
Episode19
「今日も、実に見事な青空ですね」
2027年7月通勤電車の液晶画面の中で
AIキャスターがいつもの完璧な笑顔で微笑んでいる
車内の乗客は誰一人として声を出さない
全員がスマートグラスをかけ
網膜に投影される
「パーソナル最適化ニュース」を眺めている
隣の男のグラスを盗み見ようとしても
偏光フィルターのせいで何も見えない
僕――タカシの手首で
ウェアラブル端末が静かに振動した
【通知:市民幸福度スコア】
現在のスコア:82 / 100
理由:今朝、鏡の前での笑顔の持続時間が2秒不足していました。メンタルヘルス維持のため、次の交差点を渡る際は『前向きなステップ』を意識してください。
「……クソ。また引かれたか」
声には出さない喉の奥で呟くだけだ
2026年「SNS・対人感情調和法」の施行以来
街中の至る所に設置された
高感度マイクと感情認識カメラが
市民の不協和音を監視している…
怒り、悲しみ、不満といった負の感情は
社会の生産性を下げる「精神的汚染物質」として
厳しく制限されていた
オフィスに到着し自分のデスクに座る
僕の仕事はAIが生成した
「幸福なプレスリリース」の文言に
人間らしい「温かみ(15%分)」を
スパイスとして加える作業だ
ふとデスクの隅に置かれた
古いノートが目に入った
2年前に亡くなった祖父の遺品だ
そこには殴り書きのような文字で
こう記されていた
「ネットが遮断された世界を想像してみろ
不便だが誰にも思考を覗かれない!
俺たちは便利さと引き換えに
退屈な天国を買ってしまったんだ
人間はいつの時代も愚かだ…」
2027年の今
世界から戦争や犯罪はほとんど消えた
なぜなら犯罪の兆候心拍数の上昇や脳波の乱れを
見せた者は実行に移す前に
予防的カウンセリングという名の隔離病棟に
連れて行かれるからだ
誰も怒らない 誰も争わない
そして、誰も本当の意味で笑わない…
昼休み僕は会社の屋上へ向かった
ここはカメラの死角がほんのわずかに存在する
僕だけの秘密の場所だ
ポケットからあらかじめ用意しておいた
本物のレモンを取り出す
今やビタミン剤やフレーバーカプセルが主流となり
生の果物は贅沢品であり
同時に不規則な刺激物として推奨されていない
レモンにかじりつく
強烈な酸味が口いっぱいに広がり
思わず顔が歪んだ
「……うう、酸っぱ……」
涙が出そうになるほどの刺激
しかしその瞬間
僕の胸に確かな「生」の感覚が宿った
マニュアル化された幸福でも
AIに指示されたステップでもない
自分自身の肉体が原始的な痛烈さに驚いている
その時手首の端末が激しくアラートを鳴らした!
【警告:異常な自律神経の乱れ】
心拍数および表情筋に
急激なネガティブ変化を検知
直ちに深呼吸を行い
速やかに最寄りの『メンタル調律ステーション』へ
向かってくださいとお知らせが届いた
「うるさいな!」
僕は端末を無視し青空を見上げた
今朝AIキャスターが言った通り
確かに見事な青空だ
けれどその青さはどこか
ガラスケースの向こう側にある
偽物の世界のように澄み切っていた
もう一口、レモンをかじった
スコアはさらに5ポイント下がった
だが僕の心はここ数年で一番スッキリとしていた
人間はこの地球で間違えるという自由を
体験しにきたはずなのに…
正解しか許されないこの世界はディストピアだ…