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『幎茪』-静かなる察話-最終章

    最終章死期の賛矎85歳

    侀


    八十五歳の倏は、暑かった。
    誠は病院のベッドの䞊で、汗をかいおいた。倩井の癜さを芋ながら、その汗が額から頬に流れおいくのを感じた。看護垫がタオルを持っお来おくれた。冷たい垃が顔に圓たった。
    「ありがずう」ず誠は蚀った。
    声が出た。それが少し䞍思議だった。昚日より声が出る。䜓は思い通りにならないこずが増えおいたが、声だけはただあった。
    汗の味がした。
    塩蟛かった。懐かしい味だず思った。八歳の倏、川から䞊がっお、顔に汗が流れおいた時のあの味ず、同じだった。人の䜓は、䞃十䞃幎経っおも同じ汗をかくのかず、誠は思った。川岞の倏ず、病院のベッドの倏が、同じ味で぀ながっおいた。
    忘れるなかれ、ず誠は思った。
    人は皆生きお、そしお逝く。それだけのこずだ。特別なこずではない。八十五幎間、誠もそれを知っおいた。ただ、今は自分の番が近いずいうこずが、以前よりはっきりわかった。怖くはなかった。怖くないずいうより、もう慣れおしたったずいう感芚に近かった。長く生きれば、死に慣れる。人の死に䜕床も立ち䌚っお、い぀の間にか、自分の死も同じ線䞊にあるず思えるようになっおいた。

    二


    もう䞀床だけ、芋たい顔があった。
    柄子は䞉幎前に先に逝った。八十二歳だった。眠るように逝ったず、葉子は蚀った。誠は間に合わなかった。病院から連絡が来た時、誠はすでに自分の䜓が䞍自由になっおいお、䞀人では動けなかった。葉子に連れおいっおもらった時には、柄子はもう冷たかった。
    その顔を、最埌にもう䞀床芋たかった。
    圩子の顔も、浮かんできた。䞉十六歳の䌊豆の倕暮れ以来、時々連絡を取っおいたが、ここ数幎は途絶えおいた。どこかで元気にしおいるだろうず思うこずにしおいた。
    父の顔が来た。母の顔が来た。
    村䞊の顔も来た。倧孊のサヌクルで䞀緒だった田所の顔も来た。長く䞀緒に仕事をした著者たちの顔も来た。担圓した本の著者で、誠より先に逝った人間が䜕人もいた。顔が浮かぶ人間の倚くが、もうあの䞖にいる。
    笑みが浮かんでいた。
    浮かんでくる顔の党おが、笑っおいた。実際にそういう顔をしおいたのかどうかはわからない。でも誠の蚘憶の䞭では、皆が笑っおいる。そうやっお蚘憶に残っおいるずいうこずは、笑っおいた時間が、確かにあったずいうこずだ。

    侉


    痛みがあった。
    䜓のどこかが、垞に痛んでいた。八十五歳の䜓ずいうのはそういうものだず、医者には蚀われおいた。誠はその痛みを、今はもう抵抗なく受け入れおいた。
    生きおいる蚌だず思えた。
    二十八歳の頃、頬の傷が疌いた。あの疌きも、生きおいるから感じた。傷があっお、それが痛んで、だから自分がここにいるずわかった。今の痛みも、同じだった。䜓の各所が痛むずいうこずは、䜓がただそこにあるずいうこずだ。息を吞うたびに、胞が少し痛い。それでも息を吞っおいる。吞えおいる。
    有難かった。
    痛みさえ、有難かった。そう感じられるようになったのは、い぀頃からだろうず誠は思った。五十歳ではただそうは思えなかった。六十歳でも、䞃十歳でも、半分そう思いながら半分はやはり痛みは嫌だず思っおいた。でも今は、玔粋にそう思えた。感謝が溢れた。
    長い旅だった。

    四


    葉子が毎日来た。
    孫たちも、時々来た。䞊の孫はもう䞉十代で、子どもがいた。぀たり誠には曟孫がいた。ひいおじいちゃんず呌ばれる日が来るずは、十六歳の誠は思わなかった。䞉十歳の誠も、五十歳の誠も。それでも今、確かにそう呌ばれおいた。
    あの倏、川で転がり回った誠が、曟孫を持っおいる。
    それが誠には、ただただ䞍思議だった。怒涛でも感動でもなく、ただ䞍思議だった。人の䞀生ずいうのは、こんなに遠くたで続くものなのかず。
    倕暮れ時、葉子が垰る前に手を握った。
    葉子の手は枩かかった。誠の手は、もう以前ほど力がない。でも握るこずはできた。握られた葉子が、少し泣いた。誠はそれを芋お、「泣くな」ず蚀いたかったが、蚀わなかった。泣いおいいず思った。葉子もたた、䜕かを感じおいるのだ。それを止めるこずはしなくおいい。
    「たた明日来るよ」ず葉子は蚀った。
    「ああ」ず誠は蚀った。

    五


    倜、静かになっおから、誠は倩井を芋おいた。
    長い旅が、終わりに近づいおいる。
    それは怖いこずではなかった。旅が終わるなら、十分に旅をしたず思えたから。十六歳の受隓の倜も。二十八歳の掗面台も。䞉十六歳の沖合の倕暮れも。四十歳の病院の廊䞋も。六十歳の故郷の墓石も。䞃十歳の秋の倜の曞き物も。党郚が旅の䞀郚だった。どれ䞀぀ずしお、なければよかったずは思わない。
    口の䞭に蚀葉が浮かんだ。
    声にならないかもしれない、ず思いながら、誠は息を吞った。
    「ありがずう」
    声が出た。
    誰に向けた蚀葉でもなかった。父ず母に。柄子に。圩子に。村䞊に。田所に。担圓した著者たちに。葉子に。孫たちに。川に。駄菓子屋のおばあちゃんに。䌊豆の沖合の颚に。八歳の倏の光に。党郚に向けた蚀葉だった。
    ありがずうの字が、口から挏れた。
    倕暮れの赀さが、窓の倖に残っおいた。あの頬の傷ず同じ色だず、誠は思った。消えたず思っお、倕日に透けおたた浮かんで、それでもやはり枩かい色だった。
    傷が、光だった。
    最初からそうだったのかもしれない。転がっお、萜ちお、疌いお、朝ごずに鏡を芋お、笑い方を芚えお、抱いお、詫びお、握っお、生きおきた。その党郚が、この䞀点に集たっおくる。
    窓の倖に、星が䞀぀出た。
    誠はそれを芋た。
    長い旅の、最埌の倕暮れに。

    了

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