おやつ日和 26 ドーナツの穴
亡き母の思い出に。
高校生の頃、ドロップドーナツを作ったことがある。ドロップドーナツとは、生地をスプーンですくって油に落とし、そのまま揚げるタイプのドーナツで、生地を成形しなくても手軽に作れる。
雑誌に掲載されていたレシピを見ながら揚げたドーナツは、形こそ歪ではあったものの、ホクホクとして甘く美味しかった。仕上げに粉砂糖をかけたかったが、あいにく切らしており、そのまま皿に山盛りにしてテーブルに置いておいた。
帰宅した母が、テーブルの皿を見ながら言った。
「わあ!美味しそうな唐揚げ!」
母も喜ぶだろうと、私なりに頑張ったおやつ作りだったが、まさかドーナツを唐揚げと間違えられるとは思わなかった。しかし、デコボコした形で粉砂糖もかかっていないそれは、確かに唐揚げに見えた。
その時、私はぼんやりと考えていた。ドーナツには穴が欠かせないのではないか?と。
ところが、ドーナツの歴史を紐解いてみると、その起源に「穴」は存在しなかった。
ドーナツの原型は、中世ヨーロッパの揚げ菓子にさかのぼる。オランダでは生地を油で揚げた「オリーボーレン(Oliebollen)」と呼ばれる揚げ菓子が親しまれ、やがて移民と共にアメリカへ渡った。
丸い生地の真ん中にクルミ(ナッツ)を乗せて揚げたことから、「dough(生地)」と「nut(木の実)」を合わせて、「doughnut」と呼ばれるようになったらしい。
その可愛らしい名前とは裏腹に、初期のドーナツは案外気難しかったようだ。外側は香ばしく揚がるのに、中心だけ火が通らずに生焼けになることがあった。そこで中央をくり抜いたことで穴が生まれた、という有名な逸話がある。
ドーナツに穴が出来た理由については、他にもいくつか物語がある。
船乗りが、船の操縦中でも舵に引っ掛けて、片手で食べられるようにした説。生地の中央に置いていたナッツの代わりに、穴を開けるようになったという説。
どれももっともらしく、どれも少し怪しい。
本当のところは誰にもわからないが、こうしていくつもの説が語り継がれていること自体、人々がドーナツの穴に魅了されていることがわかる。
人は時々、一見どうでもいいことを驚くほど真剣に考える生き物だが、ドーナツの穴について哲学的な探究を始める人までいる。
「ドーナツを穴だけ残して食べる方法はあるのか?」
「半分になったドーナツの穴は、穴として成立するのか?」
普通に考えれば、穴は「何もない部分」なのだから残しようがないし、欠けてしまったものは、もはや穴とは言えないだろう。けれど哲学者たちは、この奇妙な問題を実際に論じてきた。人間の好奇心の方向性は本当に自由だ。
そして、この「穴をどう見るか?」という問題は、人の性格を語る比喩に用いられることもある。 たとえば、オスカー・ワイルドの言葉として広く流布しているこの一節だ。
「楽観主義者はドーナツを見る。悲観主義者はドーナツの穴を見る。」
出典の真偽はさておき、つい納得してしまいそうになる。 同じドーナツを前にしても、 「存在するもの」を見るか、「欠けているもの」を見るかで、世界の見え方はずいぶんと変わるだろう。
ドーナツの穴は単なる空洞ではなく、人の想像力を掻き立てる余白のようだ。空洞に何を見出すかは自由だ。しかし空洞に飲み込まれてはいけない。
私はといえば、そこにドーナツがあれば、ただ単純に「美味しそうなドーナツ」を見る。
ドーナツの穴は、ドーナツを構成する要素の一つであって、それ以上でも、それ以下でもない。
人はしばしば物事を複雑に考えがちだが、世界は案外、単純に出来ているはずだ。そして人間も本来、きっともっと単純な生き物なのだろう。
難しい理屈や哲学はひとまず脇に置いて、 ドーナツはただドーナツとして、穴も含めて美味しく楽しくいただくのがいちばんだ。 穴の意味について思索にふけるよりも、まずは一口齧る方がずっと幸せだし、もしかしたら真理はその瞬間にあるのかも知れない。
私にとってドーナツの穴は、哲学より先に思い出と結びついている。
あの日、母は病院から帰宅したところだった。
兄は独立してすでに家を出ており、父は突然の病気で入院していた。日常の象徴である家の中には、非日常のどこか落ち着かない空気が漂っている。窓から流れてくる風も心なしか冷たく、不安定な心をさらに居心地悪くさせていた。
そういった時期に作ったのが、あの不格好なドロップドーナツだ。
形は揃わず、粉砂糖もなく、母には唐揚げと間違えられてしまったが、二人で笑いながら食べたドーナツは確かに美味しくて、家の中には再び温もりが戻っていた。
皿にたくさん盛られた、穴のない不格好なドーナツを見ながら母が言った。
「ドーナツには穴があるものと思っていたけど、デコボコした形でもちゃんとドーナツだね。美味しくてどこかホッとする味だね。」
穴があれば余白が生まれ、人はそこに意味を見つけたくなるのかもしれない。だが最後に残るのは穴ではなく、ドーナツそのものだ。
ドーナツはただ「美味しい」を純粋に楽しむためにある。
おそらく私は、この時に気づいたのだ。
人には、おやつの時間が必要なのだと。
大げさなご馳走でなくてもいい。クッキー1枚でも、チョコレート一粒でも「美味しいね」と誰かと言い合ったり、またはひとりで美味しいひとときを過ごすだけでも、人はほんの少し救われる。
それからというもの、私はおやつの時間を大切に過ごしてきた。父が退院してきた日も、結婚して故郷を離れた日も、そして母を見送った日も。どんな日でも、この時間さえあれば、人生はまだどうにかなる気がするのだ。
ドーナツの穴について、どれほど難しいことを考える人がいてもいい。けれど私にとって、あの穴は結局のところ、母と笑いながら食べた、温かい時間の形だ。
戸棚から取り出したお気に入りの器を並べ、私は今日も、おやつの時間を過ごしている。カップから漂う湯気の揺らぎの先にある、ドーナツの甘い香りを想いながら。

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