
ずっと、一緒だよ⑲
終章 私の罪
【現在・夫のいない夜】
麻緒と二人きりの夜がまた来た。
ずっと、来ないでほしかった夜が。
食器を洗いながら私が麻緒をちらちら見ていると、麻緒が立ち上がってキッチンにやってきた。
思わず私は後ずさった。包丁はそこだ。
麻緒がにこやかに微笑む。
「ママは、勘違いしてるわ」
「えっ? な、何を?」
「麻緒を殺したのは、私じゃない」
璃子ちゃんの声が、刃のように私の胸を刺す。やっぱりこの子は、璃子ちゃんだ。
「ねえ、ママ」
一歩一歩近づいてくる。
「麻緒のアームカットの痕、見たわよね?」
「……」
「見たのに、整形を勧めたわよね」
また一歩。
身体が震える。動けない。璃子ちゃんがまた一歩近づく。
「あんた、ほんとはどっかでわかってたでしょ? うちの火事だって、町中でうわさになってたんだから」
璃子ちゃんがまた私に近づき、私は後ずさった。背中が壁に当たった。
「それ、何の涙? 自分への憐憫?」
璃子ちゃんの後ろから、薄黒い影がすうっと漂った。まるで、璃子ちゃんの身体の中から這い出てきたように。
璃子ちゃんの顔の上に、三年前に削り取った麻緒の顔が現れ私をにらんだ。
「あんたにあげたサプリ、つぶした蜘蛛の粉よ」
消えたはずの麻緒の顔が、璃子ちゃんの声でけらけらと笑う。
「あんたに飲ませると思うと、蜘蛛を探すのも苦じゃなかった」
あははははと笑って、
「あんたにあげる前から、ずっとあんたのお味噌汁に入れてたんだよ」
黒い粉がのどや胃に引っ付いているようでえずいた。胃の壁に張りついた粉が、今さら主張し始めるように蠢いた。
カサ カサリ
私の胃壁に、あの節くれだった細い脚がびっしりと吸い付いている。何十、何百という蜘蛛が柔らかな粘膜を這い回っているようなおぞましい感触。
「……っ、げほっ、あっ、がっ……!」
こみ上げてくるものを吐き出そうとシンクにすがりつくが、出てくるのは糸を引く唾液だけだ。体内に取り込んでしまった悪意は、すでに私の血肉に溶け込み逃げ場を失っていた。
麻緒の顔が璃子ちゃんの顔に戻った。そしてまた麻緒の顔に戻りまた璃子ちゃんの顔に戻り……。世界が溶解していくように、もうどちらの顔かわからない。
ずいと目と鼻の先に迫った顔は、璃子ちゃんだった。
「あんたが、麻緒の心を打ち砕いたんだよ」
その言葉は、私の耳から脳漿へ直接、冷たい楔(くさび)を打ち込むような鋭さを持っていた。
違う。違う。私は愛を教えてきたはずだった。何も持たないものは獲物となり醜い蜘蛛たちに命を啜りつくされてしまう。
麻緒は何一つ持たなかったから私は麻緒の醜い鼻を削り腫れぼったい目を切り開き、彼女を「愛されるべき形」に作り替えた。それは親としての愛のはずだった。
なのに璃子ちゃんの一言が、私の心の深層に張り巡らされていた正しさという名の防壁を容赦なく突き破っていく。
鏡の中にいた美しい私がひび割れ剥落し、その奥から何かが現れてくる。
「……わ……私は……あの子のために……」
璃子ちゃんがかがんで私に抱きつき、耳元で囁いた。
「どうして、ここに残ったと思う?」
あはははははっと狂気じみた笑い声が耳をつんざいた。
「ねえ、もうそろそろ、あんたの魂、蜘蛛に啜りつくされるでしょう?」
私は思わず、すがるように手を合わせた。
合わせた手が強い力ではたき落とされた。
呪いそのものの目が、私をにらみつけていた。
「何救われようとしてんだよ!」
璃子ちゃんの後ろに漂っていた薄黒い影の上に削り取った顔が現われ、その一重の目が私をにらみながら影がすうっと私のほうへ動いた。
こ、来ないで!
ゆっくりとやってくる顔と影。どこか遠くに繋がっているそれは、重く冷たく湿っていた。
『いらない』とそれは存在そのもので私にわからせてきた。私が麻緒にやってきたように。『いらない』『いらない』『いらない』『いらない』『いらない』『いらない』『いらない』『いらない』『いらない』『いらない』『いらない』
麻緒にかけた呪いが私に返ってくる。
──いらない。
口角の下がった薄く血の気のない唇が私の唇に触れた。
冷気が唇から喉へ、胸の奥深くまで一気に流れ込み全身の血が凍りつく。
薄い唇は私の唇を貪るように吸い上げ、まるで私の魂ごと啜り取るかのようだ。
「ま、麻緒……ゆ、許し……っ」
言葉にならない懇願が、唇の隙間から漏れる。
麻緒が私の喉を這い降り、食道を押し広げ胃の奥まで侵入してくる。毒液のように内臓や筋肉、脂肪に浸食し、手足の先まで入り込んでくる。
私の目から涙がこぼれ落ちた。
「ずっと、一緒だよ」
私の声ではなかった。私の口から出たのに、私の声ではなかった。三年前に消えた声だった。
私の両手が、自分の意思とは無関係に前に出された。まるで、四歳の麻緒が私を求めたように。
消えゆく意識のあわいに、璃子ちゃんの声がかすかに聞こえた。
「麻緒、ずっと、一緒だよ」
了
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『ずっと、一緒だよ』