見出し画像

インドで致死量の混沌を浴びて、どん底からサバイブした

何度もインドに行くわたしに、インド人からも日本人からも「インドの何がそんなにいいの?」と訊かれるが、わたしはいつも、「カオス」と答える。混沌。 19歳の時、わたしがインドを初めて訪れた時にまず抱いた所感でもあり、20年経った今でもそれは変わらない。

前回は夫と2ヶ月滞在していた。
本当は、未訪問の国に行きたい。毎回、苦しい、悔しい、辛い思いをする。お腹を壊す。変な人に絡まれる。不自由なことがこれでもかというくらい起きる。

なのに、わたしはなぜまたインドに行ってしまうのだろう。

バラナシ(2009)


🐂 🐂 🐂


どん底の精神状態でインドへ

20歳の夏、当時、わたしは人生のどん底にいた。
現実から逃れるため、もうどうにでもなれ…とやけくそ気味で訪れたのが、インドだった。

インドには前年、大学の仲間と一緒に農村地域での住居建設のボランティア活動で一度訪れていたが、もう一度行ってみることに決めたのだ。これが、ひとりバックパッカー旅のデビュー戦にもなった。

心身ともにどん底だったので、当然、「いってきまーす!わくわく!」のテンションではない。真っ暗な底なし沼の中で、ただもがくしかないような状態だった。

ひとりで夜のコルカタに降り立ったときの、バクバクする心臓、胸が張り裂けそうな心細さ、不安でいっぱいだった時のことを今でも覚えている。暗闇の中にいる無数の人々の目が車のライトを受けて光っていた。

一人で不安に押しつぶされそうなとき、お守りのようにしていた言葉がある。

「寒さと暑さと、飢えと渇えと、風と太陽の熱と、虻と蛇と、─これらすべてのものにうち勝って、犀の角のようにただ独り歩め。」

ブッダのことば

ガイドブック「地球の歩き方 インド」の扉に書かれている一節だ。きっと、かつてのわたしのような旅人の背中を押すために書かれているのだろう。

カルカッタ(2006)


致死量の「混沌」を浴びる

翌朝、宿から出るのも躊躇うくらい足がすくんでいたが、思い切って街に出た。それから滞在中の数週間は、とにかく、致死量の「混沌」を浴び続けた。一瞬のうちに、視界のあちこちで同時多発的にいろんなことが起きるので、脳内処理が追いつかず、パニック状態になる。

それは、ごみを漁る犬であり、わたしの手を引いて裸足で駆け回る子どもであり、物乞いをする手足のない人であり、殺戮の神に捧げるヤギの血であり、ベビーシッターとして働く幼い少女であり、店先に頭を突っ込んで店員にバシバシ叩かれる牛であり、システム化された詐欺であり、ガンジス川に遺体が燃やされた灰を流す真横でスイミングする子どもとして、わたしの前に現れた。

ひとつひとつの事象を通して、わたしに「生とは何か」「豊かさとは何か」とあらゆる問いを投げかけては、次々と迫ってくる感じだ。
その「混沌」の中で生きている人々や、その暮らしぶりに、とんでもなく膨大な生命エネルギーを感じた。

そしてインドに慣れてくると、その混沌の中にも、不思議な秩序が感じられる。わたしはこの、「無秩序な秩序」がとても心地良く感じた。

生死、貧富、美醜、聖俗、善悪、浄と不浄…
「全ての物事は表裏一体である」…

頭ではなんとなくそうだなと思っていた概念だが、実感として伴ったのはインドを訪れてからだった。

たとえば、それまでのわたしにとって、死は”特別なもの”だったが、ここではあまりに日常に近い。視覚的に生と死が同時に目に入ることで、一気に解像度が上がったのである。(表裏一体というか、裏面も表に出ちゃってる感じというのか…)


当時、ちょうど20歳の時に読んだ「二十歳の原点」という本で、ある一文を見つけた。授業で教わった本で、わたしの大学の先輩にあたる著者、高野悦子氏が、自死する前に書いた日記である。

「私の生活が混沌としたものである以上、整理する必要はない。それどころか、わたしには混沌さが、まだ足りないのではないか。」

「二十歳の原点」高野悦子

これを読んで、そうか、わたしにも混沌が必要だったのだ、わたしは混沌を求めてインドに行っているのだと思った。


バラナシ・ガンジス川のほとり(2006)


混沌の中でサバイブする力

インドは概念的な揺さぶりをかけてくるだけではない。
インドを旅していると、実際に、困ることが多い。思い通りにならないことばかりだ。そもそも計画を立ててもだいたいうまくいかないので、わたしはもはや計画を立てたくない。

たとえば、電車来ない!電気つかない!店開かない!順番が来ない!予約したのに席がない!シャワー出ない!などなどは日常茶飯事である。次はこう来たか!とワクワクしてしまうくらいだ。

思い通りにならないので、「別に毎日風呂入らなくてよくない?」とか、「電車来ないからチャイ飲みに行こう」とか、「電気つかないから星見に行こう」みたいな、「発想の転換」が常に必要になる。

そもそも、自分が持っていた物差しを見直すことにもなった。「そうあるべき」とか「〜すべき」とか。あらゆる固定概念が、ぼろぼろと剥がされていくような感覚だった。
つまり、ある不可抗力の出来事に対して、柔軟に適応していく力がつく。

これは、インドの「ジュガール(Jugaad)」という概念に通ずるものがある。簡単に言うと、「ある物で何とかする」というマインドのことである。いわゆる「ハック」に近い。
限られた資源、ありあわせのもの、手持ちのカードをもとに、知恵を振り絞り、工夫し、完璧じゃなくても、発想を転換して何とかやってみる。

わたしはこの概念を最近知ったのだが、なるほど、わたしがインドでこれまで得たものは、発想の転換というライフハックでもあったのだ。


当時はごちゃごちゃの電線に驚いていた(2006)


🐂 🐂 🐂


破壊と再生の神に導かれて

致死量の混沌を浴び、その中でインドから怒涛の問いを投げかけられた経験が、私にとってはショック療法になったようだった。

自分自身の悩みをくよくよ考えている暇はない。向こうから、「インド」が押し寄せてくる。そして「インド」は常に問うてくる。「それで、お前はどうするんだ?」と。

混沌の中でサバイブするためには、否が応でも自らの生存本能が研ぎ澄まされる。決断力、適応力、状況を打開する突破力、人を見る目、リスク管理、学ぶべきことはたくさんあった。

そして、まったく未知のものに出会うときのアドレナリンが出まくる感覚が忘れられず、すっかり旅にハマってしまったのである。この経験のおかげで、その後も何とか生きながらえることができた。

以前、バラナシで出会ったインド人のお兄さんが、「何があってもシヴァ神があなたを守ってくれる」と言ってくれたことがある。わたしが何度もインドに行ってしまうのは、そのシヴァ神のお導きなのではないだろうかとふと思った。

シヴァは破壊と再生の神である。破壊によって、再生が促されるのだ。いろいろぶっ壊したくなった時に行きたくなるのかもしれない。その時は、またあの混沌の中へ帰っていくのだろう。



いいなと思ったら応援しよう!