
休養を阻むもの 退屈
人には休養が必要である。
しかし、休養は退屈でもある。
退屈はショーペンハウアーでさえ、克服が難しいものであるという。
ヤツから逃げろという投稿でも記したが、人は何もせずにじっとしていることができない。
何もせずにいるとネガティブな思考が襲ってくるからだ。
人生は暇つぶしだと嘯く人がけっこういる。
仕事も暇つぶしなら、勉強も、遊びも、何もかも退屈から逃れるためにやっていると。
じっと何もしないでいるとヤツ(ネガティブな思考)に襲われるので、そうならないよう人は何かをして気を紛らわせないといけない。
(むろんこれは理由があって、原始の人間というものは狩猟にせよ、農耕にせよ、ずっと動いていないと生存できなかったことによる。ヤツに追われるのは文明が発達し、生活に余裕ができたからだ。)
そうしてずっと活動していると、いずれ疲れる。
疲れたら休まねばならない。
しかしそうするとヤツが現れる。
そこで登場したのが、禅やヨガ、マインドフルネスといった瞑想だろう。
無心になることで心身を休め、ヤツからも逃れられる。
禅寺では、座禅のほか、あらゆる作業に今ココということ意識し、それに集中することを求められる。食事のときはいっさい音をたてないことで食事にだけ意識を集中することができる。禅寺の美しい庭も、意識をそこに集中するためのものといっていい。
しかしこれも、私の経験からして、かなり高度な適度さが求められ、過度な実践は逆効果となる。
そもそも無心になること自体、容易なことではない。
いくら無心になろうとしても、すぐに雑念で湧く。
瞑想は脳の活動を休止する作業でありながら、ふつうの人なら脳の活動を止めるという作業を行っていることになる。
瞑想を初めてして、よい心地がしたとしても、毎日やっているときっと上手くいかなくなってくることがわかるだろう。
それはそれで脳を使っているからだ。
そこで現代人が手にしたヤツから逃れる最強のツールがスマホである。
現代人は四六時中これを睨むことで見事ヤツから逃げおおせることに成功した。
一説にはゲームに没入するときの脳の状態が座禅をしているときと同じだともいう。
しかし、いくら座禅に似た脳の状態を作れたにせよ、スマホに代表されるデジタル機器が脳や神経を疲労させるのは明白だ。疲弊と言ってもいい。
しかもそれは、かつて人類が経験したことのない疲労なのだ。
身体はぜんぜん疲労していないのに、脳や神経ばかりがやたらと疲労している。
スマホの身体への悪影響はすでに子供の睡眠時間に出ている。
子供に限らず日本人の睡眠時間は世界トップクラスに短い。
デジタル機器は神経を昂らせる。
これでは十分に身体を休められることはできない。
現代人は疲労とは肉体的な疲労と誤解しがちである。
よって身体を休ませることに鈍感になっている。
多少の疲労や不調ならば、休息よりもスマホをとる。
それほどまでに人は退屈を厭う。
しかし、それが脳や神経の疲労を起こしている。
人の人生にはいろんな壁が立ちはだかるものだ。
禍、人間関係、ケガや病気、事故等々、いずれも避けられるものなら避けたいものばかりに違いない。
しかし、人がもっとも避けているのは、じつはこの退屈なのである。
ひょっとする人間は、この退屈さえ苦でなくなれば、人間関係も成長も、ひょっとすると進歩も、しなくなっているかもしれない。
とどのつまり、人がなにも考えずに休息がとれる唯一の方法が、
睡眠ということになる。
みんなそれがわかっている。
だからこそ、睡眠によいとされるものにみな飛びつくわけである。
しかし一方でスマホは手放せない。
スマホは神経を高ぶらせ、睡眠の妨げとなる。
現代人はこのジレンマに陥り、結果足し算の健康法に頼らざるを得なくなっている。
現代人の疲労を解消するには、やはりスマホを手放さねばならない。
しっかり休養を取ろうと思えば、まずスマホに代表されるデジタル機器を遠ざけねばならない。
しかし、人はそれよりなにより退屈が嫌いで、これを遠ざけることによって得られる疲労の回復よりも優先される。
だから何もせずにボーっとするのは現代人にとって至難の業だ。
そこでさしあたり効果的な休養は、なるだけアナログな生活をし、文化的趣味を持つことと考えられる。
気の置けない友人とおしゃべりをするというのも効果的な方法なのだが、
これにはお金がかかったり、男性になると特に、酒の席が必要となったりしまいがちになる。そうなるともう休養とは呼べなくなる。
女性でも、何でも気楽に話せる、よほど気の置けない人というのはそういるものでもないだろう。
アナログな生活とはつまり家事である。
まず家事や散歩などして体を動かすのがよい。
運動不足気味の人は多めに、肉体疲労の方は軽めに。
そして、文化的趣味をもつのがよい。読書(紙媒体のもの)や映画鑑賞、あるいは絵を描いたり、料理をするのがいい。
絵画や料理は非言語処理作業で、適度な没入が得られるので余計にいい。
しかし、これらの趣味にも注意すべき点がある。
それは付加価値や対価を求めないことである。
たとえば読む本にしても、観る映画にしてもなるだけ軽くて気軽に楽しめるものでなくてはならない。読書はむろん漫画でもかまわない。
ただ、どうせ読むならとばかりに、仕事に関するものであったり、何かしら対価を求めるものであったりすると、それはもう休養ではなくなってしまう。
つまり、そこに欲望を持ち込んではならないのだ。
欲望が絡むと、評価が気になり、それは新たな疲労を呼ぶことなる。
絵を描いたとして、ただ好きなものを好きなように描いていればいいが、
これをコンテストに出すとかインスタにアップするとかになって評価を求めると、それは休養とは言えなくなってしまう。
なので趣味はなるだけおだやかで低刺激のものを選ばねばならない。
刺激が強いと神経が昂る。
だから映画でも映画館は音が大きすぎるので、家で観るほうがいい。
軽い没入感は休養に良いが、深い没入は気分はよくなるかもしれないが、かえって疲労になる。
なので、チクセントミハイのいうフローの状態がいいのか、といえば必ずしもそうではないのだ。
また評価や対価を求めることも余計な疲労を招くことになる。
現代人にはこういった休養を意識的にしっかりとることが必要であると思われる。
現代人はとかくタイパだのコスパだのと、何かとメリットのないことをしたがらないものだが、休養というメリットに目を向けるなら、目先なんの得にもならないことが長期的には計り知れないメリットを産むことを知るべきだ。