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五年三組

    五年三組では授業中に手紙を回していた。運動会では組み立て体操に挑み、ある日は先生の誕生日を祝う。担任の先生との図工の時間、臨海学校、委員会活動、マラソン大会、そしてクラスメートの転校。自由奔放な日々を過ごしていた主人公は、六年生になって初めて、その一年間が自分にとってどれほど大切な時間だったのかを振り返る。自分は何に向いているのか。人を信じるとはどういうことだったのか。五年三組の記憶をたどりながら、その答えを探し続ける物語。



    一
     僕はその年、久しぶりに親友に戻ったNと同じクラスだった。彼とは保育園からの仲で、小さい頃彼の両親と一緒にキャンプに行ったこともある。両親共働きの彼と僕は、二人とも一歳になるかならないかで保育園に入り、彼が一番で、僕が二番だと話したこともあった。実際どうなのかは僕には分からない。彼の両親は学校の先生で、彼は僕よりも頭が良かったし、品行方正という点でも僕より上だった気がする。彼の両親は学校の先生だが、彼のいたずらや小学生らしい悪ふざけ、先生たちへの迷惑を、同情心を持って、むしろそうでなくては困るというような態度で、喜んでいたような気がする。彼の両親は稀に見る、話し合える先生だったのだろう。僕の親の、僕に対する態度も似ていたかも知れないが、言っても、叩いても、結局同じようなことをするから、放っておく、よく言えば見守るような態度で放任されていた気がする。そんなNと僕の記憶が正しければ、一年だけ同じクラスになった五年三組の思い出である。
     Nはマラソンが得意だった。小学一年から四年まで彼はずっと一位だった。僕は小児喘息を患っていたし、ゴールの見えない場所に向かって走るのは苦手だった。自分が四年間、何位だったかもさっぱり覚えていない。寒く乾燥した空気に、喉を焼かれるような気持ちで、必死になって、肺の痛みを感じながら走っていた気もする。それか僕の性格として、勝ち目のない勝負になど全力にならないで、ご褒美のいくらかの金のために何となく走っていた気もする。もちろん僕は、Nよりも後にゴールしていたので、彼がどんな表情で、辛そうに、もしくは楽勝にゴールしていたのかは知らない。
     五年三組は時々ある、とんでもない奴らが集まったクラスだった。担任は眼鏡をかけたおばちゃんで、美術の専門だった。小学生だから図工という時間で、彼女の得意分野を僕らは教わったわけだが、その時間は特に自由だった。
     僕らは彼女の授業中、切って消しゴムほどに畳んだ学校のプリントの裏側に、教室の端から端まで届く連絡網を使って、昨日の夜見たテレビや野球やサッカーの試合の話、先生の悪口を書いて回していた。目当ての友達へ手紙が渡る間に、好きな女の子の手を経る航路があると、その子が好きだというようなことを書いて、何かの間違いで中を覗いてくれないか、いやそんなことは絶対にない、そう信じて、その子についての口ではとても言えないようなことを書いて、ドキドキする遊びに興じていた。そして何故か、告白した気分になっていた。宛先の名前の人以外は、手紙を開いてはいけない決まりになっていたのだが。
     僕らの教室には裏が白紙のプリントが大量にあった。僕自身も沢山持っていた。なぜなら、学級通信などという紙は、親に見せたことなど殆どなかったし、見せたところで、何日も同じ場所にあり、家のごみが増える、母も僕もそのぐらいにしか考えていなかったからだ。僕らはその紙を使って色々な遊びをした。紙飛行機やボール、漫画、壁に掲載される五年三組や学校のニュースを書いた新聞など色々な物に形を変え、僕らの想像力を養い、いくつかの夢を叶えてくれた。新聞を書くためにあちこち取材に走っている子もいたが、ある時期僕は、数人の友達と漫画を作っていた。内容は少年ジャンプによくあるようなもので、笑いが欲しいと思うと、当時流行っていたお笑い芸人のネタを、そのまま文字に起こして、登場人物のセリフにしていた。僕はあまり絵が得意ではなかったので、仲の良い女の子に描いてもらい、中盤から終盤は、首から上がなにもない主人公のまま話が進み、そして終わった。裏表紙には四角で囲って「五十円」と書いてあった。しかし僕は十一年経った今でも、その漫画を持っている。いい加減捨てようと思ったことが何度かあったかも知れない。しかしこれは僕だけの物ではないんだという気持ちが、表紙に書いてある、アシスタントやマネージャーやプロデューサー、編集長などと一緒に並んだ懐かしい名前によって起こされるのである。もしかしたらこれが、僕が初めて完成させた文芸作品なのかも知れない。
     そんなに授業中遊びに夢中になっていたら、僕らの成績は悪かったのではないかと思うかも知れない。しかしそんなことはなかった。そもそも小学校のテストで良い点を取ろうと思ったことがあったのかどうか分からないが、少なくともNと僕はクラスでは上位の点数を取っていた。僕らが一番派手に遊んでいたのに。それでも比較的真面目に授業を受けている何人かには、二人とも勝てなかった。手紙を回すにしても、僕らは急に席を立ち、もちろん先生が黒板に何やら書き込んでいるときであるが、手紙を渡す本人のところまで歩いて直接渡していた。時々それがまんまと見つかって、Nと僕はもはや悪びれる様子もなく、笑いに誤魔化して席に着いた。あるいは、冬に手袋を使う時期になると、僕は野球をやっていて、Nはサッカーでキーパーをやっていたので、丸めた手袋の中にメッセージを入れて、お互いの席に向けて投げ合っていた。それが少し怖いもの見たさを出してくると、先生が黒板を離れて一人一人の机を周っているときなどに、彼女の背中すれすれを狙って投げた。悪ノリで書いた先生の悪口が、当人に拾われて、悲しい気持ちになったこともあった。僕らはわりとコントロールは良かったが、投げた手袋のボールがクラスの中では控えめで静かな女の子に当たり、この空中航路は止めてしまった気がする。僕らの授業中の遊びを目撃した先生は、僕らのことを思いっきり叱り飛ばしたのか覚えていない。あんまり記憶にないところを見ると、大して怒られなかったのだろう。クラスの全員が少なからず同じようなことをしていたから。とにかくNと僕は、授業はそこそこ適当に受けておけば、それなりに付いていけた。
     僕らはその年から自由勉強何ページという宿題に、四コマ漫画を描いたり、自分の好き嫌いのランキングを五段階で書いたりするだけで提出出来た。そして先生からのコメントが返ってきた。僕はそれでも宿題が面倒くさくて、白紙の自由帳に、図書室から借りて一向に返していなかったパペットマペットの四コマ漫画をそのまま写したりしていた。一ページに一つのお話なので相当楽をすることが出来た。ランキングを作るにしても、碌に読んだこともない漫画ランキング、あるいは、プロ野球の球団や選手、好きな曲、海の生き物図鑑から適当に選んだ生き物を書いた。ランキングの括りも自由だったから、一冊の図鑑があればたくさん作れた。もちろん選んだ理由を書く必要なんてなかった。あまりにも同じようなランキングにならないように、それなりに工夫していた。それ以外にも自分の苦手な科目を克服したり、辞書で知らなかった言葉やことわざを調べたりするのだが、それを選んでやっていたのは本当に少なかった気がする。五年三組の担任のおばちゃんはそれでも良かった。それだけでなく、親が算数や漢字の問題を作って、それを解いて提出している子がいると、僕らはその子を偉いなと思ったが、彼女はそれを自主勉強ではないと言った。それがやり直しになることはなかったが。Nがどんなものを自由勉強として出していたのかは覚えていない。
     僕らは小学五年になって初めて、算数だけは二つのクラスに分かれるということを経験した。片方は担任が教え、もう片方は違う教室で、算数担当の先生が教えた。分け方はクラスの席順、あるいは授業を妨害するような生徒を一緒にしないために分けられた。当時どんな風に分けられたか覚えていないが、多分席順だったと思う。席順で分かれていたと言っても、先生が席を発表するわけだから、いくら僕らが祈りながらあみだくじを引いたとしても、仲の良い人達と近い席になったり、僕やNが後ろや窓際、廊下側の席になることは、簡単に防ぐことが出来た。しかし、五年三組の担任は、正直にくじ通り、席を決めていたと思う。僕らは、プリントを下から巻き込むように折って、テープを貼って隠したあみだくじを、皆が名前を書き終わったあと、勝手に開いて、下に書いてある番号を確認したことがあったから。そのときは、その番号通りにすぐ席替えをした。どんな席だったかは、もちろん覚えていない。  
     違う教室で算数を教えていた男の先生は、僕が小学校三年生のときの担任だった。三年生のときも五年生のときも彼はあまり好かれてはいなかった。三年生のときの僕は彼のことが大嫌いだった。いつも先生に反抗して怒られたり、泣きわめいている僕を担いで、校長室に運ばれたこともある。何人かのクラスメイトと彼をやっつける計画を練っていた。Nもあまり彼のことを好いてはいなかった気がする。しかし五年生になってある日彼は、ガチャガチャのカプセルの穴をテープで塞ぎ、開かないように透明なテープで何周かしたものを僕にくれた。それは、東京ドームの土で、彼がなにかの抽選に当たって東京ドームの土を踏んだとき、こっそりポケットに入れて持ってきたもので、彼の宝物らしい。本当かどうかは分からない。その辺で拾ってきた、ただの赤い土かも知れない。校庭の土もちょうどこんな色だったから。

    二
     遊びを生み出すことが得意で、怖いもの知らずの男女が集まった五年三組は、勉強よりはスポーツの方が得意なクラスだった。僕らの学校の運動会はクラスに関係なく、赤城、榛名、妙義、浅間の四つに分けられ、一年から六年までの皆の点数を足して、一番点数が多いチームが優勝した。ハチマキは赤城が赤、榛名が青、妙義が黄、浅間が緑だ。Nと同じチームだったかは覚えていない。どの山のチームが優勝したのかもさっぱり覚えていない。そもそも僕がどの山だったかも分からない。
     僕らの学年は男女合わせて百人くらいで、一組、二組、三組に分かれていた。その中で男女百人が組み立て体操をするのが、その年の僕らの一番大きな出し物だった。
     一組の担任の先生は野球好きなおじさんだった。卒業生から熱血教師と呼ばれていた気がする。ある日休み時間も終わろうとするとき廊下ですれ違って、やっと野球の話が出来る生徒を見つけたというように僕を呼び止めた。三階の廊下の窓は開いていて、少し窮屈に見えるほど背中を丸め窓枠に肘を載せて話した。
     「凄かったな。前に桐一が優勝したときは、もうないと思ったけどな」
    僕も窓枠に寄りかかって、楽しそうに話す彼に頷いていた。その年の夏の甲子園は、前橋育英が初出場で初優勝していた。僕は優勝する瞬間を、祖母について行ったスーパー銭湯のサウナで偶然見ることが出来た。チャイムは鳴り、僕らはそれぞれの教室に向かった。その年は東北楽天ゴールデンイーグルスが日本一になった。「あとひとつ」という曲が流行っていた気がする。
     二組は若い男の先生が担任をしていた。彼も同じく体育会系だった。彼は僕の兄を担任していたことがあったので、五年生のとき、僕のことを下の名前で呼んでくれる先生だった。彼は一時間だけ、五年三組の授業をしたことがあった。二組の図工を教えるために担任のおばちゃんが行ったとき、漢字を教えにきた。五年三組を偵察に来たのかも知れない。
     今、小学生による組み立て体操が日本からなくなったのか、僕は知らないし、なくすべきなのかも僕には分からない。久しぶりに組み立て体操の写真を見てみたが、よくこんなことをやっていたなとは正直思う。とにかく僕らは、それが出来る最後の年だと聞かされて、男子のみで七段立体ピラミッドを完成させることを誓った。女子達は二つのタワーをその両サイドに建てることを約束した。僕の当時の認識では、来年からは組み立て体操をすることは出来るが、ピラミッドは禁止、あるいは、ピラミッドを作ってもいいが、六段まで、そんなこんなで挑戦できる最後の年なのだと力説されたのを覚えている。
     ある日の体育の時間に、僕ら五年三組は体育館に集まって、倒立やサボテン、三段ピラミッドなどの個人的な技から練習を始めた。僕が誰とペアになっていたのかは覚えていない。Nではなかった。彼は僕よりも十センチほど背が高かったから。倒立をするとき、ペアの子が脚を取りやすいようになるべく揃えて暴れないようにしていたが、僕のペアの脚は同時には上がってこない、横にも動くので捕まえるのが大変だった。サボテンはタイタニックだった。もし彼が僕の脚を離して前に体重を移せば、本当に痛いドリフの松の廊下のようになっていた。Nや僕は大体の技が出来るようになると、周りの子にアドバイスをしだした。それにも飽きると、体操マットがもう一枚欲しいと担任に伝え、体育館の備品倉庫に忍び込んだ。小さな窓の光が届かない隅のあたりに、何か恐ろしい目線を感じたが、僕らはふかふかの体操マットに飛び込み、ひんやりとする空気を吸っていた。そしてそろそろ先生が来る頃になると、バレーボールを一つ持ち出してドッヂボールを始めた。するとその音を聞きつけて、担任の先生は大声を上げた。体育館はしーんとなり、誰かがボールをダムダムしている音だけが響いた。
     「こら。ボールをつくな。お前らはうさぎ跳びだ」
    と怒鳴ったが、僕らはぽかんとしていた。次第に忍び笑いが広がり、何もなかったかのようにボールを倉庫に戻して、組み立て体操の練習を再開した。
     クラスごとの練習で皆ある程度出来るようになると、学年での合同練習になった。その時間で五年三組の連中がふざけたり、怒鳴られたりしていた記憶はない。一組や二組の先生に怒られるのが怖かったのだろうか。合同練習では音楽に合わせて技を披露する練習をした。音楽は「海猿のテーマ」とゆずの「虹」だった。たしか二組の先生は海猿が好きだったから、この選曲なのかも知れない。彼自身も水泳が得意で、それが専門だった気もする。本当かどうかは知らないが、ウォーターボーイズに出演したと言っていた。ゆずは三組の先生が好きだったのかも知れない。
     そしてある日初めて、算数や理科の先生、他学年の時間の空いている先生達に見守られて、体育館に大量のマットを敷き、僕らは七段立体ピラミッドに、女子達はタワーに挑戦した。ピラミッドが横に崩れてもいいように、正面と左右には厚さ三十センチのマットが敷かれていた。女子達が何段のタワーを建てたのか、僕はもう覚えていない。
     僕らは初日の挑戦で七段立体ピラミッドを完成させた。それから何度か出来るときと出来ないときを繰り返して、少しずつ成功率を上げ、また失敗し、皆が本番で自信を持てるように練習を繰り返した。僕らの作るパーツには三種類あった。一つ目は一番下で膝と手を付き土台を作る役目。二つ目は一番人数の多いパーツで下の人の背中に乗り、腰を曲げて前の人の背中に手を付き、上の人が乗りやすいように背中をなるべく平らにする。三つ目は最後の一番上の一人だ。僕らは文字通りパーツだった。組み上げている途中で、崩れそうになったり、誰かがきつそうにしていたり、もしくは自分がきつくなったりしたとき、「頑張れ。頑張れ。もう少し」という言葉を誰かが発したりすると、異様に、場違いなように、響いたものだ。僕らのピラミッドの中には、リーダーも偉い人も偉くない人もいはしなかった。僕らのピラミッドが崩れたとき、僕はそれに巻き込まれた。誰かが腕の力を失って肘を曲げ、真っ直ぐ下に崩れた。誰の上に落ちて、誰が上から被さってきたのか分からなかった。その日にもう一度ピラミッドを組み上げたのか覚えていない。僕らはあえてもう一度やった気がする。一組の先生ももう一度やろうと言ったが、満場一致でやろうと言ったのは五年三組の連中だけだった気がする。やっぱり危険だと言われて、ピラミッドが中止になるのが嫌だったのかも知れない。あるいはけが人が出て、後日になった。
     成功率が上がってくると、僕らは校庭に出た。音楽に合わせて配置を変えたりする練習をした。僕らは裸足だった。元気な子もそうではない子も皆裸足で走っていた。誰も強制はしなかった。しかしNや僕は保育園のとき裸足で運動会をしていたので、そこまで違和感はなかった気がする。校庭でピラミッドを建ててみると、その頃は体操マットを必要としないほど成功率は高かったが、崩したあと一番下にいた人の膝を見て驚いた。彼の膝には校庭の土の跡が深く食い込んで赤くなっていた。僕が膝を付いて一番下になる技もあったが、そんなものではない痛みを感じた。しかし五年三組の担任は僕らに、演技の途中で膝に付いた土を払うなと言った。払わない方が痛くなかった気もする。
     一番上で立ち上がり、両手を左右に広げるパーツは五年三組の一人だった。彼は小柄で器械体操をやっていた。バランス感覚が良く、高所でも脚がすくまない人間だと判断されたのだろう。少しでも強い風が吹けば彼は落ちた。七段の人間の足場は、ひどく揺れた。誰か一人の小さい揺れが、皆を揺らした。上の人が乗る背中よりも、手を付かれる背中の方が楽ではあったが、僕らは彼が楽をしていると責めることはなかった。また、僕の方が偉いんだから、感謝しろとも思わなかった。僕は人の背中の上に手を付いているとき、何故か笑いだしたくなり、腕の力が抜けそうになったことがあった。そして腕の感覚を忘れたが、肘を曲げはしなかった。僕らは彼に早く上に登って完成させてくれとは思わなかった。なぜなら、上に登る彼の恐怖を感じていたから。彼は五年三組の中ではあまり目立ってはいなかった。しかし彼が一番上に立たない限りピラミッドではなかった。彼がピラミッドの絵を描く図工の授業で、どこにフォーカスした写真を選んでいたのか覚えていない。あくまでピラミッドの中の自分を描く授業だったから、彼は頂上にいる自分を描いたのかも知れない。僕は自分が見える写真は見つからなかったので、ピラミッド全体を描いた。殆どの人がそうだった気がする。
     僕ら五年三組はいつも通り自由で破天荒な日常を過ごしていた。毎日のように新しい遊びが生まれた。僕らは校庭に出てサッカー対決をして遊ぶようなクラスではなかった。もしサッカーをするとすれば、他のクラスと対戦したり、下の学年の生意気な連中と戦った。僕はあまりサッカーが得意ではなかったが、相手の陣地に向けてボールを蹴り飛ばすことは出来た。そうすれば五年三組の誰かへのパスになった。Nもサッカーより、野球の方が好きなのではないかと思った。校庭で野球をすることは出来なかったが、僕らの有り余るエネルギーを持て余した担任の先生は、野球をすることを許可してくれた。野球の道具は校庭の備品倉庫に入っていることを知っていたので、僕らは昼休みにワクワクして職員室に行き、ノックをして「失礼します」と言い、備品倉庫の鍵を手に入れた。それを持って校庭の隅に行き、四つのベースを置いて、授業で使う少し柔らかいボールで野球をした。内野に誰かが入ってくることはなかったが、外野を少し超えれば一年生から六年生までの男女が鬼ごっこをしたりして走り回っていた。近くで遊んでいた、野球チームの後輩も仲間に入れた。彼かNが投げたボールを、僕はレフトを超える球で打ち返した。後日、休み時間に野球をすることは禁止になった。僕らはあまり怒られなかったが、担任の先生は非常に怒られたらしい。そんな雰囲気だった。
     そんな五年三組は休み時間に何をするのかというと、普通の静かな遊びは授業中にも出来るので、クラス全部を使ったものだった。僕らのクラスは男女で仲が良かった。外に出て遊ぶよりもクラスの中で遊んでいた。治外法権のようなものを感じていたのかも知れない。しかしどんな遊びをしていたのか、具体的に思い出すことが出来ない。僕らは授業が終了すると、誰かの机に集まりおしゃべりをした。時にはクラスのテレビを勝手につけて、徹子の部屋を見ていた。掃除の時間はトイレ掃除に行きたがり、そこでずっと話していた。ただ、話しているだけで楽しかった。僕らは知り尽くすことの出来ない、人間で遊んでいたのかも知れない。僕が五年三組の遊びで参加しようとしなかったものが一つだけあった。早く流行りが過ぎてしまえばいいのにとまで思っていた気がする。それは何人かの男女で、誰かが言った台本を演技するというものだった。Nも参加して楽しそうだったが、僕はそれに乗らなかった。演技をするのが恥ずかしかったのかも知れない。あるいは、僕が発案者の一人やリーダーではなかったので嫌だった。僕が校庭から汗をかいて五年三組に戻ってくると、担任の先生と行き会って、
     「あれ、皆と一緒に遊ばなかったの?」
    と言ったが、僕は、
     「つまらなそうだから」
    と返して、机を戻している皆に紛れて自分の机を元の位置に戻して座った。もし僕が発案者なら、きっと僕のことを嘘でも君がいないと面白くないからと言って誘っただろうと思いながら。
     僕らは机を掃除が出来るように半分に寄せて、空いたスペースで遊んでいた。前に一人の子がいて、他の子はその一人を見ていた。一人の子がしたポーズをどれだけ早く真似出来るかとかそんなものだった。一番遅かった子が前に出て鬼になった。それは担任の先生も参加していた気がする。そのとき誰かが横になるポーズをして、それを皆が真似たとき、僕は好きな女の子のパンツを見た。僕はすぐに目を逸らし、そして誰にも言わなかった。
     僕らのクラスは学校の新校舎だった。六つの教室だけ建て増しされて三階建て、完成した二年後だったかにその校舎を使った気がする。すでに教室の新しさはなくなっていたが、僕らは沢山汚して毎日掃除をした。上履きのまま机や椅子に載り、先生のデスクにも上がった。黒板消しを壁に叩き付けたり、クリーナーに溜まった粉を撒き散らした。教室の引き戸に黒板消しを挟んで先生を待っていた。しかしそれをクラスメイトに仕掛けたことはなかった気がする。一組と二組は廊下で繋がれた旧校舎だった。五年三組の隣には六年生の教室があったが、旧校舎へ行くための廊下や階段があったので、僕は六年生を意識したことはなかった。
     いつものことだが、小さなことで諍いが起きた。大体喧嘩をするのは、クラスの中で二軍や、三軍といわれる男子達だった。僕らのクラスには実際に、一軍、二軍、三軍というランク付けがあった。当時「三十五歳の高校生」というドラマが流行っていた。しかし五年三組はいじめを嫌っていた。もし、いじめがあったとするならば、対象は担任の先生だったと思う。一軍と呼ばれて、Nや僕は喜んでいただろうか。しかし二軍や三軍と呼ばれるのは嫌だった気がする。僕らのクラスには派閥はなかったと思う。女子と男子で遊びが違うことはいくらでもあったが、誰と誰の仲が悪かったという記憶はない。自分から参加しようとする人と、そうではない人はいた。いつまでも嫌い合うよりは日によって仲が良かったり、自然と離れていた。しかし誰かが声を挙げると協力した。
     運動会の少し前だったと思う。二軍か三軍の一人が何かに腹を立て、掃除ロッカーを叩いて凹ませた。あまりにも思いっきり凹んだので、僕らは爆笑しながら掃除ロッカーに近づき、裏から叩いて元に戻そうとした。しかし変なところが前に出てきて、余計凹みが目立った。だから元から凹んでいただろ、と言うことにして知らん顔していた。僕らが直そうとしたところを見ると、腹を立てさせたのは、僕やNだったのかも知れない。そして彼は腕を怪我したのだ。そのときは分からなかったが、運動会当日になって、僕らは彼が組み立て体操に参加できないことを知った。
     運動会のプログラムで、五年生の組み立て体操は午後に行われる。午前中は個人の徒競走や低学年のダンスなどがあったが、どんなものだったか、その結果も覚えていない。僕らは校舎の対面に椅子を持ちだして、赤城、榛名、妙義、浅間のチームごとに座っていた。Nと同じチームではなかった気もするが、彼と一緒に歩き回って、僕らを知っている誰かの保護者に見つかっては話したり、枝からビワの実を盗んで食べていた気がする。僕の徒競走の相手は、いつも通り走れば期待に応えて、一位になれるくらいの子達だったと思う。あまり緊張していなかった。
     昼休みになると教室に戻ってきて、机を前か後ろに寄せ、僕らは床に座って昼ご飯を食べていた。すると担任が教室に入ってきた。彼女は急いでいた。
     「男子達はなるべく早く食べて体育館に集合するように。ピラミッドの最後の確認をするから」
    と告げた。そして少し五年三組にいると、一組や二組の女子達を見てくると言って出て行った。僕らのピラミッドは危険だと知っていたし、最後に近い練習でも僕らのピラミッドが崩れた記憶もあるので、別に不思議には思わなかった。僕たちは急いでご飯を食べ、昼休み終了二、三十分前に体育館に向かった。一階に降りて真っ直ぐ体育館へ早歩きをしていると、僕だけ一組の担任の先生に呼び止められた。そこは校長室、保健室、職員室や来賓玄関のある、薄暗い廊下の途中だった。彼は職員室の入り口で僕を待っていた。Nや皆は先に行かせて、彼と並んで歩いた。
     「君のクラスの子が腕を怪我したから、ピラミッドのポジションを変えなければいけない。これからステージの上で、残された時間の中でピラミッドの練習をする。きっと出来るのは一回か二回だ。そこでお願いなんだが、君にポジションを代ってもらいたい」
    先生は早歩きで体育館に向かいながら、時々僕の目をチラチラ見て言った。僕は頷いた。
     「君の新しいポジションは君の体格には相当きついな。ピラミッドの中で三番目にきついポジションだ」
    と先生は僕の反応を見て、笑いを含みながら言った。
     「一番下ですか?」
     「いや、ピラミッドの中心なんだよ。君のポジションは腰が痛いんだ」
    とお願いするように言った。そして、
     「あんなに練習したのにな。こんなことになるとは思わなかった。本当は辞めるべきなのかも知れない。ぶっつけ本番と同じことだから」
     「多分大丈夫です」
    と僕はすぐに言った。そして、
     「僕の他にもポジションが代わる人はいますか?」
     「三人だけいる。ただ、彼らは楽なポジションになるんだよ」
    と僕を試すように笑顔で言った。僕は嬉しかった。しかし聞いてしまった。
     「もし出来なかったら?」
     「そのときは、男子達は横一列に整列だな」
    と笑いながら言って体育館のドアを開けた。一番諦めたくないのは先生だっただろうに。女子達のタワーの真ん中で、整列する僕らを想像した。それならいっそのこと、組み立て体操の全てを中止にして欲しいと思った。
     体育館の中には、何家族かがそれぞれ固まって座り、昼ご飯を食べていた。体育館シューズは要らなかった。僕は脱いだ上履きを片手に持って、それらの家族達を眺めてみた。知っている人は一人もいなかった。体育館から中庭みたいな方に向いている大きなガラス張りのドアは全開に開いていて、電気は消されていた。太陽の光に任せた体育館は薄暗く、外で昼休みを過ごしている大勢の家族達の声や音が、風に乗って聞こえた。体育館に手作りのお弁当の匂いがした。ステージの方はもっと暗かった。だから、休憩している家族は皆、明かりの方にいた。しかし午前中で運動会を終えた低学年の子供達が、何人かステージに近づいて遊んでいた。緞帳に触ってみたかったのかも知れない。暗いステージには大きな緞帳が下されていた。僕は体育館の緞帳が使われているのを初めて見た気がする。先生はやっぱり本気なんだと思った。その中は全く見えなかったが、所々ひらひらと揺れていた。赤黒く厚くて大きな布と、裾にあしらった金色の糸が妙にグロテスクに思え、少し不安になった。僕らを見る知らない家族達は、話しかけはしなかった。ただ、興味深そうに見ていた。母親が遊んでいる子供を呼んだ。彼らは明るい方に向かって走っていた。
     一組の先生は誰にも挨拶せずに僕の前を歩き、黙ってステージの横のドアを開けた。中から急に大勢の声が聞こえた。ステージの控え場所に皆と揃えて上履きを置き、その中に靴下を入れた。横幕を開くと白い光に照らされた。そこには二組の先生や僕以外の男子達が集まっていた。硬めの白い体操マットがステージ一杯に敷き詰められていた。彼らは楽しそうに遊んでいて、僕は五年三組の男子と合流した。
     「二組の先生に自分の名前言った?」
     「まだ、言ってくる」
    と言って振り向くと先生と目が合い、頷き合った。
     全員が揃ったのを確認すると、雰囲気を感じ取って一組と二組の先生の方を向き、皆静かになった。そして、外に聞こえないように声を落として、一組の先生が話し始めた。
     「これからここでピラミッドの最後の確認をします。決して無理をすることはないが、最後まで諦めないで欲しい。僕達はこの日のために練習をしてきたのではなかったかな。チャンスは一回です。君達は何度もピラミッドを成功させてきました。だから、あともう二回、君達の底力を見せて下さい。信じています」
    僕らは声を出してはいけないことを察して、皆で頷き合った。
     僕は緞帳をステージの中から見た。この空間にいることが、心強かった。横幅はギリギリか少し余る、天井は一番上の一人が立ち上がることは出来ないのではないかと思った。そして僕らはステージの片方に集まり、最後の練習を始めた。僕は先生に言われたポジションに入り、背中を平らにした。想像以上に重たかった。僕と同じ、あるいは少し重い人が上に乗っていた。これまでは背中に手を付かれていたが、今回は足だった。僕の肩は少し沈んだ。配置を変えて、本当にピラミッドが積み上がっていく重さを感じた気がする。隣の人のじっと我慢している息遣いがあった。僕は僕一人の力不足で、ピラミッドを諦めるわけにはいかなかった。
     ピラミッドは一発で成功した。そしてステージ一杯のピラミッドは一段一段崩されて、先生は安心したように僕の方に寄ってきて、
     「大丈夫そうだね」
    とひとこと言い僕の肩を叩いた。僕は笑いながら何度か頷いた。そして僕らは二人の先生と声を落とした円陣か、手を繋いで気合を入れた気がする。緞帳を下ろしたステージの中で作ったピラミッドは、僕らだけのピラミッドだった。少しくすんだマットと青い短パンに白いTシャツ、それだけだった。ただそれだけの大きな建造物だった。
    皆がそれぞれ上履きを手にして、横のドアから出てきたとき、昼休みを過ごしていた家族はいなくなっていた。少ししか時間は経っていないはずなのに、太陽の光がひどく傾いた気がした。体育館全体は暗かった。ただ元気なのは僕らだけだった。
     時間も迫っていて、僕らは急いで校庭に出た。組み立て体操のプログラムは運動会後半の最初だった気がする。僕らは校庭に出された自分の椅子の下に外履きと靴下を入れ、裸足で入場ゲートの高いポールが二本立っている場所に向かった。僕らはふざける余裕すらなかった。それでも足の裏が痛くてつま先立ちで歩いている子はいた。桜の木陰のひんやりした土を踏むのは気持ち悪かった。しかし、熱くなった土を歩くのも嫌な気がした。これからその土を全く気にしない覚悟だったから。僕はそれ以上に、四年生や六年生の前を通ってポールまで行くのが嫌だった気がする。彼らの前をどんな気持ちで歩けばいいのか分からなかった。ただ、Nや五年三組の皆がいたから、「まあ、見とけ」というような気持で彼らの前や保護者達の前を歩いた気もする。僕らは赤、青、黄、緑のハチマキをつける必要はもうなかった。僕らは並んだ体育座りから先生の合図で立ち上がり、アナウンスが聞こえると、開始の位置に向かって走り出した。
     これから僕は、僕らの本番の組み立て体操の話をしようと思うのだが、僕の元に映像は残っていない。しかしそれで良いのではないかと思う。僕は組み立て体操に使われた音楽を久しぶりに聴いて、思い出したところだけを書こう。
     一曲目は海猿のテーマだった。僕らは綺麗に整列して、何かの技を一つ一つやったのだろう。しかし全く覚えていない。僕の見た限り、倒立のとき自分の脚が支える人の手まで届かずに、やり直している人はいた気がする。僕も一発で成功させるために練習を思い出した。そして皆の動きが止まると、先生がホイッスルを吹いた。もし完成出来なければ、気を付けの姿勢になる、と決まっていた気がする。僕はサボテンも成功させて、校庭にサモトラケのニケが沢山いた。僕はノーミスで海猿のテーマの時間を、やり切った気がする。
     二曲目はゆずの「虹」だ。この曲に合わせての僕らの動きは何となく覚えている。イントロは皆整列していて、「君の足に絡みつくのは何 劣等感?」校庭の土だった。そこで何か一つの技。「それとも不調和な日々に芽生えた違和感?」また一つの技。「空虚な空 気が付けばほらうつむいて」で一つの技。「一人ぼっちになってたいつかの帰り道」僕らは今、全体だった。この四つの繋がりは、端から端へ、あるいはそれぞれの位置ごとに、技を立ち上げていった。そしてその技ごとに「ピーッ」とホイッスルの音が鳴った。Bメロで僕らは位置を変えて、Aメロに戻ってまた何か技を披露した。そしてサビに入る前に僕らは移動して三段ピラミッドの準備をした。これはクラスごとに自分達で選んで、五人のグループを作るものだったから、Nと一緒だった。五年三組の中でも僕と特別仲が良い人達が集まっていた。そのとき僕らは誰が下になり、真ん中、一番上になるのか決まっていなかった気がする。一番上になるには少し体重があったが、それ以外はどこでもよかった。僕はNと目が合い、今のところ順調だねというように頷き合って、二人で並んで一番下になった、あるいは彼は一番下になった。よく覚えていない。この技は素早く建てることが重要だった。そしてサビに入り、「越えて」端から三分の一のピラミッドが上がり、「越えて」三分の二が上がり、「越えて」これで全てのピラミッドが立ち上がった。観客からの拍手の音が聞こえる。二回目のサビはグループで決めた僕らの好きな技だった。「届け」「届け」「届け」どんな技をやったのかは覚えていない。
     曲は進んで「希望を乗せ 空に響け」そして間奏に入る。僕らはその音を聴くと、「よし、行こう」と頷き合って、全力ではなく、文字通り神妙に気持ちを整えて走った。所定の位置より何メートルか後ろに先生達も集まっていた。もう一つの越えなければいけない壁に向って中央に集合した。練習通りに並んでいる僕らを、一組の先生は一番端の人の背中を押すように「よし、いけ」と言って送り出した。それに続いて横一列の人間が走って自分のポジションに向かった。いつもよりもペースが速い気がした。それは位置を変えたことによって、そう思ったのかも知れない。あるいは、ピラミッドの目の前でカメラを構えている大勢の保護者を見てしまったからかも知れない。しかし一段一段人間ピラミッドは積み上げられていった。僕の隣の人が、そのとき初めて、「あれ、君だったっけ」という顔をした。僕は当たり前のように自分のポジションに入った。彼はただ、それを受け入れるしかなかった。僕たちは真剣だった。僕らが考えていたことは、ただ一つ、ピラミッドを完成させることだった。誰か一人でも崩れれば、それまでだった。そしてピラミッドの揺れが止まり耳を澄ますと、「行こう 君と」のタイミングで「ピーッ」と今日一番長く音を響かせてホイッスルが鳴り、校庭中の観客のどよめきと拍手の音がこだました。
     僕らの造った七段立体ピラミッドは少しずつ解体され始めた。崩している時間の方が長かった気がする。早く崩してしまいたいと思った。重さに疲れた腕や腰を楽にしたかったのではなく、早く自分の足で土を踏みたかった。徐々に重さは減っていき、僕の順番は来た。やり切ったという気持ちを味わう時間もなく、音楽は終わりに近づいていた。僕は前の人の背中から手を離し、後ろも碌に見ずに後退した。そして最後の一段を軽く飛び降りるようにジャンプした。そのとき人の背中を足で押していたかも知れない。久しぶりに地面を踏む、船乗りのような気分だった。ピラミッドは跡形もなく姿を消し、僕らは所定の位置について、お辞儀などをして組み立て体操は終わった。これでまた明日から、五年三組の日常が戻るのだと思い少し嬉しかった。アナウンスが鳴ると、退場ゲートに向かって走った。二本のポールを抜けると僕らはふざけ始めた。もう組み立て体操やピラミッドを忘れていた気がする。僕らは緊張を乗り越えて、その後に何をしていたのか分からない。Nの両親や、五年生の先生達に言われなければ、それらの価値にも気付かなかった。気付いたとしても、すぐに忘れてしまった。組み立て体操のあとに、六年生の兄のマーチングがあったのだが、さっぱり覚えていない。五年三組の先生が、君達も来年にはこれをやるのだから、よく見ておきなさいと言ったが、それどころではなかった。六年生のマーチングは運動会の大トリで一番注目を集めるはずなのに、あまり興味もなかった。音はスカスカでよく聴いてみれば校歌だと分かる、そんな感じだった気がする。隊伍を組むのは僕らよりも統制されていたかも知れないが、拍手の音は僕ら五年生の七段立体ピラミッドを建てたときが、この年の運動会で一番大きかった気がする。

    三
     五年三組の写真で僕が持っているのは、A4サイズにラミネートされた、いつ撮ったのか分からない「ゴット5―3」と訳の分からないことの書かれた一枚だけだ。これは五年三組のパソコンの授業で、先生が撮った写真の中から自分の好きな一枚を選び、何か文字を書いて完成させるものだった。僕ら五年三組が普通にパソコンの授業を受けられるはずもなく、抜け穴を探しては全然関係ないことをしていた。生徒の画面をすべて見ることが出来る先生は、それを見つけると僕らの名前を呼んで、「全部見えてるぞー」と言った。さすがに学校のパソコンでウイルスに引っかかるようなものは見なかった気がする。それに、それらについてあまり知らなかった。僕は知らな過ぎるくらいだった。その写真は黒板の前に皆集まって、思い思いの位置でポーズを取って、写されていた。三十二人の顔がある。誰か休んでいたかも知れない。何人のクラスだったのか覚えていない。この写真で思い出したことを話そう。
     左側に一段高くNと僕がいる。給食台か何かに乗り上がっていたのかも知れない。Nは中段の高さの子の肩に手を置いて、一番高く右手を挙げている。僕はそのすぐ横で黒板の上部を掴み左手を前に出してピースサインをしている。右側にはもう一人何かに乗り上がっている子がいた。その横には何人か、ふてくされたように台に深く座り込んでいる。左側から一番前は女子達がいる。真ん中で膝を折った子の肩に乗り、両腕を横に広げて武藤敬司のような手の形をしている子もいる。ピラミッドの直前で腕を怪我した子は、Y字型に両腕を広げている。黒板には箇条書きで「授業中は」と書いてあるが、乱雑に消されていて何が書いてあるのかよく分からない。下の方に小さく「しゃべらない」とも書いてある。日付は三月六日だった。その横に弥生とも書いてあった。
     黒板の左上に赤いチョークではなまるが並んでいる。五年三組では良いことをすると一つはなまるが追加され、十個集まると何か良いことがあった。レクリエーションの時間がもらえるとか、そんなことだったような気がする。僕の横にピッタリ十個集まっているので、何か良いことがあったと思う。僕は休み時間に椅子の下から雑巾を引っ張り出して、後ろのロッカーの上を綺麗にしたことがあった。「見てみて」というように先生の肩を叩き、はなまるをもらった。誰一人宿題を忘れなかった日や誰かが誰かを助けたとき、僕らが何か一つのことに団結したときにはなまるは追加された気がする。なかなかはなまるは貯まらなかった。しかし先生のいないときに、勝手に書き足したりはしなかった。勝手に消したことはあったかも知れない。五年三組のおばちゃんは、はなまるが好きだった気がする。ことあるごとにはなまるを描き、僕らの漫画を見かねて、だったら先生自分で書いてみろと言ったときも、はなまるに関した漫画だった気がする。彼女は絵が上手かった。習字も上手かった気がする。
     右側の時計は三時三十七分くらいを指している。僕らは私服で学校に通っていた。左胸に安全ピンで名札をつけている子がいる。Nや僕はつけていない。時計の右側辺りに毛筆で「何事にも一所懸命取り組める集団」と書いたものが貼ってある。僕らは「千年の釘に挑む」という読み物を読んでいた。それは宮大工の話だった。あるとき、宮大工の人が学校に来た。僕らの学年は体育館に集まって彼の話を聴いていた。どんな話をしていたのか覚えていない。彼の講演は終わり、彼への感想や質問をする時間で僕は手を挙げた。マイクを持って手を挙げた生徒のところを周っていた担任の先生は、僕にマイクを渡すことを躊躇した。
     「なんて言うつもり?」
    と小声で訊かれた。
     「かっこいー」
    と叫びたいと返すと安心したように笑って僕にマイクを渡してくれた。僕は叫んだ。彼は最後に僕らに言った。
     「もし、鉛筆を持ってくれば、削ってあげるよ」
    宮大工の人が削った鉛筆を使ってみたかった僕らは、急いで教室に帰り鉛筆を持って体育館に戻った。彼は校長先生と一緒に体育館から出て、もう帰るところだった。僕らは彼に鉛筆を見せて、削って欲しいと伝えた。校長先生はひどく嫌な顔をした。本当にお願いする奴があるか、という顔だった。宮大工の人は今自分が道具を持っていないことが悔しそうな表情だった。僕らは鉛筆を削ってはもらえないと気付くと、当たり前のようにお辞儀をして五年三組に帰った。約束を破られたと言っている子もいたが、少し経つと忘れてしまった。その宮大工が弓矢で穴を空けたものが、この毛筆の紙だった。彼はどこかの学校で失敗したことがあると言って保険をかけたりしていたが、三クラス分しっかりと穴を空けた気がする。僕らはこの紙を見て、先生が誤字をしていると思った。一生懸命という言葉しか知らなかった。このとき初めて一所懸命という言葉を知った。クラスの何人かはかたくなに誤字だと思っていた。僕も一生懸命の方がかっこいいと思っていた気がする。
     その紙の下に電話がある。五年三組以外で使っているクラスはなかった気がする。僕らは先生のいない休み時間に受話器を取り、職員室に繋いでピンポンダッシュをしていた。罰ゲームやチキンレースのように受話器を外してすぐに切った。もし本当に職員室から先生が来たら、遊んでいたら偶然ぶつかって落ちてしまったと言うつもりだった。あるいは本当に何かの用事で、職員室にいるはずの担任の先生を呼び出していたかも知れない。授業妨害がひどくなると、五年三組の先生でも、
     「じゃあ、自分達で授業をして下さい」
    と言って、誰かが前に出られるものなら出てみろ、と教室の後ろで腕を組んで待っていたり、五年三組を残して天岩戸のように、職員室へ行ってしまった。しかし僕らは、よっぽどの事情がなければ、職員室に謝りに行くことなどなかった。どうぞお好きにと思っていた。何人かの女子や比較的真面目な男子がこっそり謝りに行っていたのかも知れない。次の授業には機嫌を直していた。それでも最後には帰ってきて欲しいと思った。授業してみろと言われるのはなかなか難しかったが、僕が前に出て先生の読んでいた教科書の続きを訊いて、読み始めたことはあった。五年三組の電話は校長先生を呼ぶためにも使われていた。授業中に先生が受話器を外してすぐに切ると、
     「これで校長先生が来ますからね」
    と言って、僕らを脅したが結局来なかった。そういう作戦だったのかも知れない。
     先生がいない時に電話がかかってきたことはあった。そんなことは初めてだった。受話器を取ることを皆尻込みして、Nか僕が取った。よく覚えていないが電話で担任の声を聞いた気がする。内容は次の体育の時間は天気が良いので、体育館ではなく、外集合に変更するから皆に伝えて欲しい、とこんなことだった気がする。六年生になっても、こんなことはなかった。
     左上に黒いひげが見切れてほんの少しだけ写っている。その右側に縦書きで数行の文字が書いてある。なんて書いてあるのかは分からない。しかしこのひげはアンリー・デュナンだった。「気付き考え行動する」と書いてあるのかも知れない。あるいは、人や郷土社会、国家や世界のために云々と書いてあった気もする。ある日先生のデスクの上に、赤い羽根募金を促す小さな厚紙の箱が置かれた。お金を持ってきた人はここに入れて下さいと言われたが、僕が募金をした記憶はない。Nやその他の人が募金をしていたのかも覚えていない。しかし募金を集計する最終日には、五年三組の箱はそれなりにお金が入っていた気がする。全校集会で募金の使い道やアンリー・デュナンの伝記を聴いたのだが、よく覚えていない。その講演が済むと僕らは赤い羽根をもらった。それを自分の名札に付けたり、連絡帳やランドセル、机に貼り付けた。しかしそういうものに貼らないで下さいと注意された気がする。そんな羽根は煩わしかったので、普通に捨ててしまったか、あるいは、自分の部屋の机にしまったまま忘れられてしまった気がする。
     僕らはアンリー・デュナンが教室に貼ってあることをあまり気にしていなかった。彼を思い出すのはテストの分からない漢字に悩んでいるとき、答えを掲示物の中に探すときくらいだった。彼は五年三組でも中立になって助けてくれたのかも知れない。五年三組のテストに限っての彼は、それほど必要とされていなかった気がする。書かれている漢字の数も少なかったから。
     それでもテストの時間は、皆真面目に受けていた。僕は五年三組でカンニングを計画したことはなかった。Nと一緒にそれらの話をしたことがあったかも知れないが、いつの間にかその作戦はボケ合戦に発展していた。僕らは姑息なカンニングなんて嫌いだった。窓枠に当たり前のように答えを置いておいたりしたが、それらはテストが始まる前に見つかって使えなかった。カンニングをして高い点数を取るよりも、そんな形で担任の先生を裏切りたくない気持ちの方が強かった気がする。点数が良かろうが悪かろうが何も言われはしなかった。強引に周りの子の点数を見ようともしなかった。どうしてもはなまるが欲しかったり、担任の先生をびっくりさせたくて、五年三組の平均点を八十点にしようと団結するのなら、僕らは皆で教え合っていた。
     僕はテストのとき一度だけイライラしたことがあった。僕らのクラスにはアメリカからの帰国子女がいた。もうすでに日本で数年暮らしている子だったが、漢字を読むのは苦手だった。五年三組のときに転校してきたが、すぐにクラスに馴染んでいた気がする。理科のテストのとき、彼女のために問題を口述している理科の先生の、ちょうど前の席にいた僕は、ただでさえ分からない問題なのに集中力を削がれて、まさに原稿に行き詰まる小説家のように、両手で髪の毛をくしゃくしゃにした。後ろから理科の男の先生の小さな笑いが聞こえた。そのテストがよく出来たのかさっぱり覚えていない。彼女は五年三組の中に好きな人がいると言っていた。ある日の昼休みか掃除の時間に、僕は彼女の好きな人の名前を聞き出そうとした。彼女は、
     「イニシャルだけならいいよ」
    と言って教えてくれた。そして少し僕を伺うと恥ずかしそうにどこかに行ってしまった。ちょうど授業が始まる時間だった気がする。苗字も名前も僕のイニシャルだったが、気付かないふりをしていた。アメリカ流にイニシャルが逆になると考えるのなら、僕以外にももう一人いた気がする。
     右側の時計の傍に、誕生日ケーキの格好をした紙に写真が入っている。遠いし、画質が悪いので、その写真を詳しく見ることは出来ないが、それは僕らで担任の誕生日を祝った日の写真だ。当時はカレンダーに、クラス全員分の誕生日が誰かによって書いてあった。給食の「いただきます」をするタイミングで、誕生日を祝う会の会長と副会長などが黒板の前に出て、紙パックの牛乳で乾杯をした。
     「今日は○○君、○○さんの誕生日です。皆でお祝いしましょう。乾杯」
    という音頭に合わせて僕らは牛乳を前に掲げた。土日や長期休暇に誕生日がくる子は、その前にまとめてお祝いした。この誕生日を祝う会は五年三組の誰かが五年三組の中で求人を出して人数が集まり、あるいは、何人かで決起したとき、会の名前や役職とメンバー、何故その会を作るのか、ルール、目的などを裏が白紙のプリントに書いて担任の先生に提出し、認可されると結成することが出来た。その結成条項を先生がパソコンで作ってくれた紙に清書、署名した。結成すると五年三組の新聞に載った。廊下に向けて貼りだされて、六年生や違うクラスの子や先生にも思ったより読まれていた気がする。解散するときは自然消滅か先生に解散を申し出た。あるいは、結成条項の最低活動日数を下回るとお取りつぶしになった。
     僕らが担任の誕生日を祝う計画は、誕生日前日の帰りの会、皆でメモを回し合って決まった。そのメモを最初に書いたのは、Tだった。確かこのくらいの時期に苗字の変わった女の子だ。Tが誕生日を祝う会の会長だった気がする。僕も会員だった。TもNと同じように保育園からの友達だった。帰りの会で誰かに背中を叩かれて手紙を受け取ると、中を開いてみた。「明日は担任の先生の誕生日だから、皆でお祝いしようよ。読んだら次の人へ。T」僕はこれを読んでTの席を見た。彼女と目が合って僕は直接頷いた。Tは嬉しそうだった。彼女の提案の手紙を最初に読んだのは僕ではなかった気がするが、僕は彼女のためにもなるべく多くの五年三組の皆に参加して欲しいと思った。僕は彼女が思いついた計画にワクワクしていた。そして僕は「どうやって?」と手紙を書いて彼女へ回した。しばらくすると僕が回した彼女の一通目の手紙が返ってきた。「返信」と書いてある。中を読んでみると、僕が彼女に訊いたことと同じだった。ちょうど彼女からの返信がきた。僕はそれを読んで次の子に回した。「参加できる人は、一回帰ったふりをして、五年三組に集合しよう」僕らはいつも通り五年三組を出た。
     僕らは自分のさじ加減で、そろそろいいだろうと思う頃五年三組に向かった。家が近い人達は、本当に一回帰って飾り付けに使う折り紙などを持って戻ってきた。Nも家が近い方だったから、折り紙を持ってきた気がする。そこまではTの計画にもなかった。自分達で考えてそうしたらしい。僕は家が遠かったので、校庭の遊具で時間を潰す中の一人だった。五年三組の殆どが参加していた。
     僕らは黒板にメッセージや絵を書いて、折り紙を細長く切って輪飾りを作り、教室中に張り巡らした。裏の白いプリントなどを小さく切って花吹雪にした。黒板の日付を誕生日当日にして、綺麗に装飾した。放課後に皆で集まるのは初めてだった。まだ外は明るかったが、夕暮れの匂いがしていた。男子達はいつも通りふざけていた。しかし女子達が仕事を与えると、冗談を言い合いながら折り紙を切ったりしていた。色紙を準備する時間はなかったので、黒板に皆それぞれメッセージを書いた。僕がなんて書いたのかは覚えていない。Nはふざけながら椅子に上がって、黒板に輪飾りを貼り付けたりしていた気がする。大きな家族のような気がした。
     そのときか、当日の朝だったかは覚えていないが、図書室の女の先生に僕らのサプライズは見つかった気がする。
     「なにをしてるの?」
     「明日先生の誕生日だから」
    と誰かが言った。
     「そうなんだ。すごい、頑張って。でもあまり遅くまで残っちゃだめだよ。ところで、〇〇君はいるかな?」
    その生徒はいた気がする。
     「君は今日当番の日でしょう。早く来なさい」
    とその子を連れて出て行った。
     そして僕らは飾りつけを終えた。
     「クラッカー欲しいよね」
     「買える人は買って、明日持ってこよう」
     「はなまるが明日、十個貯まるように、皆宿題忘れちゃだめだよ」
    僕らはそう約束して家に帰った。僕は通学路が違うN達と一緒に、いつもより日が落ちた道を歩いて帰った気がする。僕はその夜、何かの用事で親の車に乗っていたので、百均に行きたいと伝えてクラッカーを買ってきた。一度盛大にぶっ放してみたい気持ちは昔からあった。僕は忘れずに宿題をやった。自由勉強に至っては、珍しく辞書でことわざを調べてまとめたり、分からなかった算数の問題を解いた。
     僕らはその当時、クラスのラインで話すというようなことは出来なかった。皆がどんな気持ちで当日を待っているのか分からなかった。当日僕は少し早めに登校したのだが、やっと来た、という目で見られた。女子達は全員いた気がする。昨日家が遠くて出来なかった飾り付けを朝早くから頑張っていた。昨日協力出来なかった子は朝、自分のメッセージを書いた。
     僕は自分の買ってきたクラッカーを出して、一人が買ってきてくれたものと足して誰が持つべきかを考えた。一袋に三本入っていて、確か六本のクラッカーを皆に分けなければいけない選択を僕は迫られた。買ってきてくれた一人の女の子には、当然やって欲しかった。そして僕もやってみたかった。覚えていない。僕は三本とも誰かに譲ってしまったのかも知れない。僕はクラス全員で言うと決めた「先生誕生日おめでとう」という言葉の指揮をとる役を持っていたのだから。それに、クラッカーを買ってきてくれたもう一人の女の子は、僕の好きな人で、彼女は三本とも僕に預けていた。
     「誰が持つか決めた?」
     「教室の前の席の子で三方向からやったら良いと思ったけど、それでもいい?」
     「それ、すごくいいね」
    彼女は後ろの席だった気がする。
     そして先生は教室に入ってきた。黒板消しを仕掛けるよりも、ずっとワクワクしていた。教室の後ろの入り口を通り越して前から入ってきたので、もしかしたら心構えを作る時間はあったかも知れないが、先生の驚きは、完全に初見だったと思う。図書室の先生は内緒にしていてくれたのだ。もし知りながら入ってきて、あれほど驚くのなら、ユーチューブでもやったらいい。少なくとも高評価は押してあげよう。そして僕らは先生と五年三組の皆で写真を撮ったのだが、それを撮ったのは図書室の先生だった。だから前日に知られたのではなくて、当日に居合わせたのではないかとも思えてきた。当日の朝に図書室の先生がいた理由は二つ考えられる。前日の準備を見てしまったので、カメラを持って、どういう風にお祝いしたのか見物に来た。あるいは、僕らの小学校には時々、ボランティアのおばちゃん達が朝の会に来て、教室ごとに読み聞かせをするという時間があったので、たまたま五年三組に来たら、お祝いの現場に居合わせたという理由だ。二つとも考えられる。あるいは二つとも偶然一緒に起こったのかも知れない。僕の記憶の中では、図書室の先生が普通は持ち歩かないような、黒い一眼レフカメラを持って、教室に入ってきた映像も浮かぶし、何かの絵本を持って教室に入ってきた映像も浮かぶ。
     とにかく僕らのサプライズは大成功だった。後日、図書室の先生がクラスに来て、誕生日の日に皆で撮った写真を、手作りの誕生日ケーキの格好をした紙の額縁に入れて持ってきてくれた。僕は連絡帳に先生からのお礼のメッセージを書いてもらった。「僕がリーダーになってやってくれた」と。しかし僕はそうは思わなかった。五年三組の一人に、
     「お前、本当は先生のこと好きじゃん」
    と言われたが、別に否定はしなかった。Nも否定しなかった気がする。
     僕らは時々、校長室に呼ばれた。怒鳴られたり、説教を受けるためではなかった。校長先生や女の教頭先生、担任の先生と普通に話していた。
     校長先生はこの年から校長になった気がする。前の校長先生は、小学校三年生のとき、担任の先生が職員室で僕の言い分を聞くと言っていると、校長先生が出てきて、
     「こんな奴の言い分なんか聞かなくていいんだ。おい、お前が一人前になったら聞いてやる」
    と凄い剣幕で怒られて、校長室の床に正座させられた気がする。そんな理由で僕は彼のことが大嫌いだった。だから校長先生が代わって嬉しかった。
     女の教頭先生はいつも目がうつろで、ミイラみたいだった。「すなわち」が口癖だった気がする。それ以外にはあまり覚えていない。校長先生は僕らに、
     「君達がやっていることは、天に唾をすることだ」
    と言った。何度も言われたが、あまりその意味を考えていなかった。
     「前、君に、天に唾すという言葉を教えたけれど、覚えている?覚えているなら、意味を言ってみなさい」
     「目上の人に唾を吐いてはいけないという意味です」
     「君は何も覚えていないんだね」
    後から意味を説明されて、二択で迷ったのに、と思いながら黙って聞いていた。
     Nと僕らは休み時間に、緑色の美しいタマムシを見つけた。キラキラしていて綺麗だった。小学校で見た虫の中で、一番レアだった。それを生物学が専門だという校長先生に見せると、非常に喜んでくれた。彼は持ってきた虫かごに入れると、校長室に持って行った。時々見に行っていたが、しばらくすると逃がした気がする。そういえば、サケの稚魚を近くの川に放流するプロジェクトを学校でやった気がする。その後どうなったのかは知らない。

    四
     僕は五年生のとき、初めて学校から賞状を貰った。それは図工の賞状だった。電動糸鋸で板を切って、ホワイトボードを作るという授業だった。自分も無能ではないのかなと少し思った。僕の部屋のクローゼットの中にその現物がまだ残されている。ホワイトボードの部分は、妹の仕業だろう、油性ペンで塗りつぶすように落書きがしてある。
     図工の教室で担任の先生は、五年三組の子達に呼ばれては、アドバイスをしたりしていた。僕は先生に近づいて、後ろから呼ぶと振り返ったので、
     「これ、中を刳り抜きたいんだけど、どうしたらいいの?」
    と、自分のホワイトボードの形を切り出して余った部分、あるいは誰かが出した端材を持って先生に見せた。僕はホワイトボードに自分の名前のローマ字を立体的に貼り付けたいと思っていた。しかしOのパーツがどうすれば出来るのか分からなかった。すると先生は嬉しそうに笑って、
     「こういう質問を待っていたんだよ。ちょっと待ってて」
    と言い、道具がしまってある部屋に行くと錐を持って戻ってきた。
     「これでOの真ん中に穴を空けて、そこに糸鋸を通す、それで中を刳り抜いてごらん」
    なるほどと思った。先生は僕に任せて少し見ていると、また違う子のアドバイスに行った。僕はそれをやり切った。文字の大きさはバラバラだが、学年中でこれをやったのは僕一人だった。
     五年三組の学級通信は「カラフル」という題名だった。これを先生が発表したのは五年三組が始まって二日目くらいだった気がする。僕らは五年三組の成員を見て、凄い集まりだなと思っていた。Nと初めて同じクラスになれたのが嬉しかった。そのとき久しぶりに話した気がする。よくもこんなに、それぞれのクラスで名前を挙げていた面白い人間を集められたなと思った。しかし、クラスで飛びぬけて悪いことをする子達ではなかった。一人でクラスを破壊するというよりは、なにか噂があると、例えば校長室に呼ばれたなど、そんなときには大概名前が上がる人達だった。Nと僕は一緒にしてはいけない、そう思われていた気がする。僕らはその「カラフル」の題名を色鉛筆などで装飾して提出し、順番がくるとそれが使われた。とは言っても白黒だったので、色鉛筆を使ってもよく分からないだけだった。
     五年三組の新聞が掲載される廊下には、小さな本棚があった。僕は本なんか好きでもなかった。夏休みの宿題で読書感想文を書くために一冊読む程度だった。その本棚には夏目漱石の「坊ちゃん」があった。何故か気になり手に取ってみたが、読まなかった。それ以外にどんな本があったのか覚えていない。僕がその年の読書感想文に選んだのは、野球についての本だった気がする。夏休みの勉強会で、まだ始まって一週間も経っていなかったが九割の宿題を終わりにしていた僕は、碌に読んでもいない本の読書感想文を書いていた。
     「ドリルは終わったの?」
    と担任の先生に訊かれた。
     「とっくに」
    答えを丸写ししたとはさすがに言わなかった。夏休みの宿題を最初に全部やり切ろうとするが、結局最後まで残っているという言葉が妙に癪に障っていた。自由研究の宿題は、五年三組の一人と海水から塩を抽出することにしていたが、結局海には行かなかったので、水道の水に塩を溶いて、適当に沸かし続けていた。
     学校で俳句や標語を応募することがあった。どんなものを作っていたのか覚えていない。碌に考えていなかった。ツービートではないが、「赤信号皆で渡れば恐くない」こんな標語を作っていた気がする。僕らが標語を提出した次の日に、
     「昨日提出された皆の交通標語を読んだけど、ひどかったよ。これ、賞とか、ちゃんと狙ってる?」
    といぶかしそうに、少し残念そうに言った。 
     「賞、もらえるんだ」
    と誰かの声が聞こえた。
     「もし書き直したい人がいたら一回返すから、今日中に先生に言って下さい」
    僕らは書き直す気なんてなかった。宿題は一つでも少ない方がよかった。先生と目が合ったが、知らん顔していた。そして笑って、
     「そんなもの興味ない。賞も要らない。意味もないだろ」
    と言った。五年三組全員で本気で賞を取りに行き、誰かが取れたら面白いなとは思っていた。
     僕らは学年で担任の先生の美術の授業を受けたことがあった。一組、二組、三組の中で特に運動が出来る生徒は学校の代表として、どこかの陸上競技場に行っているときだった。Nはマラソンが速かったが、長距離に関しては六年生と合わせての選抜だったので居残り組だった。僕は五年生の四人リレーの補欠だったが、一組の先生に「行かなくてもいい」と言われて残っていた。でも実際はお腹が痛い子がでて、僕の代わりに別の競技で行っていた子が走ったらしい。
     その日の午後の二時間は、一組と二組の先生は陸上競技場に行っていたので、大きな、昔は食堂だったという場所で美術の授業を受けた。席は自由だったので、Nと僕は隣に座った。それは絵の具の授業で、僕らはそのとき初めてパレットの使い方を知った。
     いつもはパレットの色を並べる場所に、欲しい色だけを出して伸ばしていたが、全部の色を出した。混色する場所に水を置いた。三段階に水を多くして、一番水が少ない方に、筆で色を取って載せた。慎重に少しずつ水を含ませると、パレットの上にグラデーションが出来ていた。僕は文字通り目からうろこだった。その何段階にも重なった緑色を使って、自分で描いた葉っぱの絵を塗ってみた。僕が今まで描いた絵の中で、一番上手かった気がする。その葉っぱは皆それぞれ色が違っていた。同じ葉っぱはなかった気がする。五時間目が休憩になり、Nと二人でトイレに行くと、
     「先生の授業で一番面白いな」
     「ほんとに」
    僕らは代表落ちして悔しかったが、選抜された五年三組の何人かが可哀そうに思った。

    五
     夏は臨海学校で新潟県に行った。学年の集会で一組の先生がプロジェクターを出して、臨海学校の色々な写真や動画をまとめたものを観た。バスで県境を越えるとき、それはトンネルの中だった。
     「ちゃんと見えた?」
    と言ってその部分を三回くらい再生していた気がする。臨海学校の海の中で、先生が笛を吹いて「バディー」と叫ぶと、僕らは二人一組で手を繋いで挙げた。その手を先生達が数えて、問題がなければまた遊びに戻った。僕のバディはNだった。その練習は体育館の中や、実際にプールを使ってやった。「バディー」と叫んで笛を吹いていたのは二組の先生だった気がする。Nは泳ぐのが得意だったが、僕は苦手だった。夏休みのプールのとき、算数担当の先生に、
     「ちゃんと泳げー、だからいつまで経っても泳げないんだぞー」
    と言われた。別に泳げないわけじゃなかった。クロールのやり方もよく分からなかったし、息が続かなかった。しかし臨海学校で泳ぐためには、プールにいなければならなかった。碌に泳げはしなかったが、派手な飛び込み合戦では皆を驚かせていた気がする。もちろんバレたら二組の先生に注意された。
     臨海学校は二泊三日だった。どんなバスの席順で行ったのか、さっぱり覚えていない。初日は旅先でも捨てられる容器のお弁当を持参した気がする。宿舎は五、六人で一つの部屋だった。Nもいた。到着したその日の午後に、宿舎の中で自分達の持ってきた浮き輪を膨らませて、ちゃんと機能することを確かめた。そしてそれを担ぎ、五年三組でかたまって海まで歩いた。僕らはブイとロープで囲まれた空間の中で皆それぞれ遊んでいた。少し沖に向かって歩くと足がつかなくなった。底は岩場で、僕らはマリンシューズを履いていた。ゴーグルをつけて海の中を覗くと、小さい魚が沢山いた。Nと僕はいつ「バディー」の号令がかかってもいいように、あまり離れるわけにはいかなかった。
     僕らは学校が貸し出している網を使って魚を捕まえることに熱中していた。魚を捕まえてビーチに戻ると、白く大きなテントの下に何人かの先生が座っていた。前にはテーブルがあり、理科の先生の近くには水槽があった。その水槽に魚を入れ、一番大きいのを捕まえる競争をしていた。近くに座っていた教頭先生の目はうつろだったが、いつもよりは楽しそうに見えた。
     僕は一匹も魚を捕まえられなかった気がする。次第にNと僕は離れて遊ぶようになった。一度「バディー」の号令がかかれば、しばらくは平気だった。その中で僕が一緒に遊んでいたのは、算数担当の先生だった。僕は浮き輪の中に入って、一番遠いブイに触ろうと少しずつ泳いでいた。すると算数の先生がいたので、目標を話して一緒に泳いだ。海岸線に目を走らせると、離れたところに防波堤があった。深さは五メートルくらいだった気がする。浮き輪から離れないようにしがみ付いていた。海の中を見る余裕はなかった。真下に向かって脚をバタつかせ、沖にいる感触を確かめた。先生も浮き輪を持っていたのか覚えていない。来てみたのはいいが、僕はビーチに泳ぎ帰る自信があまりなかった。先生の「そろそろ帰ってこい」という合図を聞いたあと、僕だけ岸に戻るのが遅くなってしまうのではないかと思った。皆が海を見つめて待っている中を一人、岸に向かって泳がなければならない気がした。
     一番沖にあるブイにつかまって、遊んでいる皆を見ながら算数の先生は言った。
     「君は皆と遊ばないの?」
     「魚は捕まえられそうにないから」
     「せっかく海にきたのに、疲れる必要はないよね」
    と微笑しながら言ってくれた。僕らはブイにつかまって岸を見ていた。時々何人か生徒がきて、
     「なにしてるの?」
    と訊かれた。
     「休憩してる」
    と笑いながら返し、少し話すとまた遊びに戻っていった。僕はそろそろ岸の近くにいた方がいいのではないかと心配していた。すると算数の先生が、
     「そろそろ戻った方がいいな。先生達がテントから出てきた」
    これを合図に僕はビーチに向かったが、泳ぐというよりもがいていた。先生にお願いすると、浮き輪の紐を引っ張って、皆が遊んでいる辺りまで連れて行ってくれた。
     宿舎に戻ると、洗い場でシャワーを浴びて部屋に入った。その日だったのかはよく覚えていないが、キャンプファイアーをやった。学校で踊りを練習した気がする。日は暮れていて、群青の空と周りを取り囲むように黒い木の影があった。しかし僕はキャンプファイアーに参加出来なかった。僕らの部屋のメンバーはどの部屋よりも早く外に出てきた。耳をすますと波の音が聞こえた。まだ僕らしかいない広場で鬼ごっこを始めて、沢山走り回り息が上がっていた。次第に皆が外に出てくると、鬼ごっこは止めた。そのとき保健室の女の先生に呼び止められて、僕の胸に耳を当てると喘息の症状を調べた。さっき鬼ごっこをしていたので、「ゼー、ゼー」という音は僕にも聞こえた。これは喘息の症状だと自覚はなかったが判断された。
     「さっきまで鬼ごっこをしていました」
    と、きまりが悪いのを覚悟で言ってみたが通らなかった。Nもそれを見ていたが仕方なかった。僕は一人で部屋に戻り、荷物の中に薬を探したが、なかった。持ってきた記憶もなかった。最近は全然平気だったので、喘息のことをあまり考えてはいなかった。保健室の先生は非常に心配して母親に電話をかけた。
     「薬をここまで持ってきていただけますか?」
    さすがにまずいと思った。暇つぶしでやった鬼ごっこの代償にしては大きすぎる。しかし僕がいくら大丈夫だと言っても、キャンプファイアーに何としても参加したい子供としか思われなかった気がする。先生の電話を代わって母親と話した。それで安静にということになり、僕は理科の先生の監視のもと二人で部屋にいた気がする。
     僕らの部屋の担当は算数の先生だった。夜になり部屋で自由に遊ぶ時間になると、先生が見回りに来たので呼び止めた。二段ベッドがいくつも並んだ部屋の真ん中に大きなテーブルがあった。僕らはその周りの椅子に座ったり、二段ベッドで横になったりしていた。僕は算数の先生に、
     「怖い話をして」
    と言った。僕らには話の持ち合わせがなかった。先生は話してくれた。
     「昔、ある海で漁師をしている夫婦がいました。その夫婦はひどく貧しい暮らしをしていました。しばらくするとその夫婦に子供が出来ました。彼らは喜んで、貧しいながらも彼を育てていきました。しかし夫婦は非常に貧しかったので、彼がいると自分達まで餓死してしまうと思いました。彼がいなければもっと楽な暮らしが出来ると思ったのです。夫婦は彼を船に乗せ海に出ました。そして彼の背中を押し、突き落としたのです。しばらくするとその夫婦は裕福になりました。子供も産まれました。昔の生活がうそのようになりました。子供が両親の仕事を手伝いたいと言いましたので、彼を船に乗せ三人で沖に出ました。彼はトイレに行きたいと言い、海に向かって用を足すように言いました。しかしお父さんは彼を大切にしていたので、もし海に落ちたりしては大変だと思い彼の後をついて行きました。すると急に彼の子供は振り返り、もう落とさないでねと言ったそうです」
    Nや僕らはその話を聴いて本当に怖いと思った。
     「面白い話は出来る?」
    と僕らが言うと話してくれた。
     「あるとき金田君がいました。金田は相撲に負けました。金田はいつも負けていました。金田負ける。金田負けが多い。悔しくて金田は家の周りを何周も周りました。金田周る。金田周る」
    僕達は大爆笑だった。消灯の時間がくると自分のベッドですぐに寝てしまった。
     翌日海に行く時間になると、曇り空だった。もしかしたら海では遊べないかもと言われていたが、一応水着に着替えて外に出てみると、曇り空から太陽の光が差してきた。僕は海に入ることに飽きてきたのでビーチで砂山を作っていると、算数の先生が近寄ってきて、
     「砂に埋まってみたい?」
    と言った。僕は面白そうだと思った。先生が僕を埋め始めると、近くにいた五年三組の女子や男子達も僕を埋めた。顔だけ出していたが、手足を動かそうとしても出来ないほど深く埋まっていた。魚を捕まえに行っていたNも帰ってきて、
     「なにしてるのかなって、見に来た」
    と言い僕を埋めるのを手伝っていた。そして完成するとまた違う友達に呼ばれて海に行った。
     僕らはスイカ割りをした。目隠しをして、部屋のメンバーの声に従い棒を振り下ろしたが僕はよく当たらなかった。それを指示した皆のせいにした。しかし、
     「位置はよかったけど、少し斜めで振り下ろしてたよ」
    と誰かに言われ、そういうことかと思った。僕は真剣だったのに、変な場所に指示したのだと疑ってしまった。僕は野球のくせがついていて、やり過ぎな王貞治みたいになっていたのかも知れない。
     最終日は海に入った。Nとはもう殆ど一緒にいなかった気がする。彼は魚を捕まえるのに真剣だった。僕は最後にもう一度、一番遠くにあるブイまで行きたいと思った。ちょうどそこには皆を監視している算数の先生がいた。浮き輪の中に入り、少しは上手くなった平泳ぎで皆の間を縫って進んだ。そして行き着くと別の方を見ていた先生に話しかけた。
     「監視してるの?」
     「そうだよ」
    と言って、僕も監視員になったつもりで先生の横にいた。
     「ここって結構深いのかな?」
     「そうでもないと思うよ。俺さ、一回水深三十メートルくらいの海に浮かんだことがある。親父に泳ぎの練習とか言われて」
    と笑いながら言った。
     「浮き輪はあったでしょ?」
     「なかった。でもすぐ浮き輪を投げてくれたよ」
    僕はこれ以上深い海の真ん中で船から降りる先生を想像していた。僕は浮き輪がない状態で浮かんでいる自信がなかった。
     最終日は水族館に行った気がする。よく覚えていないがそのとき撮った写真を見て、妖怪がいると言った。担任の先生を指差していた気がする。

    六
     五年三組では、赤青鉛筆の販売があった。普通の鉛筆も売っていた気がする。担任の先生のお店だった。しかし僕らは代金をつけにしていつまでも支払わなかった気がする。連絡帳に催促のメッセージを書かれた。先生が泣き寝入りするようなことはなかった。最後には親に電話をして、しっかりとその代金は支払わせていた気がする。
     「赤鉛筆を忘れた子は、先生が一本ずつ売ってあげるから言って下さい。代金は後日持ってきてくれればいいから」
    僕らは本当に不精な子を除いて、ちゃんと次の日には支払っていた気もする。よく覚えていないが、担任の先生から学校で何かを買うのは初めてだった。六年生になっても売買はしなかった。
     「学校にお金を持ってきてもいいんですか?」
    と誰かが訊いた。僕も同じことを思った気がする。
     「いいですよ。五年三組の中だけね。他の場所で見せびらかしたりしてはいけません」
    僕は後で先生が原価で売っていた鉛筆を見せてもらった。僕が使っているものより、いい気がした。デザインはシンプルで端の方に動物が描いてあった。なんの生き物だったかは覚えていない。僕は先生の目の前でその鉛筆を折るふりをした。先生の目を見ると、
     「本当にやる気?」
    と言われた。僕は苦笑いしながら首を傾げて、先生のデスクに鉛筆を戻した。すると先生は嬉しそうに頷いていた。実際に折った子もいたかも知れない。しかし五年三組で赤鉛筆がなければ、普通の鉛筆で解いた問題に同じ鉛筆で丸をつけたり、その授業を遊びの時間にすればよかった。
     先生はピタゴラスイッチが好きだった気がする。僕らは何かの待ち時間に、先生が持ってきたピタゴラスイッチのDVDを見ていたことがあった。どの学年でもこれはなかった気がする。楽しく見ていて、待ち時間が終わりに近づき先生がリモコンを持つと、
     「これが終わるまで待って」
    と言い、テレビを消さないように頼んだ。すると先生も上向きに首をひねり、それを見ていた。別に他のクラスに自慢することはなかった。また、それを言ったら先生が怒られるのではないかと密かに思っていた気がする。
     五年三組では毎日のように給食を完食していた。全ての料理を完食すると、給食センターからクラスに完食賞が届いた。皆で無理にでも食べていた。一人で五杯も食べなくても、四人で二杯ずつ食べればよかった。一見沢山あるような気がしても、皆で分ければ大したことはなかった。ある日どうしても完食賞が取れない気がした。しかし何人かが、 
     「俺らが食べるから大丈夫」
    と言って頼もしかった。僕も沢山食べた。皆で励まし合って完食賞を取るのが楽しみだった。
     僕はある時期、保健委員だった。保健室の引き戸の上の壁には、咳とくしゃみの飛沫の距離を示した紙が実寸大で貼られていた気がする。僕ら保健委員の仕事は昼休みに気温を計り、それを休み時間で何かの音楽を流したりしている放送室に乗り込んで、マニュアルの中の気温だけを変えて全校生徒へ向けて読み、熱中症の注意を促すことだった。放送委員は六年生に限られていた気がする。
     僕は五年三組の相方と一緒に気温を計り放送室に行った。そのとき初めて学校での放送をすることになった。僕らは毎日ふざけていたので、放送中にマイクをつけたまま爆笑してしまった。すぐに切ってもう一度やり直したが笑いをこらえるのに必死だった。相方が僕を笑わせたわけではなかった。ただ面白くて笑ってしまった。隣にいた六年生がどんな顔をしていたのか覚えていない。僕らは逃げるように放送室を出て、マニュアルを返しに保健室に行った。そのときに会った先生や保健室の先生にお前らやりやがったなという目で見られたが特に怒られることはなかった。
     全校集会で保健委員が前に出て、なにかを話す準備がされていた。僕はそれを知らなかった。その準備は休み時間に行われていたらしいが、僕はなにも考えずに遊んでいた。保健室の先生は僕を見つけたときに何度も手招きしたらしいが、そんな記憶はなかった。そして当日になって保健室の先生に、
     「健康でいるためにすることを、保健委員が一つずつマイクで言うフレーズの中で、誰もやりたがらなかったから、遊んでいて打ち合わせに参加しなかった君は余りものだよ。よく教室で変なことを叫んでるんだから平気だよね」
    と言われた。僕が全校生徒の前で話さなければいけない言葉は「ウンチをすること」というものだった。僕は打ち合わせをしていることすら知らなかったのに、外れ役を押し付けられたと思った。僕にこれをやらせるために、あまり強くは呼ばなかったのだろうと思った。しかしあと一時間経てば、僕はやらなければいけない。僕は困って、新校舎と旧校舎を繋ぐ廊下にあった机を蹴り飛ばした。上には黒板消しのクリーナーが載っていた気がする。あるいは本棚だったかも知れない。僕は五年三組に帰って、相方の保健委員に相談したが、なんて言われたのか覚えていない。Nは教室にいなかった。自分の机を蹴り、前に座っていた女の子の椅子にぶつかった。彼女は振り返り、怯えて席を立った。それで僕は泣き出した。五年三組で初めて泣いた気がする。どうしていいのか分からずに椅子を廊下に投げた。すると一組の先生が飛んできた。僕が暴れていると言って誰かが呼んできたらしい。僕の腕を優しく掴むと、
     「どうしたんだよ。君らしくないじゃないか。話を聴かせてほしい」
     「ここじゃ嫌です」
     「分かったよ。皆は予定通りに行動しなさい」
    と言って二人で、授業で使う備品がしまってある小さな部屋に入った。
     「この紙なら破いてもいいよ。この机も脚が折れてるし、どうせ使わないからいいんだけどね。少しは落ち着いた?」
    僕は頷いた。僕は一組の先生に理由を説明していると、保健室の先生のことを思い出して腹が立っていた。僕は言った。
     「そんなフレーズを作った保健室の先生は最低だ」
     「確かに外れ役だね。誰もやりたがらないだろう」
     「あのばばあは消えてしまえばいい」
    僕は言い過ぎたと思った。しかし、
     「誰にも言わないから平気だよ」
    と言われたので、「バカ」、「デブ」などと言って散々罵倒した。しかし保健室の先生を嫌っていたわけじゃなかった。喘息で何度も保健室に行っていたから。ただ今回のことは許せなかった。そして全校集会が始まる時間になり、いつの間にか終わっていた。自分自身によく粘ったと言っていたかも知れない。涙はとうに出なくなっていた。五年三組に戻ると皆がいた。Nから、
     「何してたの?」
    と訊かれたが笑って誤魔化した。これについて担任の先生から何か言われたことはついになかった。誰が僕の代わりに言ったのか分からない。フレーズごとなくなっていればいいなと思っていた。数日後保健室の先生に会うと、
     「私のことをバカだとか色々言ったらしいね。このことは忘れないからな」
    と言い、見たことのない顔で僕をにらみつけると、
     「このクソガキが」
    と呟いてどこかに行ってしまった。僕は一組の先生を責めはしなかった気がする。
     五年三組の休み時間は、教室にあった先生のラジオカセットで家から持ってきたCDを聴いていた。音量もそこそこ大きかったので、五年三組にスポーツチームの後輩がいると、六年生も覗きに来たことがあった。
     「CDを持ってくれば勝手に流してもいいの?」
     「いいんだよ」
     「アイドルでもいいの?」
     「それはダメかも」
    と誰かの先輩に僕は言った。僕らはゆずやファンキーモンキーベイビーズをよく聴いていた。もしかしたらその影響で、五年三組の先生は組み立て体操の音楽をゆずにしたのかも知れない。僕が学校に持っていったCDはファンキーモンキーベイビーズだった。「あとひとつ」は入っていなかったので、「ちっぽけな勇気」を皆で聴いていた。そのCDはどこかに行ってしまった。
     帰りの会で僕らはそのCDの曲を毎回一曲歌っていた気がする。帰りの会を楽しくする会みたいなものがあって、何人かでめちゃくちゃに踊っていた。ある日五年三組の女の子が持ってきたゴールデンボンバーの「女々しくて」を皆で歌うのが流行っていた。先生も一緒に歌っていた。その女の子か誰かが覚えてきた振付けを真似して、皆で右手を挙げてジャンプしたり、両手を挙げて左右に振ってジャンプしていた。サビに近づくと、
     「くるぞ、くるぞ」
    と言い合っていた。エアーギターの真似をしている子もいた気がする。
     五年三組の帰りの会で、黒板の前に出ている日直が告げる最後の言葉は、「さようなら」ではなかった。誰が最初に言い出したのか覚えていないが、
     「明日も元気に学校に来てくれるかな?」
     「いいともー」
    と僕らは元気に答えて、それぞれ教室を飛び出していった。

    七
     季節は秋になり、僕ら五年三組はマラソン大会に挑戦した。僕らのクラスには、一年から四年まで一位のNがいたから、盛り上がりも大きかった。僕は碌にマラソン大会の練習をしたことはなかった。休み時間に皆が外で走っていても、教室で折り紙をしていたり、図書室に行ってわけの分からない絵をみていた。それにはそれの友達がいた。しかし五年三組での僕は、マラソン大会に乗り気だった。僕はNに、
     「どうしたらマラソンが速くなるの?」
    と訊いた。すると、
     「呼吸を変えるだけでだいぶ楽になるよ」
    と教えてもらった。僕はマラソンについてなにも知らなかった。「吐いて、吐いて、吸って」という呼吸を実践しながら走ってみると、リズムよく走れて驚くほど楽だった。いつもの僕は最初の校庭一周や外周に出るとすぐに息が上がってしまった。しかしそれでも二十位くらいにはなっていた気がする。
     Nのマラソン大会の練習は僕には非常なものに思えた。今まで一度も見たことがなかった。彼は休み時間になると校庭に飛び出し何周か走ると、外周に出た。僕ら高学年の生徒は校庭の外周を走ってもよかった。曲がり角ごとに誰か先生がいた。これは本番でも使われるコースだった。ある一つの辺に至ると、少しの上り坂があった。大した坂ではないのだが、僕はいつもここでNに置いて行かれた。彼は呼吸の練習くらいに走っているようだったが。そして僕らは汗だくで教室に戻り、授業は寝るかエアコンで涼んでいた。そして昼休みになりまた走った。僕も日に日にNと一緒に走れる距離が長くなっていった。呼吸方法を覚えた僕はマラソンが楽しかった。そして帰りの会が終わり、
     「一緒に帰ろう」
    と言うと、
     「今日はお父さんが早く帰ってくるから、一緒に走るんだ。ごめん」
    と言って走って帰った。もちろん僕は歩いて帰った。Nのお父さんは体育の先生で、僕も一緒にバッティング対決をしたことがあった。校庭で野球をして禁止になったとき、僕のバッティングをみていたNはぜひ挑戦してほしいと言った。彼のお父さんもかかってこいということでやったのだが、全く容赦がなかった。速すぎてバットに当てるのが精いっぱいだった。何度も投げてもらったが前には飛ばなかった気がする。そんなNがお父さんと一緒に近所を走り回っているとき、僕はとてもついて行けそうにはなかったので、僕も一緒にとは言わなかった。僕が学校以外の時間でマラソン大会の練習をしたことはなかった気がする。
     しばらくすると僕は練習をサボるようになった。マラソンにあまり熱を入れていない五年三組のメンバーと教室で遊んでいた。廊下の窓から下を見ると、大勢の人が走っていた。僕はNが何回も下を通るのを見ていた。僕は暇になったので、廊下のロッカーの上がちょうど窓枠になった場所に座って、三階の窓から脚を外に出していた。すると下のコーナーを見張っていた校長先生に見つかって、
     「やめなさい」
    という声と共に後ろに下がれと手で合図をされた。そのあと特に怒られはしなかった。そしてまたマラソンの練習でとにかく走るようにした。もうNとは走っていなかった気がする。
     Tもマラソンが速かった。四年間女子で一位だった気がする。保育園からの仲だが、僕らはずっと友達だった。僕は彼女の母親に好かれていた。運動会などで出会うと、僕の名前を呼んで手を振ってくれた。手を振り返して近くに行くと、
     「お婿さんになってくれるんでしょ?」
    とTの好みはお構いなしに冗談を言われていた。何かあると、僕を凄く褒めてくれた。
     マラソン大会の試走で僕が何位だったのかは覚えていない。十位くらいだった気がする。スタート位置が決まるのでなるべく前の方がよかったが、一番前ではなかった。NやTが何位だったかも覚えていない。運動会ほど観衆はいなかった。他の学年は普通に授業をしていた気がする。本番の時間になると、僕は初めてマラソン大会で緊張していた。観衆がいるということはどうでもよかった。ただ、何度も準備体操をして脚を軽く動かしたり、ジャンプしてみたり、鼻で息が出来るか確認していた。そしてスタートの音が鳴ると僕らは走り始めた。僕は練習のときに、
     「スタートが鳴ったら早めのペースで走ってるの?」
    とNに訊いていた。
     「結構速く走るよね」
    とTが答えた気がする。Nは頷いていた。
     「後半まで持たないかもとかは考えないの?」
     「考えないよ。後ろから押されたり、凄い距離をあけられる方がよくない。最初の校庭一周は徒競走ではないけど、速く走るよ。校外に出ると人が少なくなる」
    とNに言われた。だから僕は教えてもらった呼吸法は、校外に出てから使うことにしていた。校外に出ると僕らはまず道に沿って直線を走った。そして折り返し、いつも練習していたルートを二周しなければならない。校外の一周目を走っていると、誰かが僕の名前を呼んだ。母親かNの両親だった気がする。
     「今、十三位」
    僕はそれを聞いて少しスピードを上げた。前の人数を教えてもらえるのは嬉しかった。肺の痛みはそれほど感じなかった。初めてマラソン大会で、地面を踏む足の感覚がなくなったような気がしていた。リズムよく人を抜かしているうちに、前には人がいなくなっていた。遠くに一人見えていた気もする。いつもNに置いて行かれた上り坂は相変わらずだったが、それでも速度を緩めはしなかった。二周目を終えて校庭に入ると、僕は自分が四位だということを知った。しかしゴールする少し前で、後ろからTが迫ってきた。僕は余力がなかった。いつも十四位になろうが、十五位になろうが、正直どちらでもよかったので、ゴール際での少しでも順位を上げようとする、徒競走のような走りなど僕は持っていなかった。彼女の経験に負けた気がする。ゴールすると、僕らはそのまま歩いて校庭を半周した。そして校舎に向かって彼女の後ろに並ぶと、笑顔でこちらを振り向かれたとき悔しいと思った。しかし僕が五位にいることがそれ以上に嬉しかった。僕は彼女に笑い返し、一位、二位、三位が並ぶ前方に目を向けた。一番前に座っていたのは、Nではなかった。
     Kも保育園が同じだった。四年生くらいのときにバスケットボールを始めた男子で、髪型はいつも坊主だった。僕はわりと長く彼と遊んでいたが、彼は運動が得意だとは思っていなかった。四年間のマラソンも僕よりも後ろだった気がする。Tの後ろに座って思い出してみると、僕が苦手だった上り坂で一人だけNに置いていかれずに走っている子がいた。それがKだった気がする。
     ある日の五年三組で僕らは担任の先生をからかっていた。先生が言うことに、五年三組皆の視点から反論をしていた。
     「じゃあ君達は先生がいなくてもいいと思うんだね?」
     「そんなことは言ってない」
    と誰かが言った。
     「なら、先生の授業は聞かなくてもいいの?」
     「つまんないから」
    と誰かが言うと、
     「つまらなくても先生の言うことを聞くのが学校です」
     「学校は勉強する場所でしょう」
    と僕らは渾身の一撃をいれたつもりだった。しかし、
     「勉強だけが学校ではありません」
     「じゃあ何を教えてもらうの?」
     「社会生活や人との付き合いなどです」
     「それは先生がいなければいけない理由にはならない」
    先生は黙ってしまった。僕らは冗談で、授業を討論の時間にし、それで遊ぼうという魂胆だった。すると先生が、
     「そうですね。私ではなくてもいいかも知れません。しかし今君達は、先生の生徒です」
    と言われて、僕らは少し黙った。そこへKが言った。
     「あー言えばこー言う」
    僕は笑ってしまった。先生の反論は少し呆れていた気がする。
     「それは君達のことでしょう」
     マラソン大会が終わって何日か経ったあと、Nは僕に、
     「Kは俺の後ろをずっとついてきた。どんなにペースを上げても、ダメだった。いっそのこと前を走ってくれればいいのにと思ったけど、そのたびにKもスピードを落とした。Kもペースが速すぎると思ったんだろうね」
    と少し笑いながら言うと、続けて、
     「Kと並んで走っていたら、いつの間にか自分のペースが分からなくなっていたよ。そんなペースで走って最後まで持つのかって、Kの戦意を挫くために平気なふりをしていた。諦めてくれれば楽だったんだけどね」
    と悔しそうに教えてくれた。
     僕はマラソン大会をNとKがどんな風に走っていたのか確かなことは分からない。しかしゴール際に撮られた映像をNの家で観た気がする。二人は学年中の親や、知らない大勢の家族達が拍手や、自分の知っている子供のために叫ぶ校庭に走り込んできた。Nがトップだった。Nの両親がNを応援する声が入っていた気がする。Nはゴールに向かって、スピードを上げて走り出した。ゴールまでは五十メートル。残り三十メートルでKはNに並び、トップを奪った。落ち着いて、あごを引き、リズムよく走って先頭に出たKに比べて、Nはがむしゃらに一位を求めて走っていた。そして勝負はついた。あのときNは泣いていた気がする。
     マラソン大会が終わって一、二か月後にKは僕に言った。
     「実をいうとマラソンの健康証明書を忘れちゃったんだ。でも午前中には届いたからよかった。本当にギリギリだったらあんなに走れなかったと思う」
    これはNも聴いていた気がする。Kには母親しかいなかった。保育園のときから知っていたはずだが、あまり会ったことはなかった。
     「お母さん、凄く忙しいんでしょ?」
    と僕は言った。
     「そうだよ。でも大丈夫だった。正直無理だと思ってたけどね」
    僕は母親から証明書を受け取るKを想像していた。Nは黙っていた。
     「でも学校が終わったあと、マラソンの練習をするときに自転車で一緒に走ってくれた」
     「ボクサーみたいだね」
    と僕は笑って言った。
     「でもNがいなければあんなに速くは走れなかった」
     「俺もそうだよ」
    とNは言った。Kは母親に、最後までNにくらいついて走ると約束していたらしい。
     何日かすると、僕らは全校集会で表彰された。体育館に並んで適当に座りながら、一年生から順番に誰かが読み上げる名前を聞いていた気がする。呼ばれた名前の人はその場所で立ち上がった。校長先生から賞状を受け取るのは一位の人だけだった。五年三組は一位から八位までの入賞枠を独占していた。僕らは知らぬ間に、NとKに感化されて、クラスごとマラソンが速くなってしまった。NとKは一緒に並んでいなかった。ステージ近くの、一年から六年までの一位が並んでいる場所にいた。五年生の番になり、二組の先生が読み上げた。違う学年の生徒の、
     「また同じクラス」
     「全部五年三組じゃん」
    という声が聞こえた。体育館はざわついていた。Tのあとに僕も立ち上がった。百人くらいの五年生の列で、五年三組の中からしか誰も立ち上がらないのは異様だった。二組の先生もそれを煽るように名前を読んでいた気がする。他の四人が誰だったかははっきり覚えていない。NとKが校長先生の前に出た。学校の新記録樹立者も一緒に表彰していた。NとKは二人で新記録を作った。それは相当高い壁を学校に残したものだった気がする。
     マラソン大会が終わり、観衆がそろそろ帰り始めたころ、NとKと僕ら数人は、校庭の校舎側の一段高くなった、花壇などがある場所に座っていた。近くには低学年用の鉄棒があった。僕は段の上に座ったり、走り幅跳びの砂に寝転んでみたりしていた。鉄棒の上に座っている子もいた気がする。NとKは普通に話し合っていたが、空気は少し重たかった。僕は彼らに言うこともないのでふらふらしていた。夕暮れが始まりそうな、少し曇ったマラソン日和だった。僕らの話が尽きてそろそろクラスに戻ろうとなったとき、Nの父親が近づいてきた。
     「初入賞?」
    と僕に言った。僕は頷いた。
     「喘息なのに凄いよ。おめでとう。喘息のない君とNの勝負も見てみたかったな」
    と言って、NとKがいる方に歩いていった。Nに向かって、
     「そろそろ帰るから」
    と言い、
     「よく頑張った」
    と言ってNの頭に手をおき、少し乱暴にみえるほど揺さぶった。そして手を離すと、Kの方を向いた。
     「おめでとう。来年リベンジさせてくれ」
    と言ってKに握手を求めた。Kは照れくさそうに笑いながら何度か頷き、彼の手を握った。少しの間だったが、硬い握手だった。そしてまたNに向きなおると、
     「真っ直ぐ帰ってこいよ」
    と言い、Nは頷いた。僕は彼が歩いて行く方よりもNを見ていた。僕らは頷き合って五年三組へ帰りの会をするために戻った。先生もそろそろ待っている時間だった。
     しかしリベンジが果たされることはなかった。Kは五年三組が終わるその年に、隣町の学校に転校した。担任の先生がそのことをクラスに告げたとき、僕は非常に驚いた。何人か知っていた子もいた気がする。それはKと特別仲が良かった人達だった。Nも知っていたかも知れない。それほど驚いてはいなかった気がする。誰かが転校するという経験は初めてだった。僕はKとNの父親の約束を思い出していた。
     Kの転校を聞いてから、五年三組は少しずつ変わっていった気がする。人や先生にめったなことを言わなくなった。Kがいつも、「はね」や「はらい」に気を付けて一文字一文字漢字を書いていると、それがとても大切なことのように思っていた。机の上に上履きのまま上がったり、授業中に手紙を回すことは悪いことという風紀が少しずつ浸透していった。しかし僕はそんなものはお構いなしだった。Kが僕に転校の話をしてくれなかったのはそれが原因かも知れない。僕はKに、
     「本当に転校するんだね。なんで決まったときに教えてくれなかったの?」
    と訊いていた。しかし彼の答えは、
     「そういうことを訊いてくるからだよ」
    と言われた気がする。僕はなるべくKとの時間を大切にするようになった。すればするほど僕らしくなくなっていった気がする。彼が漢字を書くときも、僕はじれったくなって早く書けよ、と思ったこともあった。KやNやTが少しずつ遠くなっていった。担任の先生もしっかりしている子を褒めるようになっていった。五年三組は六年生や大人への意識が始まっていた。六年生になったら運動会で赤城、榛名、妙義、浅間の色ごとに大きな旗を持ち、一番前で入場することが出来る。マーチングをして、卒業式では「旅立ちの日に」を歌うことが出来る。そんなことを考えていた気がする。
     五年三組最後の授業はKとのお別れ会だった。宝探しや何でもバスケットをやったのだが、あまり覚えていない。百均で買ってきたものでプレゼント交換もした気がする。自分が何を買っていったのか覚えていない。しかし僕がもらった誰かのプレゼントは赤い腕時計だった。僕の部屋にクリアファイルに入った白黒の「カラフル」が一枚だけ残されていた。裏側にまで文字が書いてあり、何枚かの写真が載っている。日付は三月二十六日。最後の授業、ありがとう、五年三組と書いてある。二十九人しかいない。白黒で顔はよく見えないが二人だけ右手を挙げているのはNと僕だ。Nと僕に挟まれてKがいる。僕の前にはTがいた。五年三組最後の学級委員はNとTだったらしい。司会進行をしたと書いてある。
     僕らは皆で「旅立ちの日に」を歌った。何を歌うのかは学級委員か、投票で決めた気がする。僕はKに、
     「本当は、遠く、遠くってやつがよかったんだけどね」
    と言った。Kは槇原敬之が好きだった。彼は、
     「それもよかったね」
    と言って笑った。カラフルで僕のことは一言も書かれていない。写真にも全体で撮ったものにしか載っていない気がする。もう一枚フルカラーの学級通信があった。これは六年生のときの最後のものだ。ご卒業おめでとうございますと書いてある。裏は白紙で、「ハードル」や「逞しく」が何度も書いてある。写真はステージのひな壇に六年生が並んでいるもの、理科や算数、音楽の先生、五年生から送られた、卒業式のときに身に着けるコサージュを学級委員が受け取っているところ、卒業CDアルバムのジャケットだった。これはパソコンの授業で作ったもので、どこにあるのか分からない。

    八
     僕は六年生になり二組に入った。Nは一組で女の先生、Tは三組で五年生のとき一組の担任をした先生だった。僕は初めて六年生の教室に入り、自分の席に座った。そのときは誰が担任の先生なのか分からずにクラスはガヤガヤしていた。しかし僕は床にコンセントカバーが貼ってあり、それが黒板に向かっていることを見つけた。プロジェクターを使って授業をする先生は一人しかいなかった。僕の兄が六年生のときの担任だった。僕は兄から聞いてあまりいい印象を持っていなかった。きっと違うだろうと思い、教室の誰かに僕の推理を話さなかった。しかし体育館で発表があると、僕の推測は的中した。彼は眼鏡をかけた男の先生で、痩せていた。そして何か悪いことをすると、印刷した原稿用紙に反省文を書かせる先生だった。
     僕は五年三組の先生が、誕生日を祝ったときにお礼のメッセージを書いてくれた連絡帳を六年生でも使っていた。五年三組では自分で適当に苗字を書いて丸で囲めば親が読んだ印になったが、六年生では筆跡で跳ね返されてしまった。親のハンコはなかったので、僕は巧妙に親の筆跡を真似して書いた。新しい連絡帳にするのが嫌で、そろそろ持たないと思うと、一行でその日の宿題や連絡を書いて担任の先生に見せるようになった。それが見づらいと、書き直しだったので鉛筆をよく削っていた。書き方は自由だったので何も言われなかったが、それで宿題を忘れたりすると、
     「反省文二枚」
    と言われた。黒板横にある引き出しから二枚取り出して書き終わると、先生の前で読んだ。どんなことを書いていたのかは覚えていない。何度も同じことを読むと、もう一度書き直しになった。しかし僕が一行で書くことを止めたりはしなかった。
     五年三組のように自主勉強をすると受け付けてはくれなかった。しかし僕は先生と割合上手くいっているときなどに、漢字練習で一ページまるごと画数が少ない「干」などを書いて提出したがダメだった。上手くいっていないときにそんなことをすると反省文だった。
     六年生になって初めて歴史の授業を本格的にやった気がする。僕の後ろの席に歴史が得意だと言っている生徒がいた。しかし僕は、その横にいる生徒が私立の学校に行くと知っていたので、
     「何か問題出してあげて」
    と言った。彼は嘲るように、
     「四大文明はなに?」
    と訊いた。僕も答えは分からなかった。彼が素直に、
     「習っていないから分からないよ」
    と言うのを聞き、一緒になってバカにしていた。しかしすぐに嫌な気持ちになり、
     「大丈夫、俺も分からないから」
    と言った。
     算数の授業は五年生のときの先生ではなかった。全く知らない先生だった。僕は算数が出来ないわけではなかったが、担任の先生の方にずっといた。
     「先生のところで普通に授業を受けられないような奴は、テストの点数はよくても、他の先生にはお願いは出来ない。次、そんなことを言ったら、反省文」
    それを聞いて僕は言わないように意識していたが、しばらくすると流れの中で、ずっと教室組だった生徒が言ってしまい、反省文を三枚くらい書かされていた気がする。
     僕らはチャレンジスクールで山に行ってハイキングをしたりした。何泊かした気がするが、どんなものだったのかあまり覚えていない。ずっと、怒られないようにこそこそ悪いことをしていた気がする。しかし担任の先生から好かれている生徒が一緒に参加していれば、そこまで怒られなかった。
     夜になると僕らは、チャレンジスクールの体育館に集まって運動会の大きな旗を誰が持つのかを決めた。四つの山のメンバーごとで隅に集まり、話し合いをした。僕は浅間で緑だった。話し合いで決まらなければ、投票だった。僕はそれをやりたいと思った。Nの両親や僕の母親から、やって欲しいと言われていた気がする。しかし算数の授業で、特進クラスに行きたいと言ってしまい反省文を書いた子が、
     「いや、俺がやるよ。君のことは嫌いじゃないんだけど、これだけは譲れないよ」
    と言った。僕は自分が緑色の大きな旗を持って歩くのを想像していた。
     「えー、俺もやりたいな」
     「いや、マジで、親にやるって約束してきちゃったし。二人で立候補するの?」
    僕は彼と競うのは嫌だった。しかし皆に自分を認めてほしいと思った。それに僕はリーダーシップがあると思っていた。五年三組のようにいくと思っていたが、よく考えてみるとこんな投票に自分を出すのは初めてだった。
     「皆に決めてもらおう」
    と僕は言った。もしかしたら、と思った。凄く緊張していた。よく見たら浅間のチームに、僕に投票してくれそうな人、確実にしてくれるだろうと思える人は一人もいなかった。しかし、彼はすぐに先生を呼んだ。皆で目を閉じて下を向き、呼ばれた名前に投票した。僕は選ばれなかった。このときから立候補するのが怖くなった。きっと誰一人、僕に手を挙げなかった気がしていた。NやTもきっと立候補するのだろうと思っていたが、その二人は同じチームだった。投票までいったのかは分からない。結果はTが赤城の旗を持ち、先頭を歩くことになった。
     僕らはマーチングの練習を始めた。楽器の配置分けで音楽の女の先生から、透明なマウスピースを買った。希望者だけだったのかは覚えていない。マウスピースを使う楽器、あるいは打楽器、それ以外はピアニカだった。あとは指揮者とフラッグだったが、これらは女子限定だった気がする。
     打楽器の練習は、自分の家から電話帳やジャンプのような厚い本、メトロノームがあれば持ってきてもいいと言われた。この練習はクラスごとではなかったので、僕はNと一緒に練習しようと思い彼と約束をした。
     「俺は家にメトロノームがあるから持ってくるね」
    とNは言った。彼は一番大きい打楽器をやりたがっていた。
     「分かった。じゃあ俺は厚い本を二冊持ってくるね」
     「いいね。俺の家にはジャンプとかはないから助かるよ」
     「兄が読んでるから、多分あると思う」
    しかし僕はその約束を守れなかった。透明なマウスピースで唇に違和感が残るほど練習していた。学校からの帰り道もやっていた気がする。それに自分のクラスでの説教や宿題などでそれどころではなかった。
     「あれ、持ってこなかったの?」
    とNは言って、布のバッグからメトロノームを出した。
     「ごめん。忘れちゃった。明日持ってくるよ」
     「いや、いいよ。あいつに貸してもらうから」
    と僕を責めるでもなく笑っていってしまった。それ以降僕は一人で練習した。
     しばらくすると金管楽器のテストになった。音楽室で皆の前に出て校歌をマウスピースだけで演奏した。僕のクラスの志願者では、僕が一番上手かった気がする。音楽の先生も優しく笑って頷いた。そして僕はトランペットをやることになった。Nは打楽器を演奏してはいなかった気がする。約束を守ってあげればよかったと思った。Tは三人の指揮者のうちの一人になった。
     マーチングのために真っ白な靴が必要だった。僕は嫌だったが、ちょうど兄が使っていたものがあったのでそれを履いて外での全体練習をしていた。いつまで経っても買ってこなければ、反省文だった。運動会の入場は六年生の体育委員長が、校章の付いた大きな旗を持ち一番前で歩いた。そのとき僕は体育委員だったので、それをやりたいと思った。算数の特進クラスの教室に体育委員が集まり、立候補してみた。僕を含めた三人くらいが、黒板の前に出て後ろを向き黒板を見ていた。投票者も机にうつ伏せになり手を挙げて投票した。しかしダメだった。結果はサッカー部の子がやった気がする。よく見てみれば、サッカー部の後輩だらけだった。全く話したこともない男女達だった。しかし野球部の後輩もいたので、彼は一票入れてくれただろうなと思っていたが、やっぱり誰もいない気がしていた。
     どんな運動会だったのかよく覚えていない。しかし徒競走はNと対戦した。結果は覚えていない。運動会が終わり、浅間チームの陣地で外に出された椅子に座っていた。僕は緑色のハチマキをくるくる巻いていた。隣には投票で僕に勝ち、旗を持ったチームのリーダーがいた。彼は感慨深そうに賞状を見ていた。何位だったのかは覚えていない。僕が代表としてもらったのなら、同じような気持ちになるのかなと思っていた。
     六年生のクラスは休み時間にサッカーをして遊んでいた。クラスに一人ぼっちでいるほどの自信はなくなっていたので、僕も一緒にサッカーをするようになった。もしかしたらNがいるかも知れないと思ったが、彼は教室で遊んでいた。しかし僕はサッカーが下手だった。ボールを前に蹴ってもそこには誰もいなかった。勝敗は関係なく、サッカークラブの男子が技を披露しているだけだった。いくつか技を教えてもらったがそれはすぐに出来た。しかしドリブルは一向に出来なかった。それでも僕はサッカーのアップシューズを履いていた。それがクラスでも仲のいい子達の流行りだったからだ。僕はサッカー中に暇だったので、自分達のコートに入ってきたサッカーボールを明後日の方向に蹴り飛ばした。するとしばらくして、二つくらい年下のサッカーボーイに後ろから体当たりをされた。腹が立って振り返ったが、何も言わなかった。向こうも来るなら来いという顔だったが、僕は彼らを殴ったりはしなかった。どうせ怒られるのは僕だったから。
     図工の授業でその靴の絵を描いた。紫と黄色の靴で、
     「芋みたいだね」
    と笑って言われた。赤とオレンジや、青と水色は履いている人がいたのでそれを避けた結果だった。僕はわりと気に入っていたが、言われてみると焼き芋みたいだった。
     その靴の絵が上手く出来ていたのか覚えていない。出来上がると形通りに切り取り、自分が行きたい場所の絵に貼り付ける授業だった。僕は行きたい場所が月並みでは嫌だった。どうせなら誰も描かないであろう風景や建造物がよかった。そこで僕はCMで観ていた「この木なんの木」という曲に出てくる木を描こうと思った。ハワイにあるらしく、小山のような木は黒い影を平らな芝生に落としていた。空は青く晴れていて、上に行くほど深い青が写真一杯に広がっていた。僕はこのモンキーポッドの葉っぱの部分を同じ色がないと思えるほど、複雑に点描しようと思っていた。五年三組のときの授業を思い出して頑張っていたが、次第に時間はなくなり、最後の方は適当だった。それでも最後まで点描は続けた気がする。それに対する先生の言葉は忘れてしまった。
     僕は陸上競技場に行き、他の学校の生徒と競う大会の代表に選ばれていた。僕はこの学校で一番遠くまでソフトボールを投げることが出来た。何メートル投げたのかは覚えていない。その練習は帰りの会が終わったあとに行われた。僕はその時期、学校で唯一と言えるほどこの時間を楽しみにしていた。校庭のトラックの真ん中がソフトボール投げの練習場所だった。僕は一番早く備品倉庫からソフトボールとグローブを運び出し、野球チームの後輩とキャッチボールをしていた。しばらくすると五年生のときの算数の先生が来てくれた。彼がソフトボール投げ代表の監督だった。
     「遅いよ」
     「すまん、すまん」
    と彼は言った。あまり来てくれない監督もいたようだが、彼は毎回最後まで来てくれた気がする。
     「キャッチボールしようか」
    と先生は言った。
     「やりましょう」
    と僕は答えて最初は変化球を投げ合う勝負をしていたが、少しずつ後ろに下がり遠投の準備をした。僕らはお互いの胸にコントロールよく投げていたが、僕は右手に持ったボールを挙げて、本気で投げる宣言をした。先生も来いと言うように腕を挙げた。これは俺の位置を超えてみろという合図だった。僕が野球チームの後輩と遠投をし合っていると、その横に先生はいた。
     「あれは何メートルくらい?」
    と訊くと、その度に少しずつメートルを伸ばして答えてくれた気がする。もしそれが本当なら、本番でも優勝出来るくらいの距離だった。僕はそのとき、
     「三年生のときだけど、先生が呆れて職員室に帰っちゃったことがありましたよね。あのとき謝りに行くのではなく、何人かで先生のバッグを、職員室のドアの横に忘れ物だといって置いてきたことがあったけど、あれは申し訳なかったです」
    と少し笑いながら言った。
     「あれは意表をつかれたよ」
    と言って笑ってくれた。本番のときに先生は一緒には行けなかった。結果はよく覚えていないが、同じ野球チームだった子と笑わせ合ってそんなに遠くまでは投げられなかった気がする。
     六年生のときの図工の授業はもう一つあった。もっとあったのかも知れないがよく覚えていない。それはオルゴール箱を作る授業で、彫刻刀を使い自分の下書きを彫っていた。天板には野球に関係のあるもので、野球グラウンドの土を真っ黒に塗っていた。誰かがそれを見ると、
     「茶色の絵の具、なくなっちゃったの?」
    と訊かれた。
     「いや、甲子園の土は黒いらしいよ」
    と答えたが、やっぱり普通に土の色にすればよかったかなと思った。残りの四面には凝った細工をするのは面倒くさかったので、日本を含めた四か国の国旗を描いた。中に入れるオルゴールは色々選べたが、僕は「栄光の架け橋」を選んだ。Nが何を選んだのかは知らない。
     ある日僕は教卓の代わりになっている台に置いてあるプロジェクターと、その横の机に座る先生の前にいた。反省文を読み終わったあとだったかも知れない。どんなことで怒られていたのかは覚えていないが、
     「本当に反省しているのか?」
     「しています」
    と僕は早く終わらせたくて適当に返事をした。しかし、今回はそれでは済まなかった。
     「君は何度も先生の信頼を裏切ってきた。何度もよくなるという君の言葉を信じてきた。でも今回は信じることが出来ない。君の他にも反省文を書いている子は数人いるけど、彼らはそれなりに誠意を示してきた」
    と言われ僕は困ってしまった。言われてみれば浅間の旗を持ち先頭を歩いた彼も今では殆ど怒られなくなっていた。いつまでも怒られているのは僕だけだった。いっそのことあなたのことが嫌いだからと言いたかった。あるいは、僕はいいことをしているつもりだとも言いたかった。しかしそれは言えなかった。もし言えるのなら、給食の時間に全ての料理をスプーン一つで食べているあなたは嫌いだ、僕が親から買ってもらった服に名札の穴を強引に空けさせるあなたが嫌いだ、僕が先生の目から逃れるためにトイレ掃除に行きたがるのを、汚れ役を引き受ける優しい人のように考えるクラスが嫌いだと言いたかった。こんなクラスの連中は皆嫌いだと言いたかった。しかし僕が言った一言は単純だった。
     「信じて下さい」
     「それは出来ない」
     「何故?」
    僕は敬語もなにも忘れて、明日から不登校になるつもりでつっかかった。親になんと言われようが、負け犬と言われようが、先生に嘲笑われてもどうでもいいと思った。
     「君は何度言っても分からないんだな。よく思い出して反省文二枚を書いてきなさい」
    よし終わった、と思った。反省文二枚ならすぐに済む。そのうちに先生も気持ちが変わっているだろうと思った。そして何とか書き終わった。休み時間に一人で反省文を書くのは、やることがあるだけよかった。その間は誰にも話しかけられなかった。僕は自分が悪いと思っていないので、反省するのは大変だった。しかしそれを読むと、
     「君は信頼されるということが、どんなことかを分かっていない。だから運動会のリーダーや体育委員長にも選ばれないんだよ。誰も君を信用しようとは思わないから」
    僕は音楽の先生を思い出した。そして心の奥底に五年三組を、もっと大きく六年生になって挑戦したマラソン大会を思い出していた。
     僕はその年のマラソン大会を全く練習していなかった。クラスの誰とも一緒にいたくないと思っていたが、周りからいじめられている子とみられるのが嫌だったので、外に出て一緒に走ってみたり、図書室に行っていた。こんな僕をNに見られるのは嫌だった。彼は新しいクラスでもマラソンの練習をして、楽しそうに話していた。Tも同じように。五年三組に引きずられているのは僕だけなのだと、自分の部屋で泣いた。どうしたらいいのか分からなかったが、ただ夜は明け、僕は嫌々学校に通った。
     そしてマラソン大会の本番になった。リハーサルのときに、Nから教えてもらった呼吸方法だけでも十分戦えると知っていた。しかし別の人から、
     「一緒に走ろう」
    と言われた。よくある話だと思ったが僕は、
     「いいよ」
    と答え、本当にそろそろ終盤になると言うところまで一緒に走っていた。そして、
     「少しスピード上げるね。二十位くらいにはなりたいから」
    と声をかけると彼は頷いた。僕は一人で前の生徒をごぼう抜きし始めた。そして校庭に入り、残っている力を全て出し切るかのようにゴールした。ゴールすると、僕を知らない先生から、
     「ラストスパートで頑張ったね」
    と言われた。僕はなにも言わなかった。家に帰ると母親から、
     「見に行って損した」
    と言われた。僕はこれでいいのだと思った。僕は信頼されたかったから。Nは一位になった。Tも女子で一位だった。僕は十五位くらいだった気がする。
     下から僕を見ている先生と目が合った。本当に嫌いだと思った。回想は一瞬の出来事だった。
     「また先生を裏切る気なのか?それならまた反省文を書かせるけど」
     「いや、反省してます」
    僕は反省文が嫌で否定した。やっぱり自分が悪いのだと思った。しかし、
     「嘘だね。もう先生は君に裏切られたくない」
     「なら、信用してもらわなくていいです。僕はこれから、二度と立候補はしませんから」
    と言い、少しの間黙って先生と目を合わせていた。
     「君はクラスの皆も裏切る気なのか?君を信用しようとしているクラスメイトを」
     「それは違います」
     「先生に信用されるということは、クラスに信頼されるということだ。それを悉く裏切ると言うのなら、先生は君を決して許さない」
    と目は怒って言った。僕はこんなクラスの連中はどうでもいいと思った。
     「それなら、信用してくれなくて結構です」
    と言った。僕はNを思い出した。しかし言ったからには本気だった。もう誰も要らなかった。
     「信用されずに、どうやって学校生活をしていくんだ?」
     「ずっと黙って、誰とも関わらなければ平気でしょう。このクラスなら誰とも話さない自信があります」
     「なんでそんなことを言うんだ。聞いている子がいるのに」
     「怒られているところを平気で観ていられるような子はどうでもいい。もしそれでもダメなら不登校になります」
     「逃げるのか?」
     「はい」
    と言ったが、親が強引に登校させるのは目に見えていた。
     「全く話にならない。反省文一枚に自分の思いをまとめてきなさい」
    と急に声がやさしくなったので僕は、
     「いじめなら、されてませんよ。僕は一人でいいです」
     「書けといったら書きなさい。書き終わるまで今日は帰らせないから」
    と言われてとにかく書いてみた。どんなことを書いたのかはさっぱり覚えていない。授業は終わり、十分休憩になったので、僕はトイレに行こうと思った。すると廊下でTに会った。
     「どうしたん?元気ないじゃん」
    と言われ、
     「ありがとう」
    と僕は微笑して言った。そして休み時間になりそれを読んだ。
     「信頼されたいと思ったか?」
     「少し」
     「それならまず、先生を信頼させてくれ。そうじゃなければ、クラスの皆の中に君を置いておくわけにはいかない」
    と言われ、僕はため息をつくように、下から見上げている先生に向かって、「ふー」と息を吐いた。すると先生は怒り、
     「やめろよ。気持ちわりーな。くさい息、吹きかけんな」
    と言った。僕はその日は祖母の家から登校したこと、ホットサンドを食べたこと、念入りに歯を磨いたことを思い出していた。そして僕は泣いた。クラスの何人かは教室にいたが、涙を止めることが出来なかった。天に唾す、この言葉も思い出し、僕は右手で目を抑えて泣いた。
     「それじゃあ話は出来ないから、またあとで来なさい」
    と言われ僕は自分の席に戻り、寝ているフリをしながらしばらく泣き、涙が乾くのを待っていた。授業が始まってもそのままだった。いつもならそんな姿勢でいればすぐに怒られたが、そのときは平気だった。しかし一時間が過ぎると、普通に授業を受けた。
     昼休みになり先生の前に行くと、
     「ちゃんと立ち直り、授業を受けられたのは偉かったね」
    と言った。
     「僕は信頼されたいです」
    と言うと先生は頷いた。そしてその日の説教は終わりになった。僕は少なくとも、した約束は絶対に守ろうと思った。
     放課後になり、その日はNと帰る約束をしていた。僕は何かをしていて少し遅くなってしまった。教室の殆どが帰ったころ、僕はNの教室に向かった。その教室は三階だった。五年三組で使われていた教室の隣にNの教室はあり、僕は階段を上がり行ってみた。そして一組の開いた引き戸から中を見ると、Nが一人で机に向かい何かを書いていた。黒板のところには一組の女の先生がいた。僕はその先生に、
     「入ってもいいですか?」
    と訊いた。許しが出たので、僕はNの机に近寄った。そのときNがなにをしていたのかは覚えていない。ただ、先生をからかうようにふざけていた。先生は首を傾げて、
     「なにをやってるんだか。早くしなさいよ」
    と笑いながら言った。僕は自分のランドセルを誰かの机に載せ、
     「だってよ」
    とNに笑いかけた。彼は、
     「分かってるんだけどなー」
    と言ってとぼけていた。僕はNが書いている書類を覗き込んだ。彼は自分の書いているものから手を放したので、僕はそれに触り、自分が読みやすいように手前へ向けた。
     「これは俺も書いたよ。こんなの適当でいいじゃないか」
     「いやダメだろ」
    と言って二人で笑っていた。
     「なんでもいいから、早くして」
    と一組の先生が言った。僕は、
     「だってよ」
    とNに言った。するとその教室の引き戸に、僕の担任の先生が来ていた。
     「ほら、二組の先生も来ちゃったよ」
    と一組の先生が言うと、Nは「やべっ、来た」というように、あからさまに真面目を装って書き始めた。僕はそれを見て笑ってしまった。二組の先生は引き戸の外で腕を組み、ほんの少し笑っていた。彼のその顔を見たのは初めてだった。そして数分で書き終わり僕らは学校を出た。残っている生徒は誰もいなかった気がする。僕らは二人で歩いている途中に、殆どなにも話さなかった。僕はNのように担任の先生と接すれば上手くいくのだろうと思った。もしあのクラスにNがいたのなら、僕に手を挙げてくれるように頼み、そして信じていられただろう。彼が一人でも手を挙げてくれる、そう思えたらよかった。しかし、Nは中学受験に成功し、僕らとは違う中学校に入った。彼は親と同じ、学校の先生を目指していた。Tとは同じ中学に入ったが、一度も同じクラスになることはなかった。彼女は中学校でもリーダーになれたのだろうか。
     僕は小学校のアルバムを開いてみた。最後のページに皆からの寄せ書きがあった。僕は皆の卒業アルバムにどんなことを書いたのか忘れてしまった。
     「野球で兄をこえろ!またキャンプいこうな」これはNからのものだ。どんな場所で書き合ったのかは覚えていない。
    「今までありがとう♡九年間くらい一緒だったね♡一番みかたで一番たよりにならなかったね♡大好き♡」これはTからのものだ。
    「ナイスプレー連発!かっこいいぞ!」これは五年生のときの算数担当の先生からだ。
    「ありがとう!担任できてよかったよ、中学でも野球がんばれ!応援しているよ」とアーチを描くように五年三組の担任の先生から書かれている。
    「チャレンジして自分を伸ばそう」これは六年の担任の先生からだ。僕らは休み時間に色々な場所に行き、寄せ書きをし合っていたが、そのとき僕は教室にいた。先生には誰も書いてもらわないのかな、と思った。一人で座って僕らを見ていたので、僕はしまっていた卒業アルバムを出して先生に、
     「なにか書いて下さい」
    と言った。すると驚いたように僕を見上げ、しばらく考えていると、書いてくれた。ページはどこでもよかったが、前の人が書いたその下に書いてくれた。書ききれなかった五年三組のメンバーも確かに存在していた。しかしもうやめよう。酒もなくなってしまった。
                                      終   

     
     
    日曜と木曜に二首ずつ投稿頑張ります。 (たまに詩も…) 時間は気まぐれです。 フォローしてくれた方の和歌へ返歌奉ります。

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