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人生のアンコール

    【あらすじ】
    ライオンになりたかった少年は、なれなかった。代わりに出会ったのは、一組の女性アイドルグループだった。受験に失敗した日も、失恋した日も、就活で心が折れた日も、人生の節目にはいつも推しの歌が流れていた。やがて恋をして、結婚して、父になり、そして父を見送る。変わっていく人生の中で、主人公は少しずつ気づいていく。推しは人生を変えてくれる存在ではない。ただ、嬉しい日も苦しい日も、何も言わず隣で流れ続けてくれる存在なのだと。これは、推しと共に生きた三世代の家族の、少し笑えて少し泣ける人生の物語。


    第一章 人生最初の推し活

    俺が生まれた日。

    母は二十時間苦しんだ。

    これは事実である。

    そしてその二十時間のうち、

    父は十八時間くらいアイドル雑誌を読んでいた。

    これも事実である。

    「普通、待合室をウロウロするでしょ?」

    と母は今でも言う。

    「普通、時計を見るでしょ?」

    「普通、神様に祈るでしょ?」

    確かにそうだ。

    ドラマならそうなる。

    夫がソワソワする。

    母が叫ぶ。

    看護師が走る。

    夫が涙を流す。

    感動。

    エンディングテーマ。

    完璧である。

    しかし父は違った。

    看護師さんが出てきた時、

    父は推しのインタビュー記事を読んでいた。

    「おめでとうございます。男の子ですよ」

    父は顔を上げた。

    「あっ、本当ですか」

    そして、

    「すみません、この続きだけ読んでいいですか?」

    と言った。

    母は後に語る。

    「あの瞬間、離婚を考えた」

    人生最初の危機だった。

    俺はまだ生後一分だった。

    しかし誤解しないでほしい。

    父は悪人ではない。

    むしろかなり優しい。

    人当たりもいい。

    近所の評判もいい。

    町内会でも人気者だった。

    小学生の野球チームの手伝いもする。

    迷子の犬を探して感謝状をもらったこともある。

    一人暮らしのおばあさんの電球交換もする。

    ただ、

    推しが絡むとIQが下がる。

    著しく下がる。

    ⸻

    父の名前は正雄。

    工場勤務。

    趣味はアイドル。

    特技もアイドル。

    休日もアイドル。

    会話もアイドル。

    推しの誕生日にはケーキを買う。

    推しの卒業では会社を休む。

    推しの総選挙では近所の神社に願掛けに行った。

    神様も困ったと思う。

    ある日、

    母が聞いたことがある。

    「私と推し、どっちが大事?」

    核兵器だった。

    結婚生活における最終兵器。

    普通の男なら逃げる。

    だが父は答えた。

    「種類が違う」

    その日、

    夕飯のおかずが一品減った。

    そして翌日も減った。

    三日目には味噌汁しかなかった。

    父は反省文を書いた。

    小学生みたいな字で。

    ⸻

    そんな父と、

    超現実主義者の母。

    和子。

    母はアイドルに全く興味がなかった。

    父がライブ映像を見て泣いている横で、

    普通に焼き魚を食べる人だった。

    「なんで泣いてるの?」

    「卒業だから」

    「学校?」

    「アイドル」

    「へぇ」

    終了である。

    しかし母は強かった。

    父が暴走すると止める。

    父が落ち込むと笑わせる。

    父が泣くとティッシュを投げる。

    そして、

    誰よりも父を理解していた。

    「バカだけど悪い人じゃないから」

    それが母の口癖だった。

    ⸻

    俺はそんな二人の間に生まれた。

    雄太。

    危うく変な名前になるところだった。

    父の第一希望は

    「光翔(らいと)」

    だった。

    なぜだ。

    昭和生まれの父からどうしてその名前が出てきた。

    しかも第二候補は

    「輝星(きら)」

    だった。

    もう止まらない。

    母が全力で止めた。

    ありがとう母。

    本当にありがとう。

    ⸻

    五歳になった春。

    俺は幼稚園年長組になった。

    好きなものは恐竜。

    嫌いなものはピーマン。

    将来の夢はティラノサウルス。

    なれると思っていた。

    当時の俺は、

    人生が理不尽だと知らなかった。

    ⸻

    その現実を教えてくれたのが、

    お遊戯会だった。

    『森の音楽会』

    ライオン。

    キリン。

    ウサギ。

    リス。

    スターだらけだった。

    当然、

    俺もライオンになりたかった。

    強そうだから。

    モテそうだから。

    あと木とかになりたくなかったから。

    この時点では、

    まだ木という概念は存在していなかった。

    ⸻

    結果。

    木。

    植物。

    光合成担当。

    セリフなし。

    人気なし。

    牙なし。

    必殺技なし。

    夢も希望もない。

    俺は大泣きした。

    「なんで木なのぉぉ!」

    母は慰めた。

    「木も大事よ」

    絶対嘘だった。

    父は笑っていた。

    腹を抱えて。

    「木かぁ!」

    楽しそうだった。

    お前がやれ。

    ⸻

    その夜。

    俺は布団の中で泣いていた。

    ライオンになりたかった。

    せめてウサギ。

    いや、

    モグラでもいい。

    生き物がよかった。

    すると、

    父が部屋に入ってきた。

    なぜか、

    推しのライブうちわを持って。

    「応援にはこれが必要だからな」

    必要ない。

    木である。

    風にそよぐことしかできない。

    ⸻

    「なぁ雄太」

    父が言った。

    「主役じゃなくてもな」

    「うん」

    「目立つやつはいる」

    「ライオン?」

    「いや、変なやつ」

    何を言っているんだこの人は。

    ⸻

    「ライオンなんか一匹しかいない」

    「うん」

    「でも木はいっぱいある」

    慰めになっていない。

    全然なっていない。

    ⸻

    「だから世界一の木になれ」

    さらに意味が分からなかった。

    ⸻

    その時、

    居間からテレビの音楽が聞こえてきた。

    父の推しだった。

    笑顔で歌っていた。

    そして、

    サビ。

    ⸻

    「君は君のままでいい」

    ⸻

    五歳の俺には意味なんて分からない。

    でも、

    なんとなく思った。

    木でもいいのかな。

    主役じゃなくても。

    ライオンじゃなくても。

    ⸻

    翌朝。

    俺は先生に宣言した。

    「ぼく、世界一の木になる!」

    先生は困っていた。

    俺もよく分かっていなかった。

    ⸻

    そして本番。

    直前になって、

    俺は泣き出した。

    「やだ!」

    「出ない!」

    「ライオンがよかった!」

    先生大慌て。

    母頭を抱える。

    祖母は祈る。

    祖父はビデオカメラの電源が入らない。

    そして父。

    なぜか客席で立ち上がった。

    さらに、

    推しのライブうちわを振り始めた。

    母が青ざめた。

    「何やってるの!」

    「応援!」

    「ここ幼稚園!」

    「木にも声援は必要だ!」

    先生が叫んだ。

    「必要ありません!」

    客席大混乱。

    ⸻

    そして俺は、

    半泣きのまま舞台に出た。

    ⸻

    風に揺れた。

    揺れた。

    もっと揺れた。

    ライオンより目立とうとした。

    結果。

    転倒。

    森が崩壊。

    ウサギ巻き添え。

    リス号泣。

    先生絶望。

    客席爆笑。

    父号泣。

    笑いすぎで。

    母爆笑。

    祖父はズームしすぎて天井を撮影していた。

    完璧だった。

    ⸻

    終演後。

    父は涙を拭きながら言った。

    「雄太」

    「うん」

    「お前、最高の木だったぞ」

    褒められているのか分からなかった。

    でも、

    少し嬉しかった。

    ⸻

    帰り道。

    父が言った。

    「人生ってな」

    「うん」

    「背中を押してくれる歌が一曲あるだけで、案外なんとかなる」

    「一曲だけ?」

    「一曲終わったら、また次の曲だ」

    「いっぱい必要だね」

    父は笑った。

    「そうだな」

    ⸻

    その時の俺は、

    まだ知らなかった。

    この先、

    何度も転ぶことを。

    何度も泣くことを。

    何度も誰かに振られることを。

    そして、

    そのたびに、

    なぜか近くではアイドルソングが流れていることを。

    ⸻

    そして父が、

    人生の最後まで、

    推しの卒業発表で泣き続ける男だということも。

    もちろん、

    その頃の俺は知らない。

    あの日、

    世界一の木を目指した少年が、

    七十年後、

    孫と一緒にペンライトを振っていることを。

    ⸻

    人生というライブは、

    まだ始まったばかりだった。

    第二章 三秒で終わった初恋

    小学五年生の春。

    俺は恋をした。

    人生初だった。

    そしてその恋は、

    人生最速で終わることになる。

    ⸻

    相手は高橋美咲。

    図書委員。

    成績優秀。

    字が綺麗。

    給食の牛乳を最後まで飲まない。

    そして笑うと八重歯が見える。

    十歳の男子なんて単純である。

    八重歯が見えた時点でほぼ好きになる。

    消しゴムを拾われたら結婚まで考える。

    実際、俺は考えた。

    結婚。

    十歳で。

    しかも消しゴム一個で。

    恋とは恐ろしい病気である。

    ⸻

    美咲は静かな子だった。

    休み時間は本を読む。

    運動会でも必要以上に張り切らない。

    給食の時間も騒がない。

    俺とは正反対だった。

    当時の俺は、

    友達とバカなことばかりしていた。

    給食のパンを何メートル飛ばせるか選手権。

    消しゴムを削って戦車を作る大会。

    廊下を滑って先生に怒られる競技。

    どれも正式競技ではない。

    そして、

    その中心には親友の佐藤がいた。

    幼稚園でライオン役を奪った男である。

    運動神経抜群。

    成績優秀。

    女子に優しい。

    そして顔もいい。

    神様は配分を間違えていた。

    ⸻

    そんな俺が、

    なぜ美咲を好きになったのか。

    今でもよく分からない。

    たぶん、

    人は自分にないものに憧れるのだ。

    あるいは八重歯だ。

    八重歯の可能性が高い。

    ⸻

    恋をすると世界が変わる。

    朝、学校へ行く。

    美咲がいる。

    嬉しい。

    欠席。

    絶望。

    カレーの日。

    美咲もカレーを食べている。

    運命。

    給食当番。

    美咲と同じ班。

    結婚。

    人間は恋をすると知能が下がる。

    確実に下がる。

    これは父から受け継いだ血だった。

    完全に血だった。

    ⸻

    問題は告白だった。

    好きだ。

    でも言えない。

    振られるかもしれない。

    笑われるかもしれない。

    転校することになるかもしれない。

    名字を変えることになるかもしれない。

    被害妄想だけは一人前だった。

    ⸻

    ある日、

    親友の佐藤に相談した。

    「美咲ちゃん好きなんだよね」

    佐藤は言った。

    「へぇ」

    反応が薄い。

    「告白しようと思う」

    「すれば?」

    軽い。

    人生相談とは思えない軽さだった。

    「振られたら?」

    「振られる」

    「もっとこう…励ますとか」

    「好きなんでしょ?」

    「うん」

    「じゃあ言えば?」

    「怖い」

    「怖いならやめれば?」

    「それも嫌」

    「めんどくさいな」

    親友だった。

    ⸻

    その帰り道。

    商店街のCDショップの前を通った。

    父のせいで、

    俺は無意識に立ち止まってしまう。

    スピーカーから、

    当時大人気だったアイドルグループの新曲が流れていた。

    そしてサビ。

    ⸻

    「伝えなきゃ始まらない」

    ⸻

    俺は立ち止まった。

    なるほど。

    確かにそうだ。

    伝えなければ始まらない。

    人生とは挑戦だ。

    青春だ。

    勇気だ。

    十歳の俺は感動した。

    今思えば、

    ただ流れていただけである。

    しかし当時の俺には、

    天からの啓示だった。

    ⸻

    その夜。

    珍しく父に相談した。

    「好きな子いるんだけど」

    父は箸を落とした。

    味噌汁をこぼした。

    母も固まった。

    「お前に!?」

    父が叫んだ。

    失礼だろ。

    「いるよ!」

    「早くない!?」

    「五年生だよ!」

    「父さんは高校生だったぞ!」

    母が冷静に言った。

    「あなたは女子と話せなかっただけでしょ」

    父が黙った。

    母は強かった。

    ⸻

    すると父が急に立ち上がった。

    「待ってろ!」

    どこへ行く。

    そして戻ってきた。

    なぜか、

    推しのライブDVDを持って。

    「恋愛はライブと同じだ!」

    意味が分からない。

    「まず気持ちを伝える!」

    「うん」

    「後悔しない!」

    「うん」

    「そして全力!」

    「うん」

    「アンコール!」

    「それは何?」

    「知らん!」

    知らないのか。

    ⸻

    母が呆れていた。

    「なんの参考にもならないわね」

    「いや、愛は共通だから!」

    「共通じゃない」

    「同じだ!」

    「違う」

    「似てる!」

    「似てない」

    この夫婦、

    よく結婚できたなと思った。

    ⸻

    翌日。

    放課後。

    校庭。

    鉄棒の近く。

    人生初の呼び出しだった。

    心臓がうるさい。

    手が震える。

    逃げたい。

    帰りたい。

    転校したい。

    名字を変えたい。

    だが父もアイドルも、

    背中を押してくる。

    逃げ場がない。

    ⸻

    「なに?」

    と美咲が言った。

    かわいい。

    終わった。

    もう帰りたい。

    だが俺は言った。

    「好きです」

    沈黙。

    一秒。

    二秒。

    三秒。

    「ごめん」

    終わった。

    世界最速だった。

    カップラーメンでも三分待つ。

    俺の恋は三秒だった。

    ⸻

    そして、

    美咲は申し訳なさそうに言った。

    「私、佐藤くんが好きなの」

    またお前か。

    ライオン。

    そして初恋。

    二度も俺から主役を奪うな。

    どれだけ強いんだ。

    チートか。

    ⸻

    帰宅後。

    俺は布団に潜った。

    人生初の失恋だった。

    すると父が部屋に入ってきた。

    珍しく静かだった。

    「どうだった」

    「振られた」

    「そうか」

    笑わなかった。

    茶化さなかった。

    ただ、

    俺の隣に座った。

    ⸻

    「父さんも振られたことあるぞ」

    「何回?」

    「数えるのをやめた」

    想像以上だった。

    「母さんにも?」

    「いや」

    「じゃあ誰?」

    「近所のお姉さん」

    「ふーん」

    「保健室の先生」

    「多いな」

    「大学の先輩」

    「多いな」

    「アイドル」

    「それは違うだろ」

    「違わん」

    違う。

    絶対違う。

    ⸻

    「でもな」

    父が言った。

    「振られるってのはな」

    「うん」

    「ちゃんと好きになった証拠だ」

    「……」

    「好きにならなきゃ、振られもしない」

    ⸻

    その時の俺には、

    よく分からなかった。

    十歳だったから。

    ⸻

    夜。

    リビングでは音楽番組が流れていた。

    アイドルたちが歌っている。

    するとサビで歌った。

    ⸻

    「涙も明日の糧になる」

    ⸻

    俺は思った。

    便利だな。

    本当に便利だな。

    背中を押してくる。

    失敗しても慰めてくる。

    どっちに転んでも対応してくる。

    アフターサービスが充実している。

    ⸻

    翌朝。

    学校へ行く。

    美咲はいた。

    普通だった。

    佐藤もいた。

    腹が立つくらい普通だった。

    世界は何も変わっていない。

    変わったのは俺だけだった。

    ⸻

    でも不思議だった。

    少しだけ。

    ほんの少しだけ。

    告白して良かった気がした。

    もし言わなかったら、

    きっと、

    もっと長く後悔していた。

    ⸻

    そして卒業式の日。

    美咲は俺に言った。

    「告白してくれて嬉しかったよ」

    「え?」

    「なんか、自信になった」

    そう言って笑った。

    八重歯が見えた。

    やっぱりかわいかった。

    そして、

    やっぱり無理だった。

    佐藤には勝てない。

    神様は配分を間違えていた。

    ⸻

    失恋はした。

    でも、

    全部が無駄だったわけじゃない。

    そのことを初めて知った。

    ⸻

    もっとも。

    数年後。

    俺は受験で盛大に失敗する。

    そして初めて知る。

    恋愛の失敗なんて、

    人生の失敗ランキングでは、

    かなりかわいい部類だということを。

    そして、

    父の失敗の数にも、

    まだ全然追いついていないということを。

    その頃の俺は、

    まだ知らなかった。

    この先、

    何度も失敗することを。

    何度も振られることを。

    何度も心が折れることを。

    そしてそのたびに、

    あの人は決まって言うのだ。

    ⸻

    「大丈夫だ」

    「次の曲がある」

    ⸻

    と。

    第三章 親父がうざい

    中学二年生になると、

    親という生き物が急に恥ずかしくなる。

    これは世界共通らしい。

    たぶんアメリカの中学生も、

    フランスの中学生も、

    南極のペンギンも同じだ。

    親という存在が、

    とにかくうざい。

    そして俺の場合、

    その親は正雄だった。

    最悪である。

    難易度が高すぎた。

    普通の父親ならまだいい。

    正雄は普通ではなかった。

    ライブTシャツを着る。

    車で大音量でアイドルソングを流す。

    推しの誕生日にケーキを買う。

    推しの卒業で有給を使う。

    そして何より、

    テンションが高い。

    四十代とは思えない。

    いや、

    四十代だからこそ思えない。

    ⸻

    そんなある日。

    授業参観があった。

    俺は嫌だった。

    親が来ること自体はいい。

    問題は、

    誰が来るかである。

    母ならいい。

    和子は静かだ。

    目立たない。

    優秀である。

    しかし父は違う。

    目立つ。

    非常に目立つ。

    そして悪目立ちする。

    ⸻

    朝。

    「今日、授業参観だから」

    と言うと、

    父は新聞を読む手を止めた。

    「行く!」

    早い。

    食い気味だった。

    「いや母さんだけでいい」

    「なんで!」

    「なんでも!」

    「父さん、暇だぞ!」

    知らん。

    「有給使う!」

    重い。

    授業参観に命をかけるな。

    ⸻

    結局、

    二人とも来た。

    最悪だった。

    しかも父。

    なぜか一番前にいた。

    いつの間にか前列を確保している。

    ライブか。

    指定席か。

    ⸻

    国語の授業。

    先生が質問した。

    「この場面で主人公はどんな気持ちでしょう?」

    クラス全体が静まり返る。

    すると。

    父が頷いた。

    大きく。

    ものすごく。

    「うんうん」

    声まで出ている。

    先生が困っていた。

    生徒より親の方がリアクションしていた。

    ⸻

    さらに。

    俺が当てられる。

    答える。

    少し噛む。

    すると。

    父。

    拍手。

    一人だけ。

    教室に響く。

    母が頭を抱えた。

    俺は死にたくなった。

    その瞬間、

    思わず言ってしまった。

    ⸻

    「もう学校来るなよ!」

    ⸻

    静かになった。

    父も。

    母も。

    俺も。

    時間だけが止まった。

    ⸻

    父は少し驚いた顔をした。

    そして笑った。

    「悪かった悪かった」

    笑っていた。

    でも。

    少しだけ。

    本当に少しだけ。

    寂しそうだった。

    ⸻

    帰り道。

    母に怒られた。

    「言い過ぎ」

    「だって!」

    「お父さんなりに嬉しかったのよ」

    「恥ずかしいんだよ!」

    「まあ、それも分かる」

    母は笑った。

    「でもね」

    「なに」

    「あなたも似てるわよ」

    「似てない!」

    「似てる」

    似ていなかった。

    絶対に。

    ⸻

    そう思っていた。

    ⸻

    その数ヶ月後。

    運命の日がやってきた。

    夕食後。

    なんとなくテレビを見ていた。

    音楽番組だった。

    興味はなかった。

    本当に。

    全然。

    一ミリも。

    ところが。

    新曲披露。

    スポットライト。

    笑顔。

    歌。

    ダンス。

    そしてセンターの女の子。

    かわいい。

    終わった。

    人生が終わった。

    いや、

    始まった。

    ⸻

    「誰この子」

    俺は呟いた。

    父が反応した。

    早かった。

    獲物を見つけた鷹くらい早かった。

    「気になるか!?」

    「別に!」

    「嘘つけ!」

    「別に!」

    「目が完全に恋してる!」

    うるさい。

    ⸻

    翌日。

    CDショップへ行った。

    偶然である。

    本当に偶然。

    別に買うつもりはなかった。

    気付いたらレジにいた。

    不思議だった。

    人間の体とは不思議である。

    ⸻

    帰宅。

    ポスターを貼る。

    雑誌を買う。

    録画する。

    夜更かしする。

    成績が下がる。

    母が怒る。

    父が笑う。

    「血だった!」

    「完全に血だった!」

    うるさい。

    ⸻

    そして、

    父と俺の間に戦争が始まった。

    推し戦争である。

    「センターはこっち!」

    「いやこっち!」

    「歌唱力!」

    「ダンス!」

    「歴史!」

    「若さ!」

    「総選挙!」

    「時代!」

    「握手会!」

    「配信!」

    母が言った。

    「うるさい」

    終了だった。

    ⸻

    そんなある日。

    父が言った。

    「ライブ行くか?」

    俺は迷った。

    恥ずかしかった。

    父と二人。

    中学生である。

    嫌だった。

    でも。

    少しだけ興味があった。

    「……行く」

    父は笑った。

    嬉しそうだった。

    犬みたいだった。

    ⸻

    ライブ当日。

    父は朝五時に起きた。

    早すぎる。

    遠足か。

    「物販!」

    「まだ始まらないよ!」

    「戦いだから!」

    何と戦っているのか分からない。

    ⸻

    会場。

    人。

    人。

    人。

    そしてペンライト。

    光。

    歓声。

    熱気。

    俺は圧倒された。

    そして、

    音楽が始まる。

    一曲目。

    歓声。

    二曲目。

    さらに歓声。

    三曲目。

    気付けば、

    俺も叫んでいた。

    ⸻

    「うおおおお!」

    ⸻

    隣を見る。

    父も叫んでいた。

    ⸻

    「うおおおお!」

    ⸻

    親子だった。

    完全に。

    ⸻

    アンコール。

    会場中が一つになる。

    知らない人同士が笑っている。

    泣いている。

    歌っている。

    俺は少し泣いた。

    なんで泣いてるのか分からなかった。

    ただ。

    すごかった。

    本当に。

    すごかった。

    ⸻

    帰り道。

    コンビニのおにぎりを食べる。

    父がニヤニヤしている。

    腹が立つ。

    「な?」

    「何が」

    「いいだろ?」

    「……まあ」

    「人生には推しが必要なんだ」

    「別に」

    「別にでもいい」

    父は笑った。

    「好きなものがあるってのはな」

    「うん」

    「案外、悪くないぞ」

    ⸻

    その時の俺は、

    まだ知らなかった。

    この先、

    何度もその言葉に救われることを。

    ⸻

    家に帰る。

    制服を脱ぐ。

    机を見る。

    ポスター。

    CD。

    雑誌。

    録画した番組。

    そして、

    今日買ったライブTシャツ。

    俺は固まった。

    ⸻

    父みたいにはならない。

    そう思っていた。

    ライブTシャツなんて着ない。

    ペンライトなんて振らない。

    推しの卒業で泣いたりしない。

    絶対に。

    ⸻

    だが。

    机の上にあるライブTシャツを見て、

    俺は思った。

    ⸻

    血だった。

    完全に血だった。

    ⸻

    そして、

    もっと恐ろしいことに。

    少しだけ。

    本当に少しだけ。

    父が羨ましくなっていた。

    好きなものを好きだと言える、

    あの図太さが。

    ⸻

    もっとも。

    その頃の俺は知らない。

    数年後。

    大学受験で盛大に失敗し、

    「限界なんて飛び越えろ!」

    という歌詞を真に受けた結果、

    推しは責任を取ってくれないことを知るのである。

    そして、

    その事実を、

    人生で初めて本気で理解することになる。

    第四章 推しは責任を取らない

    中学三年生になると、

    大人たちは急に脅してくる。

    「もう受験生だからな」

    先生が言う。

    親が言う。

    塾が言う。

    親戚が言う。

    近所の魚屋のおじさんまで言う。

    たぶん日本では、中学三年になると全国民に通知が行くのだと思う。

    ⸻

    『対象個体・雄太が受験生になりました』

    『適度なプレッシャーを与えてください』

    ⸻

    そんなシステムがあるに違いない。

    俺は勉強が得意ではなかった。

    かといって壊滅的でもない。

    中の中。

    白米みたいな男だった。

    派手ではない。

    主役ではない。

    でもいないと困る。

    先生が一番コメントに困るタイプである。

    「真面目ですね」

    「優しいですね」

    「安定していますね」

    全部、

    褒めてるようで褒めていない。

    ⸻

    夏休み前。

    三者面談。

    担任の村田先生が資料を見ながら言った。

    「雄太なら桜ヶ丘高校が妥当かな」

    母が頷く。

    「そうですね」

    先生も頷く。

    「そうですね」

    俺だけが頷かなかった。

    「妥当」

    その言葉が嫌いだった。

    安全。

    現実的。

    身の丈。

    若者が嫌う言葉ランキング上位である。

    中学生は万能感でできている。

    根拠はない。

    自信もない。

    でも、

    なんとなく自分だけは特別だと思っている。

    迷惑な年頃だった。

    ⸻

    帰り道。

    商店街のCDショップ。

    スピーカーから推しの新曲が流れていた。

    熱い曲だった。

    夢。

    努力。

    挑戦。

    青春。

    そういう言葉が詰まっていた。

    そしてサビ。

    ⸻

    「限界なんて飛び越えろ!」

    ⸻

    俺は立ち止まった。

    そうか。

    限界なんて飛び越えればいいんだ。

    先生は現実を見ている。

    親も現実を見ている。

    でも、

    推しは未来を見ている。

    中学三年生の俺は、

    迷わず推しを信じた。

    今思えば危険である。

    進路相談をアイドルに委ねていた。

    普通は先生に相談する。

    俺は推しに相談していた。

    ⸻

    翌日。

    進路希望調査。

    第一志望の欄。

    俺はワンランク上の進学校を書いた。

    村田先生は二度見した。

    三度見した。

    たぶん四度見もした。

    「本気か?」

    「本気です」

    「かなり厳しいぞ」

    「限界を飛び越えます」

    村田先生は眼鏡を外した。

    「誰に言われた?」

    鋭い。

    教師は怖い。

    「……いや」

    「アイドルか?」

    なぜ分かる。

    ベテランだった。

    ⸻

    そこから半年。

    俺は人生で一番勉強した。

    少なくとも当社比では。

    数学。

    英語。

    理科。

    社会。

    国語。

    全方位から殴られていた。

    特に数学。

    なぜ数字の世界にアルファベットが出てくるのか。

    お前は英語の管轄だろ。

    越境するな。

    ルールを守れ。

    xとyが出てくるたびに腹が立った。

    ⸻

    模試。

    E判定。

    塾の先生が言った。

    「厳しいな」

    母も言った。

    「無理しなくても」

    佐藤も言った。

    「別の高校でもいいじゃん」

    全員が現実を見ていた。

    俺だけが見ていなかった。

    見ていたのは、

    推しだった。

    ⸻

    「限界なんて飛び越えろ!」

    ⸻

    便利だった。

    本当に便利だった。

    何にでも使える。

    寝坊しても。

    宿題忘れても。

    模試E判定でも。

    万能だった。

    万能すぎて危険だった。

    ⸻

    受験当日。

    会場には頭の良さそうな奴しかいなかった。

    全員メガネに見えた。

    実際には半分くらいだった。

    緊張でそう見えただけだ。

    試験開始。

    数学。

    終わった。

    人生には、

    開始五分で結果が分かることがある。

    その日の数学がそうだった。

    知らない。

    分からない。

    見たことない。

    お前誰だ。

    そんな問題ばかりだった。

    俺は戦った。

    だが敵が強すぎた。

    そして、

    負けた。

    ⸻

    合格発表。

    掲示板。

    番号を探す。

    ない。

    もう一度探す。

    ない。

    目を細める。

    ない。

    角度を変える。

    ない。

    増えていない。

    当然だった。

    俺は落ちた。

    綺麗に。

    誰も文句を言えないくらい。

    ⸻

    帰り道。

    快晴だった。

    腹が立った。

    こういう時くらい雨を降らせろ。

    映画を見習え。

    少しは空気を読め。

    空まで俺を振るのか。

    ⸻

    家に帰る。

    母は何も言わなかった。

    ただ、

    「お疲れ」

    と言った。

    それだけだった。

    それが一番辛かった。

    ⸻

    そして父。

    父は、

    笑った。

    大爆笑だった。

    「だから言っただろ!」

    笑いすぎて咳き込んでいる。

    最低だった。

    本当に最低だった。

    「なんで笑うんだよ!」

    俺は怒鳴った。

    「笑い事じゃないだろ!」

    父は笑いながら、

    涙を拭いた。

    「だって面白いじゃねぇか!」

    「何が!」

    「お前、本気だったろ!」

    「……」

    「本気でやってダメだったなら上出来だ!」

    意味が分からなかった。

    腹が立った。

    全然嬉しくなかった。

    今すぐライブDVDを全部捨ててやろうかと思った。

    ⸻

    その夜。

    父が部屋に来た。

    珍しく真面目な顔だった。

    ビールも持っていなかった。

    「なあ雄太」

    「なに」

    「父さんな」

    少し笑った。

    「高校落ちたことあるぞ」

    「え?」

    初耳だった。

    「第一志望」

    「マジ?」

    「しかも二校」

    想像以上だった。

    「二校?」

    「連敗」

    弱い。

    思ったより弱かった。

    父はベッドに腰掛けた。

    「人生な」

    始まった。

    父の人生論である。

    酔ってなくても始まる。

    「失敗したことより」

    「うん」

    「挑戦しなかったことの方が残るぞ」

    俺は黙った。

    その時は、

    正直よく分からなかった。

    でも、

    忘れなかった。

    ⸻

    父が出て行ったあと、

    母が入ってきた。

    「泣いた?」

    「泣いてない」

    「嘘」

    「泣いてない」

    「目がアンパンマン」

    失礼だった。

    「お母さん」

    「なに」

    「ごめん」

    母は笑った。

    「何が?」

    「お守りとか」

    「別に」

    「期待してたでしょ」

    母は少しだけ黙った。

    そして、

    「期待くらいするわよ」

    と笑った。

    「親なんだから」

    その顔を見て、

    少しだけ泣いた。

    ⸻

    翌日。

    佐藤からメールが来た。

    『受かった』

    短かった。

    シンプルだった。

    そして、

    効いた。

    ものすごく効いた。

    嬉しかった。

    親友だから。

    でも、

    悔しかった。

    一緒の高校に行く。

    文化祭。

    部活。

    放課後。

    そんな未来を勝手に想像していた。

    その未来は、

    なくなった。

    受験で失ったのは合格だけじゃなかった。

    未来だった。

    ⸻

    卒業式。

    佐藤が笑った。

    「じゃあな」

    「おう」

    「また遊ぼう」

    「おう」

    男同士なので、

    感動的なことは言わない。

    でも、

    少しだけ寂しかった。

    ⸻

    帰り道。

    ラジオから、

    推しの新曲が流れてきた。

    そしてサビ。

    ⸻

    「失敗は未来へのステップ」

    ⸻

    俺は思った。

    便利だな。

    本当に便利だな。

    成功しても応援。

    失敗しても応援。

    どっちに転んでも励ましてくる。

    アフターサービスが充実している。

    ずるい。

    ⸻

    そして、

    初めて気付いた。

    推しは責任を取らない。

    数学を解いてくれない。

    受験会場にも来ない。

    合格通知も持ってこない。

    人生を代わりに生きてはくれない。

    でも。

    転んだ時だけは、

    なぜか近くにいる。

    それだけだった。

    それだけなのに、

    少し救われるのだった。

    ⸻

    もっとも。

    その頃の俺は知らない。

    数年後。

    東京で一人の女性と出会い、

    推しよりも、

    父よりも、

    数学よりも、

    ずっと理解不能な存在に振り回されることになる。

    恋愛だった。

    そして、

    その相手は、

    俺の人生最大のアンコールをくれる人になるのである。

    第五章 自由は意外と寂しい

    受験に失敗した俺は、

    結局、村田先生が勧めてくれた高校へ進学した。

    そして三年後。

    今度こそ真面目に勉強し、

    なんとか東京の大学に受かった。

    母は泣いた。

    祖母も泣いた。

    近所のおばちゃんも泣いた。

    魚屋のおじさんも泣いた。

    なぜ魚屋のおじさんが泣くのか、

    最後まで分からなかった。

    父だけは違った。

    「よし!」

    ガッツポーズ。

    そして地図を広げた。

    「ここがライブ会場で」

    違う。

    大学を探せ。

    「この辺にアイドルショップがあって」

    知らん。

    「握手会でよく使う駅が」

    もっと知らん。

    東京観光ガイドとしては偏りがひどかった。

    ⸻

    上京初日。

    東京駅で迷った。

    十分で迷った。

    人生最速だった。

    駅員さんに道を聞く。

    教えてもらう。

    十分後。

    また同じ駅員さんに聞く。

    「さっきも聞きましたよね?」

    覚えられていた。

    恥ずかしかった。

    東京は広かった。

    出口が多すぎた。

    人も多かった。

    そして田舎者に厳しかった。

    ⸻

    アパートは六畳。

    風呂とトイレは別。

    これだけで勝利だった。

    しかし、

    自由には代償があった。

    洗濯機。

    意味が分からない。

    「標準」って何だ。

    何を基準にしている。

    初日から白いシャツがピンクになった。

    赤いタオルが犯人だった。

    母に電話した。

    「なんでピンクになるの?」

    「分けなさい」

    「誰と?」

    「洗濯物!」

    怒られた。

    二十歳になって洗濯で怒られる男だった。

    ⸻

    料理も悲惨だった。

    米を炊く。

    失敗。

    水が多い。

    おかゆ。

    次の日。

    水が少ない。

    石。

    その次の日。

    面倒になってチャーハン。

    三日連続チャーハン。

    もはやチャーハン教だった。

    ⸻

    一人暮らし一ヶ月。

    熱を出した。

    三十九度。

    死ぬと思った。

    人間、

    三十九度になると、

    本気で遺書を書きたくなる。

    誰もいない。

    冷蔵庫には麦茶しかない。

    世界が終わった。

    母から電話。

    「元気?」

    「普通」

    「声変」

    「普通」

    「熱?」

    「三十九度」

    「なんで普通って言ったの!」

    怒られた。

    その三十分後。

    大量のレトルト食品が届いた。

    母だった。

    怖かった。

    愛情の速度が怖かった。

    ⸻

    夜。

    今度は父から電話。

    「元気か?」

    「熱」

    「マジか」

    珍しく真面目だった。

    「帰ってくるか?」

    「帰らない」

    「そうか」

    少し沈黙。

    「飯食えよ」

    「うん」

    「寝ろ」

    「うん」

    「推しの動画見るなよ」

    「見る」

    「バカ」

    「知ってる」

    「父さんも見る」

    「知ってる」

    しょうもない会話だった。

    でも、

    少し安心した。

    ⸻

    大学生活は悪くなかった。

    友達もできた。

    山崎。

    同じ学部。

    適当。

    女好き。

    単位を落とす天才。

    だが良いやつだった。

    「ライブ行く?」

    と誘われた時、

    俺は箸を落とした。

    「推しの?」

    「推しの」

    人生で初めて、

    講義より大事な予定ができた瞬間だった。

    ⸻

    ライブは最高だった。

    物販は地獄だった。

    財布は死んだ。

    知らないおじさんは泣いていた。

    知らない女子大生も泣いていた。

    俺も泣いていた。

    宗教かと思った。

    違った。

    愛だった。

    たぶん。

    ⸻

    その帰り。

    余韻で動けなくなっていた俺に、

    一人の男性が声をかけてきた。

    「初めて?」

    四十代くらい。

    少し疲れた顔。

    優しい目。

    中村さん。

    営業職。

    独身。

    推し歴二十年。

    ベテランだった。

    駅まで一緒に歩いた。

    「人生変わるだろ?」

    「変わりました」

    即答だった。

    中村さんは笑った。

    「みんなそう言うんだよ」

    そして少し真面目な顔になった。

    「でもな」

    「はい」

    「推しは人生を変えてくれるけど」

    「はい」

    「代わりには生きてくれない」

    その時は、

    意味が分からなかった。

    ⸻

    数年後。

    俺は何度もその言葉を思い出すことになる。

    後悔しながら。

    ⸻

    その日の帰り。

    父に電話した。

    「どうだった?」

    開口一番だった。

    大学の話ではない。

    生活でもない。

    ライブだった。

    「最高だった」

    すると父は笑った。

    「だろ?」

    なぜか誇らしげだった。

    お前が育てたわけじゃない。

    ⸻

    そして、

    東京での生活にも少し慣れ始めた頃。

    運命の日がやってくる。

    満員電車。

    朝のラッシュ。

    眠い。

    暑い。

    帰りたい。

    すると、

    隣にいた女性が、

    俺の足元を指差した。

    「それ、落としましたよ」

    定期入れだった。

    「ありがとうございます」

    「どういたしまして」

    愛想のない人だった。

    笑わない。

    無表情。

    美人。

    怖い。

    そして、

    二度と会うことはない。

    その時の俺は、

    そう思っていた。

    ⸻

    だが。

    人生というやつは、

    だいたいそういう時に限って、

    しつこいのである。

    第六章 推しより難しい

    二十三歳になった俺は、一つの真理に辿り着いていた。

    人間関係は難しい。

    特に女心は難しい。

    数学より難しい。

    xより難しい。

    yより難しい。

    数学には答えがある。

    恋愛にはない。

    しかも問題文が毎回変わる。

    出題者本人も答えを知らないことがある。

    恐ろしい科目だった。

    もっとも。

    その頃の俺はまだ知らなかった。

    人生最大の難問と出会うことになるなんて。

    ⸻

    社会人一年目。

    俺は毎日終電だった。

    会社。

    満員電車。

    会社。

    残業。

    終電。

    たまに生きている意味を考える。

    そんな生活だった。

    そしてある夜。

    ホームのベンチで死んだ魚みたいな顔をしていた俺に、

    声がした。

    「毎日しんどそうですね」

    女性だった。

    スーツ姿。

    二十代半ばくらい。

    綺麗な人だった。

    だが笑わない。

    「顔に出てます?」

    「かなり」

    失礼だった。

    しかし否定できなかった。

    「そっちも大変そうですね」

    「大変です」

    即答だった。

    二人で少し笑った。

    それだけだった。

    電車が来る。

    女性が立ち上がる。

    「また会うかもしれませんね」

    「ですね」

    社交辞令だと思った。

    東京だ。

    そんなことあるわけがない。

    ⸻

    一週間後。

    またいた。

    「……またですね」

    「またですね」

    さらに翌週。

    コンビニで会った。

    「ストーカーですか?」

    「違います」

    「安心しました」

    全然安心していなかった。

    さらに二週間後。

    カフェ。

    「怖くなってきました」

    「俺もです」

    東京は広い。

    なのに妙に狭かった。

    その女性の名前は彩。

    二十五歳。

    会社員。

    現実主義者。

    コーヒー好き。

    読書好き。

    そして、

    俺の推しに全く興味がなかった。

    ⸻

    「この曲、すごくいいんですよ」

    「普通ですね」

    終了。

    「卒業ライブなんです!」

    「学校?」

    殺意が湧いた。

    母と同じ反応だった。

    「アイドルです!」

    「ああ」

    興味がなかった。

    本当に興味がなかった。

    ここまで興味を持たれないと、

    逆に清々しかった。

    ⸻

    だが不思議だった。

    一緒にいると楽しかった。

    好きな映画も違う。

    好きな食べ物も違う。

    休日の過ごし方も違う。

    価値観も違う。

    なのに会話は途切れなかった。

    むしろ、

    何時間でも話せた。

    不思議な人だった。

    ⸻

    そして恋愛経験値の低い俺は、

    盛大に空回りした。

    LINEが一時間返ってこない。

    死ぬ。

    既読がつく。

    生き返る。

    返信が短い。

    死ぬ。

    絵文字がある。

    生き返る。

    忙しかった。

    感情が。

    ⸻

    山崎に相談した。

    「脈あると思う?」

    「知らん」

    役に立たなかった。

    中村さんに相談した。

    推し歴二十年。

    独身。

    ベテラン。

    「恋愛ですか?」

    「そうです」

    「知らん」

    「え?」

    「推しなら分かる」

    「恋愛は専門外」

    戦力外だった。

    ⸻

    初めて二人で映画を観に行った。

    俺は完璧だった。

    服装よし。

    髪型よし。

    会話よし。

    たぶん。

    おそらく。

    少なくとも当社比では。

    だが映画終了後。

    彩が言った。

    「映画より、ポップコーン落とした時の顔の方が面白かったです」

    終わった。

    俺の三時間。

    敗北だった。

    ⸻

    そんなある日。

    彩が珍しく弱音を吐いた。

    「最近、会社辞めたいんですよね」

    「辛い?」

    「辛いです」

    「辞めれば?」

    「簡単に言いますね」

    「簡単だから」

    「責任ないから言えるんですよ」

    「そうかも」

    彩は少し笑った。

    「でも」

    「はい」

    「そう言ってもらえると楽です」

    その時だった。

    彩が笑った。

    初めて見た。

    八重歯が見えた。

    俺は思った。

    人間は成長しない。

    十歳の頃から。

    結局、

    八重歯で好きになる。

    ⸻

    冬。

    帰り道。

    駅のホーム。

    寒かった。

    「そういえば」

    彩が言う。

    「なんです?」

    「なんで私なんですか?」

    難問だった。

    数学より難しかった。

    「え?」

    「私、愛想悪いし」

    「はい」

    「否定してください」

    怒られた。

    「趣味も違うし」

    「うん」

    「推しも嫌いだし」

    「嫌いじゃないです」

    「興味ないだけです」

    もっと悪い。

    「なんでですか?」

    俺は考えた。

    分からなかった。

    本当に分からなかった。

    だから正直に言った。

    「一緒にいると楽しいから」

    彩は少し黙った。

    「小学生みたいですね」

    「ごめん」

    「褒めてます」

    そして、

    少し照れながら言った。

    「また会ってくれます?」

    俺の脳は止まった。

    「え?」

    「嫌ならいいですけど」

    「いや!」

    「会う!」

    「毎日会う!」

    重い。

    怖い。

    気持ち悪い。

    俺は言ってから後悔した。

    彩は吹き出した。

    初めて声を出して笑った。

    「毎日はいいです」

    八重歯が見えた。

    終わった。

    完全に好きだった。

    ⸻

    その夜。

    俺は父に電話した。

    「父さん」

    「なんだ」

    「好きな人できた」

    沈黙。

    五秒。

    十秒。

    そして。

    「和子ぉぉぉ!」

    聞こえてる。

    全部聞こえてる。

    「息子に彼女できた!」

    「まだ彼女じゃない!」

    「うるさい!」

    受話器の向こうで母の声。

    「聞こえてるわよ!」

    平常運転だった。

    父は泣いていた。

    なぜ泣く。

    早い。

    まだ付き合ってもいない。

    推しの卒業発表でもない。

    だが泣いていた。

    「雄太ぁ……」

    「なんだよ」

    「大きくなったなぁ……」

    「二十三だよ」

    「父さん嬉しい……」

    「うるさい」

    「でも気をつけろ」

    珍しく真面目な声だった。

    「恋愛は難しいぞ」

    「知ってる」

    「推しより難しい」

    俺は笑った。

    「知ってる」

    本当にそうだった。

    推しは歌ってくれる。

    励ましてくれる。

    笑顔をくれる。

    でも。

    目の前の人は、

    泣く。

    怒る。

    悩む。

    傷つく。

    そして、

    自分も傷つく。

    だから難しい。

    難しいから、

    面白いのかもしれなかった。

    もっとも。

    その頃の俺はまだ知らない。

    この恋が、

    人生最大の味方になることも。

    そして、

    人生最大の大喧嘩をすることになるのも。

    さらに。

    結婚とはゴールではなく、

    本編開始ボタンだったことも。

    まだ知らなかったのである。

    第七章 告白が渋滞している

    二十四歳になると、

    人は二種類に分かれる。

    結婚する人。

    そして、

    LINEの返信一つで寿命を縮める人。

    俺は後者だった。

    完全に後者だった。

    ⸻

    彩とは順調だった。

    たぶん。

    週に一回会う。

    映画を見る。

    ご飯を食べる。

    カフェへ行く。

    駅まで送る。

    また会う。

    ほぼデートだった。

    いや、

    デートだった。

    誰がどう見ても。

    犬が見てもデートだった。

    だが、

    付き合っていなかった。

    ここが重要である。

    付き合っていない。

    恐ろしいことに。

    半年も。

    ⸻

    山崎が叫んだ。

    「なんで!?」

    居酒屋だった。

    声が大きい。

    「逆になんで!?」

    俺も叫んだ。

    「怖いから!」

    「何が!」

    「振られるの!」

    「小学生か!」

    正論だった。

    「向こうも好きだろ!」

    「分からん!」

    「ライブ誘われただろ!」

    「うん!」

    「水族館行っただろ!」

    「うん!」

    「誕生日プレゼントもらっただろ!」

    「うん!」

    「バレンタインも!」

    「うん!」

    「何を待ってるんだ!」

    俺は真顔で言った。

    「確定演出」

    山崎は箸を落とした。

    「恋愛にパチンコみたいなもの求めるな!」

    ⸻

    一方その頃。

    彩も会社の先輩に怒られていた。

    「なんで付き合わないの!」

    「だって違ったら嫌じゃないですか」

    「違わない!」

    「もし勘違いだったら」

    「勘違いじゃない!」

    「怖いです」

    「お前ら二人で何年ホームに立ってると思ってる!」

    先輩は頭を抱えた。

    「戦後の復興より長いわ!」

    長くはなかった。

    ⸻

    そんなある日。

    俺は父に相談した。

    「好きな人いるんだけど」

    「知ってる」

    「告白したい」

    父は固まった。

    そして。

    「和子ぉぉぉ!!」

    またか。

    「ついに来た!」

    受話器の向こうで、

    母の声。

    「うるさい!」

    平常運転だった。

    ⸻

    翌週。

    実家へ帰った。

    なぜか焼肉だった。

    祖母もいる。

    祖父もいる。

    魚屋のおじさんまでいた。

    なんでいる。

    「雄太!」

    父が立ち上がる。

    酔っている。

    嫌な予感しかしない。

    「告白にはタイミングがある!」

    「うん」

    「勢いだ!」

    「うん」

    「愛だ!」

    「うん」

    「アンコールだ!」

    「何が!」

    「知らん!」

    知らないのか。

    七十回くらい聞いてるぞ。

    ⸻

    祖父が言った。

    「わしは三回振られた」

    知らん。

    祖母が言った。

    「四回目が私」

    知らん。

    魚屋のおじさんが泣いた。

    なんで泣く。

    誰なんだお前は。

    ⸻

    そして母。

    「全部無視していいから」

    一番信用できた。

    ⸻

    そんな中、

    父だけが真剣だった。

    「雄太」

    「なに」

    「好きなら言え」

    珍しく静かだった。

    「振られても死なん」

    「うん」

    「でも言わなかった後悔は長い」

    その言葉だけは、

    ずっと変わらなかった。

    ⸻

    数日後。

    俺は決めた。

    告白する。

    場所は夜景の見えるレストラン。

    雰囲気も完璧。

    花束も予約。

    セリフも考えた。

    百回練習した。

    完璧だった。

    ⸻

    そして当日。

    彩が来た。

    かわいかった。

    終わった。

    心臓が終わった。

    練習したセリフが全部飛んだ。

    人間、

    緊張すると脳が死ぬ。

    これは医学的にもたぶん正しい。

    ⸻

    料理が来る。

    会話する。

    デザートが来る。

    終わる。

    帰る。

    告白できない。

    なんでだ。

    何しに来た。

    花束だけが元気だった。

    ⸻

    帰り道。

    俺は絶望していた。

    すると彩が言った。

    「今日、変でしたね」

    「ごめん」

    「なんかソワソワしてました」

    「ごめん」

    「あと三回くらい水こぼしてました」

    死にたかった。

    ⸻

    駅のホーム。

    いつもの場所。

    初めて会った場所。

    風が吹く。

    電車が来る。

    そして。

    彩がため息をついた。

    「もういいです」

    「え?」

    「限界です」

    俺は青ざめた。

    終わった。

    振られる。

    俺の恋、

    また三秒か。

    ⸻

    すると彩が言った。

    「好きです」

    俺の脳が止まった。

    「……え?」

    「だから」

    少し赤くなりながら、

    彩は言った。

    「好きです」

    「ずっと待ってたんです」

    「半年も」

    「遅いです」

    ⸻

    俺は固まった。

    完全に。

    フリーズした。

    再起動に時間がかかった。

    「え?」

    「え?」

    「俺?」

    「他に誰がいるんですか」

    「いや!」

    「俺も!」

    「好き!」

    「大好き!」

    「毎日会う!」

    「だから重いんです!」

    怒られた。

    付き合う前から怒られた。

    ⸻

    彩は笑った。

    八重歯が見えた。

    終わった。

    完全に終わった。

    人生が。

    良い意味で。

    ⸻

    その夜。

    父に電話した。

    「父さん」

    「どうだった」

    「付き合うことになった」

    沈黙。

    五秒。

    十秒。

    そして。

    号泣。

    「和子ぉぉぉぉ!!」

    まただ。

    「息子に彼女ができたぁぁ!!」

    母の声。

    「聞こえてる!」

    祖母の声。

    「赤飯!」

    祖父の声。

    「ビール!」

    魚屋のおじさん。

    「うぉぉぉ!!」

    だからなんなんだお前は。

    ⸻

    電話の向こうで、

    父は泣きながら言った。

    「雄太ぁ…」

    「なに」

    「人生っていいなぁ…」

    「お前の人生じゃないだろ」

    「いや…」

    少し笑って、

    父は言った。

    「好きな人と笑えるってのはな」

    「うん」

    「推し活より幸せかもしれん」

    俺は笑った。

    「それは言い過ぎ」

    「そうだな」

    父も笑った。

    「でも同じくらいだ」

    ⸻

    その頃の俺は、

    まだ知らなかった。

    この幸せのあと、

    人生最大の大喧嘩をすることを。

    結婚式で父が大暴走することを。

    そして、

    娘が生まれた日、

    俺もまた、

    病院の待合室でアイドル雑誌を読んでしまうことを。

    血だった。

    完全に血だった。

    第八章 結婚式はライブではない

    結婚とは、

    好きな人と一緒になることである。

    たぶん。

    おそらく。

    少なくとも教科書的にはそう書いてある。

    だが実際は、

    好きな人と一緒に、

    大量の書類と戦うことである。

    住民票。

    戸籍謄本。

    印鑑。

    保険。

    住所変更。

    銀行。

    クレジットカード。

    人類はなぜ愛の証明にこんな事務作業を要求するのか。

    役所はロマンを知らない。

    ⸻

    プロポーズは、

    ファミレスだった。

    しかもドリンクバー付き。

    俺が、

    「結婚する?」

    と言い、

    彩が、

    「する」

    と言った。

    終了。

    滞在時間九十分。

    プロポーズの時間、

    三秒。

    初恋の失恋と同じ速度だった。

    人生は対称性を重視しているらしい。

    ⸻

    問題は、

    その後だった。

    両親への挨拶。

    これは怖い。

    本当に怖い。

    ホラー映画より怖い。

    貞子はビデオを見なければいい。

    だが両親への挨拶は避けられない。

    ⸻

    まず、

    彩の実家。

    お父さん。

    無口。

    怖い。

    職業、警察官。

    終わった。

    俺の人生終わった。

    悪いことしてないのに取り調べが始まりそうだった。

    ⸻

    食事会。

    沈黙。

    気まずい。

    味がしない。

    肉なのに味がしない。

    緊張すると人間の味覚は死ぬらしい。

    ⸻

    「趣味は?」

    お父さんが聞く。

    来た。

    面接。

    「ライブです」

    「ライブ?」

    「はい」

    「誰の?」

    終わった。

    終わった終わった。

    アイドルですなんて言える空気じゃない。

    すると彩が言った。

    「この人、アイドルオタクなんです」

    裏切った。

    一瞬で売った。

    スパイだった。

    ⸻

    お父さんは黙った。

    怖い。

    沈黙が怖い。

    逮捕状が出るのかと思った。

    すると、

    「俺も昔はキャンディーズ好きだった」

    まさかだった。

    同志だった。

    警察官にも青春はある。

    ⸻

    そこから一時間。

    結婚の話は十分。

    アイドルの話五十分。

    何しに来た。

    俺たちは。

    ⸻

    一方、

    彩がうちに来た日はもっと酷かった。

    父。

    朝六時起床。

    「何着ればいい?」

    知らん。

    「髪切る!」

    切れ。

    「眉毛整える!」

    好きにしろ。

    「歯医者行く!」

    そこまで?

    推しの握手会でもそこまでしない。

    ⸻

    そして当日。

    父。

    スーツ。

    ネクタイ。

    香水。

    ワックス。

    完全武装。

    母が言った。

    「お父さん、結婚するの?」

    本当にそうだった。

    新郎みたいだった。

    ⸻

    彩が来る。

    父、

    立ち上がる。

    頭を下げる。

    さらに、

    泣く。

    早い。

    まだ玄関である。

    「うちのバカ息子を…!」

    「早い早い!」

    母が止める。

    「まだお茶も出してない!」

    父は泣いていた。

    玄関で。

    感情のスタートダッシュが早すぎた。

    ⸻

    しかし、

    本当の地獄はここからだった。

    結婚式準備。

    これである。

    人間関係のラスボス。

    ⸻

    式場。

    料理。

    席順。

    招待客。

    ドレス。

    引き出物。

    プロフィールムービー。

    決めることが多すぎる。

    結婚とはイベントではない。

    プロジェクトだった。

    ⸻

    そして、

    最大の戦争。

    BGM戦争。

    ⸻

    「任せろ」

    俺は言った。

    二十年の推し活。

    三千曲以上。

    知識なら誰にも負けない。

    ここは俺のホームグラウンド。

    勝った。

    そう思っていた。

    ⸻

    第一候補。

    推しのラブソング。

    却下。

    第二候補。

    推しのバラード。

    却下。

    第三候補。

    推しの卒業ソング。

    却下。

    第四候補。

    推しの友情ソング。

    却下。

    第五候補。

    推しの応援ソング。

    却下。

    六。

    七。

    八。

    九。

    十。

    十八連敗。

    ドラフト会議なら途中で退場させられる。

    ⸻

    「なんで!?」

    「歌詞!」

    彩が叫ぶ。

    「恥ずかしい!」

    「どこが!?」

    「ここ!」

    スマホを見せられる。

    ⸻

    「君だけが僕の運命」

    ⸻

    ……。

    確かに。

    客観視すると恥ずかしかった。

    推しフィルターとは恐ろしい。

    ⸻

    しかし、

    俺にも意地がある。

    二十年分の青春がある。

    簡単には折れない。

    「この曲は!」

    「却下」

    「まだサビしか!」

    「却下」

    「イントロが!」

    「却下」

    「ラスサビが!」

    「却下」

    裁判なら負けていた。

    ⸻

    そして、

    ついに大喧嘩になった。

    「なんでそんなに推しなの!?」

    彩が怒る。

    「人生支えてもらったから!」

    「私との結婚式でしょ!?」

    「だからこそ!」

    「だからこそが分からない!」

    その通りだった。

    俺も分からなかった。

    説明能力が消えていた。

    ⸻

    その夜。

    俺は実家へ逃げた。

    父がいた。

    アイスを食べながらライブ映像を見ていた。

    七十近い男の生活ではなかった。

    ⸻

    事情を話す。

    父は黙った。

    珍しい。

    茶化さない。

    笑わない。

    真面目だった。

    ⸻

    「なぁ雄太」

    「うん」

    「父さんの結婚式な」

    「うん」

    「推しの曲使おうとして怒られた」

    血だった。

    完全に血だった。

    ⸻

    「二十六曲」

    「多いな!」

    「母さんに殺されかけた」

    当然だった。

    「しかもな」

    父は遠い目をした。

    「祝辞で推しの話を十五分した」

    最低だった。

    ⸻

    「じいちゃんが止めてくれた」

    「じいちゃんが?」

    「お前の母さんと結婚するんだろって」

    父は笑った。

    「その時初めて気付いた」

    「何を?」

    「主役は推しじゃないって」

    当たり前だった。

    でも、

    父の顔は少し優しかった。

    「推しは照明なんだよ」

    「照明?」

    「主役を照らしてくれる」

    「……」

    「でもステージに立つのは自分たちだ」

    ⸻

    その時、

    母が通りかかった。

    「ちなみに当時の私は」

    「うん」

    「本気で離婚考えた」

    怖い。

    結婚式前である。

    まだ始まってない。

    ⸻

    翌日。

    俺は彩に謝った。

    彩も謝った。

    そして、

    二人で曲を選び直した。

    推しの曲は、

    エンドロール一曲だけ。

    最後の最後。

    アンコールみたいな場所。

    不思議と、

    悔しくなかった。

    むしろしっくりきた。

    ⸻

    そして、

    結婚式当日。

    事件が起きる。

    父である。

    ⸻

    受付開始。

    泣く。

    新婦入場。

    泣く。

    乾杯。

    泣く。

    ケーキ入刀。

    泣く。

    友人スピーチ。

    泣く。

    料理。

    泣く。

    何に泣いているのか、

    途中から誰も分からなくなっていた。

    水分が心配だった。

    ⸻

    そして、

    最大の事件。

    父の祝辞。

    ⸻

    「雄太はですね…」

    ここまではよかった。

    「幼稚園で木役で…」

    嫌な予感。

    「世界一の木を…」

    やめろ。

    「そして初恋で振られ…」

    やめろ。

    「高校受験も落ち…」

    やめろ!

    「でも推しの歌に…」

    やめろぉぉ!!

    ⸻

    会場爆笑。

    母爆笑。

    彩爆笑。

    俺死亡。

    父だけ感動して泣いていた。

    自分の話で泣いていた。

    強い。

    ⸻

    そして最後。

    父は彩に向かって頭を下げた。

    「本当にありがとう」

    会場が静かになる。

    「この子はバカです」

    知ってる。

    「不器用です」

    知ってる。

    「でも優しいです」

    知らん。

    「だから…」

    父の声が震えた。

    「よろしくお願いします」

    そして、

    また泣いた。

    今日何回目だ。

    ⸻

    すると彩が笑った。

    「こちらこそ」

    そして、

    小さく言った。

    「お義父さんに負けないように頑張ります」

    父。

    号泣。

    母。

    「もう泣きすぎ」

    会場。

    大爆笑。

    俺。

    「なんなんだこの家族」

    ⸻

    式の最後。

    エンドロール。

    唯一の推しの曲が流れる。

    これまでの写真。

    笑顔。

    友達。

    家族。

    そして、

    ファミレスの写真。

    なぜ撮っていたのか分からない。

    でも、

    ちゃんと残っていた。

    ⸻

    隣を見る。

    彩が俺の手を握った。

    「いい曲だね」

    「だろ?」

    「悔しいけど」

    少し笑う。

    「悔しいのか」

    「ちょっとだけ」

    八重歯が見えた。

    俺は思った。

    推しはすごい。

    本当にすごい。

    でも。

    推しは祝辞を読まない。

    結婚式で泣きすぎない。

    ファミレスでプロポーズを受けてくれない。

    手を握ってくれない。

    隣で笑ってくれない。

    それをしてくれる人は、

    別にいる。

    ⸻

    もっとも。

    その数年後。

    娘が生まれた瞬間。

    俺は父と全く同じ顔で泣き、

    彩に、

    「遺伝って怖いですね」

    と真顔で言われることになる。

    そして、

    父は孫を抱きながら、

    推しの名前を候補に出して、

    家族会議を大炎上させるのである。

    血だった。

    完全に血だった。

    第九章 推しは遺伝する

    娘が生まれた日。

    俺は病院の待合室にいた。

    そしてアイドル雑誌を読んでいた。

    人は歴史から学ばない。

    本当に学ばない。

    「もうすぐですよ」

    看護師さんが言う。

    「はい」

    俺は返事をする。

    そして雑誌を読む。

    「緊張してます?」

    「してます」

    雑誌を読む。

    完全に父だった。

    数年前まで笑っていた。

    今なら分かる。

    あれは現実逃避だったのだ。

    人間、

    どうしようもなく緊張すると、

    推しに逃げる。

    血だった。

    完全に血だった。

    ⸻

    数時間後。

    娘が生まれた。

    結衣。

    元気な女の子だった。

    俺は泣いた。

    彩も泣いた。

    母も泣いた。

    そして父も泣いていた。

    なぜか病院の廊下で。

    「どうやって入った!?」

    「気合い!」

    知らん。

    病院は気合いで突破する場所ではない。

    ⸻

    「かわいいなぁ……」

    父が言った。

    「かわいいなぁ……」

    二回言った。

    語彙力が死んでいた。

    俺も同じだった。

    親になると人間はバカになるらしい。

    ⸻

    名前を決める時、

    俺は十八案出した。

    十八案落ちた。

    就活以来だった。

    ちなみに半分くらいは、

    推しの名前を少し変えたものだった。

    却下されて当然である。

    彩は言った。

    「普通の名前がいい」

    正論だった。

    ちなみに父は、

    「推しと同じ名前でいいじゃん!」

    と提案した。

    彩が真顔で言った。

    「離婚しますよ」

    父は震えていた。

    「ごめんなさい」

    誰に謝っているのか分からなかった。

    ⸻

    結衣はすくすく育った。

    笑う。

    撮る。

    寝る。

    撮る。

    泣く。

    撮る。

    あくび。

    撮る。

    呼吸。

    撮る。

    スマホが悲鳴を上げた。

    クラウドも悲鳴を上げた。

    ⸻

    「写真何枚あるの?」

    彩が聞く。

    「一万二千枚」

    「怖い」

    正論だった。

    ⸻

    そして、

    一番壊れたのは父だった。

    孫。

    それは老人を狂わせる。

    本当に狂わせる。

    ⸻

    「じいじ!」

    結衣が言う。

    父、

    泣く。

    運動会。

    泣く。

    お遊戯会。

    泣く。

    誕生日。

    泣く。

    クリスマス。

    泣く。

    七夕。

    泣く。

    節分。

    泣く。

    もう何に泣いているのか、

    本人にも分からなくなっていた。

    水分が心配だった。

    ⸻

    さらに甘かった。

    甘すぎた。

    「じいじ、これ欲しい!」

    「買う!」

    「ダメ!」

    彩が止める。

    「買う!」

    「ダメ!」

    「買う!」

    「ダメ!」

    まるで犬だった。

    「推し活は人生だ!」

    父が叫ぶ。

    「孫は推しじゃありません!」

    彩が叫ぶ。

    「同じだ!」

    「違います!」

    絶対違った。

    ⸻

    五歳。

    結衣は踊り始めた。

    テレビから流れるアイドルソング。

    結衣、

    全力で踊る。

    リズムは合っていない。

    しかし気持ちは合っていた。

    俺は感動した。

    「才能だ」

    彩が言った。

    「違うと思う」

    ⸻

    数年後。

    俺は後悔する。

    才能だった。

    悪い意味で。

    ⸻

    小学一年生。

    結衣は人生初の推しを見つけた。

    問題は、

    俺の推しではなかったことだ。

    別グループだった。

    俺はショックを受けた。

    「なんで?」

    結衣は首を傾げる。

    「なんでって?」

    「パパの推しは?」

    「知らない」

    刺さった。

    深く刺さった。

    六年間の布教活動が、

    ゼロだった。

    ⸻

    しかも、

    「パパの推し?」

    「古い」

    死んだ。

    俺は死んだ。

    隣で父も死んだ。

    「古い……?」

    七十過ぎの男が、

    小学生に敗北していた。

    ⸻

    そこから結衣は暴走した。

    推しのシール。

    推しの文房具。

    推しのノート。

    推しのハンカチ。

    推しの靴下。

    推しの水筒。

    推しの鉛筆。

    推しの消しゴム。

    ランドセル以外、

    全部推しだった。

    ⸻

    「同じCD四枚買いたい!」

    「なんで!?」

    彩が叫ぶ。

    「特典!」

    「一枚でいいでしょ!」

    「愛!」

    「愛!」

    父が叫ぶ。

    「うるさい!」

    彩が叫ぶ。

    父と結衣。

    完全に同じ顔だった。

    怖かった。

    遺伝子って怖い。

    ⸻

    授業参観の日。

    事件は起きた。

    先生が言った。

    「今日は好きなものを発表しましょう」

    他の子たち。

    「サッカーです!」

    「犬です!」

    「お母さんです!」

    素晴らしい。

    平和だった。

    ⸻

    そして結衣。

    「今日は皆さんに私の推しの素晴らしさを説明します!」

    先生が固まった。

    「違います」

    「まず顔がいいです!」

    「違います」

    「歌も上手いです!」

    「違います」

    「ダンスも!」

    「違います!」

    十五分語った。

    先生敗北。

    クラス爆笑。

    俺、

    頭を抱える。

    彩、

    頭を抱える。

    母、

    爆笑。

    そして父。

    一人だけ拍手。

    「いいぞぉぉ!」

    帰れ。

    ⸻

    その帰り。

    彩が言った。

    「あなたたち三代で同じことしてる」

    否定できなかった。

    父。

    俺。

    結衣。

    三世代連続で推しに狂っていた。

    家系だった。

    もはや文化だった。

    ⸻

    しかし。

    小学四年生になる頃。

    結衣は少し変わった。

    友達。

    勉強。

    将来。

    世界が広がっていった。

    そしてある日、

    友達と喧嘩した。

    部屋に閉じこもる。

    夕飯も食べない。

    俺は困った。

    父親なのに、

    何を言えばいいか分からなかった。

    扉の前で立ち尽くす。

    すると。

    部屋の中から音楽が聞こえてきた。

    結衣の推しだった。

    応援ソング。

    元気を出せという歌。

    俺は苦笑した。

    またか。

    受験の時。

    失恋の時。

    就活の時。

    結婚の時。

    人生の節目には、

    いつも音楽がいた。

    ⸻

    しばらくして、

    結衣が出てきた。

    少し目が赤い。

    でも笑っていた。

    「大丈夫か?」

    「うん」

    「仲直りできそう?」

    「たぶん」

    そう言ったあと、

    結衣が聞いた。

    「パパ」

    「ん?」

    「昔からそうだったの?」

    「何が?」

    「嫌なことあると音楽聴いてた?」

    俺は笑った。

    「たぶんな」

    結衣も笑った。

    「やっぱり」

    その顔は、

    少しだけ昔の自分に似ていた。

    そして、

    少しだけ父にも似ていた。

    ⸻

    その夜。

    久しぶりに父へ電話した。

    「元気?」

    「元気だ」

    相変わらずだった。

    「そういえばな」

    父が言う。

    「最近推しが卒業してな」

    「まだやってるのか」

    「泣いた」

    「だろうな」

    「三日泣いた」

    長い。

    「結衣ちゃん元気か?」

    「元気」

    「今度ライブ連れてってやる」

    「やめろ」

    「英才教育だ」

    「やめろ」

    笑った。

    いつもの会話だった。

    いつもの父だった。

    ⸻

    でも。

    電話を切った後、

    少しだけ気になった。

    昔より声が小さい。

    笑い方も静かだ。

    「もしもし?」

    が二回になった。

    聞き返すことも増えた。

    そして、

    昔は二時間話していたのに、

    最近は三十分で、

    「じゃあな」

    と言う。

    親は年を取る。

    当たり前だった。

    でも。

    その当たり前を、

    子供の方が認めたくないのかもしれなかった。

    ⸻

    父は、

    いつまでも元気な気がしていた。

    いつまでも泣いて。

    いつまでも推しの卒業で騒いで。

    いつまでもくだらない話をして。

    いつまでも、

    そこにいる気がしていた。

    ⸻

    その頃の俺は、

    まだ知らなかった。

    一年後。

    父が倒れることを。

    そして人生で初めて、

    どんなアイドルソングを流しても、

    心が軽くならない夜を迎えることを。

    ずっとステージの上にいると思っていた人にも、

    いつか、

    アンコールが終わる日が来ることを。

    まだ、

    知らなかったのである。

    第十章 父にも推しがいた

    父が倒れたのは、春だった。

    桜が満開の日だった。

    縁起が良いのか悪いのか分からない。

    少なくとも俺の気分は最悪だった。

    母から電話が来た。

    珍しいことだった。

    母は電話をしない。

    要件はだいたい三行のメッセージで済ませる。

    そんな人が電話をしてきた。

    嫌な予感しかしなかった。

    「お父さんが倒れた」

    それだけだった。

    世界が少し遠くなる。

    テレビの音。

    時計の音。

    全部聞こえているのに、

    頭に入らない。

    人間は本当に嫌な話を聞くと、

    現実感を失うらしい。

    ⸻

    病院へ向かう。

    彩が運転してくれた。

    俺は助手席だった。

    ハンドルを握る自信がなかった。

    結衣は後部座席で寝ていた。

    いつもならうるさいくらい喋るのに、

    車の中は静かだった。

    たぶん、

    俺が静かすぎたのだと思う。

    ⸻

    病室へ入る。

    父がいた。

    生きていた。

    それだけで少し安心した。

    だが、

    前回とは違った。

    明らかに痩せていた。

    肩も小さくなっていた。

    昔は大きかったのに。

    子供の頃、

    あんなに大きく見えたのに。

    「なんだその顔」

    父が笑う。

    「死んでねえぞ」

    「倒れただろ」

    「ちょっとだ」

    「ICU入ってたじゃん!」

    「略すな」

    「何を」

    「アイドルカウントダウンウルトラインパクト」

    「ICU!」

    「紛らわしい」

    「紛らわしいのはお前だ!」

    病人とは思えない声量だった。

    少し安心した。

    まだ大丈夫だ。

    そう思ってしまった。

    ⸻

    数日後。

    病状は落ち着いた。

    だが医師の説明は楽観的ではなかった。

    年齢。

    体力。

    持病。

    全部が重なっていた。

    俺は初めて考えた。

    父にも終わりがある。

    そんな当たり前のことを、

    今まで考えたことがなかった。

    ⸻

    ある日。

    病院の売店へ向かう途中だった。

    父がぽつりと言う。

    「ライブな」

    「うん」

    「もう行けないかもしれん」

    俺は返事ができなかった。

    父は笑う。

    笑っている。

    でも、

    少しだけ寂しそうだった。

    そして初めて聞いた。

    父と母の昔話を。

    「母さんとな」

    「うん」

    「ライブで知り合った」

    俺は足を止めた。

    「え?」

    「言ってなかったか?」

    「初耳なんだけど」

    「ペンライトぶつかった」

    「最悪の出会いだ」

    「謝った」

    「うん」

    「向こうも謝った」

    「うん」

    「気付いたら結婚してた」

    「雑!」

    「ちなみに隣の席だった」

    「運命じゃん」

    「指定席」

    「ロマン返せ」

    父は笑った。

    「母さんも昔はすごかったぞ」

    「嘘だ」

    「俺よりコールうまかった」

    「嘘だろ」

    「アンコールで喉潰した」

    想像できなかった。

    今の母は、

    推しより漬物の話をする人である。

    人間は変わる。

    いや、

    変わらないのかもしれない。

    ⸻

    さらに聞いた。

    若い頃。

    父は仕事を辞めていた。

    今の俺くらいの年齢だった。

    会社が合わなかったらしい。

    夜も眠れなかったらしい。

    意外だった。

    父は最初から強い人だと思っていた。

    「その頃よくライブ行ってた」

    父が言う。

    「現実逃避?」

    「半分」

    「残り半分は?」

    父は少し考えた。

    珍しく笑わなかった。

    「生き延びるため」

    「そんな大げさな」

    「大げさじゃない」

    静かな声だった。

    「夜になると朝が怖くてな」

    「布団入ると明日が来るだろ」

    「それが嫌だった」

    俺は黙った。

    「でもライブの日だけは」

    父が少し笑う。

    「朝が楽しみだった」

    その言葉が胸に残った。

    受験の時。

    失恋した時。

    就活の時。

    俺も同じだった。

    父と俺は似ている。

    思っていたよりずっと。

    ⸻

    退院後。

    俺はある計画を立てた。

    最後かもしれない。

    そう思った。

    だから行きたかった。

    父と。

    もう一度。

    ⸻

    ライブ当日。

    車椅子だった。

    長時間立てない。

    歩くのも大変だった。

    それでも父は少年みたいな顔をしていた。

    そして会場に着くなり言った。

    「ペンライト忘れた」

    「は?」

    「家だ」

    「嘘だろ」

    「年だからな」

    「年の問題じゃない!」

    結局、

    売店で買うことになった。

    「高ぇ!」

    父が叫ぶ。

    「昔は千円だった!」

    「昭和の話するな!」

    「平成だ!」

    「大差ない!」

    どうでもいいことで揉めながら、

    二人で笑った。

    ⸻

    会場へ入る。

    照明が落ちる。

    歓声が上がる。

    音楽が鳴る。

    父が叫ぶ。

    「うおぉ!」

    「声出すな!」

    「反射だ!」

    「抑えろ!」

    「無理!」

    老人とは思えなかった。

    小学生だった。

    ⸻

    ライブは進む。

    父はずっと見ていた。

    一秒も見逃さないように。

    何度も頷き、

    何度も笑い、

    時々泣いていた。

    そしてアンコール。

    最後の曲。

    父が何十年も好きだった曲だった。

    母と出会った頃も。

    俺が生まれた頃も。

    仕事を辞めた頃も。

    全部一緒だった曲。

    曲が始まる。

    父は黙った。

    俺も黙った。

    そして曲が終わる。

    拍手が起きる。

    その時だった。

    父が立ち上がった。

    車椅子から。

    ゆっくり。

    本当にゆっくり。

    震える手で。

    ペンライトを握りしめて。

    ステージへ向けて振った。

    涙を流しながら。

    俺は何も言えなかった。

    父も何も言わなかった。

    ただ、

    音楽だけが流れていた。

    ⸻

    帰り道。

    父が言った。

    「ありがとう」

    珍しかった。

    照れ屋だから。

    あまり言わない。

    「何が」

    俺が聞く。

    父は笑った。

    「最後に来られて良かった」

    その言葉が妙に引っかかった。

    最後。

    そんな言い方をするなよ。

    そう思った。

    でも言えなかった。

    ⸻

    その夜。

    父から写真が送られてきた。

    ライブ会場で撮った自撮りだった。

    ブレていた。

    半分しか顔が映っていなかった。

    技術が壊滅していた。

    メッセージも一言。

    『楽しかった』

    たったそれだけ。

    俺は笑った。

    そして返信する。

    『また行こう』

    既読はついた。

    返事は来なかった。

    たぶん寝ていたんだと思う。

    その時の俺は、

    次があると信じていた。

    当然のように。

    ⸻

    父は金持ちじゃなかった。

    偉い人でもなかった。

    有名人でもなかった。

    転職した。

    失敗した。

    笑った。

    推しを追いかけた。

    母と出会った。

    俺を育てた。

    結衣を甘やかした。

    七十近くなっても、

    推しの卒業ライブで三日泣いた。

    そんな人生だった。

    そして俺は思う。

    ああ。

    結構楽しそうな人生だったな。

    ⸻

    人間は、

    終わりが来ると知っていても、

    明日も続くと思って生きている。

    だから、

    別れはいつだって遅れてやって来る。

    その時の俺は、

    まだ知らなかった。

    あのライブが、

    父にとって本当に最後になることを。

    そして一年後。

    俺が、

    『また行こう』

    というたった四文字の返信を、

    何度も見返すことになることを。

    第十一章 人生のエンドロール

    前日。

    病室だった。

    父はベッドの上でテレビを見ていた。

    見るたびに思う。

    病人とは思えない。

    家でくつろいでいる老人だった。

    「来たか」

    「来たよ」

    「プリン」

    「また?」

    「死ぬ前に食いたい」

    「縁起悪い」

    「まだ死なん」

    「それ前も聞いた」

    父は笑った。

    結衣がベッドへ近づく。

    「じいじ」

    「なんだ」

    「推し卒業したらどうする?」

    「泣く」

    「何日?」

    「三日」

    「長い」

    「四日かもしれん」

    「もっと長い」

    「一週間」

    「泣きすぎ」

    病室なのに、

    みんな笑っていた。

    父も笑っていた。

    それが最後だった。

    俺はその時、

    最後だなんて思っていなかった。

    ⸻

    父が亡くなったのは、

    雪の降る朝だった。

    静かな朝だった。

    驚くほど静かだった。

    病室には、

    母。

    彩。

    結衣。

    そして俺。

    父は眠るように横たわっていた。

    苦しそうではなかった。

    穏やかだった。

    最後まで父らしい顔だった。

    少し前まで、

    小さな音で音楽が流れていた。

    父が一番好きだった曲。

    母と出会った頃。

    俺が生まれた頃。

    仕事を辞めた頃。

    最後のライブの日。

    何十年も一緒だった曲。

    父はその曲を聴きながら、

    静かに目を閉じた。

    俺は泣かなかった。

    泣けなかった。

    現実感がなかった。

    人は本当に大切なものを失うと、

    意外と泣けないらしい。

    ⸻

    葬儀の日。

    たくさんの人が来た。

    親戚。

    近所の人。

    元同僚。

    そして、

    ライブ仲間。

    七十代のオタク集団である。

    人生は自由だった。

    「正雄さんには世話になりました」

    知らない人だった。

    「ライブで隣だった田中です」

    誰。

    「アンコール隊長でした」

    何それ。

    「二代目コールリーダーです」

    継承制なの?

    「正雄さんのおかげで今の私があります」

    いや、

    父は何をやっていたんだ。

    すると母が言った。

    「あら田中さん」

    知ってるのか。

    「久しぶりねぇ」

    「お元気でしたか」

    「いつもライブ後に鍋してたのよ」

    初耳だった。

    「正雄さん、締めの雑炊にうるさくて」

    何その情報。

    「水分量に命かけてました」

    そんなところに。

    知らない父が次々出てくる。

    七十歳近くなっても、

    父は父の人生を生きていた。

    俺の知らないところで。

    ちゃんと笑って。

    ちゃんと楽しんで。

    ⸻

    焼香が終わった後。

    一人の男性が声をかけてきた。

    初対面だった。

    「正雄さんには助けられました」

    その人は昔、

    仕事を辞めたらしい。

    人生が嫌になったらしい。

    何もかも嫌だったらしい。

    その時、

    父が話を聞いてくれたという。

    ライブにも連れて行ってくれたという。

    「また頑張ろうって思えたんです」

    男性は泣いていた。

    俺は知らなかった。

    父がそんなことをしていたなんて。

    でも、

    少し分かる気もした。

    あの人は、

    困ってる人を放っておけない人だった。

    お節介で。

    うるさくて。

    面倒で。

    優しい人だった。

    ⸻

    夜。

    みんな疲れて寝ていた。

    母も。

    彩も。

    結衣も。

    俺だけが起きていた。

    遺品を整理する。

    古い雑誌。

    ライブチケット。

    色褪せたパンフレット。

    ペンライト。

    そして、

    一冊の大学ノート。

    日記だった。

    仕事の愚痴。

    母との喧嘩。

    ライブの感想。

    驚くほど普通だった。

    そして、

    あるページで手が止まる。

    ⸻

    「雄太が生まれた」

    ⸻

    続きを読む。

    ⸻

    「待合室で雑誌を読んでいた」

    ⸻

    やっぱり読んでたのか。

    さらに読む。

    ⸻

    「怖かった」

    「父親になれる気がしなかった」

    「逃げたくなった」

    「だから雑誌を読んでいた」

    「泣きそうだった」

    「泣くのは恥ずかしかった」

    ⸻

    俺は目を閉じた。

    ずっと勘違いしていた。

    父は強かったんじゃない。

    不安がなかったんじゃない。

    平気だったんじゃない。

    ただ、

    不器用だっただけだ。

    俺と同じくらい。

    いや、

    俺よりずっと。

    ⸻

    ノートの最後の方。

    亡くなる半年前の日付。

    震える字だった。

    ⸻

    「最近疲れる」

    「階段嫌い」

    「年だ」

    ⸻

    「母さんは元気」

    「怖い」

    ⸻

    少し笑った。

    続きを読む。

    ⸻

    「結衣はうるさい」

    「かわいい」

    ⸻

    「雄太は変」

    「遺伝だから仕方ない」

    ⸻

    余計なお世話だった。

    でも、

    笑ってしまった。

    そして最後。

    ⸻

    「失敗した」

    「仕事辞めた」

    「金もなかった」

    「母さんには苦労をかけた」

    「雄太は変な大人になった」

    「結衣はうるさい」

    「でもかわいい」

    「好きな音楽があった」

    「好きな人がいた」

    「家族がいた」

    ⸻

    「十分だった」

    ⸻

    そこから先は、

    何も書かれていなかった。

    たったそれだけだった。

    なのに、

    父の人生全部が詰まっている気がした。

    ⸻

    俺はリビングへ行く。

    窓の外では、

    まだ雪が降っていた。

    ふと思う。

    俺の人生はどうだっただろう。

    ライオンになろうとしていた。

    なれなかった。

    受験も失敗した。

    失恋もした。

    就活も転んだ。

    仕事も辞めた。

    思い通りにならないことばかりだった。

    でも。

    思い返すと、

    大事な場面にはいつも音楽が流れていた。

    受験。

    失恋。

    結婚。

    娘の誕生。

    父との最後のライブ。

    全部だ。

    何かを解決してくれたわけじゃない。

    奇跡も起こさない。

    でも、

    気付けばいつもそこにいた。

    それだけだった。

    でも、

    たぶんそれで十分だった。

    父みたいに。

    ⸻

    その時。

    二階から歌声が聞こえた。

    結衣だった。

    自分の推しの曲を歌っている。

    少し音痴だった。

    血だった。

    完全に血だった。

    すると彩の声が響く。

    「結衣ー!」

    「宿題!」

    「あと一曲!」

    「昨日もあと一曲だったでしょ!」

    「アンコール!」

    「なし!」

    「えー!」

    俺は笑った。

    そういえば。

    昔、

    母も父に同じことを言っていた気がする。

    「もう寝なさい!」

    「アンコール!」

    「なし!」

    「一曲だけ!」

    「三曲歌ったでしょ!」

    たぶん、

    あの頃もこんな感じだったのだ。

    ⸻

    父から俺へ。

    俺から結衣へ。

    好きなものも。

    笑い方も。

    困ったところも。

    受け継がれていく。

    まるでライブのアンコールみたいに。

    終わったと思ったら、

    また始まる。

    そんなものなのかもしれない。

    棚の上には、

    父が最後のライブで振ったペンライトが置いてある。

    電池は切れていた。

    でも、

    捨てる理由はなかった。

    人生のエンドロールは、

    まだ流れ終わっていない。

    なぜなら俺には、

    結衣のライブで知らないコールを覚えさせられる未来が、

    まだ残っているからである。

    そしてその未来も、

    きっと悪くない。

    第十二章 推しが人間だった日

    その知らせは、

    火曜日の昼にやって来た。

    俺は会議中だった。

    真面目な会議だった。

    たぶん。

    内容は覚えていない。

    なぜなら人生が終わったからだ。

    スマホが震えた。

    結衣からだった。

    一言だけ。

    ⸻

    パパ、息してる?

    ⸻

    嫌な予感しかしなかった。

    人生経験上、

    この手のメッセージはロクなことがない。

    SNSを開く。

    公式アカウント。

    白背景。

    黒文字。

    オタクを絶望させる伝統様式だった。

    読む。

    ⸻

    本グループは活動を終了いたします。

    ⸻

    スマホが手から滑り落ちた。

    終わった。

    俺の人生のほとんどにいた人たちが、

    終わるらしかった。

    会議も終わった。

    少なくとも俺の中では。

    隣の部長が何か喋っていた。

    売上の話だった気がする。

    知らん。

    こっちは文明が滅んだ。

    ⸻

    帰宅すると、

    彩がいた。

    何も言わない。

    黙ってコーヒーを置く。

    優しかった。

    完全に危篤患者への対応だった。

    「見た?」

    「見た」

    「終わるって」

    「そうだね」

    「終わるんだぞ?」

    「うん」

    「終わるんだぞ?」

    「二回言ったよ」

    現実が追いつかなかった。

    ⸻

    その夜。

    結衣から電話が来た。

    「生きてる?」

    「たぶん」

    「危ないな」

    娘に生存確認される父親。

    どういう家庭だ。

    ⸻

    数日後。

    俺は有給を取った。

    合法的に落ち込むためだった。

    朝からライブ映像を見る。

    子供の頃の映像を見る。

    学生だった頃の映像を見る。

    社会人になった頃の映像を見る。

    結婚した頃の映像を見る。

    気付けば夜になっていた。

    途中で腰が痛くなった。

    青春より先に関節が終わっていた。

    ⸻

    そんな時だった。

    ネットニュースが流れてきた。

    引退特集。

    ロングインタビュー。

    何気なく開く。

    そして固まった。

    記事にはこう書かれていた。

    ⸻

    「正直、私はアイドルに向いていなかったと思います」

    ⸻

    俺はスマホを見つめた。

    向いてない?

    何を言っている。

    ライブの中心にいた人だぞ。

    ずっと笑っていた人だぞ。

    国宝みたいな人だぞ。

    続きを読む。

    ⸻

    「デビューした頃は辞めたかったです」

    ⸻

    「ライブも怖かった」

    ⸻

    「笑顔を作るのも苦手でした」

    ⸻

    頭が追いつかない。

    だって俺は知っている。

    その人はいつだって輝いていた。

    楽しそうだった。

    完璧だった。

    少なくとも、

    客席にいた俺にはそう見えていた。

    記事は続く。

    ⸻

    「それでも続けました」

    ⸻

    「誰かの明日が少しだけ楽になるなら」

    ⸻

    「それだけで十分だと思ったので」

    ⸻

    俺はしばらく動けなかった。

    推しは神様じゃなかった。

    超人でもなかった。

    迷う。

    逃げたい。

    辞めたい。

    泣く。

    それでも次の日、

    またステージへ立つ。

    父と同じだった。

    俺と同じだった。

    ただの人間だった。

    不思議だった。

    幻滅すると思った。

    逆だった。

    少し好きになった。

    いや、

    もっと好きになった。

    人間だったから。

    ⸻

    その夜。

    父の日記を開いた。

    亡くなってから何度も読んでいる。

    でも、

    なぜか今日は読みたくなった。

    ページをめくる。

    ライブの感想。

    仕事の愚痴。

    母への文句。

    母への惚気。

    忙しい日記だった。

    そして、

    一つのページで手が止まる。

    昔の日付。

    そこにはこう書かれていた。

    ⸻

    推しが卒業した。

    ⸻

    俺は息を止めた。

    続きを読む。

    ⸻

    寂しい。

    久しぶりに泣いた。

    でも人生は続く。

    母さんはいる。

    雄太もいる。

    次のライブもある。

    案外なんとかなる。

    ⸻

    俺は笑った。

    そして泣いた。

    ずるい。

    死んでからまで励ましてくるな。

    ⸻

    ラストライブの日。

    会場には結衣がいた。

    彩もいた。

    家族総出だった。

    もはや法事だった。

    ⸻

    照明が落ちる。

    歓声が上がる。

    音楽が鳴る。

    俺は一曲目で泣いた。

    予定通りだった。

    彩は呆れていた。

    結衣も呆れていた。

    周囲のオタクだけが優しかった。

    ⸻

    ライブは進む。

    子供の頃の記憶が流れる。

    受験の夜が流れる。

    失恋した帰り道が流れる。

    就活で心が折れた日が流れる。

    結婚式が流れる。

    娘が生まれた日が流れる。

    父との最後のライブが流れる。

    人生が流れていた。

    ステージの上じゃない。

    客席の方だった。

    ⸻

    最後のMC。

    メンバーが並ぶ。

    会場を見渡す。

    そして一人が言った。

    「私たちは特別な人間じゃありません」

    静かになる。

    「失敗もしました」

    「辞めたくなった日もありました」

    「逃げたくなった日もありました」

    俺は泣いていた。

    なぜなら、

    それは俺の人生でもあったからだ。

    父の人生でもあったからだ。

    たぶん、

    ここにいる全員の人生でもあった。

    ⸻

    「でも」

    彼女は笑った。

    昔と変わらない笑顔で。

    「皆さんのおかげでここまで来られました」

    会場が泣いていた。

    俺も泣いていた。

    結衣も泣いていた。

    彩まで泣いていた。

    珍しかった。

    かなり珍しかった。

    翌日、

    雪でも降るんじゃないかと思った。

    ⸻

    最後の曲。

    俺が初めてライブ会場で聴いた曲だった。

    ライオンになりたかった少年を、

    初めて励ました曲だった。

    曲が終わる。

    拍手が鳴る。

    長かった。

    本当に長かった。

    誰も帰らない。

    終わりを認めたくない。

    でも、

    終わるものは終わる。

    ライブも。

    人生も。

    ⸻

    照明が落ちる。

    ステージが消える。

    本当に終わった。

    その瞬間。

    不思議と笑っていた。

    父の日記を思い出していた。

    ⸻

    人生は続く。

    ⸻

    その通りだった。

    父はいなくなった。

    推しもいなくなった。

    若さもなくなった。

    髪も少しなくなった。

    これは悲しかった。

    本当に悲しかった。

    でも人生は続く。

    彩がいる。

    結衣がいる。

    次のライブもある。

    案外なんとかなる。

    父は正しかった。

    ⸻

    帰り道。

    結衣が聞く。

    「大丈夫?」

    俺は笑う。

    「大丈夫」

    「本当に?」

    「本当に」

    そして少し考える。

    「なあ結衣」

    「なに?」

    「推しってさ」

    「うん」

    「人生を変えるんじゃないんだな」

    結衣が首を傾げる。

    俺は夜空を見上げる。

    父のことを思い出しながら。

    「人生を最後まで付き合ってくれるんだ」

    結衣は少しだけ笑った。

    「パパ、歳取ったね」

    失礼だった。

    だが否定はできなかった。

    ⸻

    夜空に星が見えた。

    たぶん偶然だ。

    でも少しだけ、

    父が笑っている気がした。

    いや、

    たぶん違う。

    あの人ならきっと、

    「湿っぽい終わり方するな」

    とか言う。

    そしてこう続ける。

    ⸻

    「ほら次だ次。」

    ⸻

    まったくその通りだった。

    翌年。

    結衣は新しい推しを見つけた。

    そして俺は、

    そのライブに連行された。

    オタクの人生に、

    本当の卒業など存在しない。

    たぶんあれは、

    引き継ぎである。

    最終章 人生のアンコール

    七十二歳になった。

    正直な話をすると、

    ここまで生きる予定はなかった。

    若い頃は三十歳なんて遠い未来だった。

    四十歳はおじさんだった。

    五十歳は仙人だった。

    七十歳なんて伝説上の生き物だった。

    ところが気付けば、

    自分がその伝説になっていた。

    膝は痛い。

    腰も痛い。

    健康診断の結果は毎年面白くない。

    病院の診察券だけで財布が厚くなる。

    ポイントカードなら嬉しかった。

    だが、

    それなりに元気だった。

    人生も、

    それなりに幸せだった。

    ⸻

    土曜日の朝。

    孫の陽菜がやって来た。

    勢いよく玄関が開く。

    「おじいちゃーーん!」

    七歳。

    元気。

    うるさい。

    かわいい。

    忙しい生き物だった。

    「見て見て見て!」

    カードを見せてくる。

    アイドルだった。

    やっぱりか。

    血だった。

    完全に血だった。

    「この子が推し!」

    「そうか」

    「かわいいでしょ!」

    「かわいいな」

    「おじいちゃんの推しは?」

    来た。

    人生で数百回聞かれた質問だった。

    俺は少し笑った。

    「長くなるぞ」

    「いいよ!」

    孫は怖いもの知らずだった。

    結局、

    二時間話した。

    結衣に怒られた。

    「子供に何を吹き込んでるの」

    「文化だ」

    「迷惑」

    否定できなかった。

    ⸻

    夕方。

    結衣が言った。

    「今度ライブ行かない?」

    「誰の?」

    「陽菜の推し」

    俺は笑った。

    人生って面白い。

    昔は父に連れて行かれた。

    今は孫に連れて行かれる。

    立場が一周していた。

    ⸻

    ライブ当日。

    会場へ向かう。

    陽菜がいる。

    結衣がいる。

    そして彩がいる。

    俺は少し驚いた。

    「来るのか?」

    「来ちゃ悪い?」

    彩が笑う。

    昔と同じ笑い方だった。

    少しだけ安心した。

    ⸻

    会場へ入る。

    歓声。

    照明。

    音楽。

    何十年経っても変わらない。

    俺はその空気を吸い込んだ。

    懐かしかった。

    そして少しだけ、

    父を思い出した。

    ⸻

    ライブが始まる。

    陽菜は全力だった。

    飛ぶ。

    叫ぶ。

    歌う。

    忙しい。

    結衣も笑っている。

    その横で、

    彩も笑っている。

    ふと横顔を見る。

    目尻に皺が増えた。

    白髪も増えた。

    俺も同じだろう。

    お互い様だった。

    ⸻

    アンコール。

    会場中が叫ぶ。

    「アンコール!」

    「アンコール!」

    「アンコール!」

    その声を聞きながら、

    俺は昔のことを思い出していた。

    父のこと。

    母のこと。

    受験に落ちた夜。

    失恋した帰り道。

    就活で心が折れた日。

    終電ホーム。

    結婚式。

    娘の誕生。

    父との最後のライブ。

    推しの最後のステージ。

    終わったと思った日が、

    人生には何度もあった。

    でも、

    不思議と終わらなかった。

    次の日は来た。

    次の季節も来た。

    次のライブも来た。

    人生は案外しぶとい。

    アンコールみたいに。

    ⸻

    ライブが終わる。

    会場を出る。

    陽菜は先に走って行った。

    結衣も追いかける。

    そして、

    気付けば俺と彩だけが残った。

    夜風が吹く。

    少し冷たい。

    若い頃なら平気だった。

    今は少し寒い。

    すると、

    彩が自然に手を握った。

    何十年も前みたいに。

    終電ホームで並んでいた頃みたいに。

    俺は少し笑う。

    「どうした?」

    「別に」

    彩も笑う。

    そして言った。

    「歩くの遅くなったから」

    嘘だった。

    照れ隠しだった。

    昔から変わらない。

    ⸻

    しばらく歩く。

    沈黙が続く。

    嫌な沈黙じゃない。

    長く一緒にいた人だけが持てる沈黙だった。

    そして俺は聞いた。

    「なあ」

    「ん?」

    「結婚して良かった?」

    彩が吹き出した。

    「今さら?」

    「今さら」

    少し考える。

    そして、

    あの日と同じ顔で笑った。

    「半分くらい」

    俺も笑った。

    変わってない。

    本当に変わってない。

    「後悔してる?」

    俺が聞く。

    彩は少し空を見る。

    そして言う。

    「半分くらい」

    「半分?」

    彩は肩をすくめた。

    「諦めて良かった半分」

    俺は黙った。

    昔。

    ピアニストの夢を諦めた夜。

    彩が言った言葉だった。

    「じゃあ残り半分は?」

    俺が聞く。

    彩は笑う。

    優しく。

    本当に優しく。

    「諦めなくて良かった半分」

    その意味が分かるまで、

    少し時間がかかった。

    そして気付く。

    俺のことだった。

    結婚のことだった。

    家族のことだった。

    人生のことだった。

    胸が熱くなる。

    若い頃みたいな恋愛感情じゃない。

    もっと静かなものだった。

    長い時間を一緒に歩いた人への感謝だった。

    ⸻

    家へ帰る。

    リビングから歌声が聞こえる。

    陽菜だった。

    今日覚えた曲を歌っている。

    少し音痴だった。

    血だった。

    完全に血だった。

    俺は笑った。

    テレビの横を見る。

    古いペンライトが三本並んでいた。

    父のペンライト。

    俺のペンライト。

    そして陽菜の新しいペンライト。

    光り方は違う。

    形も違う。

    時代も違う。

    でも、

    どこか同じだった。

    父から俺へ。

    俺から結衣へ。

    結衣から陽菜へ。

    音楽も。

    思い出も。

    好きなものも。

    受け継がれていく。

    まるでアンコールみたいに。

    終わったと思ったら、

    また始まる。

    ⸻

    俺は結局、

    ライオンにはなれなかった。

    強くもなかった。

    特別でもなかった。

    失敗もした。

    逃げたこともあった。

    泣いた夜もあった。

    思っていた大人にもなれなかった。

    でも、

    悪くなかった。

    本当に悪くなかった。

    好きな音楽があった。

    好きな人がいた。

    家族がいた。

    笑える思い出があった。

    十分だった。

    父と同じ答えだった。

    ⸻

    その時、

    陽菜がこっちを見た。

    「おじいちゃん。」

    「ん?」

    「次のライブも行こうね。」

    俺は笑った。

    「ああ。」

    「次も行こう。」

    陽菜も笑った。

    「約束だよ!」

    「破ると怖いからな」

    「うん!」

    孫は強かった。

    たぶん彩より強い。

    ⸻

    人生は思った通りにならなかった。

    なりたい自分にもなれなかった。

    それでも、

    案外なんとかなった。

    いや、

    案外悪くなかった。

    ⸻

    終わったと思ったら、

    また始まる。

    人生って、

    たぶんそういうものなんだと思う。

    ⸻

    そしてたぶん、

    アンコールは、

    これからも続いていく。

    ⸻

    完

    #創作大賞2026

     
     
    「もし本当にSOSだったら?」 間違い電話を、 本気で事件だと思ってしまう警察官・神代誠司の物語。 『もしもし、こちら警察です』 3日に1話更新中。 会話劇と、 少し変な人間を書くのが好きです。

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