教育ではなく、「共育」。
私は寝る前に考えることがある。
「昨日の自分」より、今日の自分は成長できたかどうか。
それだけだ。
若い頃の私は、ひどい教師だったと思う。
「教師だから」という理由だけで、
・クラスを荒らしてはいけない
・教育者はこうあるべき
・言うことを聞かせなければならない
・ナメられてはいけない
そんなことばかり考えていた。
今思えば、たいした力量もないのに、自分の価値観を生徒に押し付けていただけだった。
うまくいかないときは、自分の未熟さをごまかすように、生徒たちに強く当たっていた。
正直、恥ずかしい。
できるなら、あの頃に戻ってやり直したい。
教師としての経験も重ねていく中で、少しずつ考え方が変わっていった。
ある日、ウォーキング中に公園で、父親と小さな子どもがサッカーをしているのを見かけた。
でも、よく見ると、楽しそうなのは父親だけだった。
子どもはまったく楽しそうじゃない。
むしろ、やる気のない態度に怒鳴られている。
「ああ、この子はやらされているんだな」
そう思ったとき、ふと気づいた。
昔の自分の授業も、これと同じだったんじゃないか、と。
私は、自分の子どもに
「これをやりなさい」「勉強しなさい」とは言わないようにした。
授業でも同じだ。
説明はする。でも、指示や命令はしない。
もともと私は、人から指示されるのが嫌いな性格だ。
「あれしなさい」「これしなさい」
自分がされて嫌なことは、人にもしない。
そう思っていたはずだった。
それなのに、若い頃の私は、毎日それをやっていた。
何もかもうまくいかず、教師を辞めようと思ったことも何度かある。
前職の番組制作関係の仕事に戻ろうと、本気で考えたこともあった。
そんなとき、ある生徒と出会った。
小学生の頃から担任に暴力を振るい、地域でも有名な札付きの「やんちゃな生徒」だった。
私は志願して、その生徒の担任になった。
毎日が苦悩だった。
これまでの経験では通用しないことばかりで、正直、しんどかった。
他の教師の中には、関わることを諦める人もいた。
それでも、私は向き合い続けた。
不思議と、楽しかった。
「なんでこんなことばっかりするんや」
そう思いながらも、
「でも、何とかしたらなあかん」
その気持ちだけは消えなかった。
私は、もう一度勉強し直すことにした。
教育心理学、発達、精神、犯罪心理、法律——
子どもに関わるあらゆる分野を学び直した。
学んだ知識や技術で、その生徒に向き合った。
それでも、通用しないことは何度もあった。
何度もぶつかった。
「本の知識なんて、通用せんな」
そう思った。
そして、卒業式の日。
特攻服を着たその生徒が、恥ずかしそうに大きな花束と手紙をくれた。
しわしわの紙に、こう書いてあった。
「今日まで俺のこと見捨てんと、マジで怒ってくれたん先生だけやった。
ホンマありがとうやで。中学おもろかったわ。
ビッグになるから、そん時まで待っとって〜や。」
私は、そのとき決めた。
この仕事を、続けようと。
その後も彼は、何かあるたびに顔を見せに来てくれた。
免許を取ったとき。
彼女ができたとき。
結婚すると言ったとき。
わざわざ会いに来てくれた。
それが、嬉しかった。
でも、卒業から4年後の夏。
彼は事故で亡くなった。
彼から、たくさんのことを教えてもらった。
勉強するきっかけも、教師という仕事の意味も。
全部、彼が教えてくれた。
私は思う。
大人がやるのは「教育」じゃない。
子どもと一緒に成長していく「共育」だ。
大人が子どもにできることは、たった3つ。
受容。
共感。
傾聴。
それだけでいい。
毎年、墓参りに行く。
そのたびに、彼に話しかける。
「先生は、お前の分もちゃんと生きるからな」
「お前が出会うはずやった人たちにも、出会っていくからな」
彼が亡くなる前に連れてきてくれた奥さんと、
だんだん彼に似てきた子どもと一緒に、今年もまた、手を合わせる。
「幸せになれよ」
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