気持ちより評価が届く家― 母は母、私は私になるまで ―
今年も、父の誕生日にうなぎを送った。
ここ数年、毎年うなぎを送ることにしている。
数年前、肺がんの手術をした父は、その後、食欲が目に見えて落ちていった。会うたびに痩せていく姿が心配で、少しでも元気が出ればと思い、送ったのがうなぎだった。
「うなぎを食べてから食欲が戻ってきたんだ」と、父がいつもより弾んだ声で話してくれた。その声のリズムが嬉しくて、ほっとしたのを覚えている。
だから今では、小さなゲン担ぎ。
今年もまた、「元気でいてね」の気持ちを込めて、うなぎを送った。
数日後、「ありがとう」と連絡が来て終わる。
ただそれだけの話で終わると思っていた。
案の定、宅急便が届いた後に私のスマホが鳴った。
父からだった。
「誕生日カードつきの、豪華なウナギが届きました。ありがとう。」
「お母さんに代わるね」
それは、毎年変わらない小さな儀式のようなものだった。
ところが電話の向こうから聞こえてきたのは、思いもよらない言葉だった。
「届きました。ちょっと去年より小さく見えるわ。」
私は思わず言い返した。
「ほんと昔から余計な一言言うよね」
すると電話の向こうで父が、「余計なこと言わないの」と母に言っていた。その場では笑い話のように終わった。
けれど、なぜだろう。
私は妙にモヤモヤしていた。
モヤモヤしていたのは、うなぎの大きさではない。
私はうなぎを評価してほしかったわけじゃない。
大きいとか、小さいとか。
高いとか、安いとか。
そんなことではなかった。
父の誕生日を祝いたかった。
元気でいてほしかった。
ただ、その気持ちを受け取ってほしかった。
だから本当は、「ありがとう」
その一言で十分だった。
けれど母から返ってきたのは感謝ではなく評価だった。その瞬間、胸の奥で長い時間ばらばらだった点が結ばれた気がした。心の深い場所から、幼い頃の記憶が溢れ出してきた。
私は子どもの頃から、ずっとこれを経験してきたのかもしれない。
気持ちより先に評価が届くこと。
愛情の中に、いつも比較が混ざっていること。
頑張った。
嬉しかった。
悲しかった。
悔しかった。
本当は、そんな気持ちを受け止めてほしかった。
でも返ってくるのは、
「もっとこうしたら?」
「次は気をつけなさい」
「前よりは良くなったね」
そんな言葉だった。悪気があるわけではない。母はきっと、良かれと思っていた。私の成長を願い、失敗してほしくないと思っていた。
だから助言をする。
評価をする。
比較をする。
けれど私が受け取っていたのは、「今のままでは足りない」という感覚だった。
昔は、母の言葉が真実だった。
それが全てだった。
「あなたはこういう人」と言われればそう思ったし、「もっと頑張りなさい」と言われれば頑張った。
母の言葉は、私の内側に住みつき、いつしか私自身の声になっていた。だから、その言葉はとてつもなく苦しくて重かった。
けれど、自分の人生を生き始めてから気づいた。母の言葉は、母の見ていた世界の話だったのだと。
それと私の価値は、決して同じではない。今ではそう思える。
母の言葉は母のもの。
私の人生は私のもの。
そう頭では理解していても、未だにこうした出来事に触れると、幼い頃の記憶は蘇る。
「もっと頑張らなきゃ」
「もっと結果を出さなきゃ」
「もっと認められなきゃ」
その声は、本当に自分の声なのだろうか。
今でも何度も問いかける時がある。
そしてそのたびに気づくことがある。
私が欲しかったのは、評価ではなかった。
受け取ってほしかった。
わかってほしかった。
ただ、気持ちを見てほしかった。
それだけだった。
後で確認すると、送ったうなぎは去年と同じグラム数だった。小さくはなっていなかった。その事実を知った時、思わず笑ってしまった。
うなぎは去年と同じ大きさだった。
けれど私は、去年より少し大きくなっていたみたいだ。
母は母。
私は私。
その境界線を今でも学び続けている。
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