    とナビタキ。
    「海街ってどんなところ?誰か知らない?」
     話はアルシノエとプハチからそれぞれ聞いてはいたものの、だれも実際に行ったことはなさそうだ。
    「海街の鳥人は、崖街に対抗意識を持っているそうね、いろんな意味で。今回の遠征では、お互いの若鳥たちを指導者たちが品定めする意味合いもあるみたいよ。」
    とクイナ。
     ヒワたちにとってそれは初耳だった。

    カヴァ

    「そろそろ時間だ。」
     プハチがやってきて言った。一行は再び空へ舞い上がった。若鳥たちも徐々にスムーズに飛び立てるようになってきた。
     陽が高くなり、最初のサーマルリフトにナビタキがヒットした。旋回し始めたナビタキの下に、次々と若鳥たちが到達しガグルを形成し始めた。
     アルシノエとプハチはそのガグルには加わらず、先へと急ぐ。こうやってそれぞれがサーマルリフトを探すことで、集団の進み具合は早くなる。
     正午過ぎた頃、一行のはるか高みを一羽の鳥人が飛んでいることにアルシノエは気づいた。
    -海街の?
     鳥か鳥人が判別できないほどの高高度を優雅に旋回している。真っ白な翼で、青い空によく映えていた。向こうはこちらに気づいているようだ。まるで自分が廻っているサーマルに入ってこいと言わんばかりに、正確にサーマリングしている。
     果たして、そのサーマルは強烈だった。体がぐいっと持ち上げられ、あれよという間に高度が上がっていく。
     一行が自分のサーマルに入ったのを確認したのだろうか、自分の半分までの高度まで一行が上がってきたところで、その鳥人はひらりと翼を狭め急降下を始めた。そしてヒワたちの高度であざやかに翼を広げて降下を止め、一行が旋回しているのより大きな旋回半径、すなわち外側で旋回を始めた。
     上面が黒みがかった蒼の羽根、下面が白色の翼を持つ、見るからに精悍な若い鳥人だった。よく通る声で叫んだ。
    「ようこそ、海街へ!僕に付いてきてください。」
     海街の鳥人は、方向を定めて滑空グライドし始めた。おそらくその方向に海街があるに違いない。
     ヒワは(おそらく他の若鳥たちも)突然現れた異郷の鳥人にドキドキしながら、後を付いていった。
     海街の鳥人は迷いなく進んでいく。時々左または右に翼を翻すが、そうすると沈下から脱したり、リフトに掛かったりした。
    -アステアに教わった、できるだけ良いところを選んで飛ぶ方法だわ!
     海街の鳥人は全くサークリングをしない。それでいてほとんど高度を失うことなく、前へと進んでいく。この辺りの地形を熟知し、どんな条件の時にどこからサーマルリフトが発生するのか分かっているのだ。
     前方の海へとせり出した台地の際に、街が見えてきた。大きさは崖街くらいだろうか?
     ただ、崖街が崖に沿って非常に複雑な構造であるのに対して、海街はなだらかな丘に単純に広がっていて、マノスクをそのまま少し大きくしたような佇まいだ。
     浜にはよく整備された着陸場のようなものが見えてきた。風の向きが分かるように吹流しウィンドソックも立っていた。
     何人か何人かの鳥人の姿が地上から自分たちを見上げている。
     海街の鳥人は一人、丘側から風に正対して海に向かってアプローチし、見事に着地した。すみやかに地上の人々のそばに歩み寄り、着陸帯を開けた。崖街の鳥人たちはそれを見て次々と降り立った。
     全員が着陸したのを確認して、海街の人々の中から年長らしき深紫の羽根を纏った鳥人が一歩前へ進み出て言った。
    「ようこそ参られた。海街飛行学校の学長、インゴです。」
    「お世話になります。プハチです。」
     プハチが返す。
    「アルシノエです。」
    「お出迎え痛み入ります。よく我々がわかりましたね。」
    「この鳥が知らせてくれました。」
     傍らに控えていた若い鳥人の方に顔を向けた。ここに先導してくれた彼だ。その肩に鳩ほどの鳥が止まっていた。若い鳥人は言った。
    「改めて海街へようこそ。カヴァと申します。この子はセグロアジサシのハッカ。」
    -この街にも鳥使いがいるのか。
     ヒワは思った。

     この夜、海街の飛行学校で歓待を受けた。海街は木造の建造物ばかりで、その中でも飛行学校の校舎は特に質素だった。
     でも、丁寧に削られた木の壁は清潔で、いい匂いを放っていた。
     崖街同様、学校には寄宿舎があって、これからここで泊まるのだ。
     夕食は、ふんだんに海の幸を使った、素朴だが、栄養満点の料理だった。大小さまざまな魚や貝が、酢漬けになったり、焼かれたり、煮込まれたりして次々と調理場から出てくる。
    「ここの料理人は漁師でもあるんだ。みんなのために腕によりをかけて作ってくれているんだよ。」
     カヴァがうれしそうに言った。

    2.海の飛び方


    海の飛び方


     
    次の日から、合同訓練が始まった。合同訓練と言ってもはじめは海街組が飛行を開始するのを崖街組は見学することから始めた。海岸沿いはサーマルリフトが発生しても、内陸が温まって対流が活発になると、湿気を含んだ海風シーブリーズが流れ込む。そうなると、サーマルリフトを蹴散らしてしまうのだ。崖街の場合は、海風シーブリーズが斜面上昇風となるので、浮いていられる。 
    「なので、さっさと内陸おくに行くのさ。」
     昨晩の歓迎会でとても気さくなことが分かったカヴァが笑いながら言った。
     
     昨日、アヤハがカヴァに聞いた。
    「本当に初年生なの?とてもそうには見えないわ!」
     実際、カヴァは堂々としていたし、ヒワたちを先導したフライトを思い返しても、導者と言われても信じたかも知れないくらい鮮やかな飛びっぷりだった。
    「この人は『天性の鳥』って言われているのよ。」
     そう口をはさんだのは、カヴァにピタリと寄り添っているイータという少女だった。
     カヴァはそういうイータの言葉には否定も肯定もせず、イータを穏やかな表情で見やるばかりだった。
     ヒワはその様子を見ているうちに、いままで感じたことのない感情を抱いた。本人は全く気づいてはいなかったが。
     カヴァはヒワと同じく、鳥使いなのだ。鳥使いは鳥人がいる街に一人いるかいないかという稀な存在だ。しかもカヴァが素晴らしい飛行のテクニックを持っていることは、初めて会った時に否応なく認めざるを得なかった。
     それに対するライバル心だろうか。なにかそう、簡単には説明しきれないものがあるのだった。

     海街の鳥人の練習が始まった。地面からのサーマルリフトはまだ弱いらしく、積雲はしっかりと形成されない。次々に飛び立った海街の鳥人は最初、ばらばらの空を飛んでいるように見えた。地上から観ているとそれまで羽ばたいていた若鳥が、突然羽ばたきを止め、ややあって旋回を開始する。何旋転かするうちに、明らかに高度が上がっていくのが判る。上昇気流リフトがあるのだ。それを見て、他の若鳥たちが吸い寄せられるように近づいては前に廻っていた若鳥の下方で廻りはじめる。
     海街の鳥人の羽根は白か銀色だ。どこを飛んでいるか、とても判りやすい。海辺に特有の青い空を背に、何羽もの鳥人が優雅に旋回をする光景はとても綺麗だ、とヒワは思った。
     やがて海街の若鳥たちは、丁寧に上昇気流を拾って、一羽、また一羽と内陸へ消えていった。内陸でより強い上昇気流リフトを捉まえるつもりなのだろう。
     
     カヴァとイータが飛び立った。
     今度は、ヒワたちも続く。
     もうしっかりとした積雲せきうんが形作られていた。
     なだらかな起伏のある平野の上空には、こんもりと白く輝く積雲せきうんがぽこぽこと浮かんでいた。底は平たいらで黒々としていて、雲に下に行くと、良好なリフトが得られる。
     気持ちよく積雲を伝わりながら、台地の奥の雲の連なりラインを目指す。
     海街の若鳥たちがガグルを作っていて、よい目印になった。ヒワ、アヤハ、アトリの三羽はおおむね集団となって飛ぶ。ナビタキとクイナ、ジナイは少し離れたところで一緒に飛んでいた。
     カヴァとイータはエスコート役をしてくれるつもりのようだ。
     練習経路は、海街から東の方向へ飛び、内陸の上昇風帯に乗ったら、南へと転針し、はるか南に屏風のように聳える山脈の手前を流れる河に達したら北へと戻るというものである。河岸には目印になる小さな邑むらがあって、旋回点とされていた。
     無難に旋回点に達し、北へと旋回する。
     
     全く初めての場所は、エスコートがいなければ心もとない。
    「初日はこんなところか。」
     無事、着陸して羽根を脱ぎながら、アトリが呟いた。

    「今日は、少しスピードを上げるよ。ついて来られるかな。」
     2日目、練習が始まった。
    「昼過ぎになったら、面白いことが起こるよ。」
     思わせぶりな台詞を残し、カヴァが飛び立った。
     カヴァはどんどん先へと飛んでいく。イータも一緒だ。
     ヒワとアトリはそれを見て、対抗心が高まってくるのを感じた。必死に食らいついていく。昨日に比べると気迫が違う。
     昨日の河岸の旋回点には難なく達し、北へと向かう。アヤハも何とか遅れずに付いてきている。
     ふと前を見ると、カヴァとイータがいない。
     見渡すと、ずいぶんと西の方向へ進路をずらしている。
    -?
     アトリは迷わずカヴァを追う。
     進行方向を見ると、今までたどってきた積雲は、連なって雲道クラウドストリートを形成しているが、海側のやや低い位置にも雲道ストリートができていた。
     そちらの雲道ストリートの下に辿り着くと、さらに海側の低い位置に雲道ストリートができていた。
    -ステップクラウド!
     ヒワは理解した。
    -海風シーブリーズが入っているんだ。
     内陸の空気は、海上の空気より乾燥しているので、温まりやすく強いサーマルリフトが発生する。内陸で上昇気流、すなわち空気が上空へ上がっていくと、そこを埋めるように海上の空気が陸へと流れ込んでくる。これがシーブリーズで、冷たく湿った空気のため、地面が冷やされ、サーマルリフトが消失してしまうことが多い。しかし今日は、シーブリーズがサーマルリフトにぶつかって、シーブリーズ自体が上昇気流となって、サーマルリフトの海側に上昇気流を造っているらしい。この上昇気流の空気はサーマルリフトの空気より湿っていて露店温度が低いため、低い位置で雲を形成する。これが段のように見えるのでステップクラウドと呼ばれる。また、シーブリーズは湿った空気のため、雲底よりさらに低い高度で刷毛で掃いたように凝結することがあり、これをカーテンクラウドという。

     カヴァたちは、カーテンクラウドを縫うようにして、どんどん海岸の方向へと飛んでいく。
     カーテンクラウドを抜けるとぱたりと上昇気流が止んだ。それでもどんどん海岸線を目指してかっ飛んで行く。後に続くヒワたちにとってこんな飛び方は初めてだ。
    -カヴァにはリフトが視えるのか?
     上昇はしないまでも、高度を下げることはない。弱い上昇気流を着実に拾っているようだ。
     ドキドキしながら食らいついて飛ぶ。
     アトリとアヤハの様子を窺う。アトリは必死の形相で、先行するカヴァを見つめている。
     アヤハと目が合った。
    -楽しい! 
     目が笑っている。
     先頭を行くカヴァは、翼をすぼめ、速度を出しながらも、ところどころ沈下の弱いところでは翼を広げて失高(高度を失うこと)を最小限にしているようだ。続く鳥人たちは着ている翼の性能も体重も違うので、それぞれのやりかたで失高を押さえながら続く。大きく高度を下げてしまうと、羽ばたいてみんながいる高度に上がる。
     やがて、眼下に海岸線を臨むところまできた。海岸に規則正しく波が押し寄せるのがはっきり見えてきた。この辺りで海岸に沿って戻るのかと思いきや、海街の二羽はさらに海へと進んでいく。
    -どこ行くの?
     ヒワとアヤハは思わず顔を見合わせた。
     上昇気流は望めない。どんどん海に向かって高度が下がっていく。海岸と平行に長く続く白波の波頭が見える。波を作っている風は海風で、鳥人たちにとっては正対風となる。
     海面に突っ込むかと思われた瞬間、カヴァとイータは鮮やかに翼を翻し、波頭に沿うように進路変えた。海岸線と平行に波頭のやや沖側にコースを取っているようだ。高度は維持されている。
     崖街の三羽も、海面に近くなってきた。その時、繰り返し押し寄せてくる波頭の上空を通過する際に、上へ持ち上げられる感覚があった。
    -これか!
     三羽は一瞬にして理解した。次に来る大きな波頭にタイミングを合わせ、波頭の上を通過する瞬間、身を翻し波に沿ってコースを変えた。
    -波頭に沿って上昇風帯リフトができるのね。
     その幅はとても狭い。波の波頭から波が盛り上がっている上空にしか使えるリフトはない。外してしまえば羽ばたいてリフトに戻るしかない。
     ところが、カヴァたちは一つの波のリフトのみを使っているのではなく、より大きな波を見つけると躊躇なくその波へと移り、ほとんど羽ばたくことなく前へ進んでいく。
     海面すれすれで地面効果も使いながら滑翔する。
     やがて海岸線前方に海街が見えてきた。
     海街が右翼の真横アビームになったころ、一行は90度右旋回し、海街へと向かった。今度は背風となるので、風に乗って気持ちよいスピードで海街に到達することができた。

    ダイナミック・ソアリング


    「今日はちょっとスリリングだったろ?」
     皆が着陸してから、カヴァが説明してくれた。
    「日中、陸が温まったらサーマルリフトが発生するだろ?海街は海が近いので、上昇した空気の下に海側から空気が流れ込む。これが海風シーブリーズさ。これはわかるよね。」
     カヴァは、にこっと笑って言葉を続けた。
    「この海風はせっかくできたサーマルリフトを消してしまうので、今日通ってきたカーテンクラウドより海側はサーマルリフトを期待できない。
     ところが、海風は海から陸に吹くので、海面に波を作って陸の方に運んでくる。風は波に沿って上昇し、波頭を越えると下降する。」
    「その上昇帯を使ったのね!」
     アヤハが興奮気味に言った。
    「そう、僕たちは、海に近いというデメリットの中で、海風の性質を逆に利用しているんだ。シーショア・リッジ・サーフィンとかダイナミック・ソアリングと呼んでいる。」
    「こんな飛び方もあるのね・・・」
     アヤハはきらきら瞳を輝かせながら、カヴァを見つめた。
    「でもね、今日みたいな飛び方は、海街の鳥人の中でもカヴァ以外にできる人は熟練者しかいないのよ。今年初フライトを終えたばかりの若鳥とは思えないって長老たちは言ってたわ。」
     なぜか得意そうにイータが口を挿んだ。
     ヒワは畏敬の念でカヴァの姿を見つめるうち、それとは別の感情がさらに強まったことに、またしても気が付かなかった。

     今晩の夕食は、やはり魚がメインディッシュだった。崖街でも魚を食べる。魚の種類はさほど変わらないが、崖街では油で揚げたり、湯引きにしたりすることが多い。こちらでは刺身にして生のまま酢や発酵調味料に浸けて食べたり、塩焼きにしたりすることが多いらしい。ヒワにとって刺身は珍しかったが、様々な魚や貝が色とりどりに盛り付けられた様子が楽しく感じられた。
     海街の飛行学校の宿舎は、部屋数も多くなく、一部屋もさほど広くなかった。そのためか、崖街の一行が滞在するにあたって、海街の生徒は自宅に帰されているようだった。
     しかし夕食は一緒に摂る。
    「悪いわね、私たちのために、部屋を空けてくれて。」
     人懐っこい笑みを浮かべてクイナがイータに言った。
    「どういたしまして。家族に会えるんだもの、ちょっとした休暇の気分よ。」
     二人はすでに打ち解けた様子だ。
    「ところで、アトリ達は今日の帰り、海の方へ飛んで行ったけど、リフトはあったの?」
     ナビタキが訊いた。
    「今日はすごい体験をした。」
     独り言のようにアトリが言った。
    「?」
     ナビタキとクイナがきょとんとした表情になった。
    「波の上を飛んだんだ。1米メートルもないくらいの高度で。」
    「どういうこと?」
    「シーショア・リッジ・サーフィンさ。」
     カヴァが言った。
    「君たちの崖街は山に近いから、山岳派マウンテン・リー・ウェーブを知ってるよね?」
     一呼吸置いて続ける。
    「風が山に当たって斜面上昇風が生じるように、海でも風が波を起こすと海面上昇風が風上側の波の斜面を駆け上がる。マウンテン・リー・ウェーブは山に当たって一旦上昇した気流が山を越して波動となって風下側に下降気流と上昇気流の帯が繰り返し現れる現象だね。
     海でも最初の海面上昇風と海岸側の波の間隔が合えば波動となってウェーブができるんだ。
     今日の僕らはそいつを使って海街までたどり着いたってわけさ。」
     ヒワたちの方を見て言う。
    「君たち、初めてにしては良くついて来れたね。僕の見立ては正しかったかな。」
     三人は顔を見合わせる。
     実は、彼らはまだ山岳派マウンテン・リー・ウェーブでは飛んだことはない。特殊な条件でしか発生しないと習った。
    「うまく飛べないと波に突っ込むこともある。でも初日に様子を見て、技術的には大丈夫だと思ったんだ。」
    「海に突っ込んだら、どうなってたわけ?」
     アヤハが問い詰めるように訊いた。
    「泳げなければ命に係わる」
     崖街の若鳥たちは全員息を呑んだ。
     ヒワの心の中にはっきりとわかる感情が生じた。
    -この人には負けたくない!

    「どう思う?さっきのカヴァ。」
     部屋に戻って、同室のアヤハが寝台に腰かけざまヒワに問いかけた。
    「私たちを高評価してくれたようだけど、何か気に食わないわ。上から目線?」
    「そうね・・・
     うまく言えないけど、戦線布告かと思った。」
    とヒワ。
    「なら、本戦では負けられないわね。」
     めずらしくアヤハがきっぱりとした口調で言った。  

    大会まで

    「そうだよ、私たちの飛び方だ。人間の言葉でシーショア・リッジ・サーフィンというのか。」
     カモメのアステアが、胸の羽繕いをしながら呟いた。
     海街への遠征から戻ったヒワは、休暇を得て久しぶりの実家に戻っていた。
    「海街の鳥人が、私たちをまねして、そんな飛び方をしていたな。しかしうまく飛べるのはそんなにいない。何人も海に突っ込んでいた。」
    「上昇気流は『視える』の」
    「・・・視えるという言い方は鳥にはわからないね。」
     そして少し考えてから言った。
    「気配を感じると言った方がよいかも知れない。」
    -やはりカヴァは特別なんだ。
     崖街のヒワの家のデッキの手摺にアステアが止まり、ヒワはデッキの椅子に腰かけて海を見ていた。
    「シーショアサーフィンの時は、波頭をめがけて急降下ダイブする。速度をつけておいて、波の背面を登ってくる上昇流を感じる直前に、すばやく上昇へと頭を転じ、速度を高度に変えるんだ。それを繰り返すことによって長い時間飛ぶことができる。」
     アステアが続けた。
    「海には剣魚ツルギウオというのがいてな。とても獰猛で、シーショアサーフィンをしているカモメを狙って、波に乗って空中に躍り出て食っちまう。大きいのは体長2米メートルを超えるものもいて、鳥人さえ食われたことがあるという。」
    「そんなに怖い怪物がいるの!?」
    「確かに怪物と言えば怪物だな。肉食の生き物は、海にも、陸にも、空にもいる。」
     5週間前、海街への遠征に出発する時の真っ青な空の色とは打って変わり、どんよりとした鉛色の空だ。海の色も暗い。
    「あの遠征が遠い昔のようだわ。」
    「私たち鳥にとっては、5週間はかなり前だが、人間にとってはそうでもなかろう。」
     ヒワは折に触れカヴァの飛ぶ様が脳裏に甦ってきていた。鮮明な飛行の記憶だ。
     秋になると、秋雨がちらほらと降り始め飛行訓練が中止になる日が出てきた。そのため飛行学校が休校になり、一時帰宅しているのだ。
     これから冬にかけて飛べない日が増えてくる。強風が多くなり、北風で背後の山からの吹きおろしになるため、崖街からの離陸自体が危険だ。どうしても外せない伝令の仕事は、高い技術を持った鳥人だけが担う。若鳥たちは、春の大会まで飛行訓練の時間が取れないことに歯がゆい思いを抱いていた。それまでは、数少ない晴れ間にできるだけフライト時間を稼ぐしかない。
     あの遠征で崖街の若鳥、特にヒワ、アヤハ、アトリの3羽の結束は高まった。ヒワは三人といると、楽しいし安心する。アヤハはアトリに何かと気を掛けているように見えるし、ひょっとすればそれ以上の感情を抱いているのかも知れない。でもヒワはアトリには特に恋愛感情は感じない。仲間として楽しい。それで良いと思っている。
     時々思い出すカヴァに対しては憧れなのか、尊敬なのか、それとも・・・。

    3.代表選抜


     雪解けの季節を迎え、風が温む頃、ヒワたちの中で新人戦に臨む気分が盛り上がってきた。
    「今年の若鳥たちは、特段競争意識が高いわね。」
     アルシノエが嬉しそうに言った。
    「良いことだ。」
     クインツスが頷く。
    「海街のカヴァとやらが、刺激になったのかな。」
    「あれには私も驚きました。すごい技術です。」
    「それに付いていけたのだろう?うちの三羽は。」
     久々の飛行日和で、次々と訓練に飛び立つ若鳥たちを見送りながら、導者たちは自らのフライトの準備を始めた。

    出場選抜

     今日は、新人戦に出場する選手を決める日だ。
     大会は各街から最大三名の選手が出場できる。崖街は、アルシノエとプハチの生徒六名の中からの選抜となる。しかし実質上は、アルシノエのチームとプハチのチームのどちらかを選ぶことになる。レースではチームとしてフライトすることになるからだ。
     導者のクインツス、アルシノエ、プハチは、冬の間から協議を続けていて、二つのチームを小レースで競わせて、勝ったチームを本戦派遣チームとすることに決めた。
     コースは、崖街の西、10粁キロメートルにあるセレという郷を第1旋回点として北へ変針し、背後にロコ山塊を背負って立つ単独鋒のイルムケップ山頂を第2旋回点として回って帰ってくる30粁キロメートルほど三角コースだ。
     若鳥達は、セレ、イルムケップ山それぞれに到達した経験があるが、三角を周回するコースは初めてだ。春になったとはいえ、まだ日射が弱く、風向きも安定していない今日はトリッキーと言える。その分レースは運と技術が試され、白熱することが予想される。
     スタートは、本戦と同じく、選手が全員離陸し、上空で滞空し始めた頃を見計らって、クイントスが地上から出発のろしを打ち上げるのが合図だ。
     六羽の選手が、思い思いにサーマルを探し始めた。しかしチームがバラバラでは、チームフライトができない。
     やがてチームはそれぞれのガグルでまとまって旋回するようになった。
     今だ。
     クイントスがのろしを上げた。
     ほぼ同じ高度にいた二つのチームは一斉に西へと向かう。
     まだ斜面上昇風は発生しておらず、サーマルリフトもしっかりしていないため、最初は両チームとも苦戦している。
     ヒワは、崖街からやや離れた場所にトリガーになりそうな土が露出した場所を見つけると、そこに向かった。
     ヒワの左翼がわずかに持ち上がる。
     上昇気流だ。
     左翼を抑え込むように、慎重に左旋回を始める。
     ほどなく体全体を持ち上げる感覚があった。うまく上昇流帯を捉まえたようだ。
     空気の塊が上に向かってあふれてきているようなイメージだ。
    その空気の中に、身体をねじ入れる。
    -しめた!
     体が急速に持ち上がるのが判る。

    「こっちよ。」
     いち早くサーマルリフトを見つけたヒワがアヤハとアトリの二羽を呼ぶ。
     ナビタキとクイナ、ジナイも別のサーマルを見つけたようだ。
     サーマルトップは大体同じような高度なので、一つのチームが先行しては、次のチームが追い抜くというように両チーム譲らず、先を急ぐ。
     今日はほぼ無風で、斜面上昇風は発生しそうにない。
     西へ進むにつれ、崖街から続く切り立った崖は、やがて徐々になだらかとなり、低い丘陵へと変わっていった。その先に、セレの郷さとが見えてきた。
     ここまでのチームフライトは、互角だった。
     セレの郷さとには、導者の1人が地上から見上げていて、上空をきっちり旋回したか確認しているはずだ。
     両チームが一団となって旋回点に達した。
     白と灰色のろしが上がった。
     それぞれのチームが旋回点を正しく通過できたことを示す合図だ。
     第1旋回点のセレの上空をクリアしてから、二つのチームはそれぞれ違う進路を取った。
     ナビタキのチームは、イルムケップへほぼ直線に向かう進路。ヒワたちはイルムケップを右手に見て北のロコ山塊に取りつくコースだ。
     ヒワたちは、よりロコ山塊に近いところを飛ぶことによって、ロコ山塊から発生する強いサーマルリフトを捉まえようというのだ。
     ヒワたちは事前に打ち合わせたわけでなく、飛びながら目線で合図を交わして、このようなことができるようになった。
     海街への遠征の頃から、上昇気流に対する感覚の鋭さが抜きんでていることが認識され、誰から推されるという訳でもなくヒワが自然とリーダーを務めるようになっていた。
     果たして、ヒワたちの読みは当たった。
     崖街とイルムケップの間は、高台だが浅い谷になっている。谷間は湿った林や森で覆われているため、サーマルリフトのトリガーになる日射で温まりやすい乾いた場所が少ない。また、午前中の太陽は、地面を浅く照らすため暖まりにくい。イルムケップへ直行しようとすると、この谷間を斜めに横断することになり、サーマルリフトにヒットする確率が低い地域の上空を飛ぶ時間が長くなる。
     それに対して、ロコ山塊へ最短距離で谷渡りをすると、山の斜面に早く到達できる。日射が南向きの斜面を垂直に照らすため、平地より効率よく熱せられ、谷風アナバティックウインドが発生しやすい。
     谷間では、いくつか積雲が低いところで発生していたものの、弱い上昇気流がわずかしか感じられなかったが、ロコ山塊に近づいていくと、谷風が斜面の樹々の葉をひらひらと翻し、白い葉の裏面が目立つようになった。その辺りを目指し取り付くと、途端に強い谷風を感じ、ぐんぐん体が持ち上げられる。
     見上げると山脈に沿って谷間より高いところで底の平らな積雲が連なり始めた。
     ぽっかり盛り上がった部分が白く輝いて青空に映える。 
     三羽は縦列トレイルで、斜面に沿って8の字旋回を行ない、山の稜線の高さを越えた。
     ナビタキたちは谷の中間地点で、サーマルリフトを拾ったようだ。遠目に三羽がガグルしているのか見えた。しかし高度はこちらより低い。
    -いける!
     ヒワが二羽を振り返った。
     稜線を越えれば、余計な高度は要らない。
     なぜなら稜線上には谷風が収束した上昇風帯コンバージェンスがあることが多いからだ。
     ヒワを先頭に、ロコ山塊の稜線を辿りながら進路を東にとった。
     コンバージェンスの雲の下を繋いでいけば、羽ばたきをしないで滑空グライドだけで前へ進める。
     沈下帯を避けて進むと、失高をほとんどせずにイルムケップが眼下に迫る位置まで到達することができた。
     イルムケップはロコ山塊から南へ迫り出すように存在しているので、稜線を乗り移るだけでよかった。
     山頂を見ると、鳥人の指導者がたたずんでいた。山頂を迂回するように通過すると、山頂の鳥人がのろしに着火するのが見えた。旋回点を通過クリアしたことを示す合図だ。ナビタキたちはまだ達していない。
     ここからは、崖街へ向かって谷渡りとなる。
    山頂へアプローチしつつあるナビタキたちとすれ違う。同高度だ。
    -このまま行くか?
     おそらく途中には、平地からのサーマルリフトが湧いてきていることだろう。それをあてにするか。現在のナビタキたちに対するリードをこのまま保てれば、勝てる。
     直進する。
     途中の積雲はまばらで、あっても輪郭がはっきりせず弱々しい。
     丁寧に積雲を繋いでいくが、沈下が続く。
     崖街へと落ち込む台地が視界に入ってきた。もうすぐだ。
    しかし徐々に角度が浅くなっていく。到達するためには、見越し角度が変わらないか、高くなっていかなくてはならない。
     後方にはナビタキたちが迫る。
     ヒワは悟った。
    -やるっきゃない。
     力いっぱい羽ばたき始めた。
     やや下方を滑空していたアヤハも羽ばたき始める。アトリも察したようだ。
     三羽は全力で羽ばたいた。
     体力が持つか、力尽きるか。
     あと5粁キロメートル。
     飛行学校の校舎が見えてきた。ゴールだ。
     導者たちが固唾をのんで待っていることだろう。
    -行けー!
     飛行学校の敷地を跨いだのと着地したのは同時だった。
    「やった。」
     三羽は叫んだ。
     勝ったのだ。
     本戦に出場することができる。



    第3章 古都へ

    1.古都への旅

    準備

     本戦レースに備え、各鳥人の翼の調整もしっかり行わなくてはならない。今日は、工房からヒンメルの他、クレハ、シエルも出てきて、それぞれが手掛けた翼の仕上がり具合を確認する。
    「だいぶいい。でももう少し手を加えてほしいです。」
     アトリがシエルに話しかける。
    「気持ち硬くできませんか?」
     翼の硬さは本人の好みだが、一般に翼幅スパンが長ければ羽ばたくために力が必要となる。アトリが着ている翼はややアスペクト比が低い、すなわち短矩形に近い形だが、力の弱いヒワやアヤハの翼とほぼ同じスパンとなっている。だが、力が要る。
    「それはできるけど、アトリ。羽ばたきに体力が要るよ。」
     スパンが同じだと翼の剛性が柔らかいほど軽く羽ばたきやすくなるが、たくさん羽ばたかなくてはならない。反対に翼が硬ければ、滑空する際に翼をぴんと広げやすくなり、最良滑空比が伸びるが、羽ばたく際には力が要り、疲れやすい。
     より高い最良滑空比を得たいということは、アトリはレースでの滑空性能を重視し始めたようだ。
    「はい、それは承知の上です。」
     最近のアトリは、筋肉が目に見えて付いてきて、昨年、初フライトした時に比べると逞しくなった。そのせいか、自信もついてきたのか、弱音も吐かなくなった。
     ヒワとアヤハの翼は、ヒンメルとクレハが細かく調整し続けてくれていて、もはや自分の体の一部と言って良いほどのフィット感がある。体力も筋力も付いてきたこともあるが、何時間でも滞空していられるようになっていた。
     ヒンメルは今まで数多くの翼を手掛けてきた熟練の匠なので、技術が確かで間違いがないという信頼感があった。
     アヤハの双子の妹であるクレハは、まるで自分の体のようにアヤハに合わせた調整ができるのだった。
     調整は、何百枚におよぶ羽根と翼を支え動かず構造体の素材と構造、配置を細かく変えていくことで行なう。わずか数枚の羽根の硬さを変えることで、翼の全体のバランスが変わることもあるのだ。これを毎日の訓練ごとに繰り返す根気のいる作業だ。
     しかし若鳥と翼の匠は現状に満足することなく、大会に向け、毎日改良を重ねていく。
     カヴァは今どんな練習をしているのだろうか、それともどんな調整をしているのだろうか?

    2.旅の途中

    出発

     春分の日が近づいてきた。
     昨年、若鳥となった鳥人たちのレースは、新人戦とも呼ばれ、春分の日に行われる。大会の前には練習日が設けられ、各地から集まった若鳥たちが地形習熟を行なう。
     新人戦の開会式が開催される1週間前には、古都に到着すべく出発することになっている。
     ヒワたちも、いよいよ出発の朝を迎えた。早朝の飛行学校の発着場には、若鳥たちの家族や上貴たちが見送りに集まっていた。導者はアルシノエと、今回はクインツスも同行する。ヒワは両親のロジエとハンカ、アトリは母親のアカネ、アヤハは両親で上貴のシウンとクロエが見送りに来ていた。クレハは来年、飛行学校に入校する予定だそうだ。匠であるものが、鳥人になる例はそう多くないが、皆無という訳でもない。父親のシウンは鳥人として、母親のクロエは翼の匠として、かなりの功績があり、上貴の中でも一目置かれている存在で、双子は期待されているのだろう。
     家族で固まって、言葉を交わしている。
     ロジエがヒワに言った。
    「あまり無理しないでいいから。」
    「でも、私、なんだかやれそうな気がするのよね。」
    「ヒワにしては珍しく、自信に満ちた発言だね。危ないまねだけはしてくれるな。」
    「わかった。」
     周りも同じような会話をしているようだ。
     アトリがアカネに語りかけている会話が耳に入った。
    「お父さんの手がかりが見つかるかも知れない・・・・」
     ヒワは二人の方を見たが、それ以上聞き取れなかった。
     ナビタキ、クイナ、ジナイの三人もいた。
    「私たちの分も頑張って。」 

     やがて、日の出の金色の光があたりを照らした。校長のズイウンが前に進み出た。
    「時間だ。」
     言葉を続ける。
    「今日、我々の若鳥たちが新人レースに出発します。
     崖街はこれまで、10年に亘り優勝を続けている。今回ももちろん、期待はしているけど、私からの願いは一つだけです。」
     そして笑顔になった。
    「全員無事で崖街に戻ってきて。」
     彼女はそう言って、遠征隊の皆の顔を一人ひとり見た。
     まず、クインツスが、発航点に進み出て、鈍色の翼を広げ、飛び立った。アルシノエ、アヤハ、アトリ、ヒワと続く。
     早朝の静穏な空気の中を、五羽の鳥人は羽ばたきながら飛行学校の上空を旋回しながら高度を上げ、やがて東の方向へ進路を向けた。地平線から昇ったばかりの太陽は、防眩眼鏡ゴーグル越しにも眩しい。そのため、できるだけ太陽を直視しないようにしなければならない。
     まずは崖街の東のはずれにある夙の村を目指す。
     以前、カモメのアステアに導かれるように飛んだときは、十分に陸地が温まり、海風がもたらす斜面上昇風を使って、ほとんど羽ばたかずに距離を伸ばすことができた。
    -今日は時間が早いので、ずっと羽ばたき続けるしかないのか。
     ヒワがそう思ったとき、前方の崖が湾曲した辺りで、白いものが旋回したように感じた。
    -アステア?
     クインツスはすでにその場所を通り過ぎて前へ進んでしまっている。
     最後尾を飛んでいたヒワは、アトリまで追いつき、目で合図した。たちまちアヤハまで意図は伝わった。
     三羽は進路をはずれ、白い鳥が旋回している場所へと向かう。
     果たして、それはアステアだった。
     崖が湾曲している部分は、東に向いた斜面があり、低い位置にある朝の太陽の光を受けて輝いている。この斜面から上昇気流が発生しているのだ。
     ヒワたちはその斜面の上に達すると、アステアが旋回している方向に合わせて旋回を始めた。
    -アステアありがとう。
     アステアは、ちらっとヒワの方を見たが、素知らぬ素振りで若鳥たちを追い越して上へと駆け上がった。
     クインツスとアルシノエが三羽の動向に気づき戻ってきた三羽が廻っているガグルに入り、瞬く間に同高度まで昇ってくると、しばらく高度を稼ぎ、再び東進を始める。
     空にはいくつもの積雲が浮かび始め、雲底は1200米メートルくらい。雲の下に到達すると必ずと言っていいほど上昇気流があり、もっとも上昇率が良いコアを探りながら、雲底まで駆け上がりきると次の雲を目指して滑空グライドする。これを繰り返し、雲を辿って順調に距離を伸ばすことができた。
     夙の村が見えてきたのは、昼までまだ早い時間だった。これから東の方向は雲底がまだ低いので、ここにいったん降り、休憩してから、今日の宿泊地であるサツキに向かう。
     日射が強くなるにつれ、徐々に雲底は上がってくるはずだ。
     夙の東、北から南に流れるイナ川を渡ると、広々とした平原地帯だ。サーマルリフトを利用することになる。
     北にはセッツ山地が遠望できるが、古都へ行くには平原を直進した方が早い。
     そのルートの途上にあるサツキは夙と同じくらいの規模の郷で交通の要衝である。夙からもサツキへと続く街道が整備されていて、地上を徒歩や丑ブフや馬駱バラに跨って行く旅人が利用するのが上空から見えた。
     幸い、街道の上空にも積雲が発生していたため、崖街の一行は、その道に沿って東へと飛んだ。
     夙を出たのは昼過ぎで、サーマルは十分発生しており、雲底は1700米メートル程度しかなかったが、一行は強いサーマルリフトだけを拾って順調に進むことができた。
     しかし夕方近くになっていままで南だった風が北西から吹き始めた。春から夏にかけてのこの季節にはよくあることだ。
     先行するクインツスとアルシノエに緊張が走るのが、ヒワには感じられた。
     高層に高層雲がかかりはじめ、サーマルリフトにヒットする確率が、極端に減ってきた。風も今までよりは冷たい。冷たい空気がサーマルを散らしてしまうのだ。
     空気は荒れ模様になり、ヒワは泣きそうになってきた。
     上昇気流を示す積雲は発生していたが、高度はそれまでより低く、高層雲に日射が遮られ鉛色をして風下に流れていく。ようやくサーマルリフトを捉まえても、旋回センタリングしているうちに風に流されて来た方向に戻されてしまうのだ。
     ヒワはこれが嫌だった。
     センタリングのやり方も、翼の傾きバンクを変えずに円を描くように旋回するのではなく、風上の方向では一旦バンクを戻して水平にし、ある程度直線飛行してから、上昇帯の中で再び旋回に入れるのだ。そうしないと、上昇帯の風下にはじき出されてしまう。
     なかなか高度を取れない中、サーマルトップに達すると、速やかに風上側へ速度をつけて飛び出す。 
     鳥人は、翼を閉じ気味にし、迎え角を浅くし、体重を前のめりにかけることで加速することができる。正対風が強いときには、サーマル間は速度をつけて飛ぶ必要がある。さもないと前へ進めないのだ。それでも進まないときは、羽ばたくしかない。
     これは体力を必要とする。
     小柄なヒワは、高度なテクニックと力業が必要な強風時のフライトが苦痛に感じてしまう。
     最後は、ほとんど羽ばたき飛行になり、北からせり出してきたセッツ山脈の麓にあるサツキにようやくたどり着いた。
     宿に入ると、疲労困憊の若鳥達は、夕食もそこそこに、宿の寝台に倒れこむようにして眠りに落ちた。
    「これも修行のうちだな。」
     クイントスは若いころを思い出すかのように、アルシノエと顔を見合わせた。
     アルシノエは黙ってうなずく。

    サツキからイバラへ


     翌日は昨日の名残で、少し大気が不安定に感じられた。
    「こんな日は、リフトも出やすいが、沈下も多い。気を付けて。」
     アルシノエが出発前に言った。そして訊いた。
    「なぜでしょう?ヒワ?」
     冬から春にかけてのこの季節は、このような気象条件が出やすい。
    「・・・日射が強くなり始めても、まだ冷たい気団が残っていることが多いから、です。」
    「そうね、この間説明したわね。」
     そして三羽を見渡して言った。
    「いい練習になるわよ。誰から飛ぶ?」


     サツキの郷を少し麓に上ったところの発航地から、ヒワ、アトリ、アヤハの順で飛び立った。
     すでに朝日が麓の斜面を赤く照らしている。山肌、特に岩肌が露出しているところからサーマルリフトが発生するのも時間の問題だ。
     そう考えたヒワは、離陸すると回頭し、羽ばたきながら岩肌に向かって行った。
     しかしその上空へ到達してもリフトは感じられなかった。旋回して周辺を探ってみたが、まだ時間が早いのかも知れない。
    -こんな時は前へ進むに限る。
     ヒワは東へと羽ばたきながら進路を進めた。アトリとアヤハも続く。
     地形を慎重に観察し、サーマルリフトが発生しそうな場所を探す。
     今日は昨日ほどではないが、北から風が吹いているので、斜面上昇風は昼近くになるまで期待できそうにない。
     ひたすら我慢の羽ばたきを続ける。このような場合、サーマルリフトが発生しそうな地形を辿って飛ぶことはしない。羽ばたかない滑翔では、体力をほとんど使わないので沈下が少なく上昇気流がありそうな地形を探るようにクネクネと蛇行しながら進むが、羽ばたきでは最短距離を取って疲労を少しでも抑えなければならないからだ。
     進路は、先頭を飛ぶヒワが決めることになっている。
    -今日の目的地はイバラね。サツキから真っすぐ東へ50粁キロメートルということだけど、まだ見えない。
     渡り鳥は地磁気を感じて方向を知ることができるという。
     普通の人はそのような能力を持っていないが、鳥人には地磁気で方向を知ることができる者がいるという。ヒワは自分には備わっているかわからない。実はのちにその能力を持っていることが判るのだが。
     若鳥はまず、太陽の位置で方向を判断する訓練を積む。
     今は、春分の日の8日前なのでほぼ真東から日が昇る。日が出た地形を目標として覚えておけば、そちらが東だ。時間の経過とともに動く太陽の位置から自分の位置を把握する。
     最初に設定した目標を見下ろすところまで来たら、その延長線上に次の目標の地形を設定するのだ。
     その最初の目標が眼下に来る前に、軽く持ち上がる感覚があった。
     最初のサーマルリフトだ。
     北側の山地と平野の境目の上空を進んでいて、左から伸びてきた尾根の端に差し掛かったのだ。このような地形は上昇気流の起点トリガーになりやすい。
     ヒワはそのリフトが上昇できるほどの強さを持っているのかを慎重に見極めようとした。
     持ち上げる感覚はすぐに消えた。通り過ぎたのだ。
    -まだ、だめだ。次まで待とう。
     しかし、ヒワはわずかに進路を山側に寄せた。
    サーマルリフトが発生しそうな、地肌がむき出しの斜面を見つけたのだ。
     北風も今では止んでいるようだ。
    ドキドキしながらその地形に向かう。
    -なかったらどうしよう。
     後ろには、一行が付いてきている。
     リフトがなければ、無駄な距離を羽ばたいたことになる。
     斜面に近づいて来た。
     少し空気が乱れている。
    -いい感じ。
     サーマルリフトの周囲には、気流が乱れ振動を感じる領域があることが多い。
    -行けるかも!
     体が持ち上がった。
     今度はかなり力強い。
     ヒワは、羽ばたきをやめ、持ち上げられた左へと体重を預け旋回を始めた。上向きの空気が徐々に強くなり、しっかりと体全体が上昇し始めた。
    湧き上がってくる空気に乗っかるようにイメージして旋回を調整する。
     後を飛ぶ四羽も続いて旋回に入った。
     サーマルリフトとしては、まだ弱く、まとまっていない。360度旋回しても全周が同じ強さ上昇気流プラスではなく、均等ではない。
    そのため、鳥人たちはサークル上でプラスの強い場所だと他の鳥人より高くなり、そこを外れると低くなる。まるでお祭りの時にやってくるメリーゴーラウンドのような感じだ。
     この頃から、順調にサーマルリフトが発生し始め、午後を過ぎた頃にはイバラを臨む位置まで到達することができた。

    イバラの街

     イバラの街は、サツキと同様、セッツ山地の麓にある。崖街ほど急峻ではないが、斜面を登るように家々が並んでいる。崖街は、海が迫っているため、崖下に建物がある範囲はさほど広くないが、イバラは平地にも建物が広がっている。古都から延びる西国街道にある交通の要衝として栄えている街だ。
     ここからは、この街を知るクインツスが先頭を務めた。一行は、街の上空まで来ると、イバラの街の中央にある広場に向かって大きく螺旋を描きながら降下をはじめ、定石通り風に正対して着陸した。
     この街にも、鳥人はいるのだろうか?
     広場には何人かの住人がいたが、着陸した崖街の鳥人をみてもさほど関心は示さず、特に鳥人たちの出迎えも受けず、一行は直接、その夜泊まる予定の宿に向かった。
    「かわいらしい街ね!」
     アヤハがうきうきとした調子でいう。
     確かに、広場から宿までの道には、商店が多く、それもきれいに飾り付けられた見た目にも楽し気な店が軒を連ねていた。
    「夜になったらもっときれいよ」
     アルシノエが言う。
     交通の要衝らしく、旅人向けの宿は街道沿いにたくさんあった。宿はどれもこぎれいで居心地よさそうに見えた。崖街では岩をくりぬいたり、石造りの建物が多いが、ここではどっしりとした白っぽい木材を使った二階建てや三階建ての建物が主流のようだ。窓には玻璃がはめ込まれ、通りから窓越しに中の様子が見えるようになっている。
     商品を売る店や、食堂などは中が見える方が、客が安心して入りやすいのではないか、とヒワは思った。
     宿に到着した。
     「ハルンの宿」と看板が出ていた。
     鳥人がよく利用する宿で、翼や空の旅の用具などを収納しやすい十分な空間が部屋々々に備わっている。
     
     二階の部屋で旅装を説いた一行は、階下の食堂に集合した。
    「今日のご飯は何かな?」
     アヤハが待ちきれないように言った。
     旅の食事は何よりの楽しみだ。
    「この宿では、地元で採れる野菜を使った料理を出してくれるのよ。」
    とアルシノエ。
    「普通、旅宿では精が付くように肉料理が多いけど、ここは農作物が豊富なので、野菜や果物、穀物やイモ、豆類を使った献立になるわね。
     肉類に劣らず、しっかりと体力がつくように考えられたものなのよ。」
     食卓に出てきた料理は、肉類主体のものとは違い、緑や果物の鮮やかな彩が盛り付けられ、見た目にも楽しくなっていた。
     果物もみずみずしい新鮮なものと乾燥させた歯ごたえのあるものが供されている。
    「アトリ、食いしん坊なのに、おなか一杯になるかしら?」
     アヤハがアトリに言った。
     ヒワは盛り付けの中に、肉を焼いたようなものがあるのに気付いた。
    店の人に聞いた。
    「これは肉じゃないの?」
     料理を持ってきたヒワたちより年上の女性が微笑みながら答えた。
    「これはテンペンといって、大豆や麦を混ぜて発酵させ、乾燥させたものです。一旦水で戻して、調味液に浸してから火を入れてあります。」
     ヒワは一切れを口に入れて、嚙んでみた。
    「本当だ、肉みたいな食感だ。おいしい。」
     瑠璃でできた盃には、馴染みがある紫色の飲み物が入っていた。多分ザクロの果汁だ。
     ところが一口入れた途端、口の中で何かが弾ける感覚があった。
    「これはなに?」
    「これはザクロの果汁を炭酸水で割ったものです。山の方に行くと、炭酸水が湧き出ているところがあるんです。」
     アネモネという名の女性が微笑みながら言った。
     とろけるような笑顔だ。
     これなら疲れた旅人も癒されるに違いない。

    「おなか一杯だね。」
     料理を堪能した若鳥たちは、到着したときより元気を取り戻した気になっていた。
    「もう外は暗くなるころだね。街を散策していたらどうだい?」
     クインツスが言った。

     街には黄昏が染み始めていた。商店や家々に明かりが灯りはじめ、幻想的な光景となっていく。
     店にはヒワたち3人が見たこともない珍しいものもあった。
     自ら光を放っているかのような植物や、生きているかのように動くおもちゃなど、まるで魔法がかかっているかのようだ。お金をあまり持っていないので買うことはできないが(余分なものが増えると飛ぶのに負担になるよいう理由もあるが)、三人は、この店の次はあの店というように、店を巡って見るだけを楽しんだ。
    「この街には妖術を使う者がいるという、って母から聞いたわ。」
     突然、アヤハが言い出した。
    「えっ?」
     ある店の軒先に、変わった帽子を被った人物のシルエットの看板がかかっていた。     
     <アカザの店>とある。
    「人々を占ったり、望を叶えたりすることを生業にしている人がいるってこと。
     ここがそうかも知れない。」
    「・・・占い」
     アトリが考え込むように言った。
    「面白いね。何か占ってもらおうか。」
    「レースで勝てるか、占ってもらおうよ。」
     二人の返事も待たずに、アヤハがその店の扉を開けて入っていった。
    「ちょっと!」
     慌てて二人も続く。
     
     店の中は照明がまばらで薄暗く、怪しげなものが置いてある。三人とも崖街でこのような店に入ったことも、このような店があることも聞いたことがなかった。
     どきどきしながら、おずおずと店の奥へと進んでいく。
    「こんにちは・・・」
     奥の衝立の向こうから、返事があった。
    「いらっしゃい。」
     意外にもまだ若い朗らかそうな女性が出てきた。
    「おや初めてね?占い?」
    「崖街から。旅の途中です。新人戦がうまく行くかどうか、みてもらえるかと思って。」
     アトリが言った。
    「おや、若鳥かい?わたしはアカザ。」
     それぞれ自己紹介する。
    「アヤハ、あなたから占う?」
    「私は結構です。」
     とアヤハ。
    -自分から店に入っていったのに。
     とヒワは怪訝に思った。
    「わかったわ。じゃあアトリ、この椅子に座って。この紙に自分の名前を書いて。」
     机に広げられた紙には、複雑な模様や文字が書かれていた。
    アカザに指さされた紙の真ん中にアトリは自分の名を書いた。
    「みんな新人戦レースに出るのね?古都に行くのは初めて?」
     関係のなさそうな質問をいくつかした後で、アカザは紙を自分の方に向け、ぶつぶつと呪文のような言葉をつぶやき始めた。
     しばらくすると、今度はアトリの顔をじっと見つめた。やがて呪文の声は小さくなり、止んだ。
     再び、紙へ顔を向けると、指でいくつかの記号をなぞりながら、何度かうなづく。
     そして顔を上げてきっぱり言った。
    「アトリ、あなたたちのレースはうまくいく。」
     アトリの顔が明るくなった。
    「でも、レースとは別に、この旅の最中にあなたに関係あることで、新たにわかることがあるわ。」
     怪訝な表情を浮かべるアトリ。
    「お父様のことよ。」
     はっとするようにアカザを見る。ヒワとアヤハは顔を見合わせる。
    「あなたのお父様は行方知れずなのでしょう?消息がわかるかも知れない。」
    「ぼくの父は死んだと母から聞いています。」
    「でも異境の地で、よね。だれかが確かめた訳じゃない。」
     
     アカザは、レースの前祝いだと言って、占い料を受け取らなかった。
    アカザの店を出てから、アトリは他二人が目に入らないかのように考え込みながら黙って歩いた。少し離れて後を歩きながら、ヒワは小声でアヤハに訊いた。
    「どういうこと?私は訳が分かんないわ。」
     囁くようにアヤハが答える。
    「アトリのお父様は鳥人だったの。伝令に仕事に行ったきり戻って来なかったのよ。」
    「でもアトリって、庶民から入学を許されたんじゃなかったの?」
    「アトリのお父様は上貴だったんだけど、そんなことがあったので、お母様は街人として生きることを選んだようよ。」
     アトリの母親アカネは、宝飾師をやっている。アヤハの家は上貴なので、その辺りの事情は上貴の間では周知だったのであろう。

     宿に帰って、アトリがクインツスとアルシノエに占い師の店でのことを話すと、二人は一様に考え込んだ。
     そしてクインツスが口を開いた。
    「アトリ、アルクス、つまり君の父上のことをどれだけ知っている?」
    「母からは、僕が赤ん坊の時に事故で亡くなったと聞きました。5歳くらいの頃だったと思います。」
    「鳥人だったことは?」
    「知りませんでした。でも母の様子から、どこかで生きてるんじゃないかと、うすうす感じていました。浮島と何か関係があるという噂も聞いたことがあります。」
    「イバラの妖術師たちの占いを軽くみることはできない。」
     クインツスを見ながらアルシノエが言った。
    「その通り。彼らの能力は確かだ。」
    「レースに関係してるのかも知れませんね。」
     アルシノエが呟くように言った。
     アトリがその顔を見つめていた。問いかけるように。


    第4章 新人戦

    1.さあレースが始まる

    到着

     古都がいつから存在しているのか、誰も知らない。
     文字による記録がある遥か以前から、すでに在った。伝承では、遥か北、山脈を越えたところから来た皇おうの一族が造ったと言う。最も古い記録である創記が書かれた2000年前には存在していたことになる。
     この邦くにで最も古い都市である古都は、最も多くの人口を抱えている。巨大な湖うみであるシュマリナイから流れ出た河、セタが南方を流れる盆地に造られた古都は、盆地の中央にある皇宮から真っすぐ南に延びてセタ河に至る20粁キロメートルにも及ぶ大街路が基軸となっている。街はこの大通りを中心に東西に発展し、諸国の様々の物品を商う店や生活に必要なものを作る工房が集積することで大いに栄えていた。
     政治の中心であることはもちろん、あらゆる文化や流行は古都から始まっていた。
     この邦を統べる皇は、代々古都の皇宮に住まい、詔書を発信することで永らく平和な治世を誇っていた。
     しかし大きな戦乱が起き、一時的に古都は荒廃してしまう。500年ほど前のことだ。

    「ところが、我々鳥人族は別の場所で生まれたようなのだ。」
     古都に到着して宿所へ向かうための準備をしながら、クインツスが言った。
     もう太陽はだいぶ西に傾いていた。
    「東の虚空に浮かぶ浮島から地上に降り立った人々とも言われる。伝承のみで、今のところ文書としては残っていない。」
    「古都の鳥人族はいつ頃からいるのですか?」
     アヤハが翼を脱ぎながら訊いた。
    「記録以前の1500年前には居たようだね。しかし我々崖街の鳥人族の方が、古いかも知れない。崖街で昇り降りするには、鳥人は便利だからね。」
    「古都の鳥人族の主な仕事である伝令は、比較的新しいんだ。もともと古都に鳥人族は住んではいなかったが、空からの伝令という能力が皇に認められて、邦くにのお抱えとして崖街の鳥人の一部を古都に棲まわせたという言い伝えもある。」
     鳥人族はすべての街に居るわけではない。この邦くにでも古くから存在し、かつ重要な場所で、ある程度繁栄している街に居る。
     街々の鳥人族同士はお互いに干渉しないことが不文律になっている。このため若い鳥人の育成の方法や翼などの飛行用具は街によって違う部分があり、独自に発展してきた。
     それでも伝令の仕事などで、出先の街で鳥人同士が行き会えば、友好的な関係を築くのが通例であり、その際にその街の鳥人たちの様子が伝わってくる。翼などの用具や装束を見れば、どの街の鳥人が大抵識別することができた。
     たとえ街と街で諍いがあったとしても、鳥人同士では友好的に振る舞う。
    「古都の鳥人族は、皇の直轄なので確かにエリートではある。
     でも私が知っている古都の鳥人たちは、どちらかというとおっとりしている人が多いような気がする。」
     アルシノエが付け足す。
    「伝え聞いた噂によれば、今年の古都の若鳥たちは、あまり訓練に熱心ではないそうよ。」
    「自分たちの街ホームでのレースなのにもったいないことだ。」
    とクインツス。
    「今年は、海街のカヴァの名前が何人かの鳥人から聞かれたわ。前評判がすごいのね。」

     古都は、四方を山に囲まれた天然の要塞で、セタ河は東山の南端から西に向かって古都盆地に流れ込み、西山に阻まれると南に流れを変えて西山と南山の間から南のセッツ平野に流れ出る。西山と南山の間はシステロンと呼ばれ、南から古都に入る関所であり、関所の外側には古都へ入る旅人たちの宿場町になっていた。
     西山と南山から、それぞれ鋭く直立した高さ500米メートル級の峰が河の両岸に迫り出していて、天然の門になっている。河岸はなく、河まで下りて古都に入ろうとするものは、激しい流れの中を行くことになる。
     関所は、河の西岸に沿って整備された街路が西山にぶつかってくり抜かれた隧道の中に設けられていた。
     関所を通過すると、左手にある西山の峰は大きく湾曲し北へと延びていた。古都の鳥人族の拠点は、西山の麓、システロンの隧道をよく見通せる場所にあった。
     関所の外側にある宿場町とは別に、ここには鳥人たちが利用できる宿所が設けられていた。ここが競技会の集会場ともなる。
     宿所に入っていくと、玄関から入ってすぐのところが広間になっており、すでに多くの鳥人たちで賑わっていた。
     鳥人族はどの街でも特権階級であり、貴族に列せられている場合も多い。古都でもそうだし、古都よりさらに古い歴史を持つ崖街では神聖さを持って敬いの対象となっていた。
     新人戦に集った鳥人は、今年、鳥人として初めて空を経験した若鳥達だ。
     彼ら彼女らを指導した者たちは、いずれも鳥人としての経験と技術に秀でているばかりでなく、品位がふさわしいものしか導者として任命されない。
     そのため、ヒワはそれまで自分では気づいていなかったが、自分たちや他の街の若鳥たちも品位ある立ち居振る舞いが自然と身についているように見受けられた。
     自分たちと同じような年代の若鳥たちが集う様は壮観だった。これから始まるレースへの期待と緊張の活気がみなぎっている中にも、自信があふれ優雅な雰囲気があった。いくつもの談笑の輪の中に導者たちがちらほら見受けられた。
     ヒワは無意識に広間を見回してある顔を探していた。
     そしてその人はいた。
     ヒワがその横顔を見つけたと同時に、相手もこちらの方を向いた。そして笑顔になった。
     しかし目線が合った次の瞬間、なぜかヒワは視線を逸らせてしまった。
    「海街の人たち!」
     アヤハが叫ぶと、駆け寄っていった。
     海街の若鳥達も気づいたようだ。お互いに歩み寄っていった。
    「やあ、久しぶり!」
    「あの時はお世話になりました。」
    「カヴァ。」
     ヒワはその名前を言うのがやっとだった。
    「ヒワ」
     カヴァが微笑みかける。寄り添うように、イータも一緒だ。
    若鳥たちはお互いの名前を呼びあい、再び打ち解けた。
     胸の高まりを感じたのは、ヒワだけだったのだろうか。

     やがて夕食の合図の鈴が鳴り、広間の一行はぞろぞろと隣接する食堂へと移動した。長テーブルが三列あり。座席は自由だった。自然と崖街と海街の鳥人たちは隣り合わせに座ることになった。
     全員が着席した頃、ヒワたちが知らない、いかにも高貴そうな数名が入室してきた。
    「古都の鳥人族の総裁クレンよ。」
     アルシノエが小声で教えてくれた。
     先頭を行くのは厳かな雰囲気の壮年の女性で、付き従うのは各街から若鳥たちを引率してきた導者と同じ世代の男女だ。それぞれ鳥人族であることを示す羽毛が付いた槐色のガウンを羽織っている。一行はテーブルを見通せるステージのようなところまでくると、総裁のクレンが真ん中に立ち食堂を見渡して言った。
    「若鳥たちよ、ようこそ古都へ。」
     やさしげに微笑みながら続ける。
    「皆さんをここにお迎えできたことをうれしく思います。
     今年の新人戦に最初に到着したひとたちですね。古都の代表として歓迎します。この後、遠くの街からも到着が続くでしょう。
     今日はゆっくりと体を休めてください。明日からは、練習日が始まります。1週間後の決勝戦に向けて、しっかり調整をしてください。
    精霊のご加護があらんことを。」
     それを合図に食事が始まった。
     古都らしく美しく盛り付けられた料理が運ばれて来た。食卓に一皿ずつ置かれ、それを銘々で取り分けて食するのだ。他の街ではあまり見られない食べ方だ。
     崖街の若鳥たちは、周りの食卓の様子を見よう見まねで、自分の皿に料理を取り食べ始めた。クインツスたちは慣れたものだ。あたかも古都の人のように優雅に食事をしている。
    「この肉は何?」
     アトリが訊いた。
    「うまい。はじめて食べた味。」
    「これはイノという動物だよ。
     崖街でも食べるけど、料理方法が違うね。」
    「なんか上品な感じ。」
    「そう、古都は宮廷料理を頂点として、この邦くにの料理の粋を集めているとの評判だね。農産物や動物、魚から時間をかけて作ったスープを基本として、とても手の込んだ調理をしているね。」
    「まあ、私としては素朴で粗削りな崖街の料理の方が好みだがね。」
     クインツスがこんなに自ら意見を言うのは珍しい。
    -食にこだわりがあるのか。
     ヒワはそう思いながら、かすかに焦げ色が付いた薄くスライスされたイノという動物の肉にとろりとしたソースを浸け口に入れた。複雑な味わいのソースは、手が込んでいることを想像させるものであった。歯ごたえのある肉はしっかりとした旨味とコクがあり、それでいてさっぱりとした後味だった。
     鳥人の中でも鳥と意思疎通ができるヒワのような鳥使いは、鳥の肉は食べない。しかしワシやタカのような猛禽類を使い鳥としている鳥使いは鳥の肉を食べる者もいる。使い鳥で猟を生業とする鳥人もいる。そうした者のために、鳥の肉も用意されており、食卓に持ってきた際に、鳥の肉であることを確かめてから置いてくれる。皿には肉とともに色とりどりの木の実やドライフルーツが載っていて、肉と一緒に食するようだ。ヒワはいくつかの木の実とドライフルーツを食べてみた。木の実の香ばしさとフルーツの甘酸っぱい味が、肉の旨味と調和してより食欲が刺激されるのを感じた。
    -おいしい!
     心の中で呟いた。
     この邦には街によってさまざまな特徴をもった料理がある。
     海に近いところでは海産料理、森や牧畜の盛んなところでは肉料理など、その中でも地域によって採れる農産物や海産物が異なるし、得られる動物や鳥類の種類も違ってくる。
     鳥人の中には仕事で街を訪れる時、その街ならではの料理を食べるのが楽しみだという人がいる。クインツスもその一人なのだろう。自分も将来そうなるかも知れない。
     
     気が付くと、食堂内は食卓同士で話が盛り上がり賑やかになっていた。
     自然と隣の食卓の海街の面々が話しかけてきた。
    「やあヒワ。いよいよだね。緊張してる?」
    とイータ。
    「してないと言えばうそになるわ。そっちはどうなの?」
    「してないと言えばうそになるわ。」
     顔を見合わせて笑った。
     二人はすぐに海街での夏の時に戻って打ち解けた。
    「カヴァは相変わらず?色んなところで噂を聞くけど。」
    「絶好調、って言いたいところだけど、本当はどうかな。
     本人にしかわからない。」
    「プレッシャーはあるんでしょうね。」
    「本人に聞いてみたら?」
    「いえ、遠慮しとくわ。」
     その時、カヴァと目が合った。
     一瞬、心臓が止まったかのような感覚。
     カヴァが微笑む。
    -何か言わなきゃ。
    「ヒワ。」
    「その節はどうも。」
     少し間の抜けた挨拶。
     まじまじとカヴァの顔を観る。
     特に目を引くような目立つ顔立ちではない。どちらかと言えば普通の少年だ。しかし、どことなく泰然とした雰囲気が大人びて見せるのだろうか。
    「明日から練習だね。」
     廻りの若鳥たちを入れて、フライトの話が始まった。
     レースのコースのこと、天気の素養のこと、夏の遠征でのフライトのこと。お互いの情報個交換だ。
     でも勝負を左右する戦略のことは言わない。

     それは導者陣でも同様だった。
     この新人戦への気合の入れ方は、街によって温度差があった。
     プライドをかけている街や、年1回の行事として楽しめばよいと考えている街など、それぞれ引率してきた導者によってチームの雰囲気にも違いが表れていた。
     実は、崖街は毎年海街と優勝を争っていて、ここ10年間は崖街が連勝していた。
     クインツスは新人戦を率いるようになって3年ほどだが、あまりがつがつしている様子は見られない。いつも通り冷静に見受けられる。
     一方で、海街の導者ビエルスコは、優勝を奪取すべく相当張り切っていると聞く。20年に一度の逸材と噂されているカヴァを手に入れたのだ、無理もない。
     導者たちの間では、選手である若鳥たちよりも露骨に作戦の探り合いがおこなわれていた。
     どういう天気になったら、どの経路を飛ばせるのか。相手はどのくらいコースの詳細を把握しているのか。各街の鳥人族には過去飛んだ経験の蓄積がある。山の高さやどこにどのような地形があるか、どこにサーマルリフトのトリガーとなる場所があるか、どのようなときにどの方向に風が吹くか、それらの情報は、地図に細かく記載されていて、競技会の勝敗を左右する。それぞれの最大の秘密である。いずれにしてもその地図は、他の街の鳥人族に見せることは決してない。
     
     カヴァ本人はどうか。
     ヒワはカヴァの表情を探ってみる。
     特に不安な様子はないような気がする。緊張をしているのか否かは、普段のカヴァの様子を知っているわけではないヒワにはわからない。
     カヴァはヒワたちとの夏の後、どんなフライトをしたのか、楽しそうに話している。大抵アジサシのハッカとイータと一緒に飛んだようだ。
    -この人は本当に飛ぶのが好きなんだ。
     ヒワはつくづくそう思う。
     鳥人の中でも「鳥使い」たちは、自分の使い鳥と行動することが多いが、カヴァやヒワのように、鳥人になりたての者はいつも同伴しているわけではない。ましてや、このような競技会に連れてきている者はいないだろう。
    「ヒワの使い鳥はなんて言ったっけ、元気?」
    「アステア。でもあの子はまだ私の使い鳥といえるほど、心を開いてくれてはいないわ。」
     ヒワはアステアだけではなく、小鳥やタカなどさまざまな鳥と会話することができる。実は一羽の使い鳥と行動する者が多い鳥使いの中では異色の存在だった。

    打ち合わせブリーフィング

     その夜、崖街の鳥人たちはクインツスの部屋に集まって、明日からの練習フライトの打ち合わせをした。
     まず、システロンの天気読みの予報がすでに出ていて、日程の確認と天気の予想をアルシノエが話した。鳥人族はその職務上、気圧の変化や風に敏感でなくてはならず、若鳥たちの指導者になる者は特に鋭い感覚を持っている。クインツスとアルシノエも優れた予報能力を持っており、それらの情報を総合すると、これからの練習日は若干崩れる日もあるかも知れないが、おおむね安定した条件が続くと予想されるそうだ。ただ、1週間後の本戦日まで持つかどうかはわからない。
     そして、うやうやしく広げられたのが、崖街に伝わる秘密の地図だ。
    「百年以上前から、わが街の鳥人族が受け継いできたものだ。」
     1米メートル四方の地図は、古都を中心に描かれており、西はイバラから東はシュマリナイ湖まで入っている。巨大な湖であるシュマリナイの上空には浮島があるはずだが、そこは空白となっている。
     シュマリナイから南に流れ出たセタ河が大きく西へと進路を変え、古都の南方を西向きに流れた後、西山にぶつかると今度は南へ向かい、システロンから南西へと流れ出る。
     地図上には驚くほど細かい文字で余白がないほど様々情報が書き込まれていた。
    「書き込む場所がなくなったら、新しく地図を更新するというわけだ。
     それでこれは30年以上たっている。」
     苦笑しながらクインツスが呟く。
    「出発点はここだ。」
     今、ヒワたちがいる宿所から少し離れたところに印を示しながらクインツスが言った。
    「旅鳥は宿舎前の広場から飛び立つことが普通だが、新人戦ではどちらの風向きでも楽に離陸できる丘の上の発着場を使う。
     今回は安全上、参加者が一度に飛び立たず、街ごとの順番で離陸することになっている。本戦では、競技者が全員飛び立ったら地上から出発の合図ののろしが上がるので、それまで上空で待機となる。練習日はのろしは無い。」
     地図の右側のセタと書かれた場所を指しながら続ける。
    「ここが目的地ゴールのセタ。湖から河が流れ出るところに邑むらがあるが、そこから少し登ったところに発着場があるので、そこに降りればよい。」
    「問題は経路だ。本戦では主催者から課題タスクが指示される。旋回点が読み上げられ、その旋回点を順番通りに通過してゴールまでたどり着かなければならない。上空を通過すれば良い旋回点もあれば、一度着陸して記帳しなければならない旋回点もある。」
    「地図に年号と数字が記された場所があるだろう。例えば、この旋回点は5年前の新人戦で第三旋回点として指定されたところだ。着陸しなくてもよいところだが、その代わり地上に審判員がいて、その真上と前の旋回点の方向と次旋回点の方向とを結んだ角の外側を通過しなければならないことになっている。」
    「どのようなタスクが出ても、上昇流を拾えるように、地形は習熟しておく必要がある。試しに模擬演習シミュレーションしてみようか。」
     クインツスはアルシノエを見て言った。
    「アルシノエ。タスクを出してみて。」
    「最も簡単なタスクね。
     北西風1米メートル毎秒、第一旋回点はガプ、第ニ旋回点はブリヤール。」
     ヒワたちは、地図上で位置を確認する。ガプはシステロンを10粁キロメートル北上したところにあった。西山を辿っていけば良いので難しくなさそうだ。途中のサーマルリフトのトリガーになりそうな印も確認していく。ブリヤールは見つけにくかったが古都を渡って東山の麓にある丘だった。
    「皇宮の上空は飛行禁止になっているから迂回しなきゃいけない。」
     アルシノエが指摘した。
    「どう飛ぶ?」
     三人は考え込んだ。
    「皇宮の南を飛べば最短距離じゃない?」
     アヤハが言った。
    「ずっと街の上なので、リフトも発生しやすい?」
    「日射によるわね。」
     ヒワが返す。
    「日射が強ければ建物の屋根や広場で熱が発生するけれど、そうでなければあまり期待できない。」
    「それじゃ北の山の方を迂回する?」
     アトリが言った。
    「南向きの斜面だから、街よりは早く温まる可能性があるね。地図のトリガーの印も街中より多いし。」
     こうして到着した日の夜は更けていった。

    2.古都の飛び方

    練習1日目

     この日は若干霞んでいたが晴れていた。早朝に皆で丘の上まで観測しに行くと、他の街の鳥人たちも沢山いた。特に古都の鳥人の周りには人が集まっていた。やはり地元の強みで予報もあたりやすいのだろう。
     今日は練習には最適な穏やかな条件となりそうだ。
     大会のルールとして、導者は競技者と一緒に練習で飛んではいけないことになっている。地形習熟から自分たちの力で行なわなければならないのだ。いかに早く正確に条件を読み取ることができるか、すでにレースは始まっている。
     宿舎の大広間に戻ると、朝食が用意されていた。穀物の温かい粥と別の皿によそわれていたのは豆と野菜を醗酵させ、香辛料で煮たスープだった。匙で口に入れると、体中に元気が行き渡るような味だった。
     ヒワたちは食べながら話し合い、ひとまず初日はゴールのセタまで飛んでみるというタスクを設定した。
     ほぼ真っすぐ東へ、セタ河を遡っていけば達するはずだ。
     その計画をクインツスに告げ、地図を見せてもらって経路を入念に確認する。クインツスとアルシノエは何も言わず、若鳥たちが準備を進めるのを見守っていた。
     優勝することを第一とした街では、指導者がありったけの知識を動員して、事細かにその時のレースの秘策を授けるかも知れない。しかしクインツスはそうはせず、若鳥たちに自分自身の力で学ばせる方針のようだ。その方が失敗もするかも知れないが、自由にやりたいことを試すことができ、ヒワたちには心地よかった。

     午前11時、フライトが開始される。もう陽は高く昇り、地面は充分に暖まっている頃だ。
     吹流ウィンドソックしを確認する。風は弱い南風。システロンの南壁に当たった風が斜面上昇風となっているはずだ。
     しかし上空にはもやがかかっており、積雲は発生していない。
     ヒワたちは自分たちの順番になるとそれぞれが飛び立ち、上空でしばらく上昇気流を試した。システロンに到着した昨日、しっかり頭に刻み込んだ周辺の地形を再確認する。
     何とか弱い熱上昇流サーマルリフトをヒットし、ゆっくりと上昇する。高度を稼ぐと、周りを見回す余裕ができた。
     東の方向から河が流れてくる。セタ河だ。
    -これに沿って行けばいいんだ。
     上空から見ると、システロンの関所となっている対岸の崖は折れ曲がって南山へと連なっている。南山の東は広大な耕作地となっていて、陸稲や麦類など、古都を支える穀倉地帯であることが見て取れる。
     
     後から上がってきたアヤハとアトリが同高度に達したのを確認して、ヒワは言った。
    「行くよ。」
     自分でも高揚しているのが判る。
     競技レースの始まりだ。
     1200米メートルくらいの高度から東へとグライドを開始する。システロンの南峰に当たった上昇気流リフトは、河が流れる谷間を渡る時には途絶えた。南風は吹き抜ける風となって逆に強い沈下帯となる。想定の範囲内だ。
     三羽は速度を増して、対岸の壁を目指す。
    壁の上に来ると、再び斜面上昇流からコンバージェンスとなった上昇気流リフトを捉えることができた。
     旋回しながら高度を上げる。
     積雲はない。
     峰は南山となって南方へと延びているが、目指す方角は東だ。
     上昇率が落ちて来たので東進を始める。南山の向こうは広い盆地だ。南風はこの盆地をゆったりと吹いていき、上昇気流リフトを捉えることが難しくなった。
    作物が植わっている耕作地は湿っているため熱を放出しにくい。
     だんだん高度を失っていく。
    -どうしてだろう。
     その時、アトリが左方向を顔で示した。
     見ると、他の鳥人の一団がセタ河の向こう岸の辺りで旋回集団ガグルを形成している。
    -そうか。
     三羽は進路を左に変え、河を横断するコースを取った。
     河の上は沈下が大きかったが、渡り切ったあたりから、空気の沈みが少なくなってきた。そしてガンとリフトを感じた。
    -河岸段丘。
     セタ河は古都の盆地を南北に二分するように西へと流れている。河の水は地面を削りながら、盆地よりも低いところを流れている。水量の変化などで削られる速度に強弱が付くと河岸は階段状に形作られることになる。今日のように南からの風が吹くと、風は河を飛び越えて北側の岸にぶつかり、上向きとなる。つまり斜面上昇風の一種で、河の北岸に沿って上昇風帯が生じ、これに乗れば高度を失うことなく距離を稼ぐことができる。
     もっとも風がジャンプしたようなものなので、高く昇ることはできない。
     先ほど河を渡る前に見たガグルの一団は、河から離れた場所で、河岸上昇風ではなく、サーマルリフトを見つけたのであろう。
     河が真っすぐで南風が安定して吹いているならば楽なのだが、河はうねっていておまけに一定の風が吹いているわけではない。
     ヒワたちは、河に沿って飛びながら、サーマルリフトにトリガーになりそうな地面を必死に探した。
    -翼慣らしのつもりだったけど、これほど苦戦するとは・・・
     今朝見た地図では、河に沿って農民たちの邑むらが点在していることが記されていた。北岸にやや大きめの集落を認めた。これならばむき出しの地面や屋根に当たって生ずる熱が期待できる。
     その邑が真横アビームの位置になるまで川に沿って河岸段丘のリフトを使って飛び、そして三羽揃って鮮やかに変針した。
    -我ながら見事な動きだ、
     と最後尾を飛んでいたアトリは思った。
     邑むらの上空に来ると、予想した通りサーマルリフトを感じることができた。しかし邑人の顔がはっきりとわかるほど高度が低いので、リフトはまとまっておらず、三羽はそれぞれ苦労しながら少しずつ高度を上げていくしかなかった。
     ある程度高度を回復した後、より強いサーマルリフトがありそうな場所を探した。耕作地でも比較的乾いた場所とそうでない場所では温度差ができるため、トリガーとなり得る。
    -これも練習ね。
     ヒワは思った。場数を重ねていくしかないのだ。崖街周辺にも耕作地はあるが、むしろ草原の方が多い。この場所で飛び慣れている古都の鳥人は地の利という点でも圧倒的に有利だ。
    -だから余裕を感じられるんだわ。
     
     なんとなく、ペースがつかめてきた。三羽はお互いにリフトを探り合いながら東を目指す。単純に飛行速度を早くするためには急降下ダイブすれば良い。しかしソアリングの速さは、上昇気流で高度を上げる時間と滑空して距離を飛ぶ時間を合わせた時間で飛んだ距離を割ることで計算される「平均速度」だ。
     したがって、早くリフトを見つけ、早く高度を稼ぎ、失高を少なくして早く距離を進むことの組み合わせをいかに効率よく繰り返せるかによって「速さ」が変わってくる。

     ようやく古都の盆地の中ほどまでに達した。とは言えリフトの上限は1000米メートルに満たないため、平均速度が上がらない。精神的にも苦しい時間を耐えなくてはならない。
     積雲も相変わらず、ない。
     これが競技会でなければ、途中で引き返すこともできるのだが、今日は目的地をセタとするタスクを設定しているため、断念してしまっては練習にならない。
     とにかく我慢して、相変わらず弱い上昇気流を捉まえては高度を上げ、上昇気流の上限まで上がり切ったら前へ進むしかない。
     渋い状況だ。
     それでも東の山塊が徐々に視界に入ってきた。山に入ればいくらか強いサーマルリフトを捉まえることができるだろう。
     予想通り、山に入ると南側斜面で、岩が露出しているところを探るとやや強いリフトを感じた。
    -やれやれ。これで少しは楽になるわ。
     すこし余裕ができて、思う。
    -今カヴァたちはどこを飛んでいるのかしら。
     海街の若鳥達も今日は練習飛行をしているはずだ。
     行き会わないところを見ると、自分たちとは別のルートを飛んでいると思われる。
    -気になるのは、勝ちたいから。
     自分に言い聞かせるように、前を見る。
     
     今飛んでいる山塊は、上空に弱々しい積雲が浮かんでいるものの、尾根筋が複雑に入り組んでいてはっきりせず、ヒワにとっては飛びにくい地形だった。その分、ところどころ予想もしなかったところにサーマルリフトが発生していた。難しい。
     崖街で飛んでいるときのように、尾根筋に沿って沈下の少ないところを探すよりは、むしろ真っすぐ飛ぶ方が上昇気流に当たるような気がする。
     
     そのとき、下方を北西の方角から近づいてくる鳥影があった。先ほど河を渡るときに対岸で廻っていた一団であろうか。いや二羽だ。上面が蒼い翼と銀の翼。カヴァとイータか?
     ヒワの胸が締め付けられるように、ドキドキと脈打ち始めた。
     二羽はヒワたちよりかなり低い高度で真っすぐ山の中に入ってきた。かなりの速度を出している。
     ちょうどサーマリングを始めたアヤハも気が付いたようだ。アトリに目配せをする。
     カヴァたちは、ヒワたちが上空でガグルを組んでいることに気が付いているはずだが、果たして速度を緩めもせず真っすぐ針路を変えることはなかった。
    -どこまで行くの?かなり高度が低い。
    まだ針路は変えない。銀の翼が数回羽ばたいた。
    はるか数粁キロメートル先、小さな窪地がある辺りで、二羽が巻き上げられるような感じで大きく翼を傾けると旋回に入り、驚くべき上昇率で昇っていく。
    -追いつかれてしまう。
     すぐさまヒワたちはサーマルアウトし、速度を上げて先へ進む。
     山塊が途切れているように見える、そこから流れでる河の岸辺が目的地だ。
    -カヴァよりもまだ先行してるわ。
     真っすぐ滑空していっては届かない距離だ。途中で沈下にはまったら大きく高度を浪費してしまう。
    -突っ込む。
     ヒワはアトリたちに合図をして、速度を上げてファイナルグライドに入った。
     二羽もあとに続く。
    -カヴァはどこ?
     カヴァの姿は見えない。
    -ままよ。
     さらに翼をすぼめ気味にして速度を上げる。
     
    -もうそろそろ湖が見えてきてもよいころだけど。
     それは唐突に現れた。
     今だ霞んでいるその先に、ヒワは、自分の視界にとてつもなく巨大な質量を持ったものが立ちはだかっていることに気づいた。浮島だ。
     まだ20粁キロメートルほどの距離がある。しかし絶対的な存在感を持ってそこに在った。正確には「浮いて」いた。
     話には聞いていた。
     太古の昔、巨大な岩の塊が地面から浮かび上がり、その場に留まった。岩は天にも達するほどの高さを持ち、岩壁を伝わって水が滝のように降り注ぎ、その水が溜まってシュマリナイの湖ができた。
     いつしか「浮島」と呼ばれるようになったが、中空に浮いているため船では近づけず、周りには結界が張られており、強烈な下降気流で覆われているため、鳥人でさえ近づくことができなかった。
     浮島の上部は窺うことはできないが、山が聳えているとか、平らな地面が広がっているという伝承が複数ある。誰も行ったことがないため、想像に任せるしかないのだ。
     次第にはっきりと見えてきた浮島の威容を目にしながら、湖に視線を転ずると、そこから流れ出る河を確認することができた。
     目的地のセタ邑むらだ。
     ところが、邑が徐々に遠く、すなわち見越し角が浅くなっていく。
     高度が足りないことを意味する。
    -まずい。よく地面を見て!
     反応したのは左翼を飛ぶアヤハだった。
     針路をわずかに左に向けると、その体ははじかれるように上昇していった。
     すかさずヒワとアトリも続く。
     ただし、旋回はしない。
     上昇率が弱くなったと感じた瞬間、針路を邑に戻し、突き進んでいった。
     これにより若干の高度が稼げたはずだ。
     もはや邑むらは視野の真ん中から動かない。
     そこからやや登ったところに、発着場らしき樹々がないなだらかな斜面が見えてきた。おなじみの吹流しウインドソックも見える。
     風向きを確認したが、微風のようだ。風に正対して順番に着陸した。

     しばしの休憩。
     今度は、システロンに戻らなければならない。しかし再び飛び立つのは苦労が要った。
     色んな方向から山が迫る湖尻の岸なので、風が安定しないのだ。
     懸命に羽ばたいて、何とか離陸する。
    -上昇気流を探して高度をとらなきゃ。
     河口の邑むらの上空で、弱い上昇気流リフトをようやく捉まえ、三羽はシュマリナイから流れ出る河に沿って南下し始めた。
     ほどなく渓谷となった辺りで、強い上昇気流を捉えることができた。
     十分に高度を取った三羽は、もと来た方向、西へ針路を取る。
     ほぼ同じ経路を辿るのは、サーマルリフトがあった場所を覚えているので、来るときに比べ心理的に楽だからだ。
     今日はずっと積雲が発生しないブルーサーマルだったが、三羽は復習をするように、地形とリフトを確認しながら順調に西への行程を辿って行った。

     システロンに着陸すると、すでに数組の鳥人たちが着陸していたし、ヒワたちの後からもぽつりぽつりと降りて来た。
     ヒワは無意識でカヴァの姿を探していた。まだ戻っていないようだ。
    「カヴァとイータだ。」
     アトリがちょうど着陸体勢に入った二羽を見つけた。
     海街の二羽は、崖街の三人のそばで優雅に引き起こしフレアをかけ着陸すると、三人のそばに歩いて来た。
    「やあ、どうだった?近くにいたよね?」
     カヴァが笑いかけながら言った。
     ヒワは一瞬見とれたが、笑顔を返すことができた。
    「低いところをかっとんで行っちゃったので大丈夫かなと思った。前に飛んだことがあるの?」
    「いいや、初めてさ。」
    「どこに上昇気流があるのか分かっているかのようだった。」
     イータがにやりと笑う。
    「カヴァにはわかるのよ。」
     二人は、セタ邑には着陸せず、さらに北の方を廻ってきたようだ。

     今日は、まだ夕食まで時間がある。そこここで、今日のフライトの様子を語り合う輪ができていた。
    そうこうしているうちに、それぞれの導者が若鳥たちを呼びに来た。飛行後反省会デブリーフィングをやってしまおうという算段らしい。 
    「今日は、翼試しとしては上々といえよう。」
     三人からあらかたの報告を聞いてクインツスが言った。
    「カヴァか・・・・」
     考え込むように呟く。
    「やはりただものではないね。」
     アルシノエが頷く。
     そして続けた。
    「システロンからセタまでは、直線距離で50粁キロメートル。
     競技会本番のタスクでは、旋回点が北や南に振られる可能性があるから、明日からの練習フライトでは、色んなタスクを設定してみましょう。」

    練習4日目 ノーフライト

     
     昨日の練習フライトでは北へ行った。
     古都の周りを巡るルートだ。
     古都は西山、北山、東山に囲まれているため、風向きを考えて探せば、良好なサーマルトリガーをいくつも確認することができた。 
     ただ、リフトの目印になる積雲に勢いはなく、雲底は800米メートルと低く、かつ疎らだった。
     午後から北風となり、サーマルリフトが死んでしまったため、途中で降りた若鳥たちも出たようだ。
     ヒワは風向きの変化に気づいたため、早めに戻ることができた。
     夕方から雨が降り始めた。
     そして4日目は休息日となった。

     鳥人の翼は撥水機能がある素材で創られているため、濡れることで飛べなくなるわけではない。急ぐ旅や伝令の仕事では雨天でも飛ぶことも多い。
     しかし、若鳥たちに雨天の飛行を強いるのは酷ということで、ほとんどのチームは飛ばないこととした。視程も良くなく、ごく少数のチームはそれでもフライトを試みたようだが、すぐに戻ってきた。
     
     街々の鳥人が属している役所には、「天気読み」という役人がいる。
     この役職は、代々その能力を引き継いできた家系に与えられるもので、過去の記録やその時の気圧や気温、湿度から、今後の気象を予知することができる者たちだ。
     天気の影響を受ける鳥人たちには、なくてはならない存在である。
     雨はしとしと降り続いている。
     システロンの天気読みは、この雨は明日には止むという予報を出した。

     簡単な説明会ブリーフィングがあった後、自由時間となった。
     皆、宿所の広間やデッキで思い思いに時間を過ごしている。数人でおしゃべりに講じている者もいれば、手紙だろうか、ひとり書きものをしている者もいる。
     ヒワは所在なげに宿舎の回廊を歩いていた。
     内庭を囲むように屋根が架かった回廊には、ところどころ長椅子が置かれ、庭の草木を眺めながら寛ぐことができた。
     そこにひたひたと雨が降っている。
     広間からやや離れたあまり人気のない回廊の角を曲がったとき、ヒワはカヴァが庭を見ながら佇んでいるのを見つけた。
     途端に心臓が高鳴った。
     カヴァの視線の先には、中庭に植わっているミモザがあった。ちょうど黄色い花が満開だ。
     声を掛けようか、このまま引き返そうかと逡巡したのは、それほど長い時間ではなかったはずだ。
     しかし、決断するよりも早くカヴァはゆっくりとこちらを振り向いた。
    「やあ、ヒワ。」
    「お、お邪魔だったかしら?」
    「いや、全然。」
     何を話していいかわからない。
     沈黙が目をさまよわせる。
    「イータは?」
     何とか話題を見つけた。
    「部屋。」
    「ひとりにしちゃっているの?」
    「いつも一緒ってわけじゃないさ。」
    「ふーん。」
     言葉が続かない。
    「いいとこね、古都。」
    「そうかな。ぼくには海がみえないところは落ち着かない。」
    「翔んでいないときは何してるの?」
    「海を観てる・・・かな。」
    -たどたどしい会話だ。

     その後、何を話したか覚えていない。
     でもまとまった時間、話せただけでもうれしかった。
     ヒワが上機嫌で部屋に戻ったとき、アヤハは部屋に居なかった。
    -その方が都合がいい。
    アヤハにはすぐに勘づかれそうだからだ。

    3.不運な出来事

    練習5日目

     その日、ヒワたちは順調にサーマルリフトで高度を稼いでいた。
     今日は湿度も低く、高い位置に積雲が出始めている。2000米メートルは超えそうだ。
     少し離れた場所で別のチームの鳥人たちがガグルを組んでいた。
     灰色がかった青色の羽根に、それぞれ違う白い模様が入っている翼で識別できる三羽で、お互いの距離を気にしながら旋回に集中していることが良く判る。
     高度はヒワたちの方が高い。
     と、そこへ低い高度で別の編隊が真っすぐ滑空して近づいてきた。黒の羽根に黄色の線が入っている一羽とこげ茶色に緑の模様の一羽で、かなりの速度で突っ込んでくる。
     三羽のガグルに入ろうとしているのか、それとも気が付ていないのか。
     ヒワが注視していると、二羽の編隊は速度を緩めることなく、三羽のガグルに突っ込んでいった。
     通常、ガグルが形成されているサーマルリフトに合流エントリーする時には、速度を十分殺して、先行の邪魔にならないようにするのが礼儀である。
    -彼ら、気が付いていない!
     アヤハとアトリにも緊張が走るのが判る。
     はたして、突入した二羽は上昇気流に持ち上げられ、速度を保ったまま上昇を始めた。三羽のうち、高い高度にいた二羽と急速に高度差がなくなっていく。
     ようやく気付いた鳥人たちが、回避行動をとる。
     先頭を飛んでいた黒の翼はからくも一番高いところを旋回していた鳥人をかわすことができた。
     しかし後を飛んでいたこげ茶色の翼の鳥は、真ん中の高度を飛んでいた鳥人に後ろから激しく衝突した。
     ヒワたちは息を呑んだ。
     追突された鳥人は意識を失ったかのように力なく墜落していく。ぶつかった方は、羽ばたこうとするが、翼が折れたのだろう、変な風に折れ曲がった翼は左右のバランスを保つことができず錐もみ状態で落ちていく。
     一部始終を見ていたヒワたちは、アヤハがシステロンに連絡のため戻り、ヒワはアトリと一緒に絶望的な気持ちで墜落地点に向かった。
     現場の草原に着陸する。
     直前に着陸した彼らのチームメイトたちが呆然と佇んでいた。
     二人は、地上に墜ちた若鳥たちを目の当たりにし、強い衝撃を受けた。
     二羽の鳥人たちは助からなかった。ヒワたちにはどうすることもできなかった。
     その間、ただ寄り添うことしかできなかった。だれも声を発せず沈黙だけが過ぎていった。
     日が暮れるころ、連絡を受けた運営局である古都の導者たちと当事者の街の導者たちが現場に駆けつけ、事後処理を行なった。

     翌日は喪に服すため、ノーフライトとなった。

    本戦前日


     
    いよいよ明日が本番だ。
     決勝戦は一発勝負であるため、いやでも緊張が増してくる。
     事故の日の出来事も心にのしかかる。
     本番前日の飛び方は二種類ある。体力を温存して軽い調整ですませるか、本番さながらに攻めるかだ。気象条件が同じとは限らないため、あまりリスクをとっても本番に活かされないという考え方も理にかなってはいる。しかし、心身を本番に備えて合わせて来た若鳥の身になってみれば、もうレースが始まっているとして緊張感を維持させる作戦も捨てがたい。
     どちらの作戦を取るかは導者の裁量次第なのだが、クインツスとアルシノエは、ヒワたち自身の判断に任せようとしていた。
     こちらに来てから、カヴァの属する海街に強烈な対抗心を持ち始めたヒワたちは、本番と思って今日のフライトを行なうことを宣言した。
     二人の導者たちは、微笑んで頷いた。
     アルシノエが言った。
    「明日があるからね、無理はするな。」
    「タスクを設定してもらえますか?」
     アトリが言った。
     これまでの練習では、自分たちでタスクを設定した日もあったが、何回かはクインツスかアルシノエに設定してもらっていた。自分たちだけで設定したタスクを飛ぶと、無意識のうちに飛びやすそうなコースを選ぶ可能性があるからだ。
     クインツスがアルシノエに頷くと、アルシノエはしばらく考えた。
     そして、
    「今日はジグザグ。
     第一旋回点は南のコーリ邑むら。第二は・・・そうね、キセン山の修道院、第三はシンラ峠。」
     無理はするなと言いつつも、これまでの最長距離だ。
     言い出しっぺのアトリの顔が少々ひきつっていることに、ヒワが気づいた。

    「どうする?」
     発着場への路を登りながら、アヤハが呟いた。
    「やるしかないでしょ。」
    「そうよね。」
     飛び切りの笑顔でアヤハが頷く。
    「やれるわよ。」
     
     発着場に立ってみると、弱い南東風が吹いていた。
     第一旋回点のコーリは、ここから南の方角、西山の西側の山麓にある。風向きが微妙だが、山からはやや離れているので、第一区間レグは難しくはないであろう。もし東風で南山に近ければ、山を越えてくる風がダウンウォッシュとなって飛びにくいことになる。
     問題は第二区間レグだ。最も長い距離であるとともに古都の上空を縦断するコースとなっている。もちろん皇宮の上空は飛行禁止区域となっているため、西か東を迂回して、北山のキセン山中にある修道院を目指さなくてはならない。
     そこさえクリアすれば、地面が十分に暖まっている頃なので、東山の稜線に沿って楽に南下リッジ・ランできるはずだ。シンラ峠は、シュマリナイ湖から東へ抜ける街道の峠で、交通の要衝として知られる。
     
    -カヴァはどこを飛ぶのだろう。
     発着場へ向かう途中、やはりカヴァのことが頭に浮かんだ。
    「カヴァとイータだわ。」
     アヤハが翼を振った。
     20米メートルほど離れたところに、二羽はいた。まさに離陸しようとしていた。
     向こうもにこやかに翼を上げて応える。
     カヴァと目が合ったヒワは、なぜか目を逸らしてしまった。
     二羽は先に離陸していった。
     彼らに続き、崖街の三羽は南にあるはずのコーリの方角を見据えて飛び立った。

     先行するカヴァとイータの後ろ姿を追って羽ばたきながら、ヒワは想う。
    -今まで地形、風向き、太陽の方向、日射を見て、頭で考えて、どこに上昇気流が発生しそうなのかを推測して、その場所に行っていた。
    -でも、何回かカヴァの飛び方を見たり、後を追ったりしていたら、何だか感覚的に、吸い寄せられるように上昇気流のある場所に行けるようになった気がする。
    -カヴァを追ううちに、風が見えるようになった?そんなことがあるんだろうか。他の鳥人はどうなんだろう。アヤハとアトリに後で聞いてみよう。

     どうも最初、カヴァたちは同じルートを飛ぶようだ。南に向かっている。発着場から続く尾根は、すぐ東でセタ河を渡る。セタ河を越すと、尾根は東から南へ折れ曲がっている。河は真南に流れ出るが、ほどなくして南西方向へと湾曲していく。
     発着場から南へ向かうと、平地を飛ぶことになる。針路を東に取り南に向かう南山の尾根に取りつく作戦は、午前中、西斜面では日射が弱い可能性が高い。
     そこで羽ばたきながら平地を飛ぶことにした。カヴァたちも同じ考えのようだ。
    -でも。
     ふと、もわっとした予兆を感じて、寄ってみる。
    -こっちで呼んでいるみたい。
    突然、持ち上げサージ感があった。前兆の雲パフはない。
    -この”むずむず感”ね。
     体をしっかりとサーマルコアに入れながらヒワは直感した。

     その後、カヴァたちは途中で東針して南山を越えていった。別のコースとなったようだ。ここからは、カヴァを頼ることはできないということだ。
     コーリの邑むらが見えて来た。この辺りの地形は、農地や用水路、空き地などが複雑に入り混じっていて、サーマルリフトのトリガーが豊富だ。
     ヒワは ”むずむず感”に従うように、順調に上昇気流をヒットしていった。
     第二区間レグは、南山の東斜面に沿って北上し、古都の市街地を突っ切るショートカットするコースを取った。風は強くはなかったが南風に変わり、山際より平地で上昇気流が期待できると感じたためだ。皇宮を東に迂回することになる。
     古都は改めて見ても荘厳だ。広い路は規則正しく碁盤の目のように通っている。建物は石造りの壁が燻し銀の屋根を支える構造だ。
     古都の上空には、伝令として通常業務を務めているらしい大人の鳥人が何羽か飛んでいた。古都にある様々な役所間を飛ぶには、そんなに距離はないので、低空を羽ばたきながら飛んでいるようだが、他の街への伝令は上昇気流を使って比較的高い高度を飛ぶはずだ。
     当然、その飛び方は古都を熟知しているだけに無駄なく速い。
     古都の上空に積雲はなかったが、ヒワは針路上に旋回サーマリングをしている鳥人を見つけると、よく観察しその経路を辿って行った。
     そんななか、ヒワたちが三羽でガグルを組んでいるとき、同高度にいたアヤハが叫んだ。
    「ヒワ、なんか今日は調子がいいね。一皮むけたみたい。」
    -そうかも知れない。
    -私は空気の動きを感じられる。風が読めるんだ。
     ヒワは、アヤハに片目をつぶると離脱サーマルアウトした。
     しばらく前まで上昇気流サーマルリフトの上限まで昇ってから滑空飛行へと移っていたが、このところ、少しでも上昇率が悪くなったと感じたら、もしくは次のリフトまでいけそうな気がしたら、上がり切らなくても躊躇なくサーマルアウトして前へ進むようになってきた。
     地上に目を転じると、大きな建物とそれをとりまくいくつもの中小の建物が、美しく整然と並んだ区画が見えて来た。皇宮おうきゅうだ。古都の中でも威容を誇っている。
     ヒワは、皇宮を左手下方に見ながら、王宮から数粁キロメートル離れた北山の山塊を目指す。
     皇宮では、守護の鳥人の一団が絶え間なく上空を警戒しているはずだ。当然、近傍を飛ぶヒワたちも監視されていることだろう。
     若鳥たちの大会が開催されることは、情報として伝えられているはずで、少なくとも皇宮の上空には何の動きも見られない。
     一羽の鳥人が王宮の区画の縁にある発着場に入っていく。外見からして、あれは通常の伝令だろう。
     守護を司る鳥人は、古都の鳥人族の中から特に選抜されていて、守護鳥と呼ばれる。ほとんどが猛禽類の翼を着て、機動性が高い飛び方を得意とし、武装している。あるものは鋭い蹴爪をつけ、あるものは翼に鍵爪をつけ、あるものは保護帽に角をつけて空中で戦うことができる。空から王宮に侵入しようとするものたちを防ぐのが任務なのだが、空中で飛びながらたたかうのは大変な技量が必要でかつ危険でもあった。
     だが、ここ数百年は街同士の戦はなく、平安が保たれていた。王宮に侵入しようとする不心得ものはいないではなかったが、十年に一羽といったところかも知れない。
     しかしこういった事情は、平和な現在に育ったヒワたちには知る由もない。
    -第二旋回点はキセン山の修道院。どこ?
     地図を記憶から頭の中に呼び出す。
     今、ヒワたちは皇宮の東側、王宮の北辺を東西に延びる街路を越えた辺りだ。その街路あたりで二本の川が合流し、南へ流れているのが確認できた。二本の川の合流点から真北へいくと、キセン山に至るはずだ。
     はたして北方に見えるいくつかの山の一つの山麓に、はっきりとした伽藍が見えた。修道院だ。

     上空に近づくと、修道僧たちが修道院のあちこちでそぞろ歩いているのが見えた。中の何人かは上空のヒワたちに気づき、手を振ってくれるものもいた。
     ここは旋回点なので、第三区間レグへ向けて針路をとることとし、東山へ向け速度を上げた。一度着陸すれば、再度離陸するのに体力を消耗する。本戦の前日なのでそれは避けたい。
     東山脈は、古都の遥か北方に端を発し、古都とシュマリナイの湖を分けるように南方へ延びている。古都の東で標高は2000米メートルを越える急峻な峰々が続き、セタ河を越えて南側では徐々に標高を下げてなだらかになっていた。
     キセン山と東山の間は、深い谷となっている。
     途中でサーマルリフトを拾って、高度を上げ、東山に取りつきさえすれば、稜線上を楽に南へ辿れるはずだ。ところが、谷の中ほどまで来ても空気の動きはほとんどなく、上昇気流を感じることはなかった。不安を感じながらさらに東山に近づいてみたが、むしろ沈下している。
    -東山の高い稜線が日射を妨げ、西斜面が温まっていないんだ。
     ヒワは、先ほどの「風を読める」との自信が単なるうぬぼれにしか過ぎなかったことを恥じた。
     下降気流が強まり、高度はどんどん下がってくる。
     ここで羽ばたいて高度を上げる手があったが、体力が持たないかも知れない。
     ヒワは、横を飛ぶ二羽に合図を送り、針路を反転し戻り始めた。
     修道院からやや下った場所に、開けた草地の斜面があった。その上まで行ってみたが、やはり上昇気流はない。
    「降りるよ!」
     ヒワは叫んで、着陸の準備をした。
    -風向きは?
    -東南東、斜面の下から上へ。
     この場合、アプローチは斜面の上から下に向かうことになる。
     ヒワは大きく旋回し、草地のある斜面の上方にある樹々に注意をしながら、樹のてっぺんギリギリをかすめるようにして草地に進入した。翼を立て速度を殺すとともに揚力を維持する。いつもの平地での着陸とは違い、地面は下がっていくので、揚力を維持しないと失速する恐れがあるのだ。
     なかなか地面が近づかない。 
     やや前進速度を残しながら、接地すると数歩走らなければならなかった。
     後から着陸する二羽のため、速やかに場所を空ける。
     アヤハ、アトリと続いて降りて来た。
    「どうしちゃったの?」とアヤハ。
    「谷渡りに失敗しちゃった。読み誤ったの。ごめん。」
    「まあ、こんなこともあるよ。練習だし。少し休もう。」
     アトリが空気を和ませる。
     三人は翼を脱ぎ、懐に入れていた水筒と糧食を取り出した。
     他の街を目指す長距離飛行クロスカントリーフライトでは、革袋の水筒から柔軟なチューブを口元まで伸ばして、飛んでいるときでも水を飲むことができるようにしている。脱水症の予防のためだ。今回の新人戦はそれほど長距離のタスクという訳ではないが、大会を終えると実際に伝令として大人の仲間入りをすることになるため、伝令と同じ装備で飛ぶことが求められている。
     糧食は、糒ほしいやドライフルーツなど、何らかの事情で人里離れた場所に降りてしまった場合、エネルギー補給のために少量ずつ携帯している。それぞれ好きなものを選ぶことが多く、今日は、ヒワは乾燥あんず、アヤハはデーツ、アトリは雑穀を固めた糒ほしいを持ってきた。
     三人で食べていると、草原の向こうから人がやってくる気配がした。見ると草木色の僧服に身を包んだ壮年の男性が二人、こちらに歩んでくる。明らかに修道僧だ。
    「こんにちは。」
     三人は立ち上がって礼をした。
    「やあ、お若い方々、お邪魔だったかな。」
     美しい刺繍がされた灰色の僧帽を被った、年かさの穏やかな顔立ちの一人が言った。
    「何かお手伝いできることはないですかな。」
     アヤハがにっこりと笑って言った。
    「お気にかけていただきありがとうございます。わざわざ修道院から出てきてくださったのですか?でも私たちはすぐに飛び立ちますので、大丈夫です。」
     二人の僧はそれを聞いて破顔した。
    「それを聞いて安心しました。いや麓の街へ用事があってちょうど外に出たときに皆さんが降りるのを見たものですから。」
     ひとしきり他愛のない会話が続いた。
    「皆さんはどちらの街の若鳥ですか?」
    もう一人の僧が訊いた。こちらはやや若く、やはり色は異なるが、やや明るい色の刺繍がされた僧帽を被っていた。
    「崖街です。」
     それを聞いて、年長の僧が何かを思いだそうとするようにつぶやいた。
    「崖街。」
     しばらく考えてから言った。
    「だいぶ前に、崖街から来た鳥人がこの修道院に伝令を届けてくれたことがありましたな。でもその方は、次の街に向かって飛び立ち、それっきり行方知れずになってしまった。」
     はっとしたようにアトリが訊いた。
    「その人の名前を憶えていますか?」
     二人の僧は顔を見合わせた。
    「さあ・・・」
     恐る恐るといった感じでアトリが呟くように訊いた。
    「ひょっとしてアルクス?」
    「そう、アルクス様。灰黄茶色に黄色の線が入った翼を着ていらしたと記憶しています。」
     アトリが泣きそうな表情になった。
    「僕の父です。」
     ヒワとアヤハが顔を見合わせる。二人の僧が驚いたようなそぶりを見せた。
    「お父上か!」
    「父はどちらへ向かったのでしょう?」
    「はっきりはおっしゃいませんでしたが、クレパンという街がある方向だったと思います。シュマリナイの湖を越してさらに十日ほどかかる。」
     アトリの表情に微妙な変化が表れたのを、ヒワは見逃さなかった。

     三羽は修道僧たちを見送って、再び飛び立った。
     太陽は正中を過ぎ、東山の西斜面を照らしている。先ほど着陸した時とは打って変わって、そこここにサーマルリフトが発生していた。東山脈へは中腹の高度で到達したが、斜面上昇風が働いており、そこから容易に西斜面を駆け上がることができた。
     稜線を越えると、目に飛び込んできたのは浮島の威容だ。浮島の下のシュマリナイの湖もはっきり視界に入ってきた。
     上昇気流は東斜面からの上昇風と合わさり収束風コンバージェンスとなり、より強くなった。
    -充分だ。
     三羽は稜線上を南へ急いだ。稜線に沿って安定したリフトが続いている。旋回することも羽ばたくこともなく進むことができる。リッジ・ランだ。
     あっという間に皇宮が右手真横アビームとなった。この辺りから東山の標高は低くなっていき、すこし先でセタ河が山脈を横切る。
     ヒワは頭の中の地図と下に見える地形を照合し、第三旋回点のシンラ峠を探す。
    -あった。
     かなりわかりにくいが、東山からシュマリナイの湖に沿うように分かれて東に延びている山脈の途中に、山の低くなった場所を通っている街道が見えた。そこが峠だ。
     先ほどから、ヒワはアトリの様子が気になっていた。
     修道僧からアトリの父、アルクスの名前を聞いてから、気もそぞろという感じで、かろうじて付いてきている状況だ。
     ヒワはシンラ峠をクリアしてから、最短経路でゴールのセタをクリアすると、アトリに気を配りながら、システロンへの帰路を取った。
     
     その夜、ヒワはアルシノエの部屋を訪ねた。
     扉をたたくと、アルシノエが顔を出した。
    「あら、ヒワ。どうしたの?」
    「お邪魔でしたでしょうか?」
    「いいえ、今本をよんでいたところ。」
     アルシノエはヒワを部屋の中に招き入れた。旅の宿とはいえ、きれいに整頓されていた。
    「言おうかどうしようか迷ったのですが、お話した方が良いと思って・・・」
    「なに?」
    「今日のデブリーフィングで、キセンの修道院の修道士さまにお会いしたと話しました。その時アトリは言いませんでしたが、修道士さまからアトリのお父様のお話があったのです。」
     そこまで聞いてアルシノエは、
    「ちょっと待って。クインツスにも聞いてもらった方が良いかも。」
     と言って、二人はクインツスの部屋の扉をたたいた。
     二人の顔を見るなり、クインツスは黙って部屋の中に通した。アルシノエの部屋と同様、几帳面に片づけられた部屋だった。
     アルシノエが口を開いた。
    「アルクス様のこと。」
     アルシノエがヒワに顔を向けうなずくと、ヒワはキセン山でのやり取りについて話した。ヒワの話を聞くと、クインツスとアルシノエはしばし考え込んだ。
    「キセンから北へ向かわれたか。確かめてみる価値はあるな。」
     ヒワが訊いた。
    「いったい・・・」
    「アトリの父上のアルクス様は、10年ほど前に、崖街の長老からの密書を持って皇宮へ伝令に向かったきり戻らなかった。のちに皇宮に問い合わせても返事はなかったのだ。密書の中身は我々も知らない。
     キセンに立ち寄ってさらにクレパンに向かったということは、皇宮から何らかの使命を与えられたことを意味する。」
    「崖街の密書と関係があるのでしょうか?」
    とアルシノエ。
    「伝令は基本的に所属する街の仕事だからな。王宮とはいえ全く関係がない仕事を請け負ったとは考えにくい。」
     クインツスは慎重に答えた。ヒワの方を向いて言った。
    「アトリの様子が気になっているのだろう、ヒワ。」
    「はい、普通を装っているようですが、時々、上の空になります。」
    「ふむ。レースに影響するかも知れんな。
     我々にとって、揃って崖街に帰還することが最も大切だ。勝敗よりも無事ゴールできることを優先しなければ。」
    ヒワの目を見ていった。
    「無理はするな。」

    4.いざ本戦

    タスク

     当日の朝がやってきた。
    なんといっても、一発勝負なので、おそらく参加者全員が緊張しているはずだ。
     朝の空気は昨日より冷たい。
     寒気が入っているようだ。このような条件の日は、地面付近と上空の気温差が大きいほど大気が不安定になり、日射があれば対流が強くなりやすい。日射により地面で温められた空気がより高くまで昇るため、良好なサーマルリフトが期待できる。
     しっかり朝食をとった若鳥達は、宿所の広間で早くから翼を装着し、調整に余念がない。
     緊張した面持ちで落ち着きがない者や、緊張を隠そうとするかのように明るくふるまう者もいる。
     崖街の三羽は、どちらかというと冷静に見えただろう。お互いに言葉少なく、黙々と準備を進めていた。
     ヒワはカヴァの姿を探した。
     少し離れた場所で、イータと一緒にやはり黙々と準備を進めていた。
     緊張しているようには見受けられない。
     カヴァがふと顔を上げ、ヒワと目が合った。
     どきんと胸が高鳴った。
     それでもヒワは、にこっとカヴァに笑顔を送ることができた。
     カヴァも微笑み、すぐに準備に戻った。

     各街からは二~三羽から成るチームが来ているが、本戦では、チームの中のだれか一人でも早くゴールすれば順位が付く。チームの人数は勝敗に影響はない。従って、全員が一緒にゴールする必要はなく、遅い者は置いてきぼりにしてしまっても良いのだ。チームフライトをする利点は、複数羽が広い範囲で上昇気流を探すことができるということだ。
     また、先頭の斜め後ろに二羽目が占位し、そのさらに斜め後ろに三羽目が占位するエシュロンという編隊を組むと、後ろの鳥が前を飛ぶ羽根の翼端流に乗ることで空気抵抗を減らすこともできる。疲労を遅らせることになる。
     
     そろそろタスクが発表される頃だ。
     奥の扉が開き、競技会の運営委員長であるクレンを先頭に数名の鳥人が入室した。クレンは金糸が縫い込まれた槐色の儀礼用の長衣を羽織っている。
    「若鳥の皆さん、おはよう。いよいよ本戦の日がやってきました。」
    とクレン。
    「精霊のご加護により、これまでの精進が結果に結びつきますよう。」
     広間を見渡して、
    「ではタスクを発表してもらいます。」
     後ろに控えていた、導者らしい鳥人が進み出た。こちらは軽やかな赤紫の、やはり金糸が散りばめられた翼を羽織っている。
    「おはよう、ティロと言います。では、|飛行経路<タスク>を発表します。」
     広間に居る皆が息を呑んだ。
    「第一旋回点は、ヴィノン役場、カザキ山麓、南東35粁キロメートル。第二旋回点は、クソン山頂、タンバ高地、北23粁キロメートル、第三旋回点は、エクラン、東山の尾根にある鐘楼、北東30粁キロメートル。
     ゴールはセタ」
     広間にどよめきが起こる。
     新人戦のタスクとしては大きなものだったからだ。各チームで地図を確認し始めた。
     合計すると100粁キロメートルに及ぶ。競技規定では、出発点のシステロンから各旋回点へは、最大で35粁キロメートル内とされているため、新人戦ということに配慮されているタスク設定ではある。もし不測の事態でどこかへ降りてしまっても、その日のうちに救助へ向かうことが可能だ。
     これまでの練習フライトで、それぞれの旋回点、またはその近傍へは飛んだことがあるチームは安堵の表情を浮かべていた。
     ヒワたちはと言えば、北の第二、第三旋回点の近くまでは飛んだことはあったが、今回最も遠い第一旋回点までは行ったことがない。そこへのコース取りが課題となろう。
     運営側の天気読みが広間に入ってきた。
    「現在の状況、弱い南風、卓越視程は50粁キロメートル。我々の予測だと、昼前に北西風となる可能性が高い。離陸開始は10時。」
     卓越視程とは、観測者から周りを見渡して、半分以上の方角で見通せる最大の距離のことである。ある方角で「もや」がかかって5粁キロメートルしか見通せなくても、その他で20粁キロメートル以上見通せられれば卓越視程は20粁キロメートルとなる。50粁キロメートルはとても空気が澄んでいることを意味する。

     若鳥たち選手は、それぞれの地図でコースを確認すると、チームごとにぞろぞろと宿所の建物をでて、発着場へと向かった。説明通り、空は晴れ渡っており、すべての方角が遠くまで見通せた。
     刷毛雲パフもすでにぽつぽつと発生し始めている。

     ヒワは、第一旋回点ヴィノンの南東の方角に目を凝らした。そちらの方角にあるカサギ山系は南山の向こうにあるので、この場所から見ることはできなかった。
     頭の中に地図を思い出しながら、アトリとアヤハに相談する。
    「昨日は南東風だったけど、今、南風だよね。昨日のように一旦コーリを目指して、南山を越す?」
    「東風成分が少ないので、最初から南山の尾根に取りついて南下すれば?」
    アヤハが言った。アヤハは思い切りが良い性分だ。
    「アトリはどう思う?」
    「僕は二人についていくよ。」
    「ま、上がってからね。」
     アヤハが片目をつぶって笑った。その視線の先には、カヴァとイータがいた。

    レースフライト


     フライトが始まった。
     予め抽選で指定されたチームごとに次々と飛び立っていく。飛び立った選手たちは、近くで上昇気流を見つけてガグルを組んで待機する。いくつかのガグルが周辺でできている。色とりどりの翼が旋回している様は壮観だ。
     ヒワたちも無事離陸して、空すいている空域で少してこずったが、弱いサーマルリフトを捉まえ、徐々に高度を上げていった。
     上がるにつれ、南山が低くなっていき、その先にカサギ山系が見えて来た。南山山脈とカサギ山系に挟まれた盆地は、セタ河の北に広がる古都とは対照的に、広い農地となっており、農家が集まる邑が点在している。ヘクリ野と呼ばれていた。
     ヒワたちのガグルの下には別の鳥人たちも入ってきた。先にサーマルリフトを見つけ旋回を始めた鳥人の下に行けば、同じ上昇気流に入れる可能性が高くなるということで、あまりサーマルリフトがない時の常套手段だ。先にサーマルの中で旋回している鳥人と同じ旋回方向になるように旋回を合わせる。高度差があるなら問題ないが、高度が近い場合は、先客の下、旋回の対角線になるようにサーマルに侵入する。先客の軌跡でそのサーマルリフトの中心コアが判るので、すんなりガグルに入れるはずだ。先に廻っている鳥人の死角に入ってしまい危険を感じさせないよう、後から入る鳥人は先客の視界に自分が入るような位置を保つ必要がある。
     そうしながらもヒワたちは、周囲にサーマルリフトの目印である積雲が発生していないかの観察を怠らなかった。
     まだ、雲ができる兆しはない。
     
    カヴァたちを探す。
    -いた。
     少し離れた場所で、ヒワたちより低い高度だが、しっかりと旋回サーマリングしている。
     やがて、発着場からのろしが上がった。
     ガグルを組んでいた鳥人たちが一斉に直線飛行し始める。
     おもしろいことに進む方向は、南東、真東と大きく二手に分かれた。最短距離でヘクリ野に出るか、早く山脈に取りつくか、各チームの戦略の差が出ている。
     体力に自信があるチームは、力強い羽ばたき飛行で南東へと突き進んで行った。
     カヴァたちは、とみると、二羽は低い高度だったのにも関わらず、東へと滑空していった。
     ヒワは、軽く羽ばたくと真東の方向を目指し、滑空を始めた。
     本番ともなると、他の鳥人たちの動きが気になる。翼の色や模様でどの街の若鳥かが判るので、練習日のフライトや指導者たちが集めた情報から、気になるチームを注視する。注目は、やはり海街のカヴァとイータ、次は地元の古都のチームだろう。
     システロンの谷を渡り、南山に取りついた。出発の合図の瞬間、かなり高い高度にいたおかげで、かなり高度に余裕がある。
     ここは速度を出して南へと変針し前へと進む。羽ばたきもほとんどしない。
     相変わらずカヴァたちは眼下を飛んでいるが、あちらも羽ばたきをほとんどしない。
     高度が下がるにつれ、尾根が近づいて来た。
     尾根に沿って飛んでいるので、陽が当たっている東斜面からのリフトが期待できる。尾根は一直線ではなくうねっており、うねりをなぞるように飛んで行く。
     ところどころ上昇気流を感じるが、弱いのでそのまま前進を続ける。
    -このままリッジ・ランできれば・・・
     無情にもどんどん尾根が近づいてくる。
     前を行く、カヴァたちは尾根の東側斜面を舐めるように飛び始めた。
    -あの場所ね、カヴァ!
     果たして、何回か良好なサーマルリフトを捉まえたことがある南東に向かって窪んだ尾根で、カヴァたちは斜面から離れる方向へ急反転し、こちらへ180度回頭した。とすぐに右旋回をし、再び斜面に近づいた。180度旋回を繰り返す8の字飛行だ。
     少し高い高度にいたヒワは、続いて強い隆起サージを感じた。
     即座に左旋回を始める。アトリとアヤハも続く。
     尾根とほぼ同じ高度を飛んでいたヒワたちは、最初の旋回で尾根よりも高く上昇した。このまま左旋回を続けても斜面に衝突する心配はなくなった。360度旋回を継続するサークリングへと移行することができた。
     ヒワはそれでも二旋転で旋回をやめ、尾根に沿って南に離脱した。
     西斜面からもサーマルリフトが発生しはじめ、収束帯コンバージェンスを予期したからだ。確証を得た訳ではない。いうなれば勘だ。
     山脈の上空に積雲が湧き始めている。上昇気流が活性化しているのだ。
     今度は、カヴァたちを後ろにおいて前へ進む。
    -どこかで谷渡りしなきゃだわ。
     第一旋回点のヴィノンのある方角に視線をさまよわせる。ヘクリ野の向こうに横たわっているカサギ山塊の麓にその邑むらはあるはずである。
     すでにヘクリ野を飛んでいる鳥人のチームが見える。高度は低く、苦戦しているようだ。
    -盆地の空気はまだ対流していないわ。
     それにしてもヴィノンとやらはどこだ?
     もう一度、カサギの麓を北から探索してみる。
    すると、
    -あった!
     同時にアトリも叫んだ。
    「11時の方向!」
     山麓の樹々に覆われた裾野に、黒っぽいいくつかの屋根が見える。あの中の最も大きい建物がヴィノンの役場に違いない。
     進行方向を時計の12時とすると左斜め前なので11時の方向である。
    真北を0度として360分割した磁方位で表すと160度といったところか。
    「了解!もう少し前進する。」
     ヒワは二人に向かって叫び返す。
     真横アビームまでリッジ・ランしてから谷渡りをすれば、盆地を飛ぶ距離が最短となる。谷間に吹き下ろす風ダウンウォッシュが懸念されるような、山脈に直交する風向きの場合はそれが鉄則だ。しかしその場合、直角三角形の二辺の距離を飛ぶことになる。今日の風向きは山脈に平行であるため、リッジ・ランを途中でやめて、最適な場所で谷渡りを始めるのが良いと ヒワは判断した。
    -いつ盆地に出るか?
     幸い尾根の両側から昇ってくる上昇流が収束する良好なコンバージェンスの上を飛んでいて、かなり速度を出せている。
     底が平で暗い、しっかりとした雲道クラウドストリートになっている。
     そのとき、あの”むずむず感”を感じ始めた。なんとも落ち着かない感覚。
     それが進むにつれ、だんだん強くなってくる。
    ついに我慢できなくなって、本能的にヘクリ野の方へ飛び出した。
     大きな失高もなく、あっという間に盆地の中ほどまで到達していた。
     農地の中に作業小屋が建っている区画があり、そこにはサーマルリフトがあった。パフの下でセンタリングを始めると、アヤハとアトリに続いて、ガグルに入ってきたものがあった。
     カヴァとイータだ。
    「やあ!」
     競争相手なのに、お互いに笑顔だ。
    「いいぞ!」
     カヴァが叫んだ。
    「何が?」
     とアヤハ。
    「レースさ。」
    「負けないよ!」
    「こっちも」
     突然、カヴァがガグルを離脱していく。
    「やられた!」
     崖街の三羽は同時に声を出し、あわてて後を追った。

     第一旋回点に着陸して、クリアしたこと示す署名をすると再び飛び立った。
     この頃には、広い範囲で積雲が発生し、コース取りは容易になってきた。  第二レグの間、海街の二羽と崖街の三羽はお互いを出し抜こうと、時々コースを変えてみたが、結局は同じようなところを飛んでいる。
     レースのセンスは互角というところか。両チームは今のところトップを飛んでいるようだ。
     第二旋回点のクソン山は一度来たことがある。タンバ高地は単独鋒が連なっていて、山々の見分けがつきにくい。その中でもクソン山は、山頂が丸くドーム状になっているため比較的識別しやすい。また、太古ののろし台も設けられているため、発着場としても使える。
     今回、旋回点を規則通りにクリアできたかどうかを確認するための判定員が詰めているはずだ。
     競技において、旋回点を確実に回ったかの判定は重要だ。第一旋回点でもそうだったが、旋回点をクリアしたことの確認は、一旦着陸して設置してある記録票ログブックに署名することによって行われる。
     

    魔の第三レグ


     三羽揃って署名し、第二旋回点を飛び立ったころ、風向きが変わった。
     北西風で冷たく強い。
     重い空気だ。まだ第二レグを飛んでいる若鳥たちにとっては、迎え風となって進むのに苦労することだろう。
     ヒワたちにとっても気は抜けない。東へ向かっているので風は追い風に近いが、どちらかというと左後方すなわち8時の方向から吹いている。第三旋回点のエクランは第二旋回点のほぼ真東になるため、偏流を取る必要がある。
     真東へ行くためには真東へ頭を向けて進めばよいのだが、それは風がない時や向かい風、追い風の時だ。例えば北からの横風成分がある場合、真っすぐ進んでいるつもりでも右に流されてしまい、目標の南側に到着してしまう。これを偏流といい、目標の真東に到着するためには、横風成分を考慮してやや左側を狙って進むと丁度真東に到達できる。頭が向いている方向ヘディングと進む方向との角度を風補正角または偏流角という。
     適正な風補正角を取って飛べば、目標となる地点は、ずれることなく真っすぐ近づいてくるように見える。
     第三旋回点のエクランは、浮島を望む東山の稜線の上に築かれた鐘楼で、クソンよりは険しいところにある。風速はさらに強くなっており、着陸するには技術が要った。稜線を越えて風下に行ってしまうと、強いダウンウォッシュに叩かれて戻れなくなってしまうからだ。すでにこの大会でも練習日に風下に叩かれ不整地に着陸して負傷し、本戦を欠場した若鳥もいた。
     崖街の三羽に続いて海街の二羽は慎重に着陸場にアプローチし、迎え風に翼を立てながら絶妙のコントロールでほぼ垂直に接地した。
     署名をして、早々に離陸する。
     斜面上昇風の中を離陸するので、速度をつけて地面を蹴る。
     ふわりと体が浮いて、そのままどんどん高度が上がっていく。
     エクランから南に東山の尾根は伸びており、しばらくすると昨日通ったキセン山が右に見えて来た。今日はコンバージェンスではなく、斜面上昇風によるリッジ・ランだ。
     ほっておいてもどんどん高度が上がっていく。気温が下がり寒さを感じる。
     風は北西風で変わらなかったがより強くなってきた。右斜め後ろからの風となるため、ヒワは偏流を取ってほぼ真っすぐ飛んでいた。しばらくすると急激な沈下に遭遇して、慌てて針路を風上側に取った。風下に流されるのを避けるためだ。
     やがて沈下が収まり、安定した上昇を感じた。
     進みながら高度が上がる。とまた沈下に叩かれる。
    ―ん?沈下と上昇気流が交互にくる。これは・・・ウェーブ?
     直感的に山岳派マウンテン・リー・ウェーブという言葉が頭に浮かんだ。
     川の流れの中の岩の川下には波ができる。同様に風の中に山があると風下には波ができる場合がある。山に当たって跳ね返ったときの上昇風が第一波。一旦下降して跳ね上がった波が第二波、というように波動が続いていく。単独鋒の場合は、風下の限られた範囲にしかウェーブはできないが、山脈の場合は、山脈に沿ってウェーブが発生する。
     上昇帯の中を維持することで高度を落とすことなく山脈と平行に移動できるのだ。尾根のコンバージェンスを利用したリッジ・ランのように、ウェーブの第一波から第二波、その逆というように波を乗り移りながら長距離を飛ぶことも可能だ。
     このウェーブは北山から発生した二波か三波ではないかとヒワは判断した。
     ウェーブの中は静穏だ。整流域とも言い、適切な速度を維持し、上昇帯の中に居られさえすれば安泰だ。
     しかし高度を上げ過ぎると、空気が薄くなり意識を失う危険性がある。そのため約3500米メートルを越えないように気をつけなければならないが、この高度は周りの山々より遥かに高く、基準になるものがない。呼吸に集中して少しでも息苦しくないか意識する。
     アヤハとアトリが右後方に付いてきているのを確認する。
     エシュロンと呼ばれる編隊の形だ。
     彼らの顔色も指標となる。赤みを失い青白ければ危険な兆候だ。
     ヒワは速度と針路ヘディングを慎重に調整しながら、上昇帯の中を進んでいった。

    しかし。
     徐々に風速が強くなっているのに気付くのが遅れた。風下に押されているのに気づかず、下降帯に落ち込んでしまった。
     急速に高度を失う。そして激しい乱気流に揉まれ始めた。ウェーブの山になった部分の下層は地上付近の空気が撹拌するかのように巻きながら吸い上げられる。ローターだ。因みにウェーブの山の上層には、皿を伏せたような雲がかかることがあり、これを傘雲キャップクラウドという。
     三羽はそれぞれに体勢を保つのに精いっぱいで、徐々にお互いの距離が開き、ついに離れ離れになってしまった。
     このような状況は初めてだった。
     近くを飛んでいたはずの、カヴァとイータも巻き込まれただろうか?
     体がひっくり返るほどの乱気流タービュランスを力でねじ伏せながら、ふと見ると周りでは雲ができたり消えたりしていて、雲も乱気流に翻弄されているかのようだ。
     ヒワのすぐ近くでまた新しい雲ができ始めた。それはぐるぐると回転しながらうねうねと管を巻くように伸びていき、大きく湾曲しアーチを形成した。
    -まずい。吸い込まれる。
     ヒワは抗うすべもなく回転する雲の管に飲み込まれてしまった。
     東山脈が見る間に離れていき、その間も体勢を保つことができない。
     いつの間にか浮島の近くまで流されてしまったようだ。
     体が激しく回転する。
    -叩きつけられる!
     ヒワの視界の片隅に、浮島の断崖が急激に大きく迫ってきた。


    第5章 浮島

     

    1.天人(あまびと)

    漂着

     どのくらい時間がたったのだろう。
     ヒワは自分が翼にくるまって横たわっていることに気付いた。
    -ここはどこなの。
     横たわったままで、体に痛むところがないか、頭部、両手両足、胴体に意識を巡らせた。
     大丈夫そうだ。つぎに目を開き見えること、耳をそばだて聞こえること、匂いが嗅げることを確認した。
     ヒワはくるぶしほどの草の上に横たわっており、周辺には低木が疎らに生えていた。草の匂いがして、そよ風の音がした。
    -他のみんなはどこ?
     カヴァの姿が頭に浮かんだ。
     その時、遠くから近づいてくる足音が聞こえた。
    -まずい。
     本能的に緊張が走る。
     両腕が動くことを確認してから、静かに体を起こして足音の方向を見ようとした。足音はまだ樹々の向こうで姿は見えない。
     一人だけのようだ。
     姿勢を低くして、できるだけ素早く近くの樹の後ろに隠れた。
     やがて樹々の間を縫うようにして、何かを探すように視線を散らしながら男性の姿が見えた。邦人くにびととはまた違った黄土色に幾何学的な紋様が入ったチュニックのような衣装を着た壮年の男だ。
     男の傍らには狛コマの姿があった。
     狛コマは周りをくんくん嗅ぎまわっていたが、ヒワが潜んでいる方向へ向かって、ワンと一言吠えた。
     男はこちらへ向かって言った。
    「誰かいるのか?」
     狛コマはヒワの隠れている茂みの前まで来て、もう一度吠えた。
     ヒワは観念し、一歩進み出た。
    「鳥人とりびとか!」
     男は驚いた様子で低く押し殺した声で呟いた。
    数十米メートル離れていたが、ヒワは警戒しながら男の方を見た。
    「大丈夫だ。私は味方だ。」
     男は言った。彼を信用できるのだろうか?
     ヒワは激しく逡巡した。
    「ここはどこですか?」
     恐る恐るヒワが尋ねる。
    「ここか?ここは浮島だ。」
     まじまじとヒワを見て続ける。
    「しかし驚いたな。鳥人を見るのは何年ぶりだろう。」
    「浮島?」
     今度はヒワが驚く番だった。
    「浮島まで飛べるはずはない。とても離れているもの。」
     そう言うと男は初めて表情を和らげ微笑んだ。
    「そうとも。無理はない。普通、地上からここへは飛んでは来られない。」
     少し真顔になって訊いた。
    「どこから来た?名は何という?」
     逡巡してヒワが口を開いた。
    「あなたは誰なの?」
    「そうだな。私から名乗るべきだったかな。
     私はアルクス。鳥人だった。」
     どこかで聞いた名前だ。
     すぐに思いだした。
    「私は崖街のヒワ。」
     男の表情に再び驚愕の表情が浮かんだ。
    「崖街。」
    「あなたは・・・」
    「そうだ。私は崖街のアルクス。」
    「アトリのお父様。生きておられたんですね!」
     狛がクーンと鳴いた。
    「これは、マシコ。」
     マシコがヒワの足元に来て見上げた。
     ヒワは片膝をついて、そっと手の甲を差し出した。
     マシコが鼻を近づけ匂いを嗅ぐと、ぺろりと甲を舐めた。
    「いい子。」
     頭を撫でてやる。
    「息子を想って付けた。」
     アトリとマシコは同じ科に属する似た鳥だ。
    「そろそろ動いた方がいい。ヒワ、君一人か?」
    「わからない。他のみんながどうなったか・・・」
    「わかった。後で訊こう。歩けるか?」
     ヒワが立ち上がり、両手を抜いた翼を背中に撥ね上げて歩けるようにしたのを見ると、アルクスと名乗った男は、肩にかけた荷物を背負いなおして踵を返した。
     アルクスが向かう先には断崖が聳えていた。
    -そう言えば。
     ヒワは改めて廻りを見渡す。
     ここは平らな土地だ。しかし来た方向、背後を振り向くと数百米先は見えない。奈落のように途切れていた。
    -この風景は崖街に似ているかも知れない。
     崖街は崖を穿った街である。崖を昇っていくと狭いけれど平らな土地があり、さらに上がると開けた場所がある。
    -しかし、浮島の高度だと息ができなくなるはず。あの時、私は乱気流の管に吞み込まれたんだ。
     ここは別の空気に包まれているのかも知れない。
     先に歩んでいるアルクスは、崖に穿った岩場を登り始めた。ヒワは翼を背負ったままアルクスに付いて行く。
     その急な岩場を登りきると、そこには遥かまで続く平原が広がっていた。
     遠くには山並みも見える。
     平原をひたすら進んでいく。その先に小さな小屋が見えた。近づくと、木と石で作られた粗末な小屋だ。
    「ここに隠れていなさい。」
     アルクスは扉を開けて中を示した。小屋の中は、寝台は一つ、食卓が一つと、こじんまりした空間だった。アルクスは頭巾と外套を取り、壁に引っ掛けると、炭火にかけてあったやかんから湯をカップに注ぎ、ヒワに渡した。
    「白湯しかないが、温まるだろう。」
    「ありがとうございます。」
     ほどよい温度の白湯が体を温める。
    「ヒワ、と言ったな。」
     アルクスはヒワを見つめて言った。
    「ここは浮島の縁ふちだ。いつもとは違う風の音を聞いて、縁を見に行った。マシコが騒ぐのでな。」
     しばらくじっとする。
    「よければ・・・」
     次にヒワがカップに口をつけたその時、小屋の屋根に一羽の鳥が止まる気配がした。アルクスが緊張した押し殺した声で言った。
    「ここでじっとしていろ。すぐに戻ってくる。」
     アルクスはそう言いおいて小屋を出た。
     屋根には一羽の鳥が止まっていた。ホシガラスだ。
     その鳥を見てアルクスは無表情を装い、鳥に語り掛けた。
    「お役でしょうか?」
     その言葉は人間の言葉ではなかったが、ヒワには理解できた。彼も鳥使いなのだ。
    「先ほどの気流の乱れは何か、とレコンカグア様が気にしておられる。」
    「なんと。」
    「レコンカグア様は、人間の鳥人を一羽見つけ、保護した。それと関連があるやなしかや。」
    「それは、どのような?」
     ホシガラスは続けた。
    「若い鳥人だ。」
     アルクスは平静を装った。
     ヒワは心臓が激しく鼓動したのを感じた。
    「それに関し、レゴンカグア様はその方ほうを召し出した。直ちにお館へ参れ。」
     言いおくとすぐに鳥は飛び去ったようだ。
     アルクスが戻ってきた。外の様子を窺い、すばやく扉を閉めた。少しの間、何かを考えるように虚空を見つめていたが、ヒワの方を見て言った。
    「聞こえていなかったと思うが、もう一羽流されて来たようだ。まずいことに天人あまびとに見つかってしまった。すぐに行かなくてはならない。」
    ―天人あまびと?
     未だ状況がつかめてないヒワは、混乱しながら言葉を発した。
    「あのう、無事なんでしょうか?そもそもなぜ私たちはここにいるのでしょうか?」
     聞きたいことが山ほどある。
     軽く息をすいながら、アルクスが応じる。
    「答えは後だ。行ってみなくてはわからない。ここで身を潜めて待っておれるか?」
     ヒワが頷く。
     出かける準備を整えると、マシコを連れて小屋を出て行った。

    ティロすなわちアルクス


     急ぎ足で歩きながら、アルクスは考えを巡らせた。自分の翼はここへ漂着した際に激しく損傷しており、同時に彼自身もひどく負傷していた。彼を発見した天人は、彼を治療することと引き換えに、翼を修復することを許さなかった。その理由は彼をこの地に留めておくため。天人は浮島と天人の様子を地上に知られたくはなかったのだ。
     アルクスの時のように「あれ」がまた起こったのか?それも今回二羽が巻き込まれた。一羽は少女で、身体も翼もほぼ無傷。もう一羽は見てみないと分からない。
     彼の時は、北へ向かうためにより早い経路を取ろうとして、浮島の近くに寄り過ぎた。強い北西風に煽られた後、突然乱気流タービュランスに巻き込まれ、浮島の岩場に叩きつけられた。地上に落下すると思われたが、崖の中腹にかろうじて引っかかり墜落するのを免れたのだ。
     二日ほど宙づりになっていたところ、偶然近くをあのホシガラスが通り、天人に助けられた。
     もちろん天人を実際に見るのは初めてだったし、存在していることも知らなかった。それは神話の中でしか出てこない名前だったからだ。天人は人ではない。ゆえに人にはない能力を持っている。人と同じような外見と身なりだが、彼らは宙づりになっているアルクスの周りに漂うように降りて来た。そうして、彼に軽く手を触れるといとも簡単に持ち上げ、浮島の平な場所まで運んだのだ。
     その中の一人が、レコンカグアという女性の天人だ。見た目は二十歳代に見えるが、天人は不老不死といわれているので、正確な年齢はアルクスにはわからない。
     レコンカグアは彼女の館で彼を治療し、甲斐甲斐しく看病した。傷が癒え動けるようになると、レコンカグアは、ここから地上に戻ることはもはや許されないこと、その代わり彼女のために働けば、生活とここでの自由は保障するということを話した。謂わば下僕として生きよということだ。
     地上と同じ時間が進んでいるとすれば、それ以来14年になる、フイユという名前で。
     そのようなことを思い出しながら、歩いていくと樹々の向こうに大きな館が見えた。レコンカグアの住居だ。大理石と白木で作られた複雑な構造の建物で、数十もの部屋があるが、住んでいるのはレコンカグアと数人の召使だけだ。天人たちは大抵一人で暮らしており、家族で暮らすことはあまりない。ほかに使い鳥や使い獣がいて、外との連絡などの用事はそれらに言いつければ事足りる。
     数年前までアルクスはそこで暮らしていた。召使の女性と夫婦になり、数粁キロメートル離れたところに小屋や耕す土地を与えられ、外で生活することが許された。彼にとっては再婚だが、その女性は二年前に病で亡くなった。浮島は天人たちの土地だ。しかし人間も住んでいる。もともとは地上人だったようだが、今は浮島で生まれ育った者が天人の下僕として暮らしている。
     館の門の上に先ほどのホシガラスが止まっていた。アルクスが門の前に到着すると、一言カァと鳴いた。門扉が静かに開いた。
    「レコンカグアさま、ティロでございます。」
     玄関の扉は見知った召使の女性が開けてくれた。マシコをそこに待たせ、彼女の後をついて主の部屋の前まで進む。
    「ご主人様、ティロが参りました。」
    「入れ。」
     アルクスは部屋に入り、立ち止まると頭を垂れた。背後で静かに扉が閉まる。
    「ティロ、久しいのう。」
    「はい、レコンカグアさまもご機嫌麗しゅう。」
    「本題に入ろう。先ほどあの気流の乱れ、ミストラルが起こったようだ。その時に一羽の鳥人がここまで吹き上げられた。結界が開いたのだ。そなたの時と同じようにシーラスが見つけ、先ほど運び込んだ。」
     シーラスは先ほどのホシガラスの名だ。
    「はい。」
    「会ってやれ。まだ若い男の鳥人だ。」
    「具合はいかに。」
    「大事ない。ただ怯えておる。そなたが行けば安心するじゃろう。」
    「ご厚情に感謝いたします。」
     
     指定された部屋に入ると、その少年は寝台の上で眠っていた。外傷はなさそうだ。彼が着ていたであろう翼は部屋の隅に置かれており、こちらも損傷は認められない。
     椅子を引き寄せ、寝台の傍らに座る。
     少年の寝顔を見つめていると、少年が目を覚ました。
    「安心しなさい。ここは安全だ。」
     警戒の色を宿した目を見ながら、微笑みかける。
    「私はアルクス。元々は地上の鳥人だ。」
     少年の目が驚愕の色に変わった。そして振り絞るように声を出した。
    「父さん。」
     ティロもすべてを悟った。

     再びレコンカグアの部屋に戻ったアルクスは、一礼した。
    「落ち着いたようにございます。」
    とアルクス。
    「ご苦労、ティロ。」
     そして訊いた。
    「名乗ったか?あの少年は。」
    「ノジコ、と。」
     自分をアルクスではなくティロと名乗ったように、本当の名前は教えない。
    「ふむ。天津衆あまつしゅうに知らせねばならぬ。この後の処遇をどうするかの詮議となろう。」
    「レコンカグア様、幸い、あやつの翼も傷んではおらず、ここがどこかもまだわかっておりませぬ。このまま、地上へ還してやることはできませんか?」
     レコンカグアは、しばらく沈黙した。
     そして、
    「それも含めて、天津衆に諮らねばならぬ。わらわが知ってしまった以上。決まり事だからな。」
     レコンカグアはアルクスを退出させ、純白の衣裳を身に着け、出かける準備を整えた。
    「夜までには戻れるだろう。そなたはそれまでここで待っておれ。」
     扉の前で待機していたアルクスに、そういいおくと、レコンカグアは何かを含みのある眼差しでアルクスを一瞥した。つぎの瞬間、その姿は一瞬で書き消えた。

    脱出


     直ちにアルクスは、アトリの部屋に滑り込み、静かに、かつ有無を言わせぬ口調で少年に告げた。
    「翼を持って、私についてこい!」
     逃げるなら今しかないのだ。
     周囲を窺いながら静かに廊下に出て、アトリが続くのを確かめると勝手知ったる館の中を先へ進んでいく。そして主の言いつけを守らず、アルクスは急いで館を出た。門ではなく、召使たちが使う通用口から。だれにも見咎められることはなかった。
     アルクスは、レコンカグアがわざと隙を作ってくれたのかも知れない、と思いながら、自分の小屋を目指して林の中を急ぐ。
     浮島は広く、平地の端から端まで徒歩で行くと三日ほどかかる。しかし天人は翼を使用しなくともまさに飛ぶように歩くことができる。そのため、浮島の辺縁にあるレコンカグアの館から、ほぼ真ん中にある天津衆の社殿までは数時間で行くことができた。
     天津衆で話し合い、沙汰が出るまでそれほど時間はかからない。
     いつの間にか狛のマシコが合流していた。
     館から充分離れた頃を見計らって、アルカスが口を開いた。
    「日が暮れるまでに、浮島から脱出するんだ。」
    「父さんも一緒ですよね。」
    「残念ながら私の翼はもはやない。ここに流された時に壊れた。」
     息を継いで早口でしゃべる。
    「よく聞け。お前たちがここに来た時の乱気流、あれはミストラルと言って、めったに起こらないことなのだ。普段はあのような乱気流は浮島の周りでは起きないし、そうでなくとも天人が結界を張っていて浮島に近づくことはできない。ミストラルがどのようにして起こるのかは天人もあずかり知らぬことのようだ。この時ばかりは結界が破れる。」
     後を行くアトリの方を振り向いて続けた。
    「ミストラルが始まると長い時で三日間続く。だが、一晩で終わってしまうこともあるという。だからすぐに出てしまえば、のぞみはある。」
    「でも、どうやって。」
    「来た方を逆に辿るしかない。つまり再び乱気流の中に飛び込むんだ。」
     アルクスの小屋が見えてきた。
     足音を聞いてどこからか外を窺っていたのであろう、ヒワが飛び出してきた。
    「アトリ!無事だったのね。」
    「二人は知り合いだったのか?」
     崖街の飛行学校で同級生であることをアトリが説明した。
     自分と同じ鳥人への道に息子が選んだことを、アルクスは感慨深く感じたに違いない。お互い話したいことが山ほどある。
     しかし、
    「話をしている時間はない。日没までにミストラルに飛び込むんだ。」
     と心を鬼にして言った。
    「さあ行こう。ヒワ、準備して。」
     ヒワが小屋に戻り、あわただしく荷物をまとめて出て来た。
    「走れ。」
     陽はだいぶ傾いていた。
     三人と一匹は、先ほどヒワを連れて小屋に匿った際の路なき路を逆に辿って、浮島の縁ふちへと歩いて行った。来た時と同じように、岩場を伝って平な場所に降りた。
     しばらく歩くと、ヒワの意識が戻った草地へと出た。ほんの一時間ほど前のことなのに、遠い昔のような気がする。
     そのまま三人は前に進む。
     「縁ふち」に出た。
     切り立った断崖の端に立っていた。
     西に沈まんとする太陽は鈍い光を放ち、とても眩しかった。
     青白いもやがかかってよく見えないが、下方にはシュマリナイ湖とそれを取り囲む山々があるはずだ。
     そして、強烈な風の束が下から吹き上げていた。
     ヒワとアトリはすばやく翼を着た。
    「ここへ飛び込むの?」
     不安そうにアトリがアルクスを見る。
    「ああそうだ。ここを吹き上げられてきたのなら、逆を行けば戻れる、はずだ。」
     アトリが何か言おうとしたその時、
    「ティロ。」
    と声がした。
     振り返ると、先ほど降りて来た岩場の上に、白の衣裳の裾をふわりと空にたなびかせながら美しい女性が立っていた。
    「レコンカグア様」
     苦し気にアルクスが呟く。
    「もう一人漂着しておったのか。」
     落ちついた声でレコンカグアが言った。 
     ここで二羽が飛び出していれば、その後、違う運命、展開になっていたかもしれない。

    2.レコンカグア


     
     レコンカグアは続けた。
    「気が変わったのだ。天津衆あまつしゅうに報告する前に少年ともう少し話がしたくなった。そうして館に戻ったら、その方ほうたちは居なかった。」
     アルクスは返事をしなかった。
    「まあ良い。わらわの見立てだと、今回のミストラルは二日間は続くだろう。240年前の時とそっくりだからな。」
     そう言うと、ヒワに向かってにこりと微笑んだ。
     ヒワには何か裏があるようには思えなかった。
    「そう急いで帰ろうとしなくてもよかろう。わらわはレコンカグアという。我が館で一晩過ごせ。明日朝の出立は止めはせん。」
     アルクスは俄かには信じられなかった。漂着した地上人は鳥人でなくても帰してはならないとされていた。天人や浮島の存在は、地上には秘密であり、何百年も前から天津衆でそう決められていると、召使の人間たちがそう言っていた。
     帰ってもよいという申し出は、レコンカグアが個人的な考えかも知れない。だからこそ、天津衆で共有化するのを止めて戻ってきたのだろう。
     これまでアルクスは、レコンカグアから不当な扱いを受けた記憶はなかった。
     しかし天人は人間ではない。太古の昔、天人は地上に頻繁に降りて人間を支配していたという。その時に、翼の作り方を限られた地上人に教えたと伝わっていた。 
     しかし天人の物事の考え方は、人間のそれとは違っており、長い間にいくつかの齟齬が生じた。
     そのため、どのような意図をもってレコンカグアがこのようなことを言っているのか、アルクスには窺い知れなかった。
    「はい、そうします。」
     その時あっけらかんと応えたのは、ヒワという少女だ。
    驚いてヒワの顔を見た。何の疑いも持っていないような表情だ。
     アルクスがヒワに言おうとした瞬間、ヒワはアルクスに顔を向け、きっぱりとうなずいた。
    「大丈夫です、きっと。」

    館

     レコンカグアの館は、何もかもが整えられていて無機質な感じだった。
     天井の高い大きな部屋に案内されると、20人は座れるであろう長卓があり、その周りに優雅な造りの椅子が並んでいた。
     長卓の上席にレコンカグアが座り、右手にヒワとアトリが、左手にティロことアルクスが着座した。
     きのこのようなものが良く煮込まれている黒っぽいスープや種実の盛り合わせのような皿が並んでいた。
     美しく盛り付けられた食卓の料理の数々を前に、レコンカグアは言った。
    「われらは鳥獣は食さずでな。植物で似たような風味や食感にしてみたが、口に合えばよいがの。」
     ヒワとアトリが炭火で焼いた肉のような料理を恐る恐る口に運ぶのを見守っていた。
    「おいしい。」
     ヒワが思わずつぶやいた。
     レコンカグアは安心したように微笑む。
     アルクスはこの少女が信じられる気がした。
    「地上はどんな?」
     ヒワとアトリはきょとんとレコンカグアを見た。
    「「下」にはここ500年ほど行っておらぬ。このフイユから聞いた話が最も新しいかの。」
     ティロと呼ばれたアルクスの方に視線を移した。
    「下は引き続き平穏か?皇は良く統べておるのか。」
     若鳥たちには話が読めない。
     アルクスが口を開いた。
    「恐れながら・・・」
     レコンカグアが頷く。
     ヒワたちの方を向いてアルクスが話し始めた。
    「かつて天人さまたちは頻繁に地上を訪れておられた。地上人にさまざまなことを伝えるためにな。お前たちの翼もそうだ。その造り方を教えてくだされた。」
     そこで息を継ぐ。視線を落としながら続けた。
    「地上人はそんな知識や技を糧に繁栄を続けていった。街々はそれぞれの強みの技を育てお互い競うように大きくなり、時には争いも生じるようになった。最も大きな街が他の街を支配下に治めるようになった。それが古都だ。」
     ヒワとアトリも神話として学んで知っていた。
    「ある時、ある人間が、天人から同胞の支配権を奪取しようと武力を用いて天人に対して反乱を起こした。皇ニムロドだ。」
     これは初めて聞く話だった。
    「だが天人の天津衆の長であるオト・ラメラ様がそれを鎮めた。」
     レコンカグアはふと顔を背け、呟いた。
    「あれは、冷たい心を持っておる。」
     アルカスは続けた。
    「鎮圧戦でオト・ラメラ様は人間に愛想をつかされたのか、浮島の周りに結界を張り、地上人との交流を閉ざされたのだ。それが500年前の話だ。」
     沈黙がその場を支配した。
     誰もが自らの考えに耽っているような時間が続く。
     レコンカグアがヒワとアトリを見た。
    「そなたたちが知らぬのは、知られざる出来事だがらか。」
     そしてティロを少し咎めるような目線で見た。
    「否定はできませぬ。上貴の中でのみ伝承されている故。」
     ふん、と言うようにレコンカグアは視線を戻した。
     銀でできたカップから、レコンカグアは飲み物を口に含んだ。
     食事が始まってから、レコングアは飲み物しか口にしていない。
    「されど、その後はどのように歩んできたのかの。なんと学んだのだ?」
     ヒワとアトリは顔を見合わせた。
    「もっと遠慮せずに食するがよい。」
    とレコンカグア。
     アトリはふんだんに果実が乗った焼き菓子のようなものを手に取った。先ほどヒワが食べたものだ。甘酸っぱくてサクサクした食感が気に入った。ヒワは別の鮮やかなオレンジ色のソースがかかった少し弾力のある餅のような食べ物を口に入れた。口の中でとろけて消えた。
     アトリは、ひとりで頷くと、レコンカグアの顔を見て、崖街の学校で教えられている歴史について説明し始めた。
     アルクスが話した神話時代の話、街と街の間でいくつかの戦が起こり、邦が荒廃していくと同時に鳥人も激減していったこと、いつしか天人が地上からいなくなったこと。
    「でも、それ以降、500年間争いは起こっていないのです。一時は街々がお互いに交流を断っていたためです。ですが、わずかに生き残った鳥人たちが少しずつ行き来をしはじめ、この百年の間、陸路も再整備されて交易も盛んになってきました。」
    「そこまでは、ティロから聞いた話と違わぬの、ノジコとやら。」
     ヒワは、ティロだのノジコだの本当の名前と異なる名前でアルクスとアトリが呼ばれていることに気が付いていた。
     アルシノエがヒワの方を向いて言った。
    「そちの名はまだ聞いておらぬの。」
     すかさずヒワが答える。
    「崖街のヒワといいます。レコンカグア様」
    「ほう・・・」
     レコンカグアは真っすぐヒワの目を見据えた。アルクスは無表情のままだが、アトリは不安げな表情を浮かべていた。
     ヒワはにこりと微笑んだ。
     レコンカグアも感心したように頷き、笑みを返す。
    「ノジコ、続けよ。」
    「はい、十年前に即位したイバリ皇は、お若いのですがとても評判が良い君主で、各街との交易を盛んに奨励されています。」
     アトリが詰まったので、ヒワが言葉を引き継いだ。
    「各街の若鳥を集めての競技会を復活させたのも、イバリ皇です。」
    「会ったことはあるのか?」
    「いえ、自分の街を出たのはこれが初めてなので。」
     レコンカグアはアルカスを見た。
    「私がここに来た後の話ですので存じ上げません。」
     
     レコンカグアは二人にさらに問いかけていく中で、次第に浮島の様子や天人の生活について話し始めた。
     ヒワとアトリにとって初めて聞く話ばかりだった。
     天人あまびとは、鳥獣はおろか植物すら食することはない。口にするものは泉水とよばれる浮島に湧いてくる水のみだ。天人が生きていくのに必要な成分が溶け込んでいるという。同じものがヒワたちにも出されていたが、やや硬い味のするただの水だった。
     ヒワたちに出されていた料理は、植物のみを食材としていたが、これは浮島に住む人間たちのためのものだそうだ。
     天人たちが地上人に対してどう思っているかについても、レコンカグアは話し始めた。天津衆あまつしゅうはニムロドとの争いの記憶から、厳しい感情を抱いている者もいるが、それ以外の天人はあまり関心がないようだ。
     レコンンカグアは天津衆の中に在って、地上人には寛容と言えた。ヒワたちを館に招いたのは、その気持ちの表れと信じても良さそうだった。

     一夜過ごすことを許されたヒワたちにはそれぞれ個室が与えられた。親子であることを隠したままのアルクスとアトリは別々の部屋である。
     寝室に向かう途中の廊下でアトリが不安げに呟いた。
    「数年かミストラルを待つことになるのかな?」
     ヒワがアトリを見つめてきっぱりと言った。
    「大丈夫よ。レコンカグアは数日続くって言っていたわ。あの人は信じてもいい。」

    帰還


     ヒワは鳥のさえずりで目覚めた。
     イソヒヨドリのようだ。
     涼し気な鳴き声が耳に心地よい。
     窓の外はようやく白み始めている。
     ヒワはまだ宵闇が残る館を取り巻く風景を眺めた。
     イソヒヨドリが窓の外の枝に止まった。
     ヒワが語り掛ける。
    「今日、帰れるのね。」
     イソヒヨドリが小首を傾げてヒワを見て呟いた。
    -ミストラルは今日も吹いている。
    「ありがとう。」
     その時、ヒワは庭の人目のつかないところで、押し殺したような話声がするのに気づいた。アルカスとアトリだ。
    「父さん、必ず迎えに来るから。」
    「無理はしないでいい。」

     夜が明けた。
     昨夜の食堂で、果物を中心とした簡単な朝食が出された。
     しかしヒワとアトリは気もそぞろだった。そそくさと朝食を済ませると、翼を着て準備を整えて広間に出た。
     広間にはレコンカグアが待っていた。
    「結界は開いておる。間に合おう。」
     ヒワが言った。
    「レコンカグア様、ここまで良くしていただいて本当にありがとうございました。このことは決して忘れません。」
    「地上人にも昨夜のわらわがした話を伝えると良い。何かが変わるやも知れぬ。」
     レコンカグアはヒワを見つめてほほ笑んだ。
    「ヒワとやら、そなたにはまた会いたいのう。」
     その時、アトリがアルクスに目配せをして言った。
    「レコンカグア様、申し上げなくてはならないことがあります。」
    「なんじゃ?」
    「僕の本当の名前はアトリ。ここにいるアルクスは父です。」
     レコンカグアは黙ってアトリを見つめ、次いでアルクスを見た。その目には驚きも怒りの感情も浮かんでいなかった。
    「よう打ち明けてくれたの。」
     アルクスはただただうなだれているばかりだった。
    「ティロ、いやアルクス、そなたはまだ帰れぬ。残念ながら。」
    「承知しております。」
    「いずれか、叶うこともあろう。」
    「思し召しがあれば。」

     レコンカグアは縁ふちには同行しなかった。
     ヒワとアトリ、アルクスは黙って歩いた。いつしかマシコが三人と前後しながらついて来た。
     ホシガラスのシーラスもつかず離れず枝々を渡っている。監視しているのだろうか。
     縁ふちに着いた。
     この場所は後に「竜の口」と呼ばれるようになる。
     昨日と全く同じだ。地上は霞んでいてはっきりは見えない。明けたばかりの空は雲一つなく藍色が広がっていた。
     アトリがアルクスを見て言った。
    「父さん、戻ってくるまで元気で。」
    「お前もな。」
     アトリが前を向き直り、翼を広げた。数回羽ばたいてから、一旦翼を閉じた。そして崖を蹴って、逆巻く気流に向かって跳んだ。
     ヒワも慌てて後を追う。
     アルクスとマシコの姿が視界の片隅に映った。
     
     ミストラルの激しい流れの中、ぴったりと翼を閉じて石のように浮島の断崖に沿って落下していった。
     岩壁の気配がなくなった時、二人は翼をゆっくりと拡げた。
     いきなり翼を拡げると、風圧で翼がもげてしまいそうなことを二人は直感的に感じていた。
     また、そうでなくとも風はかなりの抵抗があり、少しずつ広げ速度を殺しながら、水平飛行へと持っていった。
     シュマリナイの湖面までは、また高度がある。
     見ると浮島の底、尖った岩がすぐ頭上にあった。この高度では、さほど気流は激しくない。
     ヒワとアトリは再び浮島に吹き戻されないように、急いで西の方角へ向け羽ばたき続けた。
     本当は焦る必要はなかったのかも知れない。
     どれほど羽ばたき続けたのだろう。
     浮島の上から跳んだ時には、視程は霞んでいて地上の様子ははっきりうかがえなかったのだが、今は朝日を受けて輝く湖岸、そしてゴールであるセタの邑がはっきり見えた。
    ―カヴァ、待ってて。
     ヒワの心にはその人の姿しかなかった。 
     
     

    第6章 皇宮

    1.召喚

    セタの宿所にて

     二人は安堵を持って迎えられた。
     ヒワは着地寸前にカヴァの姿を認めるなり、そのまま飛び込むように抱きついていた。
     この突然の行動に、アルシノエとクインツス、アヤハ、イータの表情が、笑顔から驚きへと変わった。
     
     アヤハとカヴァが、浮島に吸い込まれていくヒワとアトリの二人を目撃していた。直ちに古都の競技会運営委員会に報告され、大がかりな捜索隊が出された。鳥人は、月明かりでないと夜は飛ばない。その日、月の出は夜半とされていたため、一旦、日没とともに捜索は待機となった。
     その晩、みんなは一睡もせずにセタの宿泊所で待機していたそうだ。
     ヒワとアトリが戻ったという知らせは、すぐに運営委員会に届けられ、午後には総裁のクレンが副官を伴って直々に宿所に来た。数時間に亘って、細かい事情聴取を受けた。
     何度も訊かれたのは、もちろん浮島、天人に関することだ。
     ヒワとアトリは、覚えている限りのことを話した。アルクスのことも。
     アトリは何とかアルクスを地上に戻してほしいと懇願した。
    「皇宮にも知らせる必要がありそうだ。」
     クレンが、部下を振り返って言った。
     言を受けた副官は、一礼すると速やかにその場を後にし、夕闇せまる空へと飛び立っていった。屈強な鳥人は力強い羽ばたきを緩めもせず、高みへと駆け上がっていく。
     皇宮へと向かったのだろう。

     翌日、ヒワたちは皇宮へ召喚された。
    「驚くべき展開だね。」
     皇宮へと飛び立つ前、苦笑しながら、アトリがこぼす。
    「一生に一度あるかないかの滅多にない機会よ。ありがたくおもわなきゃ。」
     アヤハが笑いながら言った。崖街の一行全員が皇宮に行くことになっていた。
     もっとも内裏へは、ヒワとアトリしか入れないが。
     
     召喚の知らせは早朝にもたらされたため、ヒワたちはしっかりと朝食をとった。
     そういえば、昨日は朝食をレコンカグアの館で取って以来、クレンの事情聴取が終わってから出された、蒸した雑穀の塩むすびと魚のスープだけだった。
     レコンカグアが用意した浮島の食事は、食べ応えがなさそうにいて、不思議と腹持ちが良く、聴取の間も空腹を感じることはなかった。
     一方、セタは魚が豊富な湖尻だけあって、朝食は魚料理が充実していた。大き目のアユの飴炊き、コガニを油でカラッとげたもの、淡水貝の旨味がしっかり出たスープなど。
     宿所の料理人が、無事ゴールした若鳥たちのために腕によりをかけて出してくれたものだ。
    「あまり食べ過ぎると、飛べなくなるよ。」
     アルシノエがやさしく笑いながら、言った。

     セタ邑むらは、シュマリナイ湖からセタ河が流れ出る湖尻の河岸から数十米メートル登った丘の中腹にある。巨大なシュマリナイ湖には大小百の河川が流れ込むのに対して、流れ出る河はセタ河一本しかない。従って、普段は穏やかなセタ河の流れは古来より晩秋の大雨の後に決まって氾濫する。そのため、漁いさりを生業とする湖尻に住む人々は高台に居を定めるほかなかったのだ。
     発着場は丘のてっぺんに広がる草原だった。どちらから風が吹いても、飛び立つのは用意だった。
     ここからは両側から迫った山の間をすり抜けるように、シュマリナイ湖からセタ河が流れ出ていく様がよく見えた。
     これからヒワたちは皇宮に向けて出発するのだが、崖街以外のチームはすでに昨日システロンに向けて出発していた。
     ヒワはカヴァとあまり言葉を交わすことができなかったことが、とても心残りだった。
     いつもは、大会の当日に行なわれる表彰式であるが、今回の浮島の一件で、今日の夕方、崖街の一行が皇宮からシステロンに戻り次第、行われることになっている。
     吹き流し(ウインドソック)を見る。ほぼ無風だ。
    -その時会えるね、カヴァ。
     上空に雲はまだ現れていないが、向かい側の山の斜面は太陽の熱で暖まり始めているはずだ。
     
     ヒワはつぶやくと、北に向かって斜面を蹴った。

    邦の中心へ

     すぐに上昇気流(リフト)を捉え、旋回しながら高度を上げていく。
     すでに山の斜面のサーマルリフトが生きているようだ。この調子なら古都の中心にある皇宮まで順調に飛べるだろう。
     クインツスから、若鳥達は先に行くように言われているので、最後にクインツスが飛び立ったのを見て北へ向かった。
     古都の東側へと向かう山脈の上空には、積雲が列になって雲道クラウドストリートを形成している。
     右手のシュマリナイ湖の上空には、依然として巨大な浮島が圧倒的な存在感で浮かんでいる。
     それを見ながらヒワは不思議な心持がした。
     昨日、ヒワたちはあそこに居たのだ。
    -あれは夢だったのかしら。

     ヒワ、アトリ、アヤハはこれまでよりも密集した隊形で、前へと進んだ。
     ほとんど旋回する必要がないくらい、ストリートの下は強いリフトが続いていた。
     いままでの飛び方だと、雲の下の一定の高度を維持しながら前へ進む方法をとっていた。すなわち、滑空によって高度を失えば、次にリフトに当たった時にすぐに旋回し、高度を戻す、その繰り返しだ。
     しかし今日は違う。
     リフトが弱く高度が徐々に下がってきても構わず前へ進み、ほとんど稜線近くまで我慢する。そうすると稜線の様子が良く見え、強いサーマルリフトが発生しそうな地形が判る。
     そういった地形を選び強いサーマルリフトのみを拾うことにより、ほとんど旋回せずに前進速度を上げることができるのだ。
     これまで飛び方は、安全に高度を維持しながら飛ぶという意識だったが、今の方法だと稜線の高さまで高度を失うリスクがある。
     どうしてこのような飛び方をしようと思ったのか、実はヒワも解っていなかった。
    -今日はレースじゃない。
    -ただ楽しめばいいんだ。
     やや離れた後方を飛んでいたクインツスとアルシノエは目を見張っていた。
    「なんというリッジ・ラン。いつの間にこんな飛び方を。」
    「本能的に飛んでいるのかも知れない。」
    「・・・風の子ね。」
     
     皇宮が左手真横アビームの位置に見えた。
     ヒワたちは、一旦ガグルを作り、全員を確認してから、皇宮への最終進入ファイナルアプローチに入った。
     皇宮まで5粁キロメートルほどになった時、皇宮の南門の辺りから数羽の鳥人が飛び立ったのが見えた。
     皇宮を警護する近衛士の鳥人だ。
     四羽が力強く羽ばたきながら、ぐんぐん高度を上げてくる。
     あっという間にヒワたちに正対すると、すばやく回り込み、真横の位置についた。
     誰何する。
    「何者か、名乗るがよい。」
     クインツスが答える。
    「崖街の若鳥たちです。今日、召喚されました。」
     兜を被った精悍な鳥人が言った。
    「聞いております、ついてまいられよ。」
     近衛士の四羽が、崖街の編隊の四隅に付きエスコートし始めた。

    皇宮

     鳥人といえども、宮城の外壁を空から越えてはいけないらしい。
     ヒワたちは、南門の外側の広場に着地させられた。
     厳めしい軍装の近衛士たちだったが、ヒワたちへの扱いは丁寧だった。
     一行が翼を畳んだころ、槍を担いだ徒歩の衛士が四名やってきて、整列すると隊長が言った。
    「名を名乗られよ。」
     それぞれが名乗ると、それで確認は済んだようだ。
     鳥人の近衛士と徒歩の近衛兵は、向き合うと敬礼しあった。
     鳥人は、鋭いつま先のブーツをもう一方の片足に音を立てて合わせた。
     近衛兵は、手に持った槍を胴丸の胸に打ち付けた。
     これで引き継ぎは終了と思われる。
     そしてこちらを向いて言った。
    「こちらへ。」
     隊長が門の前で開門を叫ぶと、大門が音を立てて開いた。
     一般の者は、なかなか入ることができない場所だ。
     クインツスとアルシノエは、ふたりとも過去に伝令で入ったことがあると、朝食の時に話してくれた。
     門をくぐると、奥に同じくくらいの大きさの門が見えた。
     中門だ。
     その手前に、平屋の建物が二棟立っていた。
     貴賓館と呼ばれている。
     左側の建物の前に進んでいく。
     建物の扉が、内側から開いた。
     扉を開けた役人が告げる。
    「イバリ皇から召喚された二名以外は、ここで待機されたい。」
     アトリが不安げな顔をしたが、アヤハが笑顔でアトリを見つめた。
    「大丈夫だから、行ってきな」
     翼を収納する棚が設えられていた。皆がそれぞれの翼を置いた頃合いに、中で出迎えた官吏らしい人物が、クインツスに向かって言った。
    「クインツス殿。」
     クインツスは破顔した。
    「おう、これはイムノ殿。何年かぶりですね。」
     この二人は旧知の仲のようだった。
    「話は伺っております。ヒワ殿とアトリ殿は、この者がご案内します。」
     傍らに控えていた若い女性を示した。
    「ナミと申します。それではこちらへ。」
     ナミと名乗った官吏は、お仕着せの槐色の侍従服を翻して、入ってきたのとは反対側の扉へと向かった。
    「お残りの皆様はこちらの部屋へ。」
     イムノに従っていくと、そこは、ソファと長卓が何セットか設えられた明るい部屋だった。
    「ここは皇へ目通りを願う伝令や街の施設の控えの間でして。クインツス様がここに来られたのは6年程前でしたか?」
    「よく覚えていただいていますね。私が飛行学校の導者になる前の年です。」
    「あの時はイバリ皇が外に出られておられて、一晩ここに滞在させていただいた。」
    「さようでございます。東方で災いがありまして、皇自らお出ましになられた時です。」
    「アオラギ山の噴火ですね。」
     アルシノエが言った。
    「大変な災難だったと伝わっています。」
     崖街の一行に向かってクインツスが言った。
    「私は崖街から援助の申し出をするために、ここに参ったのだ。ところが一足遅く、イバリ皇は被災地に出立された後だった。イムノ殿は機転を利かせ、アオラギの近くで皇に拝謁する算段を整えてくれたのだ。」
    「皇は、崖街の民の援助を大層喜んでおられました。噴火が鎮まった後、被災された民に充分な援助を施されました。」
    「ささ、翼をお脱ぎになってお寛ぎください。」
     その時、別の扉が静かに開き、茶菓子を盛った盆をもった下僕たちが入ってきた。長卓に置かれた菓子は、上品で洗練されていた。下僕が温かい薬草茶を淹れてくれた。

    2.親書


     その頃、ヒワとアトリは、ナミと名乗った侍従の後に従い、中門をくぐったところだった。
     中庭を挟んではるか向こうに荘厳な屋根をいただいた巨大な宮殿が聳え建っていた。
     内裏だ。柱は鈍色で、壁は黄土色の落ちついた佇まいとなっている。
     ナミは、中庭を突っ切るのではなく、回廊に入っていった。
     ついて行く二人は緊張感が徐々に増してきていた。
     そんな気配を察したのか、先頭を行くナミが振り向いて言った。
    「皇は若い方の目通りを、ことの他お喜びです。」
     しかし、とヒワを想う。
    -この召喚は浮島に係ること。この500年の経緯をどう捉えられるのか。
     回廊を回って、神殿の袖に出た。
     一旦立ち止まり、ナミが控えている小姓に来訪を伝える。
    「皇はお待ちにございます。こちらへ。」
     袖の階段を上がり、正面へと続く廊下に出た。
     静々と導かれるままに進んでいく。
     ほぼ中央に達したところ、小姓が歩みを止めた。
     そして一礼すると、隅の方に下がった。
     それを合図にするかのように、御簾がするすると巻き上がっていく。
     ナミに従って一行は膝をつき、頭を垂れた。
     御簾の奥には皇座があり、そこに皇はいた。
     凛と響く声で、皇座の脇の侍従が言った。
    「崖町の若鳥をお連れしました。」
    「面おもてを上げよ。」 
     顔を上げると、皇座には柔和な笑みを浮かべた壮年の人物が座っていた。
    イバリ皇だ。
     簡素だが刺繡を施した、見事な輝きの直衣を着け、厳かに座していた。
     二人の顔をそれぞれ見ると、頷いた。
    「浮島に行ったそうじゃな。聞かせてくれ。」

    謁見

     すでにクレンに話していたので、二人がこの話をするのはこれが二度目だった。クレンの時は、矢継ぎ早に質問が飛び、それに答える形で話が繋がっていった。その時の報告が上がっていたのだろう、皇は、興味深げに二人の話を黙って聞くばかりだったので。緊張しながらも、二人は代わる代わる整理して話ができたと思った。
     
     一通り話が終わると、静寂が支配した。
     やがて、皇がアトリに話しかけた。
    「そなたの父、アルクスが浮島にいると。」
    「はい。」
    「心情は察するに余りある。」
    「・・・・」
    「なんとか戻るすべはないものか・・・」
     皇は虚空を見ながら呟くように言った。
    「500年前の戦の際、地上人が近づけないように天津衆あまつしゅうは浮島に結界を張った。しかし何十年かに一度、何かの具合で鳥人が吸い込まれてしまうという現象が起こる。行方知れずが出るとそういう噂が流れたものだか、天人はそれをミストラルと言ったのだな。」
    「はい。」
    「アルクスの時は誰も見たものはいなかったが、今回はミストラルに遭った者、そなたたちが生還しておる。
     ひょっとすると、再びミストラルが起こるとき、そなたたちが吸い込まれた<竜の口>から浮島に入れるやも知れん。」
    「次にいつ起こるか、予想することは難しいのではありませんか?」
     ヒワが言った。
    「これまでの天気の様子を、皇宮の天気読みに調べさせてみよう。予兆とか法則性を見つけねばならん。」
     イバリ皇は、しばらく考えて言った。
    「そなたたちは、良い話を持ってきてくれた。
     あの戦の後、結界まで張って、地上人との関係を断ったのだから、天人は我々に対して厳しい考えを持っているのではないか、という畏れが朕にはあった。
     まあ、アルクスはじめ、浮島に吸い上げられた地上人が戻ってくることができない理由も、そのせいなのかも知れぬ。
     ただ、天人の中には、さほどの激しい感情を持っていない者もいるというのだな。
     それは救いだ。」
     ヒワは目をぱちくりさせた。
    「再び、天津衆と友好的な関係を結ぶことができれば、アルクスを地上に戻すことができるやも知れぬ。」
     
     イバリ皇は、謁見の間の隅に控える小姓に向かって言った。
    「オリスを。」
     小姓は短く返事をして、ヒワたちが入ってきたのと反対側の扉から後ずさりしながらすばやく出て行った。
     ほどなくして、扉の向こうから声がした。
    「恐れながら、オリス様をお連れしました。」
    「うむ、入れ。」
     扉が開いて、音もなく入ってきたのは、青灰色が裾に行くに連れ紺色のグラディエーションになった軽快そうな装束に身を包んだ壮年の男だった。
    「呼び立ててすまぬの、オリス。」
    「恐れながら、皇におかれましてはご息災のこととお慶びいたします。
    本日は屯所に詰めておりましたゆえ、お召いただき恐悦に存じます。」
     口上を聞いてから、皇はかしこまっているヒワとアトリの方を見て言った。
    「そこにおる若い二人は、若鳥じゃ。」
     オリスと呼ばれた男は、落ち着きのある冷静そうな視線を二人に向けて会釈した。
     ヒワとアトリはそれぞれ名乗った。
    「この若鳥たちが、浮島に行って、還ってきたというのでな、話を聞いていたところだ。」
     浮島と聞いて、オリスの目に驚きの表情が浮かんだ。
    「浮島でアルクスに会ってきたそうだ。覚えておろうな、アルクスを。」
     オリスはさらに驚いた様子で、答えた。
    「アルクス殿。もちろんでございます。
     なんと生きておられたか。」
    「しかもそのアトリは、アルクスの息子だという。
     なんという巡り合わせであろうか。偶然とも思えぬ。
     何らかの意思が働いているように感じる。」
     皇は今度は、事情を呑み込めず不安な表情をしている二人の方に向き直って言った。
    「このオリスは皇宮付きの伝令頭だ。すなわち鳥人だ。」
     そしてアトリを見た。
    「アルクスの友人でもある。彼の失踪時には、捜索隊の指揮官を務めた。」
     オリスが苦し気に言った。
    「アルクス殿を見つけられなかったため、ずっと心が晴れませんでした。」
     皇が続ける。
    「オリスを呼んだのは、あの時のことをもっとも知る者だからだ。
     そして今回のそなたらの報告を踏まえて、われらが取るべき方策を立てることだ。」
     皇は自ら、ヒワとアトリが述べたことをかいつまんでオリスに話した。細かなことまで整然と、かつ必要な事柄だけを要約して全く無駄がなかった。
    「若鳥たちよ、補足することはあるか?」
     昨日、セタの宿所でクレンに話した時よりは、理路整然と話せたつもりだった二人は、あまりに正確にまとめた皇の話の見事さに、自分たちの話はまだまだたどたどしかったことに恥じ入るばかりだった。
    「いえ、ございません。」
     アトリがやっとのことで返すと、皇は、
    「他に思いだすことが合ったら、オリスに話せばよい。この後、貴賓館にて話す機会を設ける故。」
     皇はオリスに向き直った。
    「そちの考えを聞かせよ。」
     オリスは一瞬の沈黙の後、返答した。
    「恐れながら、今回の件、考えなければならないことが二つあると存じます。」
     皇は頷いて、先を促した。
    「ひとつは、浮島の結界が開いたということ、もう一つはアルクス殿が生きているということです。」
     皇はわずかに口元を緩めたが、何も言わなかった。
    「天人あまびととは、500年前の争い以降、我々地上人との接触がありません。結界が開いたということは、再び天人あまびとと接触する可能性が生じた、ということ意味します。天人あまびとと再び接触することが、吉と出るか凶と出るか、ここは慎重に考えるべきかと存じます。」
    「そちは、どちらと考えるか?」
    「・・・私は、むしろ吉兆と考えます。
     若鳥たちの話にあった、レコンカグアという天人あまびとの力を借りれば、我らと再び交流できるかも知れませぬ。」
    「ふむ、されど皇宮の評議員たちの中には、そうまでして天人あまびととの交流を復活させる利点はあるのか、という意見を持つ者もいるかも知れぬ。」
     皇はあごひげに手をやると、
    「・・・まあ、良い。
     アルクスの方については?」
    と言った。
     オリスはきっと瞳を上げて、皇を見据えた。
    「生きておられることがわかった今、何としてでも地上にお連れ申すべきかと。」
     イバリ皇は口を結んで、正面をしばらく見ていた。
     ヒワたちの位置からは見えなかったが、皇の視線の先には、皇紋があった。
     そして口を開いた。
    「朕も同意見だ。
     評議会を招集する。親書を準備せよ。加えて、直ちに皇宮の鳥人衆を選抜して即応団を編成するのだ。団長は無論お前だ。人選は任せる。」
     この展開に唖然としているヒワとアトリに気づくと、付け加えた。
    「崖街からも加われれば良いの。おぬしらの導者は何という?」
     アトリが答えた。
    「クインツスとアルシノエでございます。」
    「オリス、話をせい。」
    「はっ、かしこまりました。」

    貴賓館

     イバリ皇から労いの言葉と共に、直々に帰郷の許可が出た。
     ヒワとアトリは皇の前から下がると、ナミに導かれ、クインツスたちのところへ戻った。
     一行は、一旦システロンに戻ってから、崖町に帰ることとなった。
    「皇はなんとおっしゃったのだ?」
     クインツスが少し硬い顔でアトリに訊いた。
    「はい、父を戻せるかも知れないと。」
     クインツスとアルシノエが顔を見合わせる。
     そして、表情を和らげ、お互いにうなずいた。
    「良い方向へ進みそうね。」
     アルシノエがアトリに向かって微笑んだ。

     そこへ、オリスがやってきた。
     怪訝な表情を浮かべるクインツスとアルシノエで一礼すると、
    「オリス・カニー、と申す。皇宮直属の伝令鳥人の頭です。」
     オリスは、簡単に自己紹介をすると、イバリ皇の指示を話した。
     天人あまびと、特に天津衆あまつしゅうに向けた親書を作成し、アルクスを救出する組織をつくること。そのための評議会が招集されること。
    「崖街も本件には深く関係がありますので、評議会にはどなたか全権委員が参加されると良い。」
     ヒワ、アトリ、オリスのために三人分の薬草茶が運ばれて来た。
     それを合図に、皆が着席する。
     クインツスが口を開いた。
    「結界が、いつまで開いているかわからない。」
     オリスが答える。
    「そう、もはや開いていないやも知れぬ。
     すでに今日の天気は、2日前とは全く違う。」
     続けた。
    「皇は、今回のミストラルの発生状況を、過去の気象の記録を照らし合わせて分析するよう、天気読みたちにお命じになった。」
    「では、次にミストラルが起こるのを待つしかないのか・・・」
    とクインツス。
    「天気読みたちによって、何か予兆を得ることはできよう。」
    「貴兄が結成される即応団はその時まで待機ということでしょうか?」
    「さよう。」
     クインツスは少し考えてから言った。
    「相分かりました。私が崖街の代表として残ろう、良いなアルシノエ。」
    「承知。私は戻ったら、ズイウン校長と崖街の評議会頭に報告いたします。」
    「よろしく頼む。」
     クインツスがアトリを見た。
    「アトリ、今回は君も加わりたいだろう。」
    「はい。」
    「聞いての通り、すぐには事態は動きそうにない。
     気持ちはわかるが、アトリはみんなと一緒に崖街へ帰れ。
     そして、ズイウン校長と評議会の承認を得て、こちらに来ればよい。」
     アトリはしばらく黙っていたが、
    「わかりました。」
     ときっぱり言った。

    クインツスはオリスに向かって言った。
    「ところで、オリス様。
     アルクス様のことで、ずっと腑に落ちないことがあるのですが。」
    「申せ。」
    「オリス様は、アルクス様失踪の際の捜索隊長でアルクス様と友人でもあったということなら、ご存じかも知れません。可能であればお教えください。」
     オリスはクインツスの顔を見た。
     クインツスはにっこり微笑み、真顔に戻って言った。
    「アルクス様は、崖街の評議会からの伝令で古都へ向かった。それなのに、皇からの返書を受け取って崖街へ戻るのではなく、別の方向へ行こうとして消息を絶った。どうしてでしょうか?」
    「・・・」
    「彼は北に行こうとしていたのではないですか?我々は、クレパンという街を目指していたという情報を得ました。」
    「どこからの情報だ?」
    「北山の修道士からこれら若鳥達が聞いた情報です。ただ彼らはアルクス様から直接クレパンという名前を聞いたわけでありません。ですが向かった方角については修道士たちにとって、特に秘匿する理由はなかったようです。」
    「その通り。その情報は我らも得ている。
     だがな、その理由についてはそなたらに教えることはできぬ。機密事項だからだ。目的地がクレパンなのかどうか、目的地が当初の予定から変更になったか、を含めてな。」
    「なるほど、でも、クレパンに行こうとして、最短距離を取るならば、浮島に吸い寄せられかねない経路ルートを取ったとしても不思議はないですね。」
    「そうだ、それ故、我らは北山の尾根、山麓を徹底的に捜索した。しかし何も手がかりは見つけられなかったのだ。残るはシュマリナイ湖か、・・・浮島だ。」
    「いずれにしても、アルクス様は浮島で生存されていた、と。」

     崖街の一行は、イムノが用意してくれた馬駱バラ車に乗り、システロンまで帰った。すでに日が暮れていたからだ。
     二頭の馬駱バラで、四輪に支えられた客室キャビンを牽ひく乗り物だ。御者の後ろに4、5名の人間が向かい合わせに座ることができる。
     ヒワやアトリにとって馬駱バラ車に乗るのは初めてだった。
     崖街は坂と階段の街で、徒歩で坂を上り下りするのは大変だ。そこで裕福な者や、上貴は馬駱バラ車を使うのだが、その数は少なく高価だった。また車が通れるほどの広い街路は限られていた。そのため、一般の街人にはほとんど縁がないものと言って良かった。
     上貴であるアヤハや、導者の二人は乗ったことがあるかも知れない。
     ヒワとアトリの二人は興味深々だ。
     都の街路はよく整備されていて、振動も少なくすべるように進んでいく。
     若鳥の三人は客室キャビンの窓から、通り過ぎていく古都の街の風景を興味深く観察した。
     やはり上空から眺めるのとは、異なる風景だった。

     その頃、オリスは、彼らを見送ってから、忙しく動き始めた。
     まずは、評議会の会頭の屋敷を訪れ、ことの次第を説明した。
     評議会会頭は、話を聞くと、最初は面食らったようだが、すぐさま事情を理解し、秘書官に使いを出し、勅命により、明日、朝一で評議会を開催する旨、手配を行なった。
     次に、オリスは自身の屯所に戻り、当直士官たちを集め、即応団員の人選を始めた。思慮深く、機転が利く者を選ぶのにさほど時間はかからなかった。

    第7章 帰郷 再びイバラへ

    1.帰翔

     翌朝、崖街の鳥人たちは、クインツスや海街の鳥人たちの見送りを受けて帰路についた。
     これからのシーズンは、さらに滑翔ソアリングのための条件が良くなってくる。
     早朝というのに、すでに最初のパフが発生していた。
    「待っておるぞ。」
     クインツスが片手を上げて微笑んだ。
     ヒワを先頭に次々と飛び立つ。
     大気は動き始めているものの、まだ体を持ち上げるまでは強くない。
     そのため、ひたすら山肌を舐めるように羽ばたき続けて前へ進む。
     システロンの発着場を離陸した後、西山の東斜面を一旦北上し、セッツ山塊の南辺を西に辿る。
     今日の目的地はイバラだ。
     南斜面が日射で暖まるに連れ、斜面上昇風スロープリフトが発生し始める。
     しかし、ヒワはもはや8の字で高度を上げることはしない。
     斜面上昇風があれば速度を抜いて滑空グライドし、ないところでは高度が下がるのも厭わず加速する。
     水無瀬ミナセに差し掛かるころ、上昇風リフトがようやくまとまってきた。
    -それにしても。
     若鳥達を追いトレースながら、アルシノエは驚愕していた。
    -ヒワのこの飛び方、日に日にアグレッシブになってる。 なにかが憑りついたようだわ。

     ヒワは飛びながら歓びを感じていた。
     今朝、しばしの別れを告げたカヴァの胸の温かみ。そして滑翔ソアリングの感覚。
    -なんて素敵なの!
     
     すでに上空には、しっかりとした積雲が雲道を形造っていたが、雲底まで高度を上げる必要は感じなかった。 
     山稜リッジの少し上、樹々の葉が斜面上昇風で翻るのが視える高度で充分だった。
     ひたすら前へと進む。
     水無瀬ミナセという小さな邑むらが見えてきた。水無瀬ミナセは、セッツ山塊がセタ河の方向に向かってせりだして来ている尾根の麓にある邑むらだ。尾根は邑と同じ名前の水無瀬根という。
     尾根に沿ってセタ河に南下して近寄る理由はない。
     太陽は正中しようとしている。
     邑むらのはずれに空き地を見つけた。一旦着陸して休憩を取ることにする。アトリ、アヤハ、アルシノエが次々着陸した。
     離陸前の打ち合わせ通りだ。
     今日は、イバラを宿泊地とし、その途中で昼休憩をすることになっていた。どこで降りるかは、ヒワに任せられている。
     めいめいが携帯してきた水筒から喉を潤し、糧食を摂った。
     ヒワは、システロンで調達した麦こがしを齧った。
     アヤハが言った。
    「ヒワの飛び方、すごく進化してるわね、びっくりしちゃう。」
    「ついてくるの難しい?」
    「なんとかついていってる。大丈夫よ。」
     アルシノエが少しあきれたような声で言う。
    「ヒワの飛び方は、経験を積んだ伝令の飛び方そのものよ。まだ初フライトから一年たっていないのに、すごいわ。」

     小一時間ほど休んでから、一行は再び舞い上がった。 
     水無瀬根を越えると、南のセタ河に平行して西国街道が西へと延びているのが見える。
     目で西の方角を辿っていくと、春霞の遥か彼方にイバラの街が見えてきた。
     全体に白っぽい建物群や尖塔などが密集している様が見て取れる。
     良いペースで飛んでいる。
     風はセタ河を渡るように南の方角から吹いている。
     しかしそんなに強くはない。
    -これなら夕方早い時間には着けそうね。
     ヒワは心の中でつぶやく。
     セッツ山塊から発生する良好な熱上昇風サーマルリフトだけを使って、最小限の旋回サーマリングだけで進んでいく。上空2200米メートル付近には疎らではあるが積雲が連なり、リフトを捉まえるのに苦労はしなかった。
     やがてイバラの街がはっきりと視界に入ってきた。充分だろう。
     ヒワは後続に合図を送ると、翼をやや閉じ気味にして滑空ファイナルグライドに入った。
     徐々にイバラの街が大きくなっていく。
     見越しパス角は変わらない。むしろ深くなっていく。
     ヒワは翼をさらにすぼめ速度を増した。
     往路で降りた見覚えのある広場へは、充分の高度で到達した。翼を目いっぱい拡げて速度を落とす。
     ゆっくりと旋回しながら、地面の様子と風向きを確認して着陸体勢を整える。後続の一行も、ヒワの後に従う。

    2.アカザ


    着地した一行は、翼を脱ぐのも早々に、足取りも軽くこの前泊まった宿屋ハルンへ向かった。
    -帰る時の気分はこうも違うのか。
     うきうきした気持ちでヒワは想う。

     ハルンの宿に着くと、アネモネが笑顔で迎えてくれた。
    「皆さん、ごきげんよう。無事元気そうなお姿で何よりです。」
     アルシノエが訊く。
    「おかげ様で。アネモネさんもお元気そう。
     私たちが泊まれるお部屋ありますか?」
    「お嬢さんたちは二人1部屋でよろしいかしら?それなら今、3部屋なら空いていますよ。」
     卓上の帳簿を見ながら、アネモネが言う。
     そして、気が付いて付け加えた。
    「前回は、4部屋だったようだけど。」
    「クインツス様は、古都に残られたわ。事情は食事の時にでもお話します。」
    「何か立ち入ってはいけないことでしたら、遠慮いたします。」
     とすまなそうにアネモネ。
    「まずは、お部屋に荷物を降ろしたいわ。」

     夕食は、季節が進んだためか、この前来た時とは別の種類の野菜や果物を使った料理だった。どれも味が濃くなってきていて、食べ応えがあった。若い三人はむしゃむしゃと旬の料理を頬張った。
     まだ早い時間帯で、食堂には他に客はいなかった。
     食事を出してくれるアネモネに、アルシノエが古都での出来事をかいつまんで話した。ただ、皇宮での件は、邦くにの機密事項と考えられたため、触れなかった。アネモネは、中でも浮島にヒワとアトリが吸い込まれ、生還したことに大きな驚きを示した。
    「よくお戻りになりましたね。精霊に感謝いたします。」
     
     食事を済ますと、一行はアカザの店を訪ねた。今度はアルシノエも一緒だ。
     黄昏時、店の窓から明かりが漏れている。
    「こんにちは!アカザさん」
     アヤハが最初に入っていった。アトリ、ヒワ、アルシノエと続く。
     アカザは、アトリを見るなり、
    「きっと寄ってくれると思っていました。」
    とやさしく言った。
    「アカザさん、僕はなんてお礼を言ったらよいか。」
     とアトリは、泣きそうな表情で言った。
    「お父様とは会えたようね、それは良かったわ。でもそれは私が占ったからではないわ。占いはただ示すだけ。」
     占い師は、依頼者の話す内容に対して絶対的な秘守義務がある。アトリは、アルクスの様子はもちろん、浮島のことや天人あまびとのことも話した。
     アカザは、
    「驚いたわ、浮島から還ってきた来た人がいるだなんて。」
    と素直に言った。
    「占いでは、漠然としかわからないの。みんなそれは大変な経験をしたわね。
     そう、古都だけではなく、この邦くに全体にとって500年ぶりの大事件だわ。」
     そう言って後ろに控えているアルシノエに目をやった。
     アルシノエは頷いて、自己紹介した。
    「アルシノエです。この三羽の導者を務めています。」
     アルシノエは改めて礼を言うと、この後の動きを説明した。
    「アカザさんには、この後の吉兆を視てほしいんです。」
    「わかったわ。ちょっと待ってて。」
     アカザは頷いて言うと、奥に一旦戻り、準備を始めた。
     そして、四人を呼び寄せ、机に広げた地図のようなものの上に、紙のカードを並べて、アルシノエが言った関係者の名前を羽ペンで書いていった。
     イバリ皇と天人あまびとたちの名前を書くとき、いちいち呪文のようなものを唱えた。
     準備が済むと、部屋の明かりを消して、新たに大きな燭台に火を灯した。その蝋燭には、細かく文字、ヒワには読めなかったので、おそらく古代文字がびっしり書かれていた。
     アカザは分厚い本を自分の前に置き、頁を探って開いた。そして最初の頁を朗読すると目を閉じ、続きを唱え始めた。
     時々目を開け、カードに書かれた名前に指を添わせる。
     そのような動きを続けながら、全部のカードに触れると、ようやく唱が止んだ。
     そして蝋燭の溶けずに残っている上端に書かれている文字を読み、目を閉じた。 
     しばらく、黙ったまま目を閉じていたが、やがて、ゆっくり目を開けた。
     固唾を吞んで見守っている一人一人の顔を順番に見て、アカザは口を開いた。
    「今回のは、難しい。」
     眉間にしわを寄せた。こんな表情を見たのは初めてだ。
    「皇宮と浮島のところが霞がかかったようにぼやけてて良く判らないの。」
     申し訳なさそうに呟いた。
    「それに先に行くほど、吉兆と凶兆が入り混じってて、紆余曲折があるような啓示よ。
     ただ、割と近い未来に、アトリはアルクスと再び会うことはできそう。それには、オリスが重要な役割を果たしそうね。」
     アカザはアトリを見て言った。
    「オリスはあなたを助けてくれるでしょう。
     そこまでは視えるのだけれど、その先はわからないわ。
     ごめんなさい。」
     沈黙が店を満たす。
     対照的に、外はきらびやかな夜の街がこれから始まろうとしているかのように、人々が行き交い始めた。闇が深まり、イバラで宿を求める旅人たちが続々と到着しているのだ。
    「わかりました。それだけ教えていただければ充分です。」
     アトリがアカザに向かって静かに言った。
     何か決意を込めたような言い方だった。

     アルシノエは決まった料金に加えて、充分な謝礼をアカザに支払った。崖街の公費である。金銭には代えられない啓示だったからだ。啓示は事実や事象ではないので情報とは言えないが、イバラの占いはそれほどの価値があることで定評があった。
     崖街の一行は、アカザの店を出ると、幻想的に揺らめく街を散策しながら、この街ならではの珍しいものをそれぞれがお土産に買った。
     そしてそれぞれの想いを抱いて眠りについた。

    終章 エピローグ

     
    昨日までの荒れた空気とはうって変わって、空は良く晴れ、すでに「おいしそうな」積雲が空一面に浮かんでいる。
     しっかりと底が平で暗く、ぽっこりと膨れた上部は白く輝いている。
     今日は絶好のソアリング日和だ。
     崖街の最も高い位置にある発着場にヒワは立っていた。
     1か月前のシステロンでのことを想い出す。

     ヒワたちが皇宮から戻るのを待って、大会の結果が出た。
     一着でセタにゴールしたのは、アヤハだった。すなわちチームとしては崖街が優勝したことになる。
     海街のカヴァとイータはそのすぐ後、僅差で二位となった。
     もっとも、アヤハはヒワとアトリが浮島に吸い込まれるのを見て、急いで知らせることばかりが頭にあったので、一位になったことを自分自身が一番驚いていたそうだ。
     表彰式の後、祝賀会があった。
     ヒワはカヴァを会場から誘い出して、いつか雨の日に話をした場所に行った。
     内庭を臨む回廊だ。
     ここだと人目を気にせずに話せる。
     二人は並んで中庭の樹を観ていた。
    「準優勝おめでとう、カヴァ。」
    「優勝は君たちだろ?
     それより君が無事戻って来られたのが何よりうれしい。」
     カヴァは言葉を途切らせた。言おうか言うまいか迷っているように見えた。
     
    「あの時、君を助けなきゃと思ったんだ。でも距離があったし、イータを守らなければならなかったので、できなかった。」
    「いいのよ。あれは一瞬のことだった。何が起こったのか後になって初めて理解したから。」
     ヒワがカヴァの方を向いて行った。
    「あなたに会いたかった。このまま帰れなくなるのはイヤだった。」
     カヴァもヒワを見た。
    「僕もだ。」
    「いつか会える?」
    「会えるさ、きっと。」
     どちらからともなく、両手を伸ばし、そしてしっかりと抱き合った。
     カヴァの胸に顔をうずめながら、ヒワは心の奥に安心感を覚えたのだった。

     崖街に還ってから、ヒワはもちろん両親から涙ながらに抱擁された。
     当然だ。大変な経験をして娘が元気な姿で戻ってきたのだから。
     競技会の遠征を終えると、若鳥たちは飛行学校に属しながら、鳥人として見習いの仕事を始めることになっていた。
     まずは、崖街の中での伝令だ。崖中に造られた崖街は、どこへ行くにも昇り降りが多く、街人は鳥人に伝令を頼むことが多かったのだ。
     ヒワとアヤハはそんな慣例に従って、せわしなく崖街の階層を飛び回りながら、崖街や邦についての勉強を修めていった。
     アヤハはすでに上貴であるが、ヒワは卒業すれば下貴としての身分が与えられることなっている。
     アトリはというと、父アルクスの生存が確認されたことで、皇宮付きの鳥人見習いとなり、オリスの下で、セタ邑むらで次にいつ起こるかも知れないミストラルを待つことになった。
     再び浮島に入り、アルクスを連れて戻る任務が与えられたのだ。

     カモメのアステアが、斜面上昇風で空中に静止しながらヒワを見ている。
    -まったく。私はあなたの召使いじゃない。
    -そう言わないで、アステア。あなたには感謝している。今日、カヴァがマノスクまで伝令に飛ぶことを知らせてくれたのだもの。
    -海でアジサシのハッカに遭ってね。奴から聞いたのさ。一緒に飛ぶそうだ。
     マノスクは海街への遠征の際に泊まった街だ。
     一日で行って帰って来られる。
     ヒワは口には出さなかったが、もしイータが一緒だとしても、それは関係ない。
    -カヴァ、待ってて。あなたに会いに行くわ。

     ヒワは、翼を広げると地面を蹴って大空に飛び立った。


    完



     


     












      



     
     
    空と鳥が好きです。 青空に浮かぶ積雲を見るとわくわくします。

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