サイバーパンク的note街──AIを拒否したイラスト、融合したnote
絵描き界隈と言われるような人たちの投稿をよく見るのだが、AIの嫌われっぷりは異常だ。
政治と野球の話は飲み会でしちゃいけないというが、これを現代に当てはめると、AIイラストの話をXでするなになる。
お行儀のいいタイムラインを目指すなら、絶対に首を突っ込まないほうがいい。醜い。
基本的にAI擁護をすれば、火の矢がとんでくるし常に対立がおきている。
それに比べると、noteはむしろ逆だ。私のタイムラインのせいかもしれないが、AIを積極的に活用すべきという声が強い。
私の脳裏によぎったのが、誰もが体をネットと直列し、派手に生き、派手に死ぬ。
そんなサイバーパンク的な世界だった。
文字という普遍性
まず、AIイラストとの決定的な差は、一発では全くわからないことだろう。
AI生成文章の判別は、はっきり言って困難だ。絶対こいつAIだろ…みたいなやつもいるが、そういうつまらないポン出しは淘汰されるし、基本的に巧みな文章が生き残る。
うまくリライトされた文章なら気づかない。
それに、文章というものは大半の人にとって、どうでもいいのだ。
書き手として、認めたくなくても、意外とそんなもんなのだ。
私の血が石油になってても、大体の人は気づいてくれない。
もうそうなれば、手書きの文章だけを信仰しよう!となるのは不可能だ。常に観測し続けなければ、AIを使っているかなんてわからない。
そんなの、無理である。
それと違ってイラストは、まだまだ浅い。特に細部にこだわりまくる人が多いなかで、それっぽさの再現が上手いAIでは太刀打ちできない。
サイバーパンク2026
そして、この話の中には、著作権という決定的な差がある。
まず、生成AI文章は、著作権的には現行法的には問題ない。少なくとも、使っただけでアウトになることはない。
しかしながら、AIイラストは未だに議論が活発である。
美術的な価値感は、どうしても感情論になりやすい。著作権的にグレーであり、自分の作品が不当に利用されてるかも知れないという疑念は、人をヒステリーにするには十分な理由になり得る。
その観点で言うと、文章はどうだろうか。作品が不当に使われたのだのなんて、1ミリも思わない。
いや、思ったところで、悪魔の証明になる。
イラストと違って、文字というのは娯楽だけではなく、あまりに多くの場面で使われる。むしろ、これを規制してしまうのは誤りだ。だれのものであり、誰のものでもないのが、文字の価値でもあるのだから。
また、文体もとても曖昧なものだ。明確な定義なんて存在しないし、だれかの文章がベースになっていることも往々にしてある。
まあ、あまりに個性的であればその限りではないが、基本的にパクリパクられの関係だ。
やはり、ここに問題の核がある。
ある種の特殊技能であったイラストが、だれにも扱えてしまうという恐怖。
それに加え、イラストを不正に利用しているかもしれないグレーゾーンさは、絵描きたちの反感を買うのは当然であるし、美術は大量生産を嫌うものだ。
合理性を超越した、個人の熱量を楽しんでいたのに、冷たい鉄の塊が絵描きの真似事をしている。
そう感じるのも、無理はない。
それに比べると、noteにおけるAIの登場は、ただ単に便利な道具が登場したにすぎない。元々普遍的技能であった文章が、AIというそれっぽくしてくれる型によって、参入障壁が下がっただけ。
AIが出てきたところで、面白い文章を作れる人はたかが知れている。それを作るには、自分の手が必ず必要になる。
つまり、我々はサイバーパンク的な価値感になったのだ。外付けのAIという脳で、自分のポテンシャルを極限まで活かす世界。
うまく扱える者との格差が、残酷に見せつけられるとも言える。ポン出しで、上手いことを言えた風になり、スキが3しかつかない記事があれば、インフルエンサーとして成り上がるやつも出てくる。文章力は、AIで補えてしまう。
題材や、その人の価値。それが、色濃く凄惨に評価される時がきたのだ。
そこに広がるのは、ネオンに彩られた極端な光と路地裏の薄汚い街灯が照らす街。それがnoteだ。
誰もが人知を超えた力を手に入れられるようになった。そこで戦い続けた先に、何が残るだろうか。
このまま走り続ければ、破滅が待っている。AIは良文を学習しづつければ、いつか完璧な模倣ができる。人間すらいらない。AIは、過ぎた力なのだ。
そうなのかもしれないが、それでいい。
いっときの面白さを、私は求めたいのだ。
高みを目指して、派手にくたばる。
