
全員いる ― 水影館の鏡 ―
※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。またホラーが苦手な方はご注意ください。
あらすじ
高校卒業から25年後の同窓会後、真弓は旧友たちと、かつて子どもが消えたという廃旅館「水影館」を訪れる。そこで噂の儀式になぞらえ、鏡の前で写真を撮り「全員いる」と口にした翌朝、写真に写る彼女たちの顔だけが歪み始める。映像には異常がない。だが、古い写真も、家族写真も、過去の記憶までも侵食されていく。やがて真弓は、同じ異変が娘の凛にも及んでいることを知る。
第一話 まだ決めていない日
高瀬真弓が目を覚ましたとき、台所から包丁の音が聞こえていた。
一定ではない。二度、三度と続いたあと、不意に止まり、また思い出したように鳴る。夫が生きていたころなら、寝坊した真弓を起こさないよう、もっと慎重にまな板を叩いていた。
今、台所にいるのは娘の凛だった。
「お母さん、起きてる?」
「今起きた」
「嘘。さっきから目覚まし三回鳴ってた」
十七歳の娘は、卵焼きを弁当箱へ押し込みながら言った。肩までの髪を後ろで雑に結び、制服ではなく白いTシャツと薄手のパーカーを着ている。その金曜日は、県民の日で学校が休みだった。凛は友人三人と、一泊の旅行へ出ることになっていた。
「朝ごはん、置いといたから」
「旅行に行く人が作るの?」
「お母さん、今日同窓会でしょ。帰ったら食べないと思って」
「そんなに飲まないわよ」
「そう言う人ほど飲むんだって、美咲のお母さんが言ってた」
凛が弁当箱の蓋を閉める。その手つきが、ふと夫に似て見えた。
真弓は視線をそらし、冷蔵庫から水を出した。
夫の直人が亡くなって二年になる。
病気が見つかってから半年だった。覚悟をするには短く、何も考えずにいるには長かった。葬儀が終わったあと、真弓と凛は二人きりの暮らしへ滑り込んだ。大きく崩れることもなく、以前と同じ形を保つこともできず、互いに相手の機嫌を確かめながら生活している。
直人がいたころ、朝の台所はもっと狭かった。三人が同時に動き、冷蔵庫の前でぶつかり、凛が洗面所から「ドライヤーどこ」と叫んだ。今は二人しかいないのに、互いの動線を譲る癖だけが残っている。
食器棚には三つ組で買ったマグカップが並び、青い一つは誰も使わない。真弓が片づけようとすると凛が止め、凛が片づけようとすると真弓が止めた。二人とも、相手が望んでいると思っていた。
同窓会の案内が届いたのは三か月前だった。最初は欠席に丸をつけた。凛がそれを見つけ、「行けばいいのに」と言った。
「知ってる人、いるんでしょ」
「二十五年も会ってない人は、知ってる人とは言わないの」
「じゃあ、知らない人の飲み会だと思えば?」
凛はそう言って、欠席の丸へ二重線を引いた。
真弓が今日ホテルへ行くのは、半分は娘に追い出されたからだった。
「夜、一人で出歩かないでよ」
「子供じゃないんだから」
「子供じゃないなら、なおさら危ないことくらい分かるでしょ」
「はいはい」
凛は返事だけを残し、旅行鞄を持ち上げた。
「写真、送るね」
「食べ物だけじゃなくて、顔が分かるのも送りなさい」
「監視?」
「生存確認」
凛が笑った。
玄関の扉が閉じる直前、真弓は「気をつけて」と言った。聞こえたかどうかは分からなかった。
午後六時、真弓は駅前のホテルへ向かった。
高校卒業二十五年を記念した学年同窓会だった。夫が亡くなってから、飲み会というものをほとんど断ってきた。楽しんではいけないと思っていたわけではない。ただ、帰宅したとき家の中に自分しかいないことを、外で笑った分だけ強く思い知らされるのが嫌だった。
受付で旧姓を告げると、名札に「藤野真弓」と印刷された紙を渡された。
その名を胸につけると、今の自分が薄い膜の向こうへ退いた。
「真弓?」
振り返る前に分かった。
小野寺理沙は高校時代と同じように、人の名前を疑問形で呼ぶ。
「やっぱり真弓だ。全然変わってない」
「それ、変わった人に言う言葉でしょう」
「じゃあ、ちゃんと変わった。ちょっとだけ疲れてる」
「理沙は変わらないわね」
「中身が成長してないって意味?」
理沙は大きな声で笑い、真弓の腕を取った。
同じテーブルには堀田彰、井坂恵、田代修司がいた。五人は高校二年のとき同じクラスで、放課後になると意味もなく教室へ残っていた仲間だった。
「藤野じゃなくて高瀬なんだよな」
堀田が名札を見て言った。
「名札は旧姓なの」
「知ってる。理沙から聞いた」
夫のことまで聞いているのだろう。堀田はそれ以上触れなかった。
代わりに田代が、グラスを掲げた。
「二十五年ぶりに、全員集合」
「全員じゃないでしょ。クラスの半分も来てない」
恵が突っ込む。
「俺たち五人の話」
グラスが鳴った。
田代だけは車で来たため、ノンアルコールビールだった。
宴が進むにつれ、記憶の中でしか存在しなかった人々が、次々と現在の顔を持った。担任の口癖。文化祭で失敗した焼きそば。理沙が授業中に回していた手紙。堀田が校庭へ落とした上履き。
真弓は二杯目の白ワインを飲んだ。
胸の内側で固くなっていたものが、少しずつほどけていった。
二次会の店を出たのは、午後十一時を過ぎたころだった。
ホテルのロビーに残った五人は、帰りの電車を確認しながら、まだ話し足りない顔をしていた。
「なあ、これ覚えてるか」
田代がスマートフォンをテーブルへ置いた。
画面には、樹木に半分埋もれた古い建物が映っていた。剥がれた看板に、かろうじて三文字が読める。
水影館。
真弓の指が、グラスの縁で止まった。
「まだ残ってるんだ」
恵が画面をのぞき込む。
「この前、若い連中が入った動画を上げてた。二階の鏡の前でやる『全員確認』ってやつ」
「何それ」
「写真を撮って、人数を数えて、『全員いる』って言うだけ」
理沙が真弓を見た。その目が、二十五年前と同じ形に細くなる。
「覚えてる? 真弓が怖がって断ったやつ」
水影館という名前の奥から、夏の教室が浮かび上がった。

窓の外で蝉が鳴き、黒板には誰も消さなかった数式が残っている。
理沙の声が、遠い時間の底から聞こえた。
――ねえ、夏休みになったら肝試ししない?
第二話 三十年前の噂
高校二年の七月、放課後の教室には五人しか残っていなかった。
外はまだ明るく、開け放した窓から熱風が入り込んでいた。理沙は机二つを勝手にくっつけ、その上にコンビニで買ったアイスを並べていた。
「ねえ、夏休みになったら肝試ししない?」
前触れのない提案だった。
「いいね。どこ行く?」
恵がすぐに乗った。怖い映画を見るときは必ずクッションを抱えていたくせに、人前では怖くない顔をしたがる。
「でも、この辺にそんな場所ある?」
真弓は言った。
肝試しそのものに反対したつもりだった。場所がないなら、話もそこで終わると思った。
田代がアイスの棒をくわえたまま、声を低くした。
「湖の向こうに、潰れた旅館があるだろ。水影館」
「あそこ、入っちゃ駄目なんじゃないの?」
堀田が言う。
「だから肝試しなんだろ」
「不法侵入じゃん」
「真面目だなあ、堀田は」
「お前が言うな」
皆が笑った。
真弓だけは、水影館という名前を知っていた。母から、湖の北側へは近づくなと言われていた。昔、子供が死んだ場所だから、と。
「三十年くらい前、大雨で湖があふれて、水影館の旧館が水に沈んだんだって。中には子供が六人いた」
田代は、聞き手ができたことを喜ぶように続けた。
「五人は外へ逃げて助かった。でも、一人だけ館の中に取り残されて、そのまま見つからなかった」
恵がアイスを持つ手を止めた。
「助かった五人は無事だったの?」
「それが、あとで全員死んだらしい」
「事故の怪我で?」
「違う。風呂とか、自分の部屋とか、水のない場所で。死因はみんな溺死」
堀田が鼻で笑った。
「水のない場所で溺死するわけないだろ」
「肺から、あのとき館へ流れ込んだ湖の藻が出たって」
「誰に聞いたんだよ」
「兄貴の先輩」
「一番信用できないやつじゃん」
また笑いが起きた。
それでも恵の顔からは、さっきまでの勢いが消えていた。
「見つからなかった子が、連れていったとか?」
「そういう噂。事故の前に撮った写真が残っててさ。助かった五人の後ろに、六人目が写ってるんだって」
「後ろって?」
「鏡の中」
その瞬間、教室の窓ガラスに五人の姿が映った。
西日で黒板側が暗くなり、ガラスが鏡のようになっていた。真弓は反射の中の人数を数えそうになり、やめた。
「行こうよ」
理沙は怖がる様子もなく言った。
「せっかく五人いるんだから、写真と同じじゃん」
「同じにする必要ある?」
真弓が聞く。
「真弓も行くよね?」
四人の視線が集まった。
行きたくない、と言えばよかった。
水影館の名を聞いたときから、胸の奥が冷えている。暗い建物も、湖も、鏡も嫌だった。
けれど、その一言を口にすると、自分だけが子供のように思われる気がした。
「その日は……ちょっと用事があって」
理沙が一度まばたきをした。
「まだ日も決めてないけど」
堀田が吹き出し、恵も笑った。
田代は「藤野、こういうの駄目だったのか」と面白そうに言った。
「違う。夏休みは予定が多いから」
「じゃあ、真弓の空いてる日にしようよ」
「だから、たぶん無理」
「怖いって言えばいいのに」
理沙の言い方に悪意はなかった。
だからこそ真弓は、何も言い返せなかった。
結局、肝試しの日程は決まらなかった。
夏休みに入ると恵は部活の合宿へ行き、田代は祖父母の家へ帰り、話そのものが消えた。真弓は安心した。誰かがもう一度言い出さないかと怯えながら、同時に、何事もなく終わったことを残念に思うふりをした。
その記憶は、長いあいだ忘れていた。
少なくとも真弓は、忘れたつもりでいた。

怖がってないわよ」
現在のホテルロビーで、真弓は言った。
理沙が笑う。
「日にちも決めてないのに、用事があるって言ったじゃない」
「高校生のころの話でしょう」
「じゃあ、今なら行ける?」
田代がスマートフォンの地図を開いた。
「ここから車で二十分。俺は飲んでない。入口の道まで行って、嫌なら帰ればいい」
「本当に入る気?」
恵が聞いた。
「動画じゃ、建物はまだ崩れてない。二階の鏡も残ってる」
「警察に捕まるんじゃない?」
「長居はしない。写真だけ撮って戻る」
堀田はすでに乗り気だった。
「二十五年前の宿題ってことでいいんじゃないか」
「そんな宿題、出されてないわよ」
真弓は答えた。
帰るべきだった。
凛に夜道を出歩くなと言ったばかりだ。四十を過ぎた大人が、閉鎖された旅館へ忍び込む理由などない。
だが、理沙の笑い声を聞くと、夏の教室で何も言えなかった自分が、胸の内側からこちらを見ている気がした。
怖いから行かない。
その程度のことを正直に言えなかった少女が、二十五年経ってもまだ自分の中にいる。
白ワインの熱が頬に残っていた。
田代以外の三人も、真弓の返事を待っている。
理沙たちの顔が、一瞬だけ高校生の顔へ戻って見えた。
あのころ、真弓は何かを断るたび理由を用意した。親が厳しいから。翌朝が早いから。勉強しなければならないから。怖い、寂しい、行きたくないという、自分だけの感情を理由にすることができなかった。
結婚してからも同じだった。直人の治療方針を決めるときでさえ、「本人が望むなら」と言い、自分が失いたくないとは最後まで言えなかった。
たかが肝試しだった。
それくらいで、二十五年前と同じ逃げ方をしたくなかった。
「……いいわよ」
口にしてから、自分が答えたことに気づいた。
「行くの?」
恵が念を押す。
「入口まで。危なそうなら帰る」
理沙が手を叩いた。
「今度は用事ないもんね」
笑い声の中で、真弓も笑った。
そのときポケットのスマートフォンが震えた。
凛から写真が届いていた。
湖畔のコテージを背景に、凛と三人の少女が肩を寄せている。
四人とも、夜の始まりを疑っていない顔をしていた。
《着いた。全員いるよ》
凛の短いメッセージへ、真弓は笑顔の印を返した。

第三話 全員確認
田代の車を降りると、空気の温度が一段下がった。
市街地では止んでいた風が、湖の近くでは木々を揺らしていた。道路脇のガードレールの向こうに、黒い水面が見える。月は雲に隠れ、湖と空の境目はほとんど分からなかった。
「本当にここ?」
恵が聞く。
「地図だと、この先」
田代が懐中電灯を向ける。
雑草に覆われた坂道の奥に、錆びた門柱が立っていた。片側は傾き、もう片側には色の剥げた金属板が残っている。

水影館。
文字の溝に、雨水でもない黒いものがたまっていた。
「写真撮ったら帰ろう」
真弓は言った。
「まだ中にも入ってないのに」
堀田が笑う。
「建物が危ないかもしれないでしょう」
「相変わらず真面目だな」
門を越えると、靴の下で小石が鳴った。
旅館の正面玄関は板で塞がれていたが、建物の右手にある従業員用らしい扉は半分開いていた。ネットの投稿者がこじ開けたのか、鍵の周囲の木が新しく割れている。
中へ入った瞬間、真弓は水の臭いを感じた。
濡れた畳。長く使われていない浴槽。湖底から引き上げた布。
しかし懐中電灯が照らす床は乾いていた。壁紙は剥がれているが、雨漏りの跡もない。
「臭くない?」
真弓が言うと、理沙が鼻を鳴らした。
「かびじゃない?」
ロビーには、倒れたソファと受付台が残っていた。背後の鍵棚には、部屋番号の札がいくつかぶら下がっている。
受付台の上には、宿泊者名簿らしい分厚い帳面があった。表紙は湿気で膨れ、開くと紙同士が貼りついている。田代がライトを当てると、名前の欄が五本の黒い筋に見えた。
「触らない方がいいよ」
恵が言った。
「五十年前の個人情報だぞ」
堀田が帳面を持ち上げる。
「そういう問題じゃなくて」
貼りついたページの間から、写真の角がのぞいた。
堀田が引き抜こうとすると、紙は途中で破れた。古い家族写真のようだったが、残った部分には子供の肩が五つ並び、その背後に黒い鏡が写っている。顔の部分は失われていた。
「雰囲気作りの小道具じゃない?」
理沙が言った。
「誰が置くのよ」
真弓が帳面を閉じると、紙の奥から水が一滴、受付台へ落ちた。
天井に染みはなかった。
田代は画面の案内を見ながら、階段を探した。
「二階、突き当たりの化粧室。そこに大きい鏡がある」
「誰が最初に見つけたのよ、そんなの」
「知らない。投稿がコピーされすぎて、元は消えてる」
階段は一段ごとに低く軋んだ。
五人が踏む音が、吹き抜けへ落ちていく。
真弓は途中で足を止めた。
一、二、三、四、五。
自分たちの足音のあとに、もう一つ、小さな音が続いた気がした。
「どうした?」
田代が振り返る。
「何でもない」
二階の廊下には、客室の扉が等間隔に並んでいた。剥がれた天井から電線が垂れ、風もないのに揺れている。
突き当たりに、曇ったガラス戸があった。
化粧室。
田代が扉を引く。
湿った空気が、細い隙間から吐き出された。
室内の壁一面を、黒ずんだ鏡が覆っていた。
鏡は壁へまっすぐ収まっておらず、右下だけがわずかに浮いていた。古い枠には補修金具が打ち込まれ、その周囲には使われていないボルト穴が残っている。銀の剥げた部分が雲のように広がり、鏡の奥だけが別の暗い部屋へ続いているように見えた。
鏡の前には、脚の折れた化粧台が残っている。床には鏡の幅と同じ弧を描く深い擦り傷があり、その溝だけが黒く湿っていた。床に水はない。それでも、真弓の靴底がわずかに吸いつく感触がした。
「これだ」
田代は、動画の手順を読み上げた。
「鏡に背を向けて横一列。全員と鏡が写る位置にスマホを置く。タイマーで撮る。撮れた写真の人数を確認して、全員で『全員いる』って言う」
「それだけ?」
理沙が聞く。
「それだけ。人数が増えてたら、見なかったことにして帰れ、だって」
「増えてたら写真撮るでしょ、普通」
堀田が言った。
田代はスマートフォンを化粧台の端へ立てた。画面に五人と鏡が収まるよう角度を調整する。
「並んで」
左から理沙、堀田、恵、田代、真弓の順になった。
鏡へ背を向けると、後頭部を見られている感覚が強くなった。
「十秒」
田代がタイマーを押し、列へ戻った。
画面の小さな電子音が、一秒ずつ数える。
真弓は前を見た。
化粧室の扉は開いたままなのに、その向こうの廊下が撮影前より暗い。誰かが背後から髪を近づけ、濡れた毛先で首筋をなぞったような冷たさがした。
振り返りかけた瞬間、シャッター音が鳴った。
「動いた?」
理沙が聞く。
「動いてない」
五人はスマートフォンの周りへ集まった。
田代が画像を拡大する。
「一、二、三、四、五」
画面には、肩を並べた五人が写っていた。
背後の鏡は黒く、銀の剥げた斑点が浮いている。真弓は自分の顔が妙に白いと思ったが、暗い場所で撮ったせいだろう。
「増えてないな」
堀田が言う。
「じゃあ、せーので」
田代がスマートフォンを持ったまま、皆を見た。
「せーの」
「全員いる」
五人の声が重なった。
最後の音だけが、鏡の奥で遅れて繰り返された。
――いる。
誰かが笑った。
誰の笑い声だったのか、真弓には分からなかった。

帰り道、五人は急ぐように階段を下りた。
誰も怖いとは言わなかった。理沙は「何も起きなかったね」と何度も口にし、堀田は動画を撮りながら、古い旅館の悪口を言った。
外へ出ると、湖からの風が生温かく感じられた。
田代の車へ向かう砂利道で、真弓はまた足音を聞いた。
理沙。堀田。恵。田代。自分。
五人分の足音。
その間を縫うように、裸足で濡れた地面を踏む、小さな六つ目の音。
真弓は振り返った。
門まで続く道に、四人しかいない。
理沙が先頭で、堀田と恵が並び、田代が鍵を探している。
「何?」
恵が聞いた。
「……反響しただけ」
真弓はそう答え、車へ乗った。
閉めた窓の外で、水滴が一つ、ガラスを上から下へ流れた。
雨は降っていなかった。
第四話 顔だけが違う
翌朝、真弓は凛からの着信で目を覚ました。
枕元の時計は九時半を過ぎていた。頭の奥が鈍く重い。酒のせいだけではなく、夜中に何度も夢を見た気がした。
暗い湖面に五つの頭が浮かんでいる夢だった。
数えるたび、一つ足りなかった。
「もしもし」
『起きた?』
「今起きたところ」
『やっぱり飲んだんじゃん』
「少しだけ。それより、そっちは?」
『みんなまだ寝てる。美咲だけ朝からパン焼いてる』
電話の向こうで笑い声がした。
真弓は胸の力を抜いた。
「今日は何するの」
『湖の周り見て、夕方には帰る。あ、もしかしたらもう一泊するかも。千夏のお父さんがコテージ取ってくれるって』
「急に決めないで。場所を送って」
『はいはい』
通話を終えた直後、別の通知が画面を埋めた。
理沙からだった。
《昨日の写真、変じゃない?》
続けて画像が届く。
昨夜、水影館の鏡の前で撮った集合写真だった。
真弓は画面を見たまま、しばらく動けなかった。
五人の体は正常に写っている。
理沙の赤いブラウスも、堀田のジャケットも、恵の白いバッグも、田代の腕時計も、真弓の紺色のワンピースも、昨夜の記憶どおりだった。
顔だけが違っていた。
理沙の両目は、頬の高さまでずり落ちている。堀田の鼻と口は右側へ寄り、耳の近くに重なっていた。恵の顔は水面に映したように横へ波打ち、田代は後頭部と正面が同じ場所へ押し込まれている。
真弓自身の顔は、目鼻の位置こそ分かるものの、薄い皮膚の下で別の顔が回転しているように二重になっていた。
背景の鏡だけは、昨夜と変わらない。

《加工した?》
真弓が送ると、すぐに電話がかかってきた。
『してない。朝見たらこうなってた』
「昨夜は普通だったでしょう」
『普通だった。田代のスマホで見たときは、絶対に』
「元の画像は?」
『これが元。田代から送ってもらった』
理沙の声が震えていた。
『スクリーンショットしても同じなの。別のスマホへ送っても、印刷しても』
「印刷までしたの?」
『コンビニで。今、堀田たちとも通話してる。真弓も入って』
五人のグループ通話へ切り替わった。
田代は何度も、スマートフォンの故障ではないと繰り返した。
『撮影直後は普通だった。堀田が回してた動画も送ってもらったが、そこに俺たちが写真を確認してるところまで映ってる』
「動画の顔は?」
真弓が聞く。
『動画は普通。写真だけだ』
『じゃあ、誰かが遠隔で加工したとか?』
堀田が言う。
『俺がそんなアプリ入れるわけないだろ』
『ネットに上げた?』
『上げてない』
恵はほとんど話さなかった。
やがて、小さな声で「ちょっと待って」と言い、通話から消えた。
十分ほどして戻ってきたとき、泣いていた。
『卒業アルバム、見て』
「何を?」
『私たちの写真』
真弓は寝室の押入れから古い段ボールを引き出した。
夫と結婚したとき、実家から持ってきたものだった。下の方に、紺色の布張りの卒業アルバムがある。
ページを開くと、乾いた紙の匂いがした。
三年二組の集合写真。
三十八人の生徒が並んでいる。
その中で、五人の顔だけが歪んでいた。
真弓は息を止めた。
高校生の理沙は口が額まで裂け、堀田の顔は隣の生徒の肩へ流れ込んでいる。恵の両目は閉じたまま上下が逆になり、田代は輪郭だけを残して中身が暗く抜けていた。
真弓の顔は、水に浸した写真を指でこすったようにぼやけている。
隣に立つ同級生たちは、何も変わっていない。
「こんなはずない」
真弓は独り言を言った。
卒業アルバムは二十年以上、箱の中にあった。昨夜撮った画像が壊れることと、印刷済みの写真が変わることは、同じ説明の中へ入らない。
『中学の卒業写真も同じ』
理沙が言った。
『私の顔だけ変になってる。家族写真も。子供の七五三の写真に写ってる私まで』
堀田が、無理に笑う声を出した。
『水影館の投稿に、そういう画像加工の仕掛けがあるんじゃないか。顔認証で昔の写真まで同期されて』
「紙のアルバムが同期するの?」
恵が言った。
誰も答えなかった。
真弓はページを閉じた。
表紙の布が、指の下でわずかに湿っていた。
その後、五人は昼過ぎまで、それぞれの写真を送り合った。
理沙の運転免許証では、顔の輪郭が写真枠からはみ出していた。田代の社員証は口だけが裏返り、堀田の母が保管していた幼稚園の集合写真では、堀田の顔にだけ黒い水草のような筋が絡んでいた。
恵が送ってきたのは、娘が生まれた日の写真だった。
病室のベッドで赤ん坊を抱く恵。その顔は崩れ、片方の目が赤ん坊の額へ重なっている。
《これだけは戻して》
メッセージのあとに、何度も入力中の表示が出ては消えた。
結局、それ以上は何も届かなかった。
真弓は写真を見ながら、異常が今の自分だけを狙っているのではないと感じた。
過去の自分へ遡り、家族と共有した記憶の中へ入り込み、そこに自分がいた証拠を一枚ずつ壊している。
最後には、誰の記憶にも正常な顔が残らなくなるのではないか。

同じ日の午後、凛たちは湖畔の遊歩道を歩いていた。
美咲が見つけた古い展望台は立入禁止になっており、予定していたボートも風のため休止していた。
「何かないの、この辺」
千夏がスマートフォンを見ながら言う。
「観光地って、夜になると何もないよね」
「星は見えるじゃん」
亜由が空を見た。
「まだ昼」
美咲が突然、足を止めた。
「これ、近くない?」
画面には、朽ちた旅館の写真があった。
地域の心霊スポットをまとめた短い投稿で、位置情報には湖の北岸が示されている。
《水影館の全員確認。鏡に背を向けて写真を撮り、人数を数えて「全員いる」と言う。知らない顔があっても、絶対に数えてはいけない。》
「絶対に数えちゃいけないって、数えさせるための書き方じゃん」
凛が言った。
「行ってみようよ」
美咲はもう地図を開いていた。
「不法侵入でしょ」
「入口から見るだけ」
「そう言って入るやつ」
「凛、怖いんだ」
その言い方が、妙に引っかかった。
「怖くないよ」
「じゃあ決まり」
四人は顔を見合わせて笑った。
凛は一瞬、母の「夜、一人で出歩かないでよ」という声を思い出した。
だが、知らせるほどのことではないと思った。
入口から見るだけなのだから。
第五話 それから、この子
凛たちが水影館へ着いたのは、日付が変わる少し前だった。
コテージから配車アプリで車を呼び、湖沿いの道で降りた。帰りの車はあとで呼べばいいと、美咲が言った。
門の前の土は、雨のあとにぬかるみ、そのまま固まったようになっていた。
いくつもの靴跡に混じって、女性用の細いヒールの先が深く突き刺さったような跡が残っている。こんな場所へ、わざわざヒールで来る人がいるのだろうか。
「最近も誰か来てるんだね」
亜由が言う。
「人気スポットってこと」
美咲は嬉しそうだった。
建物の中は、投稿の写真より暗かった。
スマートフォンのライトを向けるたび、光の外側が濃くなる。ロビーを通り、階段を上がる途中、凛は自分たちの足音に別の音が混じるのを聞いた。
ぺた、ぺた、と濡れた裸足が床を踏む音。
「今、何か聞こえなかった?」
「風じゃない?」
千夏が答える。
二階の旧化粧室には、壁一面の鏡があった。
凛は部屋へ入った途端、誰かが先にいると思った。
鏡の奥に、四人とは別の白いものが立っていた気がしたのだ。
ライトを向けると、銀の剥がれた斑点しかなかった。
「手順、これね」
美咲が投稿を読み上げた。
スマートフォンを化粧台へ置き、四人が横一列に並ぶ。
「写真に変なのが写ってても数えないんだって」
「だったら人数確認する意味なくない?」
凛が言う。
「ルールだから」
タイマーが始まった。
凛は鏡へ背を向けたまま、自分の後ろで水が落ちる音を聞いた。
一滴。
少し間を置いて、もう一滴。
シャッターが切れる。
四人は画面をのぞいた。
「一、二、三、四」
美咲が指で順に示す。
「全員いるね」
凛は鏡の右端に、髪のような黒い線があるのを見た。
壁の染みだと思った。
「せーの」
「全員いる」
四人の声が重なった。
その直後、化粧室の外で、誰かが走り去った。
悲鳴を上げたのは千夏だった。
四人は写真を確認することも忘れ、階段を駆け下りた。建物の外まで来てから、美咲が笑い出した。
「誰かいたんだって。さっきの靴跡の人」
「笑えない」
千夏は怒った。
「でも、成功したじゃん」
凛は振り返った。
二階の窓に、四人が並んでこちらを見下ろしている。
そう見えた。
ライトを向けると、窓はすべて割れていた。
*
日曜日の午後、真弓はリビングのテーブルへ写真を並べていた。
卒業アルバム、結婚式のアルバム、夫と凛と三人で撮った家族写真。どの写真でも、自分の顔は歪んでいた。
夫の遺影の横に置いた一枚は、直人がまだ元気だったころ、海辺で撮ったものだった。
真弓の顔だけが二重になり、口が首の近くまで落ちている。
直人と凛は普通に笑っている。
その写真を見ることが、何よりつらかった。
自分の顔が壊れたことで、夫と過ごした時間まで汚されたように思えた。
凛からビデオ通話がかかってきた。
『今から帰る。もう一泊するって言ったけど、みんな疲れたから』
「何かあった?」
『別に。歩きすぎただけ』
凛の顔は画面の中で正常だった。
真弓は安堵し、同時に、自分の背後にある写真立てを隠したくなった。
『お母さん、顔色悪くない?』
「昨日、ちょっと夜更かししたから」
『同窓会、楽しかった?』
「楽しかったけど……そのあと、変なところへ行ったの」
黙っているつもりだった。
だが、凛の顔を見ていると、一人で抱えていることが難しくなった。
「高校の友達と、廃旅館へ行って」
『え、お母さんが?』
「そんなに驚く?」
『夜出歩くなって言った人が』
「その話はあと。そこで撮った写真がおかしいの」
真弓は集合写真を画面へ向けた。
凛がしばらく黙る。
『何これ。加工?』
「してない。昔の写真までこうなってる」
『近くで見せて』
真弓はスマートフォンのカメラを切り替え、田代から送られた画像を表示した。凛に見えるよう、ゆっくり拡大する。
『五人で行ったんだよね』
「そう。理沙と、堀田君と、恵と、田代君と、私」
『じゃあ、後ろの子は誰?』
真弓の指が止まった。
「後ろ?」
『鏡の端。右の方。髪が濡れてる子』
鏡の銀が剥がれた部分だと思っていた。
拡大すると、黒い筋は髪だった。
額へ張りつき、肩より下まで濡れている。顔の半分は真弓の体に隠れ、片方の目だけが鏡の奥からこちらを見ていた。
知らない少女だった。
真弓は画像に指を置いた。
「理沙、堀田君、恵、田代君、私……」
一人ずつ、写っている順になぞる。
「それから、この子」
少女の目の上で指が止まった。
「六人いる」

口にした瞬間、部屋のどこかで小さく水が落ちた。
真弓は振り返ったが、何もなかった。
『誰なの、その子』
「分からない。でも、知らない女の子が一人、写ってる」
『警察に見せた方がいいんじゃない?』
「心霊写真を?」
『本当に誰かいた可能性もあるでしょ』
「その場では見なかった。鏡の中だけよ」
凛の表情が変わった。
視線が画面の外へ落ちる。
「どうしたの?」
『何でもない』
「凛?」
『電車来た。あとでね』
通話が切れた。
凛は自分のスマートフォンを握ったまま、駅のホームに立っていた。
昨夜撮った四人の集合写真を開く。
手前には、美咲、千夏、亜由、凛。
鏡の右端に、濡れた髪の少女がいる。
母の写真と同じ顔だった。
凛は画像を閉じた。
今、このことを話せば、母は旅行中に廃旅館へ入ったことを知る。それよりも、母の声がひどく疲れていた。
帰りの電車で、美咲たちは昨夜のことを笑い話にしようとした。
「足音、絶対ほかの人だったよね」
「動画撮っておけばよかった」
「二度と行かないけど」
千夏が、自分たちの集合写真をグループへ送った。
凛が開くと、四人の顔はまだ普通だった。鏡の端に少女がいること以外、異常はない。
《この人、誰?》
凛が打つと、美咲からすぐ返事が来た。
《鏡の汚れ。顔に見えるだけ》
《髪みたいに見えるけど、壁の染みでしょ》
亜由が、少女の顔へスタンプを貼った画像を送り返した。笑っている猫の顔だった。
四人はそれで話を終えた。
家に着いてから話せばいい。
そう思った。
凛は画面を閉じた。
暗くなった表面に自分の顔が映り、その肩越しに、濡れた髪の先だけが見えた気がした。
振り返ったとき、電車の座席には誰もいなかった。
第六話 過去の写真
月曜日、真弓は会社を休んだ。
体調不良だと連絡したが、熱も痛みもなかった。鏡を見ることが怖く、外へ出て人に顔を見られることが怖かった。
会社の同僚から「社員証の写真データが壊れている」と連絡が来た。夜間のシステム点検で、全社員の顔写真データを自動照合したところ、真弓の登録画像だけが人の顔として認識できず、エラーとして弾かれていたという。
真弓は事情を説明できず、古いデータだからだろうと答えた。
午後、総務からもう一度連絡があった。
《再確認したところ正常に戻っていました。システム上の一時的な不具合と思われます》
真弓はメッセージを何度も読んだ。
社員証の画像は、何事もなかったように正常へ戻っていた。
だが、そのことが安心よりも不安を強くした。
壊れることにも理由がないなら、戻ることにも理由がない。
洗面所の鏡に映る顔は正常だった。
真弓はスマートフォンのカメラを自分へ向け、シャッターを押した。
保存された画像を開く。
目も、鼻も、口も、正しい位置にあった。
もう一枚撮った。
今度も正常だった。
真弓は画面を閉じ、夫の遺影の横にある家族写真を見た。
昨日まで首元へ落ちていた口も、水面のように揺らいでいた左目も、元の位置へ戻っていた。
写真立てを持ち上げ、窓際へ運んだ。
紙の表面に加工の跡はない。
念のため、卒業アルバムと結婚式のアルバムも開いた。
どの写真の中でも、真弓の顔は正常だった。
水影館へ行く前の自分へまで、何事もなかったように戻っている。
「何なの……」
写真が壊れた理由も、戻った理由も、真弓には分からなかった。

グループ通話では、他の四人の状況が悪化していた。
『うちの鏡、曇るんだよ』
堀田が言った。
『風呂に入ってないのに、内側から曇って、文字みたいなのが出る』
「文字?」
『縦線が五本。いや、六本かもしれない。すぐ消える』
恵は、玄関から浴室まで濡れた足跡が続いていたと話した。
『娘は学校。夫も仕事。鍵は閉まってた。小さい子の足みたいだった』
『写真の子だろ』
田代が言った。
『あいつがついてきたんだ』
「“あいつ”じゃないでしょう」
真弓は思わず言った。
『じゃあ何て呼ぶんだよ』
「女の子よ。写真に写っていた女の子」
通話が一瞬静かになった。
『真弓、あれを人だと思ってるの?』
理沙が聞く。
「少なくとも、人の形をしてる」
『鏡の染みがそう見えただけかもしれない』
「昨日、あなたも見たでしょう」
『見たけど……認めたら、本当にいることになるじゃない』
理沙の言葉は、真弓にも分かった。
現実ではないと否定できるうちは、まだ戻れる気がする。
理沙は夜になると、家族の写真に写る人数を何度も数えるようになった。夫と子供二人と自分。四人。ところが数え終わるたび、写真立てのガラスにもう一つ顔が浮かぶという。
恵は浴室を使えなくなった。排水口から、子供が水中で話すような声が聞こえる。夫が確認しても何もないが、恵が近づくと「いた」と繰り返す。
堀田は恐怖を認めず、窓の反射や写真の歪みを撮影して原因を調べようとした。送られてくる動画には何も映っていなかったが、音声を大きくすると、堀田の説明の後ろで、子供の声のようなものが繰り返し聞こえた。
何を言っているのかは、誰にも聞き取れなかった。
田代が、元の投稿を調べた結果を話した。
水影館の「全員確認」は十年以上前からネット掲示板に書かれていたが、投稿者は不明。実際に試したという書き込みの多くは冗談か、途中で途切れていた。
『写真に知らない顔が写っても数えるな、って書いてある』
「どうして?」
『数えたら、そいつを連れて帰るからだって』
真弓は、日曜日の凛との会話を思い出した。
自分は少女を数えた。
六人いる、と口にした。
「でも、もう連れて帰ってるじゃない」
『だから、数えたらもっと悪くなるんだろ』
堀田が言った。
真弓は反論できなかった。
写真が正常に戻ったことは、まだ誰にも言わなかった。自分だけ違うことが、なぜか後ろめたかった。
その夜、真弓はなかなか眠れなかった。
理沙たちからは、曇る鏡や濡れた足跡、排水口から聞こえる声の報告が、途切れることなく届いていた。
真弓は家の中を確かめた。
浴室の床は乾いている。鏡にも窓にも、知らない人影はなかった。
水音も聞こえない。濡れた足跡もない。
何も起きていなかった。
同じ場所へ行き、同じ写真を撮り、同じ言葉を口にしたはずなのに、自分の周囲だけが静かだった。
その静けさが、理沙たちから届くどの怪異よりも不気味に思えた。
*
凛は、母に旅行写真を見せられずにいた。
友人三人からも、同じような連絡が届いていた。
《昔の写真まで顔変じゃない?》
《美咲だけじゃない。私も》
《水影館のせいかな》
四人のグループに貼られた幼いころの写真は、どれも本人の顔だけが歪んでいた。
千夏の七五三。亜由の入学式。美咲が赤ん坊だったころの家族写真。
凛は自分の机の引き出しから、父と撮った最後の写真を取り出した。
病院の中庭で、三人が並んでいる。
父は痩せていたが、笑っていた。
凛の顔だけが、歪んでいた。

凛は写真を伏せた。
母に見せれば、また父を失うような顔をすると思った。
鏡を見るたび、映っている自分ではない誰かに見られている気がした。
凛は部屋の姿見を、鏡面が見えないよう壁側へ裏返した。
視線を遮ってしまえば、少しは眠れると思った。
だが、目を閉じたあとも、姿見の方から誰かが立ち上がるような音がしていた。
第七話 七度目の深夜
火曜日から金曜日まで、真弓たちは毎晩、同じ時間に連絡を取り合った。
誰かが一人になるのを避けるためだった。
水影館へ行ったのは、土曜日になったばかりの午前零時過ぎ。
田代はネットの書き込みから、「七日目に死ぬ」という噂を見つけていた。しかし、その七日目が金曜の夜なのか、土曜の夜なのか、誰にも分からなかった。
『儀式をした日を一日目と数えるなら、今夜だ』
田代が言った。
『翌日から数えるなら、明日』
『どっちにしても集まった方がいいんじゃない?』
恵が提案した。
だが、理沙は子供を一人にできず、堀田は高齢の母と暮らしていた。ほかの二人にも、それぞれ家を空けられない事情があった。
五人が集まることはできなかった。
代わりに、午後十一時半からグループ通話をつなぎ、それぞれ自宅で零時を越えることにした。
凛は隣の部屋にいた。
真弓は詳しいことを話さず、「昔の友達と夜まで電話する」とだけ言った。凛は何か聞きたそうだったが、うなずいた。
午後十一時四十分。
五人の画面が並んだ。
理沙は寝室にいた。背後のベッドでは、夫が眠っているという。窓の外では雨が降っていて、カーテンの隙間から街灯の光がにじんでいた。
堀田も寝室にいた。隣の部屋では、高齢の母が眠っているらしい。枕元には薬の袋が置かれていた。
恵はベッドへ腰掛けていた。夫と娘は別の部屋にいるという。画面の向こうで、加湿器の白い蒸気が細く上がっていた。
田代も寝室にいた。仕事の書類を片づけきれなかったのか、ベッド脇の小机に封筒が積まれていた。
真弓も自分の寝室にいた。隣の部屋にいる凛の気配だけが、壁越しにかすかに聞こえた。
午後十一時五十分。
五人の画面には、何の異常もなかった。
理沙は寝室の床へ座り、堀田はベッドにもたれている。恵はベッドの端へ腰掛け、田代は枕元へ背を預けていた。
顔も、部屋も、普段どおりだった。
真弓はそれが怖かった。
理沙たちが話していた、曇る鏡も、濡れた足跡も、排水口から聞こえる声も、画面の向こうには何一つ映っていない。
午後十一時五十五分。
理沙が、何もない寝室の扉を見た。
『待って』
声が震えていた。
「どうしたの」
『やだ。なに、これ』
理沙は床を見下ろし、足を引いた。画面に映る床は乾いている。
『濡れてる』
「理沙、落ち着いて。そこに水なんてない」
『あるの。冷たい。足首まで――』
理沙の声が裏返った。
背後のベッドで夫が身を起こした。
『理沙? どうした』
理沙は答えず、両腕で自分の体を抱いた。
午後十一時五十七分。
恵が突然、ベッドから立ち上がった。
『いや』
それだけ言って、喉を押さえた。
『吸えない。息、吸えない』
床にも寝具にも、水滴一つなかった。
堀田が画面から目をそらした。
『誰かいる』
「誰が?」
『後ろ。すぐ後ろで、息してる』
堀田の背後には、誰もいなかった。
田代が咳き込んだ。
一度。二度。
三度目には、喉の奥から、水中で空気を吐いたような音がした。
「田代君?」
『違う。俺、飲んでない』
田代は口元を押さえ、ベッド脇の床へ膝をついた。
『なのに、口に……水が……』
画面のどこにも、水はなかった。
時刻表示が、午後十一時五十九分から午前零時へ変わった。
理沙が両手で喉を掻き始めた。
『胸まで来た』
「立って。部屋を出て!」
『立てない。足をつかまれてる』
理沙の足元には、何もなかった。
ほかの三つの画面でも、同じことが始まっていた。
恵はベッド脇の乾いた床へ膝をつき、堀田はシーツを握りしめ、田代はベッドから崩れ落ちた。
髪も服も濡れていない。部屋へ水が入った形跡もない。
それでも四人は、水面へ顔を出そうとする人間のように首を反らし、必死に空気を求めていた。
「理沙! 聞こえる? 理沙!」
真弓は画面へ向かって叫んだ。
返ってきたのは、声ではなかった。
喉の奥で水が泡立つような音だった。
真弓は震える手でスマートフォンをつかみ、通報した。
何を説明すればいいのか分からなかった。
水のない部屋で、四人が溺れている。
そう言っても、電話の向こうの相手は一瞬黙った。
真弓は四人の名前を告げた。
住んでいる町名までしか分からない者もいた。
それでも、通話はまだつながっていた。
「理沙! 旦那さんを呼んで! 聞こえる?」
画面の中で、理沙の夫が妻の肩を揺さぶっていた。
恵の名前を呼ぶ男の声が、遠くから響いた。
堀田の画面は横倒しになり、田代の画面には天井だけが映っていた。
午前零時七分。
四つの画面が静止した。
何もない部屋。乾いた床。正常な映像。
その中で、四人だけが溺れていた。
真弓の周囲には、最後まで何も起きなかった。
廊下を走る足音がして、凛が勢いよく部屋の扉を開けた。
「今、誰か叫んでなかった?」
「部屋へ戻って」
「お母さん、何があったの」
「戻って!」
真弓が怒鳴ると、凛は立ち止まった。
画面には、倒れた理沙たちの部屋が映っていた。
凛は息をのみ、真弓の腕をつかんだ。
「なにこれ……!? どうしたの、みんな!」
「助けは呼んだ。だから上にいて」
「でも、お母さん――」
「お願い。今は上に行って」
凛は動かなかった。
真弓の隣へ座り、冷たくなった手を握った。
その手の温度だけが、真弓を自分の部屋へつなぎ止めた。
*
夜が明けるまでに、四人全員の死亡が確認された。
四人はいずれも、自宅の寝室で見つかった。
周囲に水はなかった。
死因は、溺死だった。
肺から黒ずんだ水と藻の一部が検出された。
真弓は警察署の待合室で、その説明を聞いた。
何度聞き返しても、言葉は変わらなかった。
「あなたは通話していたんですね」
「はい」
「映像を保存していますか」
「自動で記録されているかもしれません」
警察官が通話記録を確認した。
映像に異常はなかった。
五人の顔は、通話の開始から終了まで正常に映っている。部屋へ水が入った形跡もない。
午後十一時五十五分を過ぎたあたりから四人の様子がおかしくなり、午前零時を回ると、ほぼ同時に喉を押さえ、呼吸ができない様子で倒れている。
「何かを飲んだ可能性は?」
「ありません」
「有毒ガスや集団発作は」
「皆、別々の家にいました」
警察官は映像を巻き戻した。
乾いた部屋の中で、理沙が「水が胸まで来た」と訴えている。
しかし、画面のどこにも水はなかった。
警察官は疲れた顔で端末を置いた。
帰宅すると、凛が玄関に立っていた。
「お母さん」
凛が抱きついてきた。
真弓は娘の背中へ腕を回したが、涙は出なかった。
四人の声が、まだ耳の中に残っていた。
寝室へ入ったとき、カーテンの隙間から朝日が差した。
その奥には、背の高い姿見がある。
街灯の光が反射して眠れないため、真弓は夫が亡くなってから、夜になるといつも姿見をカーテンの内側へ隠していた。
昨夜もそうだった。
四人と自分の違い。
真弓は、カーテンの布を握った。
警察から帰ったあと、真弓は理沙へメッセージを送ろうとした。
入力欄に《ごめん》と打ち、消した。
何を謝るのか分からなかった。行こうと言ったのは田代で、同意したのは全員だった。それでも、昔の自分を証明するために参加したことが、四人を巻き込んだように思えた。
第八話 名簿にいない子
警察署を出たのは、土曜日の午前七時を過ぎてからだった。
四人の家族には、まだ正式な検視結果さえ伝えられていない。
理沙の夫は、妻が死ぬ直前まで隣で眠っていた自分を責めていた。
恵の娘は電話口で、「お母さんは水が嫌いだったのに」と泣いた。
堀田の母は、警察署の廊下で何度も「彰は泳げたのに」と繰り返した。
田代の弟は、兄のスマートフォンが証拠品として返却されないことに怒っていた。
葬儀の日程を相談する声が飛び交う中、真弓だけが家へ帰された。
生き残った理由を、誰にも説明できなかった。
帰宅するとすぐ、家中の写真を確認した。
自分の顔は戻っていた。
結婚式の写真も、凛の入学式も、夫の病室で撮った最後の一枚も、最初から何も起きなかったように正常だった。
四人の顔は、卒業アルバムの中で歪んだままだった。
真弓は、自分がほかの四人と違って何をしたのかを紙へ書き出した。
写真を撮った位置。
帰宅した時間。
食べたもの。
家の間取り。
寝た場所。
思いつく限り並べてみたが、どれも決定的な違いには見えなかった。
ペンが止まった。
真弓は顔を上げた。
カーテンの端が、寝室の隅で静かに垂れている。
その奥に、姿見があった。
「姿見……もしかして」
真弓は、理沙たちの部屋を思い返した。
理沙の寝室には、ベッド横に化粧台があった。
堀田の部屋には、鏡張りのクローゼットがあった。
恵の背後の壁にも、小さな鏡が掛かっていた。
田代のベッド脇には、全身鏡が立て掛けられていた。
どの部屋にも、鏡のたぐいはあった。
自分の寝室にも、姿見はある。
何が違うのか。
真弓は、もう一度カーテンを見た。
自分の部屋のものだけが、隠れていた。

真弓は水影館の過去を調べ始めた。
市立図書館の郷土資料室には、古い地方紙の縮刷版が残っていた。
水影館の事故は五十六年前、八月の終わりに起きている。
《集中豪雨で湖畔旅館浸水 宿泊児童五名、全員救助》
見出しを読んだ瞬間、真弓は違和感を覚えた。
噂では、浸水した旧館にいた子供は六人だった。
記事には五人しかいない。
本文には、集中豪雨で増水した湖の水が排水路から逆流し、水影館の旧館部分へ流れ込んだこと、宿泊者名簿に記載された十三歳から十四歳の少年少女五名が従業員と救助隊により救助されたことが書かれていた。
次の日の紙面には、別の記事が小さく載っていた。
《地元少女、依然不明 旅館旧館と湖岸を捜索》
少女の名は、黒川澄子。十三歳。
事故の夜、家を出たまま戻らず、家族が捜索願を出した。水影館の旧館へ続く渡り廊下で片方の靴が見つかり、救助された子供たちが少女と一緒にいた可能性があると報じられている。
三日後の記事には、五人への聞き取りの内容が載っていた。
《五名はいずれも、黒川さんは浸水前に帰ったと説明。
「旧館にいたのは自分たち五人だけで、全員救助された」と話している。》
真弓は記事をコピーした。
紙が機械から出てくる間、指先が冷たくなった。
水が引いたあと、水影館の従業員が旧化粧室の高い棚からカメラを見つけた。同じ室内では、壁一面の大鏡が前へ倒れ、下枠が折れた状態で床を塞いでいた。
現像された一枚の写真が、新聞へ小さく掲載されている。
画質は粗い。
鏡の前に五人の子供が並んでいた。
その背後、鏡の端に、濡れた髪の少女がいる。
写真の下には、こう書かれていた。
《撮影された五名は救助者とみられる。鏡内の人影について、警察は光の反射または現像時の損傷の可能性もあるとしている。》
「五名……」
真弓は声に出した。
その後の記事は、事故から七日ほど経ったところで増えた。
《救助児童、相次ぎ急死》
救助された五人は、同じ夜から翌朝にかけて、それぞれの自宅で亡くなっていた。
いずれも寝室で倒れていた。周囲に水はなかったが、死因はいずれも溺死だった。肺からは、旧館へ流れ込んだ湖水と同じ藻と黒い泥が検出された。
真弓は何度も読み返した。
理沙たちと同じだった。
水のない寝室で、突然溺れている。
真弓は紙の下へ書いた。
《鏡を見せなければ、入ってこられない?》
疑問符をつけたまま、しばらくその一行を見つめた。
確信はなかった。
ただ、ほかに四人との違いを見つけることができなかった。
郷土資料室の職員に、事故写真の原本が残っていないか尋ねた。
古い新聞社の資料が市の公文書館へ寄贈されているかもしれない、と教えられた。
水影館が閉館した経緯も、別の資料から少しずつ分かった。
事故後、水影館は旧館を修復して一度営業を再開した。修繕台帳には《旧化粧室大鏡、枠を補強し壁面へ再固定》とあり、倒れた鏡が元の場所へ戻されたことが記されていた。
ところが、夜中に廊下を濡れた子供が歩いている、客室の鏡に見知らぬ子供が映るといった苦情が続いた。従業員も相次いで辞め、三年後、水影館は営業を終えた。
古い業務日誌の複写には、閉館直前の支配人の筆跡で一行だけ残っていた。
《名簿の人数だけを確認するな。館内にいる者を目で確かめること。》
真弓はその文を、事故後の安全対策だと思った。
そこに別の意味があるとは考えなかった。
公文書館で見せられた写真は、新聞掲載より鮮明だった。
手前の五人は笑っている。
鏡の中の少女だけが笑っていない。
濡れた髪を頬へ張りつかせ、列へ入ろうと片足を踏み出している。
写真の裏には、鉛筆でメモがあった。
《宿泊児童五名。撮影者不明。鏡内の像は判定不能。》
同じ封筒には、新聞に載らなかった救助記録の複写も入っていた。
《救助直後、児童一名が「鏡が倒れた。まだ下にいる」と訴えたが、同行児童に腕を引かれて沈黙。その後、五名全員が「館内にいたのは自分たちだけ」と証言》
地元警察が黒川澄子の母親から聞き取った記録も残っていた。
澄子はその日、旅館に泊まっていた子供たちと夕方から一緒に遊ぶ約束をしていた。
母親には、「友達と一緒に写真を撮るんだ。」と話して家を出たという。
さらに、最後に亡くなった少年の母親から聞き取った一文が追記されていた。
《本人は事故後、「助けを呼ぶと言ったのに、戻らなかった」と繰り返していた》
真弓は、紙を持つ指先が冷たくなるのを感じた。
記録をつなぎ合わせれば、事故直前、六人は旧化粧室で写真を撮っていた。
その直後に水が流れ込み、大鏡が倒れ、澄子はその下で動けなくなった。五人は助けを呼ぶと言って部屋を出たまま、戻らなかった。
そして救助されたとき、澄子がいたことも、置いて逃げたことも隠すために、「五人で全員」と答えた。
澄子の遺体は見つからなかった。旧化粧室の床は一部が崩れ、地下の排水路へ大量の水と瓦礫が流れ込んでいたため、捜索できない空間が残ったという。
事故として確認されたのは、名簿に載った五人が救助されたことと、地元の少女が行方不明になったことだけだった。
どちらも記録としては間違っていない。
宿泊者名簿に載っていたのは五人で、その五人は全員助かった。
ただ、そこにいた子供の全員ではなかった。
帰り際、真弓はもう一度写真を見た。
鏡の少女の唇が、わずかに開いている。
何かを言っているように見えた。
*
その夜、真弓は家中の鏡へ布を掛けた。
洗面所。浴室。玄関。寝室。
「何してるの?」
帰宅した凛が、布だらけの廊下を見て立ち止まった。
「鏡を見ないようにして」
「どうして?」
「分からない。でも、理沙たちは寝室に鏡があった。私の姿見だけは隠れていた」
真弓は事故の記事を見せた。
豪雨の夜に少女が旧館へ取り残されたことと、救助された五人が後に全員溺死したこと。
凛は記事を読み、顔を上げなかった。
「お母さんに、話さなきゃいけないことがある」
スマートフォンを取り出す。
その手が震えていた。
第九話 四人の旅行写真

凛が見せた写真には、見覚えのある大鏡が写っていた。
真弓は最初、理解できなかった。
鏡の前にいるのは、高校生の少女四人だった。中央に凛がいる。右隣が美咲、その隣が千夏。左端が亜由。
四人の顔は、すべて歪んでいた。
「いつ行ったの」
声が、自分のものではないように聞こえた。
「先週の土曜の夜。旅行先の近くだったから」
「どうして言わなかったの」
「お母さんも大変そうだったし……怒られると思って」
「怒るに決まってるでしょう!」
凛が肩をすくめた。
真弓はすぐに後悔した。怒鳴りたいのではない。怖かった。
「お母さんだって行ったじゃん」
「私は大人だからいいって話じゃない。危険だと分かってたら行かなかった」
「私たちも分からなかった」
同じだった。
怖いと思いながら、怖くないふりをして入った。
娘を叱る言葉が、そのまま自分へ返ってくる。
「ごめん」
真弓は言った。
「怒ってるんじゃない。あなたまでいなくなるのが怖いの」
凛の表情が少し緩んだ。
「同じことをしたの?」
「写真を撮って、みんな写ってると思って……全員いるって言った」
凛が画像を拡大した。
鏡の右端に、濡れた髪の少女がいた。
真弓たちの写真と同じ位置、同じ顔。
「最初は、鏡の汚れだと思ってた」
凛が言った。
「美咲たちもそう言ってた。でも、お母さんの写真にも同じ子がいる」
真弓は少女の顔を見た。
黒川澄子ではないかと思った。
五十六年前、浸水した旧館に取り残された少女。
「この子が、鏡から来るのかもしれない」
真弓は言った。
「理沙たちにも、この子が来たのかもしれない」
「じゃあ、どうすればいいの」
「だから、今夜は鏡を隠してみる」
凛は鏡の端に立つ少女を見たまま、動かなかった。
「でも、お母さんの写真にもこの子がいたんだよね」
「いた」
「お母さんは、何で助かったの?」
真弓は、カーテンの奥の姿見を指した。
「分からない。ただ、私の寝室の姿見だけは隠れていた」
それ以外に、四人との違いを見つけることができなかった。
凛は、古い記事の「宿泊児童五名、全員救助」という見出しへ目を落とした。
「この五人は、六人目がいたことを知ってたの?」
「知っていたはずよ。写真にも写ってる」
「なのに、いないって言ったんだ」
「旅館へこっそり入れたことも、置いて逃げたことも、知られるのが怖かったんでしょう」
「最低」
凛はそう言ったが、声は弱かった。
真弓は少女のことより、時間を考えた。
田代が見つけた書き込みには、「七日目」としかなかった。
水影館で写真を撮ったのが日付の変わる前か後か、凛たちも正確には覚えていなかった。
儀式の夜を一日目に含めるのか、その翌日から数えるのかも分からない。
早い方を取れば、今夜が期限だった。
「友達に電話して。今夜は寝室の鏡を全部覆うように言って」
「寝室だけ?」
「眠る部屋にある鏡。外せるものは外して、無理なら布を掛ける」
「本当にそれで助かる?」
「分からない。でも、ほかに四人との違いが見つからない」
真弓は美咲、千夏、亜由の保護者へ順に電話した。
最初は信じてもらえなかった。
四人の同級生が同時に不可解な溺死をしたこと、凛たちの昔の写真まで歪んでいること、過去にも同じ死亡例があることを説明すると、相手の声が変わった。
『警察には?』
「写真のことは信じてもらえません。でも、今夜だけでいいんです。娘さんを一人にしないで、寝室の鏡を覆ってください」
美咲の母は泣き出した。
千夏の父は、娘の寝室から鏡を運び出すと言った。
亜由の両親は娘の寝室へ入り、壁の鏡へ毛布を掛けた。
電話を切るたび、真弓は相手へ何を頼んでいるのか分からなくなった。
寝室の鏡を隠す。娘たちを一人にしない。
根拠と呼べるのは、真弓だけが生き残ったという事実だけだった。
「警察に集まってもらった方がいいんじゃない?」
凛が言った。
「今から全員を移動させる方が危ない。それに、警察には信じてもらえない」
「病院は?」
「理沙たちの死を止められなかった」
選択肢を挙げるたび、消えていく。
残ったのが鏡を覆うことだった。正しいから選んだのではない。ほかに、今すぐできることがなかった。
午後十一時。
真弓と凛は、凛の部屋にいた。
姿見には毛布を二重に掛けた。机の小さな鏡は引き出しへ入れた。
スマートフォンは、四人のビデオ通話をつないだまま机に立てていた。
通話は切らず、全員が同じ時刻を確認できるようにした。
四人の少女が画面に並ぶ。
全員、家族と同じ部屋にいた。
『おばさん、本当に大丈夫?』
美咲が聞いた。
「鏡は見ないで。零時を越えるまで、そのままにして」
真弓はそう答えたが、声に確信はなかった。
凛が母の横顔を見た。
午後十一時五十分。
画面の中の四人は、それぞれ家族と寝室にいた。顔も部屋も正常に映っている。
午後十一時五十五分。
誰も話さなくなった。時計の音と、家族の呼吸だけが聞こえた。
午後十一時五十八分。
凛が真弓の手を握った。
部屋は静かなままだった。
時計の秒針が、零時へ近づいた。
第十話 朝が来た
午前零時。
部屋の時計が、短い電子音を鳴らした。
真弓は凛の肩を抱いたまま、息を止めていた。
画面の中で、美咲の母が娘の手を握っている。
千夏の父は、外した鏡を寝室の外へ運び出していた。亜由は両親の間に座っている。
一分。
二分。
三分。
何も起きなかった。
誰も倒れず、水の音も聞こえなかった。
「凛」
真弓は娘の名を呼んだ。
「息、できる?」
「できる」
凛は自分の胸へ手を置き、何度も呼吸した。
画面の向こうで、美咲が泣きながら笑い始めた。
『終わった?』
「もう大丈夫」
真弓は言った。
声にした途端、全身から力が抜けた。
『本当に?』
「ええ。少なくとも今夜は大丈夫。朝まで鏡はそのままにして」
四人の保護者が、何度も礼を言った。
通話を終えたあと、凛は真弓へ体を預けた。
「怖かった」
「もう終わったから」
「お母さん、知ってたんだね」
「偶然、助かっただけ」
「でも、調べてくれた」
凛は、父が亡くなってから初めてするような抱きつき方をした。
真弓は娘の背中を撫でた。
自分は間に合った。
理沙たちには間に合わなかったが、凛には間に合った。
その思いが、罪悪感の中に小さな灯りを作った。
毛布を外さず、二人は凛のベッドで朝を待った。
午前四時を過ぎると、窓の外で鳥が鳴き始めた。午前六時、カーテンの隙間が白くなった。
「朝だ」
凛が言った。

真弓はようやく、娘の部屋の扉を開けた。
家の中は静かだった。
水滴も足跡もない。
保護者たちから、無事を知らせるメッセージが届いた。
四人のグループ通話には、美咲が最初に写真を送った。
朝日の入る部屋で、母親と一緒に笑っている。顔の歪みはまだ残っていたが、「生きてる証拠」と書かれていた。
千夏は、壁から外して裏返した鏡の写真を送り、《一生このままでいい》と書いた。亜由は《今日みんなで会わない?》と送った。
凛は返信しかけ、真弓の顔を見た。
「今日は家にいなさい」
「分かってる」
凛は《明日学校で》とだけ返した。
《美咲、眠りました。本当にありがとうございました》
《千夏は異常ありません》
《亜由も大丈夫です》
真弓は一件ずつ返信した。
午前八時、前夜の通報を受けた警察官が訪ねてきた。
真弓は水影館の写真と古い記事を見せ、鏡を覆ったことで四人が助かったと説明した。警察官は話を遮らずに聞いたが、最後に「現時点で事件性のある現象は確認できません」と言った。
「昨夜、四人とも零時を越えたんです」
「体調に異常がないことは確認します。ただ、鏡との因果は証明できません」
「では、理沙たち四人が同時に溺死した理由を説明できますか」
警察官は答えなかった。
その沈黙を、真弓は自分の推理が否定されなかった証拠として受け取った。
昼近くになって、凛が部屋の毛布を外そうとした。
「まだ駄目」
「いつまで?」
「しばらく。念のため」
「学校行くときどうするの。全部の鏡を隠して歩けないよ」
真弓は答えに詰まった。
鏡を覆うことに、どれだけ意味があるのかは証明できない。
七日目の数え方を一日早く取った可能性も、頭の隅には残っていた。
それでも昨夜、四人は無事だった。
今の真弓には、その事実へすがるしかなかった。
午後、真弓は自分の写真をもう一度確認した。
卒業アルバムの顔も、結婚式の写真も、すべて正常に戻っていた。
水影館の集合写真でさえ、真弓の顔だけは元どおりだった。
理沙、堀田、恵、田代の顔は歪んでいる。
「やっぱり」
真弓はつぶやいた。
自分の寝室の鏡だけが隠れていた。
そのことと写真が戻ったことを、真弓はどうしても結びつけずにいられなかった。
凛の写真はまだ歪んでいた。
真弓は、自分の写真がいつ正常へ戻ったのかを知らなかった。
だから凛の写真も、時間がたてば戻るのだと思い込もうとした。
「お昼、何か食べる?」
凛が聞いた。
「作るわ」
「外行こうよ。ずっと家にいたら余計怖い」
午後、真弓は凛の幼いころの写真をもう一度見た。
歪みは消えていなかった。それでも、輪郭の一部が朝より薄くなったような気がした。凛も「本当だ」とうなずいた。
実際に変わっていたのではない。二人とも、そう見なければ希望を保てなかった。
二人は近所のファミリーレストランへ行った。
凛はハンバーグを頼み、真弓はほとんど手をつけなかった。窓に映る人影が気になったが、そこに少女はいなかった。
「お母さん」
「何?」
「昨日、ありがとう」
凛はテーブルの端を見ながら言った。
「お父さんがいなくなってから、私、お母さんに何でも言うと困らせる気がしてた」
「そんなことない」
「今回も、早く言えばよかった」
「私も、廃旅館へ行ったことを隠そうとした」
二人は少し笑った。
夫が生きていたころなら、こんな会話を特別なものとは思わなかっただろう。
失ってから、普通の言葉は慎重に選ばなければ届かなくなった。
「これからは言って」
「お母さんもね」
「分かった」
食事を終え、二人で帰宅した。
玄関の鏡にはまだ布が掛かっている。
凛はそれを横目で見て、自分の部屋へ上がった。
真弓が洗濯物を片づけていると、二階から凛の声がした。
「お母さん、ちょっと来て」
部屋へ行くと、凛は姿見の毛布を指していた。
「外してないよ」
「分かってる」
「じゃあ、これ」
毛布の表側は乾いていた。
真弓が端を少しめくる。
鏡に接していた内側だけが、びっしょり濡れていた。
水が床へ落ちる。
一滴、二滴。
真弓は毛布を元へ戻した。
「昨夜、濡れてなかった」
「結露よ。毛布を二重に掛けたから、鏡と布の間に湿気がこもったの」
結露で発生する水量ではなかった。
凛は何も言わなかった。
机の上で、伏せてあったスマートフォンが震えた。
美咲から短いメッセージが届いていた。
《今夜も、鏡を隠した方がいいよね》
凛は返事を書けないまま、画面を伏せた。
その夜、真弓は一階のソファで眠った。
日曜日が終わり、月曜日になるまで、あと三時間だった。
第十一話 もう一度、零時
午後十一時四十八分、美咲から凛へ電話がかかってきた。
凛はベッドに座り、母と一緒に古い映画を見ていた。
姿見は今夜も毛布で覆われている。真弓はテレビの黒い画面にも布を掛けたかったが、凛が「何も映ってないよ」と笑ったため、そのままにしていた。
「美咲?」
通話へ出た凛の顔から、すぐに笑みが消えた。
『凛、今、鏡隠してる?』
美咲の声はひどく近く、耳元で囁いているようだった。
「隠してる。美咲も?」
『昨日は隠した。でも今日、お母さんがもう大丈夫だって』
「今すぐ隠して」
『鏡の中に、誰かいる』
凛は真弓を見た。
真弓はスマートフォンをスピーカーへ切り替えるよう指示した。
「美咲ちゃん、お母さんは近くにいる?」
『下にいる。呼んでも返事しない』
「部屋を出て。鏡を見ないで」
『扉が開かない』
画面が映像通話へ変わった。
美咲の部屋は明るく、床も壁も乾いていた。
背後の鏡には、美咲と部屋が普通に映っている。真弓にも凛にも、少女の姿は見えなかった。
「鏡へ布を掛けて!」
真弓が叫んだ。
美咲がベッドの毛布をつかみ、鏡へ投げた。
毛布は鏡を覆わず、床へ落ちた。美咲は、何かに押し返されたように後ずさった。
デジタル時計の表示が、午後十一時五十九分から午前零時へ変わった。
『近づいてくる』
「何が見えるの?」
美咲は鏡を見たまま答えなかった。
画面に映る鏡には、怯えた美咲の姿しかなかった。
『解除できたはずなのに』
美咲が泣いた。
『昨日、朝になったのに。おばさん、大丈夫って言ったよね』
「鏡を隠して。もう一度――」
真弓は言いながら、昨夜の静けさを思い出した。
鏡を隠したから助かったのではない。
期限を一日早く数えていただけではないか。
美咲が突然、喉を押さえた。
『息が、できない』
「美咲!」
凛が画面へ顔を近づけた。
『水が……口に……』
美咲の頬が内側から膨らんだ。
髪も服も乾いたままだった。口元にも水はない。
それでも美咲は、水中でもがくように両腕を動かし、床へ倒れた。
真弓は救急へ電話しながら、美咲の母親にも連絡した。
下の階で眠り込んでいた母親は、電話の着信音で目を覚ました。娘の部屋へ駆け上がる足音が聞こえる。
扉が開く。母親が画面へ飛び込み、美咲の体を抱き起こした。
部屋は最後まで乾いていた。
通話が切れた。
午前零時二分。
「凛、ここを出るわよ」
「どこへ?」
「鏡のない場所」
「そんな場所あるの?」
真弓は答えられなかった。
外へ出ても窓がある。車にも鏡がある。暗い水たまりも、消えた画面も、人の瞳さえ光を返す。
美咲の母からメッセージが届いた。
《息をしていません》
真弓はその文字を見ながら、自分が美咲の母へ「もう大丈夫」と伝えた朝を思い出した。
信じさせたのは自分だった。
続いて千夏の父から着信があった。
『妻と娘が起きない。千夏の部屋から水の音がする』
「鏡を覆ってください」
『昨日から外に出してる! 部屋の中に鏡なんて一枚もない!』
真弓の手から、スマートフォンが滑りそうになった。
一度も外していない。
それでも来る。
鏡を覆うことは、解除ではなかった。亜由の母親からも《救急車を呼んだ》とだけ短い通知が届いた。
午前零時五分。
凛の部屋の毛布が、内側から大きく膨らんだ。
「一階へ」
真弓は凛の手を引いた。
扉を開けると、廊下の突き当たりにある窓が真っ黒になっていた。外の街灯も隣家の明かりも映らない。
代わりに、濡れた少女が廊下の中央に立っているように反射している。
実際の廊下には、誰もいない。
凛が目を閉じた。
「見ないで。私の手だけ握って」
二人は階段を下りた。
一段ごとに、水へ足を入れる音がした。
床は乾いている。
リビングへ入ると、布を掛けていないテレビの画面が白く明滅した。
電源は切れている。
凛が咳をした。
「大丈夫?」
もう一度、咳。
凛の唇の端から、細い水の筋が落ちた。
「お母さん、苦しい」
娘は喉を押さえた。
息を吸おうとするたび、胸の奥で小さく水が鳴る。
真弓は救急へ電話した。
住所を告げる声が震え、何度も聞き返された。
凛は床へ膝をついた。
口から吐き出した黒い水は、床へ触れる前に消えた。
「吐いて。全部吐いて」
真弓は娘の背中をさすり続けた。
テレビの暗い画面には、抱き合う母娘の後ろに濡れた少女が立っていた。
振り返っても、そこには誰もいない。

遠くでサイレンが聞こえた。
救急隊が玄関へ入ってきたとき、凛はまだ意識があった。
酸素マスクを当てられ、担架へ載せられる。
「お母さんも来るよね」
マスクの奥から、かすかな声がした。
「行く。ずっと一緒にいる」
真弓は娘の手を握った。
救急車の中でも離さなかった。
病院へ着くと、凛は救急外来の処置室へ運び込まれた。
真弓も追おうとしたが、看護師に止められた。
「処置が終わるまで、こちらでお待ちください」
「一人にしないでください。鏡を見せないで。黒い画面も駄目です」
「お母さま、まず先生に任せてください」
白い扉が閉じる。
中央には細長い曇りガラスが入っていたが、中の様子は見えなかった。
「凛! ここにいるから!」
真弓は扉へ手を当てた。
返事はなかった。
*
処置室の天井は、白すぎて距離が分からなかった。
凛は酸素マスクの中で浅く息をした。
医師と看護師が何かを話している。言葉は聞こえるのに、意味だけが遠かった。
「高瀬さん、分かりますか」
凛はうなずいた。
「お母さんは、外にいますからね」
看護師がそう言った。
その背後にある消えたモニターへ、処置室が映っていた。
ベッドの上の自分。
医師。
看護師。
そして、部屋の隅に立つ濡れた少女。
凛は指を上げようとした。
腕が動かなかった。
少女が一歩近づく。
心電図の音が、水滴の落ちる音へ変わった。
一滴。
また一滴。
「ゆっくり息を吸って」
医師の声が、水の向こうから届いた。
凛は吸おうとした。
酸素マスクが急激に収縮し、吐いた黒い水が口元へ押し寄せた。
肺を満たすのは酸素ではない。どろりとした湖の冷たさと泥の臭いが、呼吸するたびに喉から顎へせり上がり、凛を水底の闇へ引きずり込んでいく。
凛は首を振った。
看護師がマスクへ手を伸ばしているのに、その指はいつまでも届かない。
少女がベッドの横へ立った。
濡れた髪の隙間から、凛を見下ろしている。
怒ってはいなかった。
泣いてもいなかった。
ただ、自分がここにいることを、分かってほしいような顔だった。
曇りガラスの向こうで、真弓が凛の名を呼んだ。
凛は答えようとした。
口を開いた瞬間、冷たい水が喉の奥へ流れ込んだ。
少女の手が、酸素マスクの上へ重なった。
心電図の音が遠ざかる。
天井の白い光が、水面のように揺れた。
凛の肺の奥で、深い水音がした。
第十二話 遺影
凛の葬儀は、雨の降らない日に行われた。
祭壇の中央に置かれた遺影は、写真ではなかった。
制服姿の凛を描いた、一枚の肖像画だった。
前年の文化祭で、美術部の生徒が凛をモデルに描いたものだった。
少し斜めに顔を向け、唇の端だけで笑っている。写真を撮られるときよりも自然な、真弓の知っている凛の表情だった。
葬儀社の担当者は、遺影に使う最近の写真を何度か求めた。
真弓は一枚も渡さず、これを使ってくださいと肖像画を差し出した。
理由を尋ねられたときは、これが一番あの子らしいから、とだけ答えた。
焼香の列には、凛の同級生が並んだ。
四人で旅行へ行ったはずなのに、そこへ立っている者は一人もいない。
美咲、千夏、亜由の葬儀も、同じ週に行われていた。
誰も死因を説明できなかった。
水のない場所で四人が溺れたという事実だけが、検視記録に残った。
真弓は、祭壇の脇で何度も頭を下げた。
慰めの言葉は、ほとんど耳へ入らなかった。
「お母さんも、お体を大切に」
「凛さんは、最後まで頑張ったと思います」
「きっとお父さまが迎えに来てくれています」
どの言葉にも、うなずくことしかできなかった。
棺の蓋が閉じられる前、真弓は凛の頬へ触れた。
肌は冷たかった。
あの夜、処置室の扉が閉じる直前に握った手も、最後には同じ冷たさになったのだろう。
真弓は、その瞬間を見ていない。
白い扉の外で、娘の名を呼び続けていた。
中から医師たちが飛び出し、別の機器を運び込んだあとも、扉は開かなかった。
何が起きたのかを知らされたのは、すべてが終わったあとだった。
*
葬儀から帰った家には、まだ鏡を覆う布が残っていた。
真弓は外すことができなかった。
効果がなかったことは分かっている。それでも布を取れば、その向こうに凛ではない誰かが立っている気がした。
親族が帰り、家は静かになった。
冷蔵庫には凛が買ったヨーグルトが残り、洗面所には使いかけの化粧水が置かれている。
玄関には、もう履く人のいない靴が揃えてあった。
真弓はリビングの小さな祭壇へ、葬儀で使った肖像画を置いた。

紙の上の凛は、まっすぐこちらを見ていた。
水面の揺らぎも、濡れた髪もない。
文化祭の日のままの顔で、静かに笑っている。
真弓には、その後何も起きなかった。
鏡の向こうから水音が聞こえることもない。
眠っているあいだに息ができなくなることもない。
自分だけは、何事もなかったように朝を迎え続けた。
だからこそ、分からなかった。
自分と理沙たちの間に、どんな違いがあったのか。
凛を救うために、自分は何を間違えたのか。
鏡を覆うという考えが、なぜ最初の一夜だけ正しかったように見えたのか。
考えるほど、あの夜に戻ってしまう。
凛の手を握りながら「ずっと一緒にいる」と約束し、その直後、白い扉の前で引き離された夜へ。
真弓は肖像画の前へ座った。
凛の表情は変わらない。
答えを知っているようにも、何も知らないようにも見えた。
「私は助かったのに、なぜあの子は死んだのか。今も、答えは分からない」