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個人の善意に依存しない仕組み

    組織というものを長く内側から見ていると、
    ある種の皮肉に気づくことがある。

    それは、
    「一生懸命な人の踏ん張りが、よからぬ構造を延命させてしまう」
    という事実だ。

    多くの組織は、最初から歪んでいるわけではない。
    ただ、仕組みが未成熟なまま、
    個人の善意によってかろうじて回っていることがある。

    誰かが判断をしない。
    誰かが責任を引き受けない。
    ルールは曖昧で、役割分担も不明確。

    それでも、
    「困る人が出るから」
    「自分がやらなければ現場が止まるから」
    と、誠実な誰かが踏ん張る。

    すると、何が起きるか。

    患者は救われ、
    利用者は充足し、
    決定的なトラブルは表に出ない。


    その結果、上層部からはこう見える。
    「特に問題は起きていない」
    「現場は何とか回っている」

    本当は、
    誰かが無理をして回しているだけなのに。

    一生懸命な人は、
    構造の欠陥を埋める「クッション」になってしまう。
    その善意が、組織の歪みを覆い隠す。

    やがて、
    踏ん張っている人だけが摩耗し、
    何もしない人は
    「自分は問題を起こしていない」という顔をして残る。

    これは、特定の職種や業界に限った話ではない。
    医療、教育、行政、企業。
    あらゆる場所に、この残酷な構図は潜んでいる。

    だからこそ、
    本当に成熟した組織は、
    個人の善意に依存しない仕組みを持っているのではないだろうか。

    「人は疲れる」「判断を誤る」「責任から逃げたくなる」
    その弱さを前提に、役割と権限と責任を、
    冷徹なまでに切り分けているのだと思う。

    一方で、善意に依存した組織では、誠実な人ほど先に壊れていく。
    そしてある日、限界を迎えて踏ん張ることをやめた人が、
    周囲からは「冷たい人」のように見えてしまうことすらある。

    けれど、踏ん張り続けることだけが正しさではない。
    むしろ、「これは構造の問題だ」と見極め、
    自分の命や心を削り続けない選択をすることも、極めて重要な決断だ。

    組織を一人で救うことはできない。
    動かない構造を前にして立ち止まることは、
    誰の責任でも、誰の失敗でもない。

    「善意だけでは、仕組みは良くならない」
    その少し苦い現実を受け入れることから、
    本当の「仕組み作り」は始まるのではないだろうか。

     
     
    生と死の間に佇み、ことばを拾っている 医の刃が鈍るたび、無力なこの指を噛む 境界で迷い、すぐ深みに沈む 光より影にいると、こころが静まる 恐る恐る、更なる深淵へ足をのばす

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